アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

アオウエイの五声

2024-05-30 06:26:22 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-11

◎世界樹-9

◎言葉は「道」であり「神」である

 

そこで出口王仁三郎の短歌。

 

言霊の真言の道を知らずして 此神国の治まるべきやは

 

出口王仁三郎の玉鏡から

『「道」は充ち満つるの意である。この宇宙には言霊(ことたま)が充ち満ちてゐる。即ち一つの機械でも動かせば非常なる音響を発するごとくに、此の宇宙も大旋廻しているから、非常な大音響を何時も発している。即ちアオウエイの五大父音が鳴り鳴りて鳴り止まずにいるのである。

 音響もまた言葉の一種である。意識的に発するのが言葉であり、無意識に発するのが音響である。兎に角、言葉は「道」であり「神」である。』

(玉鏡/出口王仁三郎/天声社P170-171)

 

五大に響きがあって、五大父音だから、五大にはそれぞれ音響がある。しかし玉鏡にはこんな言霊の情けない実情も書かれている。

『宇宙にはアオウエイの五大父音が間断なくなり響いて居るが、人々が発する正しからざる言霊によっては之(これ)が濁るのであるから、常に天津祝詞を奏上して音律の調節を行ふのである。』

(玉鏡/出口王仁三郎/天声社P172-173)

 

正しからざる人が唱える天津祝詞は、いくら奏上しても正しからざる言霊のままだろう。翻って、正しい人の上げる天津祝詞の言霊だけが正しいのだろう。よってまず正しからざる人が正しくならねば始まらないのである・・と読んだがどうだろうか。

 

ある信者が出口王仁三郎に『「アオウエイの五大父音の発生の中府は綾部ですか」と質問したところ、「どこでもや。王仁がおるところが中府や。今はここ(亀岡大本農園)が中府や。」』(新月の光(下巻)/木庭次守編P263から引用)と答えた。

中府の位置がわかるような人でないと、正しい言霊はないのだと思う。

 

こうして世界樹は、五大それぞれに鳴り鳴りて鳴りやまざる言霊によって日夜変動している。この動的な姿も世界樹の持つ一つの表情である。

 

霊界物語第75巻第二章 言霊の光で、言霊の由来と展開が語られているが、言霊研究が栄えるのはこの時代ではないだろう。

 

『言霊の生ける活用白雲の

  空に迷へる学者あはれ

 もろもろの学びあれども言霊の

  真言の学び悟れるはなし

 

 世の中に学びは数多ありながら

  学王学の言霊知らずも

 言霊の学びは総ての基なり

  其他の学びは末なりにけり

 

 根本を悟らず末の学びのみ

  栄ゆる此世は禍なるかな

 世の中の一切万事は言霊の

  光によりて解決するなり

 

 言霊の真言の道を知らずして

  此神国の治まるべきやは』

(霊界物語第75巻第二章言霊の光から)

 

人間は言霊によって原子力を手にしたが、原子力を過つことなくコントロールできるのは、正しき言霊を発することのできる正しき人だけなのである。

 

更に禅だけではデリカシーが不足だから、クンダリニー・ヨーガで繊細微妙が必要というのは、この言霊のことも代表的な一例である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

15 悪魔

2024-05-29 06:54:46 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-8

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-8

◎大悟覚醒の直前に登場

 

冥想修行で、意識が深まる、潜在意識が露出してくる、自分がオープンになってくる・・・・言い方は異なるが皆同じことを言っている。その時に、人は暗示や指示に無防備になっている。オープン・マインドは最終ステップでの必要条件だが、対応次第で、人は神にも悪魔にもなる。

 

悪魔はいつ登場するのかと言えば、大悟覚醒の直前。イエスですら荒野の40日修行で、ファイナル・ステージ直前に「地上の国々の権威と栄華を与えよう」と悪魔の誘惑を受け、釈迦も「もうこの世を去ってもいいのですよ」とマーラ(悪魔)の誘惑を何回も受けた。不退転となる直前、九分九厘の時は、フィフティーフィフティなので、その時は神にもオープンであり、悪魔にもオープン。すべてを捧げようとする最後のステージではなぜか悪魔が登場する。

 

また稲生物怪録は、江戸時代、広島県三次市を舞台に、様々な妖怪が次々と登場し、16歳の稲生平太郎が、妖怪軍団をついに打ち破るというもの。沢山の悪霊が登場し、最後に魔王が登場するが、その際稲生平太郎は、冠装束をした人の半身(昔の一万円札の聖徳太子みたいな)が稲生平太郎の背後に見え、それは彼を守る氏神だろうと認識した。大悟の直前に悪魔が出現するのである。

 

最近非二元が流行しているらしいが、それを説く人は、二元が一元になる直前に悪魔が出現することを説明しているのだろうか。

 

このように既に「12吊るされた男」において、見神、見仏、見性を経た人物は、不退転のニルヴァーナに入る直前に悪魔に出会うのである。

 

 カモワン・タロットの悪魔では、図柄は悪魔ではなく乳房に男性シンボルを有する両性具有。見神、見仏、見性、見道した後に両性具有のステップがあると示す。そのことは、OSHOバグワンが端的に説明している。

 

時間もなく、場所もなく、すべてが神であるどこにもない場所、それが男女の別を超え、えり好みをしないという第四ステップを超えると起きてくる。つまり、自分がどこにいるのか、自分が誰であるのか言えなくなるのが第四ステップ。彼は、神はどこにでも存在していて、その上で自分がどこにいるのか、自分が誰であるのか言えなくなるという、想像しづらい“現実”を突き付ける。ところがこれぞ『真のわが家(無何有郷は是れ真宅なり)』

 

