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Uボート乗組員同窓会記念グッズ〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-06-07 | 軍艦

さて、

戦後他の戦利品Uボートと十把一絡げにされて、
標的となって海に沈むところだったU-505を、
その捕獲の立役者となったダン・ギャラリーと賛同者によって
シカゴのMSI(科学産業博物艦)に保存することになり、
放置されていたポーツマスからシカゴまで艦体が運ばれてきた

というストーリーについて前回お話ししました。

今日は、U-505の「シカゴまでの旅」にまつわるグッズを紹介します。
それは、冒頭写真のパネルと共に展示されていました。

右側の人物は、間違いなくタスクフォースの指揮を執り、
U-505を生捕にしたヒーロー、ダン・ギャラリー大佐のその後です。

戦後、ギャラリーはこのときの海軍と連合国への勝利への寄与を評価され、
提督にまで昇進していたのですが、このことが、
U-505を海の藻屑になる運命から救ったというのは過言ではありません。

で、このシーンなのですが、ギャラリーは左の海軍大将に
何かを渡すか、あるいは受け取っている歴史的な瞬間のようです。


【アール・トロシーノ中佐のジャケット】



USS「ガダルカナル」の機関長であった
アール・トロシーノ中佐は、第二次世界大戦中、
そしてU-505がシカゴにやってきたその日、
このユニフォームジャケットを着用していました。



ジャケットの金線4本のうち3本は、捕獲作戦当時のトロシーノの階級で、
一番上の金線だけが少し新しいのは、作戦後、
大佐に進級することになって、この一本を付け加えたからでしょう。

トロシーノは大佐で退役しましたが、同時に少将に昇進しています。

おそらくは、自衛隊でも時々見られる、
「退官と同時に一階級進級」という措置だったのかと。

最終階級が上がるだけでなく、実質的に年金なども違ってきます。

【フォノグラフ・レコード】


1945年5月24日に放送されたラジオ番組、
「マーチ・オブ・タイム」のエピソード、
「ジャーマン・サブマリン・ドラマ」を収録したレコードです。

もう少し後ならオープンリールの録音機、さらに後だと
カセットデッキでの録音を行うのでしょうが、
録音を残すデバイスはこのころレコードしかなかったということですね。

U-505の捕獲に当たって、トロシーノ中佐は、指揮官として
「ガダルカナル」で編成された乗り込み隊を率いました。

U-505が1945年に戦争国債ツァーでフィラデルフィアに立ち寄った時、
そこがトロシーノ中佐の故郷であったことから、
番組が特に中佐をフィーチャーして本人のインタビューを行いました。

その後、おそらく制作側が、トロシーノ中佐本人に
記念として出演分のレコードをプレゼントしたのだと思われます。


【”BAIE- COMEAUへようこそ” 看板】



Bienvenu(ビアンブニュ)はフランス語で「ようこそ」。
A BAIE-COMEAUで「ベコモーへ」。

1954 年、U-505 はシカゴに向かう途中、
セント・ローレンス川の水門システム5つを通過した、
という話を前回したかと思います。

そして、その経由地のひとつに、にカナダのベコモーという街がありました。

この町そのものが、シカゴ・トリビューン紙の所有者である
ロバート R. マコーミック大佐によって 1937 年に設立されたものです。


ロバート・マコーミック大佐

愛知県における豊田市のようなもので、一社が占める街です。

ベコモーはシカゴ トリビューン紙にサービスを提供していた
製紙工場の社員とその家族だけで成り立っているような町でした。

こんなマイナーな?街にU-505がなぜわざわざ立ち寄ったかというと、
マコーミックは、U-505 をシカゴに導入する取り組みの、
とっても有力な支持者(スポンサーともいう)だったからです。

太いスポンサーに挨拶するため、U-505 はベコモーに寄港し、
そこでマコーミックの所有する製紙工場の従業員に公開されたそうです。

シカゴまでのU-505の曳航作業を行ったのは、
タスクグループの指揮官の一人、アール・トロシーノ中佐で、
ベコモーでは、現地の関係者から記念品としてこの銘板を受け取りました。

