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ラッキー・ブッダに勝利祈願〜潜水艦「シルバーサイズ」

2022-08-22 | 軍艦

前回に引き続き、ミシガン州マスケゴンに展示してある
第二次世界大戦中の「ガトー」級潜水艦「シルバーサイズ」、
その哨戒活動について引き続きお話ししたいと思います。

前回は、民間漁船(実は徴用偵察船)に手痛い反撃を受けて、
若い砲手を失うという、ある意味「シルバーサイズ」にとって
最も修羅場となったその最初の哨戒での出来事からお話ししました。



パネルには「シルバーサイズ」の乗員の写真もあります。


名前も説明もありませんが、それぞれがどんな人物か
なんとなくわかるような気がします。

双眼鏡の人は、6名の士官のうちの一人ではないでしょうか。
貫禄があるので副長かもしれませんね。

「ガトー級」潜水艦の乗員は60名で、士官以外の54名が下士官兵です。


6人の士官の食事を準備したりするスペースの戸棚を利用して、
「シルバーサイズ」は各戸棚に各哨戒の成果を表示しています。


そしてこれが第一の哨戒なのですが、見たところこれは
戦後展示艦となってから書かれたものではなく、
「シルバーサイズ」が現役時、その都度書き足していったものと思われます。

そう判じた理由は、マイク・ハービンが戦死した最初の戦闘で
「シルバーサイズ」が撃沈した民間徴用船については、
「第五恵比寿丸」という名前(戦後明らかになったはず)ではなく、

TRAWLER 350 tons
(トロール漁船350トン)


としか書かれていないからです。

このトロールとの戦闘で乗員を失っているのですから、
もし名前がわかっていれば他のと同じく明記したはず。



ところで、前回お話ししたマイク・ハービンの話にはまだ続きがあります。
シルバーサイズ博物館遺品の展示を見て、
わたしはこのブログの「引き寄せの法則」(または偶然ともいう)
にまたしても驚かされることになりました。

【ラッキー・ブッダの縁担ぎ】

ここでちょっと画像を見ていただきましょう。
つい先日ここでご紹介した潜水艦映画、「潜航決死隊」の1シーンです。



魚雷係をさせられている?チーフが、二つの魚雷チューブの間に
なぜかホテイさんの像を置いています。



そして、魚雷発射の時にお腹を撫でていましたよね?
まあ、ほとんどの人は映画を見ていないと思いますが、そうなんです。



あのー、ここにある、これは一体なんですか?
ほぼ同じ布袋さんの金色の像なんですよこれが!

説明を読んで、わたしはさらに驚愕しました。

この真鍮製のブッダは、
おそらくマイク・ハービンが所有していたものです。

ハービンは縁担ぎのため、これを魚雷発射管の間に置いていました。

魚雷発射管の間に置いていました。
(大事なことなので繰り返しました)

最初の哨戒でハービンが亡くなった後、魚雷室のメンバーは
同じ真鍮の仏像をさらにもう2つ製作して、二つは
前後の魚雷室に、同じように魚雷発射管の間に取り付けました。

そして、
魚雷発射の際は必ずブッダのお腹をさすっていました。
「シルバーサイズ」乗組員のほとんどが、この迷信?を信じ、
潜水艦が災害に遭わないと信じて、この儀式を行なっていました。

オリジナルのブッダには、こう刻印されて艦長に贈られました。

「USS『シルバーサイズ』司令官
C.C.バーリンゲーム艦長へ
魚雷発射隊より 1942年」

クリード・C・バーリンゲーム艦長は、
ブッダを「シルバーサイズ」の司令塔内に配置して、
敵の攻撃から潜水艦が守られるように、
そして爆雷に当たらないためのお守りにしていました。」



この映画をブログに取り上げたのもまさしくつい最近だったので、
この「魚雷発射管のブッダのお腹をこする」というシーンが
実際の「シルバーサイズ」の逸話から来ていたという、
この恐るべき偶然に、わたしがいかに驚かされたことか。


このことはすごい偶然のようですが、もしかしたら
特にアメリカの潜水艦業界では、マイク・ハービンの話は有名で、
彼についていろんな媒体で取り上げられたため、
当時のアメリカ人なら誰でも知っているレベルだった可能性もあります。

「シルバーサイズ」のマイク・ハービンの戦死が1942年。

タイロン・パワーの潜水艦映画「潜航決死隊」がリリースされたのが
1943年ですから、映画企画段階で、マイク・ハービンの遺品である
魚雷発射室の「ラッキーブッダ」の話は、時期的にホットだったのでしょう。

