ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「おおすみ」事故調査委員会の報告とマスコミ報道

2015-02-11 | 自衛隊

「おおすみ」事故調の報告が出ました。
時事ドットコムの記事です。


(略)運輸安全委員会は9日、海自艦が針路・速度を変えずに航行したことと、
釣り船が右に曲がり近づいたことが重なり、衝突したとする調査報告書を公表した。
安全委は、海自艦が減速などの対応をより早く取れば、衝突が避けられた可能性を指摘したが、
事故原因とは言えないと判断。
釣り船については、船長の死亡で旋回理由などが解明できず、指摘には至らなかった。 


報告書によると、海自艦は衝突の約6分前に真南に針路変更し、17ノットで航行。
釣り船はこの時、左前方約1キロの地点を南南西に進んでいたとみられる。
双方が同じ針路と速度で進めば、釣り船は海自艦の約60メートル前方を通過した可能性がある。
おおすみの航海長は衝突の危険はないと考えたが、双方の距離を広げるため、衝突の約1分20秒前、
艦長に「先に(釣り船を)行かせるため」と話し、2~3ノット減速を指示。
艦長もさらなる減速を指示したが、大型艦のため速度が下がったのは衝突直前だった。 


釣り船は衝突約1分前から徐々に右旋回し、海自艦に近づいたとみられ、
約40秒前に艦の見張り員が接近を報告した。
艦長は停止と右急旋回を指示し、5回汽笛を鳴らして警告したが、衝突した。 


安全委は通例、月末に報告書を公表しているが、後藤昇弘委員長は
「社会的関心が高く、極めて異例だが定例日前に公表した」と説明。
減速や停止に時間がかかる大型船に近づきすぎないよう小型船に求めるなど、対策周知に努めると話した。
事故は昨年1月15日午前8時ごろ発生。
釣り船に乗っていた4人のうち船長ら2人が死亡し、1人が負傷した。


 
ふーむ。


事故調の「護衛艦も悪い」は交通事故の「どちらも動いている場合過失ゼロにはならない」
という大前提の上に立って
世論に配慮したかのような、いかにも大岡裁きっぽい、
いかにもお役所的な結論の述べ方ですね。
しかし、そのあたりを取っ払って一言で言えばこの調査報告は

「釣り船の急な進路変更が原因だった」

という結論だったため、釣り船側は「常識的にありえない」と不満を口にしているようです。

「おおすみに巻き込まれる形でぶつかった」

今でも釣り船の生存者はこう証言しているそうですが、そもそも証言は最初から大きく食い違っていて、




いやこれねー。この二つの証言を並べた図、皆さんどう思われます?
というかわざわざ図にしてまで並べて検証する話かい?
わたしは

「両者は比較の対象にもならず、そもそも信用度において次元の違うもの」

と法律的な観点から断言しますよ。

まず疑問なのですが、なぜ「第三者」対「当事者」(その一方だけ)という構図なのか。
同じ対立させるなら本来「おおすみ」対「とびうお」乗員のはずでしょ?

そもそも当事者の証言が「法的根拠」にならないのは周知の事実ですよね?

まあ、何処かの国の人たちは

「わたしがそう言ってるんだから慰安婦の強制連行はあった」
「わたしたちがそう言ってるんだから竹島は我らのものだ」

という不思議理論で法的正当性を主張することもあるようですが、ここは日本なので。
しかもですね。
この二つの証言がなされた時点での両者の現在状況ですが、
第三者の陸からの目撃証言と、当事者の海の上で今まさにぶつかりながらの証言。

これ、ごく中立の立場から見て、どちらが信用できますか?
このときの第三者に、事故当事者となんらかの利害関係があればともかく、
どちらにより法的正当性があるかはあらためて考えるまでもないではないですか。

それに皆さん、もし自分が小型船に乗っているとして、自分が操舵しているわけでもないのに

船体の位置とか舵の方向とかがどうなっているのかあなたは海の上で正確に把握できますか?
つまり自分が近寄ってい
ってるのか向こうが近づいてきたのか、判断できます?



そしてここが最もツッコミどころなのですが(ツッコミなのか?w)
なぜ第三者と片方の当事者の証言を比べるだけで「おおすみ」側の証言がどこにも出てこないんですか?





さて、その結論をいう前に、このテレビ朝日の番組で使用された図を見てください。
サブリミナルというか刷り込み効果、つまり一言で言って「自衛隊を悪者にする」
ための印象操作がそこここに見えてきますね。

まず、「衝突の状況」と左上に大きく書いてあります。
そして、8900トンの巨体がまず急激に右に進路を変え、続いて鋭角に左に舵を切り、
真っ直ぐ進んでいるだけのプレジャーボートの進路にプレジャーボートを抜いて飛び込んでいった、
としか見えない図でわざわざ当時の状況を説明しています。

そりゃそうなるでしょうさ。これは釣り船の生存者の証言そのままなんですから。

よくよく見ると
「衝突の状況」の下に小さく目立たないように(笑)
「寺岡さんの証言による(イメージ)」と書いてあります。
昔チラシに「エノケソ」と書いて偽エノケンのショーをしてた興行師みたいですねマスコミって。


しかし、もしこの番組が、この図で「寺岡さん側の証言」がこうであったと説明した後、
同じ大きさのパネルで第三者目撃による衝突の状況も同時に報じたのなら、
それは報道のやり方として非常に公平で物事を正確に伝えたものといえます。

しかし現実はそうではない。

しかもタチの悪いことに、どの局もなべてプレジャーボート側の証言をこのように図にして
視聴者に
あたかもそちらの状況が真実であったかに思わせる第一報をしているわけです。

果たして当事者証言によるこの「巨艦ドリフト航行」の図が出された途端、ネットでは一斉に、

「ねーよ」w

の嵐が巻き起こったのは記憶に新しいところです。
わざわざ言っておきますけど、戦艦「大和」とほとんど同じ大きさなんですよ?「おおすみ」って。

また、テレビではこのような印象操作を行った局もありました



衝突した船の大きさが同じでこれではどっちがどっちかわかりません(笑)
色で「おおすみ」と釣り船を見分けろってことですかそうですか。

こんなしょうもない印象操作をせず、排水量にして4500倍ちがう護衛艦と釣り船くらい
ちゃんと違う大きさで描き分けろよ、ああ?(ガラ悪くてすみません)
だいたい両者がこんな直角に向かい合う瞬間なんて現実にあったんかい!



ここでマスコミと釣り船側がどうしても今回主張を通せなかった最大の壁(笑)
客観も客観、キングオブ客観であるGPSによる航跡を見てみましょう。

「おおすみ」は衝突した後に救助のために回頭していますが、もし釣り船とマスゴミがいうような
ドリフト航行をやらかしたとしたら、GPSに衝突に至るまでこの回頭時に匹敵するような
航路の蛇行が出てくるはずなんですよ。

つまり「おおすみ」はGPSの航跡で確認しても蛇行などは確認できず、
単に釣り船が周りを付きまとった末巻き込まれたと見るのが妥当でしょう。

しかも「とびうお」の残されたGPS航跡は、衝突する前、
一度「おおすみ」に接近して見物していたことがわかっています。


でも、不思議じゃないですか?
こんなこと事故直後からわかってた、というか目撃者も含め皆そう言っていましたよね?
マスゴミと当事者以外は。


こんな簡単なことなのに、それでも俺たちならそれができる!
そこに痺れる!憧れるゥッとばかり(これ、いい加減に飽きたからもうやめます)
問題を煙に巻いてなんとか自衛隊のせいにしようとしていたのがマスコミ。

「これはコリジョンケース現象の可能性もある」

なんていう自称学者を引っ張り出してきた媒体もありましたね。
コリジョンケースを言い出す限りは条件的に

「双方がそのまま進み続ければ衝突するであろう一点に向かって真っ直ぐ進みながら、
視界が良好な場合であってもお互いを早期に視認することが著しく困難であるという現象」

となるわけですが、「ブーーーーー」(不正解)


この学者(かどうかは知りませんが)はこれによると「おおすみ」の方も
コリジョンケース現象によって相手に気づいていなかったと言いたかったようですが、
「おおすみ」の方は警告のために警笛を5回鳴らしているのです。
何を以ってコリジョンケース現象というのか。
というかコリジョンケース現象言いたいだけ違うんかい、この学者(かどうかは知り略)


ところでみなさん、
この事故調の最終報告が出てきたこと、テレビの特にニュースショーで取り上げました?
わたしはテレビを持っていないのでこういうこともチェックできないのですが、
インターネットによると

「おおすみに過失がなく釣り船のせいらしいと分かった時点で報道がぷっつりなくなった」

ということらしいですね。(あくまでも自分で確かめたわけではないので念のため)
「なだしお」の頃と違って報道のさじ加減で世論を味方につけ、「推定有罪」の
ムードに持ち込むという手口が使えなくなったので、印象操作したままトンズラてことですかね。

そこで冒頭の大疑問、

「どうして報道は第三者の目撃証言と釣り船側の証言を並べたのか」

ですが、答えは簡単です。

「第三者の目撃とおおすみの証言が一致していたから」

でしょう?
もひとつついでにいえば、

おおすみ証言=第三者目撃証言=GPS情報≠釣り船側証言

ってことじゃなかったんですか?
なぜそこであえて釣り船側を擁護するかねえ、マスコミ・・・。

それに、釣り船は恒常的に護衛艦の近くに寄って行って客に見物させる”サービス”をしたり、
また前を横切れば大漁になるというジンクスを持っていたりするそうじゃないですか。
これも未確認情報ですから「とびうお」の船長がそうだったと断言はしませんが。

さて、それでは最後にキンブオブ客観資料をもとに推定された、当初の航路予定図。



どう見てもそのまま進んでいたらボートが先に行っていたのに、
右に舵を切ってきたのでぶつかってしまったと。
もうこれは図を見ただけで一目瞭然でボートの過失であることがわかります。



そして、GPSによる動かぬ証拠だけでなく、小型船舶の免許をとったことがある方なら
ご存知だと思いますが、
海上衝突予防法の第9条第6項にもこうあります。

長さ20メートル未満の動力船は、狭い水道等の内側でなければ
安全に航行することができない他の動力船の通航を妨げてはならない」

「とびうお」は20メートル未満で、「おおすみ」は深喫水船、つまり
「水路の内側でなければ安全に航行することのできない動力船」ですよね?

第15項には

「 2隻の動力船が互いに進路を横切る場合で衝突するおそれがあるときは、
他の動力船を右舷側に見る動力船が他の動力船の進路を避けること」


今回右舷側に相手を見ていたのは「とびうお」の方ですよね? 
・・・・と素人が船舶法をチラ見しただけで該当する条文がでてきます。

いうわけで、どう考えても釣り船に過失あり、というのが事故調の報告結果だと思うのですが、
これを理解できないのか、理解したくないのでしていないふりをしているのか、

「どちらにも過失あり」

みたいな報道をさらっとして言い逃げみたいに終わったニュースが多いとのこと。
権力の監視とやらを大義名分にすると、報道の公正性の基準を変えても構わないってことですかね。
マスコミ的には。


この後、おそらく自衛隊の中では独自の機関が立ち上がり、再発防止に向けて、

様々な予防策が対応されるのだと思われますが、この結果をマスコミと同様の解釈で
「おおすみにも過失があった」とし、
かつての「いなづま」の事故のように
直接の過失はないのにもかかわらず、
「おおすみ」の艦長以下責任者たちに
不必要にに重い責任を取らせるような事態には決してなってほしくないものです。


若干心情的となる老婆心かもしれませんが・・。


しかし、いい時代になりましたね^^というか「おおすみ」、危なかったですね。
GPSで航路が検証できなければ、マスコミが騒いで被害者証言が通っていたかもしれません。

マスコミも、そろそろそのやり方では科学的証拠の前に信用を失い
反感を買うだけだと気づいて、結論ありきの印象操作報道を改めないと、
いいかげん国民からテロ起こされちゃうよ?









