◎ジェイド・タブレット-06-33
◎青春期の垂直の道-33
OSHOバグワンの今生の成果というべきものは、七つの身体についての具体的な説明の数々だろう。クンダリーニ・ヨーガ修行者にとっては、ダンテス・ダイジの冥想法の説明だけではわからない部分が多く、OSHOバグワンの散発的ながらも論理的な説明の数々は、冥想修行の先の見えない道程を照らす灯台の光のようなものになるのではないかと思う。
たとえば、クンダリーニ・ヨーガについてパタンジャリのヨーガ・スートラやウパニシャッドを読んでも相互に矛盾することが書いてあったりして困惑することがある。
あるいは、ダンテス・ダイジがクンダリーニ・ヨーガを学ぶなら本山博のところに行きなさいと推薦していたことから本山博の著作を読んでも六つの身体なので、OSHOバグワンの言っている七つの身体ではないので、これまた当惑させられるものである。
クンダリーニ・ヨーガに限らず、チベット密教や西洋錬金術もそうなのだが、一つのテクニカル・タームが一つの段落の中で3通りの意味で使われるようなことはざらにあるもの。およそ神秘学徒、垂直の道の修行者の経典の読み方はそうしたものだが、それにしても真義がわからないと理解は進まない。
そしてそうした真義はしばしば正師から与えられる。
さらに垂直の道では、七つの身体についていえば、第一身体から第二、第三、第四、第五、第六、第七と順序に進むものではない。
それについてダンテス・ダイジは、
『肉体・意識・現象・宇宙・・・
そのありとあらゆる出来事・ ・・
これらは、
すべて肉体に属するものにすぎぬ。
どれほど高尚な形而上学的悩みも、
肉体あってのものだねだ。
一般に、
クンダリニー・ヨーガは、
アストラル体を基点とする。
マントラ禅や丹田禅は、
エーテル体を基点とする。
公案禅や只管打坐は、
メンタル体を基点とする。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版P122-123から引用)
と示してくれている。
一個人についていえば、その人生においても、以前の何回かの転生においても一つの冥想法で最後まで行く人は少ないのではないか。ほとんどの人は、その人生において複数の師についたりして複数の冥想修行をやることはままある。だが、ある冥想段階において出て来た結果が、必ずしもその時に打ち込んでいる冥想法での結果とは限らず、過去世で修行していた冥想法の結果が出てくるということはあるもの。これは冥想の二重の不確実性の一つ。
このように確かなものが確定しにくい冥想修行の道であって、また言及したカテゴリーが広汎なOSHOバグワンではあるが、七つの身体それぞれについての説明をかいつまむのは、彼の全貌を知る一つのよすがになるだろうと思う。