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キャンパスツァー2023〜噴水の水遊びと西海岸一の教会、そして黒リス

2023-07-15 | アメリカ

こちらに到着して初めての週末となりました。

今年は独立記念日が火曜日なので、アメリカ人にとっては
5日間の「大型連休」となります。
MKもインターンシップの会社から「有給」の休みをもらいました。

例年この時期アメリカにいることが多い我が家ですが、
昔MKがサマーキャンプに参加していた頃は、母子二人で行くあてもなく、
ホテルの部屋でテレビの花火中継やホットドッグ大食いコンテストを見ながら
一日中ネットをしたりして漫然と過ごしていました。

しかしあれから幾星霜、そんな彼も大学生となり、
今回の連休中は、キャンパス内を案内してくれ、
自分のラボも見せてくれることになりました。



彼が住んでいる大学の寮は、夏休みに入ると
実家のあるアメリカ人がほとんど帰郷してしまい、いなくなるので、
残っているのは海外からの留学組か、あるいは
この近くでインターンシップをしている学生だけとなります。

部屋に荷物を置き、久しぶりにニコンのカメラを持って出かけました。



外の気温は32度と猛烈な暑さです。

わたしは大きな帽子で防護しましたが、MKは日焼け止めを塗って外に。
水のボトルを持って水分補給しながら歩きだしました。

確かに暑いですが、湿度が低いので、日陰に入るとひんやりします。
室内が蒸し暑いということはこの地域ではあまり起こりません。



大学の広さは全米一だそうで、キャンパス全体が一つの街です。

まずビジネススクール(経営大学院)が現れました。
ビジネススクールの学生の寮は、道を挟んだ向かい全部の地域となります。

地域柄、シリコンバレー近郊のベンチャーキャピタル、金融、
テクノロジー企業と非常に密接な関係を保っている大学院で、
年間1億5,600万ドルの営業収入で運営されており、
13億ドルの寄付金を持つ全米で2番目に裕福なビジネススクールです。

一位はおそらくハーバード ビジネススクールだと思われますが、
調べていないのでわかりません。



左手に見えるのは大学で最も古くて権威のあるホール、
エンシナ・ホール(Encina Hall)は、
1891年10月1日、大学開校初日にオープンしました。

堂々とした4階建ての砂岩造りの建物には、荘厳なロビー、巨大な食堂、
当時にしてすでに電気が通り、温水が完備されていました。

大学創立の祖は、1888年にヨーロッパを旅行中に偶然
スイスのシルヴァプラーナ湖にあるリゾートでこの建物を見つけ、
建築家にスケッチを送ってこれを再現させました。

当時にして47万7000ドルをかけた400人収容の学生寮は、
スイスのホテルの優雅な間取りをそっくり真似していました。

しかし、大学が開学し、最初の学生たちが到着すると、
そのような旧世界の気取った雰囲気は、ぶち壊しにされることになります。

彼らの多くは西部の片田舎で育ってきた粗野な若者で、
しかも不幸なことにこれが彼らにとって初めての独立体験。

開校1ヵ月も経たないうちに、エンシナの学生たちは、
近くの鉄道支線から貨車を勝手に脱線させ、
あやうく本線の列車を脱線させそうになるという事件を起こし、
怒り狂った大学創始者を落ち着かせるのに何時間も要しました。

エンシナホールは学生の活動、計画、リーダーシップの中心となり、
彼らはそれを誇りに思っていましたが、それは建物に対する感情ではなく、
その建物そのものを大切に扱うべきとは考えられていなかったため、
時が経つにつれて、すべての施設は悪用され、乱暴に扱われるようになり、
ついには「マッドハウス」とあだ名をつけられる魔窟になります。

たとえば。

ある住人が帰宅すると、

「部屋の壁以外のすべてが反転しており、
インクスタンドが不安定なまま切り立つ山の頂上にあった」。

その「山」の中には、ブロンズで縁取られた鉄製のオリジナルベッド台が2つ、
洋服ダンスが1つか2つ、大きな勉強机、背もたれの高いオークの椅子が4脚、
鏡、敷物2枚、電灯、洗面台が含まれていた。

1893年、創始者夫人がベンジャミン・ハリソン元米国大統領
のために用意した葉巻とウィスキーが何者か(もちろん学生)に盗まれた。


等々。

エンシナの長く広いホールと洞窟のような階段室は、学生の乱暴を助長し、
食器でいっぱいのトレイから重い家具まで、
ロビーに物を投げ入れるのが彼らのお気に入りの遊びの一つでした。