 


海軍兵学校同期会~「男たちの大和」ロケ地

2015-02-10 | 自衛隊

それにしても「陽炎に心許すな草枕」という正岡子規の句碑が
このアレイからす小島にあるのは、なぜなのだろう、と調べたところ、
日清戦争に従軍記者として参加する船が呉を出発することになっており、
子規は自分の乗る船の出航まで広島に滞在して待機して、
一足先に従軍する新聞「日本」の記者である古島 一雄
(のちに政治家に転身。創価学会の前身を作った人物でもある)

の軍艦「松島」による出航を呉で見送ったからだそうです。

前回色々とこの意味について深読みしてみましたが、この句碑の除幕式で参列者が

得体の知れないものに心許すなと意味で、
当時の国際紛争に備えた心構えとも受け取られ、
子規の風姿が目の当たりに偲ばれる」
 

と説明していたことがわかりました。
この時出席した呉市長は、

示唆に富んだ俳句で、国際貢献に出発する
海上自衛隊を送る言葉としても最適です」

などと関係付けているようですが、そもそも観光ボランティアが句碑の設置場所に選んだ
ここ、
アレイからすこじまというのは、

「自衛隊基地を眺めるため」

に整備された遊歩道なのです。
つまり、「自衛隊基地がなければここに遊歩道はなかった」のであり、この言葉は最初から
「自衛隊の基地に相応しい」
と判断された故にこに置くべし、と決められたようですね。



バスが鐵工所の巨大な敷地を通り過ぎてすぐ、
護衛艦カラーが埠頭に点在しているのが見えてきました。
少し前回説明した音響測定艦「はりま」などが過ぎ、潜水艦救難艦の「ちはや」が見えます。

今新しい潜水艦救難艦を作っているそうですが、
そのときには「お城シリーズ」の名前のはずなので、

「あおば」

はどうかという話をさせていただいたことがあります。




立派な石柱の門が見えてきました。
昔から変わらずここにあるものです。



遊歩道で立ち止まってガイドブックを見ているらしい男女4人組。
観光に来た二組の夫婦といった感じです。




ところでこの写真ですが、なんだか桟橋の周りに爆弾みたいなものがたくさん浮いています。



ズームしてみると、よく船を隣接して停泊するときに
間に挟むゴムボールのような緩衝材らしいことがわかりました。
正式名称は知りませんが、なんだかこうしてみると危ないものみたいです。



遊歩道を手をつないで散策する二人。
護衛艦や潜水艦を見ながらのデートは(人にもよりますが)さぞ盛り上がることでしょう。



海上自衛隊潜水艦桟橋。
先日「海上自衛隊と『男たちの大和』」というエントリで、
呉の海上自衛隊が映画に撮影協力した部分を取り上げて話しましたが、
「大和」に乗り込む唐木兵曹を見送る妻のシーンは、この門を
内側から外に向かって撮ったものだと思われます。

唐木の妻が赤ちゃんを抱いて「あんた!」と夫に呼びかける前、
唐木は他の乗員とともにこの門をくぐってきます。



上の写真を反対側から見たところなのですが、違う部分がかなりありますね。
門扉は木にわざわざ取り替え、警衛の詰所や案内板など、設置した部分多数、
一番びっくりするのは鉄柵の前に(
おそらく)張りボテのコンクリート塀を付けていること。

ガードレールはCGで消したのかと思っていましたが、キャメラが写っているので
どうやらこのシーンのために
ガードレールまで外してしまったみたいですね。



ガードレールを外したという痕跡は全く見られないのですが、
ただ、この撮影はもう10年以上前に行われていますので・・・。



ここは潜水艦基地。
アレイからす小島では、毎週日曜日に艦艇公開をしていますが、
潜水艦だけは決して公開されることはありません。
公開しても中に入れるわけではないのでね。




潜水艦の司令塔と舷門の警衛をズームしてみました。
写真や観艦式で、いつもこの司令塔上部から人が立って顔を覗かせているのを見るとき、
「この部分の立ち所はどうなっているのだろう」と不思議で仕方がありません。

こればかりは「てつのくじら」でも見ることができないですし。

ところで潜水艦乗りだった呉地方総監を表敬訪問した時、総監は「てつのくじら」について、

「潜水艦をああやって公開することそのものがずいぶん論議があったし大変だった」


とおっしゃっていました。

旧型で、さらに艦のごく一部とはいえ、秘匿性を堅持すべき潜水艦を
一般に公開することに対する懸念が各方面から寄せられたということらしいのですが、
議論の結果、広報の意義を重視しようということになり、展示が実現したということでした。




これは、支援艦かな?

支援艦は自衛艦籍がないので、自衛艦旗を揚げることはありません。



さっきのとは違う潜水艦。
潜水艦なんて「何型」とかどこで見分けるんだろう、とかねがね思っていましたが、
「いせ」艦上から「そうりゅう型」を見て納得しました。


司令塔の前方下部が、艦体と直角であれば「おやしお型」です。
上は「おやしお型」ですね。

「そうりゅう型」は、司令塔の下部がカーブを(洒落?)描いています。




潜水艦の舷門警衛の隊員は、なんと艦体の上に直接立っていました。
遠くから見ると岸壁に見えたのですが、写真を撮ってみると横に人一人立てるくらいのテントがあります。
雨が降った時とか日差しの強い時には、
ここに入っていていいってことかなー、
などとさらに勘違いしていたのですが(笑)これ舷門、出入り口だったんですね。
停泊中はここから出入りするため、いつもハッチを開けているわけだから、
風雨が艦内に入ってこないようにこういうものを立てるのが慣習になっているのでは・・?

今あらためて最初の潜水艦の司令塔写真を確かめたら、こちらも警衛は艦体に立っています。
 



ここから少し走ると、米陸軍の基地みたいなのがありました。
調べたところ「在日米軍宿舎」だそうです。
なるほど、自衛隊の敷地だと米軍も安心ですよね。(適当)

赤い看板には、

「100% ID CHECK」

の下に、

「FP CONDITION ALPHA」(警戒警報A)

という謎の?表示、さらには

COR3(天候コンディション3)

と表示されています。 





ここはお馴染み、というか「さみだれ」見学のときに来たことがあります。
地図上の名称は

海上自衛隊呉造修補給所工作部

と言います。 



さて、このツァー、たまたまわたしは行きからバスの「左舷側」に座っていました。

この自衛隊基地も、もし右側の席を選んでいたなら反対側でしたし、
この後に続く
すべての自衛隊関係の施設は左側に現れました。

つまりこの後の造船所も、地方総監庁舎も、大和ミュージアムも、
すべてそれらはわたしの座った側に見えました。

そりゃそうですよね。左側が海だったんですから。


このバスに乗ったままの観光には帰路に乗務した女性ドライバーの配慮がありました。

本来、アレイからす小島は幹線道路から離れているのですが、
彼女は、わざわざこれを見せるために海沿いの道を選んで走り、そのほかにも
一行と関わりのある海軍施設が見えるようなコースを選んでくれたようです。


というわけでこの運転手さんに対しても大変感謝していますが、これも、
日頃のわたしの海軍海自的知識研鑽への精進に対して、

神様がちょっとした便宜を図ってくれた結果だと思うことにしましょう。 


続く。 





 


呉海軍墓地~「隼鷹」と「秋風事件」

2015-02-08 | 海軍

呉の長迫公園にある「海軍墓地」についてお話ししています。

前回の訪問では駆逐艦隊の碑についてはまず

第15駆逐隊 夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎

についてお話ししたことがありますが、この写真は

第17駆逐隊 初霜 雪風 磯風 浜風 浦風 谷風

の慰霊碑です。
開戦時から大和特攻までは陽炎型駆逐艦のみで編成されていました。 
その後、浜風、浦風、谷風、磯風に加え、第16艦隊から雪風が戦争後期に参加し、
終戦直前には雪風と初春型駆逐艦初霜の2隻となりました。

雪風がなぜ流れてきたかというと、第16戦隊の時津風、天津風、初風
いずれも昭和19年には全部戦没してしまったからで・・・。 (T_T)

というわけで、不沈艦だった雪風は第4、第10、第16、第17と、編成替えを3回も行っているのです。 
戦没しなかったので当然独自の「雪風戦没碑」はないのですが、戦死者も出しており、
駆逐隊の合同慰霊碑には名を連ねているのでしょう。

ちなみに「雪風」のモニュメントは江田島の第一術科学校構内に主錨が展示されています。

 

 



海防艦「稲木」戦没者慰霊碑。

海防艦、とは一般的に沿岸・領海警備、船団護衛などの任務に就く艦と定義され、
大きさは小型船から戦艦級のものまで、特に決められたものではありませんでしたが、
日本では開戦後、漁業保護や海上防衛を目的とした小型艦艇をこう称するようになりました。


この海防艦「稲木」は、鵜来型(うくるがた)海防艦で、三井造船玉野で建造されています。
この鵜来型は戦中日本が作った海防艦の中では最もよくできていて、
損失率も少なかったということですが、この「稲木」は八戸沖で昭和20年8月9日、
ーちょうどそれは長崎に原子爆弾が落とされた日ですがー空襲に遭い沈没しました。

 

「雑木林」とあだ名のあった「松型」15番艦「椿」慰霊碑
慰霊碑揮毫は艤装・初代艦長であり最後の艦長であった田中一郎少佐(64期)によるものです。

主に内地~上海間の船団護衛に従事していましたが、その間一度触雷中破、
終戦間際の7月24日、岡山沖で敵空母機の攻撃を受け(呉軍港大空襲のときですね)
中破したまま呉で終戦を迎えました。



田中艦長はこの時の対空戦闘で負傷したのですが、このときグラマン2機を撃墜したそうです。
「椿」の合祀者名碑はこのように「神通」の横にあり、とてもちいさな名簿でした。
隣の「神通」のような膨大な戦死者ではなかったようです。
 
 
碑の前にはつい最近らしいペットボトルの水がのお供えがありました。



同じような形をしていてまるで一対のような碑ですが、

向こうは空母「隼鷹」(じゅんよう)の碑、こちらは駆逐艦「秋風」の碑です。

空母「隼鷹」は商船として建造していた日本郵船の「橿原丸」を買収し、
正規空母に改装されて就役したもの。
「秋風」は大正10(1911)年建造で、一時予備艦となっていたこともある老朽艦です。


微妙に墓石の薄さとかが隼鷹の方が分厚くね?とは思いますが、

空母と駆逐艦、なんだって仲良くお隣同志にそっくりの碑を建てたのでしょうか。



その理由かどうかはわかりませんが、このような両艦の関係がわかりました。

昭和19年10月30日、空母「隼鷹」は「緊急輸送作戦」に従事するために
「木曾」「夕月」「卯月」を護衛に佐世保を出発しました。
その翌日にはこの「秋風」と合流しています。

台湾に寄港した後ブルネイに向かっていた艦隊を、米潜水艦「ピンタード」が発見、
「隼鷹」に向かって魚雷6本を発射しました。
これが駆逐艦「秋風」に命中し同艦は轟沈し、乗組員は山崎仁太郎艦長以下総員戦死しているのです。

『3日2252地点北緯128度41.5分東経117度21分ニテ
秋風敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没全員戦死、夕月掃蕩セルモ航海不明』




潜水艦は最初から「隼鷹」ではなく「秋風」を狙った可能性はないのかって?


