珊瑚の時々お絵かき日記

夫と二人暮らし、コロナ自粛するうちに気がついたら中国ドラマのファンになっていました。

突然の宣告

2014年07月18日 | 母のこと

喫煙者でもないのに、1週間咳が続いただけで肺がんじゃないかしらと不安になったのは、

母に肺がんが見つかった直後だったからだ。

1か月ほど前、母がお世話になっている園の看護師さんから電話があった。

○○さん(母のこと)の認知症の進行があまりに早いので、一度脳の検査をしてみてはどうかということだった。

意志の疎通ができない、トイレの失敗、食べ物が呑み込めない、などということも頻繁にあるそうだ。

認知症が進行していることは、私も会うたびに感じていたけれど、

今日は調子が良いなという日もあって、そんなものかなと思っていた。

でも、脳梗塞は繰り返すというから、もしかしたら表面には出ない程度の梗塞があるのかも知れない。

数日後の7月4日、夫に運転してもらって病院へ連れて行った。

最近は、「ちょっとここで待っててね」ということができない。

少し前までは、私が駐車して来たり、薬局で薬を貰ってきたりする間、「わかった」と言って、

じっと待っていられたのだけれど、今はよろよろとどこかへ行ってしまう。

予約しているわけでもなく、検査をするわけだから、かなり時間がかかるだろう。

 ただ所在なく病院で待っていなければならない夫には申し訳ないけれど、仕方がない。

 幸い思ったほど待つこともなく、脳梗塞でお世話になった先生が診てくださった。

MRIを撮った後、呼ばれたのは私だけ。

看護師さんが、「お母さんは見て居ますから」と言って下さった。

脳のMRIを見ると、脳梗塞の後は黒くなっているが、右半分一面に白いまだら雲のようなものがかかっている。

何かしら?とぼーっと見て居ると、先生から説明があった。

「これは、どこかに大きな癌があってそれが脳に飛んできてるんですね。

そして、この白い部分は機能していないということなんです」

そうか、これだけ脳の機能が失われていたら、認知症の進みも早いはずだ。

そして先生は、「あと数か月ですね~、放射線治療をすれば、いくらか延命できますけど・・・」と

淡々とおっしゃる。

想像もしていなかったことに、ショック状態だったのだろう、何も言葉が出てこない。

ただただ涙が滲んでくる。

その私を見て、「驚かせてごめんね」と先生が申し訳なさそうにおっしゃったけれど、

当人が86歳ともなれば、家族にもそれなりの覚悟はできているはず、

普通はそうショックを受けないものなのかも知れない。

胸のレントゲンを撮って、もともとの癌が左肺にあることがわかった。

先生は昨年末の脳梗塞の時の肺のレントゲン写真と見比べながら、

「そう思って見ると、この時もあったんだよな~、でも脳のほうに気を取られて見逃してしまいました。すみません」

と頭を下げられた。

そう率直に言えたのは、その時見つかっていたとしても同じ結果だったということなのだろう。

次々と思いもしていなかった事実を告げられて、頭が真っ白になっていた私でもそう思った。

怒りを感じるよりも、先生が見逃したことも運命だったのかなという気すらする。

考えてみれば、50年以上もヘビースモーカーだった母だ。肺がんでないほうが不思議なくらいだ。

どういう経過をたどるんですか?と聞くと、

食べられなくなって、体が動かせなくなり、頭がぼーっとしてきますということだった。

それなら、苦痛はあまりないのだろうか。

問題はこれからの生活をどこでするかということですが、今いる施設の先生と相談してくださいと、

手紙と母のデーターを渡された。

帰りを待っていてくださった看護師さんに結果を話すと、彼女も、まさか!と驚いて、一緒に涙ぐんでくれた。

 園の先生との相談の日を決めて、母を職員の方々にお願いして帰った。

母を乗せて病院からの帰り、「どうだった?」と夫に訊かれて、「後で」と小さな声で言うと、

何かを察したのだろう、母を下ろして家に帰る間、結果を説明すると、ああそうかとだけ言った。

家から弟に電話すると、「やっぱりな~」と一言。

そうなのだ、タバコだけは止めないと、禁煙に抵抗していた母だ。

私が買っていくのを止めたことで母はタバコを手に入れるすべを無くした。

否応なく禁煙することになったのだけれど、あまりに遅すぎた。

好きなものが火を使うタバコでなかったら、例えば果物だったら、チョコレートだったら、

やめさせることもなく、好きなだけ持って行ってあげたのに・・・

母さん、あなたの好物は最悪よ。

 

 

 

 

 

 

 

 


入れ歯紛失!

