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空母打撃群 タスクフォース〜USSシルバーサイズ潜水艦博物館展示

2023-03-19 | 軍艦

シルバーサイズ潜水艦博物館の展示より、続きです。

■ 機動部隊模型


USSシルバーサイズ潜水艦博物館の展示の中では
その大きさでは群を抜いていると思われたのが、
空母打撃群(キャリア・ストライク・グループ)を説明するための模型。

空母打撃群(CSG)は、アメリカ海軍の空母戦闘団の一種です。

空母1隻、巡洋艦1隻以上、駆逐艦またはフリゲート2隻以上で構成され、
そrに65~70機の空母航空団を加えた約7,500人規模の作戦編隊です。

空母打撃群はアメリカの戦力投射能力の主要な要素であり、
スーパーキャリア1隻で一国の空軍に匹敵する火力を有するとされます。

第二次世界大戦の頃は空母戦闘団と呼ばれましたが、
現在では「エンタープライズ打撃群」などのように、
中心となる空母の名前が冠されることが多いようです。

現在の空母打撃群は、

1、「カール・ビンソン」
2、「ドワイト・D・アイゼンハワー」
3、「アブラハム・リンカーン」
4、「ロナルド・レーガン」
5、「ハリー・S・トルーマン」
6、「セオドア・ルーズベルト」
7、「ジョージ・H・ブッシュ」
8、「ニミッツ」
9、「ジェラルド・R・フォード」


の9つが存在し、こうして並べてみて改めて、
空母の名前に大統領経験者が多いのに気がつくわけです。
(ニミッツは海軍枠、カール・ビンソンは海軍への貢献枠)



さて、この展示は、大きな機動部隊の模型の四方に説明があり、
ボタンを押すと「戦艦」「巡洋艦」「駆逐艦」などが
点灯される仕組みになっています。

まずは4面のうちこの面の説明から見ていきましょう。

■ ファストキャリアフォース


1945年、沖縄におけるタスクグループ58.1


このプロットボードに描かれているのは、1945年3月と4月、
日本に向けて航海した偉大なアメリカ海軍太平洋艦隊の一部です。

タスクグループ58.1であり、コンパスローズの中心に描かれている旗艦は
USS「ホーネット」(CV-12)です。

TG58.1はタスクフォース58Fast Carrier Forceの一部でした。

任務部隊は第二次世界大戦中、艦隊組織にたいし、
変化していく戦争状況に対応する柔軟性を提供するために創設されました。

第58任務部隊は攻撃空母を中心に編成され、
他の任務部隊は沿岸砲撃、軍隊の輸送、および兵站支援を担当しました。

タスクフォースはタスクグループ58.1のようなグループに分割されました。

タスクフォース58から選別された他のTG58.2、TG58.3なども、
「ヨークタウン」「エンタープライズ」「レキシントン」
などの空母を中心に組み立てられます。

それぞれのグループが担当の責任を担うことになっており、
たとえば二つのタスクグループが島を別方向から攻撃したりします。
また別の艦船は水上艦を「ハンティング」することもあるでしょう。

また、支援船を擁する任務グループは、高速空母部隊に燃料を補給し、
装填や修理を行うために待機しているかもしれません。

タスクグループはさらにタスクユニットに細かく分割されることがあります。

戦闘前に特定の任務を実行する必要があった場合、または
状況が変化した際に対応するためですが、それを決定するのは
現場の部隊またはグループの司令官です。

具体例では、マーク・ミッチャー中将が指揮する機動部隊58
(高速空母部隊)
から任務群58.1が編成され、このグループは
ジョセフ・クラーク少将が指揮を執りました。

一つの任務群(TU58.1.3)が編成されると、
そのユニットの上級将校によって指揮されることになり、
海兵隊の上陸作戦などに対する任務支援で海岸砲撃を行なったり、
損傷した艦船を牽引したり、特定のエリアを偵察したりします。

