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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

栄光マラソン部隊~”北本隊長の苦悩”

2015-04-11 | 陸軍

陸軍第51連隊のニューギニア、サラワケット山登頂作戦において
途中でどれだけの死者がでたかという図が本に掲載されていました。

 

出発地点のラエですでに100人死んでいますが、これは、ラエの
野戦病院での死者であろうと思われます。

健兵でさえ危ぶまれる山越えには連れて行けない、寝たきりの患者が
出発前には500名もいて、搬送が危ぶまれていたのですが、

「どのみち死ぬのなら他人に迷惑をかけぬ」

と覚悟の自殺を遂げた人が何人もいたのです。
工作隊を率いる戦闘の北本中尉にはどうすることもできないながら、そのことを
気にかけていたところ、寺村貞一大尉率いる船舶工兵部隊が名乗り出ました。
ダイハツ3隻に患者を積み、敵艦船群の後方を回って脱出する決死行です。

転進の際飢えに苦しんで戦友を食べるという鬼畜の行為があれば、
自分の命を敢えて危険にさらしても一人でも多くの人間を救おうとする、
このような崇高な行為もまた生まれるのが、戦場というものなのです。 

このとき、サラモアで戦闘していてダイハツから置き去りにされた13名の将兵がいました。
彼らは着るものもなく、褌一つで何日も待ちましたが、自分たちが置き去りにされたと知った時、
絶望して軍をうらみ、舌を噛み切って死のうとしました。
しかし生への執着は彼らの意に反してどうしてもそれをすることができません。
諦めて歩いていると、一人の兵に会いました。
しばらく一緒に行動していたのですが、高崎工業出だというその兵は

「あなたたちと一緒にいたらこちらまで死んでしまう。
私はまだ日本に帰ってたくさんやりたいことがあるので別れさせてもらいます」

と言って彼らの元から去っていってしまいました。

この言葉を聞いた途端、13人の間に俄然生きようという気持ちが高まり、

自暴自棄だった態度を捨てて全力を振り絞った結果、遂には本隊に追いつくことができました。

「あの兵隊に会っていなかったら、われわれは死んでいたかもしれません」

このときの13名は全員戦後まで生き延び、祖国の土を踏むことができたのでした。



北本工作隊は行軍のための先導を任され、これによって多くの日本将兵が救われましたが、

その作戦の過程で、何度となく敵と交戦しています。

第一次偵察で最初にサラワケット山を「マラソン部隊」で越え、
ラエに到着してからの偵察任務において、豪州兵6人があるにいるという情報を得ました。
豪州兵は飛行場整備に必要な労働力を調達するために来ていたのですが、
そのの酋長に偵察のラボをやったところ、

「物を略奪したり民を無理やり引っ張っていくので皆怒っている」

さらに酋長は、あいつらを殺してくれとまで日本軍に頼みました。
同じ協力を募るのにもあくまでも説得し、彼ら自身の判断に委ねた日本軍と、
彼ら原住民を徹頭徹尾人間扱いすることがなかった豪州軍との差がここで出たのです。

北本隊長は攻撃にあたり、まずラボを斥候に行かせて住民を退避させました。
交戦の巻き添えにすることを避けるためです。
そうしておいて、駐留している小屋を三方からじりじりと囲んでいきます。
午前2時。
夜遅くまでウィスキーを飲んで騒いでいた彼らはぐっすりと寝込んでいました。
威嚇射撃の号令を時間ぴったりに出し軽機が火を噴くと、中からわめき声が聞こえました。

「ホールドアップ、ゲラウト!」

生け捕りにして捕虜にするつもりだったので降伏を呼びかけたのですが、
敵は自動小銃で応戦してきました。
放っておくと味方に死傷者が出るので、北本隊長は遂に三方からの攻撃を命じ、
撃ち合いはわずか20分で終了しました。
小屋の中にはオーストラリア兵一人と、残りは全員土民の憲兵の6名の屍体がありました。




相手が交戦に出たわけが飲み込めた。

征服者というものは敵への恐怖におののきながらも、
絶えず強がりを言い、虚勢を張っていなければならない。
この豪州兵も、土人たちの手前、手をあげることができなかったのだろう。
青ざめた屍体の顔に、苦悶の心中が覗いていて、あわれでならなかった。

彼らにも妻があり子供がいるだろうと思うと、罪悪感にこころが痛む。
わたしは兵隊に穴を掘らせ六人の死体を埋葬した。

「戦争なんだ。許してくれよ」

土に埋まっていく射殺屍体の側で手を合わせて冥福を祈っていると、
ラボが訝しそうにたずねた。

「キャプテン。なんでこんな悪い奴に手を合わせて拝むのだ。
こいつらは悪魔だよ」

返答に窮した。
自分で殺しておいてあとで拝むくらいなら、はじめから殺さなければ良いのだ。
わたしは苦し紛れに

「神様はな・・・・」

といってグッと考え、口から出まかせにその場を繕った。

「神様は罪を憎んでも人を憎まないのだ。
彼らには悪魔が乗り移っただけで、死んでしまうと我々と同じただの人間なのだ」




ラエで形ばかりの正月を迎えた日、北本正路中尉は第51師団司令部付から

もう一段上の軍参謀部付に命ぜられました。
そしてさらに迫り来る敵から逃れて、51師団、そして転進の経験のない
第21師団と共にキャリからマダンまで転進することが決まります。
 
このとき中野学校卒の本職の特殊将校が指揮する謀略隊も加わったのですが、 
その理由というのが「今度は北本隊だけでは心細い」というものだったせいで(笑)
北本中尉は彼らにたぎるような敵愾心を覚えます。 

こんなところで、という気もしますが、どんな状況でも人間というものは
プライドと競争心などという俗世間の煩悩を捨てきれないようです。

「くそッ、いくら相手が中野学校出だからといって負けてたまるか。
ニューギニアではオレの方が先輩なんだ。
こちらにはラボという百万の味方に匹敵する部下がいる。」

まるで箱根駅伝のアンカーを務めた時のような激しいファイトを燃やし、
北本中尉は独りごちました。

「必ず、勝ってみせる」

 

今度の転進はサラワケット以上にそそり立った断崖絶壁で、
ツタを命綱にロッククライミングで登ったと思ったら、
次には渓流の鉄砲水で水にさらわれ溺死する兵が相次ぎました。

しかし、一ヶ月かけてマダンに到着した後、今回も北本隊はこの道を取って返し、

単独では降りられなくなって山中に残されていた「遅留兵」を回収に行きました。
食料と医薬品を担いで山中に戻り、さらに一ヶ月をかけて捜索したのです。

鉄砲水に恐れおののきながらただ死の訪れるのを待っていた遅留兵たちは、

「仏の北本隊が来た」と手を合わせて彼らを拝みました。
この捜索によって700名が捨てるはずの命を救われました。

しかし、北本隊長にとって、生涯の痛恨事となる出来事も起こります。
最初の「北本マラソン部隊」のメンバーだった杉本衛生兵は、
この転進で遅留兵となってしまい、捜索に来た北本中尉に発見された時にはすでに
ボーイング(死臭を嗅いで飛来するハエ)に集られている状態でした。

「隊長殿、私はもうダメです。
まだ元気のありそうな兵を助けてやってください」

「バカ言え、貴様と俺は苦労を分かち合った仲じゃないか。
元気を出せ。俺の肩に掴まれ。マダンまで行こう、皆待ってるぞ」

薬を飲ませ担ぎ起こした杉本衛生兵の目には涙が光っていました。

「バカだなあ貴様は・・・しっかりせんか。もう安心だぞ」

「すまんです」

そのとき北本中尉は急に小用を催しました。
杉本衛生兵に待つように言いのこし岩陰で用を足していると、

「パーン」

小銃の音がしました。

「しまった」

駆け戻るとそこには息の絶えた杉本衛生兵の骸が、小銃を手にして横たわっていました。
すでに冷たくなった顔に頬ずりしながら、北本隊長はさめざめと泣きました。

 
そして4月。
師団はさらに第三の転進を迫られます。
このときの日本軍の転進を日本国内で例えるなら、

『東京から京都、大阪方面に戦闘に出かけ、敗退、歩行にて帰り、
東京も危ないので仙台から盛岡まで歩いて移動するようなもの』

だったことになります。
今回の転進も300キロの距離になんなんとしていました。
しかもその道は行けども行けども乾いた土がなく野営すらできない湿地帯。
 
そんな中でも北本隊は物質の調達をし、情報の収集、橋作り、落伍者の収容という
余分な仕事まで手掛けて八面六臂の活躍でした。

北本隊なくしてこの作戦の成功はあり得ませんでしたが、
結果的に常識では不可能とされた行軍が成功したのは、なんといっても
何度も難関の険を越えてきたと言う自信が、将兵たちに希望を与えていたからだと北本氏は言います。


そして次の転進先では中野学校出の特殊将校を差し置いて、偵察・斥候の白羽の矢が立ち、
その下命に、

「男子の本懐これにすぐるものなし」

と欣喜雀躍とするのでした。
きっとこのときは中野学校卒に勝った!と思ったに違いありません。



しかし、そんな北本隊長も、このとき日本が急激に敗戦に向かって
歩みを進めていっているとは、夢にも思っていなかったのです。


最終回に続く。





栄光マラソン部隊~「北本工作隊かく翔けり」

2015-04-10 | 陸軍

海軍第12防空隊のことを調べた時に知った、「魔のサラワケット越え」。

(前回までのあらすじ)
ニューギニアの高度4000m級の高山を一個師団がこっそり踏破するなどという、
この世で帝国日本軍以外どこの軍隊が考え出すだろうかという無謀な作戦は、
ひとえにオリンピック選手であり、箱根駅伝で母校を優勝に導いた、
驚異的な健脚の持ち主、北本正路少尉の存在あってこそのものであった。

というわけで今日はこの時部隊を率いてサラワケット越えを果たした
「北本工作隊」隊長、北本正路大尉とその偉業についてお話しします。
北本大尉は予備役少尉で開戦を迎えたのですが、戦地で一階級ずつ二回、
2年以内に立て続けに昇進しており、その活躍がいかに評価されたかということでもあります。



昭和45年に出版された彼の追想録の前書きには

わたしは北本君に救われた」「自衛隊幹部諸君は是非一読を」

などという題で現地にいた元陸軍中将、陸軍大佐らが推薦文を寄せています。
それぞれがニューギニアでの苦難とサラワケット越えを成功させたのは
北本少尉の驚異的な脚と勇気、知力の賜物であると激賞しているのです。


北本正路は1909(明治4)年、和歌山県伊都郡に生まれ、幼い頃から
走るのが大好きな父の影響で中学時代から長距離選手として名を馳せました。
慶応大学に進学してからは、1500、2000、3000、5000、1万メートルの5種目で
日本記録を作り、ロスアンゼルスオリンピックにも出場したアスリートでした。

写真は慶応大学在学中の昭和6年の関東学生駅伝で慶応のアンカーを務める北本選手。

このときトップの日大、15分後に来た2位の早大、さらに20分遅れて3位で
タスキを受け取った北本選手は、28キロの区間で両者を捉えるという驚異的な走りで、
この年慶応に優勝旗をもたらしました。

今でも箱根駅伝のホームページを検索すると北本の名前が出てきます。




1932年、西竹一(馬術)、鶴田義行(水泳)、南部忠平(三段跳び)らが
金メダルを取ったロスアンゼルスオリンピックに5000、1万mで出場した北本。(左)

国内では人の背中を見ながら走ることのなかった北本にとって世界の壁は厚く、
「相手が強すぎ」、その夜はホテルのベッドで惨敗に男泣きしたそうです。

前にかがんでいるのは棒高跳びで金メダルを取った西田修平です。


この日から11年後、34歳の北本正路は予備役将校となってニューブリテンのツルブ島にいました。


今やニューギニアでは制空権も制海権も奪われ、敵の空襲に毎日が防空壕通いという状態。

この戦況を打開するために、偵察隊をニューギニアに送ることになったとき、
北本少尉は自慢の脚をを生かして工作隊を率いる隊長に自ら名乗りを上げ、
ここに「栄光マラソン部隊」が生まれることとなったのです。