2014年05月10日 | 母のこと

少し古い話だけれど、母を頭痛外来へ連れて行った次の日の夕方、園から電話がかかってきた。

園からの電話が良いことだったためしはない。

やれやれ今度は何かしら・・・と、受話器を取った。

「〇〇さんの下の入れ歯がないんですけど・・・昨日病院へ行ったとき、

車の中かどこかに置き忘れていないかと思いまして」と、

職員さんが言いにくそうに言う。

声が、恐れ恐れという感じだ。

えええー!

良い話じゃないと予想していたとはいえ、あまりに思いがけない。

「え、昨日はしていたと思いますけど」と答えたが、一応車の中を見に行った。

やはり、ない。

どう思い出しても、私が一緒にいる間は、入れ歯を外したことはなかった。

でも、そういえば、帰りに食べたラーメンをほとんど残していたっけ。

「もういいの?」と聞くと、ウンと、頷いていたけれど、

実は下の歯が無くて上手く食べられなかったのかも知れない。

無くなったのは下の歯だけなので、上の歯は入れている。

そうすると、見ただけでは下の入れ歯がないことに気づかない。

いつ失くしたの?とか、どこで失くしたの?とか、本人に訊いても無駄だ。

ないことにも気づいていなかったかもしれない。

職員さんたちが部屋の隅から隅まで捜してくださったけれど、どこにもなかったそうだ。

多分、外してテーブルの上に置いたのが、下にあったゴミ箱に落ちて、

お掃除した人が、そのまま気づかず捨ててしまったのだと思う。

それしか考えられない。

園の方も当然そう思っているだろうけれど、そうは言わない。

私も言わない。言ったところで仕方がない。

気まずくなるだけだ。

次回からごみを捨てるときは、少し気を使ってくれるだろうと期待するしかない。

 

とにかく早急に新しい入れ歯を作らなければならない。

間の悪いことに、私たちの旅行が近づいている。

その後でというわけにはいかないだろう。

完成までには何度も通うだろうから、一度でも二度でも行っておかなければ。

翌日は土曜日、幸い園の近くに土曜日もやっている歯医者さんを見つけて連れて行った。

残っている上の歯も、作ったのは20年以上前だ。

やはり上下とも新しくしたほうが良いでしょうということになった。

年齢も年齢だし、腰を痛めている。

あの椅子に仰向けに寝ているのは辛いだろう。

でも、仕方がない、失くした本人なのだもの。

入れ歯を失くすなんて、冗談話だと思っていたけれど、現実にあるのね。

職場の同僚に、母ったらね、入れ歯を失くしちゃったのよ~とこぼしたら

「うちのおじいちゃんも失くしたよ、それも上下」そんなの普通よという感じで言う。

やはり、出てこなかったそうだ。

こんなドジ、母だけだと思ったけれど、結構あるのね~。

補聴器を買わなくて良かったわ。

あんな小さな物、三日もしないうちに失くしただろうな。

 

さて、今日は2回目に行って来た。

次は弟が行ってくれる。

クルーズから帰って来てからの4回目5回目も予約してきた。

上手くいけばそれで終わって、5月中に入れ歯完成だ。

新しい入れ歯が、ぴったり合ってくれれば良いんだけど。

 

 

 

 

 

 

 


