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第二次世界大戦とその後のサンディエゴ軍港〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-03-29 | アメリカ

空母「ミッドウェイ」甲板上にあった「サンディエゴと海軍」シリーズ、
最終回です。
サンディエゴに海軍が来るきっかけになったのは、なんと日露戦争に勝利した
日本に対して釘をさす意味で行われた示威運動とされている

「グレイト・ホワイト・フリート」

に地元民が熱心に寄港を誘致したことであった、ということを知りました。

つまり、ぶっちゃけサンディエゴに海軍があるのは日本のおかげなのです!

というのは勿論冗談ですが、無関係ではないわけですよね。良い意味ではないにしても。

◆ ウォータイム 

そしてそのブースターとなったのが、1941年の開戦でした。
開戦と同時に市内に労働者がなだれ込むように移入してきて、
サンディエゴ市の人口は5万人以上も爆発的に増えることになったのです。

交通や住宅事情はたちまち人口増加とともに混雑を極めるようになり、
街外れの空き地だったところですら、トレーラーでごった返すようになりました。

そして政府主導で、約3000世帯が新たにメサ(メキシコ特有の台地)
の近隣の空き地に作られた住宅地に移入してきました。

各写真を引き伸ばしてみました。

人でごった返す市街地は、それまでここでは見られなかった光景でしょう。
海軍がやってきたので彼らを相手の商売も絶好調です。

この「サムの店」では、水兵さんのセーラー服などを専門にしていたようですね。

街のいたるところにセーラー服が見られる街。

戦争中だというのに、この写真から見られる街の活気はいかなることでしょうか。
戦争が「産業」であることはアメリカという大国の実相であると
我々はなんとなく歴史から想像するわけですが、こういうのを見ると
少なくともサンディエゴという街は、日本との戦争が起きなかったら
これほどの発展を遂げたかどうか疑問であるとすら思えます。

艦隊のお兄さん御用達の店、「ボマー・カフェ」。
こういった便乗商売?も含め、サンディエゴは海軍関連企業で振興しました。

エンターテイメント産業も大いに賑わった分野で、水兵たちを乗せた
トロリーやバスは、次々と彼らをダンスホールに運び、
そこではアーティ・ショーやグレン・ミラー、ベニー・グッドマンなど
綺羅星のようなタレントが、連日朝から晩までショウを繰り広げていました。

のみならず、タトゥー・バー、ペニー・アーケード(ゲームセンター)、
このボマー・カフェやエディーズ・バーなどのランドマーク的なお店が
それこそ休む間も無く営業を行っていたのです。

 

戦時中、海軍の空母は太平洋戦線に戦いに赴く前には必ず
航空部隊の機材と人員をノースアイランドで搭載するのが常でした。

一隻の空母が出撃していったあとは、別の空母が途切れることなく
やってきて、艦載機のパイロットはここで文字通り「月月火水木金金」
(アメリカ風にいうとセブン・デイズ・ア・ウィーク)の体制で
訓練を行いました。

かれらが、戦闘で失われることが既定路線となっているパイロットの
補充要員であることは誰もが知っていました。

街に海軍は産業をもたらした、というのはなんども言うことですが、
海軍が次々と投入する飛行機に携わる労働者も膨れ上がりました。

写真は、コンソリデーテッド・エアクラフトの組み立て工場で働く
労働者の出勤風景です。

そういえば、わたしが今密かに?楽しみにしている漫画
「アルキメデスの大戦」で、「大和」を作らせまいとする主人公
櫂少佐に向かって、艦隊派の平山中将はこう言います。

「これがどれほど呉の地域経済に貢献していることか。
呉だけではない。
船渠改修工事には中国、四国、九州からも出稼ぎに来ている。
海軍工廠の仕事によって日本全国の人々の仕事が
支えられているといっても過言ではない。
雇用を創出し経済の好循環を育むためのこの事業は
日本の将来を見据えた、いわば投資である。