連隊長がその申し出を受け、決死行が決まるや否や、北本少尉は工作隊を編成しました。

健脚であること
配偶者や子供など扶養家族の少ない者

この条件で軍医と看護兵を含む50人が選ばれ、彼らは「北本工作隊」として
深夜、三隻のダイハツに乗ってニューギニアに到着します。

ここで北本隊長は原住民(北本言う所の”土人”)を味方に引き入れます。
「ラボ」という名の30歳くらいのカナカ族の酋長で、英語がしゃべれました。
北本少尉は「神様の印」といって日の丸を見せ、「俺は日本で一番足が速い」と豪語して
彼らの心をつかみ、案内を供出するなどの協力を得ることに成功しました。

以降、彼らは日本軍を”日出ずる国の神の使者”と信じ、小屋の入り口に立ててある
日章旗の前にやってきては、朝晩、手を合わせておがむようになったそうです。
日本軍の飛行機が上空に認められたりすると、彼らは大喜びで空を仰いで手を合わせました。



◯印で囲んであるのが北本隊長、矢印がラボ。
団体写真でも北本少尉の後ろに寄り添うように立っています。
北本とその右腕となったラボの間には強い絆が生まれました。
彼の献身的な働きなくしてこの大作戦の成功はありえなかった、と北本は書いています。

ラボはまず現地のドイツ人神父の宅に一行を案内し、神父は食べ物や簡易テント、
サワラケット越えに必要な登山用具などを彼らに供出してくれました。

そして、ごとにポーターがリレー式で代わる代わる荷物を運び、
次のまで案内をしてくれるという方法で進んでいきます。

切り立った岩かべ、ジャングル、道無き道。
大工出身の隊員によって作られた縄ばしごをかけ、
野営のためハンモックを作ったりしながら、工作隊は進んでいきました。

いよいよサラワケット山に立ち向かうというとき、登頂のために必要な
現地のポーターを出してもらうのに役立ったのはまたしても日の丸でした。
白地に赤が染められた布が彼らには珍しかったという説もありますが(笑)
それを見せて「神の使い」の口上を述べると、なぜか土民は言うことを聞いてくれるのです。

こうして50名の現地人ポーターを得た北本工作隊50名は、
雪を頂く海抜4500メートルのサラワケット山越えに挑んでいきました。



以前も見ていただいたサラワケット越えのルート。

後に北本工作隊に率いられたラエの部隊がサラワケット越えをした時のもので、
このときの工作隊は矢印を逆行して進んだことになります。

一行は荷物を背負ったままコケで滑る足元を一歩一歩慎重に、
雨に打たれ寒さに震えながら延々と続く斜面を登っていきました。
さしもの健脚部隊にも過酷な道でしたが、かといって弱みを見せれば
「神の使者」の化けの皮が剥がれ、 ポーターたちに逃げられてしまうので、辛い様子は出せません。
隊員たちは軍歌を歌い、励ましあいながら進んでいきました。

そして、ついに山頂へー。


頂上は一面白銀の世界でしたが、辛さや今までの苦労は吹き飛び、
ただ征服者の歓喜だけが熱い涙とともにこみ上げてきます。

「バンザーイ」「バンザーイ」

たすきがけにしてきた日の丸を一番高いところに立て、
隊員たちはそれを囲んで泣きじゃくりました。
土人たちも踊りで歓喜を表しています。
通信兵は目を真っ赤に泣きはらしながら本隊に成功を打電しました。


その後斜面を降りていくと、人食い土人のを通過しました。

怖がってストライキを起こすポーターたちをおだてたりなだめたりして連れてくると、
山間部族のせいか小柄で大人しそうなので案ずるより産むが易しでしたが、
北本隊長といつも行動を共にしているラボは、


初めて人種の違うに来て心細そうにしている。
わたしが兵隊を集めて作戦会議を始めると、「日の丸」の旗のそばに寄って、
小声で歌い始めた。
「白地に赤く、日の丸染めて・・・」

すっかり日本語も上手くなった。

ラボにとって”日の丸の歌”は賛美歌であり、念仏なのだ。
作戦会議の邪魔にならないように、小声で歌っているのがいじらしかった。

わたしに会いさえしなければ、いまごろ酋長であぐらをかいて居れたものを

・・・・と思うとふびんでならない。

「ラボ、こっちへおいで、お前も兵隊と同じなのだから話を聞きなさい」

わたしは、この瞬間からラボを兵卒と同等の扱いにしようと決心した。
ラボは嬉しそうに寄ってきた。


のちに北本少尉がマラリアにかかった時、ラボはベッドの縁にしがみついて
心配そうに顔を覗き込み、徹夜で看病をし、偵察行の際は背中に背負って歩きました。



その後、無事にラエに到着した北本工作隊は、新聞記者のインタビューを受け、
「登山家でもない兵隊ばかり50人で4500メートル登頂成功」という記事が書かれたため、
この快挙は山岳史上にも類を見ないものとして有名になりました。
 
功績を挙げた北本隊はその後偵察に頻繁に出されることになりますが、
ある日捕虜にした米兵から、ラエを総攻撃するという敵の情報を手に入れます。

三方を敵に包囲された第51師団は、ここにきて完全に孤立してしまいました。
疲弊した1万たらずの将兵を近代装備の3万の敵にぶつけても結果はわかりきっています。
そこで撤退が決定されました。
あの、大東亜戦史に悪夢として刻まれた”サラワケット死の大転進”が。
今や8650名の将兵が生きるも死ぬも、一人の予備役少尉の働きにかかっていました。


転進はまず海軍、次いで陸軍の順序でラエを撤退しました。

もちろん船頭に立つのは北本工作隊です。

しかし、健脚の精鋭部隊とは違って、1日の行軍予定は予定の半分の10キロが精一杯。
先頭が2、3時間でいく道のりを、渋滞もあって最後尾の陸軍は1日がかりでやっと進む有様です。
ラエに駐屯して自給自足していた海軍と、サラモアで戦闘に明け暮れていた陸軍とでは
疲労の度合いも歩幅も違い、その差は開く一方でした。



先導隊が道路標示や補修工事を行った後を、8650人が一本の線となって続きます。

まだ標高500m、六甲山くらいの高さにすぎないのに、落伍者や死亡者が200名出ました。

重さに耐えかねて皆が道中捨てていく銃を拾うのは、
山岳での動きに慣れた高砂義勇兵(台湾の高砂族)の役目でした。

拾った銃の遊底に刻まれた菊の御紋を削り落として、また捨て、一行は進みます。

手が届きそうな眼前の岩に丸一日費やしてたどり着く。
屍を積み重ねて踏み台にし、苔むした岩肌にしがみついてよじ登っていく。
軍靴に踏みつけられた戦友の屍体は口から鮮血を流しながら白い目を剥いている・・。

 そして携行食料も尽きた一行は、木の根、葉、昆虫を貪り食うようになり、
ついには土人での略奪や、ついには食人の禁忌も侵す者も現れました。


サラワケットの頂上を目前にして、わたしは異様な光景を目撃した。

岩陰に倒れている息も絶え絶えの一人の兵隊を三人の兵隊が囲み、
ゴボウ帯剣を抜くなり心臓をブスッとやった。
三人はこときれた兵隊の太ももを切り裂くと、脇目もふらずに口へ頬張った。

わたしは愕然とした。吐き気がした。
世界の帝国陸軍が戦友を殺してその肉を喰らう__信じられないことだった。

「貴様それでも日本人か。帝国陸軍の軍人か」

後ろを振り返った三人の顔には”ボーイング”といって、死臭を嗅いで飛来するハエが群がっていた。
彼らにはそのハエを追う元気すら失われていた。飢えと疲労で発狂したのだ。


しかしその後、食人を犯した兵たちは、ヤシの木の根元で昼寝していた時
突然倒れてきた木の幹の下敷きになって、三人枕を並べて死んでいました。

「このソルジャー、ダメね。友達の肉を食べた。神様が罰を与えたね。」

ラボはペッと唾を吐いて顔を背けた。彼も知っていたのだ。
わたしは背筋に冷たいものを覚えた。


 その後、51師団は全軍でサラワケット越えを果たし、目的地のキャリに到着しました。
しかし工作隊は休む間も無く、その後もう一度サラワケットの頂上近くまで引き返し、
戦死者の埋葬、遺棄兵器の焼却を済ませ、まだ生きているものは土人たちに担送させて、
後尾から落伍者を収容しつつ山を下っていったのです。

工作隊が目的地に到着したのが10月5日。
最後の一兵が担架で担がれて野戦病院に到着し、
全軍のサラワケット越えを完了したのは40日後の11月15日。

ラエを出発してからなんと2ヶ月が経っていました。

51師団8,650名の将兵のうち、2,200人がサラワケットを越えられず死にました。
残る6,450名も、栄養失調とマラリアで幽鬼のようになって到着したのです。

北本少尉はその功績にたいし中尉への特進が任ぜられました。


しかし戦況はやっとのことでサラワケットを越えた第51師団に、
わずかの休息も許さなかったのです。
 爆撃は日増しに激しくなり、偵察機の飛来が敵の上陸を表していました。
そしてまた果てしなき転進が始まったのでした。

 

明日に続く。 


京都・雨の花見旅~「諸子」の味

2015-04-09 | お出かけ

 



日本人はソメイヨシノが好きですが、他の種類の桜も今満開で
存分に美しい開花を楽しむことができました。
将軍塚の周りに紅白に並んでいた愛らしい桜。




桜の種類は300以上あるそうで、だとしたらこれがなんという桜なのか
特定するのはとてもではないけど無理でしょう。



この薄紅色の桜も先ほどのとは違う花弁の形をしています。



これはソメイヨシノ。



雨の雫が今落ちんとするところを捉えてみました。
ちょっとこの時だけはニコンの写真教室を思い出しました(笑)




将軍塚を見下ろすために鉄の物見櫓のようなものができていて、
そこから下を眺めたらこんな景色が眼下に広がっています。



菊地さんという方の手植えの松。(の碑)



有名どころとしては、大隈重信の松というのもあります。
ただ、「後継の松」となっているところを見ると元木ではなく、
接木をして増やした子供の松のようです。

明治年間に一度青蓮院は火事に遭っていますので、もしかしたら
そのときに大隈の松は被害に遭ったのかもしれません。



最初の手植え松のためにはこんな巨大な石碑が建てられたようです。



ここにある桜は年季の入ったものが多いようで、幹にはこのような
苔が寄生しているものがありました。



ちょっとこういうの、キモいと思ってしまうわたしがいる・・。



年代物ですでに姿形も風化してしまった石仏たちがまとめられていました。
もしかしたら寺創建の頃から800年間ここにおられる仏かもしれません。



椿もわずかですが赤い花を咲かせていました。



タクシーを駐車場に待たせておいたので、それに再び乗ってお昼ご飯をいただく
和久傳まで移動。
途中でこんな油そばの店を見つけました。(油そばってなんだろう)
そういえば高校の古文の教科書に自分の犬が戯れて飛びついたのを
尻尾の裂けた「猫又」だと思い込んで

「猫又よや、よや」

と叫んだ坊さんの話を思い出さずにいられませんでした。
学校で習ったことってほとんどが記憶の彼方ですが、こういう話は忘れないんですよね。




たくさんのお茶屋や料理屋が軒を連ねる路地の一角にあるお店に到着。



個室の中はカウンターがあり、掘りごたつのように座る座敷となっています。
はあ、これは楽~。(正座は苦手です)

カウンターの中で板前さんがマンツーマンでお料理を作ってくれるのです。



座敷の横は土間のようになったスペースで、そこのタイルはまるで
打ち水をしたばかりのように見える不思議な素材でした。



まず食前酒。竹の徳利?とお猪口がでてきます。



和食ですから、前菜とかではなく次々とメイン的なお皿が出てきます。
これはゼンマイの添えられた鰆の刺身(だったかな)。



イイダコの唐揚げ。
タコ嫌いの息子もとりあえず頭の部分だけ食べました。



ジュンサイに木の芽の入った筍のお汁。



焼き物を焼く前に見せに来ました。
右側の魚はモロコといい、琵琶湖で今の季節だけ獲れるものだそうです。

「ブラックバスに駆逐されずに済んだんですか」

と聞いてみたところ、やはり一度はブラックバスのせいで絶滅しかかったのを
なんとか保護し、ブラックバスを「バス釣り」として奨励することで
また獲れるレベルまで回復したのだとか。

