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バッファローの青いハーケンクロイツ〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2023-03-13 | 航空機

マスキーゴンのシルバーサイズ潜水艦博物館は、
もちろん潜水艦についての展示がメインですが、
地元のベテランの遺品などを後世に遺すという役割も担っています。

今日は、何人かのベテランたちの制服と、
また展示に寄せられた模型などをご紹介していこうと思います。

■ある海兵隊パイロットの記念品



まずは海兵隊パイロットの保護ベストです。
ライフジャケットですが、パイロットの場合、
搭乗時に着用するものだと思われます。

船と違って、何かあってから着込む時間の余裕はないですから。

ベストの右胸に見えるのは「サメよけ」。
ベストを膨らますのに息を吹き込むためのホースとか、ダイマーカーとか、
会場に落ちた時に広げる簡易筏とか、
とにかく全てが誰にでも瞬時にわかるように、
(海上で説明書広げるわけにいきませんから)
実物に大きく用途と使い方が書いてあるのが特徴です。


同じ海兵隊パイロット、ウォルト・スプロール中佐の軍服一式。



スプロール中佐、大尉時代のメダルその他。
この一角、この人が寄贈したグッズで作る思い出コーナーみたいですね。

彼は愛称「デス・ラトラーズ」(死のガラガラヘビ)、
VMF 323航空隊でF4U-4コルセアにのっていたパイロットだったようです。

軍籍にあったのが1944年から56年とあるので、
朝鮮戦争にも出撃して、中佐で退役したと思われます。



ちょうどライトで見えませんが、
結婚式で海兵隊の制服を着たスプロール氏と花嫁の写真もあり。

下の航空母艦における発着シーンの写真ですが、艦番号から
この人がエセックス級「レイテ」の艦載部隊にいたことがわかります。

「レイテ」は就役46年、退役したのは1959年なので、
ほぼスプロール中佐と「同期現役」の艦と言っていいでしょう。

■ ジークとコルセア


零戦とコルセアがまるで空戦をしているかのような模型展示。
この展示は、マスキーゴン出身で最も成績をあげた、
コルセアパイロットの「アイク」ケプフォード大尉に因んだものです。



マスキーゴン出身のアイク・ケプフォード大尉は、
第二次世界大戦でアメリカ海軍のトップ6位のエースでした。

彼の撃墜記録は対日戦において16機とされており、
その成績は1943年から4年までの間、南太平洋の
ブーゲンビルとラバウルで、F4Uコルセアで立てたものです。

彼は、ラバウルの日本軍基地への攻撃を行った
あの有名な「スカルアンドクロスボーンズ」(骸骨と交差した骨)
というニックネームの飛行隊所属で、
1944年3月に日本がラバウルでの作戦を事実上放棄するまで、
79日間の空戦で154機の日本機を撃墜したとされます。

この時代の撃墜記録なのでおそらく正確ではなく、
多い方に修正されているとは思いますが、だとしても凄い数です。


1944年2月19日、ケプフォード大尉は多数の敵機から集中砲火を受け、
燃料をほとんど使い果たしながらも、緊急注水ブースターの助けを借り、
低高度であまつさえ追跡機を撃ち落とし、ギリギリの生還を果たしました。

終戦までに彼は3つの主君飛行十字章、2つの海軍十字章、
シルバースター、航空勲章を獲得していましたが、
まわりはこれでも勲章もらい足りないと思うほど、
彼の活躍は目覚ましかったようです。

戦後の彼は、有名なドラッグチェーンのCEOとして活躍しました。

模型のコルセアはケプフォード大尉機を再現しています。
これには、コルセアという機体は特に技術のあるパイロットにしか
乗りこなすことができない特別な操作性を持っており、
さらに駆動製に優れた零式艦上戦闘機に対抗しうる機体だった、
と書かれています。

