ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

各国海軍はなぜ日本に集結したのか〜K氏提供写真その1

2024-08-30 | 軍艦

MKの卒業式が終わってすぐ帰国していましたが、最近アメリカにおります。

こちらにいる間、Kさんが来日した外国艦の写真を送ってくださっていたので、
今日はこれを皆様とシェアさせていただくことにしました。


撮影場所は横須賀、7月4日のアメリカ建国記念日のために満艦飾にしている

🇺🇸USS「ミリアス」Milius DDG-69

「アーレイ・バーク」級ミサイル駆逐艦で、ベトナム戦争で戦死した
ポール・ミリアス大尉の名前を戴いています。
2018年から横須賀をベースにしています。

■ メキシコ海軍の帆船



以前晴海埠頭に来た時に見学したことがあるメキシコ海軍の練習船、
🇲🇽「クアウテモック」号が横須賀入港したそうです。

マストに日本国旗を掲揚してくれていますね。
白い船体に帆、息を呑むような美しさです。



日墨友好415年周年記念の友好行事のための来日だとか。
415年前にすでに友好を結んでいたなんて、と調べてみると、

それはあの徳川家康が実権を握っていた時代に当たることがわかりました。

1609年、フィリピンからメキシコに向かう船が房総半島で座礁し、
付近村民の助力によって乗員の多くが助かるという事件がありましたが、
この出来事が日本とメキシコの友好関係元年とされているそうです。



マストなどに見える黄色いふわふわしたものは飾り?



練習用の帆船で地球の裏側からここまでやってきたんですね。
日墨友好。

■ トルコ海軍



日土外交関係100周年を記念して入港したトルコ海軍のコルベット、

🇹🇷TGC 「クナルアダ」Kinaliada Escapade-514



一般公開も行われたそうです。
メキシコとの友好関係成立きっかけと同じく、トルコは

日本近郊の海であのエルトゥールル号が難破し、それを付近住民が助けた、
というきっかけで日本に親しみを感じてくれている国です。

その「お返し」として、トルコはイラン・イラク戦争の時、
在イランの邦人を脱出させるために飛行機を2機も出してくれました。

■8月19日、横須賀


🇯🇵「まや」後甲板で乗組員総員集合中。


何をしているか分かる方おられますか。


ここにはいつも原子力空母が係留されていたのですが、この日は

🇺🇸強襲揚陸艦「ボクサー」Boxer LHD-4

が、オスプレイを満載して着岸していました。
艦名は米英戦争時に拿捕したイギリス軍艦「ボクサー」に因みます。



パナマ運河を通過できるように建造されたはずが、
いざ通ってみたら、あちこち引っかかったので出っ張りをなくした、
というなかなか愉快なエピソードを持っています。


Kさん、「軍港めぐり」の遊覧船に乗って撮影されたんですね。
この当時、気象庁発表の気温は35℃、しかし外気温は52℃だったとか。
この過酷な時期になんたる行動力。頭が下がります。

ちなみにコロナ以降カメラを一眼レフから
SONY RX100Ⅶに換装?されたということですが、
画質は全くと言っていいほど以前と遜色ないのに驚きました。



上部構造物から上の作りで、第一次世界大戦の時の
ドイツ軍のヘルメットの角を連想したのはわたしだけでしょうか。

ドイツ海軍のフリゲート、

🇩🇪「バーデン=ヴュルテンベルク」
(Baden-Württemberg, F 222)

ネームシップで、同級は州名を艦名にしているのですが、二番艦以降も、

「ノルトライン=ヴァストファーレン」F222
Nordrhein-Westfalen

「ザクセン=アンハルト」F224
Sachsen-Anhalt

「ラインハルト=プファルツ」F225
Rheinland-Pfalz

とやたら長くて、ニックネームでもないとやってられない艦名ばかりです。

さて、この「バーデン」(略)ですが、8月21日、
東京国際クルーズターミナルに来ていたようです。


内部の公開もされたのでしょうか。


ドイツ海軍のヘリコプター、初めて見ました。
アグスタウェストランドのMk.88A「シーリンクス」かな?

うーん・・・なんかやたらかっこいいなあ。鉄十字のせいかしら。

本型では、遠隔地において長期間に渡る任務を
少人数で安定的に遂行できることが設計目的に盛り込まれ、
それは具体的に以下の通りだそうで、驚かされます。

母港を離れての連続展開期間: 2年(24ヶ月)
海上での作戦時間: 5,000時間/年
大規模オーバーホール実施間隔: 約60ヶ月
乗員交代: 4ヶ月ごと(交代は48時間以内に完了)
母港を離れての連続展開期間: 2年(24ヶ月)
海上での作戦時間: 5,000時間/年
大規模オーバーホール実施間隔: 約60ヶ月
乗員交代: 4ヶ月ごと(交代は48時間以内に完了)

例えば原子力潜水艦は永久に潜航活動が可能ですが、
それがなぜできないかというと、「人間が保たない」からに尽きます。
同級は以上の条件で運用されているそうですが、本当にこの通りなら、
乗員に求められるのは何より健全な人格と心身のタフさとなるでしょう。

こういう職場に志願する若い人って、今ドイツにはいるんだろうか。



ちなみに東京国際クルーズターミナルは今こうなっています。
いつの間にかオープンしていたことに驚きました。


こちらは取り壊し中の旧ターミナル?

正面からのシェイプは独特です。

ドイツ海軍は今回自衛隊との共同訓練を行なっていますが、
もう1カ国はどこだと思いますか?

そう、あなたが想像したに違いないあの国です。

続く。



ミサイル レディルーム@ミサイルハウス〜USS「リトルロック」

2024-08-27 | 軍艦

タロスミサイル搭載巡洋艦、「リトルロック」のミサイルハウスに潜入し、
中の様子を発射シークェンスの説明とともにお送りしております。

取り合えず前回は、甲板からミサイル、ブースター、弾頭が積み込まれ、
それがどこに、どのような手順で格納されるかについて説明しました。


今日は、この図の緑部分、レディサービスエリアについて。
レディサービス、つまりミサイル発射準備室です。

ミサイルハウス全体は、大きく二つの独立したコンポーネントにわけられ、
そこでミサイルの保管、移動、準備、装填、発射までが行われます。

今日はストレージから移動して発射準備室に行くところからです。

Talos Missile Handling • Cruiser Installation

海軍作成のタロスミサイル説明ビデオ、今日は6:43〜からご覧ください。

ビデオの文言は青字で示してあります。

さて、マガジン(弾倉)から準備室までどうやってミサイルを動かすか。



まず弾倉からこのレールのカートにミサイルを載せます。



準備ができたミサイルはサービストレイに保管され、装填されるが、
その際ハンドリングバンドは取り除かれる。

そしてミサイルはストライクダウンエレベーターで
動力移動カートによって移動させられる。

パワーカートはブースターを準備サービスエリアまで運び、


それを嵌合スタンドに配置する。
ブースターの「シューズ」を用いて、
準備サービスのクレーンが組み合わされたものを吊り上げる。



右手のパワーカートにマガジンから出されたミサイルが載せられています。
この状態から、ミサイルは左のクレードルに移されるのです。


これは反対側(左舷側)のもう一つのパワーカートのレールです。
持ち上げるためのフックとクレーンは黄色く塗色されています。


ミサイルの乗ったカート部分を反対から見るとこうなります。
(艦内展示の写真)



天井のクレーン(F)は、武装したミサイルを持ち上げて、
(G)のクレードルと呼ばれるラックに移します。

どうやって持ち上げるかというと「C」と書かれたカートが、
ミサイルの「シューズ」を引っ掛けて持ち上げ、それをクレーンが運ぶのです


これがクレードルの端。
電池のマイナス受け部分みたいな丸いストッパーが付いています。

ストッパーは、ミサイルの後端をホールドし、
船が激しく動揺するようなことがあってもクレードルに保持します。

クレードルはここの説明によると「回転する」そうです。
メリーゴーランドのようにミサイルを乗せて回転し、持ち上げるのでしょう。


クレードルにミサイルが載せられた状態です。

ミサイルに93とありますが、これは何を表すのかわかりません。
撮影されているのはUSS「オクラホマシティ」CLG-5のミサイルです。
タロスミサイルの通算番号があったりするのかな。

もう一つついでに、英語ではTALOSを「テイロス」と発音しています。


ミサイルを載せたクレードルは、ミサイルが
トラック(H)の下に来るまで回転します。

トラックの下部は吊り下げ式のモノレールのレール部分のようになっていて、
これでミサイルを発射口方向に運んでいきます。


左舷側のクレードル。
トラックに結合したミサイルは移動していって・・、


写真の黒いドアを通過して前方に運ばれていきます。

この先でミサイルは制御フィンを追加され、

アーミングプライマープラグを取り付けられるための
「ウィング&フィン組み立てエリア」に入っていくのです。

続く。


ストレージエリア@ミサイルハウス〜タロス巡洋艦「リトルロック」

2024-08-23 | 軍艦

タロスミサイル巡洋艦USS「リトルロック」。

乗艦するといきなりタロスのミサイルハウスの中に入っていくという
今までアメリカで遭遇したどの軍艦にもなかった体験です。



前回使った図(キャプチャした映像を元に制作)でいうと、
見学通路はピンクの線となっていました。

つまり見学順で言うと、最初に最終工程を行うエリアを見るわけですが、
それだとわかりにくいので、見学していない皆様のために、
ミサイル発射過程に沿った順で、ストレージ部分から写真を挙げていきます。


その前にまずタロスミサイルの図をご覧ください。
ミサイルは大きく三つのセクションに分けられます。

1)ブースター
2)誘導装置(ミサイルアッセンブリーガイダンス)とエンジン
3)弾頭

ミサイルが飛ぶ仕組みは、先端のインテイクから空気が入り、
それが圧縮され、中央部の燃料で点火されて、
ブースター部分から排気ノズルを熱い排気ガスが噴出するという、
まさに3行で無理やり説明すればそう言うことになるわけです。


そして、艦に搭載されるとき、2)の誘導装置と3)の弾頭は
接続されない状態で別々にストレージのラックに格納されます。

Talos Missile Handling • Cruiser Installation

ビデオの5:17からは、まず梱包された状態のブースターが
デッキからストレージに格納されるまでの様子です。
青字はビデオの解説を翻訳した文章です。

■ ミサイル&ブースターのマガジン収納



ドックからの典型的なローディングシーケンスについて。

まず、このストライクダウンエレベーターに乗っているブースターは
ミサイルハウスのマガジンまでエレベーターで降ろされ、
エレベーターに乗せたまま、ミサイルマガジンに到達させる。



するとこのクレーンがブースターを上から持ち上げる。



黄色いクレーンがブースターを持ち上げ、支柱が外されると、
上の写真のグレーの部分がマガジンを横断し、
黒いラックの収納場所までブースターが運ばれ、設置される。





ストレージのこちら側には操作ボタンのついたバーがありますね。
ここからストレージ内でクレーンを操作しました。

おそらく「クレーンゲーム」はこの操作が基本になっていると思われます。
こちらはターゲットを掴み取るだけではなく収納する動きもするわけですが。



ミサイルも同じくストライクダウンエレベーターで下ろされ、
ブースターと同じ方法で、同じストレージラックに収められます。

なお、取り扱いのために、ミサイルとブースターには
特別なバンド(ハンドリングバンド)が取り付けてあります。



ハンドリングバンドには周囲に「シューズ」と呼ばれるフックがあり、
ユニットをマガジンラックに収納する際上部シューズを使って吊り下げる。

バンド側面のシューズは、ユニットをマガジンの支柱に固定するために使う。

■マガジンからの取り出し方

通常平時作戦中、タロス巡洋艦は30発のミサイルをマガジンに搭載した。

そのうち15発はそれぞれのランチャーアームに7発ずつ、
予備として14発が準備サービスエリアに収納されていた。
(あれ?計算が合わない・・・)