頭痛外来で疑似薬

2014年04月24日 | 母のこと

母を頭痛外来に連れて行った。

母の頭痛は、私の子供のころからだから、まさに筋金入りだ。

長年ノーシンを愛用して、好きな時に飲んでいた。

ところが、脳梗塞で認知症を患ってから、30包のノーシンが3日でなくなっていた時に

持たせておくわけにはいかなくなった。

小分けにして小袋に入れ、日付を書いてあったのに無駄だった。

そこで、病院からもらった頭痛薬を詰め所に預かっていただいて、

頭が痛いときはもらうということにしたけれど、

一日に何度も頭痛薬を欲しがって、ホームの詰め所の職員さんたちに迷惑をかけていた。

飲んでから1時間もしないうちに、ということもあるとか。

毎日、何度もとなると、やたら痛み止めは出せないだろう。

腰痛で強い鎮痛剤を飲んでいるので、尚更だ。

そうすると、母は私に電話をかけてくる。

薬を貰いに行ったけれどもらえないと訴える電話だ。

痛みを何とかしたいという母の気持ちもわかるし、そんなに頻繁に出せないという

職員さんの気持ちもわかる。

以前は自由に飲んでいた頭痛薬をどうしていちいちもらいに行かなければならないのか、

母は納得いかない。

86にもなったら、多少体に悪くても頭痛から解放されるならいいじゃないの、とも

思うけれど、職員さんたちはそうもいかないだろう。

そこで、ダメもとで頭痛外来に行ってみたのだ。

昨年末に脳梗塞で倒れた時、脳の検査はしているので、診察だけしていただいた。

先生が症状を聞き、いろいろ質問をされて、出した結論は

薬物依存ですね、だった。

やっぱりそうか。

私もインターネットで調べてそうじゃないかと思っていたのよね。

頭痛薬を飲めばのむほど悪化しますよとのこと。

でもどうすれば・・・

いきなり止めてしまうというのもね~~

すると先生が、「疑似薬をだしましょう」とおっしゃった。

疑似薬とは、薬に見せかけた乳糖だそうだ。

子供用の薬によく使われるそうで、苦い薬を乳糖でくるんで飲みやすい薬にするのだそうだ。

毒にも薬にもならない。

頭痛薬だと信じて飲むことが大事ですとのことだ。

薬局で、いくら飲んでもいいんですか?と訊くと、

いくら飲んでも良いですけど、あまり一日に何度も飲ませると

患者さんがおかしいと思うかもしれませんよ

とのこと。

そうよね、今まで出し渋っていた頭痛薬が好きなだけ出てきたら、

認知症とはいえ、おかしいと思うかも知れない。

そのへんの事情を説明して、その疑似薬を詰め所に預かっていただいた。

常勤の看護婦さんや職員さんも、それは良かったですねと喜んでくださった。

これで、心置きなく母に頭痛薬(疑似薬)をだして下さるだろう。

これで、うまくいくと良いのだけれど・・・

 

 

 


母の脳梗塞 3

2014年02月11日 | 母のこと

すっかりサボってしまったけれど、無事に生きていました

 

脳梗塞で入院していた母が、先月の30日に退院した。

もといた施設に戻るにあたって、4階から2階に移動することになった。

4階は、ほぼすべて自分のことは自分でできる人のエリア、2階は、日常生活に多少のお手伝いが必要な人のエリアだ。

母は、手の力が弱っているので、配膳、足元が少しおぼつかないことで、入浴時の見守りなどのお世話になっている。

また、今まで1か月分渡されて自分で管理していた薬が、食事毎に配られることになった。

脳梗塞が原因の認知症を発症してからだけれど、それがどの程度かわからなくて、戸惑うことが多い。

話す内容におかしなことがあるにはあるが、妙に辻褄が合っていて、妄想と言うよりは、耳が遠いためではないかと思うこともある。

ほかの人の話がよく聞こえなくて、聞こえた言葉を元に、聞こえない部分を自分なりに組み立てているのではないかと思う。

着替えの用意など自分でできるだろうかと心配していたら、意外と何でも自分でやっている。

日常生活にそれほど不都合はなさそうだ。

耳が遠いことについては、3年ほど前、本人が補聴器を試して拒否した。

そのうち、もう一度試してみようかと思うけれど、紛失すれば、高価なものだけに施設にも迷惑をかける。

でも、耳が聞こえれば、会話が楽しめるようになって脳への刺激もあるだろう。

認知症が進むのを遅らせることもできるかもしれない。

悩むところだけれど、なんとか嫌がる本人を宥めて試してみるべきかな。 

 

