オハイオ州にある国立アメリカ空軍博物館。
まだコロナ禍にあった夏、そのとき滞在していたピッツバーグから
単身車で一泊して見学に行って見た展示物をご紹介しています。
今日は、本人や遺族によって博物館に寄付された
ヨーロッパ爆撃クルーの持ちもの(遺品)を見ていきます。
ヨーロッパ爆撃クルーの持ちもの(遺品)を見ていきます。
■ バーニー軍曹のA-2ボマージャケット
第15空軍の砲塔砲手SSgt(スタッフサージャント、E6)
エミール・バーニーが着用していたA-2ジャケットです。
エミール・バーニーが着用していたA-2ジャケットです。
背中側には気合の入った絵が施されています。
何しろ皮革におそらくペンキか何かで手描きしたものなので
かすれてしまって見にくいですが、爆撃ミッションを行った都市が、
爆弾を落とすB-17、墜落するBf-109とともに描き込まれています。
左胸のマークは爆弾を持って飄々と歩くアメリカの象徴、ハクトウワシ。
足元に見えるのは雲でしょうか。
第15空軍の部隊章です。
S/Sgt. Emil B. Barney
バーニー軍曹は1944年11月、アドリア海上空でBf109の攻撃を受け、
制御不能に陥ったB-17からバベイルアウトし、2日後に救助されました。
戦争が終わるまで彼は捕虜になっていましたが、
終戦後生きてアメリカに帰り、1995年に69歳で亡くなりました。
終戦後生きてアメリカに帰り、1995年に69歳で亡くなりました。
■ ポピヴチャック軍曹35回の出撃記念
連結された50口径の弾丸は、第306爆撃群のB-17トップ・ターレット砲手、
TSgt(マリオン・"ミッキー"・ポピヴチャックが、
参加した35回の戦闘任務を表して製作したものです、
この人、かなりまめで、かつコレクター資質を持っていたらしく、
これらの弾丸のカートリッジには、
35回のそれぞれの任務を報じるスターズ&ストライプス紙の記事が、
切り抜かれて畳んだのが収められています。
これらの弾丸のカートリッジには、
35回のそれぞれの任務を報じるスターズ&ストライプス紙の記事が、
切り抜かれて畳んだのが収められています。
せっかくですのでその一つ、1月5日付の新聞記事(画面右)
を訳しておきます。
「重爆またも出撃、供給ラインを爆破」
を訳しておきます。
「重爆またも出撃、供給ラインを爆破」
第8空軍は昨日、ドイツの補給拠点に対する猛攻を再開した。
1000機以上のフォートレスとリベレーターが、
300機以上のムスタングに遮られながら、
ケルンから南はカールスルーエまで、東はフランクフルトの先まで、
広範囲にわたって通信拠点や鉄道基地を攻撃した。
天候は依然として障害であり、
重爆撃機は計器を頼りに爆弾を落とさねばならなかった。
掩護のマスタングの一群は、梢を擦り、機関車や貨車に激突した。
敵戦闘機の攻撃はなかったという。
第8飛行隊のミッションは、セント・ヴィ近郊の通信センターに対する
RAFミッチェルとボストンによる午前中の攻撃に続くものであった。
それ以前には、RAFランカスターがボルドーの北西50マイルにある
ジロンド川河口のドイツ軍部隊、大砲、補給基地を攻撃していた。
天候のため第9空軍の飛行機はさらに1日出撃を中止したが、
RAFの第2戦術空軍の機は500回以上の出撃に成功し、
マース川河口のドイツ軍の要塞を攻撃し、
鉄道や国道沿いの機関車や線路を銃撃した。
コレクションのなかに、一つだけ先端が赤いトレーサー弾がありますが、
これは、1945年1月10日のミッションで、彼の乗ったB-17が
酸素システムと2基のエンジンを破壊され、
ベルギーに不時着したということを表しているのだとか。
1000機以上のフォートレスとリベレーターが、
300機以上のムスタングに遮られながら、
ケルンから南はカールスルーエまで、東はフランクフルトの先まで、
広範囲にわたって通信拠点や鉄道基地を攻撃した。
天候は依然として障害であり、
重爆撃機は計器を頼りに爆弾を落とさねばならなかった。
掩護のマスタングの一群は、梢を擦り、機関車や貨車に激突した。
敵戦闘機の攻撃はなかったという。
第8飛行隊のミッションは、セント・ヴィ近郊の通信センターに対する
RAFミッチェルとボストンによる午前中の攻撃に続くものであった。
それ以前には、RAFランカスターがボルドーの北西50マイルにある
ジロンド川河口のドイツ軍部隊、大砲、補給基地を攻撃していた。
天候のため第9空軍の飛行機はさらに1日出撃を中止したが、
RAFの第2戦術空軍の機は500回以上の出撃に成功し、
マース川河口のドイツ軍の要塞を攻撃し、
鉄道や国道沿いの機関車や線路を銃撃した。
コレクションのなかに、一つだけ先端が赤いトレーサー弾がありますが、
これは、1945年1月10日のミッションで、彼の乗ったB-17が