【ベコモーの”鍵”】



こちらもアール・トロシーノ・コレクションです。

U-505が訪問した記念に、乗組員一同は、この
「ベコモーの鍵」なる木造の鍵のようなものを贈られました。

【潜望鏡(おもちゃ)】



U-505が展示され始めた1950年代から60年代にかけて、
MSI博物艦のギフトショップで販売されていた、
子供用おもちゃのペリスコープです。

本体に貼ってあるラベルには、このペリスコープを使って
例えばパレードを見る方法とか、高いフェンスの向こうとか、
角を覗き込んだりする方法がイラストで描かれています。

■ U-505土産の数々

長年にわたり、博物館は U-505の記念に
数多くのお土産グッズを作成してきました。

【土産物 ペナント】



フェルトのペナントは、1950 年代と 1960 年代に人気のお土産でした。
博物館のギフト ショップで販売されていたこのペナントには、
さまざまな色がありました。

ちょっとわかりにくいですが、絵柄は、タスクフォースが
U-505を沈めないように乗り込んでいる写真を再現したものです。

【スーベニアバッグ】



1980年に使われていた紙袋は、ダン・ギャラリーが
航海計画を運ぶために使っていたバッグから着想を得ているのだとか。

【お土産カレンダー】



1970年代に販売されていたユニークなカレンダー。
ホルダーの中に収まる小さな紙でできています。

どこがどうカレンダーなのかさっぱりわからんのですが、
おそらく木彫部分の白いところにカレンダーが収められるのでしょう。

【スーベニアペーパーウェイト】



まず、11番はペーパーウェイトの「型」です。

U-505 の博物館への到着を記念するペーパーウェイトのため、
砂型で作った型にそこに鉄を流し込んで製作されました。

1954年9月24日、U-505メモリアルの奉献晩餐会が行われ、
その参加者のために500個以上の文鎮が作られました。

そうしてできたのが12番のペーパーウェイトです。
このグッズが貴重だったわけは、使われた鉄が、他でもない、

U-505から取り除かれたバラストキールウエイトを溶かしたもの

だったからです。

二つのペーパーウェイトの上のインフォシートは、
お土産に添えられたもので、このグッズの由来が記されています。

【スーベニア・レター・オープナー】



これは普通にギフトショップで売られていたレターオープナー。
U-505があしらわれているというだけのものです。


■ U-505乗組員同窓会(リユニオン)記念タイルと
U-505乗組員 ハンス・ゲーベラー



1980年、U-505のコントロールルーム勤務であった、

ハンス・ゲーベラー(Hans Gobeler)