■ USS「マイアミ」



ジョン・ロバート・ヴェーニエというベテランが製作した模型で、
博物館に寄付したのはこの人の家族だそうです。

ご本人は亡くなったので、その遺品として、ということでしょうか。
解説がありますので、翻訳します。



USS「マイアミ」(CL-89)
「クリーブランド」級軽巡洋艦

USS「マイアミ」は1万トンの「クリーブランド」級軽巡洋艦で、
ペンシルバニア州フィラデルフィアで建造されました。

1944年4月、「マイアミ」は対日本戦を開始するため太平洋に向かいます。

サイパン進行と6月のフィリピン海海戦で、
空母の護衛として初めて戦闘に参加し、
テニアン島、グアム島、パラオ島、その他敵が占有する島々に上陸し、
その役割を継続しました。

1944年10月、「マイアミ」は高速空母機動部隊の一員として
沖縄、台湾、フィリピンにある日本軍基地を攻撃し、
レイテ沖海戦に参加しました。

10月26日には6インチ甲板砲によって駆逐艦「野分」を撃沈した、
とここには書いてあります。


陽炎型駆逐艦「野分」

ちなみに、「野分」を撃沈したのは「マイアミ」単独ではなく、
ハルゼーの高速戦艦部隊にいた軽巡「ヴィンセンス」
「ビロクシー」駆逐艦「オーエン」「ミラー」
との共同です。


「野分」はサンベルナルジノ海峡手前で高速戦艦部隊に捕捉されましたが、
アメリカ軍は野分を巡洋艦もしくは大型駆逐艦と判断したためか、
よってたかって砲撃され、大破。

最後駆逐艦の魚雷を受けて沈没し、艦長以下272名全員が戦死しました。
「野分」には救出された「筑摩」の乗員120〜30名が乗っていましたが、
やはり「野分」と同じ運命をたどりました。

このとき、アメリカ軍に救助され、生き残った人が一人だけいたそうですが、
その人のその後の人生はどんなものだったのでしょうか。


1944年から1945年の終戦までの間、
「マイアミ」は空母機動隊に同行し、フィリピン、アジア、台湾、
そして日本の本土に攻撃を行いました。

1945年3月から1945年4月まで、敵の特攻機による絶え間ない攻撃に耐え、
沖縄を占領するキャンペーンに参加しました。

戦後は西海岸に戻り、海軍予備役の訓練に参加して1947年退役。
その後は太平洋予備役艦隊に配属され、
そこで14年間「モスボール」されて過ごしました。

最終的に1961年9月に海軍名簿から除籍され、
翌年スクラップとして売却されて生涯を終えました。

■ 航空機模型展

アメリカの戦争博物館には、必ず有志の寄贈した模型がありますが、
潜水艦博物館にも関わらず、航空機模型を寄付した人がいたらしく、
説明を添えて展示してありました。

せっかくですので、ちゃんと翻訳しておきます。



🇯🇵 中島飛行機 一式戦闘機 隼 Ki-43🇹🇭

日本軍のKi-43は翼荷重が軽く、空中回転半径が小さい戦闘機で、
1941年10月に導入されました。

残念ながら、火力が小さくて速度が遅かったため、
日米両国が12月に開戦を迎えたとき、
P-38、P-40、P-47による上空からの攻撃に対しては脆弱でした。

そしてアメリカ軍にP-51マスタングが導入されると、
Ki-43は低速飛行時、低空旋回飛行時をのぞく、
あらゆるシナリオで劣勢に立たされることになります。

つまり勝てなくなってしまったのです。



この模型の尾翼には白い象の徽章があしらわれていますが、
これはタイの軍隊によって運用された同機を再現しています。

1940年のフランス領インドシナのように、日本による併合のあと、
タイ王国は占領に直面することがありませんでした。

このKi-43はそんな関係下日本からタイ軍に支給されていたことを表します。



🇯🇵 三菱 零式水上観測機 F1M

1941年にデビューしたF1Mは、当初戦艦や重巡洋艦で運用するための
カタパルト発射式観測機として設計されました。

ただし、ポイント迎撃、船団護衛、沿岸哨戒、対潜哨戒、軽輸送など
さまざまな役割で使用されていました。

F1Mは11,000フィートで230mphの最高速度と
460マイルの航続距離を持っていました。
日本は第二次世界大戦中1,118機を生産しましたが、
これはこの時代の服用機としては異常に多い数でした。