『第四の現象はこれだ――神の臨在に気づきはじめると、あなたの二元性、あなたの根本的な極性は消えはじめる。そうなったら、あなたは男でもないし女でもない、〈陽〉でもないし〈陰〉でもない。すると突然、あなたの男が女を食べ、あなたの女が男を食べる。この地点で、ヒンドゥー教のアルダーナリシュバル(両性具有) という概念が重要な意味をもってくる。そうなったら、あなたは両方であると同時にいずれでもない。あなたは肯定と否定の二元性を超越している。』

(黄金の華の秘密/和尚/めるくまーるP431から引用)』

※第四の現象=四つ目のステップ:太乙金華宗旨の逍遥訣のこと。

 

最後にダンテス・ダイジの初期の説法から

『「サタンていうのは、天国を大切に守ろうとしている人にだけ現れる。たとえば、イエス・キリストがさ、荒野で自分を本当に高めようとしたときにさ、高めるっていう方向があるときにサタンは現れるわけ。それから釈迦が成道しようとしてさ、成道するっていうのは、天国的な方向に向かおうとする努力なんだ。そしてそれは絶対に必要なことなんだ、人間にとって。より素敵なものに向かうっていうのは。

 

そしてその方向に向かってるとき、突然サタンが現れるわけ。それも、釈迦のサタンていうのは、いかにも釈迦っていう人をよく表していてさ、奴の自意識の豊かさっていうのをよく表現してるよ。まだ素朴だよ、キリストのサタンの方が。汝を帝王にする、とか。石をパンに変えてみよ、とか。崖から落ちて飛び降りてみよ、とかさ。その代りにこの世の一切の権力を与えようとかさ、やるじゃない。

 

で、釈迦の場合に現れたものって言ったら、何のことはない、古女房が現れてきてさ(笑い)、ヤスダラっていうのが女房で、子供がラーフラか。ラーフラを抱きながら、その女房が現れるわけよ。』

(ダンテス・ダイジ1978年の東京是政での説法から)

 

【悪魔が怖い人に。】

ダンテス・ダイジの原典『救世主入門』の一節。

「君が天使のようだろうと

悪魔やそれ以外の何者のようだろうと

君自身は

天国にも地獄にも

決して長くは住まない

場所も時間もなく

君は

今・ここ・いる」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空海の声字実相義

2024-05-29 06:45:45 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-10

◎世界樹-8

◎五大にみな響あり

 

ユダヤ教のセフィロトの10球は、結局五大が基本であった。五大は有の世界のことであり、無を包含していないので、7チャクラあるいは、7ボディが無を包含しているのに比べると、世界樹と同様に十全性を欠くように思う。

 

まずは、空海の声字実相義。

 

五大にみな響あり (五大皆有響)

十界に言語を具す (十界具言語)

六塵ことごとく文字なり (六塵悉文字)

法身はこれ実相なり (法身是実相)

 

五大とは、地水火風空のことで、それぞれにバイブレーションがある。

十界とは、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界であり、死の世界も含めたあらゆるボディの世界。それぞれの世界にリズムとメロディがある。

※仏界はニルヴァーナ。

 

六塵とは、色・声・香・味・触・法のことで、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るなどの感覚刺激の対象や、思考の対象のこと。それぞれにシンボルとしての文字がある。

こうした現象の現れも実相である窮極の真理である。

 

このように空海も、現象が五大から展開すると見ている。それが十界というそれぞれの宇宙という場で、感覚や思考の対象となる現象を形成、変動させているのだと。仏界にも響きがあるのだろうかという疑問はあるが、五大では全体とし有の世界を説明しているので、セフィロトと同次元のことを語っている。

 

さて出口王仁三郎は、空海は、宇宙の根源はア字から出てきたという阿字本義を唱えたが、実はス字本義が正しいと主張した。

どうしてそういうことが起きるのだろうか。古事記の万物の根源の葦牙(あしかび)は、アだったり、スだったりするということなのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

14 節制

2024-05-24 04:47:20 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-7

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-7

◎至高体験は自発的にやってくる

 

神人合一後は、聖胎長養。神仏の体験とはいえない体験は、それまでの日常感覚と行住坐臥に一致して反映させるには、あまりにもショックが大きい。そこで節制となる。

 

ただし、神人合一でなく、見仏見神見性などの一瞥体験をしたとしても悪人になる可能性があることは、至道無難が指摘しているところ。

 

聖胎長養は悟後の修行と言われるが、悟後の修行の必要性については、ケン・ウィルバーが次のように説明している。

『至高体験がたいてい短時間しか持続しないのに対して--数分から数時間--高原体験はより不変的かつ持続的であり、永続する適応に隣接している。

至高体験はたいてい自発的にやってくるので、それを持続させ、至高から高原に--短時間の変性状態から持続する特性に--変化させるためには長期にわたる実践が必要となる。

ほとんど誰にでも、どんな時でも、どんな年齢でも短時間の至高体験を得ることができるのに対して、私は高原体験の真正の事例において数年にわたる霊的実践を継続していない事例を知らない。』

(ワン・テイスト(1997年11月)/ケン・ウィルバー/コスモスライブラリーから引用)

 

ソーマ・ヨーガのドン・ファン・マトゥスもそれと思われることを言っている。

ドン・ファン・マトゥスは、思考停止において人間は特殊な意識状態で活動できるのだが、これを内的沈黙と呼んだ。これを世界を止めるとも呼ぶ。内的沈黙は蓄積されるのだが、そのような内的沈黙の活動がスタートするには、修行者は破壊点を必要とする。破壊点の後、神と共に生きる形に世界は再構成される印象がある。この「内的沈黙は蓄積される」とは、いかにも聖胎長養を思わせる言葉である。

 

絵柄は、濃厚な大悟覚醒というワインを水で薄めている図。治癒、和解、調整、節制のイメージと言えばわかったような気になるが、その時期の人物を外から見れば、何だかぶらぶらしているようにしか見えない。

 

