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タイ海軍とHTMS「プミポン・アドゥンヤデート」〜国際観艦式に参加した外国艦艇

2022-11-21 | 軍艦

今回の自衛隊観艦式に伴う外国海軍艦艇の一般公開で、
最も場所的に得をしたのではないかと思われるのが、
タイ海軍の

HTMS「プーミボン・アドゥンヤーデート」
Bhumibol Adulyadej (FFG 471)

だったかもしれません。


これはヴェルニー公園から帰りに撮った写真です。
奥に左舷を見せて係留しているインド海軍ご自慢のフリゲートもですが、
やはり手前のタイ海軍の「プミポン」が一番目立ちます。




こちらKさん写真。(冒頭のもね)


こちらわたし撮影。

ISO感度設定をちゃんとしないまま最後まで行ってしまったこの日、
ザラザラの画像をソフト処理でなんとか調整し修復したものです。


■ タイ海軍の歴史

さて、今回恒例として、参加海軍の歴史を簡単に紹介しています。

タイ海軍(Royal Thai Navy  RTN)
ทร.; Thai: กองทัพเรือไทย, kong thap ruea thai)

は、1906年に設立されたタイ王国の海軍組織です。

タイの水軍は、クメール帝国からの独立戦争
地域のライバルであるビルマやベトナムとの戦い
植民地時代のイギリスやフランスとの対立など、
1,000年にわたって地域での武力闘争に投入されてきました。

陸軍の海軍部隊は主に河川用の軍艦で構成されていました。
バンコクを流れるチャオプラヤー川を制御し、輸送船を保護するのが使命です。

シャム-ベトナム戦争 (1841-1845)

では、シャム海軍のほとんどはチャム人、マレー人、
中国人などの外国人で占められ、海戦も行われています。

シャム仏戦争(1893)

3隻のフランス船がチャオプラヤ川のシャム領を侵犯したことから、
シャムの要塞と砲艦隊との間に海戦が起こりました。

結果はフランスが勝利し、バンコクを封鎖。
イギリスの仲介でシャムとフランス双方に交渉により和平を行いました。

■第一次世界大戦


パリの凱旋門前を行進するシャム遠征軍、1919年

第一次世界大戦は、戦地から遠く離れていたため、
シャムには全く関係がなかったのですが、当時の国王ラーマ6世にとって、
国際舞台での自国の地位を強化するため、また、
シャム国家の概念を広める手段として戦争に参加しました。

シャム海軍は義勇遠征軍たる選び抜かれた1,284名を派遣し、
医療、自動車輸送、航空分遣隊として参戦を行いました。

第一次世界大戦後のタイ・仏印国境戦争

1941年にもタイとフランス海軍は交戦しています。


Made in Japan

このとき参加したタイ海軍の

海防戦艦 HTMS「トンブリ」Thonburi

は、海岸線の防衛のためにタイ海軍が取得した沿岸砲艦で、
日本の川崎造船所が受注し、1937年に進水しました。

排水量2265トン、増加装甲による機関や砲塔の保護、
MAN製ディーゼル機関2基を搭載し、
当時シャムでは「戦艦」と呼ばれたそうです。

兵装は三年式 20.3cm(50口径)連装砲2基であり、
大日本帝国海軍の初期の赤城、加賀に搭載されたものと同型と言われます。

当時タイ海軍の最強艦だった「トンブリ」ですが、
このタイ・仏印国境戦争で犠牲になって沈んでしまっています。

ただその最後がはっきりしておりません。
同艦を解説するウィキによると、

「軽巡洋艦『ラモット・ピケ』などからなるフランス艦隊と交戦し、被弾炎上。
さらに海戦後にタイ軍機による誤爆でも被害を受けている。
同日午後にコーチャン島と本土との間の浅瀬で転覆した」


ところが「タイ海軍の歴史」によると、全く様子が違っていて、

「タイ海軍は座礁した『トンブリ』を牽引して
フランス軍艦『ラモット・ピケ』とその艦隊の航路にわざと沈め、
同艦隊に死者11名の損害を負わせた」

(つまり”旅順港閉塞作戦方式”が成功したってこと?)