 


孫の力

2014年01月05日 | 母のこと

今朝、娘が東京へ帰って行った。

今頃は空の上だ。

いつものことだけれど、じゃあね、と手を振る姿を見るのは少し切ない。

家から出すのではなかったと、どっと後悔が押し寄せる。

でも、本人が生き生きと楽しく生活しているなら、やはりそれで良かったと思う。

 

今年は日並びが良くて、お休みが長かった。

いつもなら、毎日お友達と出かけて、怒涛のように去っていくという感じだけれど、

今回は家でゆっくりする時間もあって、一緒にテレビを見たり楽しく過ごせた。

母の病院へも何回か一緒に行った。

もしかして母が娘を忘れていたらどうしようと、一抹の不安があったけれど、

顔を見たとたんに笑顔になったので、ほっとした。

それに、私だけで会う時とは反応が全然違う。

何か娘に話しかけようと、意識しているのがわかる。

 

東京へ帰る前々日、

「あさって東京に帰るから、しばらく会えないね」と娘が言うと、

「お盆のころに帰ってくるんでしょう、今度はYちゃんも一緒に来れるといいね」

と言う。

Yちゃんとは、名古屋にいる息子のことだ。

息子は今年は帰ってこれなかったけれど、母は孫がもう一人いることを忘れていなかった。

ただ顔を見てわかるかどうかは、会ってみなければ何とも言えないけれど。

少なくとも名前は出てくるのは、精神面での回復にも希望が持てる。

孫の存在とは、予想以上に大きいものらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


母の脳梗塞 2

2013年12月28日 | 母のこと

母が入院してから2週間、治療とリハビリの甲斐あって、症状は随分と改善された。

身体的回復は、ほんとうに驚くほどで、発病前の8割がたは戻っていると思う。

トイレも一人で行けているそうだ。

でも、残念なことに、精神面はそうはいかない。

しっかりした受け答えの後で、辻褄の合わないことを言われると、

途端にがっくりしてしまう。

この間ね、と言っても30年前の話だったりする。

想像や妄想というより、自分の経験の思い出が、アトランダムに蘇る様だ。

これからの生活に支障はないのだろうかと気になって、

リハビリの先生に伺うと、普段の生活にさほど支障はないのでは、と言ってくださった。

リハビリの終わりに、「どうもありがとう、明日もよろしくお願いします」と

きちんとご挨拶しているのを見ると、少しほっとする。

これからは、今まで以上にいろいろな方のお世話にならなくてはならない。

その方たちに感謝を伝えることは、とても大事なことだ。

母にそれができることがとても嬉しい。

脳梗塞がきっかけで性格が変わってしまった、という話をよく聞くけれど、

母にはその心配はなさそうだ。

それが何よりも良かったと思う。

 

 

 

 

 

 


母の脳梗塞 1

2013年12月22日 | 母のこと

母の脳梗塞について、ショックでなかなか書く気になれなかった。

 

入居している園から、母の様子がおかしいと連絡があり、13日に病院で検査をしていただいた。

その結果、おそらくは11日の夜に脳梗塞を起こしていたことがわかった。

なぜ発見が遅れたかについては、園に対して腹立たしいことや、

私自身後悔していることがいろいろあって、まだ書けない。

 

