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世界初の空母決戦、珊瑚海海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-23 | 海軍

さて、スミソニアン博物館の空母展示、空母の開発の歴史に続いて
空母の歴史を語ろうとすればそれは当然真珠湾攻撃から始まるわけです。

日本軍のこの歴史的な奇襲攻撃が「空母元年」の幕を開いたといえます。

■ 1941年の憂鬱な日々

次のコーナーは、連合国にとっての臥薪嘗胆な時期、つまりそれは
日本の立場から見ると日本が快進撃していた時期についてです。

「The Groomy Days Of 1941」

と題された最初の文章を見てみましょう。

太平洋艦隊の3隻の空母は真珠湾における戦艦と同じ運命となることから逃れたものの、
日本軍は少なくとも米国艦隊を封じ込めるという目的に一部成功しました。
彼らは今や、米海軍による深刻な脅威を恐れることなく、
東南アジアの征服を進めることができるようになったのです。

グアム、ウェイク、香港はすぐに陥落し、1941年が終わる前に
フィリピンとマレーシアが侵略されました。


12月10日、英国のみならず世界を震撼とさせたのは、
戦艦H.M.S. 「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦H.M.S.「レパルス」が
シンガポールから航空援護なしでマラヤ東部に向けて航行中、
サイゴンからの日本の航空機の攻撃によっていとも簡単に撃破されたことです。

1942年の春までに、ニューギニアの一部を除いて、
日本はオーストラリアの北にある南西太平洋地域全体を征服し、
戦争を続けるために必要な石油と原材料をタンカーと商船で持ち帰ることができました。

「インド洋の惨事」

と題された写真です。

セイロン島(スリランカ)を拠点とするイギリス艦隊の脅威に対抗するため、
そしてインドからの連合軍の援軍が、ブルーマとベンガル湾での
日本の前進を妨害するのを阻止するために、
空母攻撃部隊は1942年3月出航しました。

それは連合国海軍にもたらされる一連の災厄の始まりでした。

「日本の勝利」

他国の空母艦載機によって沈められた世界最初の空母の最後の姿です。
「勝利の神ハーメス」は、インド洋セイロン島でのイギリス軍施設への
日本の襲撃によって失われました。

運命の1942年4月9日 、英国の巡洋艦、駆逐艦、商船、航空機の損失はあまりに大きく、
英海軍東洋艦隊の残党はアフリカの東海岸に撤退することを余儀なくされ、
これにより残りのインド艦隊は完全に日本軍に掌握されました。

 

■ デスティネーション・トーキョー

Doolittle Raid

おなじみ?ドーリットル空襲の歴史的な位置付けは、
それまで優位だった日本に脅威を感じていた連合国が、
この出来事ですっかりやる気?を取り戻したことかもしれません。

現地の解説にもこのようにあります。

1942年4月18日、日本の首都が爆撃されたというニュースで、
連合国全体の士気が大幅に向上しました。
空母「ホーネット」から飛び立った16機の陸軍B-25爆撃機が、
日本のさまざまな標的に直接の攻撃を与えたのです。

ここでスミソニアンのテーマ的には、空母で始まり、空母で押されていた戦局を、
空母から飛び立った爆撃隊をきっかけに押し戻すことになった、という
「空母尽くし」で美しくまとまっていることにご注意ください。

 

The Doolittle Raid l Photos | Defense Media Network

空母の甲板から大きな爆撃機を発進させるというのは
あまりにも画期的で、飛ぶB-25の搭乗員はもちろんのこと、彼らを甲板から
飛ばせる「ホーネット」の海軍軍人たちも冷や汗ものだったことでしょう。

そもそも、空母というものは
「飛行機を積んで現場に行き、帰ってきた飛行機を甲板に着艦させて持って帰る」
ためのものです。

爆撃機B-25ミッチェルの場合、何とか飛び立つことはできても、
着艦することは物理的にも構造的にも100%無理なのですから、
真珠湾でアメリカ人の度肝を抜いたはずの日本側が、
この意表をつく作戦にそれ以上に驚いたのはいうまでもありません。

