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女流パイロット列伝~パク・ギョンウン「日本人・朴敬元」

2014-07-05 | 飛行家列伝


このパク・ギョンウンの情報は今回見学したヒラー博物館にあったわけではなく、
中国女性で初めて飛行免許を取ったキャサリン・チャンのことを調べていて、
ふと「日本最古の女流飛行士は誰なのだろう」と思いつき検索したところ、
何人かの日本人名のなかに彼女の名前を発見したのです。

彼女がパイロットの資格を取ったのは1927年。
日本最初の女流飛行家兵頭精(ただし)は、1921年に日本に航空取締り規制が布かれ、
操縦免許性になった一年後の22年に免許を取っていますから、その5年後です。

当時朝鮮半島は日本に併合されており、パクもまた「朴敬元」という日本国民であったわけですが、
朝鮮半島出身者の女性としては彼女が先駆となります。


パク・ギョンウンは、1901年、日本併合下の韓国、大邱(テグ)で、家具屋を営む家に生まれました。
韓国ではアメリカ人の経営するミッションスクールを卒業し、卒業後の1917年、来日します。

日本に到着したパクは横浜市の南吉田に居を構え、そこから笠原工芸研修所に2年半通いました。
ここで彼女は養蚕についての職業訓練をしたようです。
この期間、横浜の「韓国キリスト教教会」に通って、クリスチャンになっています。

この日本での日々に何があったのかはわかりませんが、どうやらこの間に
彼女は「飛行士になって空を飛びたい」という夢を持つにいたったようです。

彼女はいったん大邱に帰ってそこで看護学校に入りますが、それは、
飛行士になるのに必要な飛行学校の学費を調達するのが目的だったといわれています。
この看護学校は、日本の慈恵医大が大邱に創設していたものです。

1925年1月。

彼女は蒲田にあった飛行学校に入学するためにまた戻ってきます。
同胞である韓国出身の男性パイロットがここで教官を務めており、
彼女はこの男性に指導を受けることを希望していたようです。

もしかしたらこれが彼女の飛行士を目指した動機だったのではないかとも思われるのですが、



この、韓国人で最初に飛行士になった人物であるチャン・ヨンナムもまた、
当時江東区の須崎にあった飛行学校を優秀な成績で卒業し、
非常に卓越した技術を持っていたと伝えられるパイロットでした。

しかし、彼女が戻ってくる2年前に、彼は韓国経由で中国に亡命してしまっていました。

この人物についてのウィキペディアは韓国語と英語しかなく、したがって
亡命の原因を

「関東大震災で朝鮮人の虐殺を目にし、日本と戦うことを決意した」

とし、彼は北京に住んで韓国独立運動をした、ということになっていますが、
この一文を読んだだけで残念ながら本当はそうではなかったとわかります。

そもそも、朝鮮人が虐殺されている現場を、朝鮮人である彼は
どこでどうやって高みの見物を決め込んでいたのか。


とかね。

独立運動家としての彼の名前は無名ですし(おそらく韓国人も知らないのではないでしょうか)
後に墜落死した時には、彼は若干29歳で中国の飛行学校の校長をしていたといいますから、
「独立運動」はあまり現実的なものという気がしません。

これもまた「韓国人から見た」歴史であることを割り引いて考えた方がよさそうです。


さて、蒲田でチャンの指導を受けようとしていたパクの目論見は外れましたが、
彼女の資金を募るために、東亜日報が記事を書き、それによって集まった募金で
彼女は飛行学校に入学することができ、二年後に三等免許、
さらにその一年後に二等飛行免許を取得することができました。


ところでこの東亜日報というのは日本統治時代の1920年に創刊されています。

現在の韓国人というのは日本統治時代を否定しなくては精神が立ちいかないくらいの
峻烈な反日教育を受けていますから、統治によって

「民族のすべての固有の文明が奪われた」

くらいのことを学者であっても平気で言ってしまいます。
実際、2013年9月24日付のニュースで、

「日帝は朝鮮を強制的に併合した際、1911年までの一年間の間に
初代朝鮮総督の寺内正毅が軍警を動員し、全国の20万冊の史書を強奪したり
燃やしたりし、さらにその中から珍しい秘蔵史書を
正倉院や東大秘密書庫のようなところ

