アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

坐忘、ある冥想法-2

2022-12-07 17:13:21 | 道教neo
◎肉体を落とす

荘子大宗師篇で、孔子に対して高弟顔回が、その境地を語る。
顔回「先生、私は進歩しました。」
孔子「どういうことですか。」
顔回「私は仁義を忘れました。」
孔子「それはいいけれど、まだまだです。」

他日二人は再び会った。
顔回「私は礼楽を忘れました。」
孔子「それはいいけれど、まだまだです。」

顔回「先生、私はまた更に進歩しました、今度は坐忘ができるようになりました。」
孔子は、驚いて「坐忘とは何のことかね」

顔回「肉体を放棄し、聡明を退け、形を離れ、知を去り、大通なる道と一つになりました。これを坐忘と言います。」
孔子「道と一体になれば、もはや好悪差別の心はなくなるし、道と同化すれば、無常がわかる。あなたは本当に賢人だ。今後あなたを先生としましょう」


仁義という社会性を忘れ、礼楽という形式を忘れ、肉体を落とす(原文:堕肢体)。肉体を落とすということは死の世界に入るということ。

孔子は道と一体になることが、好き嫌いを超えていることを知っている。大通なる道と一つになることは、輝くすべてであるワン・テイストに同化することなのだ。

そして孔子は、自分を超えた境涯の弟子を一人打ち出したのだ。
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身心脱落の前兆

2022-12-07 17:02:53 | 只管打坐neo
◎三種の吉兆

宝慶記は、道元が師匠の天童如浄の言行を書きおいたもの。

それに身心脱落の前兆とおぼしきものがある。

如浄が道元に語るには、
「あなたは、これから先、必ず美しく妙なる香気で、世間に比べるものがない香りをかぐであろう。これは吉瑞(よい前兆)である。
                              
あるいは坐禅している顔の前に、油のしたたり落ちようとするようなものがあるのも吉瑞である。

もしくは、いろいろな触覚が起こることもまた吉瑞である。

そのようなことが起きても、すぐに頭髪についた火を振り払う如く坐禅に励みなさい。」

こんな嬉しがらせてもらようなことを大師匠から言ってもらった後で、それに似たことが起きるとその神秘体験にこだわり、しばしば修行は先には進まなくなるもの。

これらの神秘体験は、身心脱落の発生に先立って必ず起きるものかどうかはわからないが、少なくとも天童如浄の経験や直観ではあることを教えてくれたものだと思う。

けれどもその扱いは、どんな素晴らしいあるいは妙な神秘体験でも、それに一切こだわりを持ってはいけないと戒めているのは流石(さすが)である。

天童如浄は、魔境とそうでないものの区分を知らないはずがないので、この3例は身心脱落のプロセスにおける正統的な道標の可能性は否定できないが、一方で全く同じ事象の魔境があることもまた否定できないところはある。
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熟睡中の夢も見ない状態

2022-12-07 16:56:37 | 究極というものの可能性neo
◎神性の具現

ウパニシャッドでは、インドラの師であるプラジャーパティが、「人が熟睡して、精神統一され、一点の曇りもない時に人は夢を意識しない。これがアートマンである。それは不死なるものであり、ブラフマンである」と説明したところ、

インドラは、「熟睡中の夢も見ない状態がアートマンであるという説には何のメリットもない」として納得しなかった。こうしてインドラは101年間プラジャーパティの下で修行をすることになった。

プラジャーパティの別の説明:
風や雷鳴は身体を備えていない。これらのものは、かの空間から立ち上がり最高の光となった後、それぞれ自らの形をもって現れ出る。

それと同様にアートマンはこの身体から立ち上がり最高の光となった後、それ自らの形をもって現れ出る。
(参考:人類の知的遺産・ウパニシャッドの哲人/講談社)

プラジャーパティの別の説明では、アートマンはかの空間である死の世界で発出して、最高の光に起源を持つが、その後個別性を持ってこの世に現出するというアートマンの位置づけを知り納得している。

つまり我々個人は熟睡中の夢を見ない状態でアートマンに帰り(アートマンに個別性はないが・・・)、その後個別性を持って夢の世界より帰還するのだが、それは個人の側から見た説明であって、アートマンの側からみれば、そのメカニズムこそが人の神性の具現であるということになるのだと思う。
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ケン・ウィルバーの意識状態