そのラックとは、この写真でいうところの「A」(下の黄色い丸)のこと。

そしてここに水平に格納されている1)と2)は、
写真で黄色い丸Bと記されているクレーンによって持ち上げられ、



その後この「C」のストライクダウンカートに乗せられ、
二つのセクションは嵌合(連結)させられます。

■ 弾頭セクション


それでは弾頭部分はどこにいくかというと・・。

予備の弾頭セクションは巡洋艦の特別なマガジンに保管される。

天井に設置されたバイ(二重)レールホイストを使って、

奥の天井に見えているグレーがレールホイスト片側

弾頭セクションをデッキチョックchock(動き止めの楔のこと)から
マガジンを横切ってエレベーターまで運ぶ。

エレベーターはホイストに取り付けられた弾頭部分を
セカンドデッキまで上昇させて運ぶ。

そこには弾頭セクションが弾頭ポジショナー(位置決め装置)があり、
弾頭部分を垂直に立てるようにに動かされる。


起立した弾頭

弾頭部にはホイストが取り付けられており、

チェックアウトエリアまで釣り上げられ、そこでミサイルに嵌合される。

■ 電気安全上の注意



ここで現役時代からあったらしい安全上の注意掲示板がありました。

一般的注意事項

1、電気機器の修理およびメンテナンスは、
許可された担当者または指定された担当者のみが行うものとする

2. すべての電気リード線は、メーターまたはテストランプでテストされ、
良好な状態であることが確認されるまで、
生きている( ALIVE )とみなされるものとする

3. 活線回路の周囲で作業する者は、特定の使命を達成する場合を除き、
電圧に関係なく、1フィート以内に近づいてはならない

4. 回路が通電しているかどうかを判断するために素手を使用することは、
低電圧であっても致命的となる可能性があり、固く禁じられている

5. ヒューズボックス、ジャンクション・ボックス、レバー式ボックス、
および配線付属品のカバーは、いつも閉じていること

6. 機械的傷害を受けやすいゾーンにあるケーブルはすべて、
金属製のケーシングで保護すること

7. 携帯用ケーブルはすべて、スプライス(継いだ部分)がなく、
適切な長さで、電流要件に十分な断面積を有すること

8. 開いている電気機器の上に、金属製の緩い物品
 を持ち込んではならない (ポケットなどに入れることも不可)

9. 配電盤、制御機器、皿盤、またはその近傍に、
異物を収納したり、挿入したりしてはならない
配電盤、制御機器、パネルなどに異物を収納したり、
その近くに挿入したりすることは、固く禁じられている

10. 電気機械(特に増幅器)を固定したときに帯電する電荷は、
場合によっては激しい感電を引き起こすので、作業前には必ず接地すること
通電していない回路に接続されたコンデンサーや、
完全に切り離されたコンデンサーに触れる前に、端子を短絡させること


電気関係を取り扱う職場では至極当たり前な注意です。
あとは略して、最後の「もし火災が起きた時」の部分だけ翻訳します。

電気火災の場合

(a) 回路の通電を遮断する

(b) OODにメッセンジャーまたは電話で状況を報告する


(c) 周辺の換気を確保する


(d) 炎の根元に向けてCO消火器を使用して消火する


(e) 他の消火剤を使用する前に、場所、空間の広さ、
発生するガスなどを考慮すること


これも軍艦だからという特例はなさそうな一般的な対処ですが、ただ、
(b)の「OOD」とはオフィサーオブザデック甲板士官のことですね。

そして(d)のCO消火器とは、二酸化炭素消火器のことです。
電気絶縁性に優れているため、電気設備関係の火災に使われます。

消火剤として不活性ガスが用いられています。

続く。



ミサイルハウス〜タロス巡洋艦「リトルロック」

2024-08-20 | 軍艦

さて、タロスミサイル搭載巡洋艦として展示されている、
バッファローエリー郡開示軍事公園のUSS「リトルロック」、
ファンテイルから、いきなり核心のミサイルハウスに入っていきます。



ドアから中に入ると最初に見える景色がこれ。
上の階には戦闘ヘルメット着用の乗組員の姿が見え、
その手前のはどう見てもミサイルのクレイドル。

下方の窓には、運用当時からのプレートがあり、それには

I -126-1
MISSILE WINGS-FINS&BSTER STOW
C-108 M

ミサイルウィングとフィンは、ミサイルに取り付ける翼とフィン、
これは知ってびっくりしたのですが手動で取り付けます。

そして後半はブースターストレージ、ブースター倉庫です。

各ウィンドウには公園の所有を示すシール付きのアクリルが貼られています。


せっかくなので上の人をアップにしてみました。
横にあるのは人工呼吸の方法です。
そういう状態がいつ起きても不思議ではない持ち場ってことか?

で、ここはなんなのという話ですが、ここにあった説明は
ディシジョンポイントを意味する赤い看板に書かれています。

ミサイルハウス

艦内で最大の区画であるこの部屋は、
50発のミサイルを格納し、テストし、整備した。

飛距離約65マイルのこれらのミサイルは、

冷戦中に敵のジェット戦闘機の脅威が高まっていたことを受け、
地対空ミサイルとして設計されたものである。

これらのミサイルと格納庫の追加は、

1957年から1960年にかけて行われた改装における
最もダイナミックな変化であった。


入ってすぐのこの一帯を

ファイナル・アッセンブリー・エリア
(最終組み立てエリア)

といい、このビデオの放映されているガラスの向こうは
ミサイルを組み立てるための最終準備が行われた場所です。


ところで、放映されているビデオですが、
現地ではもちろん先を急ぐ身であるため見ておりません。

ループされているのは、タロスミサイルの弾頭、ミサイルブースター、
そして艦内のミサイルハウスの基本的な操作に関するもので、
かつては機密扱いだった13分間の海軍制作による軍事訓練フィルムです。

ちょうど私が通りかかったとき、エンディングで
製作者の氏名がテロップに出ていたため、それを元に検索したら
YouTubeに上がっていたので、上げておきます。

教育ビデオなのでまさに誰にでもわかる内容となっていますが、
自動翻訳機能がなかったので、全編翻訳して青字で記します。

Talos Missile Handling • Cruiser Installation


本映画で概説されている手順は、
あくまでも目安であり、ガイドにすぎない。
具体的な内容については、最新の技術資料をご参照ください。

タロスランチャーを装備したUSSオクラホマシティのような艦は、いずれ、
切れ目ない警戒と準備万端な艦隊の長距離防御として海を席巻するだろう。

タロス、それはビームを搭載したラムジェット推進ミサイルであり、
艦対空、


あるいは艦対艦

のためにデザインされていて、
基地でミサイル搭載のために準備された
通常弾頭または核弾頭のいずれかを装備可能である。

この弾頭はMk.30mod0 の核弾頭で特別にタロスミサイル用に設計された。
備蓄コンテナ内の弾頭は、導通試験機で検査される。


弾頭は、適応キットのコンポーネント組み立てのために
弾頭メンテナンススタンドに設置される。


本体内部セクションは弾頭取り付け部分に固定されており、


内部本体はミサイルのラムジェットエンジンの空気拡散器として機能する。
これから弾頭部分が適切にミサイルと嵌合されているかを試験する。


予備の弾頭セクションはコンテナに梱包され、
緊急予備として巡洋艦に運び込まれたものである。

ミサイルには巡洋艦に輸送する前に燃料が充填されている。


ミサイルはドックからは通常の操作によって積載され、
ミサイル格納庫の
”ストライクダウンエレベーター”に積み込まれる。


巡洋艦のミサイル格納庫には2基のエレベーターが、
両舷に一つずつ装備されている。
エレベーターはミサイル、あるいはブースターを乗せて、
それらをマガジンまで降ろし、そこに収納する。


マガジンからは4本半の移送レールが出ており、
動力カートがミサイルを載せ、
準備サービスエリアを通って
最終的に二つの
チェックアウトエリアまで運ぶのである。




準備サービスエリアに保管されているミサイルは、
まず
メイティング(嵌合)エリアの最初の位置に配置される。

動力カートはブースターをこの嵌合ステーションに運び、
ミサイルとブースターは嵌合され、組み合わさったものは
準備サービストレイに収納される。

続いてセンタートレイホイストがミサイルを
ローダーレールまで持ち上げ、さらにそれは
「ウィング&フィンエリア」まで運ばれ、ここで
ミサイルとブースターは発射されるため
ランチャーアームにセットされる。

見学者は、上の図の左下角の「最終工程」を行うところから入り、
エリア2の準備サービスエリアを抜け、マガジンまでいき、
ミサイルハウスを時計と逆回りに歩いていくことになります。


続く。






USS「リトルロック」ファンテイル〜バッファローエリー郡海事軍事公園

2024-08-11 | 軍艦

バッファロー・エリー郡海事軍事公園に展示されている、
軽巡洋艦あらためミサイル巡洋艦「リトルロック」、
そのラッタルを上り切らないうちに第一回目が終わりました。

「リトルロック」構造物に装備されている、
タロスミサイルのシステム関連装備をご紹介したわけですが、

いよいよ甲板に到達します。



どおおお〜ん。
ラッタルを上がったらそこはトイレの入り口だった。
この木製の構造物は階下のトイレにつながる階段の上にあります。

なんか色々と書いてあるので一応見ておきましょう。

あなたの安全のためにやってはいけません
バリアを超えないこと、スィッチを動かすこと、
バルブを回すこと、ハンドルを引いたり、垂直ラッタルを上らないこと


軍艦見学の基本です。
そして早速この場所についての説明がありました。

ファンテイル(扇状艦尾)


USS「リトルロック」が就役したとき、
第二次世界大戦は終わりに近づいていましたので、
彼女は4年間、南米沿岸、米国東部、地中海を巡航していました。

戦後1949年に退役し、予備役を経て1960年に現在の姿となりました。

かつてファンテイルにはヘリコプターのプラットフォームがあり、
要人訪問の際にはここが集まる場所となっていました。

ヘリコプターというからには再就役後の話だと思うのですが、
このトイレへの入口のところがプラットフォームだったんでしょうか。


で、その下、わたしは全く艦内でこの色分けに気づいておらず、
今になってこんなことをしてくれていたのかと思ったわけですが、
つまり展示パートごとに四つのカテゴリが一目でわかるように

🟦 乗組員スペース
⬜︎士官スペース
🟧 枢要部(Vital Operations)
🟥意思決定機関(Decision Points)


バイタルオペレーションズを枢要部、
ディシジョンポイントを意思決定機関と訳したのは
正式な日本語の軍事用語が思いつかなかったからですが、
何をもってそういうのかは、見学していけばわかるかもしれません。

CICが意思決定機関の一つであることは確かだと思うのですが。


ミサイルの下にタロスミサイルとレーダーシステムの説明あり。




前にも書きましたが「リトルロック」の上部構造はデュアル式です。
その後部がこれで、構造物の右側に繋がっている黄色い線が見学通路。

黄色い線は構造物右手のドアに繋がっています。

TALOS MISSILE
タロスミサイル



RIM-8と名付けられたタロスは、1959年から1979年まで

最も印象的な米艦載ミサイルだった。

USS「リトルロック」には48発のミサイルが搭載されていた。
タロスは空中、地表、陸上の標的に対して使用することができた。

タロスミサイルの後期バージョンは、8万フィートまで飛ばすことができ、
時速1,400マイル以上で100マイルの範囲を持っていた。

タロスミサイルは通常弾頭または核弾頭を搭載する能力を持ち、
地対空バージョンはベトナムでも活躍し、合計3機のミグが
巡洋艦「シカゴ」と「ロングビーチ」によって撃墜されている。

タロスは2段式ミサイルであり、後部は固体ロケットブースターで、

ミサイルを空中に押し上げ、速度まで上昇させる。
この時、十分な空気圧が内部のタービンを回転させ、
ラムジェットエンジン(ミサイルの中央部)に点火する。

SPG-49
TALOS GUIDANCE RADAR SYSTEM
タロス誘導レーダーシステム

「オクラホマシティ」のSPG-49

SPG-49は1947年に設計され、1979年末に
タロスミサイルシステムと共に廃止された。

SPG-49は初期の設計で洗練されていなかったため、
豪雨時の航続距離は29海里に短縮され、
平均故障間隔はわずか30時間だった。
後継機として提案されていた「AN/SPG-51E」のキャンセルにより、
タロスの運用は終了した。

外部システムは2つの大型ドームで構成され、
ドームの上下にある2つの小型レーダー・ディッシュから送信された、
目標から跳ね返ったリターン信号を受信した。


さて、ファンテイルから構造物内、ミサイルハウスに入っていきます。


壁に貼られている赤い目標、それはディシジョンポイントの印。

ミサイルハウスへ

大きな青いタロスミサイルが、
どのようにしてランチャーに搭載されるのか見たい?
右前方に向かい、ハッチを通ってください。
それが最初の目的地だ!

