ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ファーレン・ヒーローズ(ヘリ部隊戦死者の肖像)〜「リトルロック」ベトナムルーム

2024-12-08 | 博物館・資料館・テーマパーク

エリー湖沿いにあるバッファローネイバルパークの展示より、
巡洋艦「リトルロック」艦内をご紹介しています。



兵員用の寝室を通りすぎ、次に進みます。
この廊下部分は鎖で通行禁止にされていました。
見学者は黄色い見学通路を表すラインのあるところしか歩けません。

廊下突き当たりに人の姿がありますが、そこは
見学通路のおそらく前方だと思われます。




大きめの縦型ロッカーがありました。
(兵員用のロッカーの一人分はせいぜい40センチくらい)

現在、キャンプ参加者が自分の使った後を掃除するための
掃除道具入れとなっており、箒とちりとりが一つずつ収納されています。

アメリカの教育現場では、日本の学校のように掃除をさせず、
それらは業者が行うことになっているのですが、
流石にボーイスカウトやこのようなキャンプでは自分で掃除をさせます。

「キャンプ終了時の区画の掃き掃除は各自の責任で行ってください。
ゴミはすべてゴミ箱に入れてください。」


という真っ当な?ことが書いてあって安心させられます。

キャンプ参加者だけでなく、例のシーカデットコーア
(青少年海軍組織)においても、この規則は厳密に守られ、
ロッカーの横には掃除をする場所が細かく明記された紙があります。

■ベトナムルーム


足元の黄色い線を進むと、次の部屋はベトナム戦争関連展示室でした。



この南ベトナムの地図ですが、北との国境より下の部分にあった
アメリカ軍の駐屯地を黄色いテプラで示しています。



左側の兵士のマネキンは、ベトナムでのフル装備。
首にタオルを巻いて、その端が軍服に固定できる仕様です。

全体写真のこのマネキンの足元には、
こみ袋のようなものが見えますが、これは
彼らがベトナムに装備していった「必需品」のようです。

■ 第282”ブラックキャット”強襲ヘリ中隊


この男性ですが、ダナンの近く、マーブルマウンテン飛行場に駐屯した
アメリカ軍のヘリコプター中隊、第282強襲ヘリ中隊、
通称「ブラックキャッツ」
のヘリパイロットの遺品をまとっています。

「ブラックキャッツ」は、ベテランのためのホームページを持っており、
その歴史を語り継ぐと同時に、戦死した仲間の顕彰を行っています。

ベテランの一人が始めたこのリユニオンは現在大きく実を結び、
今では600人もの名簿を持ちその名も「黒猫会」として活動をしています。


背中と尻尾の毛が(怒りで)逆立っている

つい宅急便を思い出すのが日本人

谷間を飛ぶヘリ部隊
使用機材はHUEY

「ブラックキャット・オン・ブラックキャット」
無理やりヘリの上に乗せられて怖がってる猫さん気の毒

ところでこのベトナムルームのマネキンが着ているスーツの持ち主ですが、
会報「黒猫ハウス」の記事によると、1968年5月10日、戦死した、

ジョセフ・A・レイクリン・ジュニアWO
Joseph A.Reichlin Jr.


であることがわかりました。

「レイクリン」という読み方は英語ならこうだろうという想像ですが、
ドイツ系だと「ライヒリン」「レイヒリン」とも読めるので、
もしかしたらアメリカでもこう発音していたかもしれません。

