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護衛駆逐艦セイラーアソシエイション〜USS「リトルロック」艦内展示

2024-12-23 | 軍艦
 
バッファローネイバルパークに係留展示されている
巡洋艦「リトルロック」艦内の展示物をご紹介しています。




「デストロイヤー・エスコート・セイラーズ・アソシエイション」
Destroyer Escort Sairors Association

「駆逐護衛艦水兵協会」(直訳)バッファロー支部のマークです。
ここからは、DEタイプ駆逐艦とその乗員に関係するものが展示されています。



で、最初に冒頭写真の士官のマネキンが登場するのですが、
その靴の近くには、
「ボトムポリッシング キット」=靴磨きセット
があります。

古今東西、軍人は靴を磨き上げるのがデフォになっていますが、
その関係で、欧米の靴墨には、「ミリタリー」という商品名が多いです。

グリフィンというメーカーは、この缶の文字から見ても
おそらくフランス語圏の会社だと思うのですが、
アメリカの国旗、無茶苦茶怒ってる曹長、所々英語というのが
靴磨き=アメリカ軍のイメージで商品を売っていることがわかります。

また、マネキンが着ている制服の寄贈者は、名札によると

Harry G. Engster大尉

この名前で検索すると、同氏の訃報とお葬式の告知が出てきました。
アメリカ人名を検索すると、有名人以外はこの死亡告知がよくヒットします。


obituaryは訃報という意味です。

アメリカでは、故人の生前の業績と遺族についての情報、
そしてどこでお葬式が行われるかの情報をオンラインで検索でき、
そのページに辿り着いた人が「オンライン献花」することもできます。

遺族が見たとき、どんな人が故人に弔意を示したかわかります。

その情報によると、エングスター氏は、

ハリー・G・エングスター
1920年11月4日~2011年11月16日

91歳、ウォーレン在住、2011年11月16日水曜日、自宅で安らかに死去。

ウォーレン・G・ハーディング高校とヤングスタウン・ステート大学を卒業し
第二次世界大戦中は米海軍大尉を務め、海軍予備役中佐として退役した。

引退前はパッカー・トーマス社の公認会計士であり、
狩猟、ボート、テニス、ゴルフを楽しみ、
毎年子どもたちのためにサンタクロースを演じていた。
彼は第一長老派教会の会員であり、長老と助祭を務めた。


第一長老派協会はプロテスタントの教派です。

なお、同氏のお葬式の際の献金は、退役軍人に盲導犬を提供する
「4 Paws 4 Patriots 」プログラムの資金となることが記されています。


■ シルバースタイン中尉



士官のマネキンと反対側にあるのがセーラー服の人形。
足元には映画でお馴染み、水兵用のダッフルバッグと脚絆などが見えます。

おそらく右下のUSS「シルバースタイン」乗員だったベテランの寄贈です。

1944年に就役した「ジョン・C・バトラー」級護衛艦、
「シルバースタイン」の命名由来は、
USS「シムズ」DD-409の機関長であり、珊瑚海海戦で戦死した
マックス・シルバースタイン中尉です。


シルバースタイン兵学校時代

1942年5月7日、珊瑚海海戦で、「ネオショー」の護衛だった「シムズ」は
日本軍の航空攻撃によって7発の直撃弾を受け、
急降下爆撃の攻撃により爆発炎上して沈没しました。

駆逐艦「シムズ」の機関長だった彼は、最初の直撃で意識を失うも、回復し、

「冷静にボイラーの固定、安定性を保つための上部の重りの投棄、
沈没を防ぐための修理の準備を指示しました。」
(生存者談)

その後、「シムズ」の機関室では250キロ爆弾が2発爆発し、
その数分以内に艦体は中央部で座屈し、波間に沈むと同時に大爆発しました。
そのときの爆発で船の残骸は海面から数メートル跳ね上がったそうです。

そして、シルバースタイン中尉の名前は
「バトラー」級護衛護衛艦「シルバースタイン」に遺されました。

■ 護衛駆逐艦「シルバースタイン」

さて、その「シルバースタイン」は1944年7月14日に就役しました。

太平洋に投入されてエニウェトク、グアム、ウルシーで行動し、
4月に予定された沖縄侵攻に向かう軍艦を護衛するうち終戦を迎えます。

終戦を受けてすぐさま不活性化され退役し予備役となっていましたが、
朝鮮戦争で再活性化されて横須賀に向かいました。

キャプテンと砲塔から顔をだす砲員二人 朝鮮戦争中、元山にて

このとき元山(ウォンサン)では同港の敵陣地の砲撃も行っています。
その任務のあとは室蘭に向かい、横須賀を母港にしていました。

「シルバースタイン」にとって最大の事故は、1958年5月29日、
ハワイで、潜水艦
USS「スティックルバック」(SS-415)と衝突
したことです。

事故状況が非常にわかりやすい衝突
潜水艦は沈まないように頑張って浮上モードにしている?