ある新入生の家族への手紙です。

「午後11時半に電気が消え、仲間たちが椅子や、痰壺、
その他いくつかのものを階下に "発射 "した。
ルームメイトが廊下に出て調べようとしたとき、
"3本の火の筋が飛び出し、3発の銃声が聞こえたので、
フレッドと私は危険な場所にいると判断し、そっと部屋に戻った"。」

管理当局はこれらの狼藉について一つの見解を出しました。

 「長いホールはいたずらを助長しすぎる。」


管理当局は、増大する騒動に対して、より厳しい管理で対応、
最終的には監視員が巡回するようになりましたが、
学年間の対立がいじめ行為を生んで深刻な事態が頻出します。

バスタブの中で新入生の頭を水中に押さえつける「バブリング」
(泡が出るまで、つまり必死になって口を開け、あえぎながら空気を吸うこと)

「花火やリボルバーを乱射し、校内を水浸しにし、
廊下の電灯をほとんど全部壊した」

「監視員に対し、20名が石やビール瓶、ひげそり用のコップ、
つば入れ、椅子、木箱を投げ続ける」

この事態が終息したきっかけは、皮肉なことに1906年4月18日の地震でした。
2本の大きな煙突が地下まで崩れ落ち、生徒1人が死亡、数人が負傷。


地震後修復されたエンシナホールではすっかり雰囲気が変わり、
大災害の前では、過去のことは水に流し、
行動と規律に関する教員と学生の関係をただそういう気風が生まれたのです。

その後、この雰囲気がもう一度だけ「アナーキー」に傾いたのは
いわゆるベトナム戦争反対の学生運動の頃だったと言います。

たとえば、エンシナのロビーで母親クラブがお茶を飲んでいるとき
生徒が上の階から落とした水袋がハーバート・フーヴァー夫人を直撃し、
犯人は最高刑(どんな罰かは不明)を受けたということがありました。

また、ベトナム戦争中、エンシナはデモ隊の標的になり、
押し入ってファイルを盗んだり、給与記録を盗んだりし、
ついには放火が原因と思われる大火災がおこってしまいます。

1995年、評議員会は、廃墟と化した東棟を含め、
歴史的に重要なこの建物を元の素晴らしさに戻すべきであり、
地震に耐えられるよう強化すべきであると決定しました。



MKによると、先日グアテマラの大統領が講演を行われ、
建物前の芝生にはずらりとSPが並んでいたとか。

今ではかつての学生の狼藉の痕跡は全く残されていません。



キャンパスにあった歴史写真のバナーに写っているのは、
この講堂の反対側ではないかと思われます。



看護学部の学生。
現在の看護学部は、Medicine Health Care の一部です。




骸骨に帽子を被せて抱き寄せているのは医学部教授です。

なんかあからさまにうっとりしてらっしゃるんですけど・・・。
この骸骨さんはもしかしたら本物?



工学部周辺。
人々の服装から見て1900年前後でしょうか。
建物の右上に「エンジニアリング」と彫刻されています。



1905年当時の機械工学部。
MKが現在籍を置いてお世話になっております。



「回復期センター」とだけ説明があります。
おそらく看護学部の施設の一つでしょう。
このたくさんの女の子たちはみんな病気なのでしょうか。



猛烈な日差しの中、積極的に日焼けしようとする人たち。
日本女性は嫌いますが、まだまだアメリカ人は日焼けが好きです。



ジョン・A・ブルーメ地震工学センター

地震工学の研究、教育、実践を行う機関です。
土木環境工学科の一部であり、地震リスクの低減において専門家と地域社会、
また、地震とその構造物への影響の理解に貢献しているそうです。



デザイン工学の研究室には、全学生の顔写真と、
彼らが制作した(かもしれない)車がありました。



すっかりプールと化した噴水のある浅い池。

子供を連れてきて、水につけている親がいたり、
池に置いたテーブルを囲んでゲームをする学生らしき人がいたり。
周りの芝生には水着姿でシートに寝そべるカップルまでいました。