海戦では空母と戦艦がまず狙われ、駆逐艦などは見向きもされないのが普通です。

この場合は間違いなく「秋風」が「隼鷹」の身代わりになったと考えられます。

 




大東亜戦争中の軍艦というのはこうしてみるとはっきりと幸運艦、不運艦が分かれています。


「隼鷹」はダッチハーバー奇襲、空母「ホーネット」が戦没した南太平洋海戦、
第三次ソロモン海戦、
「い号作戦」と激戦を立て続けに戦いながら、
その間魚雷1本(死者4名)の被害だけでしたし、
「秋風」に救われたあと、
「武蔵」の生存者を日本に輸送するために航行していてまたもや米軍潜水艦3隻に狙われたものの、
このときも護衛についていた「槙」が身代わりになって艦首に魚雷を受けたため沈没は免れ、
修理ドックから出たところで終戦となっているわけですから、
これは非常に幸運な艦の一つだったということができるでしょう。


やはり身代わりとなった駆逐艦「槙」は大破し死者4名を出したものの、なんとか微速前進で生還しました。
「大和」沖縄水上特攻部隊では、前路を警戒する任務を一度は与えられましたが、
伊藤長官の命令で(・∀・)カエレ!!と言われたので、豊後水道で分離して帰投しています。
そんなこんなで終戦まで生き残ったこともありますが、戦後は賠償艦として
英海軍に取られてしまったのが、ここに「槇」の慰霊碑のない原因かもしれません。


ちなみに南太平洋海戦で空母「ホーネット」にとどめを刺したのは「隼鷹」から飛び立った攻撃隊で、
この時の攻撃隊は爆弾4発を全て命中させ、全機無事に「隼鷹」に帰ってきました。
米艦隊は「ホーネット」を二隻の駆逐艦に処分させようとしましたが雷撃も砲撃も失敗し、
沈めることができないまま偵察機に発見されて逃げたので、米艦隊司令は激おこだったということです。

なんとか空母を曳航して持って帰れないかと司令部は現場に詰め寄ったそうですが、
「鉄の塊がこんなに燃えるとは」と唖然とするくらい火災が激しくそれも不可能で、

仕方なく「巻雲」と「秋雲」の魚雷4本でこれを沈没させました。 

現場はこの空母の正体を知らずに戦っていたようで、救助した米軍乗員を尋問して
初めてこれが「ホーネット」であったことを知ったようです。
日本人にとっては「敵の象徴」でもあったドゥーリトル隊を運んだ空母なのですから、
そうと知ってからは、燃えてさえいなければ、と皆唇を噛んだことでしょう。 

 

 

 

ところでわたしはこの「海軍墓地シリーズ」を書くようになってから、帝国海軍艦艇439隻の生涯と
歴代全艦長3643人のプロフィールが検索できるという、

「艦長たちの軍艦史」戸山操著

を購入しました。
各艦の経歴が網羅されていて辞典のようで大変便利ではあるのですが、たとえば上の
「隼鷹」をかばって「秋風」が沈没したといったような縦の糸的知識については触れられていません。
そういうことはむしろ書き込み手が不特定多数のWikipediaの後塵を拝しているといった感があります。
「秋風」の項に民間人殺害事件である「秋風事件」の記載がないことからもそのように思ったのですが。


昭和18年、3月18日。
「秋風」はニューギニア東部に住む現地の民間人70名ほどをラバウルに向けて移送する航行中、

甲板で乗員が全員を処刑するという民間人虐殺事件を起こしています。

半数が現地の宣教師や修道女で、あとはアメリカ人、ドイツ人、オランダ人、ハンガリー人、中国人。
2歳から7歳の中国人とドイツ人宣教師の子供も4名含まれていたといいます。

現地人や聖職者、子供に同盟国人。
どこをどう探しても、この人たちを処刑にしなければいけない理由というのがわからないのですが、
その処刑の方法とは、洋上で全員を一人ずつ艦尾に特設された処刑台で銃殺するという凄惨なものでした。
しかも一人ずつ両手を後ろに縛り、目隠しをして撃ち、屍体はそのまま海に落とすことを繰り返し、
正午頃に始まった殺害は午後3時半まで続いたといわれています。

こんなことをするのなら最初から連れてこなければよかったじゃないかとしか言えないのですが、
どうやら「途中で殺すことになった」のではなく、最初から処刑するつもりで乗艦させたらしく、
残されているこのときの時系列からは、いかにも計画的なものであったらしい性急さが感じられます。




昭和18年3月  カイリル島とマヌス島にいた海軍分遣隊長が,駆逐艦を使って
       両島にいる外国人抑留者を全員ラバウルに移送するよう命令を受ける
   
3月16日午後 カイリル島の住民26名、ロークス司教以下を「秋風」に乗艦させる

3月17日午後 マヌス島の住民40名を乗艦させる 

 

3月18日10:00 「秋風」カビエン沖で信号を受けてからラバウルに向けて航行
    カビエン沖60マイルの地点で、佐部鶴吉艦長が、士官全員に外国人の殺害を命ぜられたと伝える

    12:00 処刑開始

    03:30 処刑終了 
    22:00 「秋風」ラバウルに到着  


「秋風」艦長の恣意的な判断などではなく、最初から殺害させるのが目的で乗艦させているようです。
つまりこの命令を下したのは上層部だということになるのですが、それでは誰が決定したのか。

戦後、戦犯裁判でオーストラリア代表検事がこの事件を裁くために
三川軍一中将と大西大西新蔵参謀長を1947年1月に逮捕したのですが、管轄権の問題と、
当事者である「秋風」の艦長と士官らが全員戦死していたため、不起訴になりました。

つまり、軍人として命令されたことは成さねばなず、女子供を含む民間人の殺戮に
手を染めた「秋風」の乗組員に「死人に口無し」とばかり全ての罪を押しつけ、
戦後のうのうとしていた(か戦々恐々としていたかはわかりませんが)軍人がいたということなのです。

ダンビールの海戦で、米軍機の搭乗員は、海上に浮かぶ沈没艦の乗員たちに
弾薬が切れたら取りに戻ってまで、何航過もして銃弾を浴びせましたが、そのとき
命令を受けて殺人を行った搭乗員の、少なくない人数があまりのことに気分が悪くなり、
後から「あれは男らしくなかった」などという言葉を漏らしたものすらいたそうです。

ニューギニアで「日本人の捕虜は取らずにその場で始末しろ」と命令した司令官も、
命令しただけで、決して自分の手で日本人を殺すわけではなく、
無抵抗の日本兵に銃弾を打ち込むのは、いつも下の者の仕事でした。



戦争中の残虐行為には往々にしてそれを命じる者が・・・自分は手を下さず
離れたところ、
ときとして戦場でもないところから駒を動かすように命令する者がいるのみです。



「秋風事件」について書かれた書物は戦後一つも出版されていないそうです。
それについて語るものもなく、当人たちが罪を背負ったまま戦死したことで、
海軍ではおそらく誰かが胸をなで下ろしていたことでしょう。


「秋風」は幸か不幸かでいうと不幸に数えられる艦です。

このような命令を実行しなければいけない立場にあったという意味ではなおさらのこと。
しかし、彼らが生き残っていたら確実に戦犯裁判において有罪となり、
これも確実に艦長以下何人かが死刑になっていたことは間違いのないところです。


そのような裁判で戦犯として裁かれる前に「秋風」乗員が名誉の戦没で亡くなったことは、
ある意味彼らにとって幸運だったと言えるのかもしれません。



戦後、自衛隊になって多くの自衛艦が旧軍の艦名を引き継ぎました。

必ずしも先代がどのような最後を遂げたかということは選定において考慮されていないようですが、
(考慮したらどの名前も引き継げなくなりますし)護衛艦「はるかぜ」はあるのに、
この「秋風」を継いだものはないというのは、この事件が影を落としているのではないでしょうか。

 


同じような形で「隼鷹」と並んでいる「秋風」の慰霊碑。
因みに慰霊碑が建立されたのは「隼鷹」が昭和58(1983)年。
「秋風」が8年後の平成3(1991)年です。

戦後、忌まわしい事件の記憶を刻むその艦体とともに海に沈み、
誰一人としてそのことを語らずに逝った「秋風」の乗員たち。

全てを理解(わか)ったうえで彼らの慰霊碑を自分たちの碑の横に、
まるで寄り添うように置くことを決めたのは、「秋風」の犠牲によって命を救われた
「隼鷹」の生存者たちだったのではなかったかとふと思いました。

 

 

 


女流パイロット列伝~木部シゲノ「男装の麗人」

2015-02-07 | 飛行家列伝

”乗馬服に鳥打帽姿の粋な眼鏡の若者が、
イートン断髪(クロップ)の令嬢風の二人に挟まれて、ステッキを振り振り歩いてくる。
近づいてきた顔は、確かに雑誌で見た木部シゲノだった。
しかしどう見ても男にしか見えない。

木部シゲノは、日本初の女性二等飛行士として講演会に引っ張り出されたり、
映画会社が出演交渉に来るなど、その人気は大変なものだった。
プロマイドまで売り出され、女学生が大騒ぎだという。
そういえば、その秘密は彼女の男装にあると聞いていた。
しかしここまで男になりきっているとは―。

確かに惚れ惚れするようなスマートな男ぶりだ。

シゲノは自分のことを「僕」と言い、言葉使いも男なのだと中村正が教えてくれた。 

『越えられなかった海峡 女性飛行士朴敬元の生涯』 加納実紀代著

この「女流飛行家列伝」シリーズで取り上げた朝鮮人飛行士、朴敬元について書いたとき、
目を通したこの著書には、このような木部シゲノについての記述がありました。

実は、エントリを制作してから本が到着してしまい、情報の補足に使ったにとどまったのですが、
朴飛行士と同世代の木部シゲノについての記述に興味を惹かれました。

で、今回のエントリ制作とあいなったわけですが・・・・・・・・。


木部シゲノの話に移る前に、この「越えられなかった海峡」について、
というかこの本の著者について、少しお話ししてかなくてはなりません。

これは、ほとんどまともな資料が残されていない朴敬元を、作者自身が
「韓国生まれ」のよしみで興味を惹かれたということで書かれた伝記だそうです。

しかし、この本、しょっぱなからなにやら匂う。

黎明期の女性飛行士の人生を書こうとしているわけですが、出だしでいきなり

「女は飛びたいと思わなかったのだろうか」

ん?

男に少し遅れてそういう女性が、アメリカでも、
当時の日本のような封建的な社会でもわずかとはいえ出てきているわけですが。


飛ぶ」は逸脱の象徴であり、「飛んでる女」(ふっる~)
は誹りを受けた。

エリカ・ジョングの「飛ぶのが怖い」は


ええ?なんですか?もしかしてジェンダーフリー業界の方?


”日本に外交権を奪われてしまったのはその年の暮れだった。
白人の大国ロシアに勝った日本は、いよいよ朝鮮の独占的支配に乗り出したのだ。”

”下駄の音を聞くとぞっとする。
チョッパリ、奴らは獣だ。日本の進歩発展は野蛮だ。
野蛮な獣の日本人に、朝鮮人の高邁な魂を見せてやりたい。
朝鮮人が劣等民族でないことを思い知らせてやりたい。”

”敬元は兵頭精(日本最初の女流飛行家)の失脚を知り、マンセーを叫びたい気分だった。
これで日本の女に勝つ可能性が出てきた。”

”早く一人前の飛行家になって朝鮮女性の優秀さをチョッパリに見せてやるのが”


あの・・・・・もしもし?

わたしの知っている朝鮮併合の史実とは内容が少し違うようなんですが。
もしかしたらあちら側の人ですか?
それに・・・・


この伝記の中で、朴敬元は「チョッパリ」(日本人の蔑称)を二言目には連発しながら、
日本人の飛行士や日本人を罵ったり蔑んだり、怒りに震えたりするのです。
実際に朴がそう言っていたという証拠は何一つないのにもかかわらず。

そもそも「朴が残した文章はほとんどない」と著者自身も書いているのです。
彼女の人柄を示す資料は、「追悼禄」、朴と付き合いのあった男性の息子の話、
その程度であったということなのですが。

そして極めつけが

「日本は朝鮮を植民地に」
「関東大震災で朝鮮人を大虐殺」
「姓を奪い、同胞の若者や女性を強制的に奪い去る日本」

という「ああ・・・」と思わず察してしまうような各所の記述。

というところで、やおらインターネットで検索すると、この人物、

国家による『慰霊・追悼』を許すな! 8.15反『靖国』行動」

で講演をなさっているということがわかりました。

はあ、そう言う方でしたか。納得しました。
道理で1ページ目からなんか匂ってくると思った(笑)

おまけにこの人物、あとがきで

「どうやらわたしは、一人の朝鮮人女性の朴敬元」の〈実像〉を明らかにするよりは、
彼女の胸を借りて自分の疑問をブツブツつぶやいていたような気もします。
19世紀末に生まれ、まだ飛行機が完全に武器として育つ前に死んだ朴敬元は、
20世紀末のフェミニズムの課題を背負わされて、きっと目を白黒しているでしょう」

と自白してしまっています。

さすがは朝鮮半島生まれの団塊の世代、まったく悪びれておりません。 
ていうか、自著でブツブツつぶやくなよ。気持ち悪い著者だな。 

つまり左翼思想でフェミニズム、ついでに反日反天皇をもれなく作品に盛り込んだってことですね。
道理で、朴の周りの日本人には見たところほとんどと言っていいほど「悪い人はいない」のに、
この伝記の中の彼女が、二言目には「チョッパリ」と呪詛の言葉を吐いているはずです。

これらはすべて著者ご本人の心の叫びだったということでしたか。

朴敬元がこれを見たら、フェミニズムの課題云々のお題目以前に

「わたしはこんなに口汚くないわ。
人を呪ったり恨んだり僻んで人をこき下ろしたり、失脚を喜んだりしないわ」

と言ったかもしれません。
もちろん言わなかった可能性もないわけではありませんが、
どちらにしても、この伝記が、思い込みと捏造100%増しの
「創作を装った思想宣伝」であることだけはこれで確定しました。


