阿弥陀さまの「誓願不思議を信じ、念仏申さば仏になる」
そんなの信じられますか。
…道理を超えています。
道理を辞書には
「物事の正しいすじみち・正論であること」
私の考える道理とは、自分の生きてきた経験や学んだ事を基にして「道理」と思ってる。
言ってみれば「我を基にした道理」であります。
「誓願不思議を信じ念仏申すば仏になる」とは、仏さまの道理であります。
仏さまからすると、「自我を離れて仏の道理に随順せよ」と教勅であります。
しかし、私たちは「我」を捨てることは出来ません。
「無我」になることが出来ない私に仏さまは、信じること心も、念仏申す心も、仏さまの側で仕上げて廻向するという道を選択されました。
まさに私の道理を超えて「超越した道理」へと信順せしめるはたらきであります。
歎異抄
一 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。
〔取意〕
人間の思いやはからいを越えた阿弥陀如来の誓願のはたらきにたすけられて、ほかならぬこのわたくしが、間違いなく往生を遂げさせていただくのであると信じて、念仏申そうと思い立つこころの起こるとき、同時に、おさめ取って捨てぬという救いにあずからせてくださるのです。
阿弥陀如来の本願においては、老いも若きも善人も悪人も、わけへだてして拒まれることはありません。ただ、わがための救いと受けとる信心一つを往生の要とするのであると知らねばなりません。何故ならば、罪悪深重にして煩悩燃え盛るわたくしたちをたすけるための誓願であってくださるからです。
それゆえ、このわたくしを救おうとの本願であると信じようとするのに、他の善根も功徳も必要ではありません。往生浄土のためには、本願からとどいた念仏にまさる善根も功徳もありえないからです。また、罪業も悪行も、往生のさまたげになるのではないかと恐れる必要はありません。罪悪深重の凡夫を救おうという弥陀の本願をさまたげて無効にしてしまうほどの悪などありえないからです。このように仰せられました。