2022-12-07 16:50:50 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎見性からの深まり

ケン・ウィルバーはその心理と社会を全部まとめた統合的マトリックス・世界観ばかりが取り上げられている。実際にインタ-ネットで検索してみると、ケン・ウィルバーに関するサイトは、その世界観をとりあげているものがほとんどと言ってよいだろう。しかしながら彼のバックボーンはその見性体験にあり、古代秘教型の、「窮極(神・仏・タオ)からあらゆる現実が発生している」という方向性の説明を、心理学者や社会学者が理論づけしやすいように述べているにすぎない。

だから少なくとも見性体験がない人間が、彼の説が正しいということを、自信をもって確信することはできないのだ。ケン・ウィルバーの周辺には、ヨーギ(ヨーガのマスター)、カバリスト、禅者、冥想を用いるソウシャル・ワーカーなど冥想に縁のある人がかなり多いので、中には何人か見性者がいて、それを実際に確認できている人がいてもおかしくない環境なのだろうと思う。

ケン・ウィルバーは、すでに見性あるいは悟りの体験が何度かあったと述べているが、最初の著書を二十歳そこそこで出版したが、おそらくはそれ以前に、それはあったのだと思う。

ただその体験があった後も結跏趺坐の冥想を20年継続して、一つのテーマを持ちながら冥想を継続していった。それはラマナ・マハリシの「夢を見ない深い眠りの中に存在しないものは、リアルではない」という言葉だった。これは、夢を見ない深い眠りこそが窮極(神、仏、タオ)であるという意味である。

人間には目覚めている状態、夢を見ている状態、夢を見ていない状態とあるが、その見性あるいは悟り体験は、最初は目覚めている状態のときだけに起こったという。ケン・ウィルバーにとってショックだったのは、彼の窮極を認識している状態は、目覚めている時間帯限りで、寝ている時間帯には窮極から離れてしまっていたことであった。それはいかにも本物の状態ではないのである。真正の覚者は、睡眠中でも窮極を自覚しながら意識が継続していることを彼は知っていた。

そして、その後の真剣な坐禅修行を続けていく一方、チベット密教・ゾクチェンのチャグダッド・トゥルク・リンポチェ師の11日間の集中的なセッションに参加した時に、彼の自己というものの大死一番が起こり、自己は完全に死んでしまい、そこから意識が睡眠中でも継続するようになり、それからずっと継続していると述べる。

その状態は、目覚めている状態、夢を見ている状態、眠っている状態の間を移り変わっていっても意識が断絶することなく、そこには明瞭な鏡のような心、「観照者」=本来の自己しかなかったと彼は述べている。この状態でワン・テイストとか、仏性とか、菩提心とか「ブラフマンであるあなた自身のアートマン」(うまい言い方ですね)が現れるとしている。

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ケン・ウィルバーの結跏趺坐

2022-12-07 10:48:10 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎空とワン・テイスト

アメリカの見性者ケン・ウィルバーは25年も結跏趺坐でやってきたという。私は半跏がほとんどだったが、結跏趺坐で行ってみようと思い直している。いろいろ聞くとやっぱり半跏ではダメかもしれないと思われるところがある。

ケン・ウィルバーは、ヨーガの死体のポーズ(仰向けになって全身脱力。脚を揃え、腕を開いて横に置く)を始めたなどと書いてもいるので、私がヨーガしていても死体のポーズは省略することが多いので、今度は死体のポーズもやろうと思う。

ケン・ウィルバーは、ワン・テイストとは単純な存在の感覚に近いとする(ワン・テイスト(下)/ケン・ウィルバー/1997年11月/コスモスライブラリーP194)。それからすると、ワン・テイストとは、どうもアートマンのことを指しているように思われる。というのは、ワン・テイストは「神が神を神している」感じではないからである。

さてケン・ウィルバーは、以下の文で、純粋な〈意識〉は、三つの状態(目覚めている状態、夢を見ている状態、眠っている状態)すべてに存在する唯一のものだとするが、これがワン・テイストのことであり、アートマンのことであるように思われる。

