人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

ホセ・クーラのオテロ・デビューと、ある劇場マネージャーの存在

2018-08-18 | 1997年、アバド、ベルリンフィルでオテロデビュー



少し前のことですが、今年2018年7月に、イタリアのある元芸術監督が亡くなり、ホセ・クーラは、フェイスブックで長文の追悼文と彼を悼むカバー画像を掲載しました。

その方は、イタリアのトリノ王立歌劇場の芸術監督だったカルロ・マイヤー氏です。
マイヤー氏は、クーラにとって大切な恩人だったそうです。初めてクーラの大きな役を与えてくれた人であり、そして何よりも、クーラが世界的に知られる大舞台となった1997年トリノ歌劇場のオテロに、クーラを抜擢した人なのだそうです。

クーラの追悼のコメントがつぎのFB記事にあります。
トリノのオテロ出演にいたったエピソードとしても興味深いので、紹介したいと思います。





≪ホセ・クーラの追悼メッセージ 2018年7月22日FB投稿より≫

オペラのマネージャーのなかには、多くの才能を破壊すると非難される者もいる。しかし何人かは――それは多くはないが、私たちのビジネスの未来を保障するのに十分なほどに―― 彼らのビジョンに対し感謝すべき人々だ。

カルロ・マイヤーは63歳で今日、亡くなった。もう1人のがんの犠牲者。

カルロは90年代のトリノ歌劇場の黄金時代に、芸術監督だった。
そして彼は、私に最初の大きな役をくれた人だった。マクロプロス事件(ヤナーチェク)のアルベルト・グレゴル役。
しかし主には、私に1997年の最初のオテロをやるように説得した人だった。

オペラの歴史についてはわからないが、しかし私の個人的な歴史は、確実に、カルロ・マイヤーが存在しなければ、同じではなかっただろう。

1996年、私はオーストラリアで「プッチーニ・スペクタキュラー」(プッチーニ4作品から名場面を抜粋して構成した公演)に出演中だった。その時、カルロが私に電話をかけてきて、1997年のオテロへの出演を要請した。

私は最初はNOと言った。私は33歳だった・・。
彼は私を説得するために、毎日私に電話をしてきた。

彼が、イタリアの放送局RAIは、もし私が受け入れるならライブ放送をするだろうと言ったときだった。私は言った。
「プレスはおそらく、大胆さのために、私を殺すだろう。少なくとも私は、それをやったという証拠を得る。そして時が教えてくれるだろう」
そして時間は確かに教えてくれた!

ある時、カルロが私に言ったことがある。
「シドニーに何度も電話をしたので、電話料金は、公演当日の出演料より高かった」
当時、いま私たちが使っているようなインターネットはなかった。

REST IN PEACE――安らかに、親愛なるカルロ。

私はあなたにたくさんお世話になった。私はあなたを決して忘れない!






●イタリアのネットメディアでも

イタリアのインターネットでも報道され、クーラがFBでリンクを紹介した記事は「さようならカルロ・マイヤー――彼は黄金時代の劇場を率いた」と高く評価しています。

この記事のなかでも、マイヤー氏の功績として、フレーニとパヴァロッティのラ・ボエームのライブ放送(1996年)と並んで、ベルリンフィルとクラウディオ・アバド指揮、エルマンノ・オルミ演出のオテロ(1997年)が紹介されています。またクーラが述べていたマクロプロス事件でのクーラ出演もふれられていまます。





●伝説的な公演、1997年トリノのオテロ

マイヤー氏の説得によって、クーラが決意し、世界に生中継されて大きく成功したトリノのオテロ。クーラにとっては、テノールの大役オテロへのデビューであり、ベルリン・フィルとアバド、演出を担当した映画のオルミ監督ら、超一流のアーティストと共演した、クーラのキャリアの上でも忘れることのできない公演となりました。

これまでこのトリノのオテロについて、いくつかの記事で紹介していますのでご覧いただければ幸いです。

 *「1997年 アバド指揮、ベルリンフィルとオテロデビュー」
 *「ホセ・クーラとエルマンノ・オルミ監督のオテロ」



*リハーサルでクーラの質問にこたえるアバド


*クーラを指導するオルミ監督


*クーラとデズデモーナ役フリットリ


*クーラとイアーゴ役ライモンディ



すでに巨匠アバドは亡くなり、オルミ監督も今年5月に亡くなりました。そして劇場の芸術監督マイヤー氏の死去。
クーラのオテロデビューを後押しし、支えてくれた主な人々が、故人になってしまわれました。


この歴史的な舞台が正規の映像になっていないのは本当に残念です。RAIで生中継された映像(全編)がネット上にアップされていますので、リンクを。画質が悪いですが、クーラとフリットリの初々しい歌唱と演技、素晴らしい音楽を楽しむことができます。

