◎二つの世界観
宗教教育は重要だが、日本の戦後教育のように窮極にほとんどアプローチしないものであると、青少年が漂流することになった。
そこに様々なカルトが付け入ることになり、実際に人生を棒に振ることになった青少年が無数に発生したし、今も増え続けているのだろう。
父なる神を知らない神父、牧師、仏を知らない僧、住職、神をしらない禰宜。こうした人は当たり前のように存在している。あるいは「私は悟った」という言葉を宣伝文句に、金儲けする人もいる。
だが、そうしたあらゆるバイアスを取り去って、なぜ自分が昔の聖人の言行録や、最近の覚者の記録を読んでもすっと頭に入って来ないかを考えると一つの事実にぶち当たる。
勿論聖人、覚者にも二種類あって、神仏を見たことがあるだけの聖人、覚者と、神人合一した聖人、覚者だが、ここでは、神人合一した聖人、覚者の方のことを言っている。
彼らは、二重の世界観を生きているのだ。それは夙に知られてはいたのだが、我々未悟者からみれば、相反する全く異なる世界観を生きているということ。その第一の世界観とは、肉体こそが自分であり肉体こそが科学の基礎であり、利己主義は当然に社会の安定を犯さないことを前提に許容されるというようなもの。
第二の世界観とは、人は宇宙全体であり、なにもかもなしである一方で、人は自分であり他人そのものであるという現実。そこでは透徹した孤独がある。世界全体である自分しかいないとなれば“孤独”である。時間はなく、今ここだけが、過去と展開し未来と展開し、天機天意のままに未来を変容させることもでき、過去すらも変えることができる。
聖人、覚者たちは、時にこの二重の世界観を時にわかりやすく、時にストレートに説くのだが、ストレートに説かれた部分は、無辜の青少年にはせいぜい三分の一程度しか理解されないままとなるものだ。
第一の世界観は学校でも習うし、社会でも学ぶものだから改めてどうこうすることはない。第二の世界観は非科学的であり、ぶっ飛んでいるし、とてもそんな世界観で生活していけるとも思われない。だが、第二の世界観だけが、愛、智慧、美、真理などあらゆる人間の肯定的属性が流れ出る源流である。
時代がここまで切羽詰まると、第二の世界観を新たな真人間のあるべき世界観の一つとして、知的に学ぶことを始めるしかないのではないか。
本来第二の世界観は、体験すべきものとして登場して来てはいたのだが、知る人すら少ない現状では、まず知ってもらい、次に冥想修行してもらい、最後に体験とは言えない体験をしてもらうという手番に入るしかないのではないか。
第一の世界観と第二の世界観の接点、それが人間であり、完成形のポジションを天の浮橋とも呼ぶのだろう。天国と地獄の結婚、天の眞名井での誓約(うけひ)とも呼ぶ。