『4.適応とは単純に、所与の意識レベルとの、不断の、永続する接触を意味する。私たちの多くは、すでに物質、身体、そして心に適応している(あるいは、進化している)。(だから、あなたは自分が望むときにいつでもそれら三つのすべてと実質的に接触することができるのだ)。
何人かは、超個的レベルの至高体験を得たことがある(心霊、微細、元因、非二元)。しかし実際の実践において、私たちはそうした高次の領域の高原体験に進化することができ、さらに実践を積み重ねると、そうした高原体験は永続する適応になることがある:心霊、微細、元因、非二元の機会との不断の接触――自然神秘主義、神性神秘主義、無形神秘主義、統合的神秘主義との不断の接触――それはすべて、現在の意識にとって物質、身体、心がそうであるように、簡単に接触できるようになる。

同じように、これは三つの状態すべて――目覚めている状態、夢を見ている状態(あるいは、サヴィカルパ・サマーディ)、眠っている状態(あるいは、ニルヴィカルパ・サマーディ)――を貫く不断の意識(サハジャ)によって証明される。

そのとき、「夢を見ない眠りの中に存在しないものはリアルではない」という理由が明らかになる。〈リアル〉は、夢を見ない深い眠りを含めた、三つの状態すべてに存在しなければならない。そして純粋な〈意識〉は、三つの状態すべてに存在する唯一のものである。

この事実はあなたが純粋な、空っぽの、無形の<意識>に休息して、<不動>、<無変化>、<未生>にとどまりながら、すべての<形>である純粋な<空>、輝く<すべて>である<ワン・テイスト>の中に解放され、三つの状態すべてが生起し、とどまり、過ぎ去っていくことを「見守る」ときに完全に明らかになる。』
(ワン・テイスト(下)/ケン・ウィルバー/1997年11月/コスモスライブラリーP217-218から引用)

この純粋な意識とは、絶対と相対を見守る時に知る意識ということになる。そして、すべての形である純粋な空とは、色即是空の空のことであり、色つまり現象の生起が意識されているので第六身体=アートマンのことを言っている。アートマンは不変であるが、転々と変化する現象の窮極と呼ぶべきものは、アートマンであるとする。

また輝くすべてであるワン・テイストとは、宇宙意識であり、神のことである。この「輝く」という表現が、パッと入るところが、それを見た者である証拠のひとつになると思う。

これらのことを前提に、彼は、ワン・テイストとは窮極のスピリットだと言い、ワン・テイストは時間の中には全くないと言う。そして相対の世界では、アートマン(第六身体、プラトンのイデア界)がリアル(永久普遍の実在)であり、絶対の世界(第七身体、神、仏、タオ)では、アートマンも非アートマンもリアルではないのである。

また、世に言う宇宙意識の体験というものは、彼にいわせれば、ほとんどが、空の一瞥でもワン・テイストの一瞥でもない、単なる神秘感覚的な体験に止まっている。

ケン・ウィルバーは、窮極の悟り(宇宙意識の一瞥)に至るには、禅では平均6年の集中的な瞑想セッションの期間が必要であると述べており、これは、いきなり気持よい体験があってそれを宇宙意識体験と呼ぶのはおこがましいと警告しているのだと思う。ただし前世での修行の成果というもう一つのファクターというものがあるようで、年少の頃から精神の暗夜から宇宙意識に飛び込んでいける人がいることも事実である。

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原初の光を見る

2022-12-07 10:37:46 | クンダリーニ・ヨーガneo
◎悟りを開いた人が悟りを開いた意識のままで

実際にクンダリーニ・ヨーガ修行で仮死になっている本山博氏が、死後直後の原初の光を見るということについて語る。

チベット死者の書では、人間が肉体死のプロセスが進行していく中で、どのタイミングでどのような大悟のチャンスがあるかを懇切丁寧に分析的に語っている。

死のプロセスにおける悟りのチャンスは、最初のチカイ・バルドーで最大のチャンスがやってきて、それを捕り逃がしても次のチャンスはやってくるけれど、最初のチャンスほどの大物ではない。