真ん中の魚はまるでガラスのような透明な鱗が立っていて、
すこしぞわっとする感覚がありますが、この鱗が美味しいのだそうです。



うにと海老の和え物が出てきたとき、女将さんがご挨拶に来られました。
「奥様」と書かれた封筒に入れたポチ袋のセットをプレゼントしていただきました。
これが本場京都の「お・も・て・な・し」の心というものでせうか。



囲炉裏のようなところに備長炭を入れ、焼き物の始まり~。



包丁さばきも鮮やかに切っているのはミルガイ。



パラリと塩を振っただけのミルガイと筍は絶品でした。



モロコが焼かれ中。

「モロコってどう書くんですか」
「ごんべんに者と子供の子です」
「諸子、か~」


日本海大戦決戦前の三笠で伊地知大佐が12インチ砲塔の中段から、

「本官は最後の訓示をする。
諸子もすでに承知の通り、今から一、二時間の後には待ちわびた敵
バルチック艦隊といよいよ雌雄を決戦とするのである・・・」

と訓示したという話をなぜかこのとき思い出してしまいました。
(今”諸子””伊地知”で検索したら自分のブログが出てきた(´・ω・`))

伊地知艦長は癖であった右指一本で小鼻を撫でる動作の合間ににじむ涙を拭きつつ、

このように続けたそうです。

諸子の命は本日ただいま、本官が貰い受けたから承知ありたい。
本官もまた、諸子と命をともにすることはもちろんである。
いまからはるかに聖寿の無窮を祈り、あわせて帝国の隆盛と
戦いの首途(かどで)を祝福するため、諸子とともに万歳を三唱したい」


というわけで諸子が焼かれ中。
諸子は思ったより淡白で、鱧のような歯触りでした。




鱗焼きされた木の芽あえの白身魚(名前忘れたorz)
脂が乗っていて大変美味でした。

「アメリカ人をこういうところに連れてくると、全部食べ終わってから
大変結構な前菜だったがそろそろステーキか?って聞くらしいよ」

「あの人たちは肉食べないと気が済まないからねえ。
知ってる?ジョージワシントンでは毎日牛3頭食べるんだって」

とか言っていたら、肉が出てきました。
なんと付け合せは土筆と野草です。

「土筆!なんか久しぶりに見た気がする」
「わたし小さい時に学校の帰りに摘んで夜煮付けにしてもらったなあ」
「今土筆の生えた空き地なんてないよねえ」

などと思い出話に花を咲かせながら調理を見ていると、



葉っぱと生の肉の上に熱い出汁を注ぎ入れ、その熱で調理終了。
少し赤みの残った肉は柔らかくジューシーでした。

というところでメインは終わり、いわゆる「お食事」、ご飯です。
土鍋で炊いた美味しそうな白いご飯を、そのままで一口、お茶漬けで一口ずついただきました。



デザートはレモンのゼリーとこのちまき?



と思ったら中は生姜を葛で固めたものでした。
さっぱりして大変美味しかったです。



お薄でお食事はおしまい。



ところで、まるで居酒屋のように騒ぎながら飲食しているかと思ったら、
廊下で携帯を大きな声でかけたりしていた関東から来たらしい一行が、
帰る時になって、預けていたコートを持ってくるのが遅いのが逆鱗に触れたらしく、

「この店最低ね!」

などと大声で叫びまくっているのが車を待っている間聞こえて、わたしたちは顔を見合わせました。
どうしてわざわざ京都のこんなところまで来て、イライラせかせかするのか。
第一、楽しみに来ていて自らそれをぶち壊すなんて損以外の何物でもない気がするのですが。



車を呼んでもらって再び桜のきれいなところを選んで走ってもらいます。



運転手さんの説明によれば、鴨川沿いの桜は上流に行くほど樹齢も高く、
この辺のもので150年は経っているとのことでした。
ソメイヨシノの平均寿命は60年と聞いていたのでこれにはびっくりです。

ここはバス停なのですが、おそらく今日本一風情のあるバス停でしょう。



去年は桜のバックに抜けるような青空の対比が鮮やかでしたが、
薄鼠色の空に溶け込むような桜もまたオツなものです。 

樹齢の高い桜は幹が苔むしているのですぐ分かりますが、それらはまた
河原に向かって枝を下ろしていき、まるでしだれ柳のような枝ぶりに花をつけます。

運転手さんによると、この道を走るのをタクシーは今の時期避けるということで、
なんとなればいつも大変な花見渋滞で動かないからだそうです。
しかし、わたしたちはその渋滞の道ををあえて花見するために走ってもらいました。
車の窓からこんな写真が撮れたのも渋滞のおかげです。


このまま宝ヶ池まで走ってもらい、地下鉄でホテルまで帰ることにしました。
雨の日ならではの車窓花見でしたが、京都の広い地域にわたって桜を見ることができ満足です。


京都市動物園はこの週末だけ夜開園していたようです。
夜桜が雨に濡れる動物園・・・・・知っていれば行きたかったなあ・・。


おわり 







 


京都・雨の花見旅~東郷元帥の松

2015-04-08 | お出かけ

春休みの期間、去年に引き続き京都に一泊してきました。
去年はお天気も良く桜もちょうど満開で、古都の桜を満喫したのですが、
今年は週間天気でも言われていたように、雨となってしまいました。
去年のように桜の下を歩くことはできないでしょうが、、
散り際もまた京都ならではの風情となって楽しませてくれるに違いありません。

 

息子が後ろからいつの間にか撮っていたわたしの後ろ姿。
変な加工と角度のせいでやたら緊迫感にあふれておりますが(笑)
この日はベージュに近い薄いピンクのコートを選びました。
雨が予報されているのでパテントのバッグとブーツで完璧です。



ホテル到着。
京都駅近くの、フロントには日本人の方が少ないという感じのホテルでした。
中庭に見える三角のものは結婚式場です。



どお~~~~ん(効果音)

ホテル到着。
なんでだ?なぜ京都にせんとくんがいる?
遷都されてみやこでなくなった奈良県のシンボルせんとくんが。

「京都にせんとくんされて都の座を明け渡したところのせんとくんです」

てか?



さすがは京都。

いわゆる「ガチャ」もただの「ガチャ」ではありません。
なんと、仏像ガチャ(300円)だ!
家族が見ていない間にこっそりとガチャしてみたところ、金剛力士像が当たりました。
6つのパーツを組み立てるのですが、記憶だけでやろうとしたら結構難しく、

「あれ?このスカーフみたいなのどこについてたっけ」

「腰のひらひらしたのはどっちがどっちだっけ」

となってしまい、結局説明写真を(ちゃんとついている)見るはめになりました。



そして翌日。ディズニーシーの疲れの残っていたわたしたち、
次の日に起きたら完璧に寝過ごしておりました。

「えーと・・・・・朝ごはんって何時までだっけ」
「10時」
「あと5分で終わる」
「いいじゃない、どうせホテルの朝ビュッフェなんてたいしたことないし、
お昼までお腹を持たせればいいんだよ」

ということで、昨日の飛行機で注文したのに時間がなくて作ってもらえず、
もらってきた機内サービスのトマトビスクスープを飲んで済ませました。

というわけで雨なのでタクシーの窓から花見モードです。



京都の運転手さんは観光案内もしてくれるので、目的地までの行程には
桜が綺麗な場所を選んで走ってくれるように頼みました。
これはたしか「世界で一番落差の低い(5m)ダム」のほとりだったと思う。



平安神宮の鳥居の前を通ってくれました。



ここは琵琶湖疏水の観覧船発着所。

ツァー企画者(TO)いわく、

「もしお天気が良かったら乗るつもりだった」



遠目にも不気味な金色の彫像がありました。
「巨大な輝き」と題されたモニュメントだそうです。

よこに黒い石彫りの文字盤がありますが、これには「京都三大事業」が何か、
ということが書かれていました。

「琵琶湖第2疎水」「水道」「市電の走る幹線道路の道路整備」

ですが、わざわざ石に彫ってまでここでそれを言う意味がイマイチわかりません。




ツァー企画者(TO)がタクシーの運転手に告げた行き先はまずここ。
天台宗青蓮院。

東山区にある門跡寺院(皇室や摂関家の子弟入寺した)で、創建は1150年といいますから、
865年の歴史のある名刹で、本尊は「青不動」と称される不動明王曼荼羅。
日本三不動の一つだそうです。
国宝なので開帳は年一度2ヶ月の間だけおこなうため、本堂にはレプリカが飾られていました。

現在の門主は元皇族で、東伏見の名を持ち、久爾宮家の血を引く人物が勤めています。



清水の舞台から飛び降りる、との言葉通り、清水寺の舞台は有名ですが、
ここにある舞台もこの通り絶景を臨む高台に張り出しています。



雨のため霧が出てきましたが、それがまた風情があります。



平安神宮の鳥居と山道が遠くに見えました。
この舞台からの眺めはご覧のように絶景ですが、日曜日なのに人がいないのは
ここには車でしか来られないことと、観光地としてあまり有名ではないからです。

折からの雨も手伝って、花見客でひしめき合う四条や京都駅前とは全く
別の世界のような静謐さに満ちていました。




舞台は大日堂内部のリフォームと同時に、去年、2014年10月にできたばかり。
その模型がガラスケースの中に飾られて展示してありました。

 

境内の桜の木には苔がびっしりと生えていました。



わたしと息子は写真撮影会に突入(笑)
こういう、幹から直接咲いているような花とか、



枝に咲き誇る花とか・・。
市街地の桜はもう盛りを過ぎていましたが、このあたりは
同じ京都市内でも咲くのが微妙に遅いのか満開でした。

雨に打たれて花弁の縁に雫の光る様子は、感動的なまでに美しいものです。
今日一日で終わってしまう、今際の際の光芒とでもいうのでしょうか。



ここを「将軍塚」と呼ぶ地元の人もいます。
将軍塚とはこの丸く盛り上がった部分のことです。
桓武天皇がそれこそ奈良から長岡にせんとくんされたとき、事故が相次いだので、
和気清麻呂は天皇をこの山上にお誘いし、京都盆地を見下ろしながら、
こここそが都の場所にふさわしいと進言しました。

天皇はその勧めに従って延暦十三年(794年)、平安京せんとくんに着手されました。
長岡京がたった7年しか都にならなかったのはこのためです。 

天皇は、都の鎮護のために、高さ2.5メートル程の将軍の像を土で作り、
鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ、太刀を帯させ、塚に埋めるよう命じられました。
それがこれ、「将軍塚」です。



「将軍塚」は、国家の大事があると鳴動したという伝説が源平盛衰記太平記に残されており、
新田足利の戦いでは新田義貞軍がここに陣地を構えたということです。

さらに驚いたのは、大東亜戦争の時、ここはなんと

高射砲陣地になった

ということです。
あまり知られていないことですが、京都は昭和20年に入ってから、
5度にわたってB-29の無差別爆撃に遭っており、5月11日にはなんと
京都御所がその対象となっています。
ここ東山でも空襲によって140戸以上が消失していますが、報道管制のため
未だに正確な被害の記録はわかっていないのだそうです。

飛来するB-29を高射砲で狙うとすれば、ここはまさに絶好のロケーションでしたが、
どの程度それが功を奏したかについても今ではわかりません。

京都への爆撃は6月26日を最後に急に途絶えました。
原爆投下地の候補となったため、「その効果をはっきりさせるために」
アメリカ政府がそれ以降の攻撃を禁じたというのが通説です。

効果のわかりやすい盆地の京都が原爆投下地予定だったのをやめさせたのは
スチムソン長官だったという話も前にしたことがありますね。



さて、ところでこの将軍塚脇に一本の松があったのですが、
わたしは一瞥してそこにある「既視感」を感じ取ったのでした。 



その原因はこの文字である。
なぜ東郷元帥の松が?と思ったのですが、将軍塚だから?