つまり国防とは国家の経済政策!
公共事業なのだ!」

櫂少佐はそれに対し、

「軍需産業を活況にする目的ならば大型戦艦
建造である必要はない。
空母や直掩型戦艦でも同様の経済効果は得られます」

と反論するのですが、その話はご興味がありましたら
本編を読んでいただくとして、戦争が雇用を生み出す
経済活動でありひいては国の経済政策であることは
アメリカに限ったことではないのです。

海軍に志望してくる入隊希望者に軍事訓練を行うことも
どんどん拡大していく海軍基地では一層盛んに行われました。

上、行進の訓練を受ける新入隊員。
下は海軍トレーニングセンターで「ジェイコブズ・ラダー」
と呼ばれる縄ばしごを登る訓練を受けています。

Jacob's Ladder ヤコブの梯子(ヤコブのはしご)

とは、旧約聖書の創世記28章12節でヤコブが夢に見た、
天使が上り下りしている、天から地まで至る梯子ですが、
このことから日本でいうおもちゃの「パタパタ」、
いつまでも続く階段のようなものの総称に使われることがあります。

海軍でこの単なる縄ばしごをこう呼んでいるのは、
登っても登っても終わりがないからに違いありません。


そして、ここサンディエゴからは、次々と、日本との戦いのために
太平洋に向かう海軍の船が出航していきました。

上は「エセックス」。
24機のSBD偵察爆撃機、11機のF6F戦闘機、
18機のTBF艦攻を乗せ、太平洋を西に向かって進んでいます。

下はUSS 「ワスプ」。
西方に出撃する前にサンディエゴに帰還するときの姿です。

左から時計回りに

SBD ドントレス F4F ワイルドキャット TBF アヴェンジャー爆撃機
F6F ワイルドキャット F4U コルセア 戦闘爆撃機 PBYカトリーヌ

当時海軍航空基地は6箇所にあり、例えばカタリナ水上機は
サンディエゴ湾をくまなくパトロールして、敵の潜水艦が
この要所に忍び込むことのないように見張りを行いました。

アドミラル『ブル』ハルゼーの率いる第三艦隊が
1945年8月、機動部隊を率いて日本に出撃するときの様子です。

ハルゼーは1943年に第3艦隊司令官になって以降、一言で言って

「特攻と台風」

との戦いに明け暮れていました。
1944年10月末、フィリピンで特攻を受け、12月18日、コブラ台風に巻き込まれ、
(駆逐艦3隻沈没、7隻が中小破、航空機186機、死亡者約800人)

1945年、4月末、ニミッツの命令で作戦途中でスプルーアンスと指揮官交代させられ、
同時にこの時、海軍の損害が戦死者数百人、負傷者数千人、損傷船舶20隻前後に達し、
この損害が神風特攻によるものと知ってショックを受けます。

さらに6月5日、またまた台風に遭遇。(艦船36隻が損傷、航空機142機喪失)
更迭されかかるもマッカーサー一人に勝利の功績を独り占めさせてはならじ、
という海軍の陸軍に対する敵愾心がなぜか彼を守って、無罪となっています。

7月、日本攻撃の際イギリス海軍空母部隊が援軍で到着するも、この目的が

「マレー沖海戦の汚名返上と日本降伏立役者に名乗りを上げるため」

という漁夫の利を狙うものと疎ましく思ったハルゼーは、
(この人たち案外こんなことばっかり考えてるのね)
イギリス艦隊を艦船がほとんどいない大阪港に向かわせ、
アメリカ艦隊を日本艦隊本拠地呉に向かわせています。

もうほとんど反撃する力のない日本海軍相手にフルボッコ、
これは本当のところ、誰が日本に引導を渡したかはっきりさせるための
イギリスとの権力争いから来ていたということを意味します。
一方日本にとって、このときのアメリカ艦隊の攻撃は

呉大空襲

で残っていたわずかな海軍艦船を永久に失うことを意味しました。

この写真は8月に入ってからの日本行きということなので、
おそらくハルゼーが広島・長崎へ原爆が投下された後に、
再度爆撃を行うために出撃したときではないかと思われます。

