◎愛は死だ
愛は死だ。自分が落ちる。これは、真剣な恋愛経験者なら誰でも知っている。
近松門左衛門の情死物に心が揺すぶられるのは、現代人も同じ。
OSHOバグワンの説明。
『そしてこれらだけが死の形ではない。さらにもっと微妙な死の形もある。恋に落ちるとき、あなたは死ぬ。愛は死だ。それは最も純粋な死だ。死をもいとわない者だけが愛することができる。死ぬことを恐れる人は、愛することもまた恐れる。世界に愛が欠けているのはそのためだ。人々はいつも愛について考える―それについて幻想を抱くが、そのなかに入っていこうとはしない。なぜなら、愛は死だからだ。死があなたをおびえさせる。
恋人たちは互いのなかに死ぬ。互いのなかに死ぬことができる者たちだけが恋人どうしになる。ほかの者たちはゲームを演じているにすぎない。愛のゲームはほんとうの愛ではない。それはまがいものだ。数知れぬ人々がまがいものにとどまっている――彼らは死を恐れ、それゆえに愛をも恐れているからだ。愛はつねに死をもたらす。愛は死への扉であり、死は愛への扉だ。
あるいは瞑想をするとき、そのときにもあなたは死ぬ。人々が瞑想に深く入ってゆくことを恐れるのはそのためだ。毎日、誰かが私のところにやって来て言う――「和尚、それが起こりはじめました。私は怖くなってしまいました。心の底から恐ろしくなりました。瞑想が起こっているので す。まるで自分が消えてしまうような気がします。どうか私を守ってください」彼は瞑想に意欲的だった――それが起こっていないとき、彼はそのことをひどく心配していた。今やそれが起こりはじめ、それがまた不安の種になる。私は理由を知っている――瞑想について読んだり聞いたりしているうちに、彼は強欲になってしまったのだ。瞑想が人を深い死に導くことに気づかないまま。
あるいは、あなたは師に自らを明け渡す。それは最も深遠な死のひとつだ――自我が死んで、消えうせる。これらはみな死であり、死はつねにやって来つつある。』
(英知の辞典/OSHO/めるくまーるP256-257から引用)
『恋人たちは互いのなかに死ぬ。』というが、そんな相手に簡単にマッチングアプリで出会えるものだろうか。
後に大悟覚醒した冥想修行者たちは中国や日本中を回って真正の悟ったマスターを探したが、そう何人もいるものではなかったことを知った。会員多数のマッチングアプリの向こうに、互いのなかに死ねる恋人候補が何十人もいるわけではないと思う。
まず自分が死ぬ覚悟があって本物のマスターに出会えるのと同様に、自分が死ぬ覚悟があれば本当の恋人にも出会えるだろうと思う。