そして、将軍塚なのに東郷さんの松だけで乃木将軍のがないの?
と思ったら、境内にはちゃんと乃木将軍の松もあるそうです。
よかったよかった(何が)



気がつくと東郷の松の左側にもう一本松がありました。
すわ、これが乃木将軍の手植えの松?と思ったら、



「黒木大将手植えの松」

「黒木大将って誰?」
「黒木大将といえば黒木為しかおらんでしょう」
「黒木為って誰」
「日露戦争でクロキンスキーってロシア人に呼ばれた人」

どうもこの将軍塚は海軍重視?だったらしい。
ここで海軍高射砲中隊が陣地を構えたのは、もしかしたらこの松があったからでしょうか。

(などと最初書いたのですが、勘違いしていて海軍の呼び名は高角砲でしたorz
雷蔵さんにコメントでご指摘を受けましたのでここで訂正しますm(_ _;)m)


続く。(えっ?) 

 


ディズニーシー一泊二日~ルームナンバー”2345”

2015-04-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

息子がいつの間にか親より友達と遊びたがる歳になったため、行くたびに
これで最後になるかもと思っていたディズニーシーにまた行ってきました。

今回たまたまディズニーリゾートの関連会社の偉い人とTOが知り合いになり、
その方を通じてミラコスタを取っていただけることになったのです。

今まで何度も泊まったミラコスタホテルではありますが、どんな部屋になるだろう?
とワクワクしながらチェックイン。





いつ見ても凄いミラコスタの内装。
七つの絵は、ディズニーシーの7つの海を描いたものです。

いつもは部屋がどこになるかなど運でしかなく、海側のショーが見える部屋にアサインしてもらったのは
長年の歴史でも2~3回くらいしかなかったような気がしますが、今回は違いました。

「ベランダのあるお部屋に空きがございますが、どうなさいますか?
料金は少し増しになるのですが・・・」

とフロントで聞かれたので迷わず取っていただきました。
もちろんこれが「中の人コネクション」の力であったことは間違いありません。

そしてルームナンバー2345に入ったわたしたちは思わず嘆声を上げました。
部屋から出られる広いバルコニーから見た景色が冒頭写真です。




「すご~い!」
「これ、一番ハーバーに近いバルコニーじゃない?」

なんと、2階のハーバー前広場に突き出すようになっています。



この階で外に出ることのできるバルコニーのある部屋はここと、
この隣の部屋だけですが、隣の部屋はうちの部屋が邪魔になってショーを見ることはできません。

「もしかしたら最上階を除いては一番いい部屋なんじゃ・・・」

最上階の大きなベランダ付きのスイートは確か一人10万円だったような気がしますが、
(完璧に洋風ホテルなのに料金は日本式で人数分取る)
その部屋からより2階のここからの方が圧倒的に海には「近い」感じがします。

「サイトーさん(仮名)すげ~!」

息子は、今回宿泊を取り計らってくださったTOの知り合いのパワーに
心から(笑)驚いていました。



外側から撮った部屋の写真。
部屋の広さは他のものと全く同じでした。



この部屋は最上階のクラブラウンジが使用できます。
飲み物とちょっとしたお菓子がいただけるだけなのですが、お酒も飲めるので
夜遅くにはここで酒盛りをしている年配のグループがいました。

わたしたちも少しここでゆっくりしてから、6時以降に入場できるチケットで入場しました。



と言ってもこの日は「明日からパーク入園料値上げ」という最後の日だったので、
そのせいなのかものすごい人出。
アトラクションに乗ることは最初から諦めて写真を撮りつつお散歩モードで園内一周です。



夕食の予約時間までちょうど1時間、息子もiPhoneで写真を撮るのが趣味なので
お互いに撮った写真を見せ、

「おお~なかなかいい構図だねえ」

などと言い合いながら歩きました。



ここは「ホレイショー広場」というそうです。
前回来た時この台の上にはクリスマスツリーが置かれていました。




このスクリューは1888年の冬に荒波で沈んだ「世界最大の客船」、ガルガンチュア号の
(タイタニックをモデルにしているらしい)ものであると書かれています。



明日から新しいイースターのショーが始まるということで飾り付けられたもの。
触ってみないとわからないくらい精巧な造花でできています。



一周して予約していたミラコスタの中華料理に到着。
ここでお仕事を終えたTOと合流しました。


ホテル内のレストランを予約することはサイトーさん(仮名)へのお礼の意味もあったのですが、
ここでわたしたちはレストランマネージャーの熱烈歓迎の辞に迎えられました。

「サイトー(仮名)から大変お世話になっている方だと伺っておりますので」

後からスーシェフまで挨拶に出てきたのでさらにびっくり。

「大変御世話ってパパ何したの」

「何もしてないけど・・」

「パパすげー!」

あんなすごい部屋を取ってくれるほどすごいサイトーさん(仮名)が
何もしていないのに大変お世話になっているというパパってもしかしたらすごい?
と息子の頭の中ではなったようです。

これが大人の付き合いというやつなんだよ息子。



というわけで、三人とも同じコースを頼んでお食事開始。
まず前菜。



地球儀のようなものが出てきました。
手前のつまみをくるりとひっくり返すと、



フカヒレのスープが現れます。



このときに時間はすでに7時50分。
ホテルミラコスタのお食事がお得なのは、コース料理の途中で
もしショーの時間がきてしまった場合でも、食事を中断してレストランの観覧席か、
あるいは眺めがいいなら部屋から観覧することができることです。

わたしたちはレストランの方の案内に従ってショーを見るために部屋に戻りました。
これを正面で見るために皆6時過ぎから場所取りをして待っているのですが、
今回はそんな人々を見下ろしながら悠々の鑑賞です。

始まってみると、ちょうど三角帽子を巨大な空中のスピーカーが遮る場所にあって、
100パーセントの眺めというわけには行きませんでしたが・・。



前の「ブラビッシーモ!」のときには地面に座って場所を取ったりしましたが、
今のショーになってからは真正面以外今ひとつ楽しめないということもあって、
(個人的感想です)わたしたちはあまり熱心に見ようという気になりませんでした。



でもまあこれだけのシチュエーションですからそれなりに楽しみました。



「これは僕の夢なんだ!」

とミッキーが急に覚醒したため消えていく恐ろしいドラゴン。

夢オチの名作「不思議の国のアリス」を代表作にしているディズニーだけあって、

あまりにも堂々と、一般的にはタブーと言われるこの手法を貫いております。




というわけで、ショー終了。
バルコニーの下を驚くほどたくさんの人々が一気に流れていきます。
思わず腰に手をあてて、あのムスカ大佐のセリフを高笑いとともに言いそうになりましたが、

(というか息子は本当に言っていた)案外下からよく見えるのでやめました。



どおおお~~~ん(効果音)

ショーが終わったのでもう一度レストランに戻りました。
入り口でお出迎えしてくれた不気味な赤さんの彫り物。



個室のテーブルはもう一度セッティングがされていました。
この時にはなぜか誰も気づきませんでしたが、写真を見てこのナプキンが
ミッキーマウスの形に折られていたことを知りました。

 

野菜炒めから続きです。
家族全員、これが一番美味しいという意見で一致しました。

 

麻婆豆腐は四川風ですが辛さ控えめ、チャーハンはパラリ。
シラスが入っているのが一味違いました。



デザートの杏仁豆腐とココナツ饅頭、ゴマのお菓子。



食べ終わってから閉園までのわずかな時間、わたしと息子だけが再入園して
お土産屋に入ったりしました。
電話でTOにバルコニーに出てもらい、どのくらい目立っていたか確認。

やっぱり高笑いしなくてよかった~(迫真)



閉園してもずっとハーバーには音楽が鳴り続けているのは初めてではないので知っていますが、
ここで鳴っていたとは知りませんでした。
少し凹んだところに巨大なスピーカーが隠されているのを発見。

恐ろしいほどの音量ですが、窓は防音ガラスが填っているらしく、
ガラス戸を閉めるとほとんど外の音声は聞こえなくなります。



明けて翌日。
7時45分の宿泊者限定アーリーチェックインをするため、6時半に起床。
早速外を見てみると、もうパークの中は人が動き始めています。



いたるところにおとぎの国には不似合いな車が・・。



なぜかレンタカーのマークをつけた車もいます。



納入する商品は菓子類と見た。



ゴンドラが二隻漕ぎ出してきました。
どうやら新人のトレーニングの模様。
竿を操って向きを変えられるということはこの辺の水深は浅いんですね。
ショーで水に落ちたミッキーが首から上を出している写真を見たことがありますが、
大人が落ちても足が届くくらいなのだと思われ。

ディズニーリゾートのこういった訓練は閉園後、開演前に行われますが、
ミラコスタはそういう「舞台裏」を見ることができる唯一のホテルです。

昨夜は12時きっかりまで、アメリカン・ウォーターフロント(船の前)のステージの方から
今日から始まる新しいショーの練習をしている音声が聞こえていました。



先ほど向こうに行ったのと同じ人(たぶん)が看板を持って帰って来ました。
後ほどパーク内で同じ人らしきキャストが写真に写っていました(笑)



朝食は部屋代に含まれており、ホテル内レストランで予約した時間に食べます。



宿泊者専用優先入り口にはもう長蛇の列ができていました。
桜が満開です。



園内には桜の木がなかったような記憶がありますが、ここにはたくさん。



オフィシャルホテルの宿泊者だけでもこんなにいるのか、というくらいの列の長さでしたが、
一旦入園してしまうと皆おめあてのアトラクションはそれぞれ違うので、
わたしたちが一番乗りを目指した「レイジング・スピリッツ」はほとんど人はいません。



息子が「この英文が面白い」というので改めてちゃんと読んでみましたら・・、

「ちゃんと管理していない持ち物はレイジングスピリッツへの”奉納物”になってしまいますので」

ですって。

 

夜になってからこの船に乗りましたが、風が強く寒さに震え上がりました。
ゴンドラの新人君はちゃんとデビューできたかな?



さて、というわけで一旦部屋に戻ります。
部屋からお昼のショーを見物するためです。
後から人に聞くとニュースでもやっていたそうですが、ディズニーシーは
4月に月が変わったので、イースターにちなんだ新しいショーが始まり、
これがその最初の回だったということです。



ショー開始。
4種類の船からそれぞれ違うタイプの衣装を身につけた人たちが降りてきます。



彼らはファッションモデルという設定。



それぞれのドレスをデザインしたデザイナーたちがいがみ合っているので彼らも仲が悪く、
互いに対立しているというおきまりの設定です。
なぜ対立するのか、セリフを聞いても全く意味がわかりませんでしたが。



わたしたちはこんなシーンにウケてしまうのだった。
ショー初日なので、スポンサーや制作関係者が真剣に見学しているの図。
一番右の人はデザイナーとかクリエイターっぽい?



年間パスポートを持っていて週に2~3回はシーとランドに行き、
おめあての「ご贔屓のダンサー」を見るのが楽しみという人がいるそうです。

よくこんな同じような人たちの中から、ごひいきを見分けられるものです。





ドナルドダックとドナルドの彼女(名前知らない)、スティッチ発見。



船から降りてきたミッキーとミニー、中央ステージはあっちだ!



ミッキーとミニーは東京ディズニーでは結婚しているという設定だそうですが、
本場ではあくまでもミニーは「ガールフレンド」だそうです。
日本での設定はミッキー同伴の結婚式をしたがるカップルのためかな?