って何気にクェスト風だ!
ミサイルハウスがディシジョンポイント?
ってことは「意思決定」とはちがうような気が・・・。

まあいいや、それは後々解明するでしょう。

中に入っていきます。

続く。

軽巡洋艦 USS「リトル・ロック」に乗艦〜バッファローエリー郡海事軍事公園

2024-08-08 | 軍艦

バッファロー海事軍事公園がCOVID-19の閉鎖から復活し、
内部公開を始めたので満を持して見学してきたシリーズです。

まだ中が公開されていなかった「ザ・サリヴァンズ」の甲板を通り、
そこから隣に係留されているUSS「リトル・ロック」にいよいよ乗艦します。


「リトル・ロック」へのラッタルは、「ザ・サリヴァンズ」甲板から
まるまる2階分くらいの高低差を隔ててかけられています。

リトルロック=小岩。

この「クリーブランド」級軽巡の艦名は、
命名基準である、都市名からもたらされたものです。

小岩が東京にあることは知っている人も多いと思いますが、
リトルロックがアーカンソーの都市であると知っている人は
偏見ですが日本人にはあまりいない気がします。

「リトルロックはアーカンソーの小岩」

とか誰うまなことを以前書いた記憶がありますが、都市の立ち位置はともかく
小岩とリトルロックの大きな違いは、治安かもしれません。

リトルロックは現在「全米の危険な都市トップ25」に名前を連ねており、
南部であることから、残念ながらヘイト事件も起こりがちな土地柄。

1957年には有名なヘイト騒動「リトルロック高校事件」が起こり、
それでアメリカ人の間では都市名が認知されています。


リトルロック高校の九人の初代黒人学生のうち一人
後ろの女生徒はその後の人生かなりハードモードだった模様

まあ、それは歴史の一面にすぎませんし、治安問題はともかく、
南部の自然豊かな地域の一都市であると認識すればいいかと思います。

USS「クリーブランド」

ネームシップの「クリーブランド」CL-55は就役1942年。
2番艦以降のUSS「コロンビア」「モントリピア」などと共に、
ガダルカナル、ブーゲンビルの攻略のために投入されました。

「リトル・ロック」は「クリーブランド」級の30番艦(全40隻)でした。


進水こそ1943年でしたが、1945年6月に就役して

慣熟訓練中に終戦になってしまったので、申し訳程度に訓練した後、
1949年には早々と予備役艦隊入りして出番を待っていました。

彼女がミサイル巡洋艦という新しい役目を得て復帰したのは
1957年5月23日のことです。

奇しくもこの5月23日は、リトルロック高校事件の遠因となる
「分離教育撤廃」が宣言された日でもあります。
(これを受けて九人の黒人学生が選ばれ、9月入学の後ヘイト騒動になった)


際就役後、艦番号は、それまでのCL-92から
Guided Missile Light Cruiserを意味するCLG-4に変わりました。


互いの甲板同士を繋ぐ吊り下げ型のラッタル。
この高低差が駆逐艦と軽巡洋艦の艦体の違いを表します。


「ザ・サリヴァンズ」と「リトル・ロック」の間には、
おそらく浮き桟橋ではない構造物がガッツリとかまされております。

「ザ・サリヴァンズ」が着底した事故でもわかるように、
当海事軍事公園では、船は浮いた状態で展示されていますので、
杭には両艦からの舫がかけられています。

「リトル・ロック」と桟橋の間には、接触してもいいように
硬化ゴムのようなクッションが咬ませてあるのがわかります。

事故の時の写真と見比べると、構造物の左側の手すり、
このクッションは「ザ・サリヴァンズ」修復工事の後付け足されたようです。

(アップしてみるとステージ様の部分は素材が新しい)


着底事故の時「ザ・サリヴァンズ」は岸壁に向かって倒れたため、
間の構造物と「リトル・ロック」は無傷ですみました。

余談ですが、この事故の後、公園側は船を救うための寄付を募り、
多くの市民や地元企業が名乗りを上げ、
チャリティイベントなどが行われて資金が調達されたそうです。


後少しで甲板に到達、というところで
いやでも目に入ってくるブルーのミサイル。
そう、これが「リトル・ロック」に後から搭載された重要な装備です。


前回来た時に撮った写真。
こういうのは岸壁からの方が全体像がよくわかります。

ミサイル巡洋艦に換装されて以降、「リトルロック」は、
「ガルベストン」級の2番艦となりました。
同級は

CLG-3「ガルベストン」USS Galveston
CLG-4「リトルロック」USS Little Rock
CLG-5「オクラホマシティ」USS Oklahoma City

の3隻で、いずれも「クリーブランド」級からの改装です。
ガルベストンはテキサス州の都市です。



ここでもう一度「ザ・サリヴァンズ」甲板から
「リトル・ロック」の艦体を見上げてみます。

外付けされているミサイルシステムを確認していきましょう。


「リトルロック」ら「ガルベストン」級に搭載されたのは、

Bendix RIM-8 Talos
ベンディックス タロス長距離艦対空ミサイル

で、これは以前にも散々?紹介しております。

過去ログ:ガルベストン級ミサイル巡洋艦「リトル・ロック」


そしてこの部分、前回は名称が分からずそのまま放置したのですが、
今回はちゃんと調べがつきましたのでご報告。

AN/SPG-49 Target Tracking Radar
ターゲットトラッキングレーダー

つまり誘導レーダーであることが判明しました。



上面 正面 左側面 右側面

上から順に、

外部モーターによる取り付け、デッキ取り付け
ポールマウント、外部モーター付き
外部モーターなし、デッキ取り付け
外部モーターなし、ポール設置


の設置状態です。
画像が小さいので4種類と言っても何が違うのと思われるかもしれませんが、
要は取り付ける場所とかマウントの違いで、本体は同じものです。

写真の2基のSPG-49ミサイル追跡レーダー・アンテナは、
海抜約77フィートと92フィートの後上部構造に取り付けられています。


トラッキングレーダーの左にあるのは、

AN/SPW-2

ミサイル誘導送信トランスミッター(アンテナ)です。
一つは前方に、もう一つがここ後方に設置されています。

これ自体がぐーるぐーると回転するもので、
さらにアンテナディッシュの中心についているコーンそのものは
1分間に30回転してビームを生成していました。

ここからは見えませんが、後部にはアンテナの位置合わせをするための
小型の光学望遠鏡が設置されていて、ディッシュの穴から覗きます。



星形の穴、この後ろに望遠鏡があり、覗きながら位置合わせを行います。



トラッキングレーダーに描かれた「ミサイルにまたがるドワーフ」。
これはミサイルセクションだけのマークで、
「リトルロック」の部隊章とは全く違うものです。



もう一つのレーダー(下側)のマークはミサイルそのまんま。



手前に写っていてお皿が向こうを向いているアンテナは

AN/SPS-30

3-D航空機捜索レーダーです。

このシステムで目標の範囲、方位、高さの情報を検知します。



前回の写真をアンテナ部分だけ切り取ったもの。

楕円形のパラボラ反射鏡の横に長いアーム状のものが見えますが、
先端にあるのが「オルガンパイプ」スキャナアセンブリで、
これを上昇させることで幅広い角度でターゲットを追尾することができます。


AN/SPS-10A

ついでと言ってはなんですが、水上捜索レーダーです。
このメッシュ?の部分を、英語では「スパイダー」というようです。


スパイダーウェブじゃないんだ・・。



レーダーやアンテナの下方、ミサイル飛翔体の後ろには、
8の字のような形のハッチがあります。


これはブラストドア。

ミサイルが内部システムで旅をして、最後に
甲板のランチャーに装填されるわけですが、
この「ブラストドアセクション」がその時開くというわけです。

今回興奮ものだったのは、その内部システムを実際に
中に入って見ることができるという体験でした。

さあ、それでは次回、いよいよその部分に突入します。


続く。





カミカゼ特攻との対決〜USS「ザ・サリヴァンズ」

2024-08-02 | 軍艦

前回、「ザ・サリヴァンズ」の第二次世界大戦中の対空戦闘について、
太平洋戦線の途中までの戦歴を追ってみました。

「ザ・サリヴァンズ」シリーズ最終回の今日は、彼女の対空戦闘、
主に日本の特攻機との交戦について、実際の特攻出撃記録を見ながら
辿っていきたいと思います。

【1944年10月〜悪夢の台湾沖】



台湾と沖縄を空襲する空母を護衛していた「ザ・サリヴァンズ」は
ここで初めてというべき熾烈な航空戦を経験します。


レーダーが最初の日本軍機1機を発見したのを皮切りに、6時間、
約50〜60機が米機動部隊に絶え間ない航空攻撃を浴びせ続けました。

日没になってからも一式陸攻「ベティ」がやってきてこれを撃墜。
その後5機を撃墜。
この日は1日中対空射撃を続けていたことになります。

12日の2105から日を跨いで13日0235まで、
日本軍の航空隊は、アメリカのレーダー通信を妨害するために
「チャフ」を用い、照明弾で暗闇を照らして攻撃してきました。

これに対抗して「ザ・サリヴァンズ」らは煙幕を張り、
靄を作って敵パイロットの目を欺こうとします。

一連の戦闘で巡洋艦「キャンベラ」(CA-70)「ヒューストン」(CL-81)
が損傷し、彼女はこれを護衛してウルシーに撤退をしています。

撤退中、攻撃してきた「フランシス」(銀河)
「ヒューストン」にダメおしの損害を与え、修理不可能にしました。

このとき、「ザ・サリヴァンズ」は「ヒューストン」を攻撃した
銀河を2機共同で撃墜しています。

【1945年3月20日 九州沖 特攻】

「エンタープライズ」と並んで給油作業をしていた「ザ・サリヴァンズ」は
神風特攻隊の警報を受け色めき立ちます。

この日公式に出撃した特攻は、調べたところ、

坂口昌三大尉(海軍機関学校47)
大川軍平飛曹長(乙飛8)
柳本拓郎飛曹長(操練42)
竹園良光飛曹長(偵練?)
清水松四郎上飛曹(偵練14)
梅木留治飛長(普電練66)

この6名を乗員とする鹿屋基地から出撃した銀河1機のみとなっているので、
彼らが2機撃墜した、と言い張るのには疑問が生じます。
(陸軍からも4月20、21日の特攻出撃はない)

それにしても、特攻機隊長が海軍機関学校卒というのは驚きです。
そして「普電練」とは、普通科整備術練習生のことです。
電信員として乗り組んでいたのでしょう。

このとき彼らは駆逐艦「ハルゼー・パウエル」に突入を果たし、
その結果発生した火災は消火されたものの、
12名が死亡、29名が負傷、操舵不可能という状態にしました。

「ハルゼー・パウエル」はウルシー環礁まで後退し、修理を行いました。


続いて3月21日には、鹿屋基地から第一神雷「桜花」隊、
桜花を載せた陸攻隊、神雷攻撃隊など
あの野中五郎少佐を含む特攻の大編隊が出撃しており、
「ザ・サリヴァンズ」が遭遇したのはその中の銀河1機と思われます。

■ 沖縄

「ザ・サリヴァンズ」は沖縄上陸作戦を支援する空母を護衛しました。
それはまさに、あの
世紀の超駄作「オキナワ」に描かれた世界です。

15日のレーダーピケット任務中、特攻機1機を撃墜。
4月29日には「ヘーゼルウッド」(DD-531)
「ハガード」(DD-555)が特攻を受けました。

この日の特攻は菊水六号作戦鹿屋出撃の第9建武隊など爆戦の部隊でした。


指揮官は慶応、関西大学、東京農大、中央、立教、明治、
東京帝大、名高工(現名古屋工大)横浜商専(現横浜市大)
北海道大学、早稲田大学出身の、つまり学徒士官ばかりでした。

名前を挙げてみると、およそ日本の一流あるいは有名校を網羅しています。


神風特攻はアメリカ海軍の水上艦乗員を最後まで苦しめました。

全ての舟艇が特攻パイロットの標的となり、いつ来るかわからない攻撃は
アメリカ軍の将兵たちの神経を極限まで追い込んだと言われます。

そして5月11日の朝、早稲田大学出身の小川清大尉(死後二階級特進)
が操縦する爆戦(零戦)がUSS「バンカーヒル」に激突しました。

爆戦、とは、水面に対し水平に低く石を投げると
何回か水面状を跳ねる原理を応用して、
250kgの爆弾を積んで超低空、かつ最高速度で敵艦に近づき、
爆弾を投下する攻撃法を用いる零戦をこう呼んでいたものです。


小川機突入後の「バンカーヒル」

「ザ・サリヴァンズ」は直ちに空母の救援に向かい、
一時艦内を焼き尽くした火災を逃れて海に飛び込んだ166名を救助し、
彼らを他の艦船に移送する任務を行いました。

そして5月14日朝の空襲で、勇敢な老戦士USS「エンタープライズ」
菊水六号作戦の別隊である第6筑波隊と第2魁隊、
第8七生隊、第6神剣隊の爆戦隊が襲いかかりました。