特に戦争映画はそこそこ実際にあったことをモチーフに取り入れますから、
この布袋さんのお腹さすりも、ニュースなどで報じられた話題を
わかりやすく映画に登場させたのだと思われます。



■ 最初の哨戒

「シルバーサイズ」の棚にペイントされた旭日旗のマーク。

実際の記録と照合できるかと思ったのですが、これが全くできませんでした。
例えば、第一次哨戒の最初の撃沈として

●SUBMARINE 1400tons


とありますが、これが日本側の記録だとこうなります。

🇯🇵5月13日、シルバーサイズは北緯33度52分 東経137度09分の地点で
潜水艦を発見して魚雷を1本だけ発射したが、命中音は聞こえなかった。

沈没を確認できなくても沈没したことにしちゃうのか・・・。
さらに、戸棚の船名を書き出してみますが、

●TASAN MARU 5,400 tons

●ASOSAN  MARU 8,800 tons

●KOSHIN  MARU 9,600 tons

●TATEKAWA  MARU 10,000 tons

とにかく、戸棚に書かれている船名については、
どの艦も調べても調べても資料一つ引っかかりません。

まず、「阿蘇山丸」以外の戦没漁船並びに戦没商船は、
それに相当するものが戦没徴用船(戦没)名簿にはありませんでした。

三井物産の貨物船「阿蘇山丸」は、実在しました。
そして確かに戦没していますが、戦没地はパラオ付近であり、
しかも撃沈したのは潜水艦「ブルーギル」であることがはっきりしています。

というわけで、この「シルバーサイズがやっつけた日本の船」のペイントは、
哨戒中の乗員の闘志と団結を高める戦意高揚の役目としてはともかく、
全く歴史的資料にはなり得ないことが判明しました。


ところで、第一の哨戒での戦闘歴の一部は次のように記載されています。


■ 日本国旗を掲揚しながら攻撃を行った米潜水艦

5月17日

「シルバーサイズ」は敵の漁船団を発見して接近した。
その際、
潜望鏡に、竹ざおに立てられた日の丸の魚網が絡まりついた。

「シルバーサイズ」は潜望鏡に魚網を絡ませたまま接近を続け、
最初の船である4,000トンの貨物船に3本の魚雷を発射した。
魚雷は2発命中し、貨物船の船尾を切り裂いた。

「シルバーサイズ」は続けて2隻目の貨物船にも魚雷を命中させるが、
貨物船の命運は尽きず、沈没には至らなかった。

その時哨戒艇が接近してきたため、「シルバーサイズ」は付近を離脱する。

何気なく読んでしまいますが、はて、「日の丸の漁網」って何かしら。

このとき、「シルバーサイズ」の潜望鏡には日本国旗が絡みつき、
まるでマストに掲揚しているような状態になっていたというのですが。


なるほど、思い出したぞ。これか。
この状態に「シルバーサイズ」乗員(とアメリカ人)は大いにウケたのね。



このとき絡みついた旗は、相手が漁船であったことから、
海軍旗や国旗ではなく大漁旗だったと想像されるのですが、
まあ現物を見ても、アメリカ人には見分けることはできないかな。

この模型でも、国旗、海軍旗、信号旗と手当たり次第に掲げているけど、
いずれも大漁旗とは全く違うものです。

ともあれこの哨戒から、「シルバーサイズ」には一つのタイトルが増えました。

『日本の国旗を掲揚しながら攻撃を行った唯一のアメリカ潜水艦』

です。
しかしこれも日本側からの記述を見ると、ずいぶん意味が違ってくるのです。

5月17日午後、北緯33度28分 東経135度33分の潮岬沖で
中型輸送船と大型輸送船各1隻を発見する。


この時、「シルバーサイズ」は潜望鏡に竹竿をくくりつけ、

これに日の丸を翻させた上、網で漁船に成りすまして
漁船群ごしに船団を攻撃した。

あー、よくアメリカ映画で見る、卑怯な日本軍がやるような手ですね。
(嫌味)

英語だと偶然国旗が絡まったことになっているんですが、
それはいくらなんでもあまりに不自然で、何か隠してるんじゃないか?
と疑ったわたしのカンは当たっていました。

やっぱり艤装のつもりだったんじゃないか。

映画ではこういうことは日本軍の専売特許ですが、なんのことはない、
「シルバーサイズ」、結構なりふり構わずやっちゃってますよ。

まあ、戦争だからどんな手を使ってもいいですが、だったら、
ちゃんと自国民に向けて、潜水艦博物館でもそのことを明記すべきだな。


先ほども書いたように、「シルバーサイズ」はこの時、
魚雷を4,000トン級の貨物船に2本命中させてこれを撃沈したとしました。

そして戦後の調査でも、「ていむす丸」(川崎汽船、5,871トン)
「鳥取丸」(日本郵船、5,973トン)2隻の陸軍輸送船を撃破した、
と主張したのですが、これも案の定、日本側の記録では、
「ていむす丸」と「シンリュウ丸」が雷撃を受けたとあるものの、
被害の有無ははっきりせず、沈没の記録もありません。