この写真を見てもなんとなくわかりますが、事故後しばらく
潜水艦の方は浮いていたため、乗組員82名全員は無事救出されました。

あわよくば潜水艦も助けたかったはずですが、それは叶わず、
その後、潜水艦は二度と浮上しない最後の潜航を行ったということです。

■ USS「アール・V・ジョンソン」


USS「アール・V・ジョンソン」乗組員だったバッファロー出身者の、
現役時代&ベテランとしての思い出アルバム。

USS Earl V. Jhonson(DE-702)は、
「ヨークタウン」偵察飛行隊の一員で、予備士官アール・ジョンソン中尉が、
太平洋における日本空軍との交戦中、戦死したことを受けて建造されました。

1944年に就役した同駆逐艦は、第二次世界大戦中はニューギニア、
レイテ、ウルシーなどに展開し、中でも8月4日には、
日本の潜水艦との3時間に及ぶ死闘を繰り広げたりしています。
終戦後すぐに退役しました。

■ USS「イングランド」

USS England(DE-635)

1943年就役した護衛駆逐艦で、太平洋に展開しました。



艦名由来となったジョン・イングランド少尉(享年20)は、
真珠湾攻撃の時に「オクラホマ」で戦死しました。

カリフォルニアの裕福な街パサデナ生まれで、
高校時代は演劇青年だった彼は、予備士官に任官し、
「オクラホマ」の無線室に配備されました。

1941年12月7日、その日彼は本来なら休暇だったのですが、
新婚の妻と生後3週間の娘が訪ねてくる予定だったので、
同僚と勤務を交代して無線室に勤務していました。

午前7時、真珠湾を攻撃してきた日本軍の主標的は「オクラホマ」で、
最初に落とされた3発の魚雷に壊滅的な破壊を受けます。

イングランド少尉は総員退艦の命令にも関わらず、
艦内と無線室に3回戻って3人の乗員を救出しました。
そして4人目を救出するため艦内に戻って、助かりませんでした。

「イングランドの仇」

と題された、対潜用深度魚雷を撃ち込みまくっているこの絵。
ここでいう「リベンジ」が何を意味するのかはもうお分かりですね。
「イングランド」がイングランドの仇を取っているの図。

「イングランド」は12日の間に6隻の潜水艦を撃沈し、
対潜水艦戦史上類を見ない成績を挙げた駆逐艦として有名です。

1945年5月、日本の急降下爆撃機の攻撃によってダメージを受け、
修理中に戦争が終わってしまったので、あっさり廃艦処分となりました。

ちなみに、「オクラホマ」で戦死したのは429名で、
そのほとんど(388人)が身元不明者のまま埋葬されています。

海から引き揚げて身元確認せず埋葬してしまったので、
後に行ったDNA鑑定によると、ひとつの棺の中に、
少なくとも95人分の遺体が混じっていたということでした。

2007年になって「オクラホマ」の乗員の遺体は全て発掘されましたが、
2019年の段階で身元特定されたのは236名であり、152体は不明のまま、
そして全く行方不明の乗組員は267名です。

イングランド少尉の身元はミトコンドリアDNAの検査で明らかになり、
彼は両親の墓の隣に軍の栄誉をもって再埋葬されました。

■ USS「ホーエル」



「ホーエル」 (USS Hoel, DD-533) は、「フレッチャー」級駆逐艦で、
命名由来は南北戦争中戦功を挙げたウィリアム・R・ホーエル中佐です。

1943年7月に就役し、11月にはマキンの戦いに参加。
そこで日本潜水艦が撃沈した「リスカム・ベイ」の生存者救助を行いました。

1944年10月25日、レイテ湾で栗田健男中将率いる第二遊撃部隊が
対空射撃をしながら接近してきて、「ホーエル」の艦隊は3分以内に
戦艦4隻、重巡6隻、軽巡2隻及び11隻の駆逐艦からの猛攻に曝されました。

「ジープ空母」と「ブリキ缶」からなる小艦隊は南に逃走。
「ホーエル」ら護衛艦は、煙幕を張って「ベビー空母」を
栗田艦隊から覆い隠そうと、無我夢中で駆けずり回りました。

しかし、戦力差は圧倒的でした。

司令官は駆逐艦に、反転して栗田艦隊に立ち向かうよう命じ、
「ホーエル」は即座に戦艦「金剛」と重巡「羽黒」に向かって突き進みます。

「金剛」の36cm砲の射程内を突き進みながら攻撃を続けた「ホーエル」は、
その結果「羽黒」から猛攻を浴び、マーク37射撃指揮装置、
機関室、艦橋、レーダー、操舵装置など、40発の命中弾を受けて、
(その中の一つは『大和』からものだったという話もあり)
総員退艦の末、横転し、多くの乗員とともに沈没していきました。

このとき、駆逐艦「磯風」が、沈没寸前の「ホーエル」に接近し、
機銃員が「ホーエル」の生存者に照準を合わせたそうですが、
艦長前田實穂中佐が攻撃中止を命じてやめたという話が残されています。

前田艦長の命令は、おそらく艦が沈むことが確実なので、
これ以上の攻撃は無駄という合理的な考えだったのかもしれませんが、
このときの乗組員は、米軍が海上の日本兵を容赦無く射殺していたため、
日頃の仇が取れず、忸怩たる思いだったと語っています。


■ 戦争は終わった


日本の降伏を報じる「ザ・スターズ・アンド・ストライプス」号外



そして、前にも説明した「セイラーの像」のポスターです。

「駆逐艦水兵協会」の展示、もう少し続けます。

続く。