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「ジークフリート線に洗濯物を干す日」連合軍ドイツ侵攻〜国立米空軍博物館

2024-09-30 | 航空機

1945年までにドイツ空軍は事実上壊滅しました。

今日は、制空権を得た連合国の空軍がやりたい放題の攻撃によって
近接支援を行い、その結果、連合軍地上部隊が進攻を果たし、
ドイツを降伏に至らしめるまでを博物館の展示を元にお話しします。


■ ”ジークフリート線” に洗濯物を干す日


ジークフリート線に爆撃を行うB-26

ジークフリートライン( Siegfried-Linie)は、

西方の壁(Westwall)とも呼ばれ、1930年代後半に構築された
ドイツの対フランス要塞線のことです。

🟥 ジークフリートライン
🟦マジノライン
ー青線ーライン川

伝説上の英雄ジークフリートの名を冠したこともあって、
ドイツはこれを国家防衛の象徴としてプロパガンダに利用し、
彼らが作った「不落の要塞」というイメージは敵側の心理に功を奏し、
ドイツのチェコスロバキアとポーランド侵攻を成功させました。

連合国もその実態よりジークフリート線の防御力を過大評価していたことは
こんな英語の歌ができたことにも表れています。

We're Going to Hang out the Washing on the Siegfried Line - British World War II Era Song

ジークフリート・ラインで洗濯物を干そう
汚れた洗濯物はないか、母さん?
ジークフリート・ラインで洗濯物を干すぞ
洗濯の日がやってきたから
天気が雨だろうが晴れだろうが
気にせずやるだけさ
ジークフリート・ラインで洗濯物を干すつもりだ
ジークフリート・ラインがまだそこにあったら

ラインは「洗濯ロープ」の意味もあることからできた歌詞は、
フランス語バージョンもあり、

小柄なトミー(英兵)が軽快に歌う
キャンプに着くと
幸せなポワル(仏兵)たちは皆、このリフレインを覚えた
やがて連隊は陽気に歌った:

ジークフリート線に洗濯物を干そう
洗濯物を干そう 今がその時だ
ジークフリート線に 洗濯物を干そう
白いリネンの時間だ
古いハンカチもパパのセーターも
家族みんなで洗おう
ジークフリード線に洗濯物を干そう
まだそれがそこにあるのなら 

英仏の歌詞はどちらも、


「僕らはジークフリート線に洗濯物を干しにゆく
まだジークフリート線があるのなら」

という「オチ」で終わっています。

しかし、連合軍が戦況不利になってくると、今度はドイツ軍が
こんな「アンサーソング」を作るのでした。


宣伝中隊のうた

„Lied der Kampfgruppen“ • DDR-Marschlied [+Liedtext]

そうとも坊や、君がごく軽く考えた通り
ドイツのライン川沿いは素晴らしい洗濯日和だ
もし諸君がズボンを濡らして困っていても
悲しむ必要はないのだ!
我々がすぐ徹底的に洗ってやろう
上から下までしっかりと
ドイツの洗濯日和が終わったなら、
諸君には洗濯物などもう必要ないのだ!

これが本当の歌合戦。

両曲を比べると、いかにもアメリカンな調子の前者、
あくまでもドイツ風な曲調の後者と、わかりやすくて面白いですね。

しかし、ジークフリート線で実際に衝突が起こり、
ヒュトゲンバルトで双方に大きな犠牲が出た後、
バルジの戦いでドイツが攻勢をかけるも失敗に終わり、
1945年春に最後のジークフリート線上の掩体壕が陥落します。


そして実際にジークフリート線に洗濯物を干すの図

彼が洗濯「ライン」をかけている鉄条網を縛っているコンクリートは
その名も「竜の歯」という対戦車用障害物です。

ジークフリート線の衝突の際には、航空軍の近接支援が大きく関与しました。



■ ドイツ国内への進攻

ルフトバッフェ壊滅後、第9空軍の航空機はドイツ上空を自由に闊歩し、
隙あらば目標を攻撃し、連合軍部隊に近接支援を提供しました。

そして、ジークフリート線を突破したのち、完全な航空優勢という傘の下、
連合軍は3月下旬にライン川を渡り、ドイツに迅速に進攻します。



アルテンキルヒェン(Altenkirchen)近郊で、
航空爆撃によって破壊されたドイツ軍の戦車。
遠景にも道路の反対側に破壊された車両が写り込んでいます。

アルテンキルヒェンはライン川を超えたところにあるボンの東側の都市です。


ケムニッツ近郊で、連合軍の戦闘爆撃機の攻撃を受けるドイツ車両。

ケムニッツ(Chemnitz)はドイツの東寄りで、チェコとの国境に割と近く、
ライプツィヒ、ドレスデンが近郊にあるところです。


ライン進攻後の1945年4月、 A-20のナビゲーター兼爆撃手である
ジェームズ・ニコルズ大尉からドイツ軍兵器庫空襲後の報告を受ける
第9空軍の軽・中爆撃機部隊司令官、サミュエル・アンダーソン少将


同じ頃、第9空軍がデッゲンドルフの貯油場に爆撃している

■ ドイツ軍の最後の反撃 対空砲



ドイツ空軍が敗北したといっても、対空砲火は依然として脅威でした。

1945年3月、ホイト・ベンジ大尉(Hoyt Benge)はドイツ上空で
P-47による急降下爆撃任務中に88ミリ砲弾に被弾しましたが、
なんとか基地まで飛ばして胴体着陸し、生還しました。

ちなみにベンジ大尉は第二次世界大戦中はP-51、P-38のパイロットで、
戦後は州兵として RF-101(ヴードゥー)に乗り、中佐まで昇進しました。

ギターやバイオリンでカントリーミュージックを演奏すること、
ゴルフを愛し、たくさんの子孫に囲まれて、
2012年に90歳の人生を閉じています。

アーカンサスでのホイト中佐告別式のお知らせ


爆撃によって破壊し尽くされた港湾

そして、1945年5月8日、ドイツは降伏しました。



第9空軍司令部
本日の命令
1945年5月9日

全ドイツ軍の無条件降伏は、欧州における我々の目標の達成を意味する。

これは、陸海空における敵の完全な敗北に続くものである。
敵味方双方から、この歴史的な成功を達成する上で

航空戦力が果たした役割の大きさを示す多くの証拠が寄せられている。

誇りを胸に、全能の神が私たちの大義に与えてくださった信念と力に

謙虚な感謝を捧げ、また戦いで失われた人々が
神の恩寵を祈ることができますように祈りを捧げようではないか。

戦って死んだ者は、戦って生きた者と切っても切れない関係にある。

信仰の強さと決意を抱き、諸君は何千マイルも上空から

強大な敵を追い払うためにやってきた。
地上の敵に武器を向け、抵抗する力を破壊するために。

諸君の一人ひとりに、この功績がある。
一人ひとりのたゆまぬ努力なしには、わが軍は戦うことができなかった。

我々は、最終的な成功の幻想を抱いてはならない。
残された敵を打ち負かすだけでなく、戦争の原因に対する

将来の警戒も怠らないようにしなければならない。

世界が再び冷酷な征服者に苦しめられることがないように。

 この究極の成功の中に、我々は、亡くなった者や生き残った者が

成し遂げた業績に対する正当性を見出すべきなのである。

アメリカ軍司令 ホイト・ヴァンデンバーグ少将



続く。