日本側の記録です。

5月21日、
中型輸送船に対して魚雷を2本発射するも命中せず。

5月22日15時
特設運送船「朝日山丸」(三井船舶、4,550トン)に魚雷1本を命中
大破座礁させる。


ちなみに「朝日山丸」の記録によると、

 17.05.14:門司~
~05.22 1140 (N33.30-E135.27)紀伊水道で
米潜水艦Silversides(SS-236)の雷撃により
     船橋前部に2本被雷、前部切断

     
~05.22 1420 日置海岸に擱坐~
     

~05.22 1445 特設掃海艇「第十二良友丸」来着~
     

~05.24 ---- 沖合に引出し、機帆船4隻を傭入し荷揚開始
     

~05.27 1620 曳航され神戸着十七番浮標繋留
 

17.06.01:神戸~06.02玉野

つまり玉野で修理を受けて復活しております。
つまり撃沈ではなく撃破となります。


5月26日
潮岬沖で小型輸送船に対して魚雷を発射、命中せず

6月3日
北緯33度26分 東経135度33分の地点で
海軍徴傭船第二日新丸(大洋捕鯨、17,579トン)と
輸送船宮崎丸(日本製鐵、3,948トン)に魚雷を2本発射
実際には宮崎丸の船底を通過しただけ

6月21日
「シルバーサイズ」は52日間の行動を終えて真珠湾に帰投


まとめてみると、第一回目の哨戒で、はっきりと
「シルバーサイズ」が沈没させたと明らかになっているのは、
なんと「第五恵比寿丸」だけだったということになります。

つまり当事者の主張、撃沈6隻に対し、実際は1隻です。


■ バーリンゲーム艦長による5回の哨戒



アメリカ海軍の人員配置もやはりそう長いものではなく、
一つの艦に勤務している時間はせいぜい1年半といったところのようです。

「火垂るの墓」の清太のお父さんのように、
清太が物心ついてから沈没するまでずっと「摩耶」艦長だった、
というようなことは、もちろん日本でもあり得ません。(説明っぽいな)


こちらも(そして現在も)艦の配置はそんなものだろうという気がします。

「シルバーサイズ」の初代艦長だったバーリンゲーム(最終少将)は、
その任期の1年と2ヶ月で、5回の哨戒を指揮しました。

この地図によると真珠湾を中心として、
第1回、第2回の哨戒は本土付近(九州近辺となっているが不正確)
第3回目は真珠湾からニューギニア経由でオーストラリアまで。
4回目はそのオーストラリアからニューギニア経由で真珠湾に帰還。
5回目は再びニューギニア経由でオーストラリアとなっています。

真珠湾攻撃の直後に辞令を受けたバーリンゲームは
1941年12月15日にカリフォルニア州メア・アイランドで
USS「シルバーサイズ」に転属し、指揮をとることになりました。

これは彼にとって6隻目の潜水艦であり、3番目の指揮艦となりました。

バーリンゲーム艦長は、メアアイランドで就役した「シルバーサイズ」で
カリフォルニア沿岸における短いシェイクダウンを行い、
「シルバーサイズ」を定係港となるハワイに向けて出港させ、
4月30日に真珠湾から最初の戦闘パトロールに出発を行いました。

バーリンゲームの指揮した合計5回の哨戒で「シルバーサイズ」は
最終的に8隻の敵艦、合計44,000トンを撃沈したとされ、この戦功に対して
バーリンゲームは2つの銀星と3つの海軍十字勲章を獲得しました。

また、この間、艦と乗組員は大統領表彰を受けています。

のちにバーリンゲームは太平洋の第182潜水艦師団の司令官となり、
レジオン・オブ・メリットを授与されています。



冒頭の写真は現地にあった比較写真。
こちらが海軍公式のバリっとしたバーリンゲーム艦長で、



こちらが現実のバーリンゲーム艦長。

哨戒終わり頃になると、潜水艦では、

 男世帯は気ままなものさ
髭も生〜え〜ま〜す〜
髭も生〜え〜ま〜す 無精〜ひげ〜♩」

なのは日本もアメリカも同じでございます。



続く。



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2 Comments

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命中させるのは難しい (Unknown)
2022-08-22 11:52:40
当時の魚雷は直進しかしないので、敵の針路速力(的針的速)を作図で正確に把握した上、魚雷が命中する未来位置に向けて発射しないと当たらないので、初回の哨戒だと、こんなもんかなと思います。

