◎老子第16章 致虚極
「虚を致すこと極まり、静を守ること篤ければ、万物並び作(おこ)れども、吾れ以てその復るを観る。」
これは冥想体験そのものと見ることもできる。
「虚を致すこと極まり、静を守ること篤ければ」とは、冥想の一つの目標である想念停止をイメージしているように見える。
死のプロセスの中で呼吸が止まれば想念の動きも停止し、『原初の光』を見ることになる。
つまりこの「虚を致すこと極まり」の部分は、呼吸、好き嫌いの感覚、情動、想念まで停止した死のプロセスと似た状態が、老子の冥想体験の中で発生したことを指しているようにも読める。
そして、その深い三昧の先に、「万物並び作(おこ)れども、吾れ以てその復(かえ)るを観る。」とは、あの世のあらゆる事物が生成しては、崩壊、滅亡していく姿を時間軸、空間軸をまたいで鳥瞰することができるポジションに進んで、次にそれらが一つのタオというポイントに帰っていくのを見るという意味にとれる。
※老子第16章の和訳
万物が並び作(おこ)っているこの現象の姿がしかも同時にまた無へ帰っているそれであることを観ることができるというのである。まことにすべての草木がそれぞれに繁茂しているけれども悉くそれは、その根に帰ることをしているのである。
この根に帰るのを(乃ち無に帰して行くのを)静というのである。そしてこの静に帰ることをあるべき自然の姿にもどると謂う。人が命に帰るのをまた古今変わりなき本来の姿という。この本来の姿を知ることを明と呼ぶ。
人があるべき本来の姿を知らなければ、必ずみだりに物事に動作して、不幸な目に会う。本来の姿を知ったならば、すべてを無為として容れることができる。このようになる時すべてを無為として受容すれば、真に公平無私である。
このように真に公平無私でありえたならば、それは王足り得るのである。王足り得たならば、それはまた天そのものである。天そのものであったならば、それはすなわち道である。
道であったならばそれは永遠である。だから身を没するまで、あやういということがない。