ドルフィンのようなボートが操るカイト。
まるで生き物のように複雑な動きをするので、ダンスはともかく
わたしはこのカイトを見るのが大好きです。



理屈はわかりませんが、とにかくミッキーの説得で皆心を入れ替え、
お互い仲良くすることでめでたしめでたしの大団円となります。



お昼ご飯は、朝わたしたちがレイジングスピリッツに2回乗っている間に、TOが
予約を取っておいてくれた、SSコロンビア号のダイニングでいただきました。



前回来た時に食べて息子が気に入ったシーザーサラダ。
半熟卵が葉っぱの中に潜んでいます。
それを潰して全体にからめていただくととても美味しいんですよ。



エンドウ豆のスープ。



息子のデザートのアイスクリームはラズベリーとバニラ味。



この後TOが仕事に行ってしまい、わたしと息子二人で1日遊び倒しました。
夕方になり雨が降ってきて寒くなったので、ロストリバーデルタのメキシカンレストラン、
ウォーターレベルはご覧の通り無人でした。
 

ところでこの日息子は同級生の女の子に声をかけられてビックリ。

「よくわかったなあ。なんであんな人ごみで俺だってわかったんだろ」

「どうせ寝癖が目立ったとかじゃない?」

「違うよ(´・ω・`)・・・・・なぜわかったのか聞いてみよっと」

今時のお子はこういうときラインですぐに連絡を取ってしまいます。
しばらくして彼女から来た返事は、

「髪の毛。」


思わずorzになっていた息子でした。



昼が洋風だったので晩御飯のために日本食の「桜」に並んだのはいいのですが、
冷たい雨が降りしきる中、傘をさしながら50分は辛かったです・・。 
やっとのことで中に入り、最初に暑いお茶が出てきた時には思わず湯呑みを抱えて
暖を取ってしまいました。 



お昼が多かったせいか、てんぷらとご飯は食べられませんでした



まだまだ閉園まで時間がありましたが、わたしたちはこの後すぐに
京都への花見旅行を控えていたため、早めに引き上げました。


なんども来ているはずなのに、いい部屋に泊まったせいか
全くいつもとは違う眺めであるような気がした今回のディズニーシーでした。

サイトーさん(仮名)に心から感謝する次第です。



 


呉海軍墓地~海軍防空隊『魔のサラワケット越え』

2015-04-06 | 海軍

呉長迫公園にある「呉海軍墓地」には、陸上部隊の碑もいくつかあります。

「第531海軍航空隊慰霊碑」「第634・第934航空隊慰霊碑」

など航空隊慰霊碑が全部で4基、

「第33警備隊戦没者慰霊碑」

「昭和15年徴募主計科戦没者慰霊碑」

「看護婦合葬碑」 

など陸上勤務の部隊 、
(以前なんと読むのかわからなかった「山・一・王」の漢字は、”徴”であることが資料で判明)

「ショートランド島慰霊碑」「レンドバ島派遣隊戦没者慰霊碑」

のように、派遣された島の名前で建てられた碑が4基。
あとは設営隊、工作部、そして防空隊の碑が2基ありました。



冒頭の海軍マークはこの墓石の焼香台に付けられた実に立派な造りのものです。
海軍墓地ですので、大抵の碑にはどこかに海軍の印が入っているのですが、
このプレートがなかでも一番凝ったものに思われました。


ところでいきなり質問ですが、聯合艦隊って、何艦隊まであったかご存知ですか?

第4艦隊までは何かと話題になるのすが、それ以降は映画でも語られないため、
いくつあったなどということは考えもしない方が大方だと思いますが、(わたし含む)
正解をいうと第8艦隊までなんですね。

聯合艦隊は大戦開始時には第6までの艦隊と航空隊、そして南遺艦隊で構成されており、
その後南東方面・ソロモン諸島の戦いが始まるにあたり、第8艦隊が編制。
その後第9艦隊編制へと続き、第7艦隊などは昭和20年4月まで欠番となっていました。

つまり開戦後で考えると、8、9、7の順番にできたことになります。

最初に編成された第8艦隊は南東方面に進出し、米豪分断作戦を実施するに当たり、
ソロモン諸島・ビスマーク諸島を含む外南洋担当として新編成された艦隊でした。
司令官は三河軍一中将です。

この慰霊碑にある「第12防空隊」は、その中の第8特別陸戦隊の隷下で、
昭和17年12月20日から昭和19年1月まで存在していた327名の部隊です。

編成後ラバウルに向かった部隊は、ラバウル、ブイン、レカタ各地の防空戦闘に参加、
多大なる戦果をあげつつも、食料、衣料品などの欠乏により、戦闘での死者より多い
202名がこの地に斃れ草生す屍となったのでした。

編制後、ソロモン諸島・ガダルカナル島をめぐる死闘を連合国軍と演じた第8艦隊ですが、
連合国軍の進攻(飛び石作戦)により、後方に取り残される形となると、
以後遊兵と化し、補給も途絶したまま自給自足態勢に移行して、終戦を迎えています。




この地では戦闘よりも補給線の断絶による餓死者が多かったので有名ですが、
この

「善本野戦高射砲中隊」

もまた同じ辛苦を嘗め多くの犠牲者を出した部隊です。
隊長は善本官一特務中尉

艦隊において特務中尉はまず指揮官になることはあり得ませんでしたが、
陸戦、ことに高射砲隊の中隊くらいになるとこのような人事もあったようです。

パラオで開戦を迎えた当部隊は、先日お話しした「花の二水戦」こと、
第二水雷戦隊(旗艦神通)、妙高、羽黒、那智、龍驤に支援されてダバオに上陸。

以後、セブ島、ホロ島に進出し、ラバウル、ラエ、サラモアと転戦しますが、
ここに至って(昭和18年)制海制空権を失い、弾薬・食料が不足してきます。
加えてマラリア等の風土病に犯される兵員が後を絶たず、戦力は弱まる一方でした。

アメリカ・オーストラリアの連合軍はこの頃ラエに揚陸してきます。
対して日本軍は陸軍の挺進部隊を投入し、死闘を繰り広げますが、形勢は悪くなる一方。
オーストラリア軍三個師団についに包囲されて師団長は玉砕を覚悟します。
しかしついに第18軍司令官はそれを許さず、


「ラエ防衛陣地を放棄しニューギニア北岸に転進すべし」

という命令を下しました。

ここに、第51師団の「魔のサラワケット越え」が幕を切って落とされたのです。



ラエから北岸のキアリに到達するには、直線距離で行こうとすれば
地図にもあるサラワケット山を越えていかねばなりませんでした。

善本中隊含む第51師団は、

標高4000メートルの

サラワケット山を1個師団で越えようとしたのです。
海沿い、川沿いは敵がいるからダメ、ジャングルの道なき道では時間がかかりすぎる、
ということで背水の陣ならぬ山越えを覚悟したのですが、これには伏線がありました。

その半年前、日本軍にはサラワケットを越える同じルートを走破した小隊があったのです。
「栄光マラソン部隊」とも言われた北本工作隊でした。

ラバウルから救援を頼むためにサラワケットを越える部隊の隊長に選ばれたのは
予備士官の北本正路少尉


慶応義塾大学競争部出身

の健脚を買われて工作隊50名の隊長を任されました。
昭和7年のロスアンゼルス・オリンピックでは、1万メートル走に出場、
箱根駅伝では慶応を勝利に導くほどの名選手だったそうです。

北本少尉は陸軍でしたが、海軍でも、中国戦線で武器を帯びたオリンピックの水泳選手に
泳いで敵陣に切り込みをさせようとしたくらいで、いずれにしても日本軍において
オリンピック選手という肩書きなどを持っていてはロクなことにならないという気もします。
同じロス五輪で優勝した西竹一も、騎兵師団無き後はあっさり戦車隊に行かされて最後は硫黄島でしたし。

ただ、この度の北本少尉の功績は計り知れないもので、もしこの後も戦争が継続していたら

おそらく金鵄勲章くらいは出ていたのではないかと思われます。

この北本隊長についてはAmazonで「栄光マラソン部隊」の古本をとりよせ、
後日詳しく特集してお話しすることにしたいと思います。

彼らは行く道すがらの村で50名の現地人のポーターに協力を求め、
一体となって山越えに挑みました。
零下20度の山頂では腰蓑一つで震え上がる原住民とくっつきあって体を温めて耐え、
山頂に到達した時には
旗を立てて万歳三唱。
ポーターたちも原住民に伝わる踊りを踊って成功を祝ったそうです\(^o^)/\(^o^)/

そういういわば特殊な例、しかも現地在住のドイツ人から登山用具を借りるなどといった
幸運の末になんとか成功したサラワケット越えを、しかも大人数の一個師団でやろうというのです。

しかも 同行する部隊は、第51師団が3900名、他部隊2100名、海軍2500名、総勢8500名。
北本隊でも22日だったこの行程を、この人数で16日で踏破するつもりです。
その理由は一人が持てる食料が10日分だから、節約して・・、ということなのですが、

これ、絶対無理だから!

とみなさんもお思いになったでしょう?
わたしもそう思いましたが、もう彼らにはこの手しかなかったのです。
玉砕するくらいならと出された司令官命令は、後世の目から見ても英断だったというべきでしょう。


しかし、それはまさに「死の行軍」と「魔の山越え」となりました。
この慰霊碑を建てた第12防空隊の生存者は、この行軍について


夕刻4000メートルのサラワケット山頂南面に到着し野営す
寒気強く一睡も得ず酸素希薄にして呼吸苦しくせっかく登頂したるも倒れる兵多し

と記しています。
斜面が急なところでは、岩角や草を掴みよじ登らなくてはなりませんでしたが、
兵たちは次々と滑落し、後から来る者はその無残な屍体を見ながら登ることになりました。

このような行程も北本少尉が「なんとか行けると思う」と判断したからこそ実行されたのですが、
その経験から、各自の食料を持つだけで精一杯ということは事前に分かっていました。
というわけで海軍高射砲隊は最初から装備を置いていったようです。


陸軍の砲兵部隊だけは山砲(産地での戦闘用の大砲)一門だけでもなんとか搬送したいと、
90キロの砲を数人で代わる代わる担いでいましたが、あまりにそれは過酷でした。
途中、兵の苦痛を見ていられなくなった隊長が運搬を失念し、山砲は山中に放棄されました。

登り最後の地点では断崖絶壁が連なっていて対岸に渡るのに丸一日かかり、ここでも
脚を滑らせたり、腕の力が抜けて落ちていく者が続出します。
しかし皆自分の体を支えるのが精一杯で、他人にかまっていられる者など誰もいません。
おりしも出発から2週間が経ち、食料も底をつきかけていました。
滑落しなかったものも、マラリアを発病したり栄養失調でバタバタと倒れていきます。

頂上は熱帯高地独特の湿地帯気候で、霧と足元のぬかるみと戦い、夜になると気温は下がり、
5人10人と固まったまま眠っているうちに凍死する一団も相次ぎました。
そして下りは登りよりさら過酷で、階段状の断崖ではまたしても転落者が続出。
餓死者もで始めるに至って、部隊は救援隊を結成し、先に下山して救援を呼んでくることを決めます。

この救援隊に指名されたのは・・・、そう、我らが北本正路少尉と前回の工作隊のメンバーでした。


キアリから薬と食料を持って引き返した北本隊は瀕死の部隊に食料をわたし、
さらにもう一度頂上まで戻って落伍していた将兵の生存者を救出し、
彼らを背負って、山から連れ戻すことに成功しました

それにしても北本少尉凄すぎ。

2013年の東京マラソンで二人の陸上自衛官が18キロ、27キロの砂袋を背負い、

4時間39分で走破して(一緒にゴール?)ギネス記録を更新しましたが、
現代の日本とは違って、この場合は自分も二週間の行軍と飢餓に耐えた後ですからね。

思うに北本少尉、自分がやらねば!という使命感でアドレナリンが出まくった状態だったのでは・・。 


そんなこんなでとにかくも一行はキアリに到達しましたが、
出発した時の人数は到着時に比べ1,100人減っていました。 

たどり着いたものの直後に体力を消耗し尽くして動けなくなった者もおり、
さらにはキアリも敵に囲まれたため、部隊が再び転進を始めたあたりで終戦を迎えます。

最終的に終戦時には編成時の総員15,996名が2,754名に減っていたということです。


このような長距離行軍は日本軍の歴史においては初めてのものでしたが、
さらに標高4000mでの高山戦となると、ナポレオンのアルプス越えくらいしか他に例がないのだそうです。
最後の兵が現地住民に背負われてキアリに到着、野戦病院に収容されたのは11月15日、
出発してからちょうど2ヶ月後でした。




第51師団の一人の下士官が、「サラワケット越え」と題するこのような歌を作っています。


 「サラワケット越え」
一、
任務(つとめ)はすでに果たせども
再び降る大命に
サラワケットを越えゆけば
ラエ、サラモアは雲低し
二、
底なき谷を這いすべり
道なき峰をよじ登り
今日も続くぞ明日もまた
峰の頂程遠し
三、
傷める戦友(とも)の手をとりて
頼む命のつたかずら
しばしたじろぐ岩角に
名もなき花の乱れ咲く
四、
すでに乏しきわが糧(かて)に
木の芽草の根補いつ
友にすすむる一夜さは
サラワケットの月寒し
五、
遥けき御空(みそら)宮城を
伏し拝みつつ勇士等が
誓えることの真心に
応うるがごと山崩る


善本高射砲中隊はキアリで終戦を迎えました。
その墓碑には、212名の隊員のうち何人が生還したかは書かれていません。






 


「いずも」引渡式・自衛艦旗授与式観覧記~「いずも」出航!