というわけで、前置きが長くなりましたが(前置きだったのよ)冒頭の、

「朴敬元の見た木部シゲノ」

も、当時の彼女についての資料から創作し、まるで朴が実際に木部を見たように書いただけで、
実際は会ったことも見たこともなかったはずです。




木部シゲノは1903年生まれ。

「男装の麗人」というと、スパイ容疑で処刑された愛新覚羅の末裔、川島芳子、ターキーこと水之江滝子、
比較的新しいところで「ベルサイユのばら」のオスカル、こんな名前が浮かんでくるかもしれません。

しかし、この当時、「男装の麗人」といえばこの飛行家木部シゲノでした。
特に女学生に絶大な人気があったといいます。

「木部しげの嬢 一舞台一万円 日活と東宝で引っ張り凧」

こんな新聞の見出しが記事になるほどでした。
昭和初期の一万円は現在の650万くらいの価値でしょうか。


木部シゲノは、20歳から飛行学校に通い始めます。
当初は運送会社に通いながら苦労して月謝を払ったようですが、そのわずか一年後、
飛行学校を卒業したばかりにもかかわらず彼女は「女飛行士」として世間の注目を浴び、
まだ免許も取っていないのに、上のような新聞記事が書かれる有名人でした。

何しろ珍しいというだけの注目ですから、もし飛行士免許を取れなかったら、
いったいどうなっていたのだろうと余計な心配をせずにはいられません。

本人にとってもおそらくかなりのプレッシャーであったと考えられるのですが、
幸い彼女は、まず三等飛行士免許を取得。
もうこのころになると、人気が沸騰して、各地で飛行演技や講演会の依頼は引きも切らなかったそうです。
そして、日本人女性初めての二等飛行士免許をその2年後に獲得します。
 
上の「朴敬元の見た木部シゲノの姿」は、人気絶頂だった頃の彼女の姿でしょう。

「女房までいるらしいぜ」
並木米三が妙な笑いを浮かべていう。敬元には何のことだかわからない。
「女房?」
「木部シゲノに憧れた女が彼女の下宿に押しかけてきて、
奥さんにしてくれと住み着いてしまったんだそうだ」
「ああ、今はやりのSね」
(中略)
しかし並木は
「 そんな生やさしいもんじゃないらしいぜ」
と嘲るように言う。
「シゲノは女を喜ばせる術を知っているんだそうだ」
あれは異常だよ、と男二人はうなずきあっている。
それだっていいじゃないか、と敬元は思った。
なんで女は、女を愛してはいけないのだろう?


うーん、ジェンダーフリーもここまできますか。
いや、別にわたしもそれがいけないとは全く思いませんがね。

問題は、朴敬元が本当にそう思っていたのかどうかです。


木部自身が本当にここで言われるような「性同一視障害」(と今なら言われる)
であったかどうかはわかりませんが、本人は結婚しない理由を尋ねられ

「飛行機と結婚しましたたい」(シゲノは九州出身)

と答えています。




ところで、木部シゲノという女性は、女性としてみれば失礼ながらさして美人とは思えない、
平凡な容貌をしています。
当時の女性にしては背が高くほとんどの日本人男性と同じ背で、細面で手足の長い「モデル体型」。
いよいよ当時の女性としては「規格外」です。

ところが、この中性的な女性がいったんスーツに身を包むと、あら不思議、
女性としてはごつごつした顔も、男性としてみると繊細な美青年にしか見えないではありませんか。

昨年亡くなった渡辺淳一の初期の短編に、

「女としては大したことがないが、男装した途端、
道行く女たちが目の色を変える美青年に変身する女性が、
女性に男として愛され、彼女は自分が女だと打ち明けられないで悩む」

という話がありましたが、今にして思えば渡辺淳一は、
もしかしたら彼女をモデルにしてこれを書いたのかもしれません。



彼女は男装によって見事に「変身」した女性でした。
いや、彼女自身は全く「変わっていない」わけですから厳密には「変身」ではないでしょう。
ジェンダーの位置を、同じ人間がスライドして「あべこべ」になることで、
本人も思いもよらないような、男でも女でもない魅力的な「第三者」が顔を出したのです。

ですから、木部シゲノは「男装の麗人」というよりは、
「女装より男装が似合っていた女」という方が正確なのではないかと思います。



彼女の男装は飛行学校に通い始めた20歳のときから始まっており、以降、生涯その姿で通したようです。

戦後、航空界に尽力した功績に対し与えられた勲六等宝冠章授与の式典で、
女性に与えられるこのこの勲章を、シゲノはタキシードの胸に付けていたため、
宮内庁のの関係者に大変不審がられた、という逸話が残っているそうです。

このとき彼女は66歳でした。



これほどの有名人でしたが、彼女が飛行家として展示飛行を行っていた期間は決して長くありません。

1928年、25歳の時に展示飛行中横風に煽られた彼女のニューポール戦闘機は、
土手に翼を接触させ、墜落して彼女は重傷を負いました。
それ以来展示飛行をすることはやめ、その三年後には、飛行士を引退してしまうのです。

おりしも日中戦争が起こり、引退した彼女は北京に行き、そこで
グライダーによる飛行指導を行い、太平洋戦争勃発後は、軍事関係の補助員として活動していました。

ですから全く飛ばなくなったということでもないと思うのですが、
戦後は日本婦人航空協会(現・日本女性航空協会)の設立に携わり、
その後は、羽田空港内の協会事務所責任者として活動していました。




さて。

もう一度上記著者による朴敬元の物語に戻ります。
この伝記は、こんな言葉で始まる実に気持ちの悪いエピローグで終わっています。

「空を飛ぶということはそういうことではないだろうか」


どういうことかというと、著者が次に引用してくるのが、
日中戦争で戦闘機に乗って「匪賊退治」をした軍人の1935年の告白です。

「匪賊がウンとおったので嬉しくなりどうしてやろうかと考えた。
(中略)
又ダダダダと落ちる(笑い声)面白くなって随分低空で飛んだ」

この軍人はこのときに1000人以上殺したという。
そして「匪賊」攻撃は、「猟をするように」面白いという。

そして著者は、

空の高みに上がったとき、人間は地上を這いずるものに対して
神のごとく傲慢になるということはないだろうか。
空飛ぶ兵器を手に入れたとき、眼下にあるものに対して
猛禽のごとく攻撃的になるということは無いだろうか」

そして、朴敬元が生きていたらやはりそのようになったのでは、と、
想像をたくましくして、お節介にもそれを嘆きつつ、この物語を終えています。


・・・・・もしかしたら、馬鹿ですか?


いやー、わたしつくづく、この人たちの思想とは相いれないことが
あらためてこの本によって確認できたような気がします。

「飛行機に乗れば人は地上のものに対して殺戮を加えたくなるものである」

というこの人の極論は、ほら、

「軍隊を持てば人は戦争で人を殺したくなるものである」

という、この手の人たちのお好きな主張とまるで同じですよね。
そして、彼女に言わせると当時の女性飛行家たちすら、

「空飛ぶ兵器を縦横に駆使する男性飛行士をうらやんだ」

「機銃を乱射し爆弾を落とし、逃げ惑う敵兵を、猛焔の街を心行くまで眺めたいと思った」

のだそうです。

女性は勿論、男性の飛行士でも、こんなことを考えて飛行士になる人などおそらく
古今東西一人もいない、と、ごくごく常識的な観点からわたしが断言してあげましょう。


なんだかね。
こういう人たちって、「戦争」に忌避感を持つあまり、人間というものを
限りなく信用しなくなるというか、性悪説でしか見ようとしないって気、しません?


「軍隊を持つということは戦争をしたいということだ」
「靖国を追悼することは戦争を賛美することだ」

でもそのわりには、日本にミサイルを向けていたり、反日デモで死人が出たり、
日本固有の領土を乗っ取ろうと画策していたり、
日本を世界的に貶めようとして世界中で悪口外交をするような「敵国」は頭ごなしに
「性善」としてしまうのが謎です。

先日の人質殺害事件にしても、イスラム国は性善説なんかが通用する相手でしたか?

しかもこんな人たちが「9条があっても日本人が狙われ殺害された」という現実に目を背け、
テロ組織への非難も拒否し(例・山本太郎)なぜか自国の首相の辞任を求めてデモしているのです。
ちなみにちょっとした情報ですが、この人たちの正体は

「なくせ!建国記念の日 許すな!靖国国営化」

などという運動をやっているキリスト教系団体だということがわかりました。
ふーむ、「越えられなかった海峡」著者とご同郷ご同類ですか。



木部シゲノが男装という「あべこべ」の幻術で世間を魅了したのは、
どことなくわくわくするおとぎ話のようですが、こちらの「あべこべ」は
「常識」が自分の中で絶賛ゲシュタルト崩壊していくのを感じずにいられません。

どなたか、この「トプシー・タビー」の世界の住人たちが何を理想として誰と戦っているのか、
こちらがわの人間にもわかるように説明してくれませんか?

 







 


三井造船資料室~捕鯨船の戦時徴庸とはるさめカレー

2015-02-06 | 海軍

三井造船資料室で見た資料シリーズ、(まだ終わってないのよ)
今日はその他の船についてお話しします。


冒頭写真パンフレットのまず左側。


『つばろん丸」進水記念

とあります。
「つばろん」TUBARAO はブラジルの、つまりポルトガル語で「サメ」を意味し、鉱石兼油槽船です。



船体の大部分がタンクになっているだけあって、甲板に艦橋以外の構造物がまったくありません。

この「つばろん丸」の姉妹船は「ぶらじる丸」
先日お話しした戦時徴用船「ぶら志’’る丸」の二代目です。



豪華客船であった「ぶら志’’る丸」
徴傭され、トラック島に回航されたときには、かつてはスイートルームであった
「宮島」「鎌倉」という日本の観光地から取られた名前を持つ特別室は
霊安室として使われていました。

「ぶら志’’る丸」の食堂は、染色作家の手による総絹糸織りの
「手織錦」が飾られた豪華なものであったと言われます。

前回もお話ししたように、この初代「ぶら志”る丸」は、空母に改造されることが
決定し、トラックから横須賀に回航途中、米潜水艦に撃沈されました。



二代目の「ぶらじる丸」は戦後ブラジルへの移民船として活躍しました。
この写真は白黒でわかりませんが、船体がバイオレットに塗装され、その華やかさが衆目を集めたそうです。

東京オリンピック頃の移民の減少と共に存在意味を失い、鳥羽で博物館になっていましたが、
現在は中国の上海で、
アミューズメント施設やレストランとして営業しているそうです。



そして三代目の「 BRASIL MARU 」

2007年ということは大変新しい船です。

三代がそれぞれ同じ発音でも表記を変えているのには意味があって、
おそらく用途が全くことなるスタートであるからでしょう。
ごらんのように、この 「 BRASIL MARU 」は冒頭写真の「つばろん丸」と同じ、輸送船です。

 「 つばろん丸」の後継船は「TUBARAO MARU」で、「 BRASIL MARU 」の同型艦です。

つまり

ぶら志る丸(客船)→ぶらじる丸(移民船)→BRASIL MARU (輸送船)
         つばろん丸(輸送船)→TUBARAO MARU(輸送船)

ということになります。
ちなみに「TUBARAO MARU」世界最大級の鉄鉱石専用線となっています。



「隆和丸」(りゅうわまる)

木材運搬船として神戸の「隆昌海運」の注文で昭和39年建造されました。
その後パナマ船籍になり、昭和53年香港で解体されています。

この同じ名前を持つ「隆和丸」は、昭和20年8月3日、空爆によって戦没し、
その際乗員7名が死亡しました。




「第12京丸」

昭和15年8月3日進水、とあります。
「京丸」で調べると、それは代々捕鯨船で、「第1京丸」は太地町の
「くじら博物館」の横に
陸揚げされて展示されているということがわかりますが、
「第12京丸」についてはその経歴などは検索にかかってきませんでした。

辛うじて引っかかってきたこの一代目の「第1京丸」は、

昭和13年進水、とありますから、ちょうど「第12」の2年前。
当時は捕鯨も盛んでしたから、コンスタントに建造されていたのでしょう。

昭和14年には日本に大型冷凍工船が導入され、鯨肉が普通に消費されていたこともあり
その後塩蔵工船などによる缶詰加工が盛んになりました。
「第1京丸」と「第12京丸」はそんな時期の捕鯨船だったわけです。


しかし「ぶら志’’る丸」のように、捕鯨船もまた戦時には軍徴傭される運命でした。
大東亜戦争時の日本では、95隻のキャッチャーボートが

特設駆潜艇(潜水艦の駆逐)特設掃海艇(機雷の掃海)