この日の部隊はそのほとんどが学徒士官で、上記大学以外では
京都帝大、九州帝大、日本大学、同志社大学、拓殖大学、専修大学、
國學院大学、大分師範(現大分大学学芸学部)法政大学、
宇都宮高等農林学校(現国立宇都宮大学)京都師範(現京都教育大)出身と、
予科練出身は全体のうちわずか6名しかいないという
陣容でした。

この乱戦で4機の敵機が撃墜されましたが、そのうちの1機は
「ザ・サリヴァンズ」の攻撃によるものでした。

そしてこれが第二次世界大戦中の最後の戦闘行動となったのでした。


■ 1951年〜朝鮮戦争

戦後働きすぎた艦体を休めるべく予備役に入った「ザ・サリヴァンズ」ですが、
1951年、朝鮮戦争の勃発を受けて再活性化し、今まで戦っていた国、
日本に初めて向かうことになります。

10月10日に佐世保に到着し、第77機動部隊に加わった後は、
MiG15と戦うF9Fパンサーの支援を行いました。

流石にこの時代には対空砲で敵機を撃墜することはないので
対空砲の出番はありませんが、艦砲射撃の威力は健在でした。

主に国連の地上部隊を支援するために列車、トンネル、
鉄道車両や車両基地を砲撃し、北朝鮮軍の地上砲を破壊したこともあります。

■ その後退役まで

朝鮮戦争終了後「ザ・サリヴァンズ」は東海岸と地中海で活動しました。

レバノン紛争に介入する海兵隊の支援を行ったり、
海軍兵学校生徒の訓練航海を行ったり、
アスロックミサイルの評価試験を行ったり、
その間事故航空機の海上生存者救出を行ったり、
外国海軍との国際合同演習に参加したり、
「マーキュリー計画」を想定した訓練を行ったり、
「キューバ危機」が起こると海上封鎖に駆け付けたり
「スレッシャー」事故の調査活動に加わったり、

と、ほとんど休息の間もなく働き続けた結果、
1965年にフィラデルディア海軍造船所で退役しました。

■ 博物館展示


1970年代まで予備役、1974年に正式に除籍されてから3年後、
「ザ・サリヴァンズ」はエリー郡海事軍事公園に展示されることになりました。

「ザ・サリヴァンズ」は、ここでもご紹介したことがある
「カッシン・ヤング」「キッド」(バトンルージュ)
「ヴェロス」(ギリシャ)らと同様、世界に現存している4隻の
「フレッチャー」級駆逐艦の1隻です。

その後1995年に「アーレイ・バーク」級ミサイル駆逐艦、
「ザ・サリヴァンズ」が進水しました。

命名を行ったのは、サリヴァン五兄弟の末っ子であるアルバートの孫、
ケリー・アン・サリヴァン・ローレンでした。



「ザ・サリヴァンズ」シリーズ終わり



彼女の対日本対空戦闘〜USS「ザ・サリヴァンズ」

2024-07-27 | 軍艦

前回、エリー湖沿いのバッファロー海事博物館に展示されている
駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」の命名の由来である、
サリヴァン五兄弟の映画をご紹介しました。

前述のように、このとき「ザ・サリヴァンズ」は着底事故から
なんとかかんとか立ち直って浮く状態になったばかりで、
まだ内部の公開は行われていなかったので、今日は、
かろうじて上甲板レベルで撮った写真をご紹介します。

■ 20ミリエリコン対空砲


どこの軍艦を見ても必ずあるこのエリコン20ミリ砲、発祥はドイツで、
発明したのもラインホルト・ベッカーというドイツ人実業家です。

エリコン(Oerlikon)という名称も、ドイツの兵器メーカー、
ラインメタル(Rheinmetal)の一部門がスイス、チューリッヒの
エリコンという地区に工場を設立したことからきています。

アメリカ海軍の軍艦に搭載されているエリコンのうち、

Mk4 、Mk10、Mk24などはアメリカ版であり、それらは
1920年代からベトナム戦争まで長い期間広く使用されました。


エリコン砲の横の構造物壁には、説明があります。

20mmエリコン砲は、第一次世界大戦中、
最も汎用性の高い艦上対空砲であった。

自己完結型の独立型マウントは、文字通りボルトで固定することができ、
甲板の空きスペースに設置することができた。

戦艦には120門以上が並ぶこともあった。


茶色い丸の中に書いてあること:

手動で操作する砲の周囲には、
砲身が艦体側に向かないように安全柵が設置された。


キャットウォークにエリコン機関砲が並んでいるこの写真は、
USS「ホーネット」で1942年2月に撮られたもの。

「ホーネット」では1942年に入ってすぐ、
13ミリ機銃がエリコン20ミリ機銃に交換されましたから、
もしかしたらこの写真は換装後の初めての訓練の様子かもしれません。

乗組員の間に戦闘中の緊張は全く見られませんし。

ところでこの写真の撮られた頃のある日、「ホーネット」の乗員は、
なぜか陸軍のB-25が甲板にあるのに奇異な思いをしていました。

ほとんどがその理由を窺い知ることもありませんでしたが、
その2ヶ月後、彼女は「ドーリトル空襲」で爆撃機を16機搭載して

日本本土を直接空襲した最初の空母になりました。

そして、その後、「ホーネット」CV-8は、1942年10月27日、
南太平洋開戦において、日本海軍の「爆撃の神様」こと
村田重治少佐隊に発見され戦没する運命をたどります。

エリコン砲の説明としては、

戦艦には120門以上が並ぶこともあった。

ということで、おそらく「ホーネット」もこれを見る限り
それどころではない数の砲が搭載されたのではないかと思いますが、
「ザ・サリヴァンズ」は駆逐艦なのでエリコン砲は7基でした。

■ 「ザ・サリヴァンズ」の対空戦闘

「ザ・サリヴァンズ」はその命名となったサリヴァン兄弟が

巡洋艦「ジュノー」で戦死した太平洋に最初から送られています。

彼女の初戦闘は、クェゼリン環礁のルオット島空襲でした。

その後、「日本軍にとっての真珠湾攻撃」ともいうべき、
トラック島の空襲に参加して、ここで日本軍機との対空戦闘を経験しました。

【1944年2月〜トラック島】



20ミリ砲は元々その名の通り対空砲ではありますが、
上の説明には英語で

「20ミリ砲弾は、日本軍の神風特攻機を止めるには軽すぎた。
その結果、より強力な代替兵器、
40mmボフォースを手に入れることになった。」

とありますが、運用についてはどちらが先とも言えない時期からです。

このときトラックでは、アメリカ軍はレーダーで、
16マイル離れた4機の日本軍機が、高度10~500フィートで
高速で接近してくるのを検知していました。

飛行機が射程内に入ると、「ザ・サリヴァンズ」は
40ミリ連装砲1基と5インチ砲5基すべてをフルで稼働させました。
(写真の砲もおそらくその一つです)

このときの発砲で、4機のうち2機が海中に飛散し、
さらに「ザ・サリヴァンズ」の前を横切る1機が砲火を受け、
それは左舷ビームから炎上しながら墜落したと報告されています。

【1944年6月〜マリアナ諸島】

サイパン、テニアン、グアムに向かう空母を護衛中、
レーダーで敵偵察機「ジュディ」(彗星)を探知し、これを撃墜しました。

このサイパン上陸支援の際、「ザ・サリヴァンズ」は
沖合で沈没した日本商船の乗組員31名を救助し、
旗艦「インディアナポリス」に載せたという記載があります。

ご存知のように「インディアナポリス」はこのわずか1ヶ月半後、
原子爆弾の部品と核材料を輸送する秘密任務を終えた帰り、
日本の潜水艦伊58によって撃沈されています。


7月4日、対空戦闘ではありませんが、「ザ・サリヴァンズ」は
硫黄島西岸に艦砲射撃を加え、滑走路に駐機していた
「ベティ」(一式陸攻)5機を撃破したと報告しています。

そして、戦艦「マサチューセッツ」BB-59に接舷しようとして
まともにぶつかってしまい、損傷しました。


1944年7月ごろのビッグマミー

「マサチューセッツ」の方にはほとんどダメージはなかったようです。
さすがビッグ・マミー。

もしかしたらこれを読んでおられる方は覚えておられるかもしれませんが、
「マサチューセッツ」は、ボストンのバトルシップコーブで
わたしが内部まで深く潜り込んで当ブログでレポートしたことのある艦です。

わたしが中に足を踏み入れたその二つの軍艦が、80年前、

マリアナ海域で(本来の意味の)接触をしていたとは・・・。

でっていう話ですが、個人的には何やら感慨深いです。



続く。


"We Stick Together" USS「ザ・サリヴァンズ」バッファロー海軍公園

2024-07-12 | 軍艦

バッファロー・ネイバル・パークの展示艦ツァーは、
まず岸壁に係留してある「フレッチャー」級駆逐艦、

USS「ザ・サリヴァンズI」DD-537から始まります。

コロナ蔓延中で展示が中止されていた時にここを訪れ、
岸壁から写真を撮ってここでも紹介しましたが、
今日こそは展示艦の内部全てを見学できるのです。

内部だけでなく、今日の冒頭写真のように、
潜水艦の甲板からしか撮れないような角度の写真も撮れるというわけです。


さて、ミサイル駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」については、
その外からしか見られなかった時にも一応説明しているわけですが、
あらためてもう一度命名の由来について話します。

「ザ」サリヴァン「ズ」となっているのは、「サリヴァン家」だからで、
さらにこの艦については「サリヴァン家の兄弟」を意味します。

ガダルカナル沖夜戦で沈没した巡洋艦「ジュノー」の乗組員であり、
同時に戦死した五人兄弟のファミリーネームが駆逐艦につけられました。

■ サリヴァン五兄弟



ジョージ・トーマス・サリバン二等軍曹
(12/14/1914 - 11/13/1942)
操舵手 - フランシス・ヘンリー・サリバン
(02/18/1916 - 11/13/1942)
二等水兵 - ジョセフ・ユージン・サリバン
(08/28/1918 - 11/13/1942)
二等水兵 - マディソン・エイベル・サリバン
(11/08/1919 - 11/13/1942)
二等水兵 - アルバート・レオ・サリバン
(07/08/1922 - 11/13/1942)


長男のジョージと末っ子アルバートの年齢差は7歳。
サリヴァン家の母はほとんど2年おきに一人ずつ男児を生みました。

昔、日本でもアメリカでも、世界中で子沢山の家庭が多かったのは、
産んだからといって必ずしも子供が無事に育つとは限らなかったからですが、
(医療技術が未発達だったせいで乳幼児が育たなかった)それより
当時は子供は労働力の担い手であり、多少?減ってもいいように、
できる限りたくさん産んでおくという親が特に労働階級には多かったのです。

サリヴァン兄弟の出身はアイオワ州ウォータールーです。

1937年、長男のジョージ、次男フランシスは一緒に海軍に入隊し、
一緒に駆逐艦「ホビー」(DD-208)に乗り組みました。


当時海軍は、兄弟で入隊すると同じ艦に乗り組ませるのが普通だったのです。

二人は1941年の6月に無事に海軍の任期を終えましたが、

同じ年の12月、真珠湾攻撃が起こりました。



二人は、この時撃沈された戦艦「アリゾナ」BB-39
アイオワの友人ウィリアム・V・ボール(Ball)一等水兵
が乗っていて戦死したことを知り、ショックを受けます。


seaman 1st class William V. Ball
(ボールの遺体は現在も艦内に残されている)

「アリゾナ」には彼の兄であるマスティンも乗り組んでいましたが、

彼はなんとか難を逃れ、生き残ることができました。

友人ウィリアムの死に奮い立ったジョージとフランシスは、

海軍に再入隊することを決め、その時ついでに
ジョセフ、マディソン、アルバートの弟三人を誘ったことで、

当時でも珍しい、海軍五人兄弟サリヴァンズが誕生したのです。
彼らは誓い合いました。


「五人で力を合わせてウィリアムの仇をとってやろう!」

イリノイ州グレート・レイクスにある海軍訓練学校で教練を受けた後、
5人の兄弟は全員、1942年2月3日にニューヨーク海軍工廠で
軽巡洋艦「ジュノー」(CL-52)に乗り組むことが決まりました。

このとき兄弟の一人は

“We will make a team together that can’t be beat,”
(負けないチームを作ろう)


と何かに書いています。

■ サリヴァンズに乗艦



見学ツァー通路は「ザ・サリヴァンズ」から始まります。

ラッタルを上っていくと、そこは後甲板。
隣の巡洋艦「リトル・ロック」が映り込んでわかりにくいので、
写真を加工して「リトル・ロック」をボケさせてみました。

右手に写っているのはMk12の5インチ砲で、1934年に制式化され、
第二次世界大戦中のほとんどの駆逐艦はもちろん、
戦後の原子力ミサイル巡洋艦にも搭載されました。

戦後日本に貸与された「リヴァモア」級の「あさかぜ」型、
「フレッチャー」級の「ありあけ」型、そして
戦後初の日本製駆逐艦「はるかぜ」型でも運用されています。

白い幕がかかっているのは、見学用の入り口かな?