José Cura early Otello



そしてこちらはヤナーチェク作マクロプロス事件の一場面を。
アルベルト・グレゴル役 (1993年12/9, 12, 14, 17,19, 23 トリノ・レージョ劇場)
91年にアルゼンチンからイタリアに移り住み、わずか2年後。クーラの才能と努力を見抜いたマイナー氏による大抜擢といえるでしょう。相手役は当時のトップソプラノ、ライナ・カバイヴァンスカ。

Janácek - The Makropulos Case - II act Part 3 Raina Kabaivanska, Jose Cura
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ホセ・クーラとエルマンノ・オルミ監督のオテロ / Jose Cura and maestro Ermanno Olmi in Otello

2018-05-18 | 1997年、アバド、ベルリンフィルでオテロデビュー




イタリア映画のエルマンノ・オルミ監督が2018年5月7日、亡くなりました。
オルミ監督といえば、「木靴の木」でカンヌ映画祭のパルム・ドールを受賞(1978年)するなど、日本でも有名な映画の巨匠です。脚本家、作家としても活動してこられたそうです。
そして私にとっては、ホセ・クーラがオテロにデビューした1997年トリノのプロダクションを演出したことで、忘れられない方です。

オテロの舞台となったトリノの王立歌劇場(レージョ劇場)が、「さようなら、エルマンノ・オルミ」という追悼記事をHPにアップしました。
その内容とともに、以前の記事でも紹介していますが、トリノのオテロについて、いくつかのエピソードを再掲したいと思います。






≪トリノ王立歌劇場の追悼≫

――さようなら、エルマンノ・オルミ監督
偉大なイタリアの監督、脚本家であり作家は、86歳で5月7日に亡くなった。
彼はカンヌの「パルム・ドール」(1978年)の受賞者であり、レージョ劇場は、1997年、クラウディオ・アバドが率いたベルリンフィルハーモニー管弦楽団との思い出に残るヴェルディのオテロによって彼を記憶している。オルミ氏は、ホセ・クーラ、バルバラ・フリットリ、ルッジェーロ・ライモンディ・・らの優れたキャストを監督した。


オルミ監督と、指揮者クラウディオ・アバド



クーラとフリットリを丁寧に演技指導するオルミ監督




≪動画に見るクーラとオルミ監督≫

YouTubeにアップされているリハーサル風景の動画。指揮者のアバド、オルミ監督の指示の様子が映っています。

オルミ監督の演技指導は、イタリア語なので何を言っているかはわかりませんが、実際に手取り足取り、監督自ら演技をしてみせたりもしつつ、詳細に、キャラクターの感情にもとづくリアルな演技の組み立てを教えているようです。


Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Rehearsal(1)



Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Rehearsal(2)-interview



この時、クーラ34歳、初めてのオテロ、そしてキャリアの急上昇の時期に、イタリア映画の巨匠からリアリズムにもとづく演技指導を受けたことは、その後のクーラにとって、とても大きな影響を与えたのではないかと推察します。



≪クーラのインタビューより≫

何度も紹介していますが、トリノのオテロについてクーラの言葉を、あらためていくつか掲載します。

●大胆なオテロデビュー
危険だった・・非常に。わずかなリハーサル、オーケストラと2日間、ステージングのために1週間だけ。それまでのキャリアで最大のメディア露出――アバドの指揮、ベルリン・フィル、エルマンノ・オルミ演出、RAIテレビ中継・・。本当に大胆なステップだった。歴史は私についていろいろ言うことができる。しかし誰にも、私に根性がなかったと言うことはできないだろう。

――2006年インタビューより
●34歳でオテロデビューのチャンス
私がオテロにデビューした時、私は34歳だった。そしてそれは、非常に大胆なことだった。マエストロ・クラウディオ・アバドと一緒で、世界に生中継された。私は「このチャンスを失うことはできない」と考えた。

そして私がしなければならないことは、オテロを34歳の男のように歌うことだった。しかし、この役柄で私とは比べものにならない素晴らしい経験をもつ45から50歳、そして60歳のテノールの解釈と比較すると、私は、自分の解釈に夢中になることはできなかった。もし私が彼らのようにやっていたら、私は第1幕の終りで、使いものにならなくなっていただろう。





――2015年インタビューより
●時には作品があなたを選ぶ
あなたが作品を選択するのではなく、作品があなたを選択する時がある。私は、34歳で初めて、オテロのタイトルロールを歌った。私はこれ以前に、この可能性を夢見たことさえなかった。
しかし、ある日、私は電話を受けた。「私たちはあなたのためにこのチャンスを持っている。あなたはそれを取るだろうか?それとも、このユニークな機会を失うことになる?」――電話線の末端から聞こえた。

