◎老子第34章 大道汎兮
(2006-03-02)
老子の中には、人間という視点が全くないものが時々ある。この一篇もそうである。使われている言葉は、自分が作ったとは言わない、そして主人顔をしないなどというものだが、書かれていることは、個人という人間や人間という心理は全く顧慮されていない。
ここで老子は、タオ・道に成りきって、その属性を語っている。
限りない夢と真実の裏側に常にひそむ「何物か」は、この世のどこにでも遍満しているけれども、自分勝手な奴ではなかった。
『道は天下に普く 満ちわたっていて、右にでも左にでも何処にでも見出される。
万物すべてこの道を恃んで生じるけれども、しかも彼は決してこれを辞するということがない。そして功成っても自分が為したと主張しない。
彼はすべてものを養い育てる。けれども決してそれの主人顔をしない。実に常になんの要求も持っていないのだ。まことに小というべしではないか。
しかも万物は言わずして彼に帰する。だのに彼はその主人顔を為さない。実に大と名付くべきではないか。
だから聖人は、いつでもついに自らを大としないのである。だからこそ彼は何時でもその大を為すのである。』