は、ドイツでのU-ボート潜水艦の乗組員の最初の公式再会を企画しました。

ハンス・ゲーベラー

同窓会は、彼の故郷であるドイツのボッツドルフで開催されました。

イベントの記念品として、ゲーベラーは、
かつての同僚に渡すために、セラミックの記念タイルを製作しました。

ゲーベラーは、74歳になってから、かつての思いを語っています。
U-505を沈めるために、ボートの「栓を抜いた」のは、彼でした。


その日、午前11時過ぎ、U-505の故障した音波探知機が
かすかなプロペラ音を拾った。


潜望鏡深度まで上がって調査したランゲ(艦長)は、

その光景を見た途端、文字通り全身の血が引いた。

U-505は、空母機動部隊のまっただ中にいて、
3隻の駆逐艦と数機の航空機から今にも攻撃されようとしていたのだ。


しかし、異常な水温のため、航空機は潜水艦を見ることができ、
50口径機関砲の炸裂音で駆逐艦は潜水位置を特定した。



「まったくやってくれたよ!」

とゲーベルは回想する。

「彼らはヘッジホッグと64発の深度爆雷を撃ってきたんだ。
その爆発音は僕がい今まで聞いたどんな音より大きかった。

ある深度爆雷は、上甲板の魚雷を損傷させるほど近くで爆発し、
他の爆雷は、主舵と潜水機を明らかに破損させた。

ランゲは何とか1本の魚雷を発射したが、沈没する前に浮上し、
ボートを捨てる以外に手はないとすぐに判断した。


浮上したとき、ランゲはハッチを開けたが、砲撃ですぐに負傷してしまった。

男たちは次々に海に飛び込んでいったが、
私はコントロールルームに残って、ボートを自沈させるための確認をした。

艦体がなかなか沈まなかったのは、7号潜水漕の気泡に水面で捕まったからだ。

そこで、手や空気圧でタンクのリリーフバルブを開けようとしたが、
リリーフバルブのシャフトが爆薬の爆発で曲がっていて、びくともしない。

潜望鏡構造物の後ろに回り、シーストレーナーのカバーを外した。

これで11インチの水流が艦内に入ってくるはず。

私は「もう大丈夫だ!」と思った。

私は艦上に上がり、他の4人の男が大きな救命いかだを降ろすのを手伝った。
駆逐艦や飛行機は、ボートに対空砲や対人砲、高火力弾を撃ち込んできた。

そこで皆は飛び込み、できるだけ早く潜水艦から泳いで逃げようとした。
飛行機は私たちとボートの間の水を撃ち、
まるで猫がネズミと遊ぶように、U-505から私たちを遠ざけていった。

私たちの誰も、あのボートに戻ろうと思うほど狂ってはいなかった。
なぜなら、ボートは急速に沈んでいったからだ!
もはや前部とコンニングタワーの上部が水面上に残っているだけだった。

しかし、アメリカ軍指揮官には、どうやら勇敢な部下が何人かいたようだ。
彼らはどうにかボートを浮かせたうえ、曳航していった。

僕たちはその後駆逐艦に拾われて空母に運ばれ、
飛行甲板のすぐ下にある檻に閉じ込められた。


空母のエンジンの熱はあまりにもすさまじかったので、

檻にいた数週間で汗をかいて20〜30キロは痩せたと思う。

その後、私たちは6週間ほどバミューダ諸島に送られ、
そこで少し体重が増え、再び人間の姿に戻ることができた。

そして捕虜となってルイジアナに移送され、
反ナチスのための特別捕虜収容所に送られた。

ご存知のように、その特別な収容所は
ジュネーブ条約の適用外だった。

アメリカは赤十字が私たちにインタビューして、
Uボートが拿捕されたことが漏れることを恐れていたから。


私たちは1945年にイギリスに移送されるまで、
ルイジアナ州の農場や伐採キャンプで働いていた。

1947年12月にようやく解放されるまで、そこで監禁されていた。」


ハンス・ゲーベラーは、現在、フロリダ州中部で
妻と娘と一緒に半隠居生活を送っている。

Uボートの艦長やドイツの英雄たちの写真を貼ったコーヒーカップを売って
細々と暮らしているが、「死なないUボート」U-505での日々を語るとき、
彼の目は今でも生き生きと輝いている。



ゲーベラー著「鋼鉄のボート、鉄の心」
「鉄」はもちろんドイツ海軍の鉄十字章からきていると思われる

Submarinos alemanes en la Segunda Guerra Mundial. Los U boot

スペイン語ですが、映像だけでもぜひ。
1:15に、ゲーベラー氏がUボートについて語っている姿が見られます。

インタビューの時はもちろんお元気でしたが、
1999年76歳で逝去された模様。


U-505の艦上で撮られた姿が遺されています。


続く。



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1 Comments

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ジッポライターがない (Unknown)
2023-06-07 17:28:30
船のグッズと言えば、昔はその船の絵や艦番号をあしらったジッポライターが米軍でも自衛隊でも定番でしたが、喫煙者が多かったこの時代でもないのは、ちょっと不思議です。
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