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RAFの「外人部隊」イーグル航空隊〜第二次世界大戦の航空 スミソニアン航空博物館

2021-07-06 | 航空機

「第二次世界大戦の航空」コーナーに展示されている5カ国の戦闘機のうち、
スーパーマリン・スピットファイアについて前回ご紹介したわけですが、
そのスピットファイアとダンケルクの戦い、そしてアメリカ人の誇り、
イーグル・スコードロンについてお話ししておくことにします。

■ シュナイダーカップ三連勝のスーパーマリン

クリストファー・ノーラン監督「ダンケルク」には、このコーナーにある、


ロイヤルエアフォース(RAF)スーパーマリン・スピットファイア


ルフトバッフェ メッサーシュミットBf109

がどちらも登場します。
実際に展示されている航空機はそのときの

「ダイナモ作戦」Operation Dynamo

に参加したものより制作されたのはもう少し早い時期であるということですが。

1940年5月26日までにドイツ軍によってダンケルクの港に追い詰められ、
海岸に隔離され、ドイツ軍の急降下爆撃機Stukasや戦闘機Bf109の格好の標的となった
フランス、イギリス、ベルギーの軍隊を救出するために、英国海軍が発動した作戦。

それがダイナモ作戦、別名

「ダンケルクからの撤退(Dunkirk evacuation)」

でした。

映画の感動的なラストを観ずとも、この撤退作戦が成功に終わったことは
誰でも知っているわけですが、
もしもこの作戦にロイヤルエアフォースが、というか、

わずか15機のスピットファイアが出動していなければ、

ダンケルクは悲劇に終わっていたかもしれないことを知る人はあまりいないでしょう。

ノーラン監督は、英国海軍だけでなく、35万人近くの連合軍将兵を救うことになった
スピットファイアのパイロットたちの活躍にもちゃんと焦点を当て、
この歴史的な事実を後世に残そうとしたのでした。

 

「ダンケルク」はスピットファイアの最初の大きな戦いとなりました。

スピットファイア部隊がダンケルクに派遣されたのは、兵士を守ることはもちろん、
兵士が取り残されている海岸に向かう海軍やボランティアのヨットなどの船を守るのが目的です。

(映画ではこのボランティアのヨットもフィーチャーされていましたね)

そして、5月23日、ドイツ空軍の爆撃機が攻撃の準備をしていたとき、
第92飛行隊のスピットファイアは、Bf109110の両方からなる17機のドイツ機を撃墜しました。

その2日後、同飛行隊はBf110に援護されたユンカースJu87の一群と交戦、
相手に再び大きな損害を与え、ダイナモ作戦の順調な進行を可能にしたのです。

ダンケルクで、アラン・ディアロバート・スタンフォード・タックという
2人のRAFパイロットは、それぞれ6機の敵機を撃墜しエースになりました。

Portrait of Wing Commander Alan Christopher 'Al' Deere, RAF, July 1944. CH13619.jpg
Alan Christopher "Al" Deere(1917−1995)
Air commodore

Robert Stanford Tuck.jpg

Robert Roland Stanford Tuc(1916-1987)
Wing commander

エア・コマンダーは准将、ウィングコマンダーは中佐。
いずれもロイヤルエアフォース独特のランクです。

ついでなので、RAFの空軍士官のタイトルを挙げておきます。
どれもこれも馴染みがなさすぎてわたしには全くピンときません。

少尉=Pilot  officer パイロット・オフィサー

中尉=Flying officer フライング・オフィサー

大尉=Flight lieutenant フライト・ルテナント

少佐=Squadron Leader スコードロン・リーダー

中佐=Wing Commander ウィング・コマンダー

大佐=Group captain グループ・キャプテン

准将=Air Commodore エア・コモドーア

少将=Air vice marshal エア・バイス・マーシャル

中将=Air marshal エア・マーシャル

大将=Air chief marshal エア・チーフ・マーシャル

元帥=Marshal of the Royal Air Force マーシャル・オブ・ザ・ロイヤル・エア・フォース


空軍大佐の「グループキャプテン」という名称の重みのなさは異常。
ちなみにRAFではいわゆる「金ピカ」がマークにつくのは准将以上からになります。

しかしタック中佐、大舞台でエースになった割に出世してなくないか?