などの特設艦艇(海軍が徴用した民間船)として海軍艦艇の補完用に徴用されています。


また、大戦に突入したときには日本には捕鯨母船が6隻ありましたが、
その全部が徴用され、すべてが戦没することになりました。

母船だけでなく、クジラ漁獲に使うキャッチャーボート67隻も全て失われています。

キャッチャーボートは捕鯨砲を船首に備え,マストは見張りのため高く、
クジラを追うために速くて小回りのきく船です。

いくつかの「京丸」の戦歴を挙げてみます。


第1京丸 昭和16年 掃海艇に徴庸
    昭和20年1月ペナンで戦没 原因・触雷

第2京丸 昭和15年 特設駆潜艇に転用

    昭和19年8月ミンダナオで戦没 原因・敵潜水艦の雷撃

第3京丸 昭和16年 掃海艇に転用
    昭和18年2月ビルマ・ラングーン河で沈没 原因・触雷

第6京丸 昭和16年 特設 駆潜艇に転用
    昭和18年11月マーシャル沖で沈没 原因・座礁

第7強丸  昭和16年 特設 駆潜艇に転用
    昭和19年12月 母島沖で輸送任務中沈没 原因・触雷

第7京丸 昭和16年 特設 駆潜艇に転用
    昭和19年2月 母島沖で沈没 原因・敵磁気機雷に触雷

第10京丸  昭和16年 特設 駆潜艇に転用
    昭和19年2月 テニアンで沈没 原因・潜水艦の雷撃 

第11京丸 昭和15年  特設 駆潜艇に転用
 

    昭和17年3月 ルソン島沖で沈没 原因・P−40による攻撃


肝心の第12京丸の戦歴が見つからなかったのですが、おそらく
他の京丸と同じく駆潜艇か掃海艇に改造され、触雷か、敵の潜水艦か・・。

いずれにしても戦没していることは確かです。

捕鯨船が徴庸されて軍用船になるとき、兵装は例えば第三京丸で次のようなものでした。 

八糎砲1門、爆雷、大掃海具2組、小掃海具2組




巡視船「えちご」

三井造船は1951年(昭和26年)巡視船「おき」を建造して以来、
各種の機能を有する巡視船を海上保安庁に納入してきました。

巡視船「えちご」は三井造船が開発した

高密度集約型システム

を装備した最初の船で、光伝送によるLANが船内に採用され、
航海、期間、航空管制情報を船橋において一括で監視することができます。

船首部には機銃2基、あるいは荒海でも警備救難業務が遂行できるように
船側部に2基のフィンスタビライザー(航行時の揺れを抑える減揺装置の一種)
装備しています。




護衛艦「はるさめ」DD−102

1997年(平成9年)防衛庁向け4,400排水トン型
最新鋭護衛艦「はるさめ」。

ステルス性を考慮した船体に加え、対空・対潜ミサイルの垂直発射装置(VLS)
の採用による戦闘システムの強化と省力化、省人化対策など、新型装備の
最新鋭護衛艦です。(でした?)

就役後は、横須賀基地に配備され、2009年にはソマリア海賊の対策部隊として
派遣され、ソマリア沖を航行する商船の護衛任務に就きました。 

旧海軍「春雨」型駆逐艦、「白露」型駆逐艦、「むらさめ」型護衛艦
の各艦に続く4代目で、「むらさめ」型の2番艦です。

ところでこの「はるさめ」ですが、あの護衛艦カレーグランプリに

「チキンスープカレー」

で出場しているんですよね。
(話題が古すぎる?これには色々とエントリアップの事情がありまして)

スープカレー!とこれを見たとたんそのオリジナリティに注目し、
他のはともかく、これだけは食べてみたいと思ったのですが、
このグランプリでカレーを一口も食べず、エリス中尉が徒手を虚しくして帰ってきたことは
ブログ読者の皆様には記憶に新し・・・くないですねすみません。


とにかくこのカレーグランプリに臨む「はるさめ」の作戦チームは、

「せっかく艦名なんですから春雨ってカレーに使えませんかねえ」
「スープ仕立てにでもすれば使えるかもしれんな」
「スープ仕立て!いいですね。・・・・ていうか春雨、別に要らなくね?」
「・・・じゃただのスープカレーってことで」

という経緯でスープカレーに決定したのではないか、に一票。









 


戦艦「伊勢」洋上慰霊式

2015-02-05 | 海軍

何回かに分けて「いせ」に乗艦したことを事細かくご報告してきたわけですが、
ようやく本来の目的である
戦艦「伊勢」慰霊祭についてお話しするときがやってきました。

色々と現場に配慮して、行事が終わってすぐにご報告をすることを控えたのと、

一つのことを微に入り細に入り話し出すときりがないという当ブログの傾向も相まって、
昨年末のことを今頃報告することになりますがご了承ください。


ところで、戦艦「伊勢」はご存知のように昭和20年7月28日、
旧海軍兵学校の訪問記でも「米軍搭乗員の飛行履」という項でお話しした呉大空襲の際、
米軍艦載機の攻撃によって大破着底しました。


冒頭の写真はその時の「伊勢」の姿です。
「大和ミュージアム」に
壁一面を使って展示されているものですが、
「着底」といっても
現場の海深が浅いためか、傾いているだけにも見えます。

「伊勢」は、まず、その4日前の7月24日の空襲の時に艦橋に直撃弾を受けるという損害を受けました。
そのとき、牟田口艦長はじめ指揮官20名ほどが戦死しています。

この時5000トンの浸水があったのですが、その時点でまだ修復は可能と見られたため、

7月28日当日は、高射長が艦長代理となって第4ドックに曳航するための作業をしている途中でした。



第4ドックとはは現在も残る「大和の大屋根」の二つ隣のドックです。

実はちょうどこの慰霊祭のために呉に到着し、その前日

ここ、旧海軍工廠であるIHIジャパンマリンユナイテッドを「歴史の見える丘」から見学したとき、
この旧第4ドック、現在の補修ドックが空いていました。
そのときわたしは、 

「もしかしたらここに『いせ』が入るのだろうか」

もしそうなのだとしたら、

第4ドックに入れようとしていて
大破してしまったという「伊勢」の慰霊祭の後に、
それを執り行った
「いせ」は、全く同じ場所にあるドックに入ることになるではないか!

とひとり勝手にモニターの前で盛り上がっていたのですが、

結局「いせ」は別の岸壁に着岸してしまいました。


とにかく、そのドック入りの曳航準備中、米軍の空襲が始まり、
その後「伊勢」は直撃弾11発を受けて大破着底したのでした。

この時には総員で作業に当たっていたため、
戦死者は乗員1,660名の3分の1近い573名でした。

昭和20年になって行われた呉への一連の空襲を「呉軍港空襲」と称します。
それは3月19日に始まって複数次にわたりましたが、
これらの空襲で戦死した海軍の艦艇乗組員は約780人。
戦傷者は2000人に上ったということですから、
死者のほとんどが「伊勢」の乗員であったということになります。



さて、「いせ」での慰霊祭の様子を追っていきましょう。

わたしたちが控え室に使わせていただいた士官室の片隅で、女性幹部が儀礼用のチャップス
(乗馬用語だとそういうけど、
海自ではゲートルでいいのかな)を着けていました。

「儀仗隊の指揮官だね」「女性自衛官なんだね」

周りではそんな囁きが起こりましたが、去年の慰霊祭も儀仗隊長は女性(同じ人?)だったそうです。
儀仗隊指揮官は自衛隊法によると「2等海尉または3等海尉」。
彼女は3尉、少尉さんですね。



そして、式典会場へ・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・・。

なんでこんなところにお供物と花束が?

そう、この日は縷々ご説明したように朝から大変な雨の降り続く一日となったわけですが、
時間となっても一向に雨が止まなかったため、慰霊祭は格納庫で行われることになったのでした。



先ほどの女性幹部が指揮官となって従える儀仗隊が整列しました。
儀仗隊の陣容は指揮官以下分隊海曹1名、隊員8名の計10名です。

甲板の上で行う場合、儀仗隊は礼砲を撃つのが倣いですが、
おそらくここではそれも無しでしょう。



儀仗隊の横には副長始め慰霊祭をとり行なう執行者が並び、
後ろに乗組員、その並びに遺族と参加者が立ちました。
この態勢で定時を待ちます。



右の方は「いせ」の後援会会長。
式の次第を副長が説明しているようです。
艦長の姿が見えませんが、こういうときには艦長は艦橋にいるのでしょうか。



「そのときにはあちらの方から外に出ていただいて・・・」

海上への献花、供物のお供えなどは、格納庫から出て、それだけを従来通り行うようでした。
副長が指し示しているのはデッキに通じるドアの方向です。



白菊に白百合紫の桔梗などをあしらった、死者の魂を慰める花束、
供物の他には清酒も用意されていました。


 
説明が終わったようです。

後ろに立つ乗組員たちの姿勢には緊張が漂い、
しゃきっと伸びた背筋には気の緩んだ様子など微塵もありません。



右手には喇叭譜を演奏する喇叭隊がいます。
曹士ばかりの8人による一隊です。

ラッバに付けられた房飾りと肩掛けの赤が鮮やかです。



やっぱりこういうのを見ると、海軍伝統の行事って無条件に美しいものだなあと思います。
異論は認めません。




そのとき喇叭が鳴り響きました。

「ドッソッドッドミソー」

海上自衛隊における「気をつけ」です。
退官した音楽隊長の河邊一彦元一佐の

「イージス」~海上自衛隊ラッパ譜によるコラージュ

にはこの「気をつけ」が効果的に取り入れられていますね。



ちなみに海軍喇叭譜における「気をつけ」は

「ソッソソドッドミソー」

で、大変似ているのですが少しだけ違います。
自衛隊になった時に喇叭譜もほんの少し変えたようですね。
続いて、

「ただいまより洋上慰霊式を行います」

というアナウンスがありました。



英霊に対して、花束、供物が送呈されます。
皆が外に向かって歩き出し、格納庫を出て行きました。
その他の列席者はその場に残っています。
しかし、カメラを持った一団に自衛官が

「どうぞ一緒に出てお撮りください」

と言ってくれたので、わたしも外に出させていただきました。



送呈はこの左側のデッキから行います。



まず、「いせ」後援会長の花束送呈。



続いて「いせ」副長が花束贈呈。



海曹を代表して先任伍長の清酒送呈。

士官室で「普通の男です」とおっしゃった方です。
清酒を注ぎ終わるまで結構時間がかかったので、
先任伍長の写真だけはいっぱい撮れました(笑)

副長も先任伍長もデッキの端まで出て行っていますが、
これは船乗りだから普通にやっているので、柵のないデッキに立つのは、
陸の人間には高所恐怖症ならずとも脚がすくみあがるほど怖そうです。

後援会会長はもちろん、なぜか副長も花束は手前から投げていました。



もう一人の海曹代表は女性自衛官でした。
三宝の皿部分から果物や野菜が投じられます。



最後にお米を送呈する海士代表。
かれもしっかり突き出したデッキまで出て行っています。



敷いていた紙も落としていました。



送呈を終わった「いせ」代表の皆さん。
副長がこちらを見ておられる・・・。

もし天候が晴れで慰霊式が甲板で行われたなら、
全員一斉に花束、供物を甲板から海上に投下したはずです。

そして、わたしたちはここにいたので聴けなかったのですが(T_T)
格納庫内では喇叭隊によって

追悼の譜 「国の鎮め」~殉職者に捧げる譜

が吹鳴されたようです。
そして、もし甲板であればこの後弔砲が鳴らされたはずですが、
格納庫ではその代わりに何が行われたのか知るべくもありませんでした。

弔砲が終わると同時に、旧軍喇叭譜である

命を捨てゝ

が旧軍の英霊たる「伊勢」の乗組員の霊のために吹鳴されたはずです。
この喇叭譜は海自喇叭譜にはないものです。

零式によると、弔砲と「命と捨てゝ」は交互に3回ずつ繰り返されます。


去年の洋上慰霊式の模様がユーチューブにアップされていましたので、
この部分をご覧になりたい方はどうぞ。



喇叭隊の一番こちら側にいるのは供物送呈をした
先任伍長のように見えます。

弔砲は「発射よーい、撃(て)っ!」で発射となるのですが、
この号令をかけているのも今年と同じ女性指揮官のようです。

まだ就役して3年目で、前年度の慰霊式は例のフィリピン派遣のため、
年明けに延期されたということらしいのですが、そもそも冒頭に説明したように
「伊勢」の戦没は7月24~28日の出来事なのに、
なぜ12月に洋上慰霊式を行うことに決まったのでしょうか。



