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旧海軍諸団体連絡会 

2011-06-07 | 海軍

あらためてこの海軍の「桜に錨」のマークをこうやって見ますと、実にすっきりして、
日本海軍の精神をあますことなく表現していると思うのですが、誰の手によるデザインだったのでしょう。
軍艦旗が旧軍のままであるように、この意匠もまた寸分変えることなく海上自衛隊のシンボルマークとして、
現在も使われていることは皆さんもご存知でしょう。
わたしは先日江田島訪問をしたときにこのマークの携帯ストラップを買い、まさに今使用中。



さて本題。
ある日ごく限られた記念誌の巻末に、旧海軍諸団体連絡会の一覧表を見つけました。
この本が発行されたのは1997年のことですから、もう14年前の情報です。

この諸団体が今現在も存在しているかは確かめようがないのですが、このようなものがあり、その会員である旧海軍の方たちの連絡を取りあるいは声を遺すために活動している団体だと理解します。

勿論のことその連絡先まで書くわけにはいかないのですが、どのようなものがあるか一覧で見ることで感じてもらえるものがあるかと思い、ここに団体名を紹介することにしました。
 
たくさんあるので二部に分けます。

海軍兵学校連合クラス会
当たり前というか、冒頭に書かれている団体です。
この時点では1万7千300名の会員がおられたようです。

海軍機関学校、海軍兵学校舞鶴分校同窓会(2千9百名)
これは海軍機関学校の出身者の団体です。

浴恩会(9千名)
これは先日も書きましたが、短期現役士官を含む海軍経理学校主計科、経理学校の出身者団体です。

桜医会(3千名)
軍医科、薬剤科、歯科医科出身者団体。

造船会(360名)
造船関係の高等官、同待遇者。

造機会(360名)
造機、つまり機械技術制作に携わった部門でしょうか。

艦一会(130名)
この艦本一部職員の会、というのには説明がいるかもしれません。
艦政本部(かんせいほんぶ)とは、海軍大臣に隷属し造艦に関係する事務を掌った帝国海軍の重要な官衙であり、
海軍省の外局の一つでした。
7部門に分かれており

第一部:砲熕部(大砲)
第二部:水雷部
第三部:電気部(無線、電探)
第四部:造船部
第五部:造機部(機関)
第六部:航海部
第七部:潜水艦部

ですから、この艦一会は大砲部門を担当していた人たちの団体であるということです。
先ほどの造機会は、この艦本五部、造船会は艦本四部の関係者と言うことになります。

二水会(250名)
そして、これは艦本二部の水雷部で技術を担当していた関係者の団体。

電子会(450名)
これは艦本三部、電気部で無線、電探技術に携わっていた人たちです。
この団体は旧海軍だけでなく、海自等つまり海保関係も含んでいるようです。
戦後の旧海軍の機雷掃海の任務にはおそらくこういう団体の方が携わったのでしょう。

海化会(250名)
上の部門のどこにあたるのかはわかりませんが、艦本の化学、つまりケミカル関係者の団体。

海軍音響会(250名)
見て字のごとく音響に関係する部門です。軍楽隊とはまた別ですので、スピーカーとか再生、無線、電探に関する一部門でしょうか。

海燃会(570名)
燃料専攻の技術科士官の会。機関学校卒の士官の中の部門です。
しかしたくさんおられたのですね。

霞会、金城会(700名)
これは、海軍施設の本部系職員の団体です。ソフト管理部門ということですね。

海法会(100名)
海軍で法律部門に携わっていた関係者団体。
当然のことながらこの団体の会長はおそらく弁護士であられるらしく、団体の連絡本部はこの方の弁護士事務所に置かれています。

一期会(278名)
予備学生制度は、当初航空予備学生として採用され始めましたが、
昭和13年4月、飛行科と整備科の二種に区分されることになります。
(この整備科出身が、あの鶴田浩二ですね)
そしてその後昭和16年、さらにそれは兵科、飛行科、整備科、機関科の四種に区分されます。
この一期会は兵科の一期生の団体であるということです。
兵科予備学生は砲術を学ぶため館山砲術に入校し、6カ月の訓練を受けたあと配置されました。
戦局の悪化に伴い次々と短い訓練の後戦地に投入され命を散らしていったのです。

この兵科予備学生は6期までありました。一期ごとにその同窓会があり、

東港会
二期(300名)
海軍第三期兵科予備学生会(1700名)
海軍兵科第四期予備学生会(1500名)
第五期海軍兵科予備学生五武会(150名)
合同旅魂会    旅順教育部出身の5、6期予備学生、2、3期予備生徒(1300名)
海軍一誠会    旅順教育部出身兵科予備生徒(542名)

以上がこの関係者です。

この三期の会が建立した慰霊碑の文言が、彼らの声を何より代弁していると思われますので、
HPより引用して下に記します。


碑文

過ぐる大戦のさ中 当地神戸村地先にあった館山海軍砲術学校へ入校し教育訓練を受けた

第三期兵科予備学生は1440名に及び 彼等は全て全国官公私立の大学高専等より志願によって馳せ参じ 
選抜されて入校した学徒である

昭和18年10月8日入校式が行われ海軍予備学生を拝命 直ちに日夜の猛訓練が開始された 

翌昭和19年1月末基礎教程を終了 一部は他の術科学校へ転属したが大部は2月1日術科教程に入る
術科では陸戦、対空、化兵の各班に分科し それぞれ第一線指揮官としての徹底的専門教育を受けた 

同年5月31日術科教程を修了 卒業式が行われ 即日海軍少尉に任官した 

戦雲正に急を告げるの秋 太平洋全域から印度洋に亘る前線へ 
あるいは諸艦艇等へ赴任し熾烈な戦列に身を投じた 

既にこの年の4月緊急な要請で卒業を繰り上げられて先発して行った同期を含めて任官総数は
陸戦班385名 対空班772名 化兵班50名で 総員1207名である

しかして戦勢は日を追って凄絶となり 勇戦奮闘した同期戦友も相次いで倒れて行った 
あるいは北海に あるいは南冥の果てに ときに戦争と平和を想い ときに戦局の前途を憂えながら 
祖国にその青春の総てをかけたのである かくして尊き英霊となった者は実に228名に及ぶのである

われらはこのことを永久に忘れることはできない

ここに栄光有る我等同期生一同の冥福を祈念し 永遠の芳名を刻印して 
由緒あるこの神社に一碑を建立するものである