何度も当ブログでいうように、ドーリットル隊の日本攻撃の
実質的被害ははっきりいって「Do little」なものでしたが、実は
この作戦はどんな被害を与えたかということよりも、
それまでの歴史上何人たりとも考えつかなかった作戦を練り上げ、
形にしたということに意味があったといえましょう。

WORLD WAR II: The Doolittle Raid proved America and the Allies could win |  Features | albanyherald.com

スミソニアンの解説にもこうあります。

B-25の襲撃は完全な驚きであり、全機がほとんど、
または全く失敗することなく目標を達成しました。

よく言われるように、勝敗の転換点はミッドウェイ海戦でしたが、
ドーリットル爆撃が転換させたものは英語でいうところの「モラル」、
つまり国民全体の士気が大であったということになります。

ドーリットル隊のうちの15機の爆撃機が燃料を使い果たし、
8人の乗組員が作戦後中国で墜落しました。

彼らは1943年に中国大陸からイランに逃亡しています。


■ ザ・ファースト・オブ・メニー

この写真を貼るのは少なくとも二度目という記憶があります。
シカゴのオヘア空港の一隅にあるオヘアミュージアムを紹介したときです。

空港の名前となったエドワード「ブッチ」オヘア少佐
大きな目で日米戦を見た場合の「個人の勝敗の転換点」のシンボルとして
「サッチ・ウィーブ」を編み出したサッチ少佐と共に名前を挙げられています。

博物館の解説を見てみましょう。

 

戦争の初期にはアメリカ側は勝利と英雄に縁のない状態でしたが、
1942年初頭の災厄と敗北のなかから、戦闘において際立った戦果を出した
2人の戦闘機パイロットが出現しました。

「ブッチ」オヘア少佐(左)とJ・S「ジミー」サッチ少佐(右)は、
南西太平洋での最初の日米海軍の戦いが行われた時、これに参加していた
空母「レキシントン」戦闘機戦隊3(VF-3)の戦隊の仲間でした。

戦隊の司令官であるサッチは、優れた性能の日本のゼロ戦を戦うため、
戦闘戦術を編み出し、機動の開発を支援した貢献者です。

ブッチ・オヘア少佐は海軍の最初のエースになり、
卓越した空中戦で名誉勲章を授与されました。

1942年2月20日、彼はグラマンF4Fワイルドキャットで
「レキシントン」を攻撃してきた
5機の日本の爆撃機を4分で撃墜しています。

オヘアは1943年の夜戦中に撃墜され戦死していますが、
米海軍機によるフレンドリーファイアー(同志討ち)と言われています。

そうだったのか・・・知らんかった(´・ω・`)←ワスレテタダケカモ

「長生きしたければチームで戦え」

海軍のF4Fワイルドキャット戦闘機が、一騎打ちでは
日本のゼロ戦に勝てないことが明らかになったとき、

ジミー・サッチの哲学は発展しました。

いわゆる「サッチウィーブ」がその答えでした。

これはチームの攻撃的な戦闘機の狙いを捨てるように設計された独創的な着用戦術です。

図を見ていただけば、零戦と一騎討ちを避け、一機が逃げると見せかけて
進路を誘導し、そこに「ウィーブ」(編み込む)ように割り込んできた別機が、
零戦の進入路をカウンターして迎え撃つメソッドが描かれています。

「サッチウィーブ」は米海軍の標準的な手順となり、他の連合国空軍に採用されました。

■ ウェーク島攻撃

1942年初頭、米軍の空母部隊は、マーシャル諸島の日本軍の施設と、
1941年12月23日に米海兵隊駐屯地から日本軍に奪われたウェーク島に対して
報復攻撃を行いました。

写真は「エンタープライズ」所属のダグラスTBDデバステーター魚雷爆撃機で、
1942年2月24日、ウェイク環礁上空を飛行しています。

これらの先駆的な攻撃作戦は敵にほとんど損害を与えませんでしたが、
米国の空母パイロットたちにに貴重な経験値を提供しました。

 

■ 珊瑚海海戦

 