どこかで、自衛隊の大きな儀式は、台風災害などで派遣の可能性の増える時期には
決して行わず、晩秋から春先に行うことが決まっていると聞いたことがあります。

それが正しいかどうかはわたしにはわからないのですが、
もし実際の「命日」に慰霊式を行うしきたりであったら、わたしは例年その時期
日本にいないので、
参加も叶わなかったということになります。

「伊勢」の乗組員の霊も、命日とは季節も違う冬に慰霊を行うことを

そういう理由ならきっと了解してくださることでしょう。



この写真の背後に写っているのは、まさに冒頭写真の伊勢の背景そのままです。

「伊勢」は着底した後、引き揚げられて解体され、すぐさまスクラップとなりました。
写真の「伊勢」は、この世における彼女のまさに最後の姿でもあるのです。


戦艦「伊勢」とその英霊たちに、あらためて敬礼。
どうぞ安らかにお眠りください。 


 

 





 


映画「ファイナルカウントダウン」~タイムパラドックス 

2015-02-04 | 映画

40年前の1941年12月7日に何かのはずみでタイムワープした
原子力空母「ニミッツ」。

自分たちの置かれた立場を理解するかしないうちに、
零戦を撃墜するわ、
SH-3、シーキングを爆発させてしまうわ、
乗員を何人も犠牲にするわ、バタフライ効果を起こしまくるのみならず、
目の前の敵は倒さずにはいられない、という軍人の習性に忠実に、
今度は真珠湾を攻撃する日本軍と戦うことを決意した艦長イエランド。

言わせてもらえば、多くの命を預かる指揮官として
あるまじき判断ではありませぬか。


しかしながら、艦長がこの判断をしなければ「ニミッツ」の出動、
つまり全面協力してくれたスポンサーのアメリカ海軍にとって
この映画でしっかりお見せしたい機動部隊のシーンを描くことができないのです。

このあたりも制作側の「痛し痒し」だったと思われるのですが、
カーク・ダグラスを指揮官として真っ当に描くことと、
米海軍の宣伝を秤にかけた結果、
後者を取らざるを得なかったといったところでしょうか。



「ニミッツ」甲板から次々と飛び立った艦載機は、
眼前の敵に向かっていきます。
真珠湾に向かう大日本帝国海軍機動部隊を邀撃するために。



そう・・・ていこくかいぐんの・・・・。

あの「パールハーバー」では実際の零戦らしきものを、
21型と52型が編隊を組むというお茶目な演出とはいえ、
とりあえず
実際に飛ばしていたわけですが、
これはひどい。


1980年当時、零戦の写真を手に入れることくらいその気になれば、
いやその気にならなくてもいくらでもできたと思うのですが、
なんなのこのどこの国のものでもない不可思議な模様の飛行機は。
やる気がなかったのかそれとも故意か。



ところでイエランド艦長がダブーである歴史の改変に手をつけたのは、


「40年前の日本軍なら、我々ただ一隻でやっつけられるだろう。
どこまで簡単なのかぜひやってみたい」

という現代人の傲りからきた怖いもの見たさと解釈できますが、
(だってそうでしょ~?)

ましてやこの汚らしい日本軍が相手であるならばさらに簡単そうです。



ところがそのとき、気象士官たちが報告をします。

「あの嵐がまたやってきました」



敵を邀撃する時間まであと4分。
これでもう一度この輪みたいなのをくぐればまた元の世界に戻れる、
誰しもそう思いますよね。

軍人の本能から思わず戦闘を命じたイエランド艦長、
これを見るなりチャンスとばかり出撃を取り消し、
飛行機を戻すことを下命するのでした。


そこでなぜかあくまでも日本軍をやっつけることを言い張る
民間人のラスキー。

「絶好の機会です。今後40年に犯す間違いを修正できるのです」

説得力なさすぎ。

真珠湾攻撃が起こらなかった世界が元の世界よりより良いものだと、
どうして言い切れるのかねラスキーくん。

(あれ、これと全く同じことを最近コメント欄で書いたなわたし)


艦長はさっきまで「もう遅い」とか言っていたくせに、
ラスキーを無視してあっさりと攻撃を中止します。
これも巨大空母の艦長の判断としてはいい加減すぎ。

これでは単に時間があったから日本軍と戦ってみたかっただけ、
と言われてもしかたありませんね。

だいたいそんな簡単に攻撃を中止できるのなら、
ヘリが行方不明になったときにすぐに攻撃中止してそっちに向かえば、
少なくともオーエンス中佐は現代に連れて戻れたのに・・。



すぐさま中隊に命令が伝わり・・・

「基地へ帰れ。任務は中止だ」

「任務中止だって?敵が見えてるのに」

やっぱり皆実際に零戦を叩き落としてみたいんですね。わかるよ。
そしてイエランド艦長は、艦載機がまだ戻ってきていないのに
嵐を突破しだします。

またしても皆が頭を抱え込んでそれに耐えている間、
真珠湾では
歴史通り日本軍の攻撃が始まりました。

 

つまり結果として歴史がかわることはなかったのです。


そして嵐が終わり、何も確かめてもいないのに
元の世界に戻れたと信じて疑わない艦長。
まあ元の世界だったんですけどね。


 

全艦載機はまだ帰投していなかったのですが、

 

ちゃんと全機が時空を超えて戻ってくることができました。
パイロットは気を失わずにすんだのか。



彼らが帰ってこれたので満足げに微笑むイエランド艦長。
笑ってる場合じゃないと思うんだが。



現代に帰ってきた「ニミッツ」はアリゾナ号に敬意を表し登舷礼式を行います。

「アリゾナ号に敬礼」「注目!」



岸壁に到着するやいなや基地司令が乗り込んできます。
「ニミッツ」はまるまる1日というもの、
レーダーから行方不明になっていたのですから当然です。



「マット(ファーストネーム)、何事だ」
「提督、説明は困難です」
「太平洋で空母が行方不明とはなんたる海軍だ!」

いや、なんたる海軍かどうか以前に、真相究明をしなくちゃ。



しかもイエランド艦長、非常に態度が悪い。
提督が通り過ぎた後、いかにも「まいったな」
と言いたげに
うんざりした顔をしてみせます。


だいたいこの事態を鑑みて艦長の負うべき責任は
軽い処分ですむとは思えません。

部下の何人かの命が失われ、シーキングを爆発させて失い、
途中でやめたとはいえ実際に攻撃命令を出して
艦載機を
全て出撃させているのです。
それに・・・・、



そう、40年前に一人置いてきた乗員もいましたよね。

オーエンス中佐です。

上院議員とその秘書のローレルを、戦闘準備のため無人島に・・・・、
しかも戦闘機隊の隊長なのに、艦長命令で送りに行かされたオーエンス。
この無茶苦茶な判断で過去に置き去りにされ、
この日を境にこの世から消えてしまったのです。

ーそれじゃこれは誰が書いたことになるんだろう。

オーエンスの軍オタレポートを感慨深げに眺めるラスキー。

そういえば「ニミッツ」には零戦搭乗員から取り上げた
彼の手記(日本語)というものもありましたし

・・零戦搭乗員の屍体も確かまだ乗ってたんじゃ?



それに、40年前の犬も連れてきてしまっていますよ。


「艦長、我々は幸せですよ」
「どうしてだ」
「少なくとも同じ世界に戻れましたよ」
「全員ではないがな」


そう、艦長、あんたが捜索隊を出さず置いてきぼりにしたんです。
で、どうするの。オーエンス中佐を。



「オーエンス中佐に家族は?」

「いない」(だから大丈夫の意)

いやいやいやいあやいあやいあやいあy(笑)

つまり死んだことにしてしまうわけ?
戦闘機隊長を戦時でもないのに行方不明中に死なせる、
これだけで十分艦長免職の理由になると思うんだが。

しかし二人は

「君には手を焼いたよ。でも会えてよかった」
「ありがとう艦長」

などとにこやかに言い合い握手を交わして別れます。
こんなことが許されていいものだろうか?と思ったら、
謎の人物「タイドマン」の車から犬を呼ぶ声あり。

「チャーリー!」

まろぶように犬が駆け込んだ車の中を恐る恐るラスキーが覗くと、



あらびっくり。
そこにはついさっき別れたばかりのオーエンス中佐とローレルの40年後の姿が。



40年前に置き去りにされたオーエンス中佐、ローレルの助けで
名前を変え、過去を隠して(彼の場合は未来というべきですが)、
タイドマンと名乗り、鉄鋼会社のオーナーになって、
ラスキーから見ると
一瞬で40歳歳を取ってここに現れたのです。

さて、ここでオーエンス中佐の立場になって考えてみましょう。

結局歴史を変えることはできませんでした。
「歴史は不変である」というのがこの映画のテーマならば、
ここに大変な矛盾があり、結局
歴史を大きく変えられた個人、
う、オーエンス中佐がここに存在するのです。


40年前の世界で生きるのは「これから起こる歴史を知っている」
しかも歴オタだったオーエンスにはイージーモードであったことでしょう。
大会社のオーナーに成り上がることができたのも当然です。

しかし、40年後、わざわざラスキーを「ニミッツ」に乗り込ませて

一体オーエンス、いやタイドマンは何をしたかったのか?

仮に歴史を修正し自分が過去に取り残されることを回避すれば、
1980年以降のこの世界には、

オーエンス中佐とタイドマンが同時に存在する

ことになってしまうのです。

そこで考えたのですが、その理由とは、




その1 チャーリーを迎えに来るため

その2 自分をこんな目に遭わせた
イエランド艦長に復讐するため


40年もの間、ローレルは愛犬に会いたいと、
ずっとオーエンスに訴えていたに違いありません。
そして、40年もの間、オーエンスはきっと、自分を過去に置き去りにした
イエランド艦長を恨んでいたと思うのです。
ローレルには

「君に会うことができたんだから、悪いことばかりではない」

などとはとりあえず言っていたとは思いますがね。

そもそも、部下を救出することを怠り、しかも家族がいないからおk、
と言い放つような艦長を許せるはずありませんよね。ええ。

このあと、タイドマンはどうするとお思いですか?

タイドマン鉄鋼が国防省を通じて視察に行かせたラスキーに、

「イエランド艦長に空母指揮官の資格なし」と証言させ、
あとは海軍上層部に圧力をかけてクビにし、退職後も圧迫をかけて
社会的に完全に抹殺してしまうつもりです。(たぶんね)





わたしはこの映画が「パクった」と噂された元ネタの
「戦国自衛隊」を見ていないのでこちらと比べられないのですが、
20年後の「ジパング」の方が、タイムパラドックスも含め
よく出来た話だと思いました。


「ジパング」では、角松一佐が過去に残ることになった時点で
『みらい』の乗員からは彼の記憶が全く失われ、
最初から
彼はいなかったことになっていましたが、
この映画では
40年前に置いてきた人間のことを全員が記憶しているのが
アウトです。

しかもお互い顔を合わしていないだけで、何十年もの間、
オーエンス中佐とタイドマン、つまり同一人物が二人同時に
この世界に存在していたってことになるのです。

この辺の詰めの甘さを解決している「ジパング」は、
アイデアを
流用しながらもより深化させているといった感があります。
オリジナルではないが、元のものを改造してより良いものをつくってしまう、
という日本人の特性をここにも見るような気がしますね。(適当)


このようにいろいろと突っ込み出すと、あまりにも矛盾が多すぎて、
よくできた映画とは、お世辞にもいうわけにはいかないのですが、
空母「ニミッツ」と、そこで「働く海軍」の様子が活写されていて、
それだけは観る価値がある映画だといっておきましょう。


というわけで映画をまだ観てない人、ネタばらしてごめんね。
って最後になって言うのもなんですが。


終わり。


 


映画「ファイナルカウントダウン」~合戦用意

2015-02-02 | 映画

空母「ニミッツ」艦長イエランド大佐は、
ついにタイムパラドックスを起こす可能性に手を出しました。


一般人を攻撃していてもただ見ているだけだったのが、
零戦に「ニミッツ」を目撃される可能性が生まれたので
それらを撃墜する命令を出したのです。


つまりこの零戦は未来からやってきた航空機に
葬られてしまったということになるのです。


しかもよせばいいのに(笑)70年前の人間を海面から救助し、
おまけに撃墜したパイロットを捕虜にして
 彼ら三人を「ニミッツ」に連れてきてしまいます。

初っ端からバタフライ効果御免で歴史修正しまくり。
いやこれが最初から「歴史」だったのか・・・? 




