◎言葉によって表現できないものでも歴史上に現れ続ける
宋代の禅僧五祖法演は、潙仰宗のことを評して「断碑横古路」(壊れた石碑が、今は誰も通らない表参道にごろんと横倒しになっている)と評した。
禅は一切の分別や解釈を断つのだとして、取り付く島もないのだが、その点ばかり強調すると、最後はクリシュナムルティのように境地だけを説き、そこに至る冥想法は説かないということにもなることがある。禅僧普化の暴れぶりもそう。
するとそんなマスターの説は、崇高で格調高いのであるが、誰もその後を継承できなくなるということがまま起こるものである。
禅問答は、木で鼻をくくったようなものが多いのだが、五祖法演の公案は、一見とりつきやすいが深い味わいのあるものがある。倩女離魂(無門関第35則)、牛過窓櫺(無門関第38則)がそれ。
神、仏、道(タオ)、涅槃(ニルヴァーナ)、空、禅の無というような言葉で表現できないものは、言葉で伝承できないのだが、なぜか歴史上には現れ続けるものだ。以心伝心といえばわかりやすいが、心そのものがわかっていない者がそれを言っても詮無い。
禅問答は、取り付く島もない、鉄面皮なものが多いが、そうした「石ころの心」から何かが流れ出すということは、ヒントをもらわないと気がつきにくいものだが、なぜか気がつく人は絶えないから、言葉によって表現できないものでも歴史上に現れ続ける。