診察していただいた時には、発症から2日もたっていて、

母は、車いすから立ち上がることも、

自分で体を前へ倒すこともできない状態でだった。

寝たきりになるのではないかと、まさに絶望感でに打ちひしがれたという思いだった。

体の症状の割には、母の口調は比較的しっかりしていたけれど、

受け答えの内容は怪しい。

両手が何とか動くのが、不幸中の幸いだった。

即日入院となって、その夜から治療が始まった。

高気圧酸素療法という治療法だそうだ。

表情を無くした母は、「じゃ、また明日ね」と言う私に、向こうを向いたまま頷いただけだった。

その夜は、これからどうなるのか、夜も真っ暗なら私自身の心もも真っ暗で、眠れないままで、朝を迎えた。

翌日、面会時間を待って行ってみると、驚いたことに、母が車椅子に座っておうどんを食べていた。

点滴に繋がれた両手でどんぶりを持ち上げてお汁も飲んでいる。

プラスチックの軽いどんぶりとはいえ、昨日と比べたら、凄い進歩だ。

「どう?」と声をかけたら首を回して振り向いて、「ああ、来たの」と答えた。

昨日は頭を持ち上げるのもやっとというように見えたのに。

食事を見守ってくださっていた若い女性の療法士の先生に、発病する前の生活の様子など

お話していたら、涙が出てきて止まらなくなってしまった。

わが子よりも更に若い先生は、いい年をしたおばさんの涙に困られたことだろう。

「よくなってもらえるように、私たちも頑張ります」と、力強く言って下さった。

その言葉がほんとうに嬉しい。

「よろしくお願いします」と、心から頭を下げた。

すがるような思いとはこういうことを言うのだろう。

食べ終えるとすぐにリハビリだということで、私が帰ろうとすると、

「気を付けてね」と、母が私を見あげて言う。

昨日とは、表情が違う。

娘を気遣う気持ちが戻ってきているのだ。

希望が見えてきたようで、帰りの私の気分も昨日よりずっと明るい。

 

それからほぼ毎日様子を見に通っていると、

治療とリハビリの効果で少しずつ回復しているのがわかる。

1週間たって、一人で歩けるようになった。

以前と同じというわけにはいかないけれど、手すりや壁を伝って何とか歩く。

車いすで足も持ち上げられなかった姿とは大違いだ。

日常生活では、10メートル歩ければ何とかなる。

トイレには行っているけれど、時々失敗があるので、紙おむつのお世話になっている。

いいかっこしいの母は、普通だったら絶対に嫌がるだろうけれど、特に気にしている様子はない。

早く気にするようになって欲しいけれど、86歳という年齢なら仕方がないとも思う。

たとえ、紙おむつと縁が切れなくても、自分で処理できるように回復して欲しい。

そうなるには、やはり精神面が重要なのだけれど、

前頭葉の判断を司る部分が、梗塞でかなり失われてしまったので、やはり問題が残っている。

口調がしっかりしているので、すぐにはわからないが、話しているとやはりおかしい。

痴呆症の症状が表れている。

「タバコ吸いたいんだけど」

「ここは病院だから駄目だよ」

「わかった。タバコ吸いたい」

「だから、駄目だって」

「わかった、だから・・・」

そんな会話を毎日交わす。

禁煙してもらうつもりなので、母は二度とタバコを吸えない。

可哀想だけれど、防火という意味で当然のことだ。

脳の失われた部分が回復することはないそうだから、

その会話をこれからもずっと交わすことになりそうだ。

入院中に、タバコのことは忘れてくれればいいのだけれど、そう簡単にはいかないだろう。

最悪ではないけれど、やはり前途は多難だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


父のお墓へ

2012年05月04日 | 母のこと

昨日は父のお墓参りに行って来た。

お彼岸に行かれなかった罪滅ぼしと言うわけではないけれど、いつも連休のどこかで行くことにしている。

春のお彼岸は、墓石が雪に埋もれてどこにあるかももわからないからだ。

 

今回は、母がホームに引っ越してから初めてのお墓参りということになる。

天気予報ではほぼ雨だったから、朝、降っていたらやめようとおもっていたけれど、

意外にも晴れていて、それっとばかりに家を出た。

ところが、天気予報もはずれたわけではなくて、ホームへ母を迎えに行った辺りで、

ぱらぱらと降り出した。

車の窓から空を見上げて、「雨が降ってるね~」と、嫌そうな母だったけれど、

とにかく行くだけ行ってみようということになった。

お供え物はやめにして、途中のスーパーで、お花だけ用意した。

日ごろの心がけのお陰かどうか知らないけれど、40分ほど走って茨戸霊園に着いたころには、

雨はすっかり上がっていた。

というより、もともと降っていなかったようだ。

ラッキーと喜んだけれど、風は冷たい。

母に風邪を引かれても困るので、待たせた父には悪いけれど、お参りはそそくさと済ませた。

 