なお、WOは「ウォラント・オフィサー」の略で、つまり准尉です。

なぜこの人がクローズアップされているかというと、
それは彼が、ここバッファロー出身だったからです。



「バッファロー出身者二人を含む、戦死者最多の週」

とされたこの新聞記事には 、こうあります。

ベトナム戦争で最も血なまぐさい1週間で、
さらに2人のニューヨーク西部の男性の死亡が報告された。

アマースト通り569番地在住の
ジョセフ・A・レイクリン1/C准尉(22歳)
は、金曜日に乗っていたヘリコプターが撃墜され、死亡した。

また、着任して7日目の
ジェームズ・ヒル上等兵19歳)は、
土曜日の戦闘中に射殺され、先週のアメリカ人戦死者562人のうち、
この地域の戦死者は7名となった。

アメリカ人戦死者のトータルは戦争が始まって以来最高となり、
バッファロー出身の死者としてはこれが68人目と69人目となる。

レイクリン氏は、1月15日からダナンの第282突撃中隊で飛行する
陸軍ヘリコプター・ガンシップのパイロットだった。

ビショップ・ファロン高校を卒業後、1965年に
バッファロー州立大学で経営学の準学士号を取得している。

卒業後まもなく陸軍に入隊し、フォート・ポーク(ロスアンジェルス)、
フォート・ウォルターズ(テキサス州)、
フォート・ラッカー(アラバマ州)で訓練を受けた。

遺族は両親、ジョセフ・A・レイクリン夫妻、妹のダイアン・レイクリン。

バッファロー州立大は難易度でいうと5段階の3で、
64校あるニューヨーク州立大学群(SUNY)の本校です。
GPAも4.0満点の3.8ないと入れません。

なお、写真上のヒル上等兵(歩兵)については、以下の通り。

ヒル上等兵は1967年にイースト高校を卒業し、9月に陸軍に入隊した。

フォート・ディックス(ニュージャージー州)で基礎訓練を、
フォート・ベニング(ジョージア州)と
フォート・ジャクソン(サウスカロライナ州)で上級訓練を受けた。

ベトナムでは第26歩兵師団に所属。
遺族は両親、ジェームス・W・ヒル夫妻。



また、レイクリン准尉の死亡状況について書かれた別の記事によると、

ジョセフ・レイクリン准尉は、マーブルマウンテン南西、

トゥン・デュック付近で敵と交戦中に戦死した。

弾薬切れの中、ガンシップがドアガンで最後の追い込みをかけていた時、
レイクリン准尉は一発の銃弾に倒れた。

彼を乗せたヘリがマーブルマウンテンに帰投したとき、
Sp5ジェフ・ペレスが、報道陣に向かって、

「准尉の遺体の写真を撮ったらただじゃ済まさないぞ」

と威嚇したため、写真が撮られることはなかった。
乗組員は救護所でレイクリン准尉のために献杯を行なった。


ドアガンというのは、レイクリン准尉のマネキンの左上にある絵のこれです。


ヘリのドア付近のガンだからドアガンと言われています。
最初のドアガンはベトナム戦争の時に登場しました。


■ パラレスキュー「PJ’s」キング


ベトナム戦争といえばヘリコプター、のイメージがあります。

ヘリコプターがこの戦争で攻撃、輸送、そして救難とフルに活躍したのも、
ベトナムのジャングルの多い国土には最適だったからです。

飛行機の模型の後ろに飾ってあるのは、寄贈された
海軍ヘリパイロットが受賞した海軍メダルとリボンの数々です。

このコーナーで紹介されているパラレスキュー隊員、
別名「パラシュートジャンパー=PJ」ですが、米軍の全兵科にあり、
主に戦闘環境における隊員の回復医療を任務としています。

これらの特殊作戦ユニットはNASAのミッション支援にも使用され、
着水後の宇宙飛行士の回収にも使用されています。

NASAの宇宙ミッションに必ず海軍が協力するのはこのユニットが理由です。

彼らのモットーは、

"That Others May Live"(他者を生かす)

チャールズ・キング(これで23歳)


パラレスキューの偉大な伝統を体現した "PJ "の一人が、
アメリカ空軍の”ダグ” チャールズ・キング上級曹長でした。

1968年のクリスマス・イブのことです。

ラオスのバン・カライ上空でアメリカ空軍のF-105が撃墜されました。
パイロットのチャールズ・R・ブラウンリー少佐は脱出に成功し、
パラシュートは敵軍が占領している地域に着地したと目されました。

その時タイのナコンフェノム空軍基地の、
第40航空救助回収飛行隊に所属していたキング上級曹長は、
翌日12月25日、シコルスキー・シーキング捜索救助ヘリコプター、
HH-3E "ジョリー・グリーン・ジャイアント "
13号機と17号機2機のうち1機に乗り込み、直ちに現場へ向かいました。

現場指揮官は木立の中にパラシュートを発見し、
無線でブラウンリー少佐を呼び出そうと何度も試みますが、
返答はなく、ジャングルは暗闇に覆われて全く様子がわかりません。