捕虜にした零戦搭乗員の持ち物を点検するイエランド艦長。
彼の持っていた日記を、

「これは翻訳しろ」

と軽~く言い放って部下に渡します。
戦中の手書きの日本語を翻訳できるアメリカ人が
「ニミッツ」に乗っているとはとても思えんのだが。

ようやく艦長は今日が1941年12月6日であることを認める時が来た、
と表明します。


今こうしている間も、日本軍が真珠湾に向かっている。

それでは我々はどうするか?という問題に直面したのです。
真珠湾に向かう途中の敵を攻撃するべきか?
歴史の唯一性を重んじ、未来からの旅人として看過するのか?

そこでイエランド艦長が実に軍人らしい結論を出します。

「我々の任務は国を守ることだ。
過去、現在、未来に関係なく」

そうきたか。で、その先は?

「その先は合衆国の軍総司令官の命令に従う」

 つまり、目の前で我が国が攻撃されるのを、アメリカ軍人としては
見逃すわけにいかん、それがいつの出来事であっても、
ということですか。


歴史ヲタのオーエンス中佐は、歴史を修正するべきではない、
とたった一人真っ当な意見を述べるのですが、
航海長、サーマン中佐はもちろん、ラスキーまでもが

「”ニミッツ”のこの時代での力を試せる」

などと言い出すのでした。
そうだよね。本音は皆やってみたいよね。
アスロック米倉こと米倉一尉ならずともさ。

「そんなに・・僕たちの力が見たいのか・・・」

ってね。

「貴様、一人で戦争おっ始めるつもりか!」

って言わなきゃいけないはずの航海長だってイケイケだし。 

あ、戦争もう起こってます? それは失礼しましたー。



こちら救出されたヨットの二人。
チャップマン上院議員は至極御機嫌斜めですが、
秘書のローレルは愛犬のチャーリーと再会できてご満悦。

犬は当初救助から見捨てられそうになっていたのですが、
オーエンス中佐が着の身着のまま飛び込んで助けてやったのです。



「彼らは何者だ?
ロケット飛行機といい、我々を釣り上げたヘリといい・・。
艦の名は”ニミッツ”だって?
チェスター・ニミッツはまだ現役の大将だぞ?!」


このチャップマンというのは架空の人物です。
この物語では、


日本軍の攻撃を事前に予見しており、真珠湾攻撃の2週間前に、
太平洋戦力拡大を主張したが、
攻撃後になぜか行方不明になった
野心家の政治家で、もし生きていれば
ルーズベルトの死後大統領に立候補するはずだった



という設定です。
予見だけならルーズベルトもコーデル・ハルもしてましたがね。



こちら捕虜になった零戦搭乗員。
なぜか都合よく乗り組んでいた日系人のカジマ大尉が尋問しています。

「あなたの名前は?」「忘れた」
「軍番」「覚えていない」
「所属部隊名」「知らん」
「あなたの出発」「知らないと言ったら」

と、どちらもカタコト日本語で笑わせてくれます。
(カジマ大尉は中国系、搭乗員は韓国系)

そもそも日本軍人が自決もせずおめおめと捕虜になるか?

と前回ツッコましていただいたのですが、ニミッツの方でも
40年昔の帝国軍人を捕虜にして、これ一体、
この後どうするつもりだったんでしょうか。


処刑にでもしたらそれは起こらなかった歴史を起こすことになり、
生かしたままなら40年後に連れて帰らざるをえなくなり、
これもまた歴史を変えることになってしまうのに。




しかも捕虜なのに扱いが甘い。
手錠もかけずドアを開けっ放しにしているものだから、
犬のチャーリーがまず部屋から逃げ、
みんなが慌てたその隙に、見張りの銃を奪われてしまいました。




あーあ。だから言わんこっちゃない。



「オーマイガー」



皆が息を飲んで静止する中、またもや搭乗員のおかしな日本語が始まります。

「せきにんしゃに話したい。
かんちょ!しれいかん!連れて来いと言っているんダ!」

wikiには

かなり力んだ調子で発声しているが、セリフそのものは聞き取りやすく、
日本人が聞いても、何を言っているのかは十分に理解できる」

とかばうような書き方がされていますが、
聞き取れればいいってもんじゃないと思うのよ。




「つうやくッ!つうやくをよべ!
でんわを使っていい!つうやくをよべっ!」

「そうだ!ゆっくりあるく。
(オーエンスに)
どうでもへんにうごいたら、うつっ!」




「そうだ!でんわを使っていい。責任者をよぶんダ。」

そこで再びカジマ大尉登場。

「あなたのー、ようきゅうじょうけんはなんですかー」
「ようきゅうじょうけんは、無電送信機の単独自由操作!」

いや、意味はわかります。わかりますが。

「理由はいわん!要求条件は同じ!聞いてくれなければ・・・・」

わたしここでつい噴き出してしまいました。
「くれなければ」ってなんでそんなに弱気になってんの。

「ひとじつを・・・・ひとりずつ・・」

人質のことですねわかります。



その後いろいろあって、ローレルが単独捕虜になってしまいます。
緊張を破ってラスキーがオーエンスに

「彼に明日起こることを話してやれ」

と提案し、オーエンスは話し出します。
通訳はカジマ大尉。

「11月26日、6隻の空母がちしまれつの北東を出発した」

さすがの戦ヲタ、空母の名前を挙げるオーエンス中佐。

「アカンギ、コンガ、ショカク、ズイカク、ヒルリュウ、ソーリウ」

アカンギは赤城、コンガじゃなくて加賀ね。
そして極め付けが、

「Your cord is ”Climb mountain NITAKA”!」
「暗号は、ニイタカヤマニ ノボーレ!」

惜しい。「に」は要らんのよ。「に」は。




彼は驚き、油断した隙に機関銃で撃たれてしまいます。


しかし、何のためにこれを彼に言って聞かせんたんでしょう。
驚かしたところで結果がこうなるとは限らないのに。



驚きから覚めやらないままチャップマンは、艦長を怒鳴りつけながら
真珠湾の司令官に連絡を取らせろと居丈高に叫びます。

ところが、通信の相手は

「空母ニミッツもイエランド大佐も存在せん。
よく聞けas◯hole、軍用電波を無許可で使用すると犯罪だ」 

と無線を切ってしまいました。
態度の悪い上院議員が間抜け呼ばわりされているので
ついニヤニヤするラスキー。



さて、人質になり目の前で人が沢山死に、さらに
全く状況が理解できないのはチャップマンだけではないのですが、




こちらは全く平常運転、秘書のローレル。
着替えを持ってきたオーエンス中佐を

「一人になりたくないの」

と部屋に引き止め、
わざわざ着替えの途中で出てきて体を見せつけ、

自分と上院議員には個人的な関係はない、と弁解します。
悪いけどそれまったく説得力ありませんから。




乗員用のシャツとパンツに着替えたローレル、
前でシャツの裾を結ぶ着こなしと、男性用のはずなのに
体にぴったりとフィットしたパンツでキメています。
さすがは日本のファッションブランドにその名前を持つお洒落番長ですね。


そして自分が野心家で能力があるのでここまで来れたと
高らかに自慢するのでした。


しかしオーエンスはこういうタイプが好きらしく、

二人はこの後恋に落ちるというか落ちざるを得ない予定。

オーエンスから見ればこの女性は祖母と同じ年なんですが、それはいいのか。 



真珠湾に向かう機動部隊を偵察しているE-2ホークアイ。
ところでホークアイもコンピュータによる戦術情報処理装置を搭載していて
それを使用していると思うのですが、その辺はどうしていることにしていたのかしら。




「ほーーーーひーーーーー」

がまたもや鳴り響きました。

「総員注意!総員注意!」



艦長による演説が始まりました。

「我々が今遭遇しているのは自然現象である。
嵐にあって時間に影響を与え別の時代の入り口をくぐった。
本日は1941年12月7日である。

我々は我々が生まれる前に敗れた戦闘を行う。
神のご加護により戦況は変わるであろう。グッドラック」

いや、グッドラックじゃないでしょ。
艦長、そんな決断してしまっていいのか?
神様になって歴史を書き換えるつもりか?



しかし艦長の命令は神の命令。
「ニミッツ」は総員合戦用意を始めます。



赤い服を着た武器員が、爆装を始めました。



これはもちろん本物です。



一つの爆弾を5~6人で装填しています。



さすがに赤い「リムーブ・ビフォア・フライト」を外すシーンはありません。




さて、こちらでは何が起こっているかというと。

「我々を真珠湾に送り届けろ!」

頑強に主張するチャップマンに、艦長はあっさりと

「いいですよ」

歴史がどうなろうと(!)艦長は今から帝国海軍相手に
合戦を仕掛けようと決意したのです。

そのためにはこの際民間人は邪魔と判断したのでした。

オーエンス大佐に命じて、二人を真珠湾から離れた無人島に連れて行かせます。



「民間人の自分も真珠湾に連れて行ってくれ」

とラスキーはオーエンス中佐に頼みますが、中佐は
『実はヘリは真珠湾には行かない』
とラスキーに目で告げ、ヘリに乗り込んで言ってしまいます。


後には連れて行ってもらえなかったラスキーとチャーリーが残されました。



無人島に到着。



しかし、激怒したチャップマンは乗員の銃を奪い、
脅して真珠湾に行かせようとします。

ヘリにしがみつくも振り落とされて海に落ちるオーエンス中佐。
(があげた水しぶき)




チャップマンと乗員が空中でもみ合ううち、銃が暴発してなんとシーキングは
チャップマンと4人の乗組員を乗せたまま爆発してしまいました。

これでニミッツの乗員は40年前に戻ったため、
これでもう7人死んだことになります。
どうする艦長。




しかし、

「ヘリが消えた。捜索機を出しましょう」

という意見具申を

「Too late.」

と言下に却下し、もはや日本軍をやっつける気満々の艦長。
捜索機ではなく戦闘機の発進命令を高らかに下すのでした。

おいおいおいおいおいお(笑)

頼むから日本軍攻撃より乗組員の命を優先しようよ艦長。
いくら実戦で出撃命令をやってみたかったんだとしてもさ。




しかしエリス中尉の言葉もテンパっている艦長の耳には届きません。
航空管制室から発進の合図が出され、まずはF-14から。

そういえばオーエンス中佐はジョリーロジャースの隊長なのに、
指揮官なしで出撃させるのか艦長。




続いてA-6イントルーダーが。



ちゃんと本物のパイロットがカッコよく挨拶をして
カタパルト発信する様子が描かれます。




ジョリーロジャースの隊員も。
あの、おたくの隊長は今いったいどこに・・。



いなくなったオーエンスとシーキングの乗員のことは
とりあえずもうイエランド艦長の頭には全くなさそうです。



しかしこの映画の一番の見所は、これらの発艦シーンではないでしょうか。
次々と爆装した航空機が爆音を響かせ飛び立つ様子を見ていると、
この映画が「理由はどうでも」ニミッツが戦うということにしなければならなかった、
という制作側の事情がよくわかります。




イントルーダーがカタパルト待ちをしているところ。
この1秒後、左のトムキャットも飛び立ちます。



コルセアII発進!

・・・・さて。こちらは無人島。



自分たちを連れてきたシーキングが爆発してしまい、
呆然と途方にくれるオーエンス中佐とローレル。



携行食料の日付に「1979年」という文字を見つけ、
ようやく彼女は彼らがどこから来たか知ったのでした。


というか、知るのが遅すぎないか?

でもまあ、無人島に憎からず思っていた相手とたった二人なんて、
お互い満更でもないシチュエーションだったのではないだろうか、
と下衆顏で言ってみる。


どうなるこの二人?!


最終回に続く。



映画「ファイナルカウントダウン」~零戦vs. F-14トムキャット

2015-02-01 | 映画

映画「ファイナルカウントダウン」、2日目です。

謎の時空の歪みを突入してタイムワープしてしまった、
1980年現在の原子力空母「ニミッツ」。
艦長始め乗組員の誰もがその後起こる「不思議なこと」からある一点・・・、

「自分たちはもしかしたら異次元に迷い込んだのではないか」

という可能性を想念に置きながらもそれを認めることができません。
とりあえず全員が想像したのは、どこかの国、それはおそらく・・・
当時の可能性としてはソ連なのですが、どこかの国と戦争が始まり、
相手が「心理戦」を仕掛けてきたのではないかということでした。



そこで「ニミッツ」は総員戦闘態勢に入ります。
F-14に爆装を・・・・って、これ全部積むんですか?