かな?と書いたのは、結局この日「ザ・サリヴァンズ」は、
2022年に見舞われた着底事故(上)から完全に修復できておらず、
内部の見学には至らなかったからです。

わたしが岸壁から見学したのは確か12月下旬でしたが、
それから2ヶ月後に老朽化と天候のダブルパンチで沈み始めたようです。

幸い、海深が浅く、着底したことでほとんどの部分が海面に出ており、
その後の修復作業を経て、2022年に浮く状態に戻りました。

つまりわたしがここを訪れたときは、再オープンしたばかりだったのです。

わたしたちが乗艦すると、なぜかここに人がいて、
「ザ・サリヴァンズ」の説明をしてくれました。
しかし、それはどちらかというと機械的なもので、すぐに終了。
私が基本知識として知っていたことだけです。



甲板の床には「シャムロック」がペイントされています。


サリヴァン家のルーツはアイルランドです。
(アイルランドではオサリヴァンO'Sullivanとなる)

これにちなんで、「ザ・サリヴァンズ」の艦マークには、
アイルランドの伝統的なシンボルであるシャムロックが採用されました。



何年か前見学したボストンのバトルシップコーブで展示されていた、
JFKの兄の名前を持つUSS「ジョセフ・P・ケネディJr.」の艦体にも、
ケネディ家のルーツ、アイルランドのこの象徴が描かれていたと記憶します。

そしてこのパッチに刻まれた「We Stick Together」ですが、
スティックという言葉が「くっつく」であることから、特に
災害や大問題が発生した際、団結しようとか助け合おう、
ひいては一緒にいようという意味で使われる言葉です。

ちなみに写真に軍人さんの下半身が写っていますが、
この時点ではまだ艦内の修復は全く(かどうか知りませんが)
終わっておらず、ここから観光客が入っていくのを阻止する係です。

こんなことに現役の軍人を使うなよと思いますが。


現役の軍人といえば、モノホンの軍人さんが二人、ここで何か行われるのか
飲み物(スプライト)持参で乗艦しているのを見ました。

いかにも軍曹っぽいのと、いかにもルーキーらしいのの二人組。
今日は何かここで宣伝を兼ねた活動があるのかもしれません。

彼らの左側に見えているのは(デプスチャージ・トラック)
爆雷投下軌条ですが、このトラックも、艦尾の砲も、
かつては太平洋、台湾沖、そして硫黄島、沖縄で日本軍と戦い、
朝鮮戦争でもバリバリ戦闘任務で稼働していたものです。




続く。


殉職した機関水兵〜潜水艦「レクィン」最終回

2024-05-08 | 軍艦

ピッツバーグのカーネギー博物館に展示されている潜水艦、
「レクィン」を紹介するシリーズ、いよいよ最終回です。



後部魚雷室を改装して設置した航空管制室(乗組員はCICと呼んだ)には、
かつての名残であるロッカーが並んでおり、
そのうち4つの窓が展示ケースとして利用されていました。

最後のウィンドウは、殉職した「レクィン」乗組員のメモリアルです。

■ 殉職した「レクィン」乗組員



マール・ハロルド 'ティンク’ ガーロックJr.
Marl Harold "Tinker" Garlock, Jr.


の、ペンシルバニア州にある墓地の碑銘には、こうあります。

Gave his life in faithful service in his country
aboard the submarine USS Requin

潜水艦レクィンに乗艦し、祖国への忠実な奉仕に命を捧げた


死亡日は1962年9月21日、没地はヴァージニア州ノーフォーク。
このことから、「ティンカー」ことガーロックJr.水兵が、
潜水艦基地での「レクィン」艦上で死亡したことがわかります。



死亡時、ガーロック二等機関兵はわずか20歳でした。
「レクィン」が初めて第二次世界大戦末期の哨戒に出たときには
まだ2歳でものごころもついていなかったに違いありません。

第二次世界大戦で戦闘を行わず、さらにはレーダーピケット艦として
冷戦中の哨戒に出たときも、「レクィン」は敵への魚雷を撃つことなく、
したがって戦闘による乗員の損失はないまま、退役を迎えました。

その「レクィン」で唯一、たったひとり殉職したのがガーロックでした。

展示ブースにある当時の新聞記事にはこのように書かれています。

”ティンカー” ガーロック、海軍潜水艦で死亡

マール・H・ガーロックの故郷の両親に悲劇が襲ったのは、
彼らが息子の死を知らせる以下のテレグラムを受け取ったときだった。

ノーフォークの海軍基地所属、マール・H・ジュニアについて:

「私はアメリカ海軍を代表して、あなた方のご子息である
マール・ハロルド・ガーロック・ジュニア(S394898)が、
去る9月21日、
酸素欠乏による窒息によって死亡したことを
ご夫妻に対し深い遺憾の意をもってお知らせします。

ご子息は国に奉仕中に亡くなりました。
あなた方の大きな喪失に、心よりお悔やみを申し上げます。

もし、あなたがた、そして何か特別なご要望に対し、
わたしたちが力になれることがありましたら、
すぐにでもテレグラムでノーフォークまでご連絡ください」

テレグラムの送信者は、「レクィン」艦長である
E・L・フラニー大尉であった。

のちに分かったことによると、この界隈の誰もが知る人物、
「ティンカー」は、潜水艦のエンジンルーム(ポンプ室という説もあり)で
ソルベール10グリース除去剤を使用して作業中だったが、
密閉された空間で除去剤に含まれていた溶剤を吸って死亡したのであった。

「ティンカー」は海軍に勤務3年目で、メカニックの資格を持っていた。
彼の遺体はその後フィラデルフィアの故郷に運ばれ、葬儀が行われた。


ガーロック機関水兵の死亡診断書を見つけました。

直接的な死因(A) 窒息と中毒
による(B)トリクロロエタン吸入

とあり、「任務中」にチェックが入れられています。
そして、

退役軍人の場合は戦争の名前、平時の場合は平時

という欄に、

Peactime

とあります。
’e’が欠落しているのがミスなのか、これが正式な省略のかはわかりません。

いずれにしても、戦争が終わって(冷戦中とはいえ)平時に、
直接の戦闘などが予測できない中で、まだ20歳の息子を失い、
家族や友人はさぞ狼狽し、悲嘆にくれたことでしょう。


■ 潜水艦を使った戦時広告



航空管制室となって全ての魚雷装備が撤去されたスターンルームは、
ここだけ見ると全く普通の船室のような様相になっています。

ドアの向こうは現在もスタッフが使用する部屋になっています。



このコダックの宣伝ポスターは、1943年に製作された
一連の「軍隊もの」のひとつです。

私たちの安全を守るために、彼らが毎日直面していることを考えると
......彼らにこの喜びを与えるには十分小さいように思える。

任務の合間に彼らが互いに笑い合う姿は、
実は彼らがホームシックにかかっていることなど窺い知れない。

本当のことを語ることができるのは、狂気の日々なのだ。

家からスナップ写真を受け取ったときの彼らの表情。
まるで何か素晴らしいものを手に入れたかのように。

フィルムはまだ不足している。
陸軍と海軍は多くのフィルムを必要としている。

だからこそ、あなたも、手に入れることができるすべてのロールを
最大限に活用してください。
彼が見たがっている人や場所を写しだし、交換するのだ。

あなたの手紙を本当の "故郷からのスナップショット "にしてください。
イーストマンコダック、レチェスター、N.Y.


右上には戦時中らしく、プロパガンダというか戦意高揚の意味で

”Take her down "を覚えていますか?

という文言が読めますが、残念ながらそのあとは
ぶれていて判読できませんでした。


「テイク・ハー・ダウン」(潜航させよ)は、第二次世界大戦において
日本海軍の特務艦「早崎」と潜水艦「グロウラー」が交戦した際、
甲板で銃撃を受けて倒れたハワード・ギルモア艦長が
自分を犠牲にして艦を潜航させるために最後に叫んだ言葉です。



「戦時のタフな使用のために、
バッテリーに新しいスタミナを」

オーウェンス・コーニング社
(Owens Corning Corporation,NYSE:OC)

は世界最大のガラス繊維及び関連製品製造会社です。


主力製品はガラス繊維製の断熱材であり、第二次世界大戦中、
同社はグラスファイバーのバッテリー素材を生産していました。


現在、この他の主力製品は繊維強化プラスチック (FRP) などの複合材料で、
船体や自動車のルーフ、パイプ、風力発電向けの羽根に利用されます。

"Fiberglas"®は、同社の商標だったというのはちょっと驚きです。


■「レクィン」”サルベージ”ドローイング


国立公文書館から提供された USS「 レクゥイン」の原画のコピーです。

アーカイブには、数枚の大判図面、数千枚の青写真、
およびレクインの勤務時代の多くのログと通信が含まれています。



ほとんどがレーダーだったので、今ここのコンパートメントには
これくらいしか当時の機器が残されていません。

ハイドロステアリングのギアモーター。



航空管制に必須だったジャイロ。



さあ、というところで、艦内の見学を全て終わりました。
あとはこのラッタルをのぼっていきます。



最後に、階段の上からスターンルームを撮っておきました。



甲板に上がります。

他の同じツァーのメンバーの姿はほぼ影も形もありませんでした。
赤いシャツのツァーガイドは、何か質問があったら聞いてください、
程度のことしかいわず、ほとんど何も説明してくれませんでしたが、
とにかく全員を艦外に出すために、私たちが上がっていくのを待っています。

急かされている感があってゆっくりできませんでした。
もうちょっと見学時間に余裕が欲しかったなあ・・・。



というわけで、カーネギー博物館の「レクィン」見学レポートでした。

終わり。



潜水艦「レクィン」〜乗組員のわすれもの

2024-04-20 | 軍艦

ピッツバーグはオハイオ川のほとりに立つ、
カーネギーサイエンスセンターで展示されている潜水艦「レクィン」。

戦後、レーダーピケット艦に改造された際、後部魚雷室を取払い、
レーダーなどを搭載したCICになっていたスターンルームは、
レーダー等が嵌め込まれていたウィンドウが展示ケースになっています。

これは説明してきたように、「レクィン」がミグレーンプログラムによって
レーダーピケット艦に改装された時の名残ですが、改めて書くと、
彼女はこの改装によって4基の艦尾魚雷発射管を失い、
スターンルーム前方のスペースは、本格的な航空管制センター
(レーダーピケット時代に乗艦していた『レクィン』の退役軍人は、
これを戦闘情報センター:CICと呼ぶ)に改造されました。

艦尾の後方のスペースは、かつてチューブそのものがあった場所で、
乗組員のための寝室スペースに改造されました。

トップサイドでは、後部シガレットデッキの40ミリ砲が撤去され、
そのスペースは代わりにSR-2航空捜索レーダーが設置されていました。

そのとき「レクィン」は、甲板の後機関室の上に
YE-3戦闘機制御ビーコンSV-2低角度水面捜索レーダーを搭載されます。

(このレーダーは、スクリュー近くの喫水線の近くにあったため、
しばしばショートし、Nodding Idiot "うなだれる馬鹿 "と呼ばれていた)

そして「レクィン」は、当時最新技術だったシュノーケルも装備し、
潜望鏡深度に潜ったままの状態で、4基のエンジン
(フェアバンクス・モース)を作動することができるようになりました。


そして、これらの改造情報によると、スターンルームの展示ケースは
改造された収納ロッカーであった可能性が高いです。

その二つ目のケースを見ていきましょう。

それは「レクィン」とは直接的にはあまり関係ありませんが・・。

■ アメリカの民間防衛



USS「レクィン」が、冷戦時代にその任務の大部分を
東海岸の防衛に費やしていた頃、アメリカ国民の最大の懸念は
いつなんどき国土を襲うかもしれない核攻撃の可能性でした。