奥深く隠した。
つまり日帝は古朝鮮以前の古代史を根こそぎ奪ったのである」 

などという(発言者は正倉院がなんだか全く知らないのではないかと思われる)
都市伝説レベルの発言を考古学者がしているのを知り、
あらためてそれを確信する気になったわけですが。

しかしこのブログを読んでおられるような方であれば周知の事実ですが、
実際は歴然と証拠として残るダムや鉄道のほかに、
ソウル大学はじめ教育機関や(パクの通った慈恵医大の看護学校もそのひとつです)
新聞社、しかも朝鮮人の有力者が後押しして、モットーの一つが
「民族主義」であるような言論機関を朝鮮人は作ることができたということなのです。



というか、百の言葉を尽くさずとも、

「現地民のための学校があり、現地民経営の新聞社があった」

これだけで、日本の統治がどんなものであったか一言でわかるではありませんか。


去年韓国で、統治時代当時を知る95歳の老人が


「日本の統治時代はよかった」

と言ったところそれに激昂した若い男が老人を殴り殺し、
それに対して国民が「よくやった」と喝采を送るという事件がありました。
実際、

「過酷な日本の植民地支配で何万人もの人が虐殺された」

などというトンデモ話を子供のころから信じ込まされているのが今の韓国人です。


今回パクについて書かれたいくつかの記述を見ましたが、皆お約束のように
「偏見」「差別」を跳ね返して、などという文章を必ず付け加えています。

しかし、実際に統治下の朝鮮人が偏見や差別と闘い続けなければ何もできないような国なら、
そもそもパクのような朝鮮半島出身の、しかも女性が飛行士になることなどできたでしょうか。

朝鮮半島生まれの若い女性がわざわざ日本に来て職業訓練を受け、
さらに日本で飛行機の免許を取って、飛行競技大会にも出場し三位になり、それで
陸軍の中古とはいえ、サルムソンを購入することすらできたのです。

つまり、現在の韓国人の言う「峻烈な差別と虐殺」というのは、「被支配」側の被害妄想、
よくて少なくとも何か特殊な事件の拡大解釈に過ぎないとしか思えません。

(当時の日本に差別がなかったとは言いません。
いつの、どこの国にも差別があるように普通にあったことは確かです)


彼女が憧れていた(らしい)朝鮮人のチャン・ヨンナムも、やはり日本で免許を取り、
日本の飛行学校で教官を務めて日本人を教えていたわけです。
これも彼らが言うほどの差別があればありえないことでしょう。


さて「最初に飛行機に乗った自国民」は文句なくその国にとって英雄のはずです。
現在の韓国人というのは、反日から来る歴史認識を拗らせて、
こういう人たちを
民族の誇りとすることすらできないジレンマに
自らを追いこんでしまっているように見えます。


彼らを誇ると、「日本」がその「名声」の形成において大きな意味を持ち、

さらに、日本で彼らは必ずしも迫害されていたわけではなかった、
ということを語らなくてはならなくなってしまうからです。

その挙句、日本の総理大臣を殺害したテロリストが自国の誇る
もっとも偉大な英雄になってしまうという歪んだ価値観しか持てないのが、
「韓国という病」における最も憂うべき後遺症だと言えましょう。



パクはつい最近まで「韓国初の女流飛行家」であるということになっていました。
しかし、その「初めての飛行家」が、当時「日本人であった」というのは、
そんな「韓国病」の彼らにとっては耐え難い屈辱であったようです。

そこで韓国は、彼女ではなく、「中国軍で飛行免許を取った」という
キ・オククォン
いつのころからか「初めての韓国人女流飛行家」
のタイトルを与えることにしたようです。


「与えた」
というのはあくまでわたしの想像です。
2005年に「青燕」というタイトルでパクの人生が映画化される前までは
まだ「初の女流飛行家」はパク・ギョンウンであるということになっていたからです。
しかしなぜか「急に」キの方が先であったという説が生まれ、wikiもそうなりました。

そのため映画の興行元は「韓国で初めての女流飛行家」というパクのキャッチフレーズを
全ての媒体から削除しなくてはならなくなってしまったそうです。


もちろんわたしは観ていませんが、どんなに映画上でパクの人生を

「虐げられた民族の苦しみを跳ね返し飛んだ」

と言おうとしたところで、現実にに日本で免許を取り、日本の人たちに見送られて、
日本の国旗を振りながら最後のー彼女が命を失うことになるー
最後の飛行に飛び立ったという事実がある限り、
日本を悪く描くにも限界があったのだと思われます。


