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日系アメリカ人~Military Intelligence Service(アメリカ陸軍情報部)

2016-01-31 | アメリカ

今アメリカにいるので?関係のあるところで日系アメリカ人シリーズです。
 


"MIS"とは、アメリカで対外戦のために設置された陸軍情報部の略です。
対日本戦のために日系二世たちが集められました。
情報戦を戦うために、敵国の血を引く者ばかりの部隊を編成したのです。

MISには日系人だけでなく、ドイツ語系の語学要員の部隊もありました。

今回は病気でそれどころではなかったのですが、ここSFに来るたび散歩に訪れる
ゴールデンゲートブリッジ下のクリッシーフィールドという海沿いの一帯があります。
当ブログでも何度かご紹介しているのですが、ここには昔要塞と飛行場があり、
当時クリッシー・陸軍飛行場という名称で呼ばれていました。

ここに日系二世を集めた情報部隊、陸軍第4情報学校が設立されたのは1941年の11月
この日付に何か気づかれませんか?
そう、これは真珠湾攻撃のちょうど1ヶ月前なのです。

校長と4名のインストラクターは日系アメリカ人、生徒がほぼ全員日系二世という部隊を、
アメリカは真珠湾攻撃直前に設置したということです。

これはアメリカが日本に先に攻撃させるべく政治を動かし、その上で

そろそろ日本が開戦に踏み切ることを予想していた

ということでもあり、少なくともこの時召集された日系米人は
真珠湾攻撃のニュースに一般のアメリカ人ほど驚かなかったのでは、
と思うのですが、いかがなものでしょうか。



MISの任務は翻訳、情報収集、文書の分析、開戦してからは捕虜への尋問、
投降の呼びかけなどでした。

授業では、日本の地理・歴史・文化を学び、それを基礎知識として、
 日本語の読み書き・会話・翻訳・通訳・草書の読み方や捕虜尋問の方法、
『作戦要務令』や『応用戦術』を使っての軍隊用語の翻訳、
前線の日本兵から入手した手紙・日記・地図等の押収文書の翻訳を学びました。


さて、開校してから一ヶ月で真珠湾攻撃が起こり、日米両国は戦争に突入します。
その直後からFBIと警察は、ハワイと本土の日系コミュニティ・リーダーを逮捕し始め、
1ヶ月後には米軍に所属していた多くの日系人が説明もされないまま隔離されたり、
除隊されたりということが起こり始めます。

ルーズベルトが日系人の追放と収容所への収監を発令したのが2月19日。
3月30日からはすべての日系人に対して軍が徴兵することが禁止されます。

そしてこの語学学校も、 軍事地域からすべての日系人を排除する命令によって、
サンフランシスコからミネソタ州のキャンプ・サベージに移されることになりました。 
ミネソタが移転先に選ばれたのは、カ州のような偏見がなかったためだそうです。

しかし、戦争が始まってわずか4日後に、ハワイでは高校生を含む日系二世が
ハワイ州の兵隊に志願で集められたり、

大学志願兵部隊(トリプルV、Varsity Victory Volunteers)

が編成されたり、つまりアメリカでは開戦後、日系人の扱いを巡って正反対の、
様々なことが一挙に起こっていたということになります。 



プレシドにあった頃の情報学校の生徒たち。
これはクリッシーフイールドで撮られた写真です。

情報学校での語学訓練は大変厳しいものでした。

午前 8 時から午後 5 時まで毎日9時間の授業。
それが済んだら午後 7 時 から9時までは復習と予習。

土曜日も4時間の授業が行われました。
日常的な日本語に加えて、兵語や地図の読み方、草書にいたるまで。



日本で教育を受けたことのあるものはごくわずかで、あとはゼロからの学習だったため、
「 6 カ月で3000字の漢字を覚えた」生徒もいたそうです。



今現在と、全く様子が変わっていないというこの感動すべき光景。
ゴールデンゲートブリッジが後ろに見えます。
ブリッジ手前は当時の格納庫で、現在はロッククライミングセンターになっており、

ずっと左手に行くと、週3日くらいオープンしている「日系アメリカ人記念館」
があるのは、この関係からに違いありません。

戦争が進むにつれ、終戦後 の日本占領を見据えて兵士は増員されました。
カリキュラムは短縮され、その内容 も政策、産業、法学など、
高度かつ多分野に渡る日本語能力の要求に応じるものとなりました。



MISには女性将兵もいました。
最初のMISランゲージスクールの卒業生たちは、海外にも派遣されています。

海外って日本もですよね?



