◎霊界止まりでなく、一足飛びに脱落
昔、能楽とはどんなものかということで謡曲集を読んでみたが、霊界止まり気味であって、あまり感心しなかった。
薪能の由来の一説に、一休禅師の時代に京田辺市薪里で能をやったのが、薪能の始まりという説がある。この薪の里の口伝によると、そこで金春太夫が舞ったから薪能という。京田辺市には、一休の寺酬恩庵がある。
また一休の塔頭大徳寺真珠庵には、観阿弥、世阿弥の墓があり、今の観世の家元が墓参に来るという。
一休には、大徳寺で大勢の僧が大燈国師の忌日に読経をしている声がする中、愛妾を真珠庵?に連れ込んでセックスにふけっちゃうという漢詩がある。悟った人がセックスにふけって何が悪い。カーマ・ヨーガである。
霊的に言えば、確かに一休には、無常の自覚から逃げないで無常を見つめるという方向性の歌はある。だがそれは、禅の本道ではあるまい。一足飛びに飛び込むのだ。
当時は応仁の乱の頃であって、山野に死体や飢人を見ることも普通だったろう。慈悲と無常の実感で入っていくなら蓮如の念仏がよい。一休も晩年念仏に帰依した。だが、禅は違う道。