そしてやはり「親日的である」の烙印を押され、映画の韓国での興行は失敗しました。
パクの名前もまた、全くと言っていいほど今日に至るまで祖国では無視されています。


1933年。

32歳の彼女は、親善を目的とした訪問飛行のため、羽田を飛び立ちました。
日韓関係なく、成功すれば彼女は初めての日本海横断飛行した飛行士となるはずで、
羽田での見送りは官民多数の大変盛大なものであったといわれています。

ところが、この飛行に関しても、英語(つまり韓国側の記述)によると、

「日本政府のプロパガンダにより計画された、
満州への飛行であった」


となってしまっています。

まったく・・・・・(笑)

満州国をだけ対象に日本がプロパガンダをするのなら、普通に考えて
何もわざわざ韓国人の女性パイロットを飛行させる意味がありますか?


・・・・日本を悪者にするのも大概にしていただきたい。

東京―ソウル―満州をつなぐ線を、朝鮮民族である彼女が飛行することで
政府が「八紘一宇」「五族協和」のシンボルとしようとしていたのは確かです。
尤もどんなことも悪意一本で解釈すれば「プロパガンダ」でしょうけどね(投げやり)


さらに穿った見方をすれば、この件で韓国人は、日本ー韓国間の「親善飛行」、
そして(こちらが主な理由だと思いますが)彼女がこのとき挑戦したところの

「日本海横断」という言葉を何が何でも使いたくないのだと思われます。

韓国は歴史的に日本海は存在せず東海であったと主張しているからですね。


まあ、国民が最も熱狂する国威発揚が「日本に勝つこと」という国ですから
これもまた致し方のないことなのかもしれませんが、
そうやっていちいち自分たちのプライドのために歴史を「修正」していると、
必然的に矛盾が生じ、そのうち歴史そのものを見失ってしまうのに・・。 


さて、パクの話に戻りましょう。

冒頭画像はこのときに見送りの人に向けて日本の旗を振るパク・ギョンウン。
おそらく、これが彼女が生きて最後に撮られた写真であったと思われます。
彼女はこの日のために飛行服も、飛行帽も、すべてを新品に買い整え、
希望に満ち溢れて羽田を発ちました。

その日は羽田から大阪に立ち寄り、そこで在阪朝鮮婦人会や有力者の激励を受け、
ソウルに出発する予定になっていました。

しかし、花束を持って正装で彼女を迎えようと飛行場に詰めかけた人々の前に
彼女の飛行機「青燕」はいつまでも姿を見せませんでした。

そして、翌日の捜索で彼女の飛行機が、箱根山中、熱海の玄岳山に
機首から墜落しているのが発見されたのです。



彼女が身に着けていた時計の針は、彼女が飛び立ってから
わずか42分後に「青燕」が墜落したことを示していたそうです。

内外の新聞はその事故死を大きく報じ、彼女の死の一年後、
1934年の8月7日には、追悼飛行が行われています。
この飛行には、飛行学校の後輩であった正田マリエ(豪州から日本人と結婚し帰化)と、
やはり朝鮮人の李貞喜が務め、正田が空中から現場に花束を投げました。

それだけではありません。

日本と韓国の両国にはそれぞれ女性飛行士の協会があるそうですが、
その韓国側が30年前に

「わたしたちの先輩パイロットであるパクの遭難場所を教えてほしい」


と訊ねてきたということがありました。
しかしあらためて探すまでもなく、彼女の飛行機が墜落した村の人々は、
墜落現場に自然石の碑を立て、ずっと供養を続けていたのです。

それ以来、両飛行協会は姉妹提携を結んで交流しているという話です。


彼女の死後しばらくして、新聞にこんな記事が載りました。

「申栽祐君は 朝鮮女流飛行家朴敬元嬢が 郷土訪問を兼ね
日満間の大壮途を
決行せんとし途中 惜しくも墜落惨死したのに発奮し、
法政大学法科を棄てて、
昨年八月千葉第一飛行学校へ入校、
亡き朴嬢の意志を継いで
 
一日も早く内鮮満飛行を決行し
朴嬢の霊を慰めんと努力しつつあったが、
去年操縦試験に見事パスし 
次いで学科試験にも合格し 二等飛行士の免状を
下付され 
いよいよ念願かない 機材購入の準備のため帰鮮の途に就いた」