たとえば京都大徳寺の宗峰妙超は、鍵束をガチャリと置く音で大悟した後、7年間鴨川の乞食の群れに身を投じ、乞食生活をやった。この悟後の乞食生活が、聖胎長養。

 

夢窓国師は、常州の臼庭(北茨城市)の小庵で、五月の末、庭前の木の下で一日坐禅をして、夜も更けたので、疲れて庵に上がって来た。

そこで壁のないところを壁と思って、ふと身をもたれかけたら倒れた。そこで大悟して、思わず失笑した。

臼庭には10月までいて、鎌倉に行き仏国国師に悟ったことを認められた。この5か月が聖胎長養だろう。

 

1652年3月、盤珪禅師は、長崎の道者超元禅師に参じていたが、坐禅中に豁然(かつねん)と大悟した。その後約一年ほどは、聖胎長養をしている。

 

節制、すなわち聖胎長養は、見神後どのようにその体験を定着化させるかという努力なのだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ユダヤの生命の木

2024-05-24 04:41:30 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-9

◎世界樹-7

◎五つと五つが向かいあっている

 

中国の建木では、10個の太陽なので迷わず10チャクラのことと見た。古神道でも十種神宝(とくさのかむだから)という概念があり、説明を見ると10チャクラのことだろうと想像される。

 

さてユダヤの生命の木では、10球を用いる。10球だが、その説明を見ると10チャクラではないことがわかる。

 

というのは、セフィロト・生命の木は、2~6世紀に編纂された「創造の書」において初登場するのだが、「創造の書」では、セフィロトについてこんな風に書かれている。

 

『律(ミシュナ)1.2

  そこには無形の十のセフィロトおよび基礎となる二十二の文字がある。そのうち三つは母なる文字であり、七つは重複し、十二の文字は単音である。

 

律(ミシュナ)1.3

そこには無形の十のセフィロト〈それは十本の指の数である〉があり、五つと五つが向かいあっている。そして、中心には、舌(発声器官)のような、裸体(機関〉のような統合の契約が設置されている。』

(カバラ ユダヤ神秘思想の系譜/箱崎総一/青土社P92-93から引用)

 

これを見ると、一つ一つの球がセフィロトであって、10とは、5の陰陽であるから、10球セフィロトとは、六〇干支の十干に相当するものであることがわかる。ただし、十干は、木火土金水の五行を根本思想とするのに対し、西洋では基本の五大(地水火風空)が根本思想のはず。ところが、セフィロト解釈においては、5+5の基本についてはほとんど顧みられていない。

 

むしろ、10球のうち下から七つが7チャクラ照応という説(カバラーの世界/パール・エプスタイン/青土社p92-93)や、最上位の3球を一つと数え、最下位の2球を一つと数え残り5球を五つと数え合計7チャクラとする説(神秘のカバラー/ダイアン・フォーチュン/国書刊行会P88)などの、いかにもとってつけたような説が主流のようである。

ユダヤ教において、5+5の基本概念が劣勢であるということは、「失われた古代テクノロジー」の一つなのではないかとおもう。7チャクラ照応は、前掲ミシュナにあるとおり、本来22文字のほうに置いたのだろう。

このように宇宙樹としてのセフィロトは、宇宙全体の表現としては、7チャクラあるいは10チャクラで表現するのではなく、五大の延長としての10球を採用したと見るべきだろうと思う。

 

こうして五大は、言霊の基本たる五声に展開していく。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閻浮樹

2024-05-23 04:55:48 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-8

◎世界樹-6

◎閻浮樹の根には黄金が埋まっている

 

仏教の世界観では、世界は四州からできているが、インドの所在する南の州を閻浮提と呼び、その中央に巨大な世界樹がある。これを閻浮(Jambu)樹という。

 

室町時代の禅僧一休の別号は、めくらのロバである。しかし、臨済の後継者三聖は臨済の後継者に値しなかったが、自分こそそれに値すると意気高い。一休には、それほど厳しく修行してきたという自負がある。

生真面目とは言えない破格の詩集狂運集において、彼は閻浮樹という世界樹について詩を残している。

 

 

閻浮樹(えんぶじゅ)

 

閻浮樹 乾坤に逼塞し

葉々枝々 我が脚跟

太極 梅花 紙窓の外

暗香 疎影 月黄昏

 

『閻浮樹 乾坤逼塞

葉々枝々 我脚跟

太極 梅花 紙窓外

暗香 疎影 月黄昏』

 

(大意)

時間のない世界で、天地の中央にある閻浮樹は、天地を塞(ふさ)ぎ、

たわわな葉も繁れる枝も、私の足の下にある。

陰陽の分かれる以前の万物の根源(太極)のシンボルである梅花は、障子の外にある

どこからともなく漂う香りと障子に映る梅花のまばらな影をたそがれの月が映じている。

 

閻浮樹は、世界樹であり、北欧神話のイグドラシルである。世界樹は、根の側が頭頂サハスラーラ・チャクラに当たる。だから閻浮樹の根には黄金が埋まっているともいわれる。

 

世界樹を足元に置いている一休の立ち位置は現象世界の外側に立つ。これはつまり、合気道植芝盛平の言う天の浮橋に居るということなのだろうと思う。

 

太極である梅花が、障子(紙窓)の外にあるというのも同義。

その障子に、現象世界の転変が、シネマのように月の光を受けて映写されるのだ。

 

これはとても秘教的な詩だが、一休自身が、生死も超え、現象の相対性をも超えた外側を生きていることを自分で説明している印象的でロマンチックな詩に仕上がっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

13 死神(名無し)

2024-05-23 04:12:25 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-6

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-6

◎身体も心も二つながら共に死ぬ

 

男が吊るされるためには、男は死なねばならないと言っても、この死は肉体の死ではないから自殺ではない。自我の死、自己の死、個なる自分の死のことである。禅でよく言うところの大死一番の死である。