私はすでに知っていた。これは、私の人生の大ヒットになるかもしない。このプロダクションは、1997年に100カ国以上でテレビで生中継されたのだから。アバドとベルリンフィルによって、このパフォーマンスは大成功した。

●作品との20年間の恋愛関係
これが私とこの作品との、20年間の「恋愛」の始まり方だった。

私は、このオテロの私のパートだけではなく、オペラ全体を熟知している。全てのキャストの音符、全ての歌詞と楽器のパートをほとんど暗譜している。少し努力すればデズデモーナのパートも歌うことができる...それは、毎回毎回、より詳細な多くのことを発見しつづけるための作業工程の一部だ。
ネバーエンディング・ストーリーだ。





≪トリノの舞台より≫

クーラとフリットリ、容姿も声も、フレッシュで美しく凛々しい2人。そして演出のオルミ監督と、指揮は世界的な巨匠アバド、さらにオケはベルリンフィル。途方もなく凄い、豪華なプロダクションでした。





イタリアのRAIによって世界生中継されたこのオテロですが、残念ながら正規のDVDなどにはなっていません。
いくつかの場面がYouTubeにあがっていますのでリンクを掲載します。


第1幕冒頭
Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Atto1-1"Esultate!"



第1幕オテロとデスデモーナの二重唱
Jose Cura's Hunkotello



第2幕終わり オテロとイアーゴの二重唱
José Cura "Si, pel ciel marmoreo giuro!"



第4幕 ラストシーン
終演後のクーラのインタビューもあります。まだ拍手が鳴りやまず、劇場内の大興奮ぶりが伝わってきます。

Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Atto4




「新しいオテロの誕生」と称賛されたクーラのオテロデビュー。
クーラのそれまでの努力と才能が花開いた瞬間であり、オルミ監督の演出と熱心な演技指導、アバドとベルリンフィルの音楽に支えられての大きな飛躍であったことは言うまでもありません。

トリノの動画をご覧になられた方は、現在のクーラのオテロとは、まったく声も歌唱も違っていることがお分かりだと思います。
このオテロデビューから、昨年2017年でちょうど20年。その間、クーラは世界中でオテロを歌い続け、解釈を深め、演技と歌唱を発展させてきました。
トリノでは、若々しく、とてもリリックな声と歌唱です。「34歳の男としてのオテロ」を歌うしかなかったという当時から、20年以上の経験を経て、現在では、55歳、オテロの本来の姿、年齢にふさわしい声、重厚さ、威厳と厚み、スケールの大きい、円熟した多彩な表現力があります。


現時点で直近のオテロの録画です。2017年ベルギー・ワロン王立歌劇場
“Otello” de Verdi - Live @ Opéra Royal de Wallonie



アバドもすでに亡くなり、そしてオルミ監督もなくなりました。しかしクーラのキャリアのなかで、彼らのような世界的な巨匠との出会いによって得たもの、ともに作りあげたものは、経験として蓄積され、現在の円熟期の土台となって生きていることと思います。

オルミ監督のご冥福を祈りつつ、その芸術と志が受け継がれていくこと、そしてクーラ独自のオテロがますます豊かに深くなっていくことを願っています。




*画像はトリノ王立歌劇場のHPなどからお借りしました。
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1997年 ホセ・クーラ、アバド指揮、ベルリンフィルとオテロにデビュー / Jose Cura / Otello in Torino

2016-06-01 | 1997年、アバド、ベルリンフィルでオテロデビュー



ホセ・クーラがヴェルディのオテロにロール・デビューしたのは、1997年のトリノ・レージョ劇場でした。以来、20年近くの間、解釈を深め、演技と歌唱を成熟させてきました。

この時はもともとプラシド・ドミンゴが予定されていましたが、キャンセル。急きょ、クーラに白羽の矢がたったようです。
それにしても、この公演は、たいへんな豪華布陣でした。指揮はクラウディオ・アバド、オーケストラはベルリン・フィルハーモニー、演出は著名な映画監督であるエルマンノ・オルミです。
キャストは、デズデモナがバルバラ・フリットリ、イヤーゴはライモンディでした。
しかも、イタリアのテレビ局RAIがテレビ生中継とは、若いオテロのデビューにとって、とてつもないプレッシャーだったと思います。

後にクーラは、「危険だった・・非常に。わずかなリハーサル、オーケストラと2日間、ステージングのために1週間だけ。それまでのキャリアで最大のメディア露出――アバドの指揮、ベルリン・フィル、エルマンノ・オルミ、RAIテレビ中継・・。本当に大胆なステップだった。歴史は私についていろいろ言うことができる。しかし誰にも、私に根性がなかったと言うことはできないだろう」と回想しています。

クーラのインタビューなどから、当時の思いを抜粋してみました。
またいくつか動画を紹介したいと思います。

 

