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「ハンドシェイク・イン・スペース」アポロ-ソユーズ実験プロジェクト

2022-07-15 | 歴史

スミソニアン博物館の宇宙事業関連展示を見ていて、
かなり驚いたのは、米ソが共同で行っていた宇宙開発事業があったことです。

アポロ-ソユーズは、1975年7月に米ソ共同で実施された
初の有人国際宇宙ミッションです。

アメリカのアポロ宇宙船とソビエト連邦のソユーズカプセルが
ドッキングする様子を、世界中の何百万人もの人々がテレビで見守りました。

このプロジェクトと宇宙での印象的な握手は、
冷戦下の2つの超大国のデタント(緊張緩和)の象徴であり、
1957年にソビエト連邦がスプートニク1号を打ち上げたことで始まった
宇宙開発競争の終わりを告げるものと一般には考えられています。




それは、見学に来た人が疲れたら座り込むのにおあつらえむきの場所、
高さといい広さといいちょうどいい設置台の上に見ることができます。





■アポロ-ソユーズ実験プロジェクトASTP

ちょうど今日、7月15日から24日は、"宇宙での握手 "で有名な
アポロ・ソユーズ テストプロジェクトから47年目にあたります。

このミッションは正式にはアポロ・ソユーズ テストプロジェクト(ASTP)
ソ連ではもちろんソユーズ・アポロと呼ばれています。
Экспериментальный полёт "Союз" - "Аполлон"(ЭПАС)
Eksperimentalniy polyot Soyuz-Apollon (EPAS)

また、ソ連は公式にこのミッションをソユーズ19と命名しています。

アメリカはすでにアポロ計画を中止しており、使っていない機体を
番号をつけずに「最後のアポロ」として飛ばすことにしました。



ASTPは、アポロ宇宙船とソユーズ宇宙船をドッキングさせる試みでした。

この世界の2大プレーヤーが共同作業に至った理由、それは
1972年に締結された二国間協定に基づくものでした。

間接的には、米ソの間で締結された、核兵器の保有数、運搬手段の制限、
複数弾頭化の制限が盛り込まれた

「第二次戦略兵器制限交渉」

の流れからきていたと思われます。

目的は、将来の米ソ宇宙船のドッキングシステムの研究で、
宇宙空間の平和利用のための協力に関する覚書に基づいて計画されました。

■緊張期

アポロ・ソユーズの目的は、ズバリ、
冷戦時代の超大国である米ソのデタント政策でした。

つまり政治目的事業というやつです。

アメリカが「赤化から世界を救う」ためのベトナム戦争に参戦している間、
当然ですがこの2つの超大国の間には緊張が走っていました。

ソ連の報道機関は一貫してアメリカのアポロ宇宙計画を強く批判し、
例えば1971年のアポロ14号打ち上げの写真には、

「アメリカとサイゴンの傀儡によるラオスへの武力侵入は、
国際法を足元から踏みにじる恥ずべき行為」

というキャプションをつけたくらいです。

一応ソ連のニキータ・フルシチョフは1956年のソ連共産党20回大会で
「平和共存理念」としてソ連のデタント政策を公式化してはいますが、
両国の緊張緩和はなかなかそのきっかけを掴めないでいました。

それは1962年、ジョン・グレンが地球周回軌道に乗った
初めてのアメリカ人となった後のことです。

ジョン・F・ケネディ大統領とフルシチョフ首相との間に交わされた
手紙をきっかけに、NASAのライデン副長官とソ連の科学者、
アナトリー・ブラゴンラヴォフが中心となって
ある計画について一連の話し合いが行われるようになりました。

驚くべきことに、科学者同士の話し合いは、
キューバ・ミサイル危機の真っ只中にあった1962年10月に、
ドライデン-ブラゴンラヴォフ協定として正式に結ばれることになります。

その内容は、気象衛星のデータ交換、地球磁場の研究、
NASAの気球衛星Echo IIの共同追跡などの協力などです。

この時、トップがケネディとフルシチョフであったことは大きく、
雰囲気としては、もう少しでケネディはフルシチョフに
有人月面着陸の共同計画を持ちかける可能性すらあったと言われていますが、
1963年11月ケネディが暗殺され、その一年後フルシチョフが罷免されたため、
それぞれの指導者がいかなる個人的な希望を持っていたとしても、
もう物理的かつ永久にそれは無理となってしまったわけです。