■ スピットファイアの「元祖」スーパーマリンレーサー

さて、続いてスピットファイア誕生までの経緯についてお話しします。

スピットファイアを設計した、

レジナルド・J・ミッチェル(CBE Reginald Joseph Mitchell 1895-1937)

です。

彼は当時盛んだった航空レース、シュナイダー・トロフィーレース用に
最初のスピットファイアを設計し、この機体はレースに3連勝して
名誉あるシュナイダーカップを英国に持ち帰るという快挙を成し遂げました。

スピットファイアの元祖は、なんと水上機だったんですね。

水上機のレースで勝ち抜くことを目標に改良するうち、
特にエンジンの技術は進化し向上していき、2年ごとに行われていた
シュナイダーレースの最後の三回は、そのいずれもが
UKチームの駆る

スーパーマリン・レーサー

の独壇場となりました。
結果的に英国は優勝カップを永久に祖国に持ち帰ることになったのです。


Supermarine S.6B ExCC.jpg
シュナイダーカップ最後の優勝機

 

■ スピットファイア戦闘機の誕生

ミッチェルはこのスーパーマリン・レーサーにロールス・ロイス社製のV型12気筒エンジン
「マーリン」を搭載し、戦闘機に仕立て上げることにしました。

彼はドイツの動向に強い関心を持ち、英国の防衛力を向上させるには、
特に空軍力の強化が必要であると考えていたのです。

ただし、ミッチェルはこの「スピットファイア」という名前を気にいっていませんでした。
Spitfire=火を吐くという言葉の一般的な意味は、

「癇癪持ちの女」

という身も蓋もないものだったからです。

世の中にはグレの香水「カボシャール」(強情っぱり)のように、あえて
ネガティブなミーニングで商品を魅力的に見せるというマーケティング法がありますが、
ミッチェルはそうした逆説を好まなかったと見えます。

後世の、特に外国人の我々には「スピットファイア」というと、もはや
この伝説の戦闘機しか思いつかなくなっているわけですが。

いくら気に入らずとも、命名を行ったのはいわばお客様であるRAF
さすがのミッチェルも受け入れるしかなかったようですが、

最後まで慣れることはなかったようで、のちにこんなことまで言っています。

"Spitfire was just the sort of bloody silly name they would choose.”

「血なまぐさく」「馬鹿げていて」「いかにも彼らが選びそうな」名前

うーん・・・これ、同時にさりげなくロイヤルエアフォースをディスってませんかね。
ミッチェル先生、もしかしてパヤオみたいな(笑)飛行機好きの軍嫌いだったのか?

 

ミッチェルは1933年にスーパーマリン社から新設計の300型を進める許可を得ました。

このスピットファイアは、もともとスーパーマリン社の個人的な事業でしたが、
すぐにRAFが興味を持ち、航空省が試作機に資金を提供したのです。

薄い楕円形の主翼はカナダの空力学者ベバリー・シェンストンが設計したもので、
ハインケルHe70ブリッツと似ていると言われています。

また、翼下のラジエーターはRAEが設計したもので、
モノコック構造は米国で最初に開発されたものです。

ミッチェルの天才的な才能は、高速飛行の経験とタイプ224を使って
これらすべてを一つの形にまとめ上げたことにあるといわれています。

スピットファイアの試作1号機(シリアルK5054)は、
1936年3月5日にハンプシャー州イーストリーで初飛行しました。

 

■ 戦時中生まれた派生型スピットファイア

スピットファイアの原型は、8挺の機関銃を搭載した戦闘機の必要性から生まれました。
戦時中、様々なバージョンのスピットファイアが製造ラインから生み出されています。

Bf109に対抗するための高空飛行バージョン。
フォッケウルフFw190に対抗するための超低空飛行が可能なバージョン。
そして、ドイツ軍の動きを監視するための偵察機バージョン、さらには
海で溺れたパイロットを救うための海空救助活動用の機体などです。

また、空母搭載用に

スーパーマリン・シーファイア Supermarine Seafire

という艦載フック付きがあったこともご存知かもしれません。

Seafire 1.jpg
Royal Canadian Navy Supermarine Seafire Mk XV

「シーファイア」という名前からは、オリジナルの「癇癪女」の語源は
全く消え去っているのがちょっと面白いと思ってしまいました。

 

■ アメリカ人パイロット集団、イーグル航空隊


スピットファイアは、イギリスや英連邦のパイロットのみならず、
フランス、ポーランド、チェコスロバキア、ベルギー、アメリカなど、
国際的なパイロットたちによって操縦されていました。

1940年9月、アメリカ軍の戦闘機パイロットからなる第71航空隊が
ロイヤル・エアフォースに加わるために編成され始め、10月19日には、
最初の「イーグル飛行隊」がスピットファイアに乗って戦闘を行いました。

彼らアメリカ人パイロットの多くはカナダで志願したか、あるいはロイヤルカナディアン、
カナダ国内カナダ空軍にリクルートして採用されたという経緯です。

そのいずれでもない人の中には、イギリスに直接渡ったり、
自力で飛行機を飛ばしてなんとかフランスに行った熱心な人もいました。

あまりにもアメリカからの志願者が多かったので、1941年になると、
イギリス空軍はさらに2個のイーグル飛行隊を追加で結成することになりました。

当時アメリカ政府はパイロットたちがイギリス連邦のために戦っている間、
規則としてイギリスの市民権を保持できるように特別に取り計らっていましたが、
1941年12月になってアメリカが参戦することが決まると、当然ながら
多くのイーグル隊員はアメリカ陸軍航空隊への移籍を要請することになりました。