逆にまた肉体が死んでも誰もが自我が死ぬわけではない。ごく一握りの人しか肉体死に際して自我は死なない。臨終正念と言って、肉体の死に際して自我が死に悟りが開けるケースが多いと言っても、全体からすれば微々たるものだろう。

 

絵柄では、骸骨が大鎌を持って手を刈り足を刈り首を刈っている。これはまさに肉体に随伴する自我を根こそぎにしてしまうということ。肉体死は、それまでの金も財産も人間関係も、地位も名声も、一瞬にしてわやにしてしまうが、実は自我の死も同様の実感を伴うものであって、さらに自我のある世界・宇宙すら刈り払ってしまう。

宗教修行、冥想修行の初手は、古来先入観をなくすことからはじめるもの。現代人ならマスコミ、学校教育、スマホなどから来るあらゆるマインド・コントロールを断つところから始めることになる。その先入観を断つというのが、大鎌で刈り払うということ。

古神道の大祓祝詞でも乱れきった麻の如き想念たる天津菅曾(すがそ)を『天津菅曾を本苅絶末苅切て、八針に取裂きて天津祝詞の太祝詞言を宣れ』と先入観を断つことを言う。

 

以下は、出口王仁三郎の説明。

『△天津菅曾  周易の筮竹に相当するが其数は七十五本である。これは七十五声を代表するのである。長さは一尺乃至一尺二寸、菅曾は俗称『ミソハギ』と称する灌木、茎細長にして三四尺に達す。之を本と末とを切り揃へて使用する也。

 

△八針に取裂て  天津菅曾の運用法は先づ総数七十五本を二分し、それから八本づつ取り減らし其残数によりて神算木を配列するのである。

 

△天津祝詞の太祝詞  即ち御禊祓の祝詞の事で、正式に奏上する場合には爰で天津祝詞を奏上するのである。大体に於て述べると、あの祝詞は天地間一切の大修祓を、天神地祇に向つて命ぜらるる重大な祝詞である。太(フト)は美称で、繰返して、天津祝詞を称へた迄である。』

(霊界物語第39巻附録 大祓祝詞解から引用)

かくして大鎌で刈り払う。

 

また一休は、骸骨やどくろを比喩として好んで用いたが、身体も死ぬが、ここではやはり心も死ぬのだと言う。

『多くの人がみな迷いの眼で、身体は滅びるが魂(心)は永遠不変であるとするのは、大きな間違いである。悟りを開いた人の言葉に拠れば、身体もその根源である心も二つながら共に死ぬということである。仏というのも虚空そのものである。天地国土のあらゆるものが、『本分の田地』に帰すべきものである。』

(一休和尚全集 第4巻 一休仮名法語集/春秋社P155引用)

※本分の田地:アートマン

 

そこでOSHOバグワンは我が骸骨と釈迦の骸骨の違いを説く。

『ブッダの骸骨とあなたの骸骨は基本的に変わらない。でも、あなたとブッダは絶対的に異なっている。進化は水平に働くが、方法や技法や宗教は垂直に働く。

 

人間の体は停止した―――すでにある一点に達した。終点だ。もはやこの先、何の成長もない。水平的には、進化は停止した。そして今、垂直的な進化が始まる。今現在、あなたがどこにいようと、あなたは垂直に飛躍するしかない。

 

その垂直的進化は、意識の進化であって、体の進化ではない。そしてその責任はあなたにある。

 

自然に対して「なぜ」と尋ねることはできない。しかし、自然はあなたに対し尋ねるだろう――――「なぜまだ悟っていないのか」と。

 

なぜなら今や状況はすべて整っているからだ、体には必要なものすべてが備わっている。あなたはブッダの体を持っている。ブッダが起こるのに必要なものすべては、すでに備わっている。

 

すでに備わっている要素のすべてを、新たに案配し、綜合するだけで、ブッダはあなたに起こる。だから自然はあなたに問うかもしれない―――「なぜ、まだ悟っていないのか」と。なぜなら自然はあなたにすべてを与えているからだ。』

(ヴィギャンバイラブタントラ8存在と一つに/OSHOバグワン/市民出版社P68-69から引用)

絵柄の骸骨は、死んだ他人のことではなく自分のことだったのだ。

 

死神(名無し)のアルカナは13番目。

ダンテス・ダイジ座談では、アトランティスでは、神の宮という中央官庁兼最高神殿みたいなのがあり、その奥殿がアメンティ。そこにトースを中心とする12人の超人がいて、彼らは組織宗教を体現していた。そしてもうひとりダンテス・ダイジは13番目の超人としてそこにいたが、彼は遊戯者であり、宇宙を遊び戯れる超人であった。

アトランティス末期に、ダンテス・ダイジは、神の宮を後にして、トース系の12人と袂を分かった。この抑圧をバネとして悟りに至るメカニズムの、アトランティス以後の長い中有風の時代に13番目の死神は必要だが、名前は与える必要がないと見たのはタロット作成者の意図なのだろうと思う。

 

一休骸骨から

しばし げに息の一筋(ひとすじ)通う程

野辺の屍(かばね)もよそに見えける

(わずかの間でも本当に息の一筋が通っている間(生きている間)は、野辺に晒されている死骸もよそよそしく思える)

 

さらに、

慈鎮和尚

仮の世に又旅寝して草枕

夢の世にまた夢を見る哉

 

引き寄せて結べば草の庵にて

解くれば元の野原なりけり

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12 吊された男

2024-05-22 04:25:18 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-5

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-5

◎世界が逆転

 

12 吊された男は、個人と世界が逆転して世界が主で個人が従、換言すれば、世界樹で言えば、根が世界で枝葉が個人。

 世界が逆転して見えるのは、個なる自分が世界全体、宇宙全体となった時だが、上下逆転と語るのは、逆立ちしていなかった時分の認識が残っているからであって、世界観が倒立した驚きが残っている時点とみる。