それと、どうにも不思議なエレベーターだなあ。
海の上をせり上がっているように見えます。



すべての航空機が総力戦に向けて準備を始める中・・・、



その同じ太平洋上では一隻のクルーズ船がのんびりと航行しています。
乗っているのは上院議員のチャップマンとその秘書、そして友人。
クルーに操縦を任せ、どうやらバカンスを楽しんでいる模様。



この映画の紅一点、キャサリン・ロス。
キャサリン・ロスというと、今どきの女の子は
お洋服の名前だと思っているかもしれませんが、
そもそもこのアパレルメーカーの目指したイメージは彼女の出世作、
「明日に向かって撃て!」で演じたエッタ・プレイスの
ファッションから。
つまりこの時のロスは
とってもイケてたということなんですね。

今は知らん。

他には「卒業」でダスティン・ホフマンに結婚式場から拉致される役が有名です。



本作品での彼女は上院議員の秘書として、その演説やら草稿を
ゴーストライターとして全て引き受けている頭のいい、
この時代にしては野心家の女性を演じています。

愛犬のコリー、チャーリーはいつも彼女のそばにいます。
しかしなぜか落ち着きなく外に向かって走りながら吠えるチャーリー。

皆が一緒に空を見上げると空を飛来する信じられない速さの航空機2機。
そう、われらがニミッツの艦載機、トムキャットでした。

「あれが米軍機なら極秘の新型だ」



ニミッツ艦上ではヨット発見の報を受け、監視を続けさせるとともに
A-6給油機を空中空輸に向かわせました。

・・・・なんで?

よくわかりませんが、F-14の監視が長引くと思ったのでしょうか。
それとも単に映像で空中給油を見せるためのサービスシーン?



相変わらずラジオからは妙な放送が流れてきます。
「ルイス」というボクシング選手の試合実況。

「誰だ?」

ジョー・ルイスは1914年生まれのヘビー級ボクサー。
史上二人目のアフリカ系チャンピオンで、あだ名は

褐色の爆撃機(The Brown Bomber)」。
1934年から1949年まで現役で、11年間の王座在位中、
世界王座25連続防衛の世界記録を作り、この偉業は未だに破られていません。


しかし彼らは相変わらず

「軍放送の懐古番組だろう」
「海軍の秘密演習ではないでしょうか」


などと言い合っております。
国防省がラスキーを視察によこした日にこんなことが起こる、というので、

「国防省が圧力下における我々の様子を観察しているのでは」

という意見もでてきました。

まあこれなら可能性もありますかね。



しかし、偵察機が送ってきた真珠湾の写真を見て全員が絶句します。

写っている軍艦が全て旧式艦ばかり。
戦艦アリゾナが完璧な姿で写っています。


・・・・ん?

なんか海面に雷跡みたいなのが見えてるんですけど・・。
それに、なんだか大きな波紋がありませんか?

そう、これはですね。
フィルム全盛時代であまり観客が細部を見られず、
もとよりPhotoshopなどの写真加工技術もない頃の映画ゆえ、

ばれないだろうと思って、スタッフが

真珠湾攻撃のときの航空写真をそのまま流用

しているんですね。
これはウェストバージニアに実際に雷撃が命中した時に撮ったもので、

魚雷が立てた水柱もはっきり写っている写真です。
だから「完全な姿」のアリゾナもこの少し後には沈没する運命なのです。


しかし、ツメが甘いというのか、この後戦史ヲタのオーエンス中佐に持って来させた
スミソニアンの「真珠湾攻撃の写真」と
この偵察機が撮った写真が、
全く同じ写真。
角度も波紋もまるで一緒。んなあほな(笑)



乗員の間でもパニックは広がりつつありました。
皆が戦争に突入したと感じています。



ラスキーの乗艦とこの現象の間に何らかの関係があるとみて彼を問い詰める艦長。

・・・まあ、それはある意味正しいんですが。



これこそがある意味タイムパラドックスそのものです。

ネタバレごめんで言ってしまうと、ラスキーは、謎の人物タイドマンに
「ニミッツ」乗艦を命じられて、今ここにいるわけです。

それではタイドマンは彼になぜそれを命じたか。
「歴史では」タイドマンが彼を乗せた日、「ニミッツ」は
1941年12月6日にタイムワープすることになっているからです。

言い方を変えると、タイドマンは39年前、
ラスキーが「ニミッツ」に乗っていたことを記憶していたからこそ、
1980年のこんにち、全く同じ現象を起こす必要があったわけです。

しかし、それではいったい原初、ラスキーは

何のために「ニミッツ」に乗らなくてはいけなかったのか。

その継ぎ目のないメビウスの輪のような流れの中からは

「ラスキーがニミッツに乗らなければならない理由」

はすでに消滅してしまっているのです。
わたしはこういうのに
なんとも言えない恐怖を覚えるのですが、
この感覚をどなたか
理解し共有してくださる方はおられませんでしょうか。




ここでサービスシーン。

A-6から先がバドミントンのシャトルのような形をした
給油用のコードがスルスルと伸びてきて、F-14に近づいてきます。
右に出ているF-14のノズルをすっぽりくわえ込み、
空中給油を行う様子を見せてくれるわけ。



「給油が済んだらガラスを拭いてくれ」

もう100回は繰り返して誰も言わなくなったに違いない軽口をあえて叩いてみせています。
これもサービスシーンならでは。



給油終了。



「ニミッツ」に国籍不明機確認の連絡が入ります。



「アラート1 イーグルだ」



「Two Japanese Zero, sir.」
Two, WHAT?!
「Mitsubishi, A 6M ZERO.」

いやいや、その判断は違ってますぜ旦那。
このかっこ悪い水平尾翼は紛れもなくおたくのA-6ではないですかやだなあ。
翼の形も全然違うしー。

というわけで、またまた零戦のふりをした敵さん、
じゃなくてテキサンだったんですね。
なんどもこのテキサン、国内外の戦争映画で零戦を「演じて」いるわけですが、
言うほどこれ似てるかなあ?




「上方から監視を続けろ。攻撃はするな」


 
「何者かが我々を1941年に引き戻そうとしている」
「ソ連だ」
「心霊現象かも」

「いや、可能性を否定するのはやめましょう。
これは現実かもしれないという」

 

ところで上院議員のヨットに危機が迫っていました。



真珠湾攻撃の偵察に零戦でやってきた(ここは笑いどころ?)
かれらは、目撃者
を抹殺するつもりです。

真珠湾攻撃の際、第一波空中攻撃隊は艦戦43機、艦爆51機、
艦攻89機、計183機が一気に空母から発進して現地に向かいました。
その前日に日の丸をつけた戦闘機がうろうろしていれば、
民間軍関係なく目撃されて当たり前だし、
それではまず奇襲にならないと思うのはわたしだけ?


しかも一般人の目撃者を攻撃・・・。
マイケル・ベイの抱腹絶倒映画「パールハーバー」では、
やたら日本軍が一般人を殺戮したというイメージを植え付けようと
色々とやらかしてくれていましたが、ここでもそれをやっとるわけです。



「やっつけろ」

ってか?
それはいいんだけど、コクピットの下に書いてあるカタカナがどうしても読めない。
というか意味がわからない。


「大て左ノ ヂヤツク ホルデン」

・・・・何かの暗号?
もしかしたら後半は「ジャック・ホールデン」?
すごく無理があるけど、もしかしたらアメリカ航空隊のノリで
「大好きなジャックホールデン」とパイロットが零戦に書いたとか?

・・・ジャックホールデンって誰。


前にもお話しした「パールハーバー」なんかは「ねーよw」の宝庫で、
やはり映画製作に日本人の関与がなかったことがはっきりしてますが、
こういう人を小馬鹿にしたようないい加減さってなんなんだろう。

だいたい日本人くらい日系人に演じさせろよっていうね。



それはどうでもよろしい。よくないけど。

まず一航過して銃撃で一人殺した零戦、



こんどは60キロ爆弾でヨットを全力爆破
いったい民間船相手に何やってんだよ(笑)

まるで中国の山村の民間を全兵力を駆使して攻撃し、銃弾を使いまくって
民間人を殺戮する、映画「戦争と人間」の中の帝国陸軍みたいだわー。
(説明っぽいな)



ヨットが襲われた時から、上空のF-14は艦長に対し発砲許可を求めていましたが、
イエランド大佐は頑として許可を出しません。

もしこれが歴史通りなら、後世の人間が零戦を攻撃することによって
「バタフライ効果」が起こる恐れがあるから。

だと思いたいのですが、
このおっさんがそんな深謀遠慮をするようなタマではないことが
見ていればすぐにわかります(笑)




ところが零戦が目撃者を残さず殺すため、またもや帰ってきて銃撃を加え、



それで海に潜れない一人が殺されてしまいました。
しかし艦長はトムキャットのドライバーに、
とにかく零戦を「追い払うように」命令します。



ここのドッグファイトシーンが映画の中でも特に見もの。
でも、なんかわたしは嫌な感じでしたね。



大東亜戦争中には陳腐化し、いずれ王座を明け渡す運命とはいえ、
零式艦上戦闘機は開戦からしばらくは無敵だったわけです。

ところがこの映画ではその零戦の前に40年後の「未来の戦闘機」が現れ、
その機能を相手に見せびらかすのです。



因みにF-14のスペック
は速度マッハ2.34零戦は533.4km/h。
速度を表す単位すら違うっつの(笑) 



このアイデアをパクった疑惑のある「ジパング」でも、
護衛艦「みらい」がアメリカ海軍相手にVLSを撃って
旧式戦艦の乗員を驚かせていますが、
やっているのが日本側だから面白かったのだと、
ここで逆をやられて初めて知りました。



びびりまくる零戦搭乗員。
アメリカ人は、さぞこの映画公開時ここでスカッとしたんでしょう。
このときF-14を操縦していたドライバーもきっと(笑)



零戦の周りを旋回するだけでビビらせていたF-14にいきなり発砲を許可する艦長。
その理由は?

零戦が「ニミッツ」の方角に向かったからでした。

タイムパラドックスの観点から人命は見逃せても、
40年前の人間に「ニミッツ」を見られたら・・。

「Splush the zero. I say again, splush the zero!」



いやっほーい!撃墜していいんすかー!

って感じでF-14はあっという間に零戦を撃墜してしまいます。



瞬時にして一人戦死。
もう一機もミサイルであっさり撃墜。



F-14にすれば零戦を撃墜することなど、弱ってじっとしているハエを叩くよりも
簡単なことだったに違いありません。


 

その後人員救出するため、あっという間にシーキング現場到着。
ダイバーが海中に飛び込むところ。
これは本物のクルーだと思われます。



まずヨットの生存者2名プラス1匹。



すっかりソルティドッグ(潮水漬け犬)状態のチャーリー。



破壊された零戦の翼につかまる搭乗員。
彼もヘリに救出されニミッツに連れていかれるわけですが・・。

ここでアメリカ人は大きな勘違いをしております。
もしこんな状態、しかもそれが大作戦の偵察途中ならば、
日本軍のパイロットがおめおめと捕虜になどなるでしょうか。

陸軍の東条英機大将からのお達しとはいえ、日本軍には

「生きて虜囚の辱めを受けず」

という言葉が生きていて、戦闘機搭乗員が携帯していたピストルは
これ即ち敵の手に落ちる前に自決するためのものだったわけで。

わざわざ韓国系に日本人を演じさせることと言いこれと言い、
やっぱりアメリカ人って日本人のことを何も知らんのだなあ、
とこういうところでも嘆息させられます。

 

40年前の人間を乗せたヘリが着艦しました。
早速ヘリのホイールに車止めを置きに来るスタッフ。



搭乗員が海上から拾い上げられて一体何時間経っているのでしょうか。
海面からニミッツまでシーキングで運ばれている間に
分厚い飛行服もライフジャケットも、すっかり乾いています。

それから普通捕虜を護送するときには手ぐらい縛りませんかね。



ヘリから降りてきた零戦搭乗員。



不思議そうに乗ってきたヘリを眺め、首を巡らせてコルセアを凝視したりしています。
まあ、彼にとっては宇宙船を見るような気持ちでしょうな。
しかもその機体には、よく知ったアメリカ軍の星のマークが、
これは全く変わらないままでつけられているのですから。

「俺を撃墜した戦闘機といい、艦上の飛行機といい・・・・解せぬ」

さあ、どうなる零戦搭乗員。


続く。