などと書かれていて困ったものです。
いずれにしても「トンブリ」が沈んだことには間違いありませんが。

ちなみにこのとき、外交的介入によってタイとフランスの間に入り、
停戦を仲介したのは他ならぬ我が日本でした。


■ 第二次世界大戦

驚くことに、シャム海軍は当時にして潜水艦も保有していました。
しかもびっくりです。それが🇯🇵日本製だったというのですから。


タイ海軍潜水艦@神戸(後ろ六甲山脈)

シャム王国の入札で潜水艦建造を落札したのは、三菱重工でした。
この落札条件には、帝国海軍による乗員の訓練がもれなくついてきました。

というわけで、写真は、三菱重工が初めて建造した輸出潜水艦、

「マッチャーヌ」級潜水艦 HTMS「マッチャーヌ」
HTMS「ウィルン」

の出航前の敬礼を行うシャム海軍サブマリナーのみなさんです。

彼ら、映えあるタイ海軍最初の潜水艦員40名は、日本の客船で来日し、
神戸に到着して、その後千葉市船橋の小学校に寝起きしながら
軽巡洋艦「龍田」の士官から訓練を受けました。

この写真を撮った後、彼らは自分たちの手で操艦を行い、
無事にバンコクに到着して就役を行いました。

「マッチャーヌ」級潜水艦は最終的に4隻建造されました。
3番艦の「シンサムッタ」
4番艦の「プライ・チュンボーン」
4隻全てが戦闘に参加することなく無事に終戦を迎えています。


ところで、第二次世界大戦で日本が負けたとき、
日本と同盟だったタイも、自動的に負けたことになったわけです。

が、タイ政府、そもそも日本が宣戦布告したときに発布した自国の布告書を
何か思うところがあったのか、わざと?サイン不備にしていたようです。

そして、日本が敗戦すると、不備を理由に「宣戦布告の無効」を主張し、
それが認められたため、戦後も戦勝国に介入されることはありませんでした。

何というか、なかなか・・
したたかなお国柄ですよねー( ̄ー ̄)b


■ 1951年 海軍の反乱(マンハッタン反乱)

1951年、タイ海軍の将校が当時の政権に対してクーデターを起こし、
失敗するという事件が起こっています。(理由は不明)

それは米国建造による浚渫船「マンハッタン」の引き渡し式でのことでした。

突如下士官たちが首相に銃を突きつけて人質に取り、
海軍の旗艦HTMS 「スリ・アユタヤ」Sri Ayudhyaに拉致したのです。



タイ王国陸軍、空軍、警察の連合軍からフルボッコにされ、
最強の軍艦だった「スリ・アユタヤ」も撃沈し、クーデターを強制終了。

この事件により、海軍は上層部のほとんどが解雇され、
銃火器を没収されて、その権力と影響力のほとんどを剥奪されます。

気の毒だったのは、せっかく第二次世界大戦を生き残った日本製の潜水艦。
何も悪いことをしていないのに、どさくさに全艦退役させられましたとさ。


■ ベトナム戦争と「血の水曜日事件」

ベトナム戦争では、タイ海軍は南ベトナムとその同盟国を支援するため、
2隻の艦艇が海上砲撃で地上軍を支援しています。


ベトナム戦争を巡る学生の民主化運動は、世界のトレンドだったわけですが、
軍隊と政府側は常に彼らを制圧する側に回りました。

いくつかの国で若い人命が失われる結果になりましたが、
タイではおそらく世界でも最悪の結末をたどりました。

タイにおける名門法科大学、タンマサート大学で起きた左派学生の集会
(寸劇だったという話)に対し、制止しようとする警察が武力を用い、
学生たちは警察と軍隊、民間右派組織の襲撃を受けました。

100名が拘束され、公式に46名(実際は100名以上とされる)
が死亡し、戒厳令が出されています。

みなさんは、ニュース映像で、木に吊るされた大学生の遺体を
折りたたみ椅子で殴る男と、それを取り囲んだ群衆が
微笑みを浮かべている虐殺の図をご覧になったことがあるでしょうか。