 

世界観の逆転には、一時的な場合と半永久な場合があって、半永久の方は「20世界」と「0愚者」があるので、ここは見神、見仏の方なのだろうと思う。見神見仏した人間を菩薩と言い、菩薩には52ランクが設けられており、あの空海ですら52ランク中の上から10番目、下から43番目の発光ランクとされる。見仏して、仏を知ったとしてもまだまだ上がある。同様に世界が倒立して見えたとしてもまだまだ求むべき目標は先なのだ。

 

世界には吊るされた男があふれている。

1.【ペテロ】

ペテロは、イエスの使徒の一人にして最初のローマ教皇。彼が十字架にかかる時、逆さ磔になったのは、イエスを憚って逆さにしたなどと言われるが、聖書外典ペテロ行伝では、この姿を『初めて誕生した人間の模写』だと表現し、十字架の縦木と横木の交わった場所に打たれた釘こそ回心・悔い改め(悟り)だとしている。

逆さはりつけで、右のものは左になり、左のものは右になり、上のものは下になり、下のものは上になる。これは、ヘルメス・トリスメギストスのエメラルド・タブレットを連想させる言い回し。

左右上下逆転の姿は、逆転という死からの再生を経て、それまで有用とされたものが無用となり、それまで無用とされていたものが有用となること。

 

2.【吊るされた男の死】

『奥義を完全に伝授された男は、その工程すべての知識を持っており、こうした秘儀を自分のものにするからには、死の報いがあることを知っている。

(タロットの大家から、沈黙の義務を象徴すると言われている、「吊るされた男」にかんするエリファス・レヴィの言葉)』

(世界予言全書/トニー・アラン/原書房P154から引用)

 

この文からすると、吊るされた男は、クンダリーニ・ヨーガの工程すべての知識を持っている男であって、死を経て、体験とは言えない体験をする。

 

その体験の後、9割方の人は死によってその人生を終わるが、まれに復活する者がいる。復活する者の中には、言葉を持たない者もおり、彼らからは精妙なバイブレーションは伝わるが、言葉による伝授はない。ただし復活した者の中には、言葉でもって大いに語る者もいる。その一人が出口王仁三郎である。

 

3.【北欧神話オーディンの箴言】

箴言138.

わしは、風の吹きさらす樹に、九日間の間、槍に傷つき、オーディン、つまりわし自身に我が身を犠牲に捧げて、誰もどんな根から生えているか知らぬ樹に吊り下がったことを覚えている。

 

九は数の窮極であり、「九日間」とは、長さを計れないほど長い時間または時間を超えた世界。

「槍に傷つき」とは、クンダリーニというエネルギー・コードに刺し貫かれていること。

「我が身を犠牲に捧げて」というのは、自分というものがない第六身体アートマンのレベルに至っていること。

「誰もどんな根から生えているか知らぬ樹」とは、根っこが絶対者(神、中心太陽、オーディン)のこと。絶対者という根っこからあらゆる人間、動物、生物というエネルギー・コードの枝葉が伸びている。逆に人間の側から見れば、根っこに向かって上昇していくように見える。

この箴言は、クンダリーニ・ヨーガ型の冥想体験で、絶対者(神、中心太陽、オーディン)に到達して、その後絶対者の側から、クンダリーニのエネルギー・コードにぶら下がった人間の姿を「世界樹に吊り下がっている人間」の姿と見たものであることがわかる。

 

さて12 吊された男と13死神はペア。男が吊るされるためには、男は死なねばならないから、この二つはペアになっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建木=中国の世界樹

2024-05-22 04:01:13 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-7

◎世界樹-5

◎影を造ることなく音もない

 

中国にも世界樹、生命の木、哲学の木がある。建木である。

 

淮南子・地形訓の崑崙山の段、『建木は都広に在り、衆帝の自(よ)って上下する所。日中無景(影)にして呼(さけ)べども響きなし。蓋し天地の中なり。』

(世界樹は、大地の中央にあって、神々はここを昇降する。太陽の南中する時刻のように影を造ることなく、音もない。これぞ天地の中心である。)

 

これは、キリスト教にも霊界物語でも見かける天の梯子のイメージ。アセンションで通って行くところ。しかし、更に意味深長なのは、日中無影にして、呼(さけ)べども響きなしのところ。目に見える風景が動かず、かつ音がない世界。

 

これは、時間が止まった世界のことである。時間を止めるというのは、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスが好んで使った表現。時間を止めるとは想念が停止すること。そこではじめて世界の中央となる。今流行の『今ここ』とは、本来このレベルを指す。

世界樹は根と枝に別れる。人間に当てれば根が頭であり、枝の方が足となり、日常意識の立ち姿とは転倒している。世界樹の根は死の世界の側であり、樹冠側が生の世界。死の世界は生の世界より広い。

また山海経の海外東経にも建木の別名の扶桑についての記述がある。これは、扶桑には10個の太陽が沐浴するところであり、9個の太陽は下の枝にあり、一個の太陽が上の枝にいる。10個の太陽は10チャクラ。上の枝の太陽はサハスラーラ・チャクラ(ブラフマランドラ)にあたり、別格であることを示す。

沐浴は不思議である。錬金術書哲学者の薔薇園では、結合の前に沐浴し、道教の慧命経では、転法輪には、沐浴2回のルールがある。この沐浴とは位置を移動せず、単に位置が定まっているということか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11 力

2024-05-21 04:29:03 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-4

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-4

◎聖音オーム

 

11番から20番が死の側の10枚。これもホドロフスキー流で、2枚ずつ眺めていく。すなわち、11と20は独立だが、12-13、14-15、16-17、18-19がペア。

 

11 力

 これは、聖音オーム。潜在意識の世界、死の世界の現在、過去、未来のすべてを貫くもの。それが、神に至る流れであり、奔流であり、力である。神は、“20世界”たるアートマン。