本山博氏は、やはり冥想修行を積んでいない者が、死んでいきなり登場する空からくるところの原初の光を見るのは困難であることを述べている。

よく言われることだが、準備もなしにその時を迎えて、神の名を呼んでも急には応えてくれるまいということがある。平素の冥想修行があってのいざという時である。

大人数の人が大量死を迎えるような究極のピンチに陥ったとして、何人が悟ることができるかという観点では、そのチャンスは生前にもあるし、死後まもない時期(チカイ・バルドー)にもあるが、どちらも冥想修行していないタダの人がチャンスを生かすのは難しいかもしれないということ。

さて人は死を迎えると、まもなくチカイ・バルドーと呼ばれる中有にまず入る。
『そういうふうなすべての存在のもとになっているものは、一切の存在が消えてしまうようなところであり、それが一切の存在を成り立たせている。そのように、本当の心の状態、心の原初の状態は空である。
その空の状態が、物を創造する、あるいは存在を創造するという時に、初めに光を発する。それをチベットの「死者の書」では原初の光と称するわけです。

そして、チカイ・バルドーの状態、心臓の中に微細身を持ったアートマンが入り込んでいった状態の時には、普通の人間の場合にはそういう光は長い間の行をしないと体験しにくいのだが、チカイ・バルドーの状態になった時には、原初の空の状態から発する光を体験する事ができる。

だからそのものすごい光を自覚できて、その中に融合できたら、いわゆるダルマ・カーヤという次元で悟りが開ける、と言うわけです。

ところが、私が実際に霊界の霊をみていると、自分の家族の事とか、家の事とか、痛かった肺癌の事とか、殺された時の恐怖とか、死の直前の思いにとらわれていて、自分の今の状態も、まわりの状態もわからないでいる霊がたくさんあります。

この世の人でも、ノイローゼになった人や、自閉症の人をみていると、自分の思いの中に閉じこもってしまって、周囲の事は一切わからない。ある想念とか感情、例えば愛情のようなものとか、反対に人に対する非常に強い憎しみとか恐怖とかというものにおち込んで、まわりの事は一切わからない。

死んだ場合にはそれがもっと極端になって、
自分の小さな薄暗い穴のようなものを自分で作り出して、その中にじっとちぢこまって潜んでいるような状態が多いのです、一つの執着を持って死んだような人は。

そういう人が、ここで言っているような心の本源である原初の状態というか、心の空性の状態から発する光がわかるわけはないと思うのです。この光がチカイ・バルドーの状態でわかる人というのは、結局は悟りを開いた人が悟りを開いた意識のままでチカイ・バルドーの状態になったら、多分、わかると思うのです。そうでないと、それはなかなかみられないと思います。

もし普通の霊の世界の霊、さっき言った、エジプトの「死者の書」に出てくる凶霊の世界でない霊が、もう一段上の霊の世界の光をみた時には、それは目がつぶれるほどまぶしくてみられないくらいなのです。

だから、もし今ここで言うような原初の光がみえたら、太陽が何万個も一ぺんに光ったような光で、原子爆弾が落ちたぐらいの光ではなくて、その何千倍も何万倍も明るい光で、とうていみられないし、怖いと思うのです。それで皆逃げちゃうのですね、もしみられたとしても。

そこが非常に問題なのですが、怖がらないで、これこそ本当の一切の存在を成り立たせる元から出ている光だと思って、その中に飛び込んでいけたら、解脱が一瞬のうちにできると(『バルド・ソドル』では)言うのだけれども、そういう人は覚者でないとむずかしいみたいですね。』
(カルマと再生/本山博/宗教心理出版P199-P201から引用)
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意識が無意識に転ずる瞬間に悟りあり

2022-12-07 10:29:27 | 究極というものの可能性neo
◎隙間が主、前後が従

OSHOバグワンは、隙間が主であって、その前後が従だと語る。
換言すると、隙間の方が中心で、前後の方が周辺。そうなれば、隙間の方が悟りであって、前後の方が迷いであると気づく。