酸素システムと2基のエンジンを破壊され、
ベルギーに不時着したということを表しているのだとか。
このコレクションを作成した"ミッキー"・ポピヴチャック氏は、
わたしがこのとき滞在していたピッツバーグの人で、
2010年に亡くなった後はアレゲニー国立墓地に埋葬されました。
わたしがこのとき滞在していたピッツバーグの人で、
2010年に亡くなった後はアレゲニー国立墓地に埋葬されました。
戦後はピッツバーグで車のパーツ会社を経営していたようです。
■ ガードナー軍曹のフィールドジャケット
第15空軍の尾翼砲手、ラリー・ガードナー軍曹の野戦用ジャケットと鞄。
遠征中、彼は指を撃ち抜かれ、B-24は敵地上空で撃墜されましたが、
幸いガードナーは脱出し、イタリアのパルチザンに救出されました。
このジャケットの背中側には、ホットスタッフというロゴと共に
TNT爆弾に腰を下ろす挑発的な金髪美女の絵です。
ジャケットのデザインは現代でも通用しますし、
なんならこの絵もアメコミ風でいけそうです。
TNT爆弾に腰を下ろす挑発的な金髪美女の絵です。
ジャケットのデザインは現代でも通用しますし、
なんならこの絵もアメコミ風でいけそうです。
カバンには部隊マーク。
クラウンを被った骸骨とTNT爆弾の意匠です。
ジャケットもカバンも、おそらく本人が
落ちない油絵の具かペンキでペイントしたと思われます。
クラウンを被った骸骨とTNT爆弾の意匠です。
ジャケットもカバンも、おそらく本人が
落ちない油絵の具かペンキでペイントしたと思われます。
■ ライアン・バーカロウ大尉の遺品
ライマン・バーカロウ大尉は、
最初の25回の任務でシャトル空襲の任務に参加しました。
陸軍航空隊のルールで、25回の任務を終えた者は任務を降り、
帰国して退役することもできたのですが、
大尉はその後も戦闘飛行を志願し、ヨーロッパで任務を行いました。
そして1945年3月19日、二度目通算49回目の爆撃任務である
ルールラント・ドイツ上空で戦死しました。
ライマン・バーカロウ大尉は、
最初の25回の任務でシャトル空襲の任務に参加しました。
陸軍航空隊のルールで、25回の任務を終えた者は任務を降り、
帰国して退役することもできたのですが、
大尉はその後も戦闘飛行を志願し、ヨーロッパで任務を行いました。
そして1945年3月19日、二度目通算49回目の爆撃任務である
ルールラント・ドイツ上空で戦死しました。
なぜ戦死した大尉のA-2ジャケットが残っているかなんですが、
これは彼が第一期ミッションのときに着ていたもので、
第二期にあたって新しいジャケットをあつらえていったからです。
これは彼が第一期ミッションのときに着ていたもので、
第二期にあたって新しいジャケットをあつらえていったからです。
襟元にホイッスルが付いていますが、これは
撃墜されて海に落ちたとき、救助に合図を送るための非常用でした。
撃墜されて海に落ちたとき、救助に合図を送るための非常用でした。
米空軍がシャトル空襲の際に使用したムービーカメラ。
ロバート・ウォルシュ空軍大将は、シャトル空襲が終わり、
物資をソビエトに引き渡すよう命じられたとき、
このカメラを「保存」した(つまり隠して渡さなかった)そうです。
カメラに使うコダックの「コダクローム」16ミリフィルム。
→ソ連から出撃した攻撃隊
→第8空軍
→第15空軍
の爆撃ミッション航路が記されています。
第8空軍はイギリス、第15空軍はイタリアに根拠地を置いていました。
バーカロウ大尉が受賞した名誉賞の数々。
左から:
パープルハート
「スィートハート」ブレスレット
バーカロウ大尉が妻のフローレンスにプレゼントしたもの
USSR(ソ連)のバッジ
公式に与えられたものかどうかは謎
エアーメダル
第一期任務達成に対して与えられたもの
金の「スィートハート」ウィングス
翼の真ん中にハートのあるモチーフを、英語圏では
「スウィートハート・ウィングス」といいます。
左から:
パープルハート
「スィートハート」ブレスレット
バーカロウ大尉が妻のフローレンスにプレゼントしたもの
USSR(ソ連)のバッジ
公式に与えられたものかどうかは謎
エアーメダル
第一期任務達成に対して与えられたもの
金の「スィートハート」ウィングス
翼の真ん中にハートのあるモチーフを、英語圏では
「スウィートハート・ウィングス」といいます。
これは中央にアメリカ軍のマークがあるだけでハートではありませんが、
バーカロウ大尉が、これもフローレンス夫人に
結婚1年目の記念として1942年8月30日にプレゼントしたので、
あえて「スィートハート」と呼んでいるのではないでしょうか。
大尉が亡くなった日から考えると、
彼らの結婚生活は2年半しかなかったということになります。
続く。