ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

オークランド航空博物館

2013-07-30 | 航空機

興味を持っていなかった頃には、そんなものがあることすら知らなかったが、
一旦関心を持つと今まで知らなかった世界がすぐそこにあったことに気付く。

皆さまはそんな経験をされたことはありませんか。

わたしにとって旧海軍の興味から広がっていった世界は、自衛隊の航空祭や基地祭、
観艦式に各基地の広報館などを教えてくれました。
そして、ここアメリカにも当然のことながらその気になればそのような世界があることを。


というわけで、大仰な出だしですが、ボストンにいるときにデイトンの航空博物館について
教えていただいたことから、西海岸でもそのようなものがないか調べてみた結果、
まずこのオークランド・アビエーション・ミュージアムに行ってみることにしました。

アメリカは基本長距離移動を航空に頼る国ですので(カリフォルニアだけでも日本より広いですからね)
国際空港以外にも個人のオーナーが離発着するための小さな飛行場がそこここにあります。
このオークランド空港もその一つで、住民は国内線の移動を皆ここから行います。
というか、この空港でも伊丹なんかよりずっと広かったりするんですが。

この空港の一部に、この博物館はあります。

 


こちらのGPSは、文字入力に時間がかかるうえ、勝手に解釈して他の選択を許さない、
実に使えない代物なのですが、珍しくこの時は順調に到着。

近くの道路は「(アメリア)イヤハート・ロード」「ドゥーリトル・ドライブ」など、
有名な航空人の名前を付けた道があります。

ドゥーリトル、という名前は日本人にとってネガティブな響きを持っています。
あの東京襲撃の実行部隊を率いたからですね。

アメリカ人というのは、自分の国で戦争が起こらないものだから、自分の国の軍隊が
他所でどんな残虐なことをしていて、たとえその証拠が写真として残っていても
あくまでもそれを正義のために行う正当行為とし、他人事のようにそれを見る傾向があります。

最近、イギリスの科学ジャーナリストが東京大空襲(ドゥーリトルではなくルメイの指揮した方)
で、10万人もの非戦闘員が死んでいることを知らなかった!と発言したというニュースを読みました。

「何を今さら」と日本人は思ったりするわけですが、
考えればこういった都市爆撃は明らかに国際法にも違反した攻撃なんですよね。
しかし、原爆もそうですが、こうした市民殺戮に対し日本は決してアメリカに謝罪を求めたりしません。

「戦争だったから」
「負けたから」

日本人のあきらめの良さと人を簡単に許すお人好しさからくる許容です。

しかし、最近韓国系米人の煽動に乗って、アメリカ国内に、日本軍を辱め、
批難するための「(捏造)慰安婦の像」を建てようとしているアメリカを見ると、

「日本ももうすこし言ってやっていればこんなことにはならなかったのではないか」

とすら思ってしまいますね。
だいたい、慰安婦を20万人拉致して殺害したなんて非現実的な話を
いったいどこの誰が信じるのか。

ああ、そうか。

アメリカとしては、でたらめでもなんでも「日本軍が慰安婦20万殺した」「南京で30万殺した」
という訴えを容認することによって、それで自分たちの一般市民虐殺と相殺できるなら
認めてしまうに越したことはないと、そういう考えなんでしょうかね。


終わったことだから、戦争だったからと日本人は全国の都市空襲で亡くなった市民の数を
アメリカに対してつきつけるようなことはしないで今日まで来ました。

だけど、日本を貶めるためにホロコーストまで捏造するような民族の行為に加担するならば、
温厚な日本人も、いつあの時の米軍の残虐行為を蒸し返すかしれませんよ?



・・・・いかんいかん、こんな話になると本題を忘れてしまって。


話を戻しますが、そんなわけでドゥーリトルはアメリカ人にとって英雄。
わたしも個人的に、軍人としてのこの人物はたいしたものだったと思っています。
因みにここにはドゥーリトル記念室もありました。

ところで、この冒頭写真の博物館の佇まいを見て、

「ただの格納庫なのでは?」

と思った方、あなたは正しい。
この博物館、アメリカに大量にある航空博物館の中では小規模な方で、
ひとつの格納庫と外部に何機か展示してあるだけなのです。



エントランスからふと見やると、このような残骸が・・。
室内にはこういう機体をメンテナンスする部屋もありましたが、
何しろ1981年に非営利団体によって設立された博物館ですから、
日本のそれとは展示方法もずいぶん趣がちがうのかと。
どんなぞんざいな飛行機展示がここでは見られるのでしょうか。

これは、別の意味で期待が高まりますね(笑)



Glasair SH-II FT 

うわー、ほんとにぞんざいだわ。
アメリカでは自家用車のようにこういう航空機が使用されるので、
このGlasair IIも、HPを見ると、まるで自家用車のようなノリで宣伝しています。