血の水曜日事件

このときのタイ海軍はというと、チャプラヤ川に飛び込んで
逃げようとした学生に、待機していたボートから銃弾を浴びせています。



こちらがタイ王国海軍の海軍旗。
真ん中に象の姿をあしらったものです。

タイ海軍の歴史を調べたところ、タンマサートの事件以来
ほとんど出動記録がないのか、記述がそれ以降ありません。

任務範囲は、河川やタイ湾、クラ地峡を隔てたインド洋などですが、
最近のタイ海軍が例えば国際貢献などを行っているのか、
それを記録した資料が見つかりませんでした。

それから、他の海軍にはない特色として、タイ海軍では
有名な司令官が悉く「王」「王子」「皇太子」であることです。

そういえば海上自衛隊にも毎年のようにタイから留学に来ているようですが、
今まで見てきた限りでは、遠洋航海に参加しているタイ留学生は、
学生でありながら、すでにタイ海軍の中尉であるだけでなく、
見た目も何となく高貴な雰囲気を漂わせる人ばかりで、
さすがやんごとなき生まれの人が多いんだなと思わされました。


今回、日本海軍時代からタイ海軍とは繋がりがあったことがわかりましたし、
現在も必ずそうやって海軍同士のコネクションを絶やさないというのは
昔からの付き合いによるところが大きいのかもしれません。


ついでに言うと、アジアにおける数少ない独立国同士だった日本とタイは、
皇室と王室同士も歴史的に縁が深く、互いに交流も盛んです。

潜水艦や軍艦の例もあるからか、タイ王室は日本製品がお好きらしく、
車はホンダ、カメラはキヤノン、サックスはヤマハ、
そしてスニーカーはオニツカタイガーなどを御用達なのだとか。

■ HTMS 「プミポン・アドゥンヤデート」




というわけで今回来日している「プミポン・アドゥンヤデート」ですが、
この名前をどこかで聞いたことがあると思ったら、それは
タイ国王、ラーマ9世の通称そのものでした。
(ラーマ9世は2016年に崩御し現在はラーマ10世)

タイ海軍の艦名の前に置かれるHTMSは、

「His Thai Majesty’s Ship」(タイ陛下の船)

の略になります。



HTMS「プミポン・アドゥンヤデート」FFG-471
Bhumibol Adulyadej


「プミポン・アドゥンヤデート」級フリゲート艦は、
タイ海軍が運用するフリゲート艦の一種です。

韓国の大宇海洋造船会社による建造で、大韓民国海軍の
「広開土大王」(グワンガエート・ザ・グレート)級駆逐艦
の設計にステルス機能を追加したバージョンで、
タイ海軍の高性能フリゲート艇プロジェクトの1番艦となります。
(2番艦建造は延長されたまま)

就役は2019年1月7日なので、まだ新造艦といっていいでしょう。

この建造については、造船技術の指導も受けているらしく、
タイ海軍は、国内造船力を強化するため、もう1隻、
高性能なフリゲートを建造する予定です。
(それが国内建造になるのかどうかはわか裏ませんでしたINS)

■ 設計・建造

「プミポン・アドゥンヤデート」(『プミポン』と略せたら楽なのだけど、
タイではこれ全部が揃って初めて名称であるので、省略はありえないらしい)
には、艦体とシステムによるステルス技術が施されていて、
相手からの発見を減らすことに重点を置いています。

それは例えば、レーダーの反射における熱放射やノイズの減少などです。


海軍の戦闘システムは空軍の航空機を介して、
HTMS「ナレスアン」(FFG-421)、HTMS「タクシン」(FFG-422)、
HTMS「チャクリナルエベット」
(CVH-911)とリンクします。

「シー・レジスタンス」については、

「強固な船体構造を持ち、6~8海象までの耐海性がある」

とされます。
この数字については、おそらく海況における

「波高4m〜14m未満」(6は『かなり』8は『非常に荒れている』)

「レベル6〜8
、4mの強いうねり」

といった状況のことだと思われます。
かなり悪条件の天候下でも大丈夫、というわけですね。

また海象のみならず、核、化学、生物化学の汚染という
敵対的な環境下でも生存できる可能性が高いとされます。



■ 戦闘能力 

海軍艦である最優先事項である水中戦のみならず、
3Dで戦闘行為が可能です。
3次元的というのは「水中」「水上」「空中」での、という意味です。

同艦の備える戦闘能力とは。

まず、水中の敵、潜水艦に対しては、後部と底部のソナーで遠隔目標を探知。

そして、垂直発射対潜ロケットや魚雷、2番艦で遠隔地の潜水艦を攻撃する。

空中の脅威に対しては、長・中距離の三次元監視レーダーを使って、
目標を見つけ、探知し、追跡する。

僚艦や航空機と作戦を交換・調整する。

その後、ESSMミサイルや艦砲射撃で目標を攻撃する。

戦闘集団の外にある空軍機と連携しての捜索。


水上戦においては、遠距離からの攻撃が可能となる。
これは艦載ヘリによる水上・水中目標への攻撃も含む。


自衛能力のために、地対空ミサイル、海軍砲、対空副砲、CIWS、
電子デコイ、集中的または個別的なダメージコントロールシステム、
船体から信号を放送するための制御システムがある。