2015-04-04 | 自衛隊

というわけで、護衛艦「いずも」が引き渡され、出航してから一週間もの間
その式典についてお話ししてきたわけですが、今日で終わりにしたいと思います。




このころになって初めて気がついたのですが、艦体中部の第二煙突の下に、
このような電光掲示板がありました。
通常装備なのか、それとも今日のような日なので見送り客にアピールするため、
特別につけたものかはわかりませんが、これは明らかに岸壁で見ている人に向けたもの。
このときもわたしはついにこの瞬間しか文字を目にすることはなかったのですが、
「いずも」総員からのご挨拶メッセージが流されていたようです。

どうも彼らは日本国民に対して何かお約束をしてくれていた模様(笑)

ところでこの電光掲示板を見ているうち、ヘリ搭載艦型護衛艦は、

右舷接岸するものだということに、改めて気づきました。
甲板が広く取られており、艦橋が右舷に寄せられているからなんですね。
そういえばホーネットも右舷接岸だったし、こういうところも「空母」と同じなんですね。



旗旒信号は「御安航を祈る」の下に三角の日本の国旗のような「1」がついています。
「御安航」の「U」「W」旗を揚げられた船が回答として「1」を足し、

「あなたがたのご協力を感謝する」

という意味を持つそうです。
つまり、見送ってくれた人々の「いってらっしゃい」に対するお礼ですね。



画面右側は発着艦管制官室。
甲板で同時に複数の発着艦があるので、護衛艦では初めて「ひゅうが」に
このシステムが採用されました。

さらに「いずも」の最も特徴的である外観はこの昇降機にあります。
「ひゅうが」以前の護衛艦、汎用護衛艦DDや「あたご」型は、ベア・トラップという
ヘリコプター降着装置をRASTという名称で運用しています。

「ひゅうが」型以前のHS(ヘリコプターシステム)運用の考え方は

DDHに3機
DDに1機

このRASTを搭載することで継続的な対潜戦を可能にするというものでした。
実際には8隻の艦艇とヘリ8機という編成となり、これを

「八八艦隊」

と呼んでいました。
八八艦隊ったらあれだろ?旧海軍の戦艦八隻、巡洋戦艦八隻の88だろ?
と思ったあなた、わたしも88艦隊といったらそちらしか知りませんでしたが、
現代の自衛隊というのはなにかにつけてこういう「旧軍懐古名称」を
左巻きがそこまで目をつけないのをいいことにこっそり使っているようです。

皇紀と西洋暦の違いこそあれ、「89式」とか「93式」なんていう制式も
普通に旧軍と同じように使ってますもんね。

それはともかく、「ひゅうが」以降、この「八八艦隊」の概念は大きく変わることになりました。
「いずも」では一つの護衛艦にヘリ部隊をまるまる一個飛行隊ごと載せることが可能です。
これはどういうことかというと、哨戒ヘリを広い甲板から運用することによって、
連続した敵潜水艦の探知が可能になるということになるのです。

探知された潜水艦はそれ以上艦隊に接近することもできなくなるというわけです。 



左端は女性自衛官(でも一番背が高い・・・)ですね。
「ひゅうが」への女性自衛官の乗組みは予定されていたことではなく、
直前に決まったことだったと言われています。
つまり「ひゅうが」の就役のとき、出航に際して舷側で「帽振れ」をWAVEが行ったのは、
練習艦隊以外では自衛隊で初めてだったということになるのでしょうか。



艦尾付近に立っているのが海士たちというのがまたいいではないですか。

自衛隊旗とセーラー服の取り合わせは実に絵になります。

陸上ではそうでもありませんでしたが、海上、とくに艦上では風が強いらしく、
セーラー服の襟がはためいているのがわかります。

もともとセーラー服というのは風の強い船の上で音声を聞き取るため、
持ち上げて集音できるようにあの様な形になったという説もあります。



大きな護衛艦を持つということがどれだけ内外に衝撃を与えたかについては、
就航してからこの一週間の間に、メディアの言うところの近隣諸国が軒並み
懸念とも取れる報道をしていたり、それを近隣諸国以外の国が評価したりと、
とにかく「いずも」が世界の話題になっていたことでも窺い知れます。

しかも、大きさはともかく海上自衛隊の護衛艦は世界では”駆逐艦”に属するので、
「ひゅうが」「いせ」、そしてこの「いずも」も、艦種記号には駆逐艦を表す
デストロイヤーの”DDH”を用いているわけです。 

ちなみに「こんごう」型は”DDG”、「むらさめ」型もDDですね。

何でもかんでも駆逐艦にしてしまっている関係上(笑)、ここに至って「いずも」は
「世界最大級の駆逐艦」となってしまったというわけです。(´・ω・`)
基準排水量13,500トンの「ひゅうが」型ですらすでに「こんなでかい駆逐艦があるか!」
と突っ込まれていたのに、「いずも」は19,500トンですから・・・。
 
運用の問題はともかく、護衛艦にしては大きすぎる、というのは確かなことなんですね。 

「近隣諸国」や、日本より近隣諸国の側に立っているメディアはこのことに文句を言っとります。
ちょっと面白かったので、ある論評をそのままご紹介しましょう。


海上自衛隊最大の護衛艦「いずも」が3月25日に就役した。
だが、全通甲板を持って多数のヘリコプターの運用が可能で、艦砲、対艦ミサイル、
対空ミサイルを持っていない事実上のヘリ空母(航空母艦)、あるいは揚陸艦などを兼ねた
多目的空母と諸外国では称される艦を護衛艦=駆逐艦と称することに問題はないか。


われわれ日本人は呼称を変えると、あたかも本質まで変わるかのように思い込む性癖がある。
戦時中は「全滅」を「玉砕」、「退却」を「転進」と呼び変え、戦後は「敗戦」を「終戦」、
自衛隊の前身である警察予備隊やその後の保安隊の「戦車」を「特車」と呼び変えてきた。


近年では「売春」を「援助交際」と呼び変えてきた。
これを不思議とも思わないが、外国にはまったく通じない屁理屈でしかない。
筆者は、ヘリ空母や多目的空母の導入自体には賛成だが、このような納税者を謀るようなやり方には断固反対だ。

 
海自では、諸外国で巡洋艦、駆逐艦、フリゲイトなどと呼ぶ水上戦闘艦をすべて「護衛艦」という名称で呼ぶ。
これは防衛省の訓令で定められている。
自衛隊の艦は「自衛艦」と呼ばれ、「護衛艦」はその中の大分類では「警備艦」に属する。
さらに中分類では機動艦艇があり、機動艦艇は護衛艦と潜水艦の2艦種しかない。
つまり海上自衛隊の戦闘艦は水上戦闘艦である護衛艦と、水中戦闘艦である潜水艦しか分類上は存在しない。
「潜水艦ではないから護衛艦である」と、いうわけだ。

だが護衛艦とは、駆逐艦とほぼ同義語である。
海自の護衛艦の種類はDD、DDH、DDGなども略号で称される。
汎用護衛艦はDD(Destroyer=汎用駆逐艦)、ヘリコプター護衛艦はDDH(Destroyer Helicopter)、
ミサイル護衛艦はDDG(Destroyer Guided Missile=ミサイル駆逐艦)、
DE(Destroyer Escort=護衛駆逐艦)などと分類される(Dが2つ重なるのは国際的な慣例である)。

つまり海上自衛隊が護衛艦と称している船は、すべて駆逐艦、ということになる
(DEは排水量からすれば国際的にはフリゲイトと認識されている)。
「いずも」はDDH(ヘリコプター護衛艦)であるから、諸外国ではヘリコプター駆逐艦となる。
だが世界の海軍関係者で「いずも」を「駆逐艦」と思っている人間は皆無だろう。
どう考えてもヘリ空母である「いずも」を護衛艦=駆逐艦と強弁するのは、
国際的な軍事常識から外れているだけではく、不正直、あるいは
論理的な議論や常識が通用しない相手であると思われる。

または何か良からぬことを企んでいるのではないかと勘ぐられても仕方ないだろう。

余談になるが、このような日本的な言葉の言い換えがまかり通るのであれば、
以下のようなことをフランスの農家が主張したとしても文句を言えない、ということにもなる。
「日本は輸入チーズの関税率が30%と高い。
しかし、これは発酵食品であり乳の漬物である。漬物と同じ関税を適用せよ」。

ところがわが国は軍事評論家までもが「『いずも』は空母ではない、護衛艦=駆逐艦だ」
海上自衛隊の肩を持つ
確かに、「いずも」は米海軍の原子力空母のように多数の固定翼機の戦闘機や攻撃機、
早期警戒機などを搭載でき、強力な攻撃力を有する空母ではない。
だが明らかにヘリ空母であり、広義の意味では空母と呼んで差し支えがない。

「いずも」は空母なのか駆逐艦なのかと問われれば、明らかに前者であり、
これを駆逐艦と強弁するのであれば見識を疑われる。




おもわず声出してワロタ状態になってしまいました。
この「言葉遊び」を左側からいうとこうなるのだなと。 

見識ときたか見識と(笑)
駆逐艦じゃないだろ?空母だろ?と大きさだけで発狂しているわけです。
そんなこと言い出したら先日問題になっていたように自衛隊じゃないだろ?軍隊だろ?
ってことから始めないといけないと思うんですが。

国際通例上艦種をどこかに当てはめなければならないのでデストロイヤーとしているわけで、
日本では「軍」じゃないから「自衛隊」と称しているのと全く同じ伝で、
「駆逐艦が使えないから護衛艦」としているだけじゃないですかやだな~。

しかもこのおっさん、自分で「潜水艦以外は皆護衛艦と呼ばれている」と解説しながら
「いずも」にだけ「駆逐艦じゃねえええ!」とキレておるわけですが、
護衛艦=駆逐艦ではなく、水上艦=護衛艦なんであって、見識も何も立法府でそう決められた分類なんす。

ちなみに、他にも

「他の艦に給油する能力は被弾した際脆弱性が高く有事には危険である」

とか、

「DDHを4隻調達するにしても1艦種だけにすべきだった」

とか、興味深い意見が満載なので、興味のある方は読んでみてください。


文民統制の放棄!なぜ「空母」が生まれたか
護衛艦「いずも」は護衛能力のない被護衛艦

 

大きいからダメだ!といっているようで、「脆弱だからダメ」と言っていたりorz
うーん、これ、対潜哨戒と災害時派遣が主目的なんですけど・・・。 

それにしても援助交際を喩えに出すか。



バスで岸壁に戻ったとき、タグボートが二隻鼻づらを「いずも」の艦体に
押し付けるようにしていましたが、いったいどういう動きをしたのか謎です。 

岸壁から離れるだけなら「いずも」だけでできると思うのですが。



艦尾付近が前を通り過ぎていきます。





巨大な艦体が岸壁を静かに離れ、やっとのことでカメラに全体が収まるようになったとき、



「いずも」はわたしたちに向けて挨拶をしました。




第1、第2煙突から同時に煙を噴き上げたのです。

この日の真っ青な横浜の空に、白煙が二筋立ち上りました。



わたしは「ふゆづき」の就航のとき、前にも書いたように同行の偉い人に

むしろわたしを気遣ってのことだと思うのですが、帽振れが終わるやいなや、
促されて現場を去ったため、「ふゆづき」が同じことをしたかどうか知りません。

こういうときに護衛艦が煙を吐くのが慣例なのかどうかもわからないのですが、
そうであったとしても「いずも」の機関長のはからいだったとしても、
このとき、「いずも」そのものがわたしたちに手を振り返したようにしか思えませんでした。



艦尾の「いずも」という文字の右側に小さな舷門がありますが、

ここからは数人の自衛官たちとJMUの社員らしい人影がこちらを見ていました。



やはりここでも「帽振れ」が終わった途端、人が退出を始めました。
ただでさえ当初の半分くらいの人数になっていたのに、残っているのはほとんどが
乗組員の家族らしい人たちだけ。

そういえば祝賀会ではこういう感じの人たちを全く見なかったのですが、
もしかしたら家族だけ別の会場で行われたのでしょうか。



タグボートが見えてきました。

左舷側の2隻は、ずっと同じ位置について一緒に移動しています。
ところで今までタグボートが押さなければならないような瞬間ってあったっけ・・・?