ご存知のように、この後両国の有人宇宙計画間の競争は過熱していき、
この時点でさらなる協力への努力は終わりを告げることになりました。

■宇宙競争と更なる緊張

その後は極度に両国の関係は緊張し、さらに軍事的な意味合いから、
米ソ間の宇宙協力は1970年代初頭にはあり得ませんでした。

1971年6月、ソ連は初の有人軌道宇宙ステーション
「サリュート1号」の打ち上げに成功しており、一方、アメリカは
その数ヶ月前にアポロ14号を打ち上げ、人類を月に着陸させるための
3度目の宇宙ミッションを行っていました。

月競争は終わりを告げたと言っても、そこで両国の関係が変わるはずもなく、
この計画が立ち上がってからも、米ソ両国は
お互い相手の工学技術に対して厳しい批判をし合っていました。

まずソ連ですが、アポロ宇宙船を「極めて複雑で危険」と批判。

ソ連の宇宙船は、ルノホド1号とルナ16号が無人探査機、
ソユーズ宇宙船は、飛行中に必要な手動制御部分を極力少な口することで
ヒューマンエラーによるリスクを最小限に抑えるように設計されていました。

一方、アポロ宇宙船は人間が操作することを前提に設計されており、
操作するためには高度な訓練を受けた宇宙飛行士を必要とする、
というのがソ連の考える「ダメな理由」です。

しかしアメリカはアメリカで、ソ連の宇宙船はダメだと盛んに批判しました。
例えば、ジョンソン宇宙センター所長のクリストファー・C・クラフトは
ソユーズの設計についてこんなことを言っています。

「私たちNASAは冗長構成に頼っている。
たとえば飛行中に機器が故障した場合、クルーは別の機器に切り替えて
ミッションを継続しようとするが、
ソユーズの部品はそれぞれ特定の機能に特化して設計されており、
一つが故障すると、宇宙飛行士は一刻も早く着陸しなければならなくなる」


ソユーズ宇宙船は地上からの制御を前提としていたため
アメリカソユーズ宇宙船を非常に低く評価していたということですが、
自動制御で特別に訓練された宇宙飛行士がいなくても遂行できるのと、
インシデントを予測して人間に対応させるのと、
さて、どちらが安全でしょうという命題となります。

という風に互いのやり方を否定し合っている同士が、
政治的案件で一緒にプロジェクトを成功させなくてはなりません。

しかも今回の計画は、これまでのアポロ計画とは全く違い、
カプセルから飛行することを前提とした実験となるわけです。

結局、アポロ・ソユーズ試験計画のマネージャーであるグリン・ルニーは、
ソビエトを怒らせるようなことを(たとえそう思っていたとしても)
マスコミに話すな!と関係者に注意をしたと言われます。

ルニー「ソ連様を怒らせちゃいけねえだ」

NASAは、アメリカ流の軽口がソ連に理解されにくいことを知っており、
ちょっとした言動や批判が原因でソビエトが手を引き、
ミッションが廃棄されることを心から恐れていたのです。

1971年の6月から半年にわたり、ヒューストンとモスクワで
米ソのエンジニアは会議を行い、宇宙船のドッキングの可能性について
相違点を解決してすり合わせを行いました。

その中には、ドッキング中にどちらかが能動的にも受動的にもなれるという、
2隻間のアンドロジナス周辺アタッチシステム(APAS)設計も含まれます。


そしてベトナム戦争が終結すると、アメリカとソ連の関係は改善され始め、
宇宙協力ミッションの実現性も高まってきました。

アポロ・ソユーズは両国の緊張の融解によって可能となると同時に、
プロジェクト自体にアメリカとソ連の関係を改善する働きが期待されました。

フルシチョフの後任となったソ連の指導者レオニード・ブレジネフは、


いいこと言ってみた

「ソ連とアメリカの宇宙飛行士は、
人類史上初の大規模な共同科学実験のために宇宙へ行くことになる。
彼らは、宇宙から見ると我々の惑星がより美しく見えることを知っている。
私たちが平和に暮らすには十分な大きさだが、
核戦争の脅威にさらされるには小さすぎる」