電子戦能力として、目標の電磁波信号を探知、
傍受、分析、破壊することが可能。


あとスペックで気になったのは

乗員=士官141名(別の資料では乗員141名とだけ)

と書かれていたことですが、いくら何でもそれはないだろうと思うの。


窓の隙間から見えるのはおそらく魚雷発射機。
これもよくみると結構あちこち錆が浮いているのね。
艦体の錆って、世界基準では全く気にしなくてもいいものみたいです。

やはり日本国海上自衛隊はこの点世界でも特別ということでよろしいか。


続く。




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3 Comments

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タイ海軍 (お節介船屋)
2022-11-20 20:07:00
参照文献から転記
人員74,000人 海兵隊を含みます。多いですね。
艦艇91隻
空母1隻、フリゲート8隻、コルベット8隻、哨戒艦7隻、揚陸艦3隻、掃海艇16隻、補給艦1隻、給油艦2隻等
航空機49機

有名だったのは米国が考えた制海艦をスペインに発注した空母「チャクリ・ナルエベト」でしょう。ハリアーを搭載した世界最小のV/STOLキャリアーでしたがハリアーが退役して、現在はヘリコプター搭載空母ですが行動は不活発で象徴的存在のみとなっています。任務は捜索救助とEEZ監視となっていますが。
満載排水量11,485t、ヘリ6機搭載、乗員455名、航空機要員146名

「プミポン・アドゥンヤデート」
満載排水3,700t、全長123m、幅14.4m、主機ガスタービン1基、デイーゼル2基、2軸、30kt、シースパロー短SAM用VLS1基8セル、ハープーンSSM4連装2基、76㎜砲1基、20㎜CIWS1基、30㎜単装機銃2基、324㎜3連装魚雷発射管2基、ヘリ1機、乗員136名 なおエリス中尉の記述の>窓の隙間から見えるのはおそらく魚雷発射機は発射時の噴煙排除のための開口部を開いた状態のハープーン発射筒です。
ノックス級米フリゲートや中国製ナレースアン級、チャ・パヤ級がありますが何れも古く、中国製は船体構造に問題もあるように報道されています。そのため「プミポン・アドゥンヤデート」級の2番艦も計画されていましたが財政面の問題なのか韓国建造艦の問題なのか建造見送りとなりました。
なお当艦国王の逝去により艦名変更となりましたが前名はターチンでした。

コルベットは中国建造の「バッターニー」級満載排水量1,440tが2隻2005,2006年に竣工しています。

参照海人社「世界の艦船」No729,970
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錆打ち (Unknown)
2022-11-21 08:03:54
タイからの某大への留学生は、皆、貴族階級だと思います。陸海空ではなく、二人が多く、陸海とか各軍から一人ずつです。三代前の武居海幕長の時には、タイ海軍トップも某大に留学された同期の方でした。

我々の同期には海軍がいました。幹部候補生学校、遠洋航海まで自衛隊にいて帰国。それから十数年後に指揮幕僚課程(昔で言う「海軍大学」)でまた来ました。自衛隊だと大体、3佐(少佐)ですが、彼は大佐でした。「やんごとなき」感はあるのですが、ごく普通の人です。

「プミポン」は満載排水量3,900トンで、自衛隊の「もがみ」より小さいので「Sea State 8」まで行けるとのことですが、実際にその海象状況で走ったら、たまったもんじゃないと思います。

見学はしませんでしたが、岸壁から見ていると将官(群司令部)が乗っているようだったので、一番いい逸見岸壁に付けさせてもらったのではないかと思います。

どこの船でも士官は乗員の一割程度です。インド海軍の船を見学した時に士官が艦内にいるかいないかを示すボードがありましたが、自衛隊だとCPO?と思われるような職名もあったので、CPOを士官扱いにする国もあるのかもしれません。

錆打ちですが、最近はかつてほどマメにやらなくなりました。観艦式のようなイベントだとさすがにきれいにはしますが、以前のように総塗装ではなくタッチアップです。普通の一般公開だと、錆打ちもせずに対応する船も増えて来ています。

