◎老子第10章 載営魄
(2010-11-13)
『私たちはよく、その身体の上にその精神的欲望を司る魂と感覚的欲望を司る魄との二つともを、たちまち守りながら、しかも道の発動現成にあたって、道から離れずに生きてゆけるか。
この自分の中にある生々の原動力、無意識的生本能そのものの発動のままに生きることを専らにし、自分の欲望的意識は、極力これを抑えて発動せしめず、ちょうどあの赤ん坊のように生きることができるか。
民を愛し、国を治めるにあたって能く無為たることができるか。天門の治乱興亡の諸事件、諸現象にあたって、自分の力で自由にすることができることを知りながら、よくそれをしないで、人為的発動をしないで、無為を守っていることができるか。あらゆる方面において聡明でありながら、しかも能く知なきが如くしていることができるか。
道は万物を生じ、万物を畜っているが、しかもこれを生じさせても自分のものとしない。またすべてのそれらのことを自分が為したからといってそれらのものに対して何の期待も持たず、要求も持たない。又それらを長じさせ、養うたからとって、自分がそれを主宰しようとしない。これを玄徳(道そのものの体現であるところの聖人の持つところの徳)という。』
道を発動現成するという立場にあっては、自分と道の区別は、もはやない。ともすれば、肉体側、物質側であるところの「魄」寄りに動きたがるところを、能動的にコントロールする必要があるとする。
その必要があるのは、少なくとも一度は道を見た人間であって、仏教でいうならば菩薩のことである。つまり菩薩として生きる場合のテーマがここにある。
仏教では諸悪莫作 衆善奉行を道(真理)を知る人の生きる姿であるというが、老子ではその生き方を一言で玄徳(道そのものの体現であるところの聖人の持つところの徳)と称す。
今更ながらであるが、道を一瞥しても、道を体現した生き方が簡単ではないことが知られる。