軍が東側諸国との境を国境防衛するあいだ、
民間人もまた無関心ではいられず、民間防衛パトロールを結成して、
核攻撃の際に国民を支援する責任を負っていました。

ここに展示されているアイテムは、ペンシルバニア州ワシントン郡の
パトロールによって使用された実物です。



アメリカ民間防衛とは、軍事攻撃やそれに類する悲惨な出来事に備えて、
アメリカ民間人が組織的に行う非軍事的な取り組みのことです。

しかし、「民間防衛」という言葉は、緊急事態管理と国土安全保障が
それに取って代わると使われなくなり、存在そのものも消滅しました。

アメリカの民間防衛が本格的に始まったのは第一次世界大戦の時です。

それまでは、国土が大規模な攻撃の脅威にさらされることがなかったため、
これがアメリカ民間人の参加と支援を必要とする最初の総力戦となりました。

このとき民間防衛において行われたのは、

「対サボタージュ警戒の維持」
「軍への入隊を奨励、徴兵制の実施を促進」
「自由公債運動の推進」
「兵士の士気維持のための大衆芸能などによる貢献」

などです。

ここに展示されているのは第二次世界大戦中の
民間防衛ボランティアのためのハンドブック、ガイド、会報です。

真珠湾攻撃後、民間防衛の動きは著しくなりました。

1941年5月には民間防衛局(OCD)が創設され、
より多くの責任が連邦レベルに与えられるようになります。

これらの組織は、脅威に対応して民間人を動員するために協力するものです。
真珠湾攻撃のわずか数日前に創設された民間航空パトロール隊(CAP)は、
民間パイロットに海岸や国境をパトロールさせ、
必要に応じて捜索救助任務に従事させるという取り組みでした。


OCDが運営する民間防衛隊は、約1,000万人のボランティアを組織し、
消火活動、化学兵器攻撃後の除染、応急手当などの訓練を行いました。

日本で隣組などが組織され、民間に訓練が行われたのと同じような感じです。

■冷戦期の民間防衛

第二次世界大戦終了後、冷戦中の民間防衛の焦点は
「核」でした。
核戦争の新たな局面は、世界とアメリカ国民を恐怖に陥れました。

「落とした側」だったアメリカが、今度は攻撃される側になる可能性から、
民間防衛には求められていた以上の対応が促されました。



配布されたパンフレットは、左から

「核攻撃から生き残る」

「あなたと大惨事の間:
生き残るために・・・
家庭でできる民間防衛
食糧備蓄」

「聞け・・・攻撃警告」

という、非常時に対する準備と心構えを啓蒙する内容です。






OCDが装備していた放射線量計。


OCD車両の専用プレート。
PENNNAはペンシルバニアのことだと思われます。

ちなみに、2023年現在、OCDで検索すると、民間防衛ではなく、
強迫性障害(obsessive–compulsive disorder)という意味になります。

そのほかこのケースには、共産主義についての知識、
OCDが装備していた高出力(たぶん)のラジオが展示されています。

■ 「レクィン」艦内に残されていたもの



ミシシッピ川とオハイオ川を遡上して、ピッツバーグに辿り着き、
その後「レクィン」はカーネギー博物館の展示に向けて
大々的にレストアが施されました。

1990年10月にツアー用にオープンした潜水艦USS「レクィン」は、
今日でもピッツバーグで最も人気のあるアトラクションのひとつです。

カーネギー科学センターからの資金援助もあり、
維持費用はそれなりに苦労せず調達できるようで、
約半年ごとにダイバーがオハイオ川に入り、艦体を点検する他、
内部空間はメンテナンスと修復が常に行われている状態です。


ここには、そんなメンテナンスの経緯を通じて、
艦内に残されていた「わすれもの」が展示されています。



左:研磨粉(粉洗剤)の缶

研磨剤の粉末を乾燥石鹸や洗剤、ソーダのことで、
この缶は乾燥漂白剤が混ぜられています。

右:
壊れやすい
精密機器 慎重に取り扱ってください
アメリカ海軍兵器局
シンクロトランスミッター(送信機)Mk7Mod4
ベンディックス航空コーポレーション
モントローズ部門
使用まで開けないでください


シンクロトランスミッターというものがどういうものかというと、

ebay Synchro transmitter

なるほど、これならこういう缶に入っていても納得です。

そしてその缶の上に見える物体ですが・・・
スチールたわしかな?


アメリカのメキシコ料理、「タケリヤ」というようなところにいくと、
手前の赤いプラスチックのバスケットにタコスが入って出てきたりします。

手前のはパンかホットドッグの包み紙、後ろの
Fleetwood Coffee
は、テネシー州のかなり有名なコーヒーロースターで、
1925年創業、今日も営業しています。

その後ろのカードは、「レクィン」ツァー許可証。
よくみると、艦番号が
AGSS−481となっています。
これは、彼女が退役後補助潜水艦として再分類されたときのもので、
その後ノーフォーク海軍基地で不活性化を行っています。

この見学は、補助艦となってから行われたイベントだと思われます。


トランプ、小銭、名誉潜水艦員証明書

名誉潜水艦証明書というのは、シャレで一般人に与えられるものだと思います。

7つの海を股にかける優れたセイラーは知っておくこと:

名前    は、この日付     に
USS             SS                 で確かに潜水を行った。

このような潜水による深海への神秘に入門した彼は、
ここに名誉潜水士に任命されるものとする。

よって、彼はドルフィンマークを身につけるべき
真の忠実な息子であることを宣言する。

          
司令官

いまならなぜ「彼」なのか「息子」なのか、なぜ男限定なのか、
ということで、いろんなところから文句が出そうですが、
もしかしたら、「レクィン」に限らず、この頃は潜水艦に一般人(男性限定)

を乗せて潜航を体験させるということが行われていたのでしょうか。

この「名誉潜水士証明書」は、その記念のためのカードが
たまたま使用されていないまま残されていたということのようです。



パイプ
鉛筆(海軍製造のロゴあり)
クレストの歯磨きチューブ
恋人の写真


これらは本当に乗組員がうっかり忘れた持ち物という感じです。

ベッドの脇から落ちてしまったのを気づかずにいたり、
退艦の時に手荷物に入れるのを忘れたり、いずれにせよ
うっかりと艦内に残したまま、彼は上陸し、2度と戻らなかったのでしょう。

それにしても、気になるのはガールフレンドのものらしい写真です。
いつも身につけるために小さくプリントした白黒写真には、
ワンピース姿の女性の微笑んで立つ姿があるわけですが、
この写真を持って乗り組んだ乗員は、どこかに失くしてしまったと思い、
そのまま潜水艦を立ち去ったのでしょうか。

肌身離さず大事に持っているようなものなら、うっかり
艦内で失くすことなどないような気がするのですが、
もしかしたら何かの事情で彼女とはうまくいかなくなり、
処分したつもりが艦内のどこかで見つかってしまったのでしょうか。

この写真が展示されるようになって、「レクィン」の乗員は
他の軍艦と同じようにベテランのリユニオンを行っています。

USS Requin reunion 1998

その2

これだけ人が集まっているんだから、この写真の持ち主、

あるいはその持ち主と仲が良かった人がひとりくらいいなかったのかな。

あるいは、写真の持ち主はとうに気づいている(いた)けど、
現在全く違う人と結婚して幸せになっているという場合。

それならそれは「なかったこと」にするしかないかな・・。


続く。





潜水艦レクィン〜最後の旅 フロリダからピッツバーグまで

2024-04-16 | 軍艦

潜水艦「レクィン」シリーズ、終わりに近づいてきました。



マニューバリングルームを出ると、そこはスターン(艦尾)ルームです。

何の前知識もなく見学したわたしにはこれは大変な違和感でした。
今までの潜水艦は、艦尾に必ず後部魚雷発射室があって、
退艦の時は必ず魚雷発射管の間に渡された梯子を上っていくものでしたから。



「レクィン」はこうなっていました。

お馴染みの魚雷発射管がなく、ただ広々とした部屋になっています。
これを言い表すには、「スターンルーム」としか適切な言葉がありません。

しかし「レクィン」艦尾が最初からこうだったわけではありません。
就役した1945年から1946年まで、ここは後部魚雷コンパートメントであり、
「レクィン」は従来の潜水艦同様、前部と後部から魚雷発射する仕組みでした。

しかし、「レクィン」がレーダーピケット艦構想により改装された結果、
ここは 1946 年に戦闘情報センター (CIC) になります。
そして様々なプランボードやレーダー機器、乗組員の寝台も設置されました。


「レクィン」航空管制室レイアウト図面

潜水艦の狭いスペースにあらたにCICを設置するには、
魚雷室の一つを潰すしかなかったのだということです。

コンパートメントは「レクィン」が任務が終了するまでCICのままでした。



CICになったかつての後部魚雷発射室コンパートメントのドア近く部分。
レーダー機器とジェネレーター、それまで必要なかったデスクがあります。



CICとなったスターンルームの壁には、今までの潜水艦見学で
見たこともないような鍵付きの扉が整然と並んでいました。

これらが何の収納場所だったかというと、レーダーです。
最初の改造が行われた時、彼女の艦種は「レーダー哨戒潜水艦」でした。

そして今ではそれが、資料展示ウィンドウになっています。

■ 海軍退役後の「レクィン」


ここにはカーネギー博物館に「レクィン」が展示されるようになるまでの
関係書類などが展示されています。

退役し、練習艦としての役目を終えたあと、「レクィン」は
1972年にタンパ市に移され、記念館や観光名所として利用されていました。

この潜水艦に対する地元の関心と支援は、その後15年間、
かなり高かったのですが、だんだん注目が薄れてきた頃、
ツァーガイドがスキャンダルをひきおこしました。(その内容は不明)

そしてその後公開はとりやめられて4年間桟橋で放置されていました。

タンパ市は1989年に海軍に「レクィン」の引き取りを要請しています。
公開が中止になり、維持できなくなったという理由のほかに、
タンパ市は1991年に開催するスーパーボウルを控えていて、
イメージアップを図りたいと考えていましたが、第二次世界大戦時の潜水艦が
それに「そぐわない」と判断したといわれています。

こういう考え方がアメリカ、しかもブルーオアレッドで言うと
「スウィングステート」のフロリダ(しかも当時ブッシュ押し)
で起こったのがちょっと意外。

■ 議会報告書(取得法案陳述)

その頃、ペンシルベニア州ピッツバーグのカーネギー博物館が、
オハイオ川岸に建設中の新しい科学センターに展示するために、
旧式艦の寄贈の可能性について海軍に問い合わせていました。

「レクィン」が取得可能であることを聞いたカーネギー博物館は、
海軍にコネのあるさまざまな地元関係者、そして
ジョン・ハインツ上院議員(共和党)に連絡を取ります。

その後飛行機事故で死亡

何度もここで述べているように、ハインツ議員は、地元産業である
ハインツの御曹司であり、力のある政治家でした。

このときのハインツ議員の出した
「レクィン」譲渡申請のための書類が右側に展示されています。

ちょっとした艦歴も書き添えられているので翻訳しておきます。


旧式潜水艦US.S.の譲渡を許可する法案

S2151にって、潜水艦「レクィン」をペンシルバニア州フィラデルフィアの
カーネギー研究所に移送する許可が与えられる。
譲渡に適用されるはずの60日間の待機期間が満了する前に、
軍事委員会に提出すること。


ハインツ上院議員による;

大統領、私は本日、潜水艦「レクィン」をペンシルバニア州ピッツバーグの
カーネギー研究所に移送するための60日間の議会待機期間を
免除する法案を提出するために立ち上がりました。

海軍長官はこの潜水艦の譲渡を最近承認しましたが、
「レクィン」をフロリダ州タンパからピッツバーグに移送するに際しては
この
60日間の待機期間を免除していただく必要があります。

その出発を早春に早めたい事情は、潜水艦の移送を、
ミシシッピ川とオハイオ川の
水位が最も高いときに行う必要
があるからです。

全長312フィートの潜水艦が川を上り、
メキシコ湾からオハイオ川の河口まで閘門を通過するには、
一年のうち唯一の時期に出発しなければなりません。

この迅速な通過の試みは「レクィン」がピッツバーグに到着する前に
通過しなければならなかったミシシッピ川の様々な区間の水位が、
タイミングを必要としたことから実行に移されました。

「レクィン」は 1972年以来タンパのヒルズボロ川に係留されており、
市はテンチ級潜水艦を維持することにもはや興味を持っていません。

カーネギー研究所が取得することによって、「レクィン」は
新しいカーネギー科学センターの一部としてオハイオ川に浮かび、
訪問者に第二次世界大戦の遺跡を見るユニークな機会を提供するでしょう。