■空母と「戦場」


USS「キトカンベイ」を攻撃中撃墜されて落ちる日本機。
1944年6月、マリアナ諸島沖




まずブルーの部分をご覧ください。
中央のUSS「ホーネット」、その周り三方に位置するのは

「ベニントン」CV20
「ベローウッド」CVL24
「サンジャシント」CVL30


いずれも航空母艦(CVLは軽空母)です。

空母が機動部隊の焦点になるにつれて海戦は変化しました。
最も顕著な変化は、戦場が拡大したことです。

かつて艦隊の主力艦であった戦艦は、有効射程が約24マイルでしたが、
航空母艦は200マイルの範囲で攻撃することができるようになりました。

日本の空母搭載航空機は軽量でかつ脆弱ではありましたが、
その分航続距離を100マイル伸ばすことができました。

これは、もし4隻の空母を使用すれば、日本艦隊は太平洋で
約47,000平方マイル(またはミシガン州の約半分のサイズ)
をカバーすることができたという意味でもあります。


日本の艦隊が自国の空母から約60マイルの距離で活動している
アメリカの戦闘航空哨戒隊に遭遇したとしたら?

そう、実際の戦場は劇的に拡大することになります。

たとえば、レイテ湾では、日本軍は最大800マイルの距離をとって
活動する三つの機動部隊を使って戦い、
また陸上ベースの航空機もこれに加えていました。

対するアメリカ海軍が使ったのは、二つの艦隊です。

この結果、戦闘が行われた範囲はフィリピン列島のほぼ全域にわたり、
それは緯度10度、経度12度の約43万2000平方メートルでした。

これは、アメリカ大陸で言うと、ユタ州、アリゾナ州、
ニューメキシコ州、コロラド州全域で行われたと言うことになります。

■ 戦艦ーバトルシップ


続いてこのサークルのブルーで示された艦に注目します。
左から時計回りに

「インディアナ」
「ミズーリ」
「ウィスコンシン」
「マサチューセッツ」
「ニュージャージー」

の5隻。
そう、戦艦です。


前方から「マサチューセッツ」「インディアナ」
巡洋艦「シカゴ」(CA-136)「クィンシー」(CA-71)、
1945年7月、日本本土の製鉄所への砲撃のため単縦陣で航行中


このときに彼女らが攻撃した「製鉄所」というのは、
かつてわたしが「マサチューセッツ」艦上で見学した資料によると、
釜石の製鉄所だったということになっています。

このときに「楽器会社を攻撃した」という文章があって、
なんのこっちゃと思ったのですが、今にして思えば
インストゥルメンタル=装備製造所ですよね。<(_ _)>


さて、まず、「バトルシップ」の説明から見ていきます。

この任務群は、2つの異なった級からなる5隻の戦艦を含んでいました。

「インディアナ」(BB58)と「マサチューセッツ」(BB59)は
「サウスダコダ」級戦艦、
「ニュージャージー」(BB62)「ウィスコンシン」(BB64)
「ミズーリ」(BB63)は「アイオワ」級という具合です。

「アイオワ」級戦艦は戦争のために建造された最後の級であり、
結果としてこれがアメリカ合衆国が建造した最後の戦艦級ともなりました。

しかしながら、戦艦は非常に優れた軍艦であったといえます。

その数がそもそも非常に少なかったため、
クラスごとに識別されることはめったにありませんでした。

それぞれに独自の名前があり、
これら5隻もその例外ではありませんでした。


【インディアナ】

「インディアナ」は1942年4月に就役し、
その秋遅くに太平洋に向けて出航しました。
1943年の年間ほとんどを通じて南太平洋で活動した後、
中部太平洋に移動し、そこでギルバート諸島、および
マーシャル群島での作戦に参加しています。

「インディアナ」は1944年には空母を護衛する任務に加わり、
カロリン諸島、そしてマリアナ沖での戦闘を支援しました。

1945年には硫黄島侵攻を支援し、続いて
日本本土の島々を攻撃しました。


これらの戦争中の活動により、「インディアナ」は
合計で9つのバトルスターを獲得しています。

【マサチューセッツ】


さて、ここで「マサチューセッツ」の説明になったので、
実際にその現物を見学したわたしとしては、
すかさず写真を出してきてしまうわけです。

「マサチューセッツ」は1943年に太平洋艦隊に参加する前に、
北アフリカのヴィシー・フランスに対して16インチ砲を向けました。


このことについては、現地のレポをもとに考察しております。
そのときに撃ったという砲弾も展示されていますので、
思い出しがてら見ていただければ幸いです。

カサブランカ海戦の”真実”

その後彼女はソロモン諸島とフィリピンでのキャンペーンにも参加。
レイテ湾で激しい戦闘を目の当たりにし、終戦まで
日本本土への攻撃に参加し、日本近海で終戦を迎えています。

「マサチューセッツ」は11個のバトルスターを獲得しました。



【アイオワ級三姉妹】

このタスクグループに代表される「アイオワ」級戦艦は
おそらく最もよく知られているものです。

「ニュージャージー」「ミズーリ」「ウィスコンシン」

彼女らは戦争の最後の2年間に、それぞれ9、5、8個の従軍星、
バトルスターを獲得しました。

これらの3隻の「バトルワゴン」は、結局戦争の終結につながった
日本への最後の攻撃で際立っていました。

「ニュージャージー」は第五艦隊の旗艦を務め、
「ミズーリ」はその甲板で日本の無条件降伏文書の調印式が行われました。

「サウスダコタ」級の核艦艇とは異なり、
各戦艦は大戦後も活躍し、その後の朝鮮戦争、そして
最終的には湾岸戦争までの紛争に出動し続けました。

「マサチューセッツ」と同様、これらの「アイオワ」級戦艦たちは
それぞれ博物艦となって一般に公開されています。

■ 巡洋艦 クルーザー

1945年6月5日、艦首を失った状態でグアムに帰投する
巡洋艦「ピッツバーグ」(CA-72)

巡洋艦は戦艦と駆逐艦の間のギャップを埋める存在でした。

攻撃部隊を率いて艦隊を守るのに十分な強さを持ち、
主力感を航空機から遮蔽するための多用途性も備えています。

第二次世界大戦中の巡洋艦には二つのサイズがありました。
軽巡洋艦(CL)と重巡洋艦(CA)です。

その区別は、排水量よりも、最大砲の大きさで決められました。

軽巡洋艦には5インチ38口径の砲が、そして
重巡洋艦には8インチ55口径の砲が装備されていました。

ここに示されたタスクグループは、異なるクラスの重巡洋艦と
軽巡洋艦の両方で構成されています。

これらの中で最も古く、おそらく有名なのは

USS「インディアナポリス」CA35

に違いありません。
1932年に就役し、条約により重量は1万トンに制限されていましたが、
5インチおよび20ミリ対空砲に加えて、
8インチ55口径の砲を9門搭載していました。

1945年3月31日、この機動部隊の一員として、
「インディアナポリス」が見舞われた爆弾は、
メインデッキを貫通し艦体を貫き、これによって
そこにいた9名の乗員が死亡しました。

メアアイランドでの修理が終了すると、「インディアナポリス」は
のちに広島に投下する予定の原子爆弾の部品を輸送するという
秘密の任務に着手することになります。

荷物を届けた後、「インディアナポリス」は敵の魚雷を受け沈没しました。

彼女お1200名の乗員のうち、生き残ったのはわずか320名未満で、
そのほとんどの死因は漂流中の衰弱とサメの襲撃によるものでした。


USS「ボルチモア」(CA 68)
USS「ピッツバーグ」(CA 72)


は、空母を援護するために設計された新しいクラスの巡洋艦です。
彼女らには9基の8インチ砲が備えられていましたが、
それだけでなくより強力な対空兵器も装備していました。