ハルゼーは「日本は降伏したがっている」というサンフランシスコの
ラジオが報じた噂を聞いて、そうはさせまじと(笑)もう一度爆撃を行うために
エニウェトク島(マーシャル諸島)への帰港を取り消して、日本へ引き返したのでした。

 

ところがちょうど日本が8月15日に降伏してしまい、ニミッツは最高機密で最優先の電報で
「空襲作戦を中止せよ」との命令をハルゼーに対して送って来ました。

しかしハルゼー、此の期に及んで

「うろつきまわるものはすべて調査し、撃墜せよ。
ただし執念深くなく、いくらか友好的な方法で」

という命令を出していたということです。
おっさんよお・・・。

戦争が終結する頃、サンディエゴの人口は以前の二倍にまでなり、
経済規模が増大して西海岸でも経済の中心地の一つとなりました。

写真右上は終戦の知らせを受けたサンディエゴ市民。
市民の中に普通に水兵さんが混じっています。

俯瞰写真に見えているのは、1944年にクェゼリンの戦い、
マーシャル諸島侵攻でその役目を担った軍艦ばかりだそうです。

ちなみに、今「ミッドウェイ」が係留されているのはこの写真の
右下の赤い線で指し示された部分に当たります。

 

◆ PROSPERITY (繁栄) 1945ー

現在のサンディエゴです。
赤で指し示された部分は、全て海軍関係の施設となります。

コロナドの砂州途中には「海軍水陸両用部隊基地」があり、
内陸には海軍病院や補給処、海兵隊基地などもあります。


軍隊の施設が第二次世界大戦後縮小されたのに伴い、
海軍は業務をウェストコーストでのオペレーションに集中して行きました。
冷戦中にはこの地域は人員、艦船、そして航空機補給のための訓練施設がほとんどとなります。
(トップガンなどもその一環ということができますね)

写真は USNS「コンコルド」に洋上補給する補給艦(左)


こんにち、9万5千人以上の人々がこのサンディエゴエリアにいるわけで、
海軍はこの地で一つの組織として
もっとも巨大な雇用先という言い方もできるわけです。

付け加えれば、海軍だけでおよそ14万2千500人もの民間人の仕事を
艦隊のサポートのために生み出しているのです。
この数字は、サンディエゴ地域全体のトータルの雇用者の20%を占めます。

例えば「ニミッツ」。

この空母一隻に関わる軍人と民間人の数を考えただけで万単位の数字が浮かびます。

「チャンセラーズビル」。

このパネルが制作されたのは2015年以前であったらしく、
現在横須賀にいるはずの「チャンセラーズビル」の写真が(笑)

それまではサンディエゴが母港だったんですよね。

F/A-18 ホーネット。
ついこの間墜落してパイロットが二人亡くなっていましたが・・。

そういえばホーネットドライバーの唯一の知り合いであるブラッドは

「ベイルアウトすることは、たとえ死なずに済んでも、
搭乗員としてもう終わりということでもある」

と言っていましたっけ・・。
死なずに済む確率はだいたい2分の1、残りの2分の1が
頚椎損傷などで二度と操縦はできなくなるとかなんとか。

ところで艦載機1機にも雇用という意味では莫大な人間の数を必要とします。

SH-60 MK IIIシーホーク。
対潜哨戒のほか、救助ヘリとしても運用されます。

 

この紳士はピーター・バートン・ウィルソン。
サンディエゴ市長、上院議員、カリフォルニア州知事として、
サンディエゴ市のダイナミックな発展に寄与した人物です。

特に上院議員時代、サンディエゴ地域における海軍の
強いプレゼンスを維持し続けることを効果的に提唱しました。

軍港には最適な海深を持つ現在のサンディエゴ軍港は、
例えばニミッツやカール・ヴィンソンなどの原子力空母であっても余裕で擁し、
9隻もの輸送艦も備えています。

アメリカ海軍とサンディエゴは、100年以上パートナーシップを結んできました。
軍港に最適な地形、訓練に最適な環境をを海軍はサンディエゴに見出し、
サンディエゴは1908年の祖先が結びつけたその関係をさらに発展させ、
街の繁栄を共存することで、一層強固なものにしていくことでしょう。

 

続く。