◎神などと言っているうちは、ぜんぜん楽しくないのである
(2021-12-23)
今年も臘月八日の後は、ダンテス・ダイジ忌だった。ダンテス・ダイジ自身も存命ならば70代。彼に面識のある者もその年代周辺であって、社会的にはOBとなり、あまり影響力はなくなったと見られる。
ダンテス・ダイジの教えで特徴的なのは、真理の社会性を相対的なものと見、いわばおひとり様宗教もありだと示したこと。覚者が必ずしも人格者や好々爺ではないことを示したこと。覚者の非社会性をことさらに強調して見せたこと。
こうした真理自体の許容度を広げて見せた結果、一生を棒に振ったり、社会に迷惑をかける邪教がはびこったりというのは「ダンテスの悪影響」と称される。ダンテス・ダイジという覚者と直接の面識がなくとも、七つの身体論という人間像の相対化、あらゆる世界観の相対化、ひいては近代西欧文明の崩壊とその後の姿のビジョン、さらに出口王仁三郎の云う「奥の奥には奥がある」という勢力をもイメージさせるには十分だったのではないか。
ダンテス・ダイジ未公刊の詩集老子狂言から、下の「人のからくり」を引用。この詩が本当だからといって、その人間像にこだわっているわけではないが、どの立ち位置で語っているかを見るべきだろう。
『人のからくり
肉体——→エーテル体
エクトプラズムは、エーテル体の流出のことであり、肉体とエーテル体は、死とともに崩壊する。
エーテル体は、漢方医学の無数の経絡に相当する。
アストラル体
7つ、あるいは10個の光輝くチャクラからなりたつ死後にも一定期間存続する本人と相似している光明体である。
霊体(メンタル体)
人間の最初にして最後の個性であり、永遠不滅の実相身である。
各人各様の形象をとっていて、一定の型を持っていない。原型イデアである。
キリスト・ブッダ・クリシュナ等の霊体は絶対無・絶対光・変幻自在である。
善人においては、そのイデア相応の最高の美的形象をとった人間的な形を持っている。
悪人においても、その裏返しとしての最高の形を持っている。
サタン・ルシファー・悪魔などの霊体は絶対無それ自身で完結している絶対の暗黒・そして変幻自在の形象を取り得る。そのイデアは鉱物に近いといってよいだろう。
神の化身としてのアヴァタラと、悪魔の化身としてのサタンの実相身は、そのイデアの面から見れば、他のあらゆる人々との霊体と同様に絶対的な原型であることに違いはないが、
神の化身は、悪魔をも包むことができるが、悪魔の化身は、神以外のすべてに変容することができても、神・絶対全体にだけは成ることができない。
もっとも神も凡人も悪魔も、たいした差のありようはずもない。
神・すべてのすべて
そういうわけで、
神などと言っているうちは、ぜんぜん楽しくないのである。』
※2024年1月18日追記:
霊体(メンタル体)として説明している部分は、『人間の最初にして最後の個性であり、永遠不滅の実相身である。』ならば、コーザル体のことではないのだろうか。