夜間戦闘能力を持たない救難ヘリはNKPへの帰還を余儀なくされますが、
夜明けとともに「クリスマスに帰還を」目標に救難隊が再組織されました。

メンバーは、ウィリアム・キャメロン中佐(強襲隊司令官)、
ロバート・ヘロン大尉(副操縦士)、
ジャードロー・ケイシー軍曹(フライトエンジニア)、そして、
チャールズ・D・キング二等軍曹(パラ・レスキューマン)で、
全員が志願による参加でした。

地上から攻撃が始まる前にパラシュートの牽引を試みることにして、まず、
ヘリは木に引っかかっているパラシュートの上空にホバリングしました。

ケイシー軍曹は目視により、パラシュートの先にハーネスをつけたまま、
人がぶら下がっているのを確認しましたが、引っかかっているのが
地面からほんの2フィートの高さにも関わらず、全く動きません。

死亡している可能性もありますが、重傷で生きているかもしれません。
そこで、キング軍曹が森に降下し、救出することを申し出ました。

キングが降下を始めると、敵がヘリコプターに気づいて攻撃してきました。
最初はヘリを攻撃していましたが、キングに気づくと、彼を狙い始めます。

キングはブラウンリー少佐の身体からパラシュートを外すと、
パラレスキュー用のケーブルを装着し、引き揚げるよう合図をしました。

「撃たれた!撃たれた!引きあげてくれ!」

通常であれば、救助ヘリが前進飛行を再開する前に、
牽引している人は木の上まで引きあげられていなければならないのですが、
敵軍はすでに小火砲でヘリコプターそのものを狙ってきていました。

二人が木の上まで引き上げられるのを待ってホバリングしていれば、
間違いなくヘリコプターは撃墜され、
ブラウンリー少佐とキング飛行士は機体の下敷きになるでしょう。

指揮官キャメロン中佐はホバリングの中止を決定せざるを得ませんでした。

断腸の思いでヘリを上昇させる指令を下しましたが、
ホイストケーブルか何かが木に引っかかり、
何かが折れる音がしたと思った瞬間、キング軍曹とブラウンリー少佐の体は
約10フィート上空から地上に落下していました。

この落下で重傷を負い、敵の小火器による攻撃で負傷したキング軍曹は、
最後に無線でヘリの乗員こう呼びかけました。

" ジェリー、ここから脱出しろ。
奴らがもう俺の上に来ているから”
(ジェリーが何を/誰を指しているのかは不明)

ヘリコプターもダメージを負っていたのですが、やむなく上昇を始めました。
そのとき敵軍がブラウンリーとキングの上に群がっているのが見えましたが、
二人がいるとわかっている場所に攻撃を加えることはできませんでした。

その後、二日間にわたってキング軍曹らの捜索が行われましたが、
見つからなかったため、彼はMIA(任務中行方不明)扱いとなり、
そしてMIAとして上級曹長(Chief Master Sergeant )に特進しました。

二人に関するニュースはその後ずっと途絶えたままでしたが、
1986年2月、渡米したラオスの難民が、キング軍曹が捕まって、
トラックで連行されるのを見たと証言しており、その話の細部は、
そのアメリカ人がキング軍曹であると思わせるに足るものでした。

しかし、ブラウンリー少佐のその後についての情報はほとんどありません。



戦後、現地からチャールズ・ダグラス・キングの名前、兵役番号、
生年月日が書かれた身分証明書が発見されましたが、
元北ベトナム兵士で現地にいたという人の証言によると、

「パイロットがもう一人のパイロットをヘリコプターに引き上げていたが、
ケーブルが切れて、パイロットは二人とも死んだ。」

ということで、ヘリ乗員が知っている情報にとどまりました。




壁には、アメリカ軍の戦死者を意味する
「Fallen Heroes」のパッチが飾られていました。

チャールズ・キング上級曹長のエピタフは以下のようなものです。

あなたはもうこの世にいないかもしれない。

しかしあなたを知る人々の中にはいつもあなたの一部が生きている。
我々があなたを忘れない限り、あなたは生き続けるのだ。


続く。



最新の画像もっと見る

1 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
船を見に来て (Unknown)
2024-12-09 17:16:49
船を見に来て、陸軍のヘリコプターの展示があるってどうなんでしょうね。気にしない。気にしないって、感じなんでしょうか。
返信する

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。