「日本の統治は正しかった」

95歳のかつて日本人だった韓国の老人はこう言って殺害されました。

今の韓国人には信じられない、それ以前に認めたくないことでしょうが、
これが、日本の「統治民に対する扱い」だったのです。

同じ飛行家以外には祖国ではその存在すらなかったことにされている朴敬元。
日本軍の兵士となって特攻戦死を遂げた朝鮮人同胞に対してさえ、
「日本の手先となったのであるから敵である」と言い切るような民族ですから
それもむべなるかなというところでしょう。


その後、日本女流飛行家協会が主導して、熱海梅園の中にできた「韓国庭園」
朴飛行士のレリーフと「思いは遥か故郷の大空」と題した記念碑が設置されました。

その竟の地が日本でなければ彼女はこのように祀られることもなかったでしょう。

勝手に死者の魂を忖度する不遜を許していただけるならば、
当時日本人であった彼女の霊はこの地でせめて安らかに眠っているのではないでしょうか。




 


パシフィックコースト航空博物館~「ファイナルカウントダウン」盗作問題

2014-07-05 | 航空機

サンフランシスコを北上、ワインカントリーであるナパ、ソノマ地域に
ある民間空港、チャールズ・M・シュルツ・ソノマカウンティ空港。

その一角にこの航空博物館はあります。

外に置きっぱなしの展示といい、寄付だけで賄われている感じといい、
いかにも退職老人の再就職先になっていそうな感じといい、
空港の片隅にある博物館にありがちな手作り感満載の小さなものですが、
いずれにせよわたしはキャリー・ブラッドショーが(今テレビでやってる)
マノロブラニクのバーゲン会場を目の前にしたような気持ちで
この宝の山に脚を踏み入れたのでした。



マクドネルダグラス F−15 イーグル

前回911現場であるNY上空に航空機突入の時間駆けつけていたとして

「彼らは英雄かもしれないが、却ってこれは陰謀説を裏付けないか」

と書いてみたのですが、まあ、この話は軽く受け流して下さい(笑)
それより、このイーグルがどこから飛んで来たかと言うと、
バージニア州のラングレー(ヒバリ)空軍基地。

F−15はその後退役が進んでおり、現在軍使用されているのは
ネバダ州のネリス空軍基地のみ。
そもそも高価すぎてサウジとか日本とか、お金持ちの国にしか
買ってもらえなかったという戦闘機なんですね。



元々のペイントがうっすらと透けて見えています。
「ケープコッド」とあるのですが、F−15イーグルの名前としては
あまりイメージが合っていないような・・・。

パイロットがボストンのこのペニンシュラ出身でしょうか。



 コクピット下にはパイロットの名前を書く慣習がありますが、
ここに書かれた名前には軍階級がありません。

F−15は過去の空戦で撃墜されたという記録がなく、
現地の説明によると「100以上の空戦に勝利している」そうです。 



実はこの航空機には案内板がありませんでした。
展示マップにも該当場所には何も書かれていないので、
おそらく最近導入した展示ではないでしょうか。

しかし、今のわたしには機種がわかってしまうのだった(笑)

まずこの無理矢理な翼のたたみ方。
これは間違いなく艦載機の特徴ですね。



海軍所属で、おまけにホーネットの艦載機、と書いてあります。
これは

Grumman S-2 TRACKER

だと思われます。
去年の夏空母「ホーネット」を見学し、ハンガーデッキにこのトラッカーが
非常に肩身の狭そうな様子で展示されていたのを思い出しました。

そのときも書いたのですが、空母艦載機として運用することを大前提にしすぎて、
装備を小さな機体になんでもかんでも詰め込んで居住性を犠牲にしたため、
このトラッカー、搭乗員たちからは不満続出だったということです。

ところでたった今画像を見て気づいたのですが、このトラッカー、

MADブームがついていません。



お尻の部分を拡大してみると取り外されたように見えないこともないのですが、
このトラッカーは対潜用に作られたので電子戦の装備があり、
必ずブームをつけているのだと思っていたのですが・・・。

もしかしたらこれ、トラッカーじゃないかも?


