◎思考が出現するのと同時に思考が消滅している状態に保つ
「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」の第三の要点は、行に関するもの。行とは行為のあり方。一度見仏した人は菩薩であり、菩薩の行為が菩薩行になる。菩薩行とは、善を行い悪を行わないことだが、見仏だけでは行為がふらつくことを前提にしている。
本文。
『そのとき、執着であれ嫌悪であれ、幸福であれ哀しみであれ
一瞬のうちに生じる思考であれ、すべてのものは
意識にいかなる痕跡も残さない
なぜなら、あなたはそれを
自らが解き放たれている法身であると認識するからである
水面に書かれた文字がたちまち姿を消すように
出現と解脱は、あるがままに持続する
生じたものはすべて、裸のリクパと空性の食物であり
心の中で動き出したものはすべて、法身という王の内的な力である
痕跡を残すこともなく、本来から清浄である。ああ、なんと喜ばしいことか!
事物の生じ方は以前と同じかもしれないが
その解脱の仕方に違いがある。これが重要だ
これを無くしては、瞑想はただの迷乱の道であり
これをもってすれば、瞑想などなくとも、法身の状態がある
三番目の要点は「湧き起こる思考の解脱をはっきりと確信する」 ということである』
(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライ・ラマ14世/春秋社P68-69から引用)
思考は湧き起こって解脱すると書いてあるが、これは、思考は湧き起こって消滅するということなのだろうと思う。これによりあらゆる思考は「生じたままで消滅している。」。
この根拠となっているのは、前の思考と後の思考の間(隙間)に、リクパ(法身、アートマンの純粋な意識)が存在している(上掲書P80)が、リクパは途切れることのない不断の智慧にして、すべてが透明にして澄み渡っているもののこと。
そこで思考が現れたなら、それを放置すれば迷乱に陥るため、それを防ぐために思考が現れたなら直ちに純粋意識であるリクパに立ち返って、思考が出現するのと同時に思考が消滅している状態に保つ。これを繰り返していく。これによりいくら思考が現れても、水面に書かれた文字がすぐ消えるように、意識にいかなる痕跡も残さない。
そしていわば思考の集合体がカルマなのだろうから、こうした訓練を繰り返すうちにやがてカルマが消えていくという事は理解できる。これなら自分だけでなく九族昇天す。
菩薩行とは、世間的には、自我を極小化し、利他に生きることだが、その根源は湧きあがり続ける思考にあるとまで見て、それを都度都度抹消するというか、思考は発生すれば同時に消えるものと見ることを繰り返すことが、実は菩薩行という行為なのだろう。
三番目の要点は「湧き起こる思考の解脱をはっきりと確信する」とは、誠に大いなる技であって、聖胎長養とはここに極まるのだろう。これができれば瞑想などいらないと言っているが、思考が発生する都度リクパ純粋意識に立ち返り思考が消滅している状態に保つという技も相当に瞑想だと思う。
そういう技は、修道院や僧院や瞑想専門小屋にいればできるのだろうが、勤労や家事、学業、介護などの平常時でも維持できるかどうかが問題なのであって、それを可能にするのが聖胎長養なのだろうと思う。
「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」の第三の要点は、行に関するもの。行とは行為のあり方。一度見仏した人は菩薩であり、菩薩の行為が菩薩行になる。菩薩行とは、善を行い悪を行わないことだが、見仏だけでは行為がふらつくことを前提にしている。
本文。
『そのとき、執着であれ嫌悪であれ、幸福であれ哀しみであれ
一瞬のうちに生じる思考であれ、すべてのものは
意識にいかなる痕跡も残さない
なぜなら、あなたはそれを
自らが解き放たれている法身であると認識するからである
水面に書かれた文字がたちまち姿を消すように
出現と解脱は、あるがままに持続する
生じたものはすべて、裸のリクパと空性の食物であり
心の中で動き出したものはすべて、法身という王の内的な力である
痕跡を残すこともなく、本来から清浄である。ああ、なんと喜ばしいことか!
事物の生じ方は以前と同じかもしれないが
その解脱の仕方に違いがある。これが重要だ
これを無くしては、瞑想はただの迷乱の道であり
これをもってすれば、瞑想などなくとも、法身の状態がある
三番目の要点は「湧き起こる思考の解脱をはっきりと確信する」 ということである』
(ダライラマ ゾクチェン入門/ダライ・ラマ14世/春秋社P68-69から引用)
思考は湧き起こって解脱すると書いてあるが、これは、思考は湧き起こって消滅するということなのだろうと思う。これによりあらゆる思考は「生じたままで消滅している。」。
この根拠となっているのは、前の思考と後の思考の間(隙間)に、リクパ(法身、アートマンの純粋な意識)が存在している(上掲書P80)が、リクパは途切れることのない不断の智慧にして、すべてが透明にして澄み渡っているもののこと。
そこで思考が現れたなら、それを放置すれば迷乱に陥るため、それを防ぐために思考が現れたなら直ちに純粋意識であるリクパに立ち返って、思考が出現するのと同時に思考が消滅している状態に保つ。これを繰り返していく。これによりいくら思考が現れても、水面に書かれた文字がすぐ消えるように、意識にいかなる痕跡も残さない。
そしていわば思考の集合体がカルマなのだろうから、こうした訓練を繰り返すうちにやがてカルマが消えていくという事は理解できる。これなら自分だけでなく九族昇天す。
菩薩行とは、世間的には、自我を極小化し、利他に生きることだが、その根源は湧きあがり続ける思考にあるとまで見て、それを都度都度抹消するというか、思考は発生すれば同時に消えるものと見ることを繰り返すことが、実は菩薩行という行為なのだろう。
三番目の要点は「湧き起こる思考の解脱をはっきりと確信する」とは、誠に大いなる技であって、聖胎長養とはここに極まるのだろう。これができれば瞑想などいらないと言っているが、思考が発生する都度リクパ純粋意識に立ち返り思考が消滅している状態に保つという技も相当に瞑想だと思う。
そういう技は、修道院や僧院や瞑想専門小屋にいればできるのだろうが、勤労や家事、学業、介護などの平常時でも維持できるかどうかが問題なのであって、それを可能にするのが聖胎長養なのだろうと思う。