「いずも」がここIHIジャパンマリンユナイテッドで進水式を行ったのは

去年の8月6日のことだそうです。それから約半年、今母港の横須賀に向けて
静かに巣立っていく「いずも」。

おそらくこの日の横須賀には、「いずも」初めての入港をカメラに収めるために、
たくさんのファンが詰めかけていたのだろうと思われます。 




対岸に海保の艦船がドック入りしているのが見えました。

「護衛艦」と同じく、やはり日本の国土を護る任務にあたる船です。



「いずも」の一般公開は4月11日行われますが、3月31日をもって
抽選の申し込みは締め切ったようです。
公開後は内部の写真もたくさんアップされることでしょう。



この自衛艦旗は、先ほどこの「いずも」に授与され、初めてここに翩翻と翻っています。
旭日紋様が真っ青な空になびき、凛々しい青年たちがきりりと表情を引き締めて
その旗のもとに立つさまは、日本に海軍が生まれてから幾度となく繰り返されてきたものですが、
わたしはこれを見て、そんな歴史的な瞬間に立ち会うことのできた感激をあらためて噛みしめました。


護衛艦「いずも」誕生の、ごく少ない目撃者の一人になれたことを心から誇りに感じた一瞬でした。


終わり。 

 

「いずも」引渡式・自衛艦旗授与式観覧記~帽振れ

2015-04-03 | 自衛隊

艦長が最後に乗り込み、ハッチが閉まりました。



ハッチの動きに人々が目を奪われている間に、いつの間にか舷側には
「帽触れ」要員がきっちりと整列しています。



艦首寄りのデッキには男女の海士たち。



本日は護衛艦日和とでもいうのか、真っ青な空に「いずも」の艦体が映えて美しい。



舷側から下を監視している海曹をアップにしてみました。



ところで、「ひゅうが」が自衛隊史上初の『全通甲板型』護衛艦であり、
それゆえ内外の注目が大変高く、一部メディアではこれすら「空母」だと
否定的なニュアンスで大騒ぎしたのは記憶に新しいところですが、
よく考えたら、いやよく考えなくても、「ひゅうが」の艦首番号DDHは、
デストロイヤーの頭文字が表すように、実は駆逐艦なんですよね。
「ひゅうが」のときに1万トン越えの、世界でも類を見ない巨大駆逐艦が就役、
というのがこれほどの話題を呼んだのですが、「いずも」はそれを超えてきたわけです。

漏れ聞く自衛隊内部の声に

「これからどうなってしまうんだろう」

というのがあったと聞きますが、それも当然のことかと思われます。



もちろんそれは吉田茂元首相のあの有名な訓示、

「諸君が日陰者でいる間は国民は幸せなのだ」

に呼応する感慨でありましょう。
これほどに自衛隊が注目され、世間的にも持て囃されることそのものが
災害への対応も含めて「社会不安」に伴う現象であることは否めません。
これほどの装備を矢継ぎ早に自衛隊が導入したということに驚いているのは
当の海上自衛官たちであるということらしいですが、もちろん彼らは
それをただ手放しで喜んでいるということではないのです。



一般人なら「不安」の一言で終わってしまうこの感慨ですが、彼らが不安を口にすることはありません。
自分たちに求められているのものが何なのか、今日本の防衛がそこまで来ているのかと、
真に身の引き締まる思いを各自が噛みしめているというのが実情ではないでしょうか。



時々さりげなーく?首を動かして家族席の方を見ている自衛官もいるようですが(笑)

基本的に舷側に立つ乗員は面を正面少し上に向けたままです。



艦橋の前方にあるCIWSですが、「ひゅうが」型と同じく、右舷側に据えられています。

これは航空機の運用の妨げにならいように端に寄せているのです。
艦橋の航海装置は「あたご」型と同じようなもので、
航海艦橋の内部の広さもだいたい同じだということです。



スクリーンのカメラは、後方のJMU社員の後ろから

彼らの後ろ姿と「いずも」を映し出していました。
自分たちが何年間も手がけてきた「いずも」が出航する瞬間。
月並みな言い方ですが、きっと手塩にかけてきた娘を嫁がせる父親の気持ちでしょう。



女性海士たち。

WAVEの居住スペースを最初に備えたのは「ひゅうが」で、そのことも報道では
大きく取り上げられました。

「ひゅうが」の就役式でここ横浜の磯子から横須賀に出航するとき、
異例中の異例でしたが、防衛省は報道陣の同乗を許しました。
その航路で、自衛隊は特別に女性自衛官への取材を行わせるという計らいをしています。


ところでこの「記者の同乗航海」ですが、「ひゅうが」以上に注目の大きかった「いずも」で
それを行わなかったのは、
「ひゅうが」のその後の報道や「おおすみ」事故など、
そして何より今回の「いずも」への外圧に与する側に立ったような報道をへて、

「今のメディアにどんなに協力しても、決して自衛隊に好意的な報道はしてもらえない」

といった「メディア・ファティーグ」のせいではないか、と多少穿った推測をしてみました。
これは80%くらいの確率で当たっていると思います。



前部の舷側は、まさに家族席の真ん前なのですが、そこに並ぶのは若い海士たちでした。
「ふゆづき」のときにも前部は海士クラスが並んでいた記憶がありますが、
こういうとき階級によって立つ位置は昔から決められていたものでしょうか。



防衛大臣はじめここに並んでいた関係者は祝賀会を挟んで全員いなくなっていたので、
その場所にJMUのいかにも偉そうなおじさまたちが出てきました。

祝賀会以降、退出してしまった人は案外多く、戻ってきたのは半分くらいにすぎませんでした。

出航を見送らずしてなんの引渡式かと思うのですが、「ふゆづき」のときも
ご一緒した経済界の大物氏は、わたしが最後まで出航を見届けたいと思っているのに、


「もう見るもの見たから帰りましょう、ささ、早く」

とばかりにそそくさと歩き出したので、わたしは後を追いかけながら内心は( ;  ; )こうでした。



画像を思いっきり拡大してみました。
この二人かっこよくないですか~?

フネを撮る時にはまず望遠レンズの出番はありませんが、もしあれば
自衛官たちの表情を追うことができたでしょう。
先日mizukiさんがニコンの83倍ズームレンズ搭載COOLPIX P900を教えてくれましたが、
こういうのがあればこういうときに顔のアップですら捉えることができそうです。


ただあまりにも顔が鮮明すぎると、いくら任務中の自衛官のものでもアップするのは憚られますが。



前部の海士たちの帽振れ。

「帽触れ」の間、音楽隊が演奏しているのは「蛍の光」です。
兵学校では「ロングサイン」と称していた曲ですが、(原題が Auld lang syne)
自衛隊でそのように呼んでいるとは聞いたことがありません。 



海士たちの中には、このようなハレの場で帽振れをするのが初めてという隊員もいるでしょう。
彼らにとってもこの瞬間は胸の熱くなるような感激であるに違いありません。





噂の外付け昇降機の上にも帽を振る隊員たちがきっちりと並んでいます。

スクリーンで上映された海上公試の映像では、ほとんど尾翼を突き出すようにして
ヘリコプターが搭載されていましたが、このように片面が完璧にオープンになったことで
エレベーターで移動させられる機体の大きさにかなりの余裕ができたということになります。

これが一つ舷外配置となったことで飛行甲板スペースの離発着作業と、航空機の移動が
余裕を持って同時に行えるということになりそうです。



艦橋のデッキに出ている幹部たちも帽振れ。



士官たち。スリットからサングラスをかけた人物が見えますが、
やはりJMUの社員が乗り込んでいるようです。 
外から見えないようにしゃがみこんで隠れているのが可愛い(笑) 



「帽戻せ」


の掛け声とともに全員が正帽を元にした瞬間。
こういうときには片手で戻すものなのでしょうが、いつもの癖なのか、
左手がつい出てしまう人もいるようです。



そして後は港を出て皆の目が届かなくなるまでそのまま立ち続けます。
いったいいつまでこうやって立っているのだろう・・・。
「ふゆづき」のときには見届けられなかったのですが、今回は「いずも」が
見えなくなってしまうまでここで見送ろうとわたしは思いました。


最終回に続く。




 


「いずも」引き渡し式観覧記~出港準備

2015-04-02 | 自衛隊

ところで前回の祝賀会の写真を見て、お気づきになりましたか?

画面にほとんど彩りがなく、グレーか黒か紺の集団ばかりが写っていたことに。
そう、護衛艦の就役行事に参加する人たちのというのは、ほとんどが
制服の自衛官でなければ企業関係、防衛省関係で占められていたということです。
もちろん一般に対して公募されたものでもありませんから、
そういう絵面になるのは当然として、艤装員家族の皆様以外には女性すらおらず、
わたしのいた「会社招待」出席者の式台は、ふと後ろを振り返ってみると、
確認する限り全員がスーツの(わたしもスーツでしたが)男性ばかり。 

艤装員家族以外は、防衛省関係で夫に連れられてきた奥様のような感じで、
女性お一人様参加というのは、わたし以外には、自衛官を再就職で積極的に雇用しているらしい
会社の社長らしき人(妙に具体的ですが、あるきっかけで知った) くらいでした。



さて、バスで再び会場に。
黒塗りの車が止まっているので、だれがこんな早く来ているのだろうと思ったら、



自衛隊の制服組でした。
「いずも」の艦尾側には、この護衛艦を手がけたJMUの社員たちが
見送りのために集合しています。



報道陣の前には、式台に向かって吉野艦長、そして海曹長、海士長が
立って出航式典の始まるのを待っていました。
海士長というと旧軍の上等兵、セーラー服を着た海士たちのトップです。
3曹に昇任するか11年以内に退官するのが普通なので、セーラー服を着ているのは
100パーセント、20台の若者ということになります。
まあ、おじさんにセーラー服は似合いませんよね。そういう問題じゃないか。



艦橋デッキからは乗組員たちが顔を出して、知り合いに手を振ったりしています。



全員の視線が艤装員家族席に向けられていますね。
ここで手を振っている隊員をアップさせていただきました。



上げた手を横から掴んでるらしき別の手が見えているんですが、
これ、確かに右の2佐の手なんでしょうね?



