◎意識の隙間とバックグラウンド
チベット密教の「
英邁にして光輝ある王の卓越した教え」(パトゥル・リンポチェ)において、いくらでも湧き起こる思考、想念の消し方の三段階を見た。
それを読めば、只管打坐では湧き上がる想念を相手にしないという応対を行うことを思い起こす人もいるのだろう。そのやり方でも想念が次第に起こらなくなっていけば、想念と想念の隙間であるバックグラウンドが露出していき、
宝慶記に書かれているような不思議な前駆現象が起こった後に身心脱落が起こるのだろう。
想念と想念の
隙間であるバックグラウンドとは、チベット密教では、
母の光明であり、リクパであり、一義に限定している印象がある。ところが、そのバックグラウンドとは、インドならば
熟眠中に夢を見ない状態なのだろう。
アメリカの覚者
ケン・ウィルバーは、既に大悟しているのにもかかわらず、熟眠中に夢を見ない状態に至るには
何年かかかったことを述べている。
禅の三祖僧さんも以下のように夢という想念も起きない状態を述べている。
『眼(まなこ)もし睡らずんば
諸夢 自ずから除く
心もし異ならずんば
万法一如なり』
(信心銘)
大意:眼が眠らなければ、様々な夢は自ずと見ない。
心がもし変わらず同じならば、すべての存在は一つである。
荘子にも『古の真人は、眠っても夢を見ず、起きていても憂いがなかった。』(大宗師篇)とあり、夢という無意識状態での想念不発生を展望している。
ソーマ・ヨーガの
ドンファンも自由に到達するとは、永遠に生き続けることを意味することでなく、「見る者」によれば、『人は、普通ならば死の瞬間に失う意識というものを保持することができる』(呪術と夢見/カルロス・カスタネダ/二見書房P206から引用)と述べ、隙間の意識の保持を述べる。
このように並べてみると、
隙間のバックグラウンドの意識には日常覚醒時の意識の隙間と、睡眠時あるいは肉体死時での無意識になった状態での意識の隙間と二種類あることがわかる。
最初は日常覚醒時の顕在意識において想念をなくしていくことにより、隙間が露出していく。次に睡眠時などの潜在意識において隙間が露出していくという順序になるのだろう。
禅、あるいは只管打坐では顕在意識も潜在意識も一気に想念を停止させ、クンダリーニ・ヨーガ系では顕在意識でまず想念を停止させ次に潜在意識で想念停止させるという流れになるのだろうと思う。
※想念停止とか想念抹消とか表現しているが、「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」のとおり、想念そのものは消えないことは、留意すべきだろう。想念は色であって空だから。