その後、イーグル飛行隊は、

アメリカ陸軍航空隊 第8空軍 第4戦闘機群

第334、第335、第336飛行隊

としてアメリカのマーキングをつけたスピットファイアで戦いました。

敵機を撃墜した第71航空隊のマッコルピン(Carroll W. McColpin)
フライングクロスを受け取り、仲間に祝福されているところ。

離陸準備をすませ、いかにも闘志満々のイーグルたち。
第一次世界大戦のときフランスに向けて飛んだチャールズ・スウィーニー大佐
名誉航空隊司令となっていました。

その直属の司令、カンサス出身の航空隊長ウィリアム・E・G・テイラー
そのままイギリス海軍の艦隊航空隊に就役しています。

スクランブルがかかり、各自のホーカー・ハリケーンに駆け乗るイーグル。

哨戒から帰投してくる2機のイーグル航空隊ハリケーン。

レディールームで次なる戦いを待つ第71航空隊メンバー。

RAFからアメリカ陸軍航空隊に再編成後、ブリーフィングを行うイーグル航空隊長
ドナルド(ドン)・ブレイクスリー(Don Blakeslee)中佐

超イケメン

博物館に展示されているスピットファイアは140機生産されたマークVIIの1機です。

高高度での飛行が可能で、25,000フィートで時速408マイル出せました。
124飛行隊が使用したマークVIIは、ミッチェル爆撃機を援護しながら、
Bf109を123機破壊するという活躍をしています。

1943年3月、博物館のスピットファイアは、リバプールの工場からアメリカに送られ、
5月2日に陸軍航空隊に受領されました。

そして戦後1949年から博物館に所蔵されています。

 

続く。
 

 

 

 


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3 Comments

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階級呼称 (Unknown)
2021-07-06 10:28:02
>どれもこれも馴染みがなさすぎてわたしには全くピンときません。

馴染みがないとそうだろうと思いますが、これは実に体を表す言い方だと思います。

少尉=Pilot officer パイロット・オフィサー
→単機の指揮官

中尉=Flying officer フライング・オフィサー
→エレメント(2機)の指揮官

大尉=Flight lieutenant フライト・ルテナント
→フライト(4機、2個エレメント)の指揮官

少佐=Squadron Leader スコードロン・リーダー
→飛行隊(3~4個フライト)の指揮官

中佐=Wing Commander ウィング・コマンダー
→航空隊(2~3個飛行隊)の指揮官(戦闘機の他に整備員が含まれる)

大佐=Group captain グループ・キャプテン
→群(2~3個航空隊)の指揮官(基地を管理する単位。経理補給要員も含まれる)

となります。

>空軍大佐の「グループキャプテン」という名称の重みのなさは異常。

日本でいう群(英語表記で「Group」)という単位は、陸自と空自では指揮官は1佐(大佐)です。例えば、高射群というと、担当地域は関東全域等の「方面隊」となり、結構えらいさんです(笑)
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映画ダンケルク (お節介船屋)
2021-07-06 09:46:17
2017年制作の映画ですが鑑賞しました。
クリストファー・ノーラン監督,制作のイギリス、オランダ、フランス、アメリカ合作の作品で1940年5月26日から6月4日の「ダイナモ作戦」における救援を待つダンケルクの模様、民間船の徴用からダンケルク海岸の救援、スピットファイアによるドイツ空軍からの防空を描いていました。
アカデミー賞の多くの部門にノミネートされ編集賞等を獲得していました。
紹介まで
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映画バトル・オブ・ブリテン (お節介船屋)
2021-07-06 09:29:54
2018年公開の映画「バトル・オブ・ブリテン」はデビィット・ブレア監督、イバン・リオン主演ですがポーランド亡命空軍パイロットの物語です。フランスで戦い、イギリスでは英語が理解できないとしてなかなか実戦に参加出来ず、パイロット不足から参加できるようになり、多くの戦果を挙げ活躍しますが、戦後は英国は冷たく、ソ連占領化のポーランドに強制送還され、強制労働を課されました。
主人公は実在した人物のようで冒頭のスイスからフランス経由でイギリスへと亡命することが戦後のスイス居住を暗示しているようです。

映画「大脱走」のチャールズ・ブロンソンが演じた役柄もポーランドパイロットでした。

イギリス戦闘機ですが全戦闘機でハリケーンが55%、スピットファイアが31%で1940年6月から10月までの生産数はハリケーン1,367機、スピットファイア724機でした。このほかにブレニムやデファイアントもありました。
参照日本経済新聞出版社野中郁次郎等共著「知略の本質」
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