出航式典が始まりました。
海上幕僚長、JMU代表、あと1名が式台に立ちます。



台の袖にずっと花束を持って控えていたJMUの女子社員たちが、
「いずも」乗員代表に花束贈呈。



吉野艦長はもらった花束を海曹長に預けて敬礼。



「いずも」乗員代表としての就役への決意を述べる挨拶を行いました。
ところでこのシリーズをアップしてから、吉野艦長の知人である方が
さっそく「いずも」に突撃してこられ、そのご報告をいただきました。

それによると吉野1佐が任官した30年前は、まだ「たかつき」型や「やまぐも」型が主流で、
「はつゆき」型がちらほらいるという状態。最大の船が「しらね」だったそうです。

そんな世代の自衛官たちは、自分が在任中に全通甲板の船が出来るとは夢にも思っていなかったし、
吉野艦長自身も、よもや自分がその艦長になるとは思わなかったとおっしゃっていたそうです。

そうと知って見る艦長の様子からは、「感無量」という言葉がその面持ちに窺えますが、
この

「本当にここまでなっちゃってわたし夢でも見ているのかしら」

は、多くの自衛官たちにとって共通する感慨でもあるそうですよ。
「幸せすぎて怖い」ではないですが、これからどうなっていくのかということも含め
皆が気の引き締まる思いをしている、というのもまた・・。


その感激と誇りを胸に、今「いずも」に乗艦する自衛隊指揮官の後ろ姿。



二人分の花束を持った海曹長もきりりと口元を引き締めて。



海士長も続き、これで全員が「いずも」に乗艦しました。



その途端、舷門で待機していたヘルメット着用の自衛官たちが中から飛び出してきました。



ハッチを閉める準備を一斉に行います。
まずは赤絨毯の撤去。



なんと絨毯ではなく滑り止め付きの赤い板でした。
一枚の板を8人で持ち上げて奥に運ぶのですが、



一番手前の板にまで作業する人が行き渡らず、なんと一番手前の
小柄な女子自衛官が、この超重そうな板の下端を一人で持つことに・・・。

「あああ、早く誰か来てあげなきゃ!
女の子一人にあんなところを持たせるなんて、酷いなあ!かわいそうに」

隣のMさんがしきりに気を揉んでいましたが、女性自衛官もこんな作業に
普通に加わっているあたりが、現代の護衛艦だなあとわたしはちょっと感動しました。

やはり彼女には(文字通り)荷が重かったらしく、腰が上がらない状態でしたが、さすがは自衛隊、
彼女が苦労している様子を見て上から一人が飛んできて(それでも6名ですが)
無事に全部運び終え、わたしもほっとしました。



そして即座にハッチの扉が地面と平行に持ち上がっていきます。
報道陣は熱心にその様子をカメラに収めていました。



舷門とちょうど同じ高さに持ち上げた後、



二人が出てきて、固定しているらしい棒のようなものを引き抜きました。



ここからはまず内側のハッチ扉が閉じていきます。
二重の扉だったんですね。



ちょうど内扉の隙間から中の作業を見守る人たちが見えました。

防衛省市ヶ谷勤めの陸上自衛隊写真中隊カメラマンが近接して写真を撮っています。



内扉はこのまま「いずも」艦体にむかって折るように倒れていき、



こんな状態になりました。
つまり、このまま手前が上に来るような形で壁になるようです。
この時には外壁となる外扉が半分ほど引き出されている状態。



内側に向かって閉じていきます。
動くスピードは結構早いものでした。



外壁と内壁の隙間というのは大変広くとってあるらしいことがわかりますね。
2メートル前後はあるのではないでしょうか。



閉まるう~~~!



ぴったりです。当たり前か。
扉の上角に打ち出したような微妙な凹みがあるのがなんだか気になりました。



カメラ目線のJMU社長(たぶん)。
全員が息を飲むようにして見守るハッチを閉じる作業でした(笑)

いよいよ「いずも」が、艤装員からこの瞬間乗組員となった隊員たちを乗せて出航です。 


続く。
 


「いずも」引渡式・自衛艦旗授与式観覧記~祝賀会

2015-04-01 | 自衛隊

さて、というわけで午前中の引渡式・自衛艦授与式は終了いたしました。
わたしたちはアナウンスに従って順次マイクロバスで、祝賀会会場に移動しました。

ところで、艦名の「いずも」ですが、公表前に 防衛省の海上幕僚幹部が
艦名を命名式前にネット上にさらしていたことがわかって問題になったそうですね。

わたしは思うのですが、これ、内々の関係者の間ではかなり前から決定された艦名は

「こんどできるヘリ搭載艦の名前、決まったらしいよ」
「なに?長門?赤城?」
「いずもだって。あ、でもこれ誰にも言わないでね~」

という流れでどんどん広まっていったんですよきっと。
というのはですね。
わたくし、あるところで「いずもの2番艦」の名前を去年すでに聞いているんですよ。
ここでそれを書くと大騒ぎになるので、指が裂けてもその名をタイプするつもりはありませんが、
それを聞いたとき、思わず一呼吸おいて

「来ましたね」

と厳かにつぶやいてしまうような名前だった、ということだけは言っておきましょう。
何が言いたいかというと、わたしのところまでその噂が来るくらいだから、
関係者の間でその手の情報があまねく伝わっても仕方がないということなのです。

で、その幕僚幹部もそこまで秘匿せねばならないことをついうっかり忘れて
何の気なしに公開してしまったと・・・・。

まあ考えたら特定秘密保護法案の対象になるほどのことでもなし、
すでに関係者の間で公知の事実となっていることが漏れたからってそれが何、
といえなくもないですが、幕僚監部の中枢がこれではユルすぎないかい?
とつまり、自衛官としての自覚を問われたということなのかもしれません。

ところで「いずも」が「ながと」にならなかった原因というのは、これも噂ですが、
旧国名で安倍総理の地元の山口県が旧国名「長門」だからと言われています。

予想ですが、野党や左側から

「自分の地元の名前を空母に換装できる護衛艦につけるとはやっぱり右傾化がフンダララ」

などと深読みされて痛くもない腹を探られては、ただでさえ胃腸が丈夫ではない安倍さんに
お気の毒だ、というような意見が側近から出されたのではないかとわたしは思っています。

さて、そんな話はさておいて、バスがとまったのは祝賀会場と書かれていなければ
とてもそんな風には見えない建物の前。

三井造船は祝賀会用に戦前に作られた迎賓館をそのまま利用していましたが、

護衛艦を手がけるのはなんと18年ぶり、つまりその建物が防衛省のために使われたのも
本当に久しぶりだったということだったわけで、かつての海軍との蜜月時代を思えば隔世の感があります。


ちなみにここで最後に新鋭護衛艦が就役したのは「いせ」の
2011年3月16日、あの大震災の5日後のことでした。



地味な空間にこれでもかの紅白垂れ幕、赤い絨毯。

わたしはここで三井造船の時のように「VIPとそれ以外」で別れるのかと思っていたのですが、



中は皆一緒でした。

というか、広い。まるで体育館のような・・・・。



とおもったら本当に体育館でした。
球技用の電光掲示板がある~!

 

そしてまだだれも手をつけていない宴会料理。
どれどれ、どんなものがあるかな?



刺身の舟盛り、デタ~!
さすがは船会社、目につくところにどおおお~んと船があります。



こちら小卓に置かれた寿司桶とサンドイッチ。



フルーツとケーキのタワー。



皆が写真を撮りまくっていた「いずも」就航記念日本酒。
飲めたら飲んでみたかったなあ。
ところで、移動の時クロークで荷物を待っていたら、この酒瓶を持って帰っている人を目撃しました。
どうも記念のお土産代わりに(勝手に)されたようでしたが、うーん・・・。




会場に入って驚いたのは、ものすごい人数の出張コンパニオンがいたこと。
制服はもちろん、髪型と頭につけている飾りまで皆お揃いで、
会場では皆恐ろしいくらい同じ顔に見えましたが、こうしてみると全然違いますね。
当たり前か。

これだけのコンパニオンを投入してくるとはJMUお金かけてる!という感じです。



そこに中谷元・防衛大臣が入来。
人混みの中を歩かせるわけにはいかないので、わざわざ体育館の隅に
ロープで仕切った赤絨毯の通路を作ってお出迎え。



中谷大臣の挨拶は、公式行事の時と違い、お国訛り(高知)のアクセントで
本日は晴れ渡り富士山が大変綺麗にみえ、桜も咲き初めたことなどを
わりとゆるく語るというものでした。

最後に自作の俳句

「桜咲き 富士をながむる ”いずも”かな」

を披露して出席者の温かい拍手を受けて、その後わずか10分ほどで退場。
お昼ご飯は食べることはできたのでしょうか・・。



乾杯の音頭までは後ろの方にいましたが、わたしはカメラを持って一番前に突入。
そこには超VIP用の立食テーブルで、食べ物がすでに用意されていました。
おそらく皆ここで乾杯だけしたのだと思われます。
でも、箸のつけられたらしいお皿は一つもありませんでした。



吉野艦長もここで乾杯されたのだと思いますが、ご覧の通り。
乾杯ももちろんビールではなく烏龍茶です。
飲酒運転になるから・・・・というわけではもちろんありませんが。



会場の前に「いずも」の巨大な模型が飾られていました。
これをここに運搬してくるだけで大変だったと思われます。
ケースの上部にはこんな絵が飾られていました。



初代海防艦「出雲」と「いずも」の比較。
大きさだけから言うとまったく別の種類のものになってしまった感があります。
「出雲」は昭和20年7月24日の、「伊勢」が大被害を受けた呉大空襲で戦没していますが、
それよりわたしが注目したのはこれがあの上村彦之丞が乗っていたということです。

船乗り将軍の汚名返上

上村大将がこの「出雲」でリューリックの乗員を海面から救助し、
浮かんでいた小鳥まで救い上げ、救助されたロシア軍人が
これは自分の飼っていた鳥であると涙を流して感謝したという話は忘れられません。

「いずも」も「出雲」のように、災害の際の人命救助を大きな使命としているのです。



どうもケースのガラスが反射してわかりにくいですが・・。
甲板には同時に5機発艦する気満々のヘリコプターが(笑)



人物もいますかね。
メインマストには自衛艦旗が翻っています。



前甲板上方からの角度。
こうしてみるとやはり「空母」と呼びたくなりますね。




細部にもこだわって。

二台の救急車?を配置して、「いずも」=災害救助がメイン、を強調しているかな?




会場の隅の自衛官正帽置き場にもちゃんと注目するのだった。

ほとんどが「カレー」、将官の帽子ですが、縁に飾りのない帽子は
奥の方もそうですが、こちらのも上に「カレー」が重ねて乗せられてしまっています。
これはもしかしたら一般人には窺い知ることのない慣習のようなものがあるのでは?



と思って他の部分にも目をやると・・・・・ほら、空自の正帽も、

飾り付きが飾り無しの上に重ねられている!

これはもしかしたら

副官が自分のボスの帽子を預かって、分かりやすいように
まとめておくにあたって、自分の帽子の上においている?

と推測してみたのですが、どなたか正解をご存知ですか?

ところで、空自からはWAFも出席していたようですね。




会場の隅には蕎麦と握り寿司の屋台も出ていました。
寿司桶も会場にはありましたが、屋台の握り寿司は大人気。
わたしも一皿いただいてみましたが、ちゃんと回らないカウンターのお寿司屋さんの味がしました。
当たり前か。



そしてこの写真に写っているWAVEさんに注目~~~!
これ、どなただと思います?
はい、この間1佐に就任した東さんの同期の大谷2佐ですね。
美人艦長としてメディアにも騒がれましたが、実際に見てもお綺麗な方でした。

お話ししているのはおそらく元海将だと思われます。

さて、会場で名刺を配りまくることもせず、ざっと見たところ
知り合いはたった一人でしたので、その方に挨拶を済ませ、会場を観察して
食べるものを食べたらわたしにはもうここに用事はありません。
気づけば散会まで結構時間があるのに、どんどん人が退出していっています。

一応出席はしても午後からの見送りはパス、という人が案外多いとみた。
しかし、カメラを持っているとどうも「人より早く場所を確保したい」
という焦りが生まれてくるというのもおそらく経験者ならお分かりですよね?

というわけで、まだ会は続いているのに、わたしはクロークに預けた荷物を取り、
バスに乗り込むと・・・・一番前の席にすでに座っている見覚えのある人影が。

「Mさん!」
「ぼくエリスさんのアドバイス通りまた早く行くことにしましたよ。
いやー、今日はおかげさまでいい場所で写真が撮れました」

はい、よかったです・・。



バスが岸壁に近づくと、「いずも」には大きなタグボートがスタンバイしているのに気がつきました。 



いずもと書かれた艦尾のこんなところにも人影が・・・。

出航作業が皆の手で着々と進められているようです。


続く。