彼は、ここで、前後から隙間に進むことには連続性がなく、爆発だと表現する。彼の口ぶりでは、爆発とは、個から全体に連続性なく一足飛びに進むことをいう。

前後の方が夢であって、隙間の方が現実。現実とは、永遠不壊であるという意味。

隙間を知るにはとにかく醒めているしかない。
隙間に入る技法として彼はとりあえず実例を挙げる。
1. 息が出て、隙間、息が入る、のを見つめる。これを繰り返す。ヴィパッサナー、呼吸覚醒。
2. 眠ろうとする時に、眠ろうとする自分に醒めている。眠ってもおらず醒めてもいない自分がある。
また眠りから目を覚ましていない状態にも同じチャンスがある。(心理学者のユングもこれをやっていた。)
3. 意識が無意識に変化する瞬間に気づいている。麻薬を投与して、意識をまさに失おうとする瞬間に気づいている。禅の師匠が弟子を殴って縁側の下に蹴り落とす瞬間(正受が白隠を蹴り落とすなど)に気づいている、など。
(参照:未知への扉/第六章 精神的な爆発)

普通の人は、意識や思いや記憶は連続したものと何の疑いもなく、思い込んでいる。実際はそうではないと示唆のみできる。証明などはできない。

こうした言説は、探検者を宝の山に導く地図のようなものだ。宝の噂を聞かなければ、その重い腰を上げないというのも真実なのだ。
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ドン・ファンの熟眠中に夢を見ない

2022-12-07 10:25:54 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)neo
◎死の瞬間に意識を清明に

ヤキ・インディアンのソーマ・ヨーギのドン・ファンは、まず世界全体としてのイーグルがあり、それの全体的あるいは部分的現れとして覚者グループであるナワールがある。仏教で言えばイーグルは法身、ナワールは、報身のような感じ。

ここで見る者というアカシック・レコードみたいな存在があり、その役割は、イーグルを見てその止むことのない流転を観察し記録すること。見る者は、人間を作っている輝く殻が壊れている場合には、イーグルの中に人間のかすかな反応を見出すことも可能だという結論に達した。

これは、現代人の相当数が輝く殻が壊れていて、イーグルなる全知全能の世界全体宇宙全体にアクセス可能だということなのだろう。

ドン・ファンは、自由に到達するとは、永遠に生き続けることを意味することでなく、「見る者」によれば、『人は、普通ならば死の瞬間に失う意識というものを保持することができる』と述べている。
(呪術と夢見/カルロス・カスタネダ/二見書房P206から引用)

カスタネダは、ドン・ファンは、意識を保持するということの意味を説明できなかったと書いているが、その意味は、「熟眠中に夢を見ない」ではないのだろうか。この部分ページの文は、全然不連続に見えるが、思い当たる人だけが思い当たるという部分なのだろう。

悟り、大悟、神、仏、シッディなどを論ずる場合は、多くこのような散発的な表現が関連ないが如く並ぶものだ。

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坐忘、ある冥想法-1

2022-12-07 10:23:03 | 道教neo
◎欲の深い者は天機が浅い

荘子は、ストレートなもの言いなので、老子よりはわかりにくい。読者がちゃんと理解してくれることを前提としていないからである。とりあえず真実を語って見せるが、その場の人物に対し、必要な前提やら注意事項を必ずしも与えない。それはOSHOバグワンの語り口と同じである。

その境地にたどり着くには、ある冥想法が必要なのだが、そこは、グルに任せるとして、真理のみを語る。

荘子の大宗師篇から
『古の真人は、眠っても夢を見ず、起きていても憂いがなかった。グルメをするのでもなく、呼吸は深い。真人の息は踵でし、衆人の息は喉でする。屈服する者の息は、喉につかえたものを吐き出すようである。欲の深い者は天機が浅い。
 
古の真人は、生も悦ぶことを知らず、死も悪(にく)むことを知らず、生死は無心に来て、無心に往くのみである。

生死の始まる所を忌まず、生死の終わる所を求めない。
受けてこれを喜び、失ってこれに帰る。

このことを、心を以って道を捨てず、人を以って天を助けずと言う。このことを真人という。

このような人の心は『忘』であって、その様子は『寂』であってのびのびとしている。また寒々と凄然として秋にも似て、また暖かく春にも似て、喜怒の感情の動きはあるが、あらゆる変化に通じ、物と調和しているので、その極みは計り知れない。』