こんな時期にも、お墓参りする人は意外といる。

やはり春のお彼岸をパスした人たちだろうと思うけれど、意外なほどに次々とやって来る。

考えてみると、北海道のGWは概してお天気に恵まれない。

それに、まだまだ寒い。

だから、出かけようと言う気にならなくて、家でゴロゴロと過ごすことが多い。

そこで、家族でお墓参りにでも行こうか、という気になるのかもしれない。

お昼を外食にすれば、ちょっとしたお出かけ気分になるものね。

 

私達もそんな感じで、帰り道にファミレスに寄って、ランチにした。

お刺身定食のホッキが新鮮で、とても美味しい。

「ああ、美味しい」を連発する母を見て、少し胸が痛んだ。

母は老人ホームに住んでいる。

食事は栄養士さんが、しっかり管理して下さっているので、栄養面では何の心配もない。

けれど、好きなものばかりが食卓に並ぶわけではない。

特に食中毒などの心配からか、生ものは滅多にでないそうだ。

それは、仕方がないことだけれど、時々は食べたいだろうな。

といって、自分で食べに出かけようという気はないだろう。

やはり私が、もっと頻繁に食事に連れ出してあげたいと思う。

 

とにかく、母が気にかけていた春のお墓参りがすんでよかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


母の引越し

2011年10月23日 | 母のこと

母が、食事つきの老人ホームへ入居することになった。

申し込みは、かなり前にしてはいたけれど、入居はまだまだ先と思っていた。

それが、急に決まって、入居は今月中にということで、てんやわんやしている。

行く先は8畳ほどの広さしかないから、持っていくものは限られる。

他は捨てていくわけだから、簡単なはずだった。

でも、本人にしたら、不必要だから捨ててよいというわけにはいかない。

一つ一つ吟味しつつ捨てていくものを選ぶ。

母は15年ほど前に長年暮らした家を処分して、ワンルームに住んでいる。

だから、さほど荷物はないと思っていた。

ところが、どうやって収納していたものか、出るわ出るわで、とても片付かない。

「もう、見ないで捨てたら」

と、言ってはみたけれど、そうもいかないだろうことはわかっている。

とりあえず、リサイクルショップに冷蔵庫など大きなものを引き取ってもらったら、空きスペースができて片付けもはかどると思うけれど、27日になるというから、まだまだだ。

ダンボールに囲まれている母はかわいそうだけれど、仕方がない。

 

 