1942年1月、日本軍はニューブリテン島でラバウルを占領し、
そこで主要基地を構築していました。

日本の次の目的はポートモレスビーでした。
しかし珊瑚海のオーストラリアの基地は日本の空爆に対して脆弱ではありませんでした。

日本軍が計画したMO作戦(ポートモレスビー攻略作戦、モ号作戦とも)では、
日本軍はソロモン諸島のツラギ島とニューギニア南東端のルイジアデス島に
水上飛行場を設置することを目的としていました。

しかし、4月中旬までに、真珠湾の米国太平洋艦隊のコードブレーカーは、
日本軍が南太平洋での攻撃の準備をしていること、
そしてポートモレスビーが目的であることを知っていたのです。

画像が不明瞭でもうしわけありません。
現地の説明によると、これは日本製の爆撃照準器で

IJIN BOMB AIMING APPARATUS MODEL2

というものだそうです。
初めて見聞きするのですがIJINで調べてもわかりませんでした。

説明によると、

「日本海軍では2種類の爆撃照準器が使用されていました。

1つはオプションの照準器で、もう1つはモデル2のような機械式の照準器でした。

このタイプの照準器は、通常の急降下爆撃ではなく水平爆撃に使用されました。

使われたのはほとんどが空母ベースの戦闘機と爆撃機です。

正しい爆弾の照準点は、ターゲット、そして風向、速度などの要素によって補正するために
さまざまなレバーとノブを調整することによって決定されました。
この照準器1932年に東京ケイキセイサクショによって製造されました」

トウキョウケイキセイサクショはおそらく現在の東京計器だとおもわれます。

同社の沿革には照準器を作っていたとの記述はありませんが、

古くは「三笠」「大和」「武蔵」の羅針儀も作っている会社で、
現在もレーダ警戒装置や慣性航法装置を防衛省に納入している会社です。

それにしてもIJINの漢字がなんだったのか気になるなあ・・・。

偉人?

■ 珊瑚海海戦

珊瑚海海戦の概要図です。

まず赤が日本軍、青が米艦隊で、右上の赤線は「翔鶴」「瑞鶴」。
左上からの赤線は「祥鳳」で、レキシントン艦載機に撃沈されたことがわかります。

沈む「祥鳳」

「祥鳳」は第二次世界大戦で最初に沈没した日本の船になりました。
魚雷二発を受けて数分の間に轟沈したということです。


そしてみ右下から進行している青線が「レキシントン」「ヨークタウン」です。

その「レキシントン」は駆逐艦「オネショー」(そんなのあるのか)「シムズ」とともに、
「瑞鶴」の高橋赫一率いる急降下爆撃隊に沈められました。

「ヨークタウン」の爆撃機に攻撃を受ける「翔鶴」ですが、
このときに「翔鶴」が受けたのは一発だけでした。

フランク・ジャック・フレッチャー中将は航空畑ではなく、
南太平洋に進出してくる日本軍を迎え撃つために集められた
連合国海軍の司令官(TF17)でした。

フレッチャーは二隻の空母、二隻のオーストラリア海軍の巡洋艦を含む
補助艦隊としての巡洋艦、駆逐艦、油槽艦の指揮を執りました。

アダム・オーブリー・W・フィッチ中将は「レキシントン」勤務などの経歴もある
海軍の最も経験豊かな搭乗員で、機動部隊の航空指揮官として組織を行った人物です。
高木中将率いる真珠湾攻撃にも出撃した「翔鶴」「瑞鶴」含む機動部隊に対し、
これを「レキシントン」「ヨークタウン」で迎え撃った珊瑚海海戦は、
歴史始まって最初の空母艦隊同士の決戦となりました。

高木武雄中将は帝国海軍の空母機動部隊を指揮し、
ポートモレスビー、ツラギなどへ進攻を阻む同盟国の軍艦を撃破し、
オーストラリアの海軍基地の空襲による撃破を試みました。