ミシシッピのフォートスネイリングにあったMISの女性隊。
 スネイリングの情報部基地は、ミネソタのサベージに移転した後、
対日戦争のために人材を必要とされた二世情報部隊の増加に伴って設置されました。 



左がヒロシ・”バド”・ムカイ、真ん中がラルフ・ミノル・サイトウ軍曹。
1945年6月17日、沖縄で捕虜を尋問しています。

日系人であるから日本人に対して同情的であったかというとそうではなく、

「捕虜を生きたまま捉えた者には、アイスクリームがご褒美」

というようなおふれが日系人情報部隊に出回っていたように、やはり彼らも
アメリカ陸軍の人間として日本人との戦闘を行っています。

元MIS隊員のディック・ハマダは、先の尖った竹を地面に突き刺して罠を作り、
日本兵を追い込んで串刺しにして殺したと証言しており、
しかもこれはごく一部の例にすぎませんでした。



左からに番目に立つのはアイケルバーガー将軍。
陸軍第8軍の司令官となり、対日戦、終戦後は占領を指揮しました。
1947年の天皇陛下御巡幸の際、お召し列車とアイケルバーガーの乗った列車がすれ違った時、
お召し列車を待たせたというエピソードがあります。


左の陸軍帽子が捕虜で、二世通訳(ヘルメット)は将軍の言葉を翻訳して質問しています。



左上から、戦場で日本語で降伏を勧告するアナウンスをする二世兵。

右上、降伏した海軍施設の代表に海軍のフレッチャー提督の通訳をするウィリアム・ワダ。

左下、降伏調印式における情報部隊のトム・サカモト。(中央)

そして右下、ジェネラル・マッカーサーと通訳で付き添うMISの将校。

日本占領に当たって、マッカーサー将軍が最もあてにし信頼したのがMISでした。
冒頭挿絵を見てもおわかりのように、対米戦争における二世部隊は「シークレットウェポン」、
つまり強力な秘密部隊でもあったのです。



展示室の一隅に、ジャパネスクを意識した照明の、こんなコーナーがありました。



このユニフォームはMISののサカキダ氏が、フィリピンの日本軍保所収容所を脱出して
ジャングルに潜んだのち、アメリカに帰国するにあたって「制作した」ものだそうです。
細部を見ても手縫いには見えないんですが、ミシンはどこで調達したのでしょうか。



サカキダの受けたブロンズスターメダル、優秀勤務メダル、オナーメダル。
現役時代使っていたコンサイス和英辞典があり、また、日本の陸軍士官の名簿
(アルファベット順)もこんな小さな本に編纂されていたようです。



海軍主計部隊が出征に当たって認めたと思われる日章旗への寄せ書き。

この寄せ書きはMISのメンバーが南方のいずこかで獲得し持ち帰ったものです。

遺族はこの旗をなんとか遺族に返したいと思い、当博物館に寄贈したのですが、
いまだにここにあるということはまだ見つかっていないということなのでしょうか。

この英語の説明には、

「日本では家族が出征する時に、彼の故郷がこれを贈った」

となっているのですが、この寄せ書きは個人に宛てたものではなく、
主計科全体で行ったものだったため、誰に返却していいかわからなかったのかもしれません。

まさかこれを見ておられる方で、ここに書かれた名前をご存知であるという方はおられませんか?



MISのニシジマ(右)が、日本人兵士に捕虜になるよう勧告している(した?)ところ。
沖縄戦では、沖縄方言を使って投降勧告を行うなどの任務に当たりましたが、
もしこれがなければ、沖縄戦の犠牲者はもっと増えていたとも言われています。



与那国島で捕虜になった陸軍大佐に尋問するジロー・アラカキ軍曹。
真ん中はMISの白人将校です。

この陸軍大佐は沖縄で捕虜になってしまったということですが、
生きて虜囚の辱めを受けてしまっているせいか、汗をぬぐっています。 



通訳として「ビッグネーム」に当たった二世は、それも名誉と考えたようです。
マニラの軍事法廷で山下奉文の通訳を務めたタダオ・イチノクチは、
どうやら自分のために、山下大将と一緒にわざわざ写真を撮ってもらった模様。

ご存知のように山下大将はこの法廷で「マッカーサーの復讐」ともいわれる
一方的な裁判を受け、戦犯として有罪判決を受け死刑になったわけですが、これを見る限り
山下の表情は穏やかでかつ悠揚迫らざる迫力に満ちており、卑屈さは微塵もありません。




これを書く前に、山崎豊子の「二つの祖国」をKindleで読み直しましたが、

二世たちにもその数だけ人生があり、日本に対する考え方も様々であったことが描かれています。

軍政府内の住民用尋問室では、暴力的な尋問を行うう日系人通訳がいましたし、また、
沖縄戦と進駐軍MISLSの日系2世米兵のなかには、

「米軍が今もっとも必要とする人間」

として認められた現実に満足して、日本人を見下す者もいました。

当時の日本政府機関や民間の団体が、なにかの許可申請や陳情を行うのには、

まずこの窓口の二世の担当官に媚を売る必要があったと言われます。(wiki)
かと思えば、「二つの祖国」の主人公、天羽賢治のモデルになったデイビッド・イタミのように、
日本とアメリカ、二つの祖国の狭間で重圧に耐えかね、自殺してしまった者も居ました。


シリーズ次回は、そういった二世たちから何人かを取り上げてご紹介したいと思います。



続く。