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九年後の伊号第三十三号潜

2010-12-27 | 海軍
先日「総員起こし」という言葉を調べていて今日画像の戦史小説を知りました。
表紙の絵に、この悲劇の潜水艦の辿った運命が端的に表わされています。



伊号第三十三号潜は、1944年(昭和19年)6月13日、伊予灘で急速潜航訓練中に機関室に浸水、由利島付近60mの海底に着底。
木片が頭部弁に詰まったためと思われます。
復旧作業もうまくいかず、最後の脱出手段としてハッチを開放。
乗員2名(ハッチから脱出できたのは3名)が生還したが和田艦長以下102(92)名は死亡。


その九年後。


1953年(昭和28年)7月23日、船体の引き揚げが行われました。
浸水せずに残された一区画からは一三人の乗組員のまるで生きているかのような遺体が発見されました。


この「総員起シ」という小説は、ハッチが開けられてすぐ、ガスが抜けるのもそこそこに船室内に入り撮られたその写真を目にした作者が、その鮮烈な画像に衝撃を受け、それをもとに書き上げたものです。


ここで、伊三三潜の戦歴を簡単にまとめてみます。

昭和17年 6月10日 三菱神戸造船所にて竣工
            第一潜水戦隊第十五潜水隊に編入

      9月26日 ソロモン諸島トラックで修理中、事故により沈没、三カ月後引揚完了

昭和18年 3月14日 呉入港、修理

昭和19年 4月 1日 呉鎮守府部隊に編入その後 第十一潜水部隊に編入

      6月12日 伊予灘にて訓練中、事故により沈没


昭和28年 7月23日 引揚

      8月18日 解体開始


33潜が最初にソロモンで沈没したとき着底した水深33メートル。死亡者数33名
この数字にまつわる数字が偶然とはいえあまりに3やその倍数、三のつく数字に限られているため、大日本帝国海軍の潜水艦乗りにはこれらが不吉な数字として嫌われていたといいます。

伊予灘での沈没の際、自ら艦と運命を共にした艦長が
「生きてこの事故を証言してくれ」
といって、ハッチを開け、そこから脱出した何人かのうち、生還したのは二名。
そのうちの一人が、このように語っています。

当時から乗組んでいた下士官から「砲術長出るんですよ。夜中甲板を歩いていると海中に引きずり込まれそうに感じます」と聞いた事がある。


そして、伊三三潜最後の日、戦後八年を経て解体の際、前部魚雷発射室においてガス中毒で作業していた元海軍技術士官三名が亡くなるという事故が発生したそうです。


さて、まるで生きているかのような姿で発見された13人の船室からではなく、浸水して全ての遺体が白骨化していた別の区画からは、氷枕の中からや壁に油紙に包んで張られた遺書、事故を報告するメモが見つかりました。

乗組の大久保太郎中尉のメモには
「浅学非才ノ身ニシテ万全ノ処置ヲ取リ得ズ数多ノ部下ヲ殺ス 申シワケナシ」
という謝罪に始まり、事故原因(当直将校の判断ミス)の反省点から、最後まで努力を続ける覚悟が示されています。

彼らが自分たちの責任と感じ、ついに知ることのなかった事故原因は、わずか一五センチの木ぎれが動力部分に絡まったためでした。

事故発生から5時間は全員が生存していたとみられ、各々が最後まで気丈にその死を見つめながら過ごした様子が、見つかった遺書から明らかになりました。


一六四五 大久保分隊士の下に皇居遥拝、君が代、万歳三唱
一七三〇 大久保中尉以下三十一名元気旺盛、全部遮水に従事せり
一八〇〇 総員元気なり。
     総てを尽くし今はただ時期の至るを待つのみ。
     誰ひとりとして淋しき顔をする者なく、お互いに最後を語り続ける



ここに残された遺書については、この小説中に詳しいのですが、最後まで皆が冗談を言い合い、中には遺書にまで冗談ともとれる独白を残したものがいました。

「小生在世中は女との関係無之。為念」

「妹よ、俺も元気だと言ひたいが、もう駄目だ」

「皆騒ぐな、往生せい」


彼らの遺体が九年間の間、まるで生きているような状態で「保存」されていたのには、海水を遮断された区割りの酸素が吸いつくされ、したがって雑菌の繁殖が進まない「無菌状態」が保たれていたこと、そして水深61mの海底で低温状態であったことだろうと言われています。


最初に彼らの写真を撮ったカメラマンは全員が各自の寝床に就寝しているようで
「まるで総員起こしといったら起きてきそうだった」
と語ったそうです。
しかし、その間にも空気に触れた遺体は入り口に近いものから急速に腐敗していきました。
検視にあたった軍関係者は
「決して遺族に遺体を見せないように」
と厳命したといいますから、その変化はすさまじいものだったのでしょう。
彼らが9年前の姿をとどめていたのは一瞬の間だけだったのです。


かつての戦友である二人の生存者のうち一人が眠れるがごときその頬を叩いて
「おい総員起こしだ」
と言った、というのは本当だったのでしょうか。




総員の中で、たった一人、おそらく最後に生き残って孤独に耐えられなくなった一人が区内で縊死していました。
この小説は、それを含む六葉の写真を見た経験を核に書かれています。
そして、このタイトルは、乗員が最後に言いあったという冗談から取られました。

一人の遺書にそれが書きとめられたのです。


「午前三時過ぎ記す。死に直面して何と落ち着いたものだ。冗談も飛ぶ、
もう総員起こしは永久になくなつたね




解体された伊三三潜の潜望鏡は保存されました。
現在渋谷区原宿の東郷神社境内でその慰霊碑とともに見ることができます。




参考:「総員起シ」吉村昭 文春文庫
   ウィキペディア フリー電子辞書より
   ASAHInet
   なにわ会ニュース77号 平成9年9月掲載