◎一瞬間を梅毒病みの娼婦として生き
(2021-11-29)
ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。
『私は一瞬間を聖クリシュナとして生き
一瞬間を梅毒病みの娼婦として生きた
梅毒の苦痛が陣痛と出産の苦痛であり
性愛の享楽が聖者の清らかな解脱である
そしてすべては去ることもなく去り
また来ることもなく
新しい生涯が来る
止まることのない生々流転よ
私は生々流転のあったためしのないここで
ゴーヴィンダ・クリシュナの
美しい横笛の音を奏でる
今でない今、ここでないここで
私はクリシュナとして生き
クリシュナとして死んだ』
(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP120-121から引用)
※ゴーヴィンダ・クリシュナ:牛飼いのクリシュナ
この詩の劈頭は、クリシュナとして生き、クリシュナとして死にたいから始まっているので、それを受けた形。クリシュナと言っても日本ではあまりなじみがない。聖者には、組織宗教のトップ型の聖者と単独での遊戯者タイプの聖者が存在するが、クリシュナは、遊戯者タイプの代表格。ダンテス・ダイジは、釈迦を遊戯者タイプと分類しているが、王子として生まれ、妻をもらい子までなしながら一切を棄てて出家遊行したのは、遊戯者なのだろう。たとえその後の釈迦教が、東洋全体を席巻したにせよ。
インドでのクリシュナは、村の既婚女性も未婚女性も一箇所に集めてその魅力で説法遊戯したことが知られるが、聖人は存在するだけでポジティブな影響を与えるが、社会性という点では、その社会に物議を醸しだしがちである。
『一瞬間を梅毒病みの娼婦として生きた』という一節には違和感を抱かれるかもしれない。彼の韻文には、別に釈迦の後世の一つが新宿のトルコ嬢(ソープランド)であったことを示唆するものもあり、聖者の前世が風俗嬢であっても何の抵抗もあるまい。覚者とは人類全体の実感、宇宙の実感を生きるものだから。
また彼の地球上の最初の前世は、高級娼婦ナツノだったということもある。
性病から苦痛が起こり、セックスから解脱が発する如く、『すべては去ることもなく去り、また来ることもなく』新たな人生を繰り返す。
解脱とは、一般に輪廻転生の責め苦から脱出することだと思われているのだが、真相はそうではなく、迷いも不条理も理不尽も含めて『すべては去ることもなく去り、また来ることもなく』転生が無際限に行われることを示す。
そこで改めて、クリシュナは、生々流転を否定する。
『止まることのない生々流転よ
私は生々流転のあったためしのないここで
ゴーヴィンダ・クリシュナの
美しい横笛の音を奏でる』
そして『今でない今、ここでないここで
私はクリシュナとして生き
クリシュナとして死んだ』
と時間も空間もない世界の表現を繰り返す。
神人合一とは、このようなダブルの世界を同時に生きることであって、手近には、その実感は知的に想像し、感情的に共感することしかできないが、同じ体験とはいえない体験をすることによってまさに実感できよう。
そのためには、意識の絶対的な極限状態を通過せねばならないと、彼は言う。
(完)