と述べました。

1971年、ニクソン大統領の外交顧問であったヘンリー・キッシンジャーは、
このミッションの計画を熱心に支持し、NASA長官に対して、

「宇宙にこだわる限り、やりたいことは何でもやってくれ」

と激しくゴーサインを出しています。

そして1972年4月までに、米ソ両国は

「平和目的の宇宙空間の探査及び利用に関する協力に関する協定」

に署名し、1975年のアポロ・ソユーズ試験計画の実行を取り決めました。



ASTP実験の画期的だったところは、初めて外国人飛行士が
ソ連の宇宙船にアクセスすることができるようになったということです。

ソ連の宇宙計画はソ連国民に対してすら情報が秘匿されていたのに、
アポロの乗組員はその宇宙船、乗組員の訓練場を視察することが許され、
ソ連の宇宙開発について情報を共有することになったのですから。

もちろん逆も真なりで、ソ連の関係者は
決してアメリカの宇宙事業に関わることは許されませんでしたが。

まあ、なんというか非常に融和的なおめでたいニュースなのは事実ですが、
ASTPに対する反応がすべて肯定的だったわけではありません。

多くのアメリカ人は、ASTPがソ連の宇宙開発計画に過大な評価を与え、
あるいはNASAの高度な宇宙開発努力を譲り渡すことになると危惧しました。

一方ソ連ではそういうアメリカ側の懸念について、

「ソ連との科学協力に反対するデマゴーグ」

と批判する人もいました。

とはいえ、この事業によってアメリカとソ連の間の緊張は軟化し、
このプロジェクトは将来の宇宙における協力プロジェクト、
シャトル-ミール計画や国際宇宙ステーションなど、
共同作業の前例となったのは動かし難い事実でもあります。

■ 乗組員



アポロ乗組員

司令官:トーマス・スタッフォード(後ろ)
ヴァンス・ブランド(前列真ん中)
ディーク・スレイトン(前列左)


覚えておられる方もいるかもしれませんが、
スレイトンはマーキュリーセブンの一員でした。

彼は心臓に疾患が認められたため、打ち上げをずっと見送って
NASAのディレクターとして宇宙船を「見送る側」でしたが、
ついにこのプロジェクトで宇宙に行く唯一の機会を得ました。

ソユーズ18号乗組員

司令官:アレクセイ・レオーノフ(後ろ右)
フライトエンジニア:ワレリー・クバソフ


レオーノフといえば、人類最初に宇宙遊泳をした男。
絵を描くのが得意で、宇宙でスケッチをしたあの人です。

■打ち上げ



1975年7月15日、2人乗りのソ連のソユーズ宇宙船19号が打ち上げられ、
その7時間半後に3人の飛行士を乗せたアポロ宇宙船が打ち上げられました。





両宇宙船は、7月17日に地球を周回する軌道上でドッキングしました。

その3時間後、ミッション指揮官のスタッフォードとレオーノフは
ソユーズの開いたハッチから宇宙で初めて握手を交わしたのです。


国際握手会開催中

この歴史的な握手により、軌道上での約47時間に及ぶ
ドッキング作業が開始されました。
写真は16ミリ映画フィルムの1コマを複製したものです。


2隻の船が停泊している間、3人のアメリカ人と2人のソビエト人は、
共同で科学実験を行い、旗や贈り物(後に両国に植えられた木の種など)
を交換し、音楽を聴かせ合いました。

ちなみに、ソ連側からは
Maya Kristalinskaya - Tenderness

アメリカ側からは
WAR - Why Can't We Be Friends? (Official Video) [Remastered in 4K]

こんな選曲だったそうです。

「どうして僕たち仲良くなれないんだろうね?
調和して暮らしていけるなら肌の色なんて関係ないのに」




そして彼らは証明書に署名し、お互いの船を訪問して一緒に食事をしました。


スレイトンとレオーノフ

彼らはお互いの言語で会話をしました。
つまり、お互い相手の言葉を勉強していったということです。

この時、オクラホマ出身のスタッフォードのロシア語がソ連側にウケました。
レオーノフは後に、こんなことを言っています。

「ミッションでは3つの言語が話されていました。
ロシア語、英語、そして『オクラホマスキー』です」


ドッキングや再ドッキングの際には、2つの宇宙船の役割が逆転し、
ソユーズが「活動的」な側となることもありました。



そしてその一つがこの「プラーク合体」です。
アストロノー(アメリカの宇宙飛行士)とコスモノー(ソ連の宇宙飛行士)
は、国際協力のシンボルとして、軌道上で記念プレートを持ち寄り、
合体させて完成させました。