さて、というわけで、MKのラボに辿り着きました。
アメリカの大学の工学部研究室というのは、どうしてこうも似ているのか。



学期中、時折MKはこのラボからSkypeをかけてきたものです。

サンクスギビング中でそれこそアメリカ人は皆帰ってしまい、
学校に残っているのは外国人組だけで、つい寂しくなったときとか。



ホワイトボードの落書きも全米共通の雰囲気。



MKがラボで作った水上バトル用船舶。
部品を作るのに彼の3Dプリンターが大いに役立ったようです。



この同じ水上対決用船舶の名前は「カラオケカタマラン」。
水上を滑走する時同時にカラオケが鳴る仕組みだとか。


ラボの教授似顔絵。(下手だけどむっちゃ似ているという)



さて、ラボ見学を終わり外に出ました。
この建物は、ヒューレットパッカードの一人、
ウィリアム・ヒューレットの寄付した工学部ティーチングセンターです。



そして道を隔てて向かいにあるのが相方のデビッド・パッカードの寄付した
エレクトリカルエンジニアリングの建物。

ちなみに彼らに起業を勧めたテルマン教授の名前を関したビルもあります。



こちらはどこにでもあるビル・ゲイツの寄付による建物。
なんか全米の大学に建物を寄付しまくってるみたいですね。

これだけ節操なく気前よく寄付しているなら、
日本に別荘を持っているよしみで、日本の大学に・・・とはならんかな。



数学科があるスローン・マセマティックセンター
アルフレッド・スローンは自動車工学の技術者出身で、
GMの基礎を作ったビジネスマンでもあります。

冒頭の写真の木々の奥に見えているのがこの正面玄関となります。


この少年が誰かはわかりませんでした。
おそらくですが、15歳で亡くなった創始者の息子ではないかと思われます。



キャンパス内には観光ツァーのグループがたくさんいます。
二人が写真を撮っているのは、オーギュスト・ロダンの彫刻。

通り過ぎながらルーブル美術館の「カレーの市民」をふと思い出したのですが、
当たらずとも遠からず、この作品は「カレーの騎士」だそうです。



アメリカ西海岸で最も古く、「最も著名な」超教派教会であり、
「大学の建築の至宝」と呼ばれるメモリアル・チャーチ

1903年に献堂されたロマネスク様式の建物の内部は
ヨーロッパの影響を受けたステンドグラスの窓やモザイク画に覆われ、
5台の異なるタイプのパイプオルガンを備えています。

メモリアル・チャーチは、1906年と1989年の2度の大地震に耐え、
それぞれの後に大規模な改修が行われました。



この協会は、大学の創始者の夫人が夫を偲ぶために建てたとされます。



教会内のステンドグラスの窓に、2人の天使が小さな子供を
金色の雲の上に座っているキリストに向かって運ぶ様子を描いたものがあり、
近くの窓にはキリストが魂を天国に迎え入れる様子が描かれていますが、
これは15歳でチフスに罹患し、早逝した夫妻の息子の死に因んでいます。

元々本大学は裕福な夫妻が、この息子の名前を
永劫に歴史に残すことを目的に設立したものでした。

息子はアメリカの裕福な家の子弟が恒例として行う、
グランドツァー(卒業旅行)先のアテネでチフスを発症し、
両親が治療のため連れて行ったフィレンツェで客死してしまいます。



反対側から見たチャーチ。
ステンドグラスがあしらわれた窓が見えています。



最後に、大学名物黒いリスを見ました。



当大学の黒リスにはじつに黒い噂(黒だけに)が纏わっています。

昔、教会を設立した創始者夫人がイタリア原産の黒リスに夢中になり、
神聖な大学を建設する際に、後世の人々を喜ばせるために
リスを大量に輸送し、キャンパスに放したという真偽の不確かな噂です。

しかし現代では黒リスはほとんど例外なく疥癬に冒されているようで、
ほとんどのアメリカ人は我々のように「可愛い〜〜」とは全く思わず、
彼らを巨大な黒いネズミ🐭にしかみなしていない模様。


シリコンバレー滞在シリーズ 続く




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2 Comments

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ストーム (ウェップス)
2023-07-18 09:19:07
日本の旧制高校の寮のバカ騒ぎをストームと言ってたようで、北杜夫の著作に詳しいです。若者気質は国を問わないようですね。但し拳銃が出てくるのはアメリカならではです( `ー´)ノ
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ラボ (Unknown)
2023-07-15 08:20:07
ラボですが、工業高校とか高専みたいですね。ロボコンに出て来そう。
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