2隻の大型巡洋艦に加えて、軽空母「祥鳳」が
五藤存知中将の護衛艦隊に配属され、侵攻グループを保護していました。

五藤存知(ごとうありとも)などという軍人名をアメリカで見ることになろうとは・・。

「戦闘の生存者」

ダメージを受けたドーントレスがかろうじて「ヨークタウン」に着艦しました。
日本の空母が攻撃されている間、「レキシントン」のレーダーは、
こちらに向かってくる日本の爆撃機を察知していました。

その後「 ヨークタウン」は、日本の雷撃機によって発射された8つの魚雷を
身をよじるようにしてかわしましたが、
363 kg爆弾がフライトデッキを直撃し、4階下のデッキまで突き抜けてから爆発し、
乗員のうち66人が重度の火傷によって亡くなるという惨事になりました。
しかし「ヨークタウン」は生き残ることができました。

「淑女の死」Death of A Lady

フレデリック・シャーマン大尉による必死の機動にもかかわらず、
レキシントンは魚雷と爆弾に見舞われながらなんとか航行を続けましたが、
1時間以内に火災が発生し、午後12時47分に突然、
貯蔵タンクからのガソリン蒸気が発火し、壊滅的な内部爆発が船を揺さぶりました。

さらに爆発が続き、火事が制御不可能になったため、
午後5時7分、シャーマン大尉は総員退艦を命じました。

乗員が舫を伝って海に脱出している様子がわかります。
近くには駆逐艦が控えていて怪我人を収容しました。
このとき艦内に取り残された乗員は一人もいなかったそうです。

駆逐艦に移乗したシャーマン艦長は魚雷による沈没を命じ、
彼女は216名の乗員の亡骸と共に海に姿を消していきました。

 

続く。

(前回の予告は何かの間違いで、ミッドウェイはこの次でした。<(_ _)>)


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4 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
ウイングマークの中将! (Unknown)
2021-03-25 08:27:50
米軍には、この頃すでにウイングマークの中将がいたんですね。戦力は装備と人の総合力なので、飛行機では日本もいい線行ったのでしょうが、パイロットの中将はいなかったと思います。米軍の航空部隊の方が層が厚かったのですね。
返信する
ジョン・サッチ海軍大将 (佐久間)
2021-03-25 09:27:03
サッチウィーブでは(当時の照準器がロクに役立たない)偏差射撃で的確に仕留めることが重要ですが、そもそも編隊空戦は、例えサッチとオヘアのエース同士のペアであっても、信頼性の高い機上無線電話が無ければ不可能でしょう。朝鮮戦争でも、襲いかかるミグ15ジェット戦闘機に対して、機体性能が(零戦対F4FやMe262対P-51との性能差よりも)遥かに劣るF4Uコルセアが、タイトなサッチウィーブを駆使して返り討ちに仕留めました。その朝、ミグ15出没との報を受けたフォルマー海兵隊大尉ら第312海兵攻撃飛行隊(VMA-312)は、ミグ対策のブリーフングを入念に行い、海上の護衛空母シシリーから飛び立ってこの歴史的戦果を挙げました。その時のシシリー艦長がサッチ大佐だったのは、単なる偶然だったのでしょうか?

朝鮮戦争の後もサッチ少将は功績を重ね、1958年9月1日号のタイム誌の表紙を飾りました:
http://content.time.com/time/covers/0,16641,19580901,00.html
驚くことにそのカバーストーリーでは、なんと新たに結成されたアメリカ海軍対潜タスクグループ・アルファとその指揮官サッチ少将を大きく取り上げています。潜水艦発射レギュラス戦略核巡航ミサイルの実戦配備が完了し、また同じ年に原子力潜水艦ノーチラスとスケートが相次いで北極点に到達したなど、対潜作戦はアメリカ本土の国家安全を担保する喫緊の課題となっていたのでしょう。そんな大事に53歳のサッチ少将が抜擢されたのですから、彼が将官としても、とんでもなく優れた人物であったことは間違いありません。
返信する
珊瑚海海戦 (お節介船屋)
2021-03-25 11:32:57
珊瑚海海戦はポートモレスビー攻略を目指す日本軍の計画が通信諜報で米海軍が察知し、空母2隻基幹の機動部隊を配備し、日本海軍の機動部隊と攻略部隊を邀撃したことで生起した海戦でした。