就役後の慣熟訓練は、基本部署(出入港や、防火、防水、応急操舵)がほとんどです。魚雷攻撃等の戦闘訓練は、基本部署がバッチリ出来るようになってからの課題なので、映画「深く静かに潜航せよ」のように、サンフランシスコからハワイまでの間やハワイを出て、日本海軍の脅威下に入るまででやっただろうと思います。それ程、数はこなせないでしょうから、発射のチャンスはあったとしても、命中させるのは難しかったのでしょう。

戦時中の記録を見ていると、日本軍も艦長勤務は大抵一年で、自衛隊だと一年半から二年です。自衛隊のスケジュールは大抵、年中行事なので、一年やったら、大体のことは覚えますが、海外派遣(五ヶ月)があると、その前(三ヶ月)から準備で普段のルーティーンとは切り離されるので、艦長勤務が一年だと、ほとんど「派遣」で終わってしまいます。「シルバーサイズ」もそんな感じだったろうと思います。
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米対日潜水艦戦 (お節介船屋)
2022-08-23 10:46:43
参照文献からの引用ですが
軍令部特に神重徳中佐は商船被害を第1年目60万総トン、第2年目60万総トン、第3年目30万総トンと見積っていました。第1次世界大戦の戦訓や第2特務艦隊の経験や1939年からのドイツ潜水艦が40隻余りでの大きな商船撃沈の事実を全く無視した軍令部の過小見積でした。

特に真珠湾攻撃で憤慨し、米海軍はそれまでの艦隊決戦主義であった潜水艦使用を捨て、通商破壊に使用することとして、無制限潜水艦戦としました。これは商船を撃沈する前に船客乗員をボートや陸地に移さねばならないと言う国際法1930年ロンドン条約を無視することとされました。

開戦時フィリピンのキャビテ港の魚雷格納庫を日本海軍機が攻撃、233本の魚雷を一気に爆発させたことや、米魚雷激発信管が正面から当たった場合爆発しない不具合のため被害が少なかったことがありました。
ただ開戦時米潜水艦は111隻在籍しており、太平洋には51隻配置されて、一大脅威であったのですがほぼ日本商船は護衛なしで行動しており、軍令部は米艦隊を撃破すれば潜水艦の行動も不活発となると言う根拠ない考えや無制限潜水艦戦の発出を知らないのか無視しており、開戦後4か月経った昭和17年4月10日漸く第1,2海上護衛隊を編成しましたが旧式駆逐艦14隻、水雷艇4隻、特設砲艦6隻だけであり、聴音機は古く性能は悪く未装備艦もあり、レーダー、探信儀未装備、爆雷も駆逐艦で十数個、護衛総隊編成も昭和18年11月であり、本当に対潜戦を考慮していたとは思われません。

被害を列挙すれば昭和16年12月商船6隻、32、000t、駆逐艦1隻、17年1月商船7隻28,000t、潜水艦1隻、2月商船5隻16,000t、駆逐艦1隻、3月商船7隻26,000t、4月商船5隻27,000t、潜水艦1隻、5月商船20隻、86,000t、水上機母艦瑞穂、潜水艦2隻、敷設艦等2隻、6月商船6隻20,000t、駆逐艦1隻、7月商船8隻40,000t、駆逐艦2隻、駆潜艇2隻、8月商船18隻77,000t、重巡加古、9月商船11隻40,000t、10月商船25隻119,000tと緒戦魚雷不足や不具合があれども相当な被害です。
これでも対応策を打たない軍令部は如何に?

その後魚雷の整備や潜水艦増備で商船だけでも1,150隻余り、4,860,000総トン、空母9,戦艦1,重巡3、軽巡10,駆逐艦49,潜水艦25,駆潜艇21等軍艦も213隻が撃沈されました。米潜水艦は日本海軍の有効な対潜戦が実施されない戦訓から潜水艦の水上射撃の強化での攻撃まで実施されてしまいました。
対潜戦の主力たる駆逐艦や駆潜艇までやすやすと撃沈されてしまいました。装備不備や対潜手法の不手際等本当に情けなくなります。

参照原書房大井篤著「海上護衛参謀の回想」(旧海上護衛戦)
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