■アポロ-ソユーズテストの科学的成果

このミッションで行われた実験のうち4つは、
アメリカの科学者が開発したものです。
発生学者のジェーン・オッペンハイマーは、
無重力が様々な発達段階にある魚の卵に与える影響を分析しました。


あのオッペンハイマーとは関係ありません

44時間一緒にいた後、2つの船は分離し、
ソユーズの乗組員は太陽コロナの写真を撮り、
アポロは人工日食を作るために操縦を行い、短いドッキングの後、
二つの船は分かれてそれぞれの航路をたどりました。

ソ連はさらに2日間、アメリカは5日間宇宙に滞在し、
その間、アポロのクルーは地球観測の実験も行っています。

ASTPで、アメリカは宇宙から地球を体系的に観察・撮影し、
軌道上から地球を探査・研究するための新しいデータを取得しました。

このミッションで、スミソニアン国立航空宇宙博物館が
重要な役割を果たしたことはあまり知られていません。

ファルク・エルバズ博士は、博物館の地球惑星研究センターの創設者であり、
ASTPの地球観測・写真撮影実験の主任研究員でした。
この光地質学実験がミッションに含まれるようになったのも、博士の功績です。

エルバズ博士は、アポロの宇宙飛行士が月を周回する際の
目視観測を訓練した経験があり、今回は地球がターゲットとなりました。

博士は、宇宙飛行士がT-38飛行機で上空から地質を観察し、
写真に撮る練習をするための飛行計画を立てました。

宇宙飛行士は宇宙空間で約2,000枚の写真を撮影し、
そのうち約750枚は雲に隠れていないなど、質の高い写真でした。



地球観測・写真撮影実験 アンゴラ
アフリカ南西部のアンゴラを撮影したもの。(出典:NASA)

エルバズ博士は、地質学、海洋学、水文学、気象学などの分野で
画像を分析する科学者チームを結成しました。
軌道写真は上空を広くカバーしているため、大きな構造物や広い分布、
従来の現地調査が困難な地球上の遠隔地やアクセスしにくい場所などを
直接調査することが可能です。

地図の更新や修正、地球資源のモニタリング
動的な地質学的プロセスの研究、海洋地形の調査など、
これらの写真の用途は広範囲にわたります。


博物館の宇宙戦争ギャラリーでは、ドッキングした状態の
アポロ宇宙船とソユーズ宇宙船を見ることができます。

展示されているアポロのコマンドモジュールとサービスモジュールは試験機で
2つの宇宙船をつなぐドッキングモジュールは
バックアップフライト用のハードウェアとなっています。

ソユーズ宇宙船は、ソユーズを最初に製造した
エネルギア設計局によって作られた実物大模型です。



最後に、スミソニアン所蔵のソ連の国旗を。

この旗は、米ソ共同のアポロ計画で、アポロ司令船に搭載された
特別な「ギフトバッグ」に含まれていた10枚のソ連国旗のうちの1枚です。

また、アメリカの国旗10枚、白トウヒの種の特別な箱、
宇宙船がドッキングしたことを証明するASTP証明書も含まれていました。

1975年7月、アポロとソユーズが地球周回軌道上でドッキングしている間に
宇宙飛行士の間で贈呈され、交換されたものです。


続く。





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2 Comments

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撃墜せよ (Unknown)
2022-07-15 07:55:03
>私たちNASAは冗長構成に頼っている。たとえば飛行中に機器が故障した場合、クルーは別の機器に切り替えてミッションを継続しようとするが、ソユーズの部品はそれぞれ特定の機能に特化して設計されており、一つが故障すると、宇宙飛行士は一刻も早く着陸しなければならなくなる。

これを聞いて思い出すのは、1983年のソ連空軍機による大韓航空機撃墜です。要撃機のパイロットが民間機だと言っているにも関わらず、地上の管制官は「撃墜せよ」で、そのまま撃墜。こんなことやってたら、国毎なくなっちゃうと思っていましたが、また、復活してますしね。
返信する
音楽+α (ウェップス)
2022-07-16 17:08:38
愈々ハッチが開くという時、米側から女学生がシャワールームでキャッキャウフフしている声の録音を流して、ソ連側を煙に巻いたというエピソードを(たしかリーダース・ダイジェストで)読んだことがあります。
何でこんなどうでもいい事ばかり覚えてるんだろう( 一一)
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