🇯🇵 中島 Ki-44 二式単座戦闘機 鍾馗 Shoki

ki44は旧式のキ43の後継として1942年1月導入されました。
機体には12.7ミリ機関銃が4門装備されており、
最高速度は時速360マイルでした。

その、より強力なエンジンはki-43を凌駕していましたが、
Ki-44は航続距離の不足により、P-51マスタングのような
アメリカの航空機に対しては依然としてわずかに不利でした。

それにもかかわらず、機体は終戦まで使用されていました。

このモデルは、第二次世界大戦中に
大日本陸軍航空隊が使用したマークを再現しています。


🇮🇹 マッキ C-202 フォルゴーレFolgore



C.202は1941年イタリア空軍で配備され、1944年まで生産されました。
最高速度は時速375マイル、航続距離は475マイルに制限されていました。

これは、アメリカのP-40やイギリスのホーカー・ハリケーンと比較して
ハンドリングと攻撃能力がわずかに優れているだけの、
短距離のポイント防御機としてのみ有用でした。

Macchi C.202 Folgore footage - Regia Aeronautica in ww2 [AI, 60fps, Colourized]

とはいえ、北アフリカではメッサーシュミットBf109
ほぼ互角の性能を発揮したと言われます。


🇺🇸 ブリュースター バッファローF2A-2🇫🇮

アメリカのレンドリース政策とその他の戦時兵器協定の一環として、
アメリカ製のブリュースター「バッファロー」のうち44機は
フィンランドに売却されたことがあります。

そののち、機体は装甲を外され、翼から機銃が外されて軽量化され、
機動性が向上することになりました。

フィンランド空軍は、1939年と1940年のロシアに対する
冬戦争で証明されたように、他の国よりも
このバッファローをうまく運用したことで有名です。

ここにあるモデルは、第二次世界大戦中に
フィンランド空軍が使用したいくつかの塗装のうちひとつを再現しています。



白い背景にFAFの青いハーケンクロイツは、
このシンボルがナチスのイデオロギーに教化される前のものです。

🇳🇱フォッカーD.XXI 🇫🇮🇩🇰



オランダで設計製造されたD.XXI のプロトタイプは、
1936年3月に初飛行、1938年に現場に投入されました。

最高時速は時速286マイル、航続距離は578マイルで、
また、7.9ミリ機感銃を4門搭載していました。

戦前に生産されたフォッカーは146機あり、
オランダ、デンマーク、フィンランドで運用され、
最も効果的に使用されたといわれています。

フィンランド空軍の最後のフォッカー航空機は、
1951年まで運用されていました。

ここにあるモデルも、ナチスがシンボルを制定する数年前に導入された、
FAFの誇り高い鉤十字の徽章をつけています。



 メッサーシュミット Bf-109G



BF-109GはメッサーシュミットBf-109の後継モデルで、
1942年2月以降に生産されたバージョンです。

機体の翼の下には特にアメリカの銃爆撃機、
B-17を撃墜するためのロケットを装備していました。

Bf-109Gは爆撃機の搭載している.50口径マシンガンの範囲を超えて
攻撃を加えることができました。
ロケット弾が命中すれば空中で大型の爆撃機を爆破することもできたのです。

Bf-109はすぐさまドイツルフトバッフェ武器のバックボーンになりました。

この武器を形作る部品の一部は、あの悪名高い強制収容所で
強制労働によって作り出されていました。

フォッケウルフ FW-190D-9



1941年に就役したFW-190は、Bf-109とともに
ドイツ空軍の装備の不可欠な存在であり続けました。

フォッケウルフの2,240hpエンジンによって、航空機は
21,000フィートで426mphまで加速が可能です。

また、機種に13ミリ機銃2門、翼に20ミリ機関砲2門を装備していました。


ここにあるモデルのマーキングは、

Luftwaffe Jagdverband 44(JV-44)
第44戦闘団

を再現しています。

これらの航空機は、メッサーシュミットのMe262戦闘機を収容している
ドイツ空軍基地を防衛する任務を担っていました。



Me262ジェット戦闘機「シュヴァルベ」は、
空中での最高速度は速いにもかかわらず、
プロペラ機のような加速力を欠いていたため、
フォッケウルフの迅速な応答能力が不可欠だったのです。



続く。