「レクィン」は 1945年1月1日にニューハンプシャー州ポーツマス進水し、
その後 1945 年 4 月 28 日に就役しました。

グアムに向かう途中第二次世界大戦が終わり、大西洋に戻るよう命じられ、
キーウェスト近郊の第4潜水戦隊で数か月間療養した後、
彼女は1.3.5.レーダーピケット潜水艦に改造されました。

その後25年間、彼女は我が国の潜水艦として功績を残して活躍しました。

その後第 2 艦隊および第 6 艦隊と協力して広範な作戦を行い、
北極圏の北を航行し、カリブ海から地中海、
そして大西洋全体まで南アメリカ大陸を巡る巡航を行いました。

 1968 年 12 月 3 日、現役の任務を終えて退役し、
フロリダ州セントピーターズバーグに送られ、
そこで衝突事故が起こるまで海軍予備訓練艦として勤務しました。

そして現在、カーネギー科学センターの一部として
新たな役割で国家に奉仕し続ける機会を得たのです。

私は彼女がオハイオ川の岸辺に到着することを楽しみにしており、
間もなくカーネギー科学センターの一部となることを認める
彼の法案を支持するよう同僚議員に強く勧めるものであります。

大統領、法案の本文を記録に掲載することに全会一致の同意をお願いします。 


このとき、ハインツ上院議員は、海軍の60日間の審議期間
(博物館目的での旧式艦艇の譲渡に関する)を3週間に短縮するため、
必要な法案を比較的短期間で議会に通すことができました。


「レクィン」の移転を許可する法案は、1990年4月9日、
ブッシュ(父)大統領によって署名されました。

タンパ造船所で船体外板の交換を含む必要な修理が完了した後、
「レクィン」はルイジアナ州バトンルージュに移され、
ミシシッピ川を遡ってピッツバーグへの航海を開始します。


4隻のはしけの間に置かれた「レクィン」は、1日あたり

約120マイルを移動し、1990年9月4日にピッツバーグに到着しました。

そして、同年8 月7日、4 隻のバージに挟まれてタンパを出航し、
ミシシッピ川、オハイオ川を通って9月4日ピッツバーグに到着したのです。



フロリダからピッツバーグまで「レクィン」が通ってきた道(川)です。
その間経過した州は10にのぼりました。

カーネギー科学 センター (CSC) は、USS「レクィン」の航海を宣伝するため
マンガス-カタンツァーノという地元コンサル会社と協力して、
大々的にその宣伝を行いましたが、そんな彼らも、
蓋を開けるまで、多くの人々が潜水艦を一目見るために押しかけるとは
夢にも思っていなかったといいます。


曳航されて川を遡る「レクィン」

バトンルージュからビーバーフォールまで、どんなに蒸し暑い日でも、
雨が降りしきっている日でも、ミシシッピ川とオハイオ川を遡って
カーネギー科学センターの新居に向かう「レクィン」を一目見ようと、
たくさんの人々は熱心に川岸に並び、その遡上を見守りました。


オハイオ川を曳航されて通過する「レクィン」



そして最終的に「レクィン」がピッツバーグに到着したとき、
待ち構えていた2,000人以上の見物人が歓声を上げたと伝えられます。



「レクィン」を見るための観覧船特別チケットに記されている

1990年9月4日とは、彼女がピッツバーグに到着したその日です。

オハイオ川には、わたしのこれまでの写真にも写っていたように、
右上の遊覧船「ゲートウェイ クリッパー フリート」が就航していますが、
この日は、「レクィン」の到着を遊覧船の上から見るため、
特別チケットが販売されて、熱心なファンが買い求めたのでしょう。

続く。



マニューバリングルーム〜潜水艦「レクィン」

2024-03-27 | 軍艦

カーネギーサイエンスセンターで展示されている、
潜水艦「レクィン」の艦内ツァー、エンジンルームの隣は
マニューバリング(操縦)ルームです。


毎度出してくるこの図でいうと、5番のところにあります。


■ マニューバリングルーム


エンジンルームの隣のマニューバリングルームは
潜水艦全体の電力の供給を制御し、
コニングタワー、ブリッジ、コントロールルームからの命令に応じて
すべての速度変更が行われる場所です。



ロッカーのような扉にはE-6、E-7、E-8、と書かれています。
EはエレクトリックのE?



制御パネルと配電盤が並びます。
配電盤は潜水艦の後部半分にある補助モーターに電力を供給するもので、
補助モーターは、コンプレッサー、ポンプ、ヒーター、ブロワー、
その他の高出力機器を作動させます。

配電盤への電力は、艦尾のバッテリー、補助エンジン、
または前方のバッテリーからバスタイを通して供給されます。


手前の白い計器は、STBD(右舷)の潤滑油圧力、
右上の小さな計器は電圧計です。


「レバーは動かさないでください!」

という注意書きあり。(エクスクラメーション付き)

レバーは左から


リバース、スタート、ジェネレーター4、ジェネレーター2

発電機は全部で4基、前後エンジンルームに二つづつあります。
左舷側にあるのが2と4です。


これをポートコントロール(舷側制御盤)といいます。
上の通り、2号と4号発電機の発電機レバー、
舷側モーターの始動・逆転レバー、バスセレクター、
後方バッテリーレバーで構成されているものです。

 これにより各プロペラシャフトの速度と方向が指示されます。


今まで見てきたように、ここはエンジンルームの隣にあります。
エンジンはプロペラを直接駆動するのではなく、
まず、各エンジンに取り付けられた発電機(ジェネレータ)を回します。

発電機から送られた電力は、メイン蓄電池に充電され、
電気推進モーターに供給されます。

そしてその切り替えを行うのが、推進制御スタンドです。
潜航中は、主電池から電力を取り出し、浮上時には、
発電機から供給されるのと同じ電気モーターに供給していました。

第二次世界大戦中、米潜水艦はシュノーケルを装備していなかったため、
作動に大量の空気を必要とするディーゼルエンジンは
海面に浮上している間だけ使用されていました。

「レクィン」はレーダーピケット艦のための改装プログラム、
「ミグレーン」IとIIでシュノーケルを装備しています。

一般的にディーゼル艦のマニューバリングルームにあるのは、

【モーターオーダーテレグラフ】
各プロペラシャフトに命令された速度と方向を表示する


【エンジンガバナーコントロール】
各メインエンジンの回転数を遠隔操作する


【軸回転表示器】

各シャフトの回転数を表示する

【グランドディテクター】

潜水艦のウェットな環境は、保護絶縁を通して
電気エネルギーの損傷や漏れにつながる可能性があるため、
この計器で漏電や短絡を検出する

【測温抵抗体】

モーターや減速機の温度を遠隔で示す

金属の電気抵抗率が温度に比例して変わることを利用した温度センサーです。

【ダミーログトランスミッター(送信機)】

前部魚雷室に設置された本物のログ(水中センサーによる速度計)
が故障した場合、この装置を使用して、推定速度を
船速のデータが必要な航行や火器管制提供することができた


このような装備が搭載されています。


わたしの前の見学者の姿がついに見えなくなりました。
みなさん、もっとじっくりと細部も見学しようよ・・・。


■ レーダーピケット任務終了後の「レクィン」

ー1959年から1968年まで

多くの姉妹潜水艦がスクラップ、モスボール、

または他の海軍に売却されていく中、大々的に改装されていたこともあり、
状態が非常に良好だった「レクィン」は新たな命を得ることになりました。

「ミグレーン」プログラムの段階的廃止に伴い、
すべてのレーダー装置は「レクィン」から撤去されており、
オープンコニングタワーは、いわゆる高いプラスチックのセイル
(実際にはグラスファイバー製)に置き換えられていたのです。

これらの改造が彼女の余生を伸ばすことになり、

「レクィン」はその後9年間大西洋艦隊で活躍し続けました。

しかし、実際のところ「レクィン」の活動時間はなくなり始めていました。


1966年後半、「レクィン」は南米各国海軍との一連の演習である
UNITAS VIIに参加し、帰国したのですが、ちょうどその頃から
海軍は「レクィン」の有用性の有無を検討し始め、その結果、
彼女の寿命は尽きつつあるという判断に至ったのです。

そして海軍は1968年末に「レクィン」を退役させることを決定しました。

1968年5月に行われた「レクィン」の最後の任務期間は、わずか1週間。

その内容は主に行方不明になった
原子力攻撃潜水艦USS 「スコーピオン」
SCORPION (SSN 589)
の捜索にあたるというものでした。

「スコーピオン」は「スレッシャー」と並び、
アメリカ海軍が喪失した2隻の原子力潜水艦の一つとして有名です。

彼女はNATO演習参加後、母港への帰投中の消息を絶ち、捜索の結果、
アゾレス諸島南西沖海底で圧壊していたことがわかりました。

当初の原因は投棄したMk37魚雷の命中とされていましたが、命中ではなく、
魚雷の動力源の欠陥による不完全爆発が原因であるとの異論があります。

整備もままならないほどの過密な原潜運用スケジュールが背景にあり、
沈没の責任は海軍にある、とする説ですが、それもあってか、
いまだに沈没原因は曖昧なままとなっています。



「レクィン」が海軍を退役したのは1968年12月3日のことです。


その後フロリダ州タンパに曳航され、海軍予備役練習艦として使用され、
1971年12月20日、海軍リストから抹消されるまでこの任務に就きました。


続く。



アフターエンジンルーム〜潜水艦「レクィン」

2024-03-24 | 軍艦

前回、潜水艦「レクィン」がレーダーピケット潜水艦として、
戦闘艦たる任務に就いた、というところまでお話しし、
その後は艦内ツァーでフォワードエンジンルームまでをご紹介しました。


これはサンフランシスコの「パンパニート」の解説ですが、
エンジンの#1と#2、#3と#4の配置、
それが動力にどうつながっているか可視化できるので載せておきます。

今日は、#3と#4のあるアフターエンジンルームからです。

■ アフターエンジンルーム


フォワードとアフターエンジンルームの間には扉があります。
ところで、この扉の横に見えるもの、これはなんでしょうか。


後部エンジンルームにも同じものがあり、そこには
Lube Oil とペイントされていました。
おそらく、エンジンのための潤滑油を供給する機器だと思われます。

各メインエンジンには、潤滑用の圧油システムが装備されていて、
タンクから潤滑油圧送ポンプが逆止弁を通してオイルを吸い上げ、
オイル・ストレーナーとクーラーを通してオイルを圧送します。
その後潤滑油はエンジンに入ります

エンジン入口の接続部から流れたオイルは、
主軸受、ピストン軸受、コネクティングロッド軸受、
カムシャフトドライブギヤと軸受、バルブアセンブリに分配されます。

分岐によって分けられたオイルは、ブロアギア、
ベアリング、ローターに供給されます。


後部エンジンルームに移ったところ、前を歩いていた人が
ちょうどコンパートメントを出ていくところでした。

やばいどんどん離されている。

通路の両側にはエンジン#3と#4があり、こちらから見て
左が#3、右が#4となります。
今見ているエンジンは、通路の下の階に設置された本体の上部分です。

   ちなみに左舷の2基のエンジンは左回転用、右舷の2基は右回転用です。


こちらは右側の#4エンジン。
体を支えるためのバーが設置されています。
ベンチはおそらく物入れも兼ねているのでしょう。



#3エンジンの上にはここにも洗濯物が干してあります。
気温が高くなるのであっという間に乾いてしまいそうですね。



#4エンジンは一部カバーが切り取られ、中身を見ることができます。

各エンジン用の燃料は、燃料オイルポンプによってタンクから汲み上げられ、
フィルターを通して強制的にインジェクターに送られます。

エンジンは真水冷却システムで冷却されます。
エンジンルームに淡水化装置があるのもこれが理由です。
淡水は、遠心式の淡水ポンプによって循環させるしくみであり、
エンジンのブロワー・エンドに取り付けられています。



第2エンジンルームはここまでです。
コンパートメント扉の下には板が貼ってありますが、
これは配線を傷つけないように現役時代からあったものと思われます。


■ 「ミグレーンII」改装後の「レクィン」

さて、戦後初めてのレーダーピケット潜水艦として
無理くり改装を施された「レクィン」ですが、何しろ初めてのことで
いろいろ不具合が生じたため、アメリカ海軍は
「ミグレーン」(頭痛)プログラムで改良を試みました。

そしてミグレーンII型に改装された「レクィン」は、
レーダーピケットとして11年間運用され、その際、改装後に設置された
艦内の航空管制センター(air control center)は、
大型艦のCIC(戦闘情報センター)と同様に運営されました。