トラッカーの尾翼裏にあったスコードロンマーク。



Grumman A-6 IINTRUDER

これも実は説明看板がありませんでした。
しかしこの角ですぐ分かってしまいますね。



海兵隊の所属となっています。
このイントルーダーはベトナム戦争、湾岸戦争など、海軍の艦載機として
アメリカのかかわった戦争ほとんど全てに投入された、とされますが、
海兵隊については説明がないのでわかりません。



お腹の部分に突き出ていた透明のケースのなかの物体。
これはなんでしょうかね。
目標探知攻撃複合センサー、TRAMというものではないかと思ってみたのですが、
どこを探しても画像がありません。

たとえば、モデルメーカーのハセガワは1:72スケールのイントルーダーを
10000円(消費税別)で販売しています。
いまどきのプラモデルってこんなにするんですか!
それはともかく、その説明に

A-6Eは、A-6Aの電子機器の能力向上型で、
レーダーも強力なものに換装されています。
なかでもA-6E TRAMは、目標探知攻撃複合センサーを機首下面に装備して、
攻撃精度の向上がなされています」

とあったりするので、おそらくこれはTRAMではないかと思われます。
が、ハセガワのモデルイラストを見たところ、この部分には
レドームのようなこぶができているだけです。

この透明の部分がTRAM本体なのかどうか、どなたかご存じないですか。



スコードロンマークはバイキングと剣、そして稲妻。



Mk82にたくさんサインがあります。
AM2(AW)とか書いている人が多いのですが、これで検索すると
どうやら階級で、

 Petty Officer Second Class AD2 (AW)

などと表記するようです。

AWとは

Aviation Warfare System Operators

のことのようなのですが、いまいち確信がありません。




Sikorski H-34 CHOCTAW

アメリカ陸軍のカーキーグリーンは、自衛隊のOD色よりも
かなり明度が高いように自称「絶対音感と絶対色感」
を持っているところのエリス中尉には思われました。

このチョクトというのは何度も同じボケですみませんが、
菅直人のことではなく、北米ネイティブアメリカンの部族名です。

日本でも現地生産して調達されていた機種で、
世界的には2261機が生産され、この台数を持って
ベストセラーとされているようです。

というか、軍用ヘリってこの程度生産されればベストセラーなんですね。




こういう説明のボードがちゃんとついているとは限らないのですが、
このヘリに関してはスポンサーが大物(ヒルトンホテルとソノマワイン組合)
のせいか、ちゃんとした説明板があります。
このように、この博物館、地元企業が何社かで一機を受け持ち、
そのメンテナンスのお金をスポンサードして、企業イメージ
と共にこういうところで宣伝をするわけです。

これ、いいシステムだと思いませんか?

何度もしつこいですが、鹿屋の二式大艇、それからこの間お話しした
海洋大学の明治丸も、企業のスポンサーを募ればいいのでは?
その代わり、そのことを現地の案内やHPに明記するというのは?
匿名の篤志を募るより、効率がいいと思うんですがねえ。



陸軍ヘリのチョクトー部隊のマークは凶悪面のブルドッグ。
ご丁寧にイガイガの首輪までつけています。
頭と尻尾になにやらついているのですが、これは画力が残念で
何か分かり難いながら、どうやらローターらしいですね。

たしかにこのチョクトーはずんぐりしていてブルドッグのようなシェイプ。
みずから「ブルドッグ」と名乗るのはこの機体のイメージだったのです。



ここはテールが持ち上がる部分。
排気のためにメッシュの窓がはめ込まれています。


自衛隊にも17機が導入され、そのうち1機は海保に移譲されて
南極観測船「宗谷」の艦載機として昭和基地と宗谷の間の
輸送に活躍したそうです。




使われることがなかった爆薬の類いが、ケースごと。
手前のは完璧にさびています。



 NORTHROP F−5E "FREEDOM FIGHTER " TIGER II

トルコ空軍の曲技飛行隊はこの機種を使っています。
小型軽量で大変運用しやすかったので、このトルコ始め
発展途上国に大量に輸出されたそうです。


もともとアメリカ空軍では使用する予定がなかったのですが、
供与された国も

「アメリカで使ってその実績を教えてくれなきゃー」

とごもっともな要求をしてくるようになったため、(たぶん)
アメリカはこれをベトナム戦争に対地攻撃用として投入しました。

この際、F−5が参加する作戦は

「スコシ・タイガー・オペレーション」

と名付けられています。
「スコシ」って何だと思います?
そう、日本語の「少し」なんですよ。
なんだかすごく間抜けな響きがするような気がするのは
わたしが日本人だから?