伯母を訪ねて

2011年08月27日 | 母のこと

伯母を訪ねて、小旅行をした。

車で片道3時間半から4時間かかるから、結構な距離だ。

伯母は母の姉で、90歳、老人施設でお世話になっている。

母の兄弟姉妹は5人いたけれど、今は長女の伯母と、三女の母と二人になってしまった。

伯母は3年前に施設に入居したけれど、20年程前に伯父が亡くなってから、暮らしなれた家で一人暮らしをしていた。

とても元気な人で、施設に入居した理由は、雪かきができなくなってご近所にご迷惑がかかるからというものだ。

それまで、雪かきはもちろん、家の裏の畑でたくさんの野菜も作っていたのだから、驚いてしまう。

「会いたいから遊びに来て」

という電話が、母によく来ていたらしいけれど、腰痛持ちの母は、長時間車に乗っている自信がなくて、なかなか行くと言わなかった。

けれど、90歳と85歳ではいつどちらに何があっても不思議じゃない。

この辺りで一度行っておかなければ後悔するかもしれない。

そう思って、やっと重い腰を上げて、行ってみることにした。

母の体力ではとても日帰りは無理だから、母は伯母の部屋で、夫と私は近くで一泊することにした。

宿泊すれば、夕食と朝食は必要だ。

施設に電話して訊いてみると、有料でも一切外来者の食事の面倒はみないという答えが帰ってきた。

最近は、入寮者の家族が宿泊する場合、有料で食事を出してくれるところは少なくない。

まして、その施設はっきり行ってかなりの僻地にあるのだ。

それに、子供が遠くの都会で働いていると言う人も多いはず。現に伯母もそうだ。

「それじゃ、家族の方たちはどうなさってるんですか?」

と重ねて訊くと、

「みなさん、コンビニなんかで買ってご自分で用意してらっしゃるようですよ」

とのことだった。なるほど。

でも、その界隈にはコンビニどころか、店の類さえ一切ないのだ。

食べに出る飲食店もない。

入寮者の食事は出しているわけだから、一人分増えたからといってどうということもないだろうに。

何日か前に予約するとか、一泊に限るとか、規則を設ければいいだけのことだと思うけれど、何とも融通のきかないことだ。

そういう施設が姥捨て山にならないように、少しでも家族が来易いよう便宜を図るべきなのではないかと、私は思うけれど。

と言っていても仕方がない。

途中でコンビニ弁当を二食分買っていった。

 

ついてみると、施設は驚くほど立派だった。

そこで、出迎えてくれた伯母は、相変わらず元気で一安心。

 

母をおいて、私達は更に一時間ほど走って朱鞠内湖へ向かった。

その界隈唯一の観光地だ。

 

翌日、お昼ごろ母を迎えに行った。

久しぶりに姉妹で一晩語り合った後で、別れが辛いのだろう、伯母が母にもう一晩泊まって行ってと盛んに言う。

とはいえ、私たちにも都合がある。 

「また、連れてくるから」

と約束して帰ってきたけれど、少し切なかった。

途中の峠は、10月に入ったらいつ雪が降ってもおかしくない。

「また」は、来年の夏になるだろう。

それまで、二人とも元気でいてほしいと思う。

 

写真は、道路沿い一面のそば畑。

収穫が近いのだろう、茎が変色している。

もう少し早い時期だったら、真っ白できれいだったのだけれど。

少し残念。

 

 

 


母の日にエプロン

2011年05月07日 | 母のこと

昨日、母を連れてお買い物に行った。

いつも行く大型スーパーで、少し早いけれど、母の日のプレゼントを買うつもりだった。

数年前から、母の日のプレゼントはエプロンということになっている。

これは母の希望なのだ。

「エプロンなんか、母の日じゃなくてもいつでも買えるでしょう」と思うけれど、それがそうでもない。

母の理想のエプロンは、軽い生地で、丈はあまり長くなく、後ろ部分がたっぷりあってお尻まですっぽり隠れるタイプ。

早い話が、襟ぐりの大きく開いた、薄手のジャンバースカートのイメージだ。

ところが、見た目はそれほどとも思えないのだが、母のウエスト周りは結構すごい

タイヤ2本分くらいの贅肉に覆われている。

そうなると、着れるものというか入るものが、ふだんの品揃えの商品では、見当たらない。

普通の胴回りの人用はたくさんあるけれど、LLサイズはほとんどないのだ

 

それが、母の日が近くなってくると、わずかながらも出回ってくる。

やはり必要としている人が結構いるのだろう。

だから、ここぞとばかり、母の日のプレゼントとして買っているのだけれど、色や柄がどうのと言っていられない。

わずかな種類の中から選ぶしかない。

母が「あら、素敵!」と広げてみるエプロンは、どれも一目瞭然、母の胴回りには幅が足りないのだから。

「母さん、いい加減おのれを知りなさいよ」と、口に出しては言わないが、「見るだけ無駄なのに・・・」と、ため息をついてしまう。

 

20分ほどもあれこれ見て、母が選んだのは、黒白チェックの地にポケットにうさぎのついた1枚と、グリーン系縞柄で、猫がついた1枚。

「動物がついているのはあんまり好きじゃないんだけど・・・」と、気に入ってはいないようだけれど、仕方がない。

その2枚もいれて、3種類のデザインしかなかったのだから

 

「太るということは健康に悪いばかりじゃなく、思いがけないところで不便だな~」と、毎年 思うのだ。

 

 