 

ヨーガ・スートラでは、『至高の存在の表現が、聖音オームである』とし、『オームを繰り返し、その意味への念想がなされなければならない』、更に『この実践により内なる自己を知り、障害はなくなる』とする。これが基本。

オームの意味を念想するとあるが、特定の意味が最初に与えられるわけではないので、自分がオームそのものにならない限りはその意味は与えられることはないだろう。

 

マンドゥーキヤ・ウパニシャッドでは、

『オームは現在、過去、未来のすべてである。三世を超えるものすらすべてオームである』(現代人のためのヨーガ・スートラ/グレゴール・メーレ/産調出版P57から引用)とそのものズバリで解説する。

 

これに対し、OSHOバグワンのヴィギャンバイラブ・タントラでは、

『-39-

ある音をゆっくり唱える「オーム」と。

音が遍音(あまねくひろがる)状態になるとき、あなたもそうなる。』

(沈黙の音/OSHOバグワン/市民出版社P94から引用)

 

絵柄は、口を開けたライオンを手で押さえた女神であって、北欧神話のトールのような力自慢のそれではなく、いかにも軽々とやってのけている。だが、ライオンである自己実現、自己拡張の願望を口を閉じるのではなく開けたままで抑えるのが強引さを感じさせない。まだ自己を拡張させる段階でもあるのだ。

 

インドの聖者ユクテスワによれば、人は真の信仰の意味を理解するようになって、幸運であれば、“自分を霊的に導いてくれる聖師(救い主)となってくれる神のような友”に出会えるという。

 

この友に忠実に従って修行をしていくと、スシュムナドワーラ(スシュムナー)に心を集中することができるようになる。そして自分の内なる光輝く身体が見えてきて、聖音オームを聞くようになるという。

(1. “神のような友”とは、聖者が友として現れるということ。

2.内なる光輝く身体のことを神の先触れたるバプテスマのヨハネであるとする。)

 

ユクテスワは、聖音オームは川の流れであり、これに浸って沐浴(洗礼)を行い、いくつかの世界をとおって神のもとに帰るとする。

 

オームは神に至る川の流れだったのだ。よってこの死の世界で神に至るまでの流れの力が最初に置かれている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

錬金術の世界樹

2024-05-21 04:23:41 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-6

◎世界樹-4

◎その根は高く、枝は下に広がる

 

世界樹は、哲学の樹(アルボル・フィロソフィカ)とも呼ばれる。錬金術文書では、転倒した樹(アルボル・インウェルサ)とされ、上から下に成長し、樹冠が下に、根が上にある。この転倒した世界樹は、古代秘教的世界観から来るもので、神である根から世界が発出しているという見方に、人間からの見え方を加えたものである。

 

『ある錬金術の文書では、「鉱物の根は空に、枝は大地の下にあり、これを引き抜くと、恐ろしい音がして、大いなる恐怖が続く」と記されている。『世界の栄光』では、哲学者たちの言葉として「その鉱物の根は空にあり、梢は大地の下にあり」と述べられている。

(中略)

 

転倒した世界樹の数多くの例の中で最も有名なものは、『ウパニシャッド(奥義書)』にあるものだろう。樹の宗教的意味がアルボル・フィロソフィカのそれと似ている。

 

この宇宙は永遠に存在する樹であり、その根は高く、枝は下に広がる。

樹の純粋な根が梵であり、その中に三界(欲界と色界と無色界)が存在し、これを超越する者はいない。』

(ヨハンネス・ファブリキウス/錬金術の世界/青土社p229から引用)

 

悟っていない人間には、世界樹は根が下に枝が上に広がって見える。世界樹の根を目撃した瞬間に、世界樹の見え方はひっくり返る。世界樹の根は神であり、仏であり、タオであり、ニルヴァーナである。

 

この逆転した世界観こそ覚者の証拠である。悟った人が周辺に理解されないのはここに最大のキーポイントがある。

 

また霊が見えようが、ハイアーセルフと話ができようが、世界が逆さまに見えない人は本物ではない。タロット・カードの木から吊るされた男こそ、覚者の姿である。

 

更に、逆転のニュアンスはないが、ユダヤ教に世界樹のビジョンがある。それは、旧約聖書の創世記の生命の木である。生命の木はエデンの園の中央にある。エデンの園の東に、天使ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、生命の木の道を守らせられた。これは、人が生命の木に至る道を保証し、その道を保護していることになるだろう。聖書のこの部分で、人には永遠に生きる道がある可能性をも示唆している。天使ケルビムは猿田彦みたいなところか。さまよえる魂を善悪立て分けて、行くべき相応の道を指し示す。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生の側の10枚

2024-05-20 04:17:23 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-3

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-3

 

さらにホドロフスキーは、大アルカナ前半10枚では、その動作が上方に向いている一方、10枚はその動作が下方に向いていることに気がついている。

具体的には、前半10枚では、「大道芸人」(I)と「女帝」(III)は棒を、「皇帝」(IIII)、「教皇」(V)、「戦車」(VII)の王子は笏を持ち上げている、など。

また後半10枚では、「力」(XI)の女性は股間に頭を押しつける動物の口を抑えつけている。「吊られた男」(XII)は下方に頭を向けたままで吊るされている。「節制」(XIIII)の天使は液体あるいは流体を上の壺から下の壷へと 注いでいる、など。

 

この並びについて、ホドロフスキーは2枚ずつ眺めていくという炯眼を披露している。1と10は独立だが、2-3、4-5、6-7、8-9がペア。

 

まずは、前半10枚について。前半は生の世界だから、霊があるとか、人は死んだら生まれ変わるとか、人間には微細身(アストラル体、メンタル体など)があるなどとは言わない。前半10枚の冥想手法としては、黙照枯坐の只管打坐、仕事を精密にやり続ける事上磨錬、武道、芸道など。

 

