◎ウクライナから東アジア
ウクライナでの戦争で核使用の可能性が時々報道されている。東日本大震災という未曽有の天災でも死者は約2万8千人程度。これに対して広島の原爆では約8万人(数え方はいろいろある。)と人為の災害であるのにはるかに東日本大震災を上回る。
陸軍参謀本部第二部長有末精三は、原爆投下翌日の1945年8月7日空路広島に到着した。
『午後五時半過ぎ広島上空に着いた。全市は一軒の家屋も見えず一面の焼野ヶ原、黒く焦げた枯木が一本、二、三の枯枝を支えて淋しげに立っているのが妙に印象に残った。飛行機は大きく旋回して海岸の吉島飛行場に着陸した。
わたしは直ぐに降り立ったが、誰ひとり出迎えてもいない。飛行場の短かく伸びた芝生は、一斉に一定方向、たぶん東へ向ってなびいており、しかも一様に赤く、真赤ではなく焦茶色といった方が当っているように焼けていたのに驚いたのであった。
ものの二、三分たったころ、飛行場の片隅の防空壕から這い上って出てきたのは飛行場長と思われる一中佐、左半面顔中火ぶくれに赤く焼けていた。被害休養中だった中佐が無理をして出迎えてくれたのを直感したわたしは、胸に迫り来る何ものかを 感ぜずにはおられなかった。
中佐の負傷は、昨日の熱風での被害であって顔面右半部は普通の皮膚色、 問わず語りに熱風に曝された側のみ犯されているのが解った。被服に覆われたものへの浸透についてはワイシャツなどの白色のものはよく熱線を遮っていたが、カーキ色はこれに次ぎ黒色の布地は熱線を遮るどころか、かえって吸収さえすると言葉少なに報告してくれた。
ちなみにこの飛行場は、爆弾落下の中心から四キロほど離れていたことを考えただけでも、この特種爆弾の猛威が想像された。』
(終戦秘史有末機関長の手記/有末 精三/芙蓉書房P28から引用)
広島長崎の原爆から略80年、核兵器も技術革新をさらに進め、被害は大型化し、また使いやすくもなっている。欧米を中心に人権尊重を唱える国が多いが、真に人権尊重していれば、核兵器開発などはしていない。
欧米の戦いで言えば、ヨーロッパでは古城や有名教会など歴史的建造物は避けて戦闘するが、日本相手だとすべてを破壊する原爆やら絨毯爆撃を行うというところに、日本人絶滅の意図を感じられるところがある。
なお中国は、もともと前王朝の文化財を破壊する傾向があり、また文化大革命時のように平時なのに自民族の文化財も破壊する時代もあった。
過去、インドの聖王アショカ王が平和のモニュメントであるアショカ・ピラーをインド各地に建てたがそれは戦争の惨禍を二度と繰り返さないためだった。
悟りにより『愛』を知れば、人は他人を傷つけることなどできず、そうした人が国に多ければ、他国を侵略することなどできない。逆にいまや他国が日本に侵攻しようとする危機だが、ゲームやエンタメなど自分の現状を考える時間をなくすものから離れ、TVなどあらゆるマインドコントロール情報に触れないようにし、自らの感性と頭で考え、時代に向き合うべき時節となっている。
そのために冥想習慣は必要なものだ。