まず冒頭の『眠っても夢を見ず』は、ウパニシャッドの「熟睡中の夢も見ない状態」を言っている。夢をみないほどぐっすり眠ることなどではない。

『真人の息は踵でし』は、踵を巡る周天のような技法があるのだろうか。なお足のチャクラは足裏の中心であり、踵ではない。

そして最も重要な記述『受けてこれを喜び、失ってこれに帰る。』。生は之(これ)を個で展開するが、死に際しては個で死の世界を展開するのでなく、死に際しては全体なるアートマンに帰るのだ。単純なマンツーマン輪廻説でなく、死の実態に即した表現を取っている。

このように生死を超えて生きる姿を『忘』と呼ぶ。
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眼(まなこ)もし睡らずんば

2022-12-07 10:19:34 | 丹田禅(冥想法8)neo
◎宗派によらない体験とは言えない体験

禅の達磨から三人目の第三祖僧さんが、体験とは言えない体験を説く。
『眼(まなこ)もし睡らずんば
諸夢 自ずから除く
心もし異ならずんば
万法一如なり』
(信心銘)

大意:眼が眠らなければ、様々な夢は自ずと見ない。
心がもし変わらず同じならば、すべての存在は一つである。

熟眠中でも夢を見ないというのは、インドでも冥想の重要テーマだった。
荘子にも『古の真人は、眠っても夢を見ず、起きていても憂いがなかった。』(大宗師篇)というのがある。

宗派は異なっていても求める境地に変わりはない。個が宇宙全体・世界全体に転換するポイントがあって、それは冥想修行のステージの一つとして存在することは知られていたのだ。

そしてそれは、最初は特異な体験だが、日常に変わる。
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日常覚醒時での想念停止と睡眠時などでの想念停止の違い-1

2022-12-07 07:24:19 | 覚醒のアーキテクチャー
◎意識の隙間とバックグラウンド

チベット密教の「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」(パトゥル・リンポチェ)において、いくらでも湧き起こる思考、想念の消し方の三段階を見た。

それを読めば、只管打坐では湧き上がる想念を相手にしないという応対を行うことを思い起こす人もいるのだろう。そのやり方でも想念が次第に起こらなくなっていけば、想念と想念の隙間であるバックグラウンドが露出していき、宝慶記に書かれているような不思議な前駆現象が起こった後に身心脱落が起こるのだろう。

想念と想念の隙間であるバックグラウンドとは、チベット密教では、母の光明であり、リクパであり、一義に限定している印象がある。ところが、そのバックグラウンドとは、インドならば熟眠中に夢を見ない状態なのだろう。

アメリカの覚者ケン・ウィルバーは、既に大悟しているのにもかかわらず、熟眠中に夢を見ない状態に至るには何年かかかったことを述べている。

禅の三祖僧さんも以下のように夢という想念も起きない状態を述べている。
『眼(まなこ)もし睡らずんば
諸夢 自ずから除く
心もし異ならずんば
万法一如なり』
(信心銘)

大意:眼が眠らなければ、様々な夢は自ずと見ない。
心がもし変わらず同じならば、すべての存在は一つである。

荘子にも『古の真人は、眠っても夢を見ず、起きていても憂いがなかった。』(大宗師篇)とあり、夢という無意識状態での想念不発生を展望している。

ソーマ・ヨーガのドンファンも自由に到達するとは、永遠に生き続けることを意味することでなく、「見る者」によれば、『人は、普通ならば死の瞬間に失う意識というものを保持することができる』(呪術と夢見/カルロス・カスタネダ/二見書房P206から引用)と述べ、隙間の意識の保持を述べる。

このように並べてみると、隙間のバックグラウンドの意識には日常覚醒時の意識の隙間と、睡眠時あるいは肉体死時での無意識になった状態での意識の隙間と二種類あることがわかる。

最初は日常覚醒時の顕在意識において想念をなくしていくことにより、隙間が露出していく。次に睡眠時などの潜在意識において隙間が露出していくという順序になるのだろう。

禅、あるいは只管打坐では顕在意識も潜在意識も一気に想念を停止させ、クンダリーニ・ヨーガ系では顕在意識でまず想念を停止させ次に潜在意識で想念停止させるという流れになるのだろうと思う。

※想念停止とか想念抹消とか表現しているが、「英邁にして光輝ある王の卓越した教え」のとおり、想念そのものは消えないことは、留意すべきだろう。想念は色であって空だから。
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