冷戦時代は、三海峡監視以外には警戒監視はありませんでしたが、今は常続的に中東と南西に出しており、三海峡は中ロが出て来る時だけしか出しません。どのような船が出て来て、自衛隊の何が対応したというのは、防衛省のホームページに公表されますが、護衛艦ではなく、ミサイル艇や哨戒機での対応がほとんどです。日本周回航行のような大掛かりな場合以外に三海峡に護衛艦を出せる余裕はなくなって来ています。

北朝鮮のミサイル発射も今年は50回を超えたので、イージスの日本海配備も24時間体制です。以前のように船をきれいにしている余裕はなくなって来ています。
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シャム湾の泰仏海戦 (お節介船屋)
2022-11-21 10:26:55
1941年1月16日
フランスは当時ラオス、ベトナム、カンボジアを植民地としており、タイは仏印と国境紛争中で、日本が中国援助ルート遮断を狙い、仏印進駐を進めており、日本をバックにタイ国境のルアンブラバン、パクセの失地回復のため1940年11月28日タイ仏が衝突しました。
タイ艦隊も出撃、ただ艦隊を2分割し、第1戦隊旗艦「スリ・アユデュト」、水雷艇3隻、漁業保護艇1隻、第2戦隊海防艦「トンブリー」水雷艇3隻、敷設艇1隻、漁業保護艇1隻としました。
フランス艦隊もタイ艦隊の動きを掴んでおり、軽巡「ラモット・ピケ」を旗艦にスループ4隻計5隻でレジ・ベルゲル大佐指揮でサイゴンを出撃しました。
タイ湾で仏軽巡搭載の飛行艇の攻撃により開戦、仏軽巡砲撃でタイ水雷艇1隻沈没、仏スループ砲撃でタイ水雷艇1隻沈没、1隻大破その後沈没、もう1隻も大破、「トンブリー」海戦に加わる。仏「ラモット・ピケ」反撃、「トンブリー」艦橋付近被弾、発令所ダメージで射撃不活発、発電機被害、右に傾く。追撃中の仏「ラモット・ピケ」座礁、すぐに離礁、魚雷3本発射、追撃を止め、引き揚げました。
その後タイは航空機を投入し、フランス艦隊を爆撃しましたが戦果はありませんでした。
「トンブリー」はその後右に傾きつつ、付近の浅瀬に座礁しました。戦死者20名。
水雷艇、潜水艦等で沈没水雷艇乗員救助を実施しましたが戦死者16名でした。フランス側は1名の戦死者も無くサイゴンに帰投しました。

1月31日日本の調定で停戦協定が結ばれ、川崎重工が「トンブリー」離礁作業実施、日本サルベージが引き揚げ、破損船体は完全復旧出来ず、長期係留。
仏軽巡「ラモット・ピケ」も至近弾修理を神戸で入渠実施しました。

なお「トンブリー」の艦橋と主砲1基がタイ海軍兵学校に保存されており、見学が可能とのことで見にいかれた方の投稿を下に添付します。
http://ki43.on.coocan.jp/oversea/dhonburi/dhonburi.html

なお戦前タイ海軍は拡張を計画、日本に海防艦2隻「スリ・アユデュア」「トンブリー」、スループ2隻、哨戒艇2隻、潜水艦4隻、運送艦2隻、給油艦1隻、イタリアに水雷艇9隻、敷設艇2隻を発注、建造していました。

海防艦は排水量2,265tで20㎝砲2連装2基、舷側装甲64㎜、速力16.5kt、なおこの主砲は空母「赤城」撤去砲とも言われていました。

仏軽巡「ラモット・ピケ」は第1次世界大戦後建造の8,000t、15㎝連装砲4基速力、34kt、水偵1機搭載で有力でしたがスループ2隻は旧式でもう2隻がアミラル・シャルネ級で13㎝砲3基でしたがタイ艦隊が2分割せずに戦えば海防艦2隻で砲力は軽巡に引けをとらず、水雷艇も新しく良く戦ったといわれており、一方的な戦いにはならなかったのではといわれています。指揮官ルアン・サンウォン・ユッタキット大佐の指揮が良くなかったようです。
併せて航空機150機を要していたタイがこの海戦に投入したのは6機であり、至近弾2発のみでした。
 
参照本㈱シーパワ-「シーパワー」第4巻第6号
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