昨日の夜、ポールニューマンの「華麗なる賭け」をテレビでやっていたのですが、
ボールニューマン扮する実業家(実は大泥棒)クラウンがこんな飛行機で宙返りしていたような。



VARI EZE 

これもなんて読むのかわかりませんでした。
正式名がRutan VarlEze、「ルタン ヴァリーズ」でしょうか。

あてずっぽうで調べたら、アメリカの航空宇宙エンジニアで実業家でもある
「バート・ルータン」という名前が出てきました。

ボイジャーなどもこの人の製作なんですね。

この「バリ」シリーズは、いずれもルータン制作の組み立て式小型飛行機です。

繊維強化プラスチックを使用した航空機体としてさきがけとなったという意味で
歴史的価値があるそうですが、とりあえずここでは子供の遊び場になっております(笑)

というわけで、いよいよ中へ。
入口に「大人10ドル」と書かれたカウンターが、売店と同じ場所にあり、誰もいません。
奥に向かって声をかけてみましたがやっぱり誰もいないので、そのまま入っていきました。



ピンボールのゲーム台とパイロットおじさんがお出迎え。
せっかくなのでおじさんアップ。



おじさん、歯が一本欠けています。
かつて飛行機事故で九死に一生を得た名残りでしょうか。なんちゃって。
おじさんの持っている「Welcome Aboard」は、「御搭乗歓迎」という意味。

この写真を撮っていたら、入口に巨大な人影発見。
縦も横も大きな、ここの管理人さんでした。

「さっき入ったときに誰もいなかったので・・・」と言って、10ドル払いました。
ちなみにこのとき、わたし以外に見学しているのは男性が合計三名。



このあたりには「ボーイングストリート」というのもあります。
この「ボーイング・飛行学校」は、
「ライト兄弟のライト飛行学校」( Wright brothers' Wright Flying School)、
サンディエゴの「カーチス飛行学校」に対抗して、ここオークランドに1929年に作られた養成校です。



このころの航空学校で使われていた道具、教科書、卒業写真。

文句を言うわけではありませんが、(言ってるか)解説が全くないので
これが何をする道具か全くわかりませんでした。
右側はリモコンスイッチ(コード付き)、左はパイロット用の非常便利ツール。
(たぶん違うと思います)

 

この写真は誰か著名な人物というわけではなく、ここから第一次世界大戦のコーナーに
入るため、その概要を記した上に飾られていました。
最後の文章曰く、

第一次世界大戦には6千5百万人の兵士が投入され、双方の被害数は
2千890万人が負傷、捕虜、行方不明、戦死者850万人である。
アメリカは440万人が参戦し、負傷者22万4千人、戦死は12万6千人となる



まったくねえ・・・。

自分の国を護るための戦争ならともかく、このときのアメリカの参戦理由というのが

ドイツ潜水艦がアメリカ艦船を襲ったから
英仏への売掛金の回収を確保するため

というものですから・・・。(おおざっぱ)
どんな理由でも戦争に行かせられるものはたまったものではありませんが、
こんな理由でアメリカ国民は果たして納得して戦争に行ったんですかね。



第一次世界大戦と言えば・・・・?
連想ゲームではありませんが、こういうガスマスクが思い浮かびませんか?

化学兵器としてガスが使われ出したのがこの第一次世界大戦。
呼応してそれを防ぐためのマスクも兵装として出てきたわけですが、
このころの戦争というのは初期には馬がおおきな機動力になっていましたから、
人間だけではなく、馬のマスクも開発されています。

 

ついでに、海外サイトで拾った各種ガスマスク映像をどうぞ。

 

犬。
この毛並みはテリアかしら。



これは馬ではなくロバですね。
軍馬ならぬ軍驢馬。

馬用マスクを流用したのだと思われますが。
驢馬も戦争従事させられていたとは・・・・。


えーと・・・・これなんですか?



ミッキーマウス用。じゃなくて、小さな子供用。
これは第一次大戦のものではなく、アメリカが日本と戦争することになったときに
大量に出回った市民用ガスマスクではないかと思われます。



そして、なぜかアメリカ軍使用機のモデルが唐突に。

下の段は、左からアベンジャー、P51ムスタング、P-38ライトニング、
そして上の段には水上機のヴォート・キングフィッシャーとP-40ホークに挟まれて・・・・・・



ひっそりと零式戦闘機52型が。
日本機に関するものは、この小さな模型だけでした。
まあいいですけどね。






この辺の展示の仕方も実にぞんざいです。
左下のF‐4Uコルセアなんか、傾いたままだもの。



当時のヘルメットに軍服。



ヨーロッパに送られたアメリカ将兵たちの集合写真。
それにしても、このころこんな写真を撮る技術があったんですね。
(写真は長い一枚で、つぎあわせたものではありませんでした)