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――2006年インタビューより
●34歳でオテロデビューのチャンス
私がオテロにデビューした時、私は34歳だった。そしてそれは、非常に大胆なことだった。マエストロ・クラウディオ・アバドと一緒で、世界に生中継された。私は「このチャンスを失うことはできない」と考えた。

そして私がしなければならないことは、オテロを34歳の男のように歌うことだった。しかし、この役柄で私とは比べものにならない素晴らしい経験をもつ45から50歳、そして60歳のテノールの解釈と比較すると、私は、自分の解釈に夢中になることはできなかった。もし私が彼らのようにやっていたら、私は第1幕の終りで、使いものにならなくなっていただろう。

 

●その年齢でのオテロ解釈を
だから私は、非常に抒情的なオテロを創った。声のボリュームよりも、より舞台上の存在感と演技にもとづいて。

多くの人はこう言った、「これはオテロではない、抒情的すぎる」と。確かに抒情的だった。
しかし34歳の時に、他に何ができるだろうか。これは私が永遠に続ける解釈ではない。これは、非常に危険で非常に困難であるこの役柄、45歳の成熟にふさわしい、テノールにとって象徴的な役柄であるオテロデビューのリスクを取ろうとする、34歳の男のための解釈だった。これは、リスクを計算し、生き抜くことを教えてくれた。

 

●史上初、生放送でのオテロデビュー
オペラの歴史のなかで、34歳でオテロに生放送でデビューした初めてのテノールだ。これは絶対に大胆かつ無責任だった。多くのテノールは、多かれ少なかれ、こっそりとオテロにデビューし、役柄に対処できることを確認する。そして、それができることを知って、次のオテロをよりオープンにする。

私はそれを34歳でやり、その時に可能な私のやり方でやった。批評家にとっては驚きだったが、そうやることで、その後も生き延び、いまこうやって話すことができている。  

 

――2015年インタビューより
●時には作品があなたを選ぶ
あなたが作品を選択するのではなく、作品があなたを選択する時がある。私は、34歳で初めて、オテロのタイトルロールを歌った。私はこれ以前に、この可能性を夢見たことさえなかった。
しかし、ある日、私は電話を受けた。「私たちはあなたのためにこのチャンスを持っている。あなたはそれを取るだろうか?それとも、このユニークな機会を失うことになる?」――電話線の末端から聞こえた。

私はすでに知っていた。これは、私の人生の大ヒットになるかもしない。このプロダクションは、1997年に100カ国以上でテレビで生中継されたのだから。アバドとベルリンフィルによって、このパフォーマンスは大成功した。

  

●作品との20年間の恋愛関係
これが私とこの作品との、20年間の「恋愛」の始まり方だった。

私は、このオテロの私のパートだけではなく、オペラ全体を熟知している。全てのキャストの音符、全ての歌詞と楽器のパートをほとんど暗譜している。少し努力すればデズデモーナのパートも歌うことができる...それは、毎回毎回、より詳細な多くのことを発見しつづけるための作業工程の一部だ。
ネバーエンディング・ストーリーだ。



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この時のクーラは、ベテランのライモンディと共演。老獪なイアーゴに手玉にとられる、まだ若い一途な青年オテロという印象でした。
リハーサルの動画をみると、映画の巨匠のオルミ監督が、クーラやフリットリに非常にきめ細かく演技を指導している様子がわかります。
アバドとベルリン・フィルの音楽、クーラの瑞々しい声、可憐なフリットリとの美しい舞台姿、オルミ監督によるきめ細かな演技・・成熟したオテロと違う、フレッシュな魅力の舞台です。

YouTubeには、keyakixxさんという方が、舞台リハーサルの様子やインタビューを紹介したTV映像と、舞台の主な場面をアップされています。
リンクを紹介させていただきます。

リハーサル動画(1)
Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Rehearsal(1)


リハーサル動画(2) 後半にインタビューあり
Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Rehearsal(2)-interview


舞台第1幕 オテロの登場"Esultate!"
Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Atto1-1"Esultate!"


第1幕 オテロとデズデモナの二重唱
Già nella notte densa...


第2幕 オテロとイアーゴ 二重唱 "Si, pel ciel・・"
José Cura "Si, pel ciel marmoreo giuro!"


第3幕
Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Atto3-1


第3幕
Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Atto3-2


第4幕
Otello-Abbado-Cura-Frittoli-Raimondi-Atto4


1997年の衝撃的なオテロデビュー以来、20年近くオテロを歌い続けてきたホセ・クーラ。
世界中でオテロを歌い続け、解釈を掘り下げ、2013年には故郷アルゼンチンのテアトロコロンでオテロを演出、今年2016年にはオテロの指揮も成功させてきました。

「ヴェルディの音楽と手紙を土台においた役柄の解釈、ヴェルディのスコアに対する革命的読解の旅はまだ終わっていない。――ホセ・クーラ」



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