なぜわざわざ日本語を投入したかと言うと、外国空軍への供与、
並びにその実績説明というのがその第1目的だったため、
何となく外国語を使ってみたようです。

供与先が日本ではなかったので、まさかの日本語だったみたいですね。 



そうと知ってみると、とたんに親近感が湧いて来るではないの。
やたら羽が短くて、こんなので大丈夫か、なあやすい雰囲気が漂ってますが。



これはアメリカ海軍所属なんですか?
この赤い星・・旧ソ連のマークのような気もするのですが・・。



グラマン F−14A トムキャット

グラマンの猫戦闘機、トムキャット。
冒頭の写真は正面から撮ったものですが、ウィングが可動式で
肩をすくめた状態になっているので、あまりかっこよくありません。
(感想には個人差があります)

なんだか変な色にペイントされてしまっていますが、これは
メインテナンスの途中なのだと思います。
毎日必ずどこかを補修しても、航空機が多いので一巡することには
最初の航空機はもうすでに補修が必要になっています。

サンタローザは夏の暑さは強烈ですし、雨も降りますから
外に置きっぱなしの展示は劣化しやすそうです。



オークランドのエアミュージアムではこの部分が旭日模様の

「サンダウナー仕様」

つまり「日本をやっつけ隊マーク」になっていたわけですが、
このトムキャットは第84戦闘機隊の所属マークがつけられています。



海軍第84戦闘機隊は、このスカル&クロスボーンのマークと共に、
1980年の映画

「ファイナル・カウントダウン」

に原子力空母「ニミッツ」と共にに出演したことで知名度の高い航空隊です。
航空隊のニックネームは

「ジョリーロジャース」。

英語圏では一般的に海賊旗をこう称することからです。



翼の下の配線もこのように展示してくれています。
ここの展示も手で触れることを禁止していません。


「ファイナル・カウントダウン」はこういう話です。

1980年、真珠湾を航行していた「ニミッツ」が竜巻に遭い、
それが去った後、偵察に出た艦載機トムキャットが発見したのは
日本海軍の零戦だった。
「ニミッツ」がタイムスリップしたのは1942年12月6日、
つまり真珠湾攻撃の全日であったー。




ちょっと待て、それはまるで「ジパング」ではないのか、
と思ったあなた、あなたは正しい。
残念ながらこの映画は「ジパング」に先立つこと20年前に
すでに公開されており、この「タイムスリップ戦史もしも物」の
原型においてはこちらがオリジナル、つまり「ジパング」は
アイデアにおいてはこちらの二番煎じだったんですねー。

おまけに、このテーマソング、聴いて頂けます?

The Final Countdown 1980 theme John Scott

お時間のない方は4分20秒からだけで結構です。

「こりゃーあれじゃん!」

と思った方、その通り。
業界では有名なパクリなんですね。
映画公開の2年後にヒットした曲なので、言い逃れできません。
今この曲のクレジットを見ると「ジョン・スコット」という名前が
「あれ」の作曲者「大森某」の名と共に併記されています。

これは、なんとファイナルカウントダウンの音楽担当、
ジョン・スコットが、わざわざ盗作を指摘するために来日し
さらに大森某も盗作であったと素直に認めたため、
作曲者として名前を連ねることにしたのでした。

うーん。恥ずかしい。
これは恥ずかしいぞ日本。

パクリがどうのこうのと某国や某国を日夜馬鹿にしていても、
実はわずか3~40年前にこんなことがあったというのは恥ずかしい。

このころはインターネットは勿論ビデオさえ一般的でなく、
従って映画は映画館かテレビで放映された物を見るしかなかったんですね。
ましてや映画音楽は、よほどヒットした場合を除き、
一般の耳にほとんど触れることなく終わってしまったのですから、
大森某はばれないだろうと思って盗作に走ってしまったのでしょう。

まあ「ジパング」はアイデアをパクりながら色々と展開させているので
著作権的にはセーフ(道義的にはアウト)なのかもしれませんが。

音楽といいストーリーといい、このファイナルカウントダウン、
日本人の「これをやってみたい!」という琴線に触れるものがあったみたいですね。






何の説明もなく展示されていたエンジン。
せめて包装を外そうよ・・・。



続きます。