1 魔術師(大道芸人)

 只管打坐では、修証一如と申して、修行も悟りも同じだ、つまり「悟っていない人も悟った人も同じだ」と主張する。これは、悟った人がそれを言うのは間違いないが、悟っていない人がそれを言うのは間違いである。

 これは、この魔術師が凡人であると同時に完全人(イブを分離する以前のアダム、アダムカドモン)、原人でもあることを意味するのと同じ意味である。

絵柄では、スシュムナー、イダー、ピンガラーの3本のナディ(気道)を示す三本足のテーブルの上にクンダリーニのエネルギー・コードたる蛇のしっぽが載っている。

最初に登場した人物は最後にはクンダリーニを極めることを示しているのだ。

 

2 女教皇(女司祭長)

 キリスト教は自称三位一体だが、実質二位一体とも言われる。これは、神が父であるが故に母なる神がないことを示す。つまりこの女教皇は失われた太母、聖母マリアなのだ。精神性における母性の表象。

 

3 女帝

 これは、女教皇が聖のトップであるのに対し世俗のトップ。誕生、出産、多産という肉体のレベルでの母性の表象

 

4 皇帝

 肉体、物質レベルでの世俗での王。南面する人。人は肉体なしでは悟れないということはある。

 

5 教皇(法王、司祭長)

 皇帝に対し、精神面での王。北面する人。

 皇帝と教皇の対面は、達磨の6世紀梁の武帝との対面や、大燈国師の花園上皇との対面のシーンのイメージ。

 

6 恋人達(恋愛、恋人)

 柔弱なる力、受容性、精神面での他者に親しむ力。燃え上がる生命力、エロス、魂の伴侶との引き合う力。人間の側の都合。だが大慈悲。

古事記で言えば、日に千五百人産み出すイザナギ神のポジティブパワー。

 

7 戦車(征服者)

 強硬な、無慈悲なる力。物質面での他者に影響を与える力。圧倒的破壊力。古事記で言えば、日に千人取り殺すイザナミ神のネガティブパワー。

 歴史学者アーノルド・トインビーは、インドの巨大山車ジャガーノートで轢き殺されると天国に行けるから、どんどん山車の前に人は身を投げるという具合に書いてあった。この戦車とはまさにジャガーノート。

ただし数年前にその祭りのNHK放送を2時間くらい目を皿のようにして見たが、巨大山車ジャガーノートの前面側面に見張りやら警備員が立っていて、結局誰も飛び込まなかった。

 

8正義

 正義、公正。顕教。善と悪とを立て分ける。善悪をきちんと区分するためには、日々善の側に立ち、積善陰徳を積み重ねて行かねばならない。それは悟った者の生きる姿である諸悪莫作衆善奉行(悪いことをしない、善いことをする)でもある。

※カモワンでは、VIIIは「力」でなく「正義」になっている。

 

9 隠者

 神秘的パワーにより人間を隠れてサポートする。密教。冥想。

顕教の大衆宗教であるカトリック、禅などで構築された社会には、必ず年に1回か2回、オルギア的乱痴気騒ぎや、嘘をつきまくってよい日など、日常の秩序からのガス抜きの日が設けられているものだ。

宗教の戒律を守り、ともすれば苦行のように見える抑圧の継続する日常には、その社会のどこかに神秘家スピリチュアリストがいて、抜け穴を見せてくれるものだ。

 

10 運命の輪(運命、運命の車)

 人は勤倹、敬虔に暮らしていけば、あるいはそうでない生き方をしてもカルマは消化され、次の人生に進んでいくか、大悟覚醒して輪廻転生を終了するかする。輪廻転生してロバに生まれ変わったり、ペットに生まれ変わったりという人もいるらしいし、動物から人に生まれ変わる人もいるらしい。またマンツーマン輪廻かどうかという議論もあるし、転生しないというカトリックの見方もある。

 

生の側の10枚の最後は、輪廻転生そのものだが、悟りの必要条件は、『人間を卒業する』、『あらゆる実感を経る』ことなので、ここにこれが置かれている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

視点の転換と世界そのものの転換の違い

2024-05-20 04:07:58 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-5

◎世界樹-3

◎世界の転換

 

タロットカード「吊るされた男」では世界が逆さまに見えるだけである。要するに視点が変わっただけで、それだけのことである。

しかし、世界樹のシンボルで示唆するのは、世界観の転換という視点だけの変化ではない。世界そのものが転換するのである。樹冠と根の位置が逆転するとはそういうことである。

一般に、新しい世界に入ればそれが世界の転換だと人は思う。

臨死体験でよくあるケースで、真っ暗なトンネルを抜けたら、アストラル体世界に入り、天上に張りついてベッドに眠る自分の肉体を見下ろしていたというのがある。最初の体外離脱はショックなものだ。肉体宇宙からアストラル体宇宙に変わったが、見ている自分は変わっていない。よってこれは視点の転換にすぎない。

また、エーテル体宇宙も超えて、スウェーデンボルグやルドルフ・シュタイナーや出口王仁三郎や沖縄のユタや恐山のイタコのように様々な霊的生物に出会うアストラル宇宙に入ったとしても、居る世界は変わったが、見る自分に変わりなく、視点の転換ということでは同列である。

更には、第四身体たるメンタル体宇宙も超え、第五身体たるコーザル体宇宙に至っても、それぞれのボディの宇宙の超越ではあるが、残念ながら見ている自分は変わらないので、やはり視点の変更にすぎない。

霊界に入ったことが人間として大きな進歩だみたいにいう人がいるが、その驚異の実感には嘘はないのだろうが、それだけでは何も産まない。というのは世界は逆転しておらず、自分は自分のままで、みじめでちっぽけな自分は何も変わっていないからである。

つまりコーザル体宇宙までの、「居る世界の変更」では真の「逆転」は起こっていないのだ。タロットカードの木に吊るされた男のように世界は逆転して見えはしないのだ。

 

