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レイモンド大佐とフライトオフィサークーガン〜ハリウッドセレブIN航空隊

2024-12-11 | 飛行家列伝

ジェームズ・ステュアート、クラーク・ゲーブルと、共に
第二次世界大戦に陸軍航空隊に入隊したスターを取り上げてきましたが、
今日は二人ほどビッグネームではないものの、戦争が始まったとき志願し、
航空隊に貢献した二人のハリウッドセレブをご紹介します。

■ ジーン・レイモンド大佐 USAFR


まず、ジーン・レイモンドという俳優の名前を知っている人は、
日本人にはあまりないのではないかと思います。
(日本語のwikiのページはない)

しかし、アメリカでは俳優としてだけでなく、歌手、作曲家、脚本家、
監督、プロデューサー、つまりハリウッドセレブとしての顔と、
軍パイロットという肩書きで広く知られる存在です。



しかし、この顔にも、出演した作品名にも正直全く記憶がありませんでした。
10 Things You Should Know About Gene Raymond 航空隊での写真は1:12~

まあ、そういう才人でセレブだったということでよろしいでしょうか。
(適当)

1939年にナチス・ドイツがポーランドに侵攻したとき、
当時31歳の俳優、ジーン・レイモンドは、
アメリカもいつか戦争に巻き込まれると確信していました。

共和党支持であった彼は、自費でパイロットになるための飛行訓練を受け、
1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃が勃発すると、
即座に映画製作のキャリアを中断して少尉の任命を受けました。


レイモンドが陸軍入隊試験で面接をした中佐の合格通知です。

1942年2月13日、ワシントンD.C.空軍司令部
覚書:
陸軍航空部隊A-2本部参謀長補佐ワシントンD.C.へ

私は、ジーン・レイモンド氏の合衆国陸軍への志願に際し、
個人的に面接を行いました。

彼の人格、性格、知性、そして一般的な適性は、
将校としての任務に適任であります。
人を扱った経験、パイロットの等級と航空経験、
そしてこの種の仕事に対する主体性と興味、
いずれも情報部の任務に適任であると考えます。

レイモンド氏の申請が承認された場合、空軍戦闘司令部本部に配属し、
G-2課に配属されることが望ましいと考えます。

その計画・訓練ユニットで、動画、シルエット、
模型、写真などの視覚情報訓練に従事するのが適任と思われます。

私はレイモンド氏がこの特別な仕事に十分な資格を持っていると信じます。

ローリス・ノースタッド 空軍中佐




米国陸軍宣誓(暫定)

私ジーン・レイモンド(自筆)は、合衆国陸軍の暫定的大尉に任命され、
内外を問わずあらゆる敵から合衆国憲法を支持し擁護すること、
同憲法に忠誠を誓うこと、
この義務をいかなる精神的留保や忌避の目的もなく自由に負うこと、そして、
これから就く職務の義務を十分かつ誠実に果たすことを厳粛に誓います:

ジーン・レイモンド(サイン)



当初はB-17の偵察員として大西洋沿岸の対潜哨戒に従事。
次に情報学校に通い、卒業後の1942年7月に、イギリスに展開していた
第97爆撃隊に配属になり、同地に渡りました。

第97爆撃隊は、1944年になってからですが、
当ブログでも取り上げたルーマニアのプロイェシュチ爆撃、
そして一連の「ビッグウィーク」、フランティック作戦に参加しています。

具体的に彼の任務について記された資料が見つからないのが残念ですが、
ここでおそらく淡々と、偵察任務を果たしたのでしょう。

あっという間に第8爆撃機司令部の作戦将校補助
(アシスタントオペレーションオフィサー)に昇進してしまいました。



1943年にはアメリカに戻るも、軍隊に在籍し、B-17フォートレス、
B-25ミッチェル、B-26マローダー
の爆撃機、
戦闘機P-39エアコブラの操縦をマスターしました。

写真は、T-33シューティングスタージェット練習機のコックピットで
指導を受けるジーン・レイモンド大佐ですが、上記以外にも、
退役するまでT-39 セイバーライナー、KC-97 ストラトファイター、
KC-135ストラトタンカー、輸送機C-141 スターリフター
の操縦もしました。

もしヨーロッパの戦争が長引いていたら、その時には
自分が爆撃機の操縦席に座ろうと考えていたのでしょうか。

彼が、1942年のヨーロッパ戦線という、アメリカ航空隊にとって
暗黒の時期における実戦に参加しそれを知っていたことを思うと、
単純に、その勇気には感嘆させられますし、何より
これだけの機種の操縦を次々とこなすのは努力だけでは無理でしょう。

何をやらせても器用にこなしてしまうその才能は、
飛行機の操縦にも大いに発揮されたようです。


B-25マローダー移行クラスでのレイモンド。
若いクラスメートに混じっていると、どう見ても上官。


1943年、こちらは大尉時代のレイモンド。
司令の視察のようですが、今からB -25に同僚と乗り込むところです。

第二次世界大戦が終わった後、レイモンドは
1945年10月22日に少佐として現役を解かれましたが、
その後も予備役としてアメリカ空軍に留まりました。



そして1968年8月13日、5,000時間以上の飛行時間を記録し、
司令パイロットのウィングマークを授与され、
大佐として米空軍予備役から退役したのでした。

このアイゼンハワージャケット(通称アイクジャケット)は、
ロスアンジェルスのパシフィック・パリセーズ在住のリタイアした大佐、
ジーン・レイモンドが寄贈した、と書かれています。

パシフィック・パリセーズは豪邸が多く、
ハリウッドセレブなどが数多く住むことで有名な地域です。


■ ジャッキー・クーガン
「キッド」の子役から航空士官に



それでは、国立空軍博物館プレゼンツ、
「航空士官になったハリウッドセレブシリーズ」第二弾は、

ジャッキー・クーガン(Jackie Leslie Coogan)1914−1984

と言われても、こちらも聞いたことがないという方が多いかもしれません。
しかし、この写真を見ていただければお分かりでしょう。


チャップリンの無声映画「キッド」で捨て子の少年を演じました。
クーガンは映画史上初めての子役スターとなった人物ですが、
彼が巨額のお金を稼ぐと、母親と義父がそのお金を使い果たし、
彼には1ドルも残されていなかったことから、25歳になった時訴えを起こし、
その結果クーガン法(California Child Actor's Bill)が制定されました。

この法律によると、18歳以下の子役は、「クーガン口座」というのを持ち、
報酬総額の一定割合(15%)がその口座に振り込まれて、
保護されることが義務付けられています。


それにしてもこの可愛い子供がああなるのか、
と考えたあなた、こんなもので驚いてはいけない。



さらに時は過ぎ、1964年。
彼は「アダムス・ファミリー」のフェスター・フランプになっていました。
つまり、俳優としては、レイモンドより有名だったということになります。

さて、それでは彼はいつ、どんなきっかけで陸軍に入隊したのでしょうか。

■ フライトオフィサー ジャッキー・クーガン



ジャッキー・クーガンが陸軍入隊したのは1941年3月4日でした。
つまり、レイモンドやクーパーのように開戦がきっかけだったのではなく、
その前から志願入隊していたことになります。



彼の入隊の理由というのは、女優ベティ・グレイブルとの破局でした。
彼らの結婚生活は1937年から39年まで、たった2年間で終わりました。

失意のクーガンは、半ばヤケクソで陸軍に入隊しましたが(たぶん)
特に目標があったわけではなかったので、
軍隊では平凡な兵士、歩兵にでもなるのだろうと考えていたそうです。

しかし、入隊してみると、彼は他の兵隊より有利な点がありました。
俳優だったおかげで?個人的にパイロット免許を取っていたのです。

彼は大学を卒業していないため、学位が必要な軍パイロットには
普通ならばなれないのですが、戦争が始まったことで事情が変わりました。

大学を出ていなくても唯一パイロットになる道があったのです。
それがフライト・オフィサー=グライダーパイロットでした。

彼はテキサス、続いてカリフォルニア州のグライダー学校で訓練を受け、
卒業してフライト・オフィサーとなりました。

■フライトオフィサーとは

ところで「フライトオフィサー」というタイトルに違和感を感じた方、
あなたは大変鋭い。

このタイトルは、第二次世界大戦中、の1942年から1945年までの間、
アメリカ陸軍航空隊でのみ使用された階級です。

1942年9月に創設され、陸軍のグライダーパイロットに限り、
訓練終了後すぐさまこのタイトルを与えられ、グライダーパイロット、
航法士、航空機関士として勤務しました。

「ブルー・ピックル」と呼ばれたフライトオフィサーの徽章

限定的な階級であったため、第二次世界大戦が終了すると同時に
陸軍航空隊はフライトオフィサーの階級を廃止しましたが、
その時までに彼らは全員戦争中に士官に昇進するか、除隊していました。

普通部隊の階級でいうとウォラントオフィサージュニアグレード、
WOJGと同等で、今日の階級では准尉に相当します。

ちなみに大戦後、陸軍ではパイロット要員を確保するため、
フライトオフィサーの代わりに准尉を航空に確保する作戦を取りました。

このプログラムの養成士官はほとんどヘリコプターパイロットで、
年齢枠も広く、17歳から訓練開始することができたそうです。

■ グライダーパイロットとして

さて、クーガンはその後、有名なフィル・コクラン大佐によって結成された、
第1エアコマンドーグループでの危険な任務に志願します。

1943年12月、クーガンの所属部隊はインドに派遣され、
ビルマへの夜間空中侵攻(1944年3月5日)の際、
イギリス軍部隊をWACO CG-4Aグライダーを使って輸送し、
日本軍戦線の100マイル後方の小さなジャングルの空き地に着陸させました。

上の写真のクーガンの左腕には、「チャイナ-ビルマ-インド」
を表すパッチが装着されています。


ビルマに飛ぶ前の第一エアコマンドグループメンバー全員。
前列右で銃を持っているのがクーガンです。


WACO CG-4Aグライダー部隊の名簿。

CG-4Aが大きく評価されたのは、1944年のフランス空挺侵攻でしたが、
この部隊はその数ヶ月前にビルマのジャングルでの戦闘で使用していました。

寄贈者:ジャッキー・クーガン(カリフォルニア州パームスプリングス)


L-2連絡機の「ホップ」が終わった後、
飛行時間を記入しているクーガン。

このときのクーガンの戦地での戦いを書き表した文章があります。

地球の反対側のビルマでWACOグライダーの操縦席に座っていたジャッキーは
まさに兵士が経験したくない最悪の戦闘状況に陥っていた。

北大西洋より、冬のロシアより、一年中悪臭が漂う
パプアニューギニアより、ガダルカナル島の海岸より、彼の戦場は
第二次世界大戦における地球上で最も過酷な場所であった。

ミャンマー近郊の地域で兵士たちは、年間平均200インチのモンスーン雨、
熱中症、感染症、そして日本軍の銃弾と同じくらい
兵士を殺したり無力化したりする現地の病気に身を晒していた。

この夜、ジャッキーはジャングルの上空を暗闇の中、
別の飛行機に牽引されて、何か起こっても打つてのない上、
安全に着陸できる場所もなさそうなまま飛んでいた。

彼はチンディットと呼ばれるイギリス軍特殊部隊を満載した飛行機を
敵陣の後方100マイルまで安全に運び、
日本軍部隊の通信回線を遮断するという任務を負っていた。

この夜、ジャッキーはアメリカ空軍特殊部隊の一員として、
敵陣の背後に連合軍を着陸させた最初のパイロットとなった。

彼は巧みに、地元の原住民しかいない地域に機体を着陸させた。
しばらく後のインタビューで、ジャッキーは、着陸したとき、
特にグライダーの前部を開けてジープを運転して出てきたときは、
地元の人から神のように崇め恐れられたと述べている。

原住民のうち 2 人がジャッキーの後をついて回り、
毎晩バナナの葉で彼のベッドを作ってくれた。

4 日間、彼は疲れ果てていたが、特殊部隊の主力が着陸できるように、
より大きな滑走路を建設するために働いた。

しかし、空から来た「神」として原住民から扱われた。

ジャッキーは、主力部隊の到着は夜間だったとも述べている。
彼は、英兵とグルカナイフ使いからなる特殊部隊を誘導するために、
照明弾の設置を手伝った。

部隊を運ぶために合計 57 機のグライダーが送り込まれたが、
到着したのは 37 機のみで、戦闘部隊は 350 名ほどしか残らなかった。


この作戦の犠牲は甚大だったが、最終的に任務は成功みなされた。




クーガンは1944年5月に米国に戻り、12月に除隊しました。





■ クーガンが鹵獲した日章旗



スミソニアン所蔵のクーガンのフライトジャケットです。
それはどうでもよくて()ジャケットの下部分をご覧ください。



ビルマ戦線でジャッキー・クーガンは日章旗を拾って帰ったようです。
自分の現役時代に着ていたジャケットとともに博物館に寄贈したそれは、
ジャケットの下にくしゃくしゃに(しかも裏向けに)敷かれていて、
仮にも他国の軍旗に対し失礼としか思えない展示をされていました。

この時も逆さまに持ってるし

添えられた説明によると、この日章旗の寄せ書きは、クーガンが
日本人将校(大佐)の遺体から盗んだ?ものだとのことです。

日本軍の上陸部隊は、インダウ近郊の北ビルマ鉄道を挟んだ
英国陣地を急襲し、結果として失敗に終わりました。
現地には日本軍の兵士たちの遺体があり、クーガンはおそらく
その中から高位と目される軍人からその持ち物を漁ったのでしょう。

これは当時戦地にいた多くのアメリカ軍人がやっていたことでした。

旗には”May you have new military fortune forever!”とあったそうで、
これはつまり「武運長久を祈る!」だったのではないかと思われます。

そして、興味深いのは、この寄せ書きをしたのは、

富山高等学校の級友一同
大阪帝国大学卒業生一同

と書かれていたということ。

帝大卒の予備士官がこの時期果たして大佐にまで出世できるものなのか、
この陸軍大佐の経歴を知りたいと思いましたが、それもなりませんでした。

せめて旗を広げて展示してくれていたら何か手がかりも得られたでしょうに。


続く。