このたくさんの人々のうち、生きて大西洋を渡り祖国の土を踏むことができたのは何人だったのでしょうか。



この初期の飛行機ですが、どうもこの、

 

銅像の人物、ファン・”ジョー”・グゥエイという、オークランドの中国人が
1909年当時において製作し、自分で乗ってしまった、というものらしい。

日本語でどれだけ検索しても、この人物のことは出てこなかったのですが、
当時の中国系アメリカ人の英雄的存在だったようです。

それにしても「モンゴリアン」・・・。
アメリカで中国人の店に行くと、わたしはときどき
「Are you Mandarin?」と聴かれてしまうのですが、
チャイニーズというと国籍も含むので、「マンダリン」とは「中華系(アメリカ人)」
というときに使うようです。
この場合は「モンゴル系アメリカ人が」という意味でしょうか。

いずれにせよ、当時の中華系アメリカ人でこれだけのことができたというのは
彼が持っていたのは並みの知力財力ではなかったということでしょう。



籐で編まれた気球のかご部分。



しかし、この気球、ガスバーナーで空気を暖めて上昇させるって、
もうこの時点で不安だらけですよね。

つい先日も群馬で気球の墜落事故があり男性が亡くなっていますし、
2月におこったルクソールの気球事故では人災により気球が燃え、高度300mから墜落して
気球の事故としては最悪の19人が死亡、日本人観光客も4人亡くなっています。

こういう原始的な仕組みで飛ぶものって、いざというときに対処しようがないから
わたしは決して乗りたくないですね。



エンジンだけを展示してあるコーナー。



これはライト型エンジンです。



ニュージャージー、パターソンのライト航空機で作られたと書いてありますね。



Wright EX Vin Fiz (replica)

実にオールドファッション。
これも気球どころではない事故ったときの怖さがあります。
これはレプリカで、1972年に製作されています。

空冷エンジンを動力として飛ぶライト型の飛行機でした。



本当に飛んだわけではないのかな。
しかし、こんなシートベルト一本つけて空を飛ぼうというのがすごい。



1911年当時の初飛行の瞬間。
皆成功に喜んで手に手に帽子を振っているのが微笑ましいですね。

この「Vin Fiz」というのは、スポンサーだった飲料会社の出したドリンクの名前。
Vinはフランス語のワインですから、「ワイン・フィズ」をお洒落に言ってみた風でしょうか。



おそらくこれはその瓶に貼られたラベルだったのでしょう。



Monocoupe 110

1920年半ばごろ、若い広告マンのドン・ルスコムは、オープンコクピットの
「ジェニー号」に乗る機会があったのですが、そのときにこう考えました。

「もし飛行機のキャビンが部屋のようだったら、
ゴーグルやらヘルメットなしで、
そう、ビジネススーツのまま飛行機に乗って
移動することができるんだがなあ」


彼がすごかったのは、このアイデアを実際に形にしてしまったことです。
自分のアイデアでそういう飛行機を作ることを決め、デザイナーを雇って、
かれはこの「モノクーペ」を作ってしまいました。

どうも、これはさりげなくすごい「歴史的発明」だったみたいですね。

それまで飛行機というのは外気にビュービュー吹かれながら乗るものでしたから。



Glasair Lycoming 10-360

この辺になると、ほとんど自家用車のノリ。
グレーサー社で検索すると、この機種の操縦マニュアルがダウンロードできたりします。




Ercoupe 415 C


これも戦後の「自家用飛行機」ですが、この飛行機の広告が一緒に展示されていました。



”車の運転ではハンドル操作に加えて脚での操作をせねばなりませんね。

しかしエアクーペの操縦では、ハンドルに手を置くだけでいいのです。

世界一安全なエアクーペには「スピン防止」機構があり、脚を使う必要がありません。”

これが宣伝文句として有効なのか?
と現代のわれわれは思わず考えてしまうような宣伝文句が書かれています。
まあ、このころ自動車がオートマチック以前のコラム式マニュアルが基本で、
クラッチ合わせなどが非常に煩雑であったことを考えると、
これでも「じゃ飛行機買おう」となる人がいたのかもしれないとは思いますが。

こういった自家用機でここにあるものはほとんどが篤志家の寄付によるものです。
買い替えたりするときにこういう博物館に愛機を寄付するというのも、
アメリカの飛行機愛好家の一つの「名前の残し方」なのかもしれません。


オークランド航空博物館シリーズ、他の話題を挟みながらまたしてもでれでれと続きます。