「インディアナポリス」のように、水上飛行機を発射して回収することができ
偵察や捜索救助に役立ちました。

「ボルチモア」級巡洋艦は17,000トンでしたが、
「インディアナポリス」より速度は1節早く33節でした。

このタスクグループに5隻の軽巡洋艦が含まれていますが、
そのほとんどが「クリーブランド」級です。

重量が約14,000トンの

USS「ヴィンセンス」
USS「ヴィックスバーグ」
USS「マイアミ」


は航続距離が長く、亜対空防御がより強化されており、
魚雷攻撃にも耐える設計がなされた巡洋艦最大のクラスです。

しかし、「クリーブランド」の船体設計の多用途性は、
「インディペンデンス」級軽空母への改造によって示されました。

そのうちの2隻は、これら3隻の巡洋艦が掩護していました。

USS「ベローウッズ」(CVL 24)
USS「サンジャシント」(CVL 30)

これらはジェラルド・フォード大統領が現役時代勤務していた空母、

USS「モンタレー」(CVL  26)

の姉妹艦となります。



巡洋艦を示す青い艦船をご覧ください。
これも時計回りに、

「セントルイス」 CL 49
「ボルチモア」CA 68
「ヴィックスバーグ」CL 86
「マイアミ」CL 89
「ヴィンセンス」CL 64
「サン・ジュアン」CL 54
「インディアナポリス」CA 35

となります。
文字通り、戦艦と戦艦の間を埋めるように配置されており、
「インディアナポリス」が特別というか、
これだけが旗艦「ホーネット」の前に配置されています。


■ 駆逐艦



「ホーネット」の後ろ三方には

「ベニントン」CV 20
「ベローウッド」CVL 24
「サンジャシント」CVL 30


という軽空母が位置します。

四隅にはレーダーピケット艦として、

「シュローダー」DD 502
「クッシング」DD 797
「マッドックス」DD 731
「フランクス」DD 554


の駆逐艦群が50マイル外側を守っているというわけです。

レーダーピケット艦は、レーダーによる索敵を主目的に、
主力と離れて概ね単独で行動し、敵を警戒する役目です。

太平洋戦争末期、機動部隊におけるレーダーピケット艦の任務は
おもに日本軍機の空襲(とくに神風特別攻撃隊)を探すことでした。

青の艦が駆逐艦です。
最も数が多い駆逐艦は、多用途のプラットフォームでした。

彼らは航空警戒、交戦のほか潜水艦の捜索、上陸の支援、
人員を艦と艦の間で移動させたり、予備部品を配ったり、
艦隊の郵便物の配達などという「平凡な」タスクも行いました。

駆逐艦の中で最も数が多かったのは「フレッチャー」級です。

1942年から44年までの間に175隻が建造され、排水量は2,500トン、
36.5ノットで波間をかっ飛ばしました。

5基の5インチ単装砲、ファンテール(艦尾)から投下する爆雷、
10基の21インチ魚雷発射管によって独特でありまた強力でした。

もちろん航空機と戦うための40ミリと20ミリ銃のマウントも備えています。

タスクグループの駆逐艦のうち9隻は、
第二次世界大戦のために開発された最後のクラスと言われる
「アレン・M・サムナー」級でした。

58隻が建造され、操縦性を向上させるための二重舵、
最大34ノットの高速性、航続距離の向上が身上でした。

「サムナー」級駆逐艦にはより優れた高性能レーダーと、
火器管制装置が装備されており、40ミリ砲12門、
20ミリ砲11門を備えた大変優れた対空プラットフォームでもありました。

その5インチ砲架は2連装で、前方に二つ、後方に1つありました。

戦争後半になり、日本軍の水上艦艇は減少していきましたが、
それに伴って、「サムナー」級駆逐艦は、
魚雷発射管を40ミリ砲に置き換えていったと言うことです。

潜水艦の恐怖はもうない、と判断されたということでしょう。


続く。