母の小銭

2011年02月12日 | 母のこと

数日前、母を連れて買い物に行った後、部屋でお茶を飲んでいると、母が「これお願い」と言いながらテイッシュペーパーの箱を一回り小さくした位の箱を持ち出してきた。

それは、予想通りした通り母が溜め込んだ小銭だった。4000円近くあると言う。

五年くらい前から、年に一度くらい、そうやって母は小銭を出してくる。

買い物をしたときにもらったお釣りが溜まったものだ。

その大量の小銭を、私が銀行の母の口座に入金してくるわけだけれど、とても窓口に持ち込む気にはなれないからATMを使う。

ATMを使うと言っても、小銭は半分以上が1円玉、残りが5円玉、10円玉、50円玉だから、4000円分となれば2度や3度、4度や5度でも終わらない。

後ろに誰かが並んだら、その日はそれで終わりにする。とてもその場で頑張って続けるわけにはいかない。だから、車に積んでおいて何日かかけて入金する。

 そもそもどうしてこんなに小銭を溜め込むのかと、「お買い物の支払いの時に半端分を出せば良いじゃないの」、と文句を言えば「面倒くさいもの」と中学生のような答えをする。

冗談じゃない、その小銭を押し付けられる私の身にもなってほしいと腹立たしかった

でも、あるとき、スーパーのレジにならんでいた時のことだ。

私の前で、支払いをするおばあさんが、お財布の中の小銭をだそうとかき回しているのをイライラしながら待っていた。

そのとき、ああ、母はこうやって他人を待たせるのが嫌なのだと、気づいた。

そうか、だから、いつもお札を出しておつりを貰っているのだろう。

私はスーパーなどの支払いはクレジットカードだし、コンビニはお財布携帯ですませているから、現金で支払うことはほとんどない。

だから、迂闊にもそこに思いが至らなかったのだ

もっと早く気づいてあげればよかったけれど、それからは、母の小銭に腹立たしさを感じることがなくなった。

 

母のように片付けてくれる人が身近にいる人は良いけれど、いない人は何とか自分で使うしかないだろう。

そう思うと、レジでお年寄りがお財布の中から小銭を出すのに時間がかかってもイライラしなくなった。

そして、お年寄りにはもっと優しい気持ちで接したいとも思う。

それにしても、もう少し早く、せめて2000円くらいになったら出して欲しいな~

 

 

 

 


母の年金が増えそう

2008年04月10日 | 母のこと

母に年金お知らせ便が来た。

次々と3通も

1通目2通目にちゃんと「訂正なし」で返信している母は、ちょっとばかり切れて、と言うのは冗談だけど、一度社会保険事務所へ行って、自分の年金がどうなっているのか聞いてみたいと言い出した。

年金はもう貰っているんだし、お知らせ便にも2度も返信しているんだから、後はほっとけばいいんじゃないかと、私は思ったが、一度ちゃんと聞いてみるのもいいかと、今日母を連れて行ってきた。

 

社会保険事務所の係りの人が、一通り調べてくれて、「あなたの年金は間違いありません」と言うので、ああやっぱりねと帰ろうとすると、「あ、ちょっと待って」と引き止める。

そして、彼はコンピューターをパタパタ叩いて後で、どこかの家具会社で働いたいたことはありませんか?と訊いた。

同姓同名、同じ誕生日の人の記録があったらしい。

でも、何せ50年も前のこと、母の記憶は彼方に飛び去っている。

それでも、私にもうっすらとそんなような記憶があって、ああでもないこうでもないと言い合っているうちに、母の記憶も掘り起こされてきて、確かにとある家具会社で働いたことがあることが判明した。

その結果、年金が目出度く少し増えることになった。

そこで働いていたのは、ほんの3ヶ月だから、増える分もほんの少しなのだが、60歳から遡って貰えるという。

確かな金額はわからないということで、教えてもらえなかったが、20年分だもの、年に5000円だったとしても、結構な金額だ

もっとも実際にもらえるのは、早くて半年、遅ければ1年先だそうで、「忘れた頃のプレゼント」になりそうだ。

係りの人に、「生きてなきゃもらえませんからね、長生きしてください」と励まされ、母は苦笑いしていた。

それにしても、行ってみるものですねぇ