機密度の低いトラック島に艦船出入港報告は解読され、海軍暗号書Dも一部解読されていました。暗号の中にMOと言う地名がポートモレスビーの略であることを突き止め、近い将来攻略作戦があるが日本軍はニューギニア東端まわりので上陸作戦を実施すると推測しました。
また第4艦隊の通信に新しい艦艇情報があり実際は空母祥鳳でしたが空母を推定しています。
解析で第4艦隊に新たに派遣された第6戦隊が関連あり、MO攻略作戦支援部隊とまで判断しています。
4月初め空母翔鶴と瑞鶴で編成された第5航空戦隊が第4艦隊と関連していることまで解析していました。

この作戦は井上南洋部隊すなわち第4艦隊が所掌していましたので事前に珊瑚海やオーストラリア北東部の敵航空兵力を空母部隊で制圧しその後攻略部隊を送り込む作戦立案しましたが連合艦隊から細かい命令があり実現できませんでした。

ラバウルに第25航空戦隊、また第8潜水戦隊も参戦していましたが、分散使用で各部隊が連携、相互連絡が十分ではありませんでした。

特にミッドウェー海戦でも同じ過ちをしましたが航空母艦が祥鳳を攻略部隊に配置し、5航戦とは遠くはなれて作戦行動させていました。

作戦が頓挫した責任を第4艦隊司令長官井上成美となっていますが連合艦隊の命令が事細かく、自由度がない上に5航戦原忠一司令官の判断、命令の拙さもあります。
基地飛行艇等からの敵空母の索敵情報をありながら、慢心さから5航戦の索敵不十分や索敵内容の誤判断で敵機動部隊発見は作戦開始の3日目、タンカーを空母と思い攻撃し敵空母に先制攻撃できなかったこと、敵の推定海域に難しい薄暮攻撃で戦闘機を付随させない攻撃で優秀な攻撃機を失ったこと等無駄な攻撃を繰り返しました。
またレーダーで攻撃部隊が攻撃前に捕捉されたりしました。

5航戦を妾の子が下手くそとの言のように、多くの戦訓があったにも関わらず、十分な事後研究が行われず、以後の作戦や軍備計画に生かさず、ミッドウェー海戦敗北等へ連続していきました。

米海軍は当然その後も通信諜報、解析に力も入れましたが、空母兵力、艦載機、航空機搭乗員の大増強に努め、またこの海戦から艦載機の編成も改め、戦闘機を多くし、ダメコンにも意を払い、艦隊編成も防空艦を多くし、輪形陣の厚さも実施されました。

攻撃部隊指揮官高橋赫一少佐も戦死しました。(嶋崎重和少佐の妹婿、艦爆の重鎮)

参照光人社「写真太平洋戦争第2巻」
返信する
ウエーキ島攻撃 (お節介船屋)
2021-03-25 12:18:20
第1回は1月23日真珠湾出撃のレキシントン基幹の第11任務部隊でしたが給油艦を伊72に撃沈され、中止しています。
エンタープライズ基幹の第16任務部隊が2月14日真珠湾出撃、24日艦載機攻撃と艦砲射撃実施し、陸上基地破壊、水偵、監視艇損害でした。

この時期米空母部隊はヒットエンドラン式に、ラエ、サラモア、ラバウル、クウエゼリン、ヤルート、マキン等を休むことなく攻撃しています。

基地航空部隊は進出直後でしたが2月20日ラバウルから哨戒中の九七大艇が空母部隊を発見、この米空母部隊は21日ラバウル空襲攻撃予定の第11任務部隊でした。
460浬離れており、零戦の増槽がなかったので付随できず、一式陸攻17機のみで攻撃(魚雷がなく、250㎏と60㎏の爆弾)しましたが迎撃され、被害を与えられず、無事帰還できたのは2機のみでした。
ただラバウル空襲は阻止しましたが。

奇襲作戦でしたが日本攻勢の時期といえども米空母部隊の攻撃や、被害に多くの警鐘や戦訓がありますがあまり顧みられていません。
参照光人社「写真太平洋戦争第1巻」
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