レーダーピケット艦として就役中のほとんどの期間、
「レクィン」は大西洋沿岸で活動していました。

北極で氷に対するレーダーの反応をテストすることがあれば、
まったく逆に地中海への巡航も多かったといいます。

よくあるオペレーションの展開時、
「レクィン」は管制センターに4人の有資格監視員が配置されます。

Aircraft controller(航空管制係)
Height finder operator(高度計オペレーター)
Plotter to plot all contacts reported(プロッター)
Phone-talker to the bridge(艦橋との電話連絡係)

「ハイト ファインダー」というのは直訳すると高度計で、
地上に設置された航空機の高度を測定する装置です。

第二次世界大戦の頃、ハイトファインダーは航空機の高度(実際には、
コンピュータで視角と組み合わされて高度を生成する配置からの傾斜距離)
を決定するために使用された光学測距儀であり、
高射砲を指示するために使用されていました。

ハイトファインダー・レーダーは、目標の高度を測定するレーダーです。
現代の3Dレーダー・セットは方位角と仰角の両方が探知できます。

プロッターは、報告された全てのコンタクトをプロットする任務です。

レーダーピケット艦としての「レクィン」は、
もう一隻のレーダー・ピケット潜水艦と組んで、
「脅威軸に沿って」“along the threat axis “
行動するのがその任務でした。

2隻の潜水艦が組むのは、メインのピケットが潜航しなければならない場合に
もう一隻の潜水艦がカバーできるようにという意図があります。


■ 忌避されがちだった「レクィン」

同じアメリカ海軍の潜水艦なのに、「レクィン」は他の潜水艦より
味方から信頼されないというか、不信感を持たれていたとい噂があります。

もしかしたら、大西洋で氷の下に行ったり地中海に行ったりする任務で
他の潜水艦よりも海上で過ごす時間が長く、
その分存在が非常に不透明に思われたからかもしれません。

地中海でのあるピケット・ミッションでは、
戦闘航空哨戒機(CAP)の司令官が当初、
「レクィン」のコントロールを拒否したというショックな話もあります。

いくら隠密行動が身上の潜水艦でも、同じ海軍の艦にそれはないだろう、
という気がしますが、もちろんこれは最終的な拒否ではありませんでした。

最終的にCAP司令官は「レクィン」参加を受け入れていますので、

「えー『レクィン』?何それ?怪しいからあまり一緒にやりたくねー」

程度の拒否に尾鰭がついた可能性もあります。
いずれにせよ、ミッションは滞りなく続行されたみたいですし。



その後も「レクィン」は、レーダーピケット艦として、
貴重なレーダー・ピケットのサービスを提供し続けました。

海軍はその後、水上および水中ベースのピケットそのものを
段階的に廃止しはじめたのですが、それらの動きの中、
最後のレーダーピケット潜水艦として彼女は粛々と任務を継続し続けました。

最終的にミグレーン・プログラムが終了し、
レーダー・ピケット潜水艦が正式に廃止にかかったのは1959年のことです。

続く。




レーダーピケット艦第一号〜潜水艦「レクィン」

2024-02-29 | 軍艦

潜水艦「レクィン」の見学途中ですが、ここであらためて
「レクィン」の艦歴についてみてみましょう。

■ 就役〜終戦〜”退屈な任務”

1945年4月28日就役した潜水艦「レクィン」(SS 481)の海軍キャリアは、
スレイド・D・カッター大尉が指揮官に就任し、
米海軍が潜水艦を正式に受け入れたその日の朝1130に始まりました。

80隻の「テンチ」級潜水艦は80隻受注されましたが、
そのうち建造されたのは25隻だけでした。
「レクィン」はそのうちの1隻であり、さらに同級で現存しているのは
「レクィン」と「トースク」 (USS Torsk, SS-423)2隻だけです。


USS「トースク」

「トースク」は就役が1944年12月だったので、戦線に赴き、
2回の哨戒で日本の艦船を4隻撃沈しています。

「トースク」は8月14日に2隻海防艦を撃沈していますが、それらは
第二次世界大戦において魚雷によって沈められた最後の軍艦となりました。

「トースク」が展示されているのはメリーランド州ボルチモアの博物館です。



就役後、「レクィン」はパナマ運河地帯で習熟訓練を行い、
いよいよ実戦に向かうために1945年7月末にハワイに到着します。

そのときの「レクィン」が搭載していた武装は、

5インチ/ 25口径湿式マウント砲 2基
40ミリメートル速射砲を前部と後部に1基ずつ
魚雷発射管 10基
5インチロケットランチャー 2基

1945年8月15日。
戦争が終結したとき、彼女は最初の哨戒にまさに出撃するところでした。
知らせは「レクィン」総員を騒然とさせます。

戦闘ピンをもらえなかったことに動揺する乗組員。
生きて終戦を迎えたことを喜ぶべきだという士官。

さまざまな思いを乗せて「レクィン」は数週間後祖国に戻り、
到着後、大西洋艦隊に編入されました。

その後の数ヶ月間は、ソナー学校の艦船に標的を提供することが主な任務で、
艦長のスレード・カッター曰く「退屈で退屈な任務」でした。

哨戒に出て功を上げたい血気盛んな乗組員たちにとっては特にそうでしょう。

1946年夏、1年間この任務をこなした「レクィン」は、
新しい指揮官と新しい任務を与えられることになります。

■レーダー・ピケットとしての「レクィン」

「レーダーピケット艦」という戦術思想が、

どうやって生まれたかご存知でしょうか。

それは、ほかでもない第二次世界大戦の後期、日本が選択した
特攻という前代未聞の戦術への対抗策としてでした。

レーダーピケット艦は多くの場合駆逐艦が務め、
レーダーによる索敵を主目的に、主力と離れて概ね単独で行動します。

しかし、特攻が激化してレーダーピケット艦が攻撃を受けるようになると、
米海軍は潜水艦を使用するアイデアを熟考し始めました。

つまり、十分なレーダーを搭載し、迎撃戦闘機を制御し、出撃機を誘導し、
艦隊に警告を与えることができるようにするという役目を、
航空攻撃を受けにくい潜水艦に担わせるということです。

そして、1945年の夏、他ならぬ「レクィン」が太平洋艦隊の一員として
日本沖に配備され、そこで行うはずの任務が、
史上初の潜水艦によるレーダーピケットでした。

レーダー・ピケット潜水艦としての「レクィン」が配備される前に
戦争は終結しましたが、その必要性は戦後も海軍に認識されました。

そして世界は冷戦に突入します。

アメリカは、敵となったソ連の航空戦力による対艦攻撃への備えとして、
1950年代初頭よりレーダーピケット任務の増大を始めました。
それを受けて整備されたのが、

レーダー駆逐艦(DDR)
レーダー哨戒駆逐艦(DER)
レーダー哨戒潜水艦(SSR)

「レクィン」はその役目を担う最初の潜水艦として指名されました。

この改造の対象となった最初の2隻の潜水艦は、「レクィン」、
そしてちょうど建造中だった、


USS「スピナックス」Spinax(SS489)

でした。

しかしながら、この改造にはかなりの問題がありました。

使用された装備は、水上艦部隊から急遽転用されたため、問題噴出。

中でも水上艦用だったレーダー機器を狭い潜水艦に詰め込んだことで、
ただでさえ狭い後部のスペースが、さらに狭くなったりしました。

また、潜水することで水上艦用アンテナのシステムがショートするという、
どうして前もってわからなかったの的なトラブルが発生していました。

■ 「ミグレーン(頭痛)」プログラム

さあみなさん、こういう事態になるとアメリカ海軍は何をしますか?
そう、「なんちゃら作戦」発動です。

1948年、アメリカ海軍はその名も

Migraine(頭痛)Program

作戦を発動し、「レクィン」と「スピナックス」に搭載された
初期のレーダー装備の改善プロセスを開始します。

ミグレーン作戦によって最初に改造された潜水艦は、

「ティグローン」(SS 419)TIGRONE

でした。
この名前が「ミグレーン」と韻を踏んでいるのは偶然ではないでしょう。

そのせいなのかどうかはわかりませんが、「ティグローン」はその後
「バーフィッシュ」(BURRFISH)と名前を変えています。


「ティグローン」の改造は、乗組員の食堂が航空管制センターに改造され、
接舷がステムルーム(チューブが取り外された)に移動し、
砲台はより小型で強力なものに交換され、
2つの前部魚雷発射管は取り外されました。

シュノーケルを装備し、

航空捜索レーダーアンテナは後部喫煙デッキの台座に、
水上捜索レーダー・アンテナは司令塔とステムのほぼ中間の台座に、
戦闘機管制レーダーは潜水艦の艦尾付近に設置されることになります。


■ミグレーンIIで改造された「レクィン」

「レクィン」と「スピナックス」はミグレーンIIプログラムで
さらに広範囲の改造を受けることになります。

艦尾チューブが完全に撤去された
ステムルームの前部は航空管制センターに改造
寝台スペースは後部に移動


ミグレーンII改装後の「レクィン」上部構造

さらに、前部魚雷室の下部2基の魚雷発射管は不活性化・密閉されて
収納スペースに改造され(もう必要ないということですね)
蓄電池も容量の大きい改良型サルゴ・バッテリーに交換されます。



レーダーアンテナの配置もミグレインIとIIでは異なり、
SR-2航空捜索レーダー・アンテナは後部喫煙デッキの台座に置かれ、
水上捜索レーダー甲板上、航空管制センターの上に置かれました。

戦闘機コントローラビーコン(YE-3)も甲板エンジンルームの後に移動です。



これらの改造に伴い、「レクィン」は1948年、
レーダーピケットを意味する新しい呼称、SSRを受けたのでした。

■ クルーズ・ベーシング(乗組員寝室)


SSRとしての「レクィン」については後で触れるとして、
今日は艦内ツァー、前回のクルーズメスの続きを見ていきます。


この番号の3番、Berthingです。
ここには36台のバンク(乗組員寝台)があります。


寝台の間にミルクなどの缶詰が積まれていますが、
もちろんこんなふうに缶詰を貯蔵していたわけではありません。
おそらくここにはもともと四人分のバンクがあったはずです。



バンクのマットレスの下は持ち物の収納場所になっています。



近くに立ち寄ることは物理的にも時間的にも不可能でした。
セーラー服とポール・Lの名前入りアルバム?
左の『RAT』はなんだかわかりません。意味はわかりますが。

あだ名かな?

右側の本の題名は「ホーム・イズ・ザ・セイラー」
上半身裸の水兵さんがセクシーなお姉さんを抱き寄せている扉絵です。



冬用セーラー服、写真にグリーティングカード、
タスクグループ・アルファのペナント。



冒頭のこの写真は1959年USS「フォージ」を旗艦とするTGアルファです。
「アルファ」の潜水艦は2隻、そのうち1隻が「レクィン」でした。



野球のグローブが見えます。
グローブの隣は水兵さんが荷物を一切合切入れて運ぶ布袋で、
「シーマンだれそれ」と名前を書くようになっています。



いきなり現れる壁とドア。


建造時の「レクィン」にはなかったのですが、終戦後、彼女が
訓練潜水艦となった1958年に増設されたそうです。

壁ができる前はここは広々と(当社比)した空間で、寝台がありました。

現在はカーネギーサイエンスセンターの職員オフィスとなっています。



バンクの隣は洗面所です。
洗面ボウルは4台、左はシャワー室。
中は見えませんでしたが、二つしかなかったのではないでしょうか。



洗面台の奥に詰め込まれているのはジャガイモの袋。
天井にはレバーで操作する機構があります。



トイレは・・・ひとつだけ。
これは厳しい。色々と。

ちなみに、艦内図を見ていただくとお分かりのように、
乗組員居住区の下は、後部バッテリーとなっています。
ここには総計126個の鉛蓄電池が設置されていました。

前部バッテリーは士官居住区、後部は乗組員居住区の下というわけです。



右が洗面所、その先が次の区画です。

■ 前後部エンジンルーム



次のコンパートメントはエンジンルームです。
まずは前部エンジンルームから。



ここにあるのは「エンジン1」。



フェアバンクス=モースの38D 8 1/8ディーゼルエンジン
4基搭載されています。



前後二つのエンジンルームハウスは、4基の1,600馬力ディーゼルエンジンと
4 台の1,100キロワット発電機があります。


こちらは前部エンジンルームの2基目、「エンジン2」です。
エンジンは発電機を作動させ、艦に電力を供給する直流電力を生成します。


そこで次のコンパートメント、後部エンジンルームです。
前の人からこんなにも遠く離れてしまいました。


続く。