さて十牛図第七図は、忘牛存人。神、仏という全体性は取り込んだものの、いわばそれまでのあらゆる宇宙の延長であることに変わりはない。つまり逆転が起こったという風情ではない。だから慈遠禅師や廓庵禅師のコメントも、のんびりとした風情を漂わせている。理屈からすれば、世界と一つになって大逆転したこの段階で、大きな感動をありがとうと叫ぶべきところだが、そんなムードではない。

十牛図第七図はアートマンだが、第八図になって「なにもかもなし」、言葉では表現できないとなる。それもリアリティ。ここに二つ目のリアリティが現実となってやってきて、本質的な意味で世界が転換すると禅家は言いたいのだろうか。ここでは、視点は、第七図で一回、第八図で一回と二回変わっている。しかも、視点だけが変わるのではなく、本質的な意味で、世界そのものが変わる。

 

このようにいわゆる「世界の転換」にはいろいろなバリエーションがあるが、真の転換は、アストラル・トリップでも、霊覚を磨くことでも勿論ない。それは、ヘルメス文書の「諸力に自らを引き渡し、諸力となって神の内になる。」(ヘルメス文書/朝日出版社P75-76から引用)という表現のようにそこから一歩先にある。

自分が神を見るという視点は失われ、神が神として見るのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前半が生の世界で後半が死の世界

2024-05-19 05:36:47 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-2

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-2

 

タロットのアルカナを秘儀と訳している場合がある。大アルカナとは大秘儀であって、普通の人間が神になるプロセスと技法を示しているからには、まさに大秘儀である。

大秘儀とは密教的であるからして、その寓意の読み方は、一語につき3種類はあるもので二語並べば9種類になるとは、呂洞賓の示唆するところである。

大アルカナ22枚が悟りへの22段のパスであるとして、それの鍵を誰に問うかといえば、ホドロフスキーだろう。一つの技に打ち込めば、やがて神に至る。それは、剣道、柔道、合気道、古武道、茶道、舞踊、ダンス、音楽など武道、芸道をはじめとして、仕事を一心に精密にやり続ける事上磨錬においてすら神が開顕されることがあることに同じ。

ホドロフスキーは、まさにタロットを肌身離さず触り、タロットの一枚一枚を愛(め)で冥想し、何度も並べ返してみては、神意のインスピレーションを得てきたことが、文章の端々でわかる。

 

さて彼のカモワン版大アルカナ俯瞰は次のようなものであって、無番号の愚者と最終21番の世界を別格とし、残り20枚を前半と後半に二分割する。

『大アルカナの第1の列(IからX)は特定可能な状況にある人間あるいは動物を表している。ほとんどの場合、これらのカードの上端は中心人物(たち)の頭部の位置と一致している。

例外はアルカナVI「恋人」で、天の部分は 太陽と幼児のような小天使によって占められている。この列は歴史的ないしは社会的な意味を暗に含む絵を描いており、「光」と呼ぶこともできる。

 

大アルカナの2番目の列(XIからXX)では 人物と状況がより寓意的になり現実に即した特徴は少なくなっている。この列は「闇」と呼ぶこともできるだろう。なぜなら夢に近い精神的または 霊的な世界の内部で繰り広げられるようにも思われるからである。

天使や悪魔といった神話的な人物も登場する。さらにアルカナXVI「神の家」以降では空を満たしているのはエネルギーの顕現、天体、神の使者たちである。』

(タロットの宇宙/アレハンドロ・ホドロフスキー/国書刊行会P42-43から引用)

 

ホドロフスキーは、前半10枚を光、後半10枚を闇と言っているが、これは前半が生の世界で後半が死の世界だろう。そしてXXI世界が第六身体アートマンにして、無番号愚者たる第七身体ニルヴァーナを別格に置く。これぞ悟りへの22段のパスの風光である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたし自身に我が身を犠牲に捧げて世界を逆転

2024-05-19 05:29:17 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-4

◎世界樹-2

◎世界樹に吊り下がっている人間の姿

 

イグドラシルには、世界が倒立しているニュアンスはない。そこで万神の主宰者オーディンが登場してくる。

 

オーディンの箴言から、

『箴言138.

わしは、風の吹きさらす樹に、九夜の間、槍に傷つき、オーディン、つまり、わし自身に我が身を犠牲に捧げて、たれもどんな根から生えているか知らぬ樹に吊り下がったことを覚えている。』

(エッダ-古代北欧歌謡集/谷口幸男訳/新潮社P38から引用)

 

九は数の窮極であり、「九夜」とは、長さを計れないほど長い時間または時間を超えた世界。時間を超えた世界であるから、もはや個性をも超えた世界を指す。

 

「槍に傷つき」とは、クンダリーニというエネルギー・コードに刺し貫かれていること。

 

「わし自身に我が身を犠牲に捧げて」というのは、自分というものがない絶対者(神、仏)のレベルに至っていること。絶対者においてレベルなどはないが、ここはわが身を捨てるのだ。

このあたりは、古神道の出口王仁三郎が、本来の自己である本守護神を奉斎させたのと同じ。

「誰もどんな根から生えているか知らぬ樹」とは、根っこが絶対者のこと。天である絶対者という根っこからあらゆる人間、動物、生物、無生物というエネルギー・コードの枝葉が伸びている。逆に人間の側から見れば、根っこに向かって上昇していくように見える。

このようにこの箴言は、クンダリーニ・ヨーガ型の冥想体験で、絶対者(オーディン)に到達して、その後絶対者の側から、エネルギー・コード(クンダリーニ)にぶら下がった人間の姿を「世界樹に吊り下がっている人間」の姿と見たものであることがわかる。

つまりこの箴言の視点は人間の視点からではないが、この風景はいつもおなじみのタロットカードの「吊るされた男」で見かける風景であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする