2018年5月5日にロシア・サンクトぺテルブルクのマリインスキー劇場で、サムソンとデリラに出演したホセ・クーラ。このクーラのサンクトペテルブルク訪問に合わせて、クーラのインタビュー記事が掲載されました。
このインタビューは、昨年、オネーギン賞授賞式のためにサンクトペテルブルクを訪問(2017年10月)した際に取材を受けたもののようです。
子どもの頃からの音楽への歩み、人生観、芸術観、アーティストとしての信念などがよく理解できる内容なので、抜粋して紹介したいと思います。ちょっと長めですが、お付き合いいただければうれしいです。
原語がロシア語なので、いつものように、誤訳直訳、不十分な点はお許しください。
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ホセ・クーラ――重要なのは、有名であることではなく、あなた自身の環境に有益であること
Q、今回の訪問(2017年10月)は非常に短いと聞いた。 サンクトペテルブルクへ、ロシアへ、もう少し長い間、来たいと思う?
A(クーラ)、もちろん! 今までロシアでは、オペラの公演で歌ったことがないので、ここに歌いに来るのは素晴らしいだろう。
オペラ歌手としての私の時間はいずれ終わることを知っているので、伝説のマリインスキー劇場で、オテロやピーター・グライムスなどの役柄のなかから歌うことができるなら、それは素晴らしい。
Q、あなたの子供時代について。あなたの家で音楽は? 両親は音楽と関係していた?
A、両親はプロのミュージシャンではなかったが、父はピアノを弾いた。毎晩、父は仕事から家に帰ると、ただ自分自身の楽しみのために、ベートーベン、リスト、ショパンを少し演奏した。1974年、父は自動車事故で腕を怪我し、その後再び弾くことはなかった。
私は1962年12月に生まれた。つまり、人生の最初の11年間、家でピアノの音楽を聞いていたが、その後、それは止んだ。しかし、私はいつも音楽とつながっていると感じていた。
両親はいつも音楽に興味を持っていた。その当時、CDはなく、インターネットはなく、音楽はビニール製のレコードの中にあった。母は、クラシック、良いポップミュージック、シナトラ、フィッツジェラルドのレコードの巨大なコレクションを持っていた。
母は音楽を区別しなかった。ある日、それはベートーベンで、また別の日はポール・マッカートニー、私はこのような雰囲気の中で育った。
Q、あなたに強い印象を与えた音楽作品について、子ども時代からの特別な記憶は?
A、いいえ、音楽的な体験を1つだけ区別することはできない。私は多くの音楽を聞いた。アルゼンチンのロサリオで育ち、普通の子ども時代を過ごした。
劇場に数回行ったことを覚えている。ギターのためのコンサートに耳を傾けた。おそらくこれは、この楽器に対する私の関心の始まりを示している。しかし、子どものころに消えない印象を与えた出来事というと、特に覚えていない。
しかしティーンエイジャーだった時、伝説のギタリスト、エルネスト・ビテッティ(Ernesto Bitetti)が音楽的なアイドルだったことは確信をもって言える。彼もロサリオ出身で、私の家族は彼の家族と親しく、私たちは語り合い、パーティーでお互いに訪問し合った。今は引退しているが、この世紀には世界で最も有名なギタリストの一人だった。
エルネスト・ビテッティと共演、同じくアルゼンチンの作曲家アルベルト・ヒナステラ作曲「忘却の木の歌」、 クーラのアルゼンチンソングのアルバム「アネーロ」に収録。
Canción del árbol del olvido - tenor José Cura (ARGENTINA)
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Q、音楽があなたの職業になると決めた瞬間を覚えている?
A、7歳か8歳の時、父が私にピアノを習わせた。先生はとても素敵な高齢の女性だった。彼女は私にピアノの弾き方を教えようとしたが、私はまだ子どもで、とても活発で、気まぐれだった。そして、3、4回のレッスンの後、彼女は、私があまりにも幼く、音楽に興味がなかったと言って、私を家に返した。
ピアノの後、私は方向を根本的に変えて、ラグビーをプレイするようになった。これは、もちろん、音楽とは何の関係もなかった。かなり長い間ラグビーをしてきたが、ほぼセミプロのスポーツ選手だった。
しかし、12歳になった時、学校でギターを演奏する同級生に出会った。彼がギターを弾いて、歌を歌うと、まわりの女の子みんなが喜んだ。私もぜひこれを学ばなくてはと思った。独学でギターを学び、ビートルズの歌を歌った。
14歳の時、私は父に、ギターを弾くのが好きで、真剣にこれを学びたいと言った。本当の先生について勉強を始めた。そこからすべてが始まった。
今もコンサートのアンコール曲としてイエスタディを好んで弾き語りする。ギターを習うきっかけについても語っている。
José Cura in Prague - Yesterday 2003年
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Q、ギターから作曲、歌、そして指揮への移行はどのように?
A、ギターは素晴らしい楽器。今日にいたるまで、私が本当に愛している唯一の楽器だ。
しかし、時間の経過とともに、ギターは私の情熱的な性質にとっては、あまりにも静かなツールであることを感じるようになった。
私にはもっと何かが必要だった。
ある日、私は父に、音楽院で学んで、作曲家や指揮者になりたいと言った。音楽院には他の多くのコースの中にボーカルのコースがあり、それで私が声を持っていることが判明した。20歳頃だった。それ以前も、いつも歌っていたが、それはまったくオペラのスタイルではなかった。
指揮者をめざして勉強したことで、私には声があると発見することを助けたが、私は歌手のキャリアについては考えなかった。
私は学びながら、合唱団で歌って、わずかなお金を稼ぎ、指揮と作曲を学び続けた。
22歳の時、長い年月の後、アルゼンチンで選挙が行われ、民主主義が国に戻った。
これは新しい時代の始まりだったが、非常に困難な時期でもあった。オーケストラや合唱団は資金調達に問題を抱えた。
生き残ることは難しく、指揮者として生活することは困難だった。そしてさらに作曲家としては、ほとんど不可能だった(今は、作曲家として稼ぐことは不可能だが、たぶん映画音楽を書く作曲家だけは何とか稼ぐことができるだろう)。
そして24歳の時に、私は考えた。歌うことができる。おそらく歌と関連して仕事を見つけることができるだろう――結婚式、パーティーまたはプロの合唱団...作曲の活動をサポートするために私は働く。合唱団で歌い始め、オーディションに行った。
今、オペラ歌手として認められていることは嬉しい。それに加えて、私は音楽を書き、指揮し、そしてまだ歌っている。
Q、今、あなたは、作曲家や指揮者、歌手であり演出家、そして振付師とカメラマン。将来の計画は?これらのすべての方向性を開発する予定?
A、すべてがどのように発展するかは誰も知らない。
まず第一に、将来、何が起こるかは誰にも分からない。それは健康についても、状況がどうなるのか。
今、私自身は、健康で若いと感じているが、年々、私はあまり集中して働くべきではないと感じるようになった。以前は、年100回の公演をこなした。そして今は、回復により多くの時間が必要だと感じている。
人生がもたらすあらゆる状況に反応して、適応できるように準備する必要がある。
これは1つの側面で、もう1つの側面は夢だ。もちろん、できる限り歌を続けることを夢見ているが、それは私の体にかかっている。
長い間歌うことができる人もいるし、できない人もいる。キャリアを通してどれだけ歌ったかにもよる。
例えば、キャリアの平均25年間で1000回の公演を行うとして、私はすでに2500公演をこなしている。
機械に例えるなら、すなわち1990年に製造された2台の自動車が、1台は50万キロ走り、別の1台は5万キロ走ったようなもの。2台の同一のマシン、そのうちの1台がより多く稼動した。だから、これから私の体がどう動くのかを見ていこう。
しかし夢は、もちろん、指揮をし、曲を作ること。そこからすべてが始まった。そして、そこに戻ることは、サイクルを完了させるすばらしい道だ。
Q、オペラでは、お気に入りのヒーロー、好きなオペラのパートがある?
A、いつものやり方で答えよう―― 私の好きな役柄は、私が今歌っているもの。言い換えれば、あらゆることをやった後、数多くの役柄と多くの公演の後に、今、舞台に立つとき、自分が本当に演じることのできる役割を演じ、それを本当に楽しんでやっている。金儲けのためにステージに出ることはない。
若いときは、生計を立てなければならず、職業につかなければならない。その後、こう言える時がくる―― この役柄では私は非常によく歌うことができる。そしてこの役で私はあまり良くはないので、それでない方がいい。
Q、あなたが一緒に歌って非常に快適な同僚の名前をあげることはできる?
A、もちろん名前は言えない。
私にとって、ステージの上で誰かと共に立って、一緒に働くことは、カップルでダンスをしたり、愛し合うことのようなもの。それはとても快適でなければならない。リードし、その後パートナーがリードする瞬間、相互作用がなければならない。これがステージで私にとっての完璧なパートナーだ。
時には、"リードする方法を知らない"または "あなたの足を踏む"パートナーがいる。これは私には、ほとんど起きなかった。
相手に足を踏まれるほど、ダンスでひどいことはない。それは苦痛だ。
そして、あなたには2つの選択肢がある――踊りを止めるか、あなたがリードするか。そうすればすべてうまくいく。
状況に応じて、進める方法を決定する必要がある。私は幸運だった。これまでの仕事の中で、"ダンスを止めた"ことは一度もなかった。
Q、あなたがアンナ・ネトレブコと歌ったことを知っている。他のロシアの歌手と一緒に仕事をした?
A、イエス、もちろん。2人のロシア人歌手、オルガ・ボロディナとマリア・グレギーナと数多く歌った。1995年にマリアと会った。つまり、すでに22年も一緒に歌っている。
オルガとは1996年に出会い、彼女は最初のカルメンを私と一緒に歌った。それ以来、私たちは一緒に歌い、CDを録音し、一緒に年を重ねてきた。私たちの子どもも一緒に育った。私は彼女の娘を知っている。小さな女の子だったが、今は若い女性だ。
もちろん、私はディミトリ―・ホロストフスキーと親しかった。彼の家族を知っている。彼の子どもたちもその誕生から知っている。
Q、オテロを歌った時、あなたと一緒に歌うパートナーはそのほとんどが、初めてこの役を演じる若い歌手たちだったと聞いたが?
A、そう。デズデモーナの役で少なくとも20人の歌手、初めてイアーゴを演じる多くの歌手に、「洗礼を施した」と言うことができる。
ホロストフスキーも私と一緒に最初のイアーゴを歌った。
Q、一般的に言って、オペラ歌手の国籍や学校が、歌い方において歌手に大きな影響を与えていると考える?
A、歌うことは文化的な現象であり、絵画や文学、ダンスなどと同様だ。これは、単にボタンを押せば歌い始めるというものではない。この意味で、アルゼンチン人はイタリア人のようには歌わないだろうし、イタリア人はフランス人のように歌わず、フランス人はロシア人のようには歌わない。
私たちは、それぞれ自分の頭の中、またしばしば心の中において、自分が背負ってきた文化的な荷物を通して、芸術で自分自身を表現する。もちろん、トレーニングは助けになるが、しかしすべての人が、イタリアオペラでイタリア人のように歌い、ドイツ語のオペラでドイツ人のように歌うことができるなら完璧だが、それは非常に難しい。
たとえば私は、ロシア語のオペラを歌っていない。私は自分自身をロシア人として感じることができる基礎を持っていない。私はただ、海賊のようにコピーするだけだ。もし私がヘルマン(プーシキン原作、チャイコフスキー作曲「スペードの女王」)を歌うオファーがあったとしても、それは私のヘルマンを歌うのではなく、ヘルマンを歌った人の受け売りになってしまうだろう。私にはロシア語、ロシア文化のいずれの知識もないからだ。同じ理由で、ドイツ語のオペラを歌わない。
私はイタリア語、フランス語、英語、スペイン語のオペラを歌う。これらの言語を知っているし、文化を理解しているからだ。
私はこの点について、アーティストが正直であることが非常に重要だと考えている。この誠実さの中には、アーティストとパフォーマーとの違いが明示されている。すべてのアーティストはパフォーマーですが、すべてのパフォーマーはアーティストではない。
Q、ロシアでは、40のオペラハウスのうち、4~5か所だけが広く知られている。アルゼンチンの状況は?テアトロコロンのほかに有名な劇場は?興味深いものは?
A、これは簡単な質問ではない。なぜ名声が生まれるか?
まず第一に、その場所、この場合は劇場だが、例えば、著名な作品の初演が行われるなど、歴史の一部であることだ。
それはまた、経済的な力、すなわちお金の問題だ。劇場は「メディア・マシン」を立ち上げ、人々にそれを広げることができる。
つまり、これは私たちが好きかどうかの問題ではなく、ビジネスを動かすことの問題。私たちは美しいものに関連するビジネスに従事しているが、それもまたビジネスだ。
マリインスキーは多くの初演で知られている。過去においても、現在においても。ボリショイ劇場、ミラノ・スカラ座・・についても同じことが言える。これにはプラスとマイナスの点があり、それは観点によって異なる。
劇場がうまくいく場合、独自の聴衆とスポンサーを持ち、その都市で重要な社会的役割を果たしている。そして、有名な劇場であるかどうかは、あまり重要ではない。名声は非常に一時的なもので、今日はそうでも、明日はそうではない。知られていることが重要なのではなく、あなたがいる環境に役立つことが重要だ。
多くの有名な劇場のなかには、過去のためだけに今日も知られているが、現在のものを提供しておらず、現在知られるべきことを何もしていないものもある。もちろん、その名前には言及しない。前任者の栄光の後ろにあるものの1つだが、それは現在の栄光とは別もの。
したがって、あなたの質問に答えるのは簡単ではない。
Q、それでは少し違う聞き方を。私がアルゼンチンに行ったら、テアトロコロンの他にどの劇場を訪れるべき?
A、あなたがアルゼンチンに行って、テアトロコロンや他のいくつかの劇場を訪れるとしたら、私は「残念だ」とだけ言う。
もちろんテアトロコロンは非常に素晴らしいし、テアトロコロンのアーティストは世界でも最高のものだ。しかしヨーロッパの有名な劇場で同じようなものを見つけることができるので、そのためだけにアルゼンチンにやってくることはないだろう。
アルゼンチンに到着したら、あなたはテアトロコロンを含めて訪問する必要がある。アルゼンチンは信じられないほど美しい国だ。
おそらく、地球上で最も美しいところの1つ、しかし、しばしばあることだが、人々はその国に来て、最も有名な大都市のうちの1つか2つを訪れる。ロシアのモスクワとサンクトペテルブルク、アメリカ合衆国でワシントンとニューヨーク、イタリアではローマとミラノ。しかし、国の本当の美しさは、しばしば首都にはない。
Q、一般的な質問を。あなたは稀なタイプの声の持ち主であるドラマティックテノールだ。ドラマティックなテノールは少ないので、他のテノールが、ドラマティックな役柄を演じることを強いられる。自分の声の種類のためではないものを歌うのは本当に危険?
A、抽象的な例で答えよう。専門用語を使って答えるとあまりはっきりしないから。
50kgの体重のボクサーを想像してみてほしい。彼が別の50kgのボクサーと競うなら、すべては順調にいく。体重が50〜60kgの場合、これも正常の範囲だ。しかし、彼が100kgの対戦相手との戦いに入るなら、明らかに彼は死ぬことになる。
オペラも同じ。オテロは重い役柄、カニオ(道化師)は重い役柄、グライムズも100kgの役柄だ。あなたが100kgのボクサーなら、それらに対処することができる。誰でもそれは簡単だとは言わないが、それは物理的に可能だ。
そしてもしあなたが50kgで、マイク・タイソンと戦うつもりなら、確実に、あなたは負けると言うことができる。
Q、ピーター・グライムズについて。あなたは歌い、同時に演出をした。自身のプロダクションで歌うのはどんな感じ?
A、それは私にとって、信じられないほどの喜びだったと言わなければならない。これも、専門的な用語では話したくない。理解できない人が残らないように、別の例で説明したい。
あなた自身で本を書くことを想像してみてほしい。
あなたはそのページを開いて、そこに入り込むことができる。そのキャラクターの1つになり、絵を描き、魔法によって自分自身の創造物に入ることができる。これが、自分のプロダクションに参加するときに感じる気持ちだ。夢に足を踏み入れたみたい。これがロマンチックな側面。
ロマンティックではない側面は、それは非常に困難をともなうということ。
あなたが歌手の場合は、3時間のリハーサル、または2回分のリハーサル6時間があり、家に帰ることができる。
プロデューサーの場合は、技術者、エンジニア、照明とのミーティングを行い、それから歌手とのリハーサル、オーケストラやピアニストとのリハーサル、そしてそれから新しく起こるすべてのことについて。
私が自分のプロダクションを行うとき、毎日朝8:30から23:00まで劇場にいる。
Q、あなたは、注目に値する「自分の夢へのステップ」を主導してきた...
A、イエス。
しばしば人々は、否定的な側面についてのみ考えて、肯定的には考えたくないようだ。
想像してみてほしい。あなたはあなたの夢を生きることができる。夢見ている世界を創り、そこに入り、そこで生きることができる。
一部の人々は私を批判する。そこで私は、「あなたならどうした」と聞く。すると彼らは「そうだね、私も同じことをやっていただろう」と言う。もちろんだ。もし彼らがチャンスを持っていたら、彼らもそれをしただろう。
私が一度にいくつかのことをしているという事実に同意できない人もいるが、私にとっては、歌手とオーケストラが良いかどうか、プロダクションが面白いかどうか、私がどのようにしてそれをやるかが重要だ。もしその答えが、「イエス、それはうまくいっている。プロフェッショナルに行われている」だとしたら、それで、何か問題が?私にとってはそれだけが重要だ。
また、いっしょに働く人たちがうまく働くことも重要だ。現実にいる人々、劇場のモーターであり、劇場の心臓部である人々といっしょに仕事をする。
劇場の心臓部は、支配人ではなく、経営陣ではなく、ソリストでもなく、音楽監督でもない。それらは変わることができる。劇場の中心は、技術者、電気技師、コーラス、オーケストラだ。これらの人びとはいつもそこにいて、彼らは劇場の血だ。
これらの人々が、もしあなたと一緒に働くのが楽しいなら、もしあなたと働くことを誇りに思うなら、そして最も重要なことは、あなたと安心して仕事ができると感じたのなら、あなたは正しいことをやっている。
その後、人々は、あなたが行ったことを、好きになることも、嫌うこともできる。しかし誰も、それをプロフェッショナルでないとは言わないだろう。これが私の譲れない境界線だ。私が何かをするようオファーを受け、私がそれをプロフェッショナルに行うことができないと分かったら、私はノーを言う。しかし、もし私がプロフェッショナルなレベルでやることができるなら、それが非常に難しい場合でも、私はそれをやるだろう。
批判されるかもしれないことを知っていても、私はそれを行う。人生は短いのだから。
もしあなたが人生においていつも、周りを見渡し、他の人が何を言うか考えているのであれば、あなたはつまらない人生を送ることになる。私たちは短い人生を変えることはでない。しかし、つまらない人生を、私たちはおそらく変えることができる。そして、これは私たち自身の決定だ。
Q、キャリア開発のために若いパフォーマーに何を勧める? 故郷で地元の劇場でキャリアを作ってから世界のオペラシーンを征服するか、それともプロフェッショナルなキャリアの初めからそこに行き小役からスタートする方が良い?
A、この質問に対する答えはない。
現在の視点に立つ必要がある。今私たちがどんな世界に住んでいるかを見なければならない。
オペラと古典芸術は、そのどちらも、この世界の外にあるのではない。その一部だ。それらは巨大な機構の一部だが、社会の一部。
私たちは非常に時代に生きている。テロリズム、移民、環境汚染、北朝鮮の狂気の核実験(2017年10月時点)等々。
さらに、若い人たちの大失業は、現実に、大きな社会的問題だ。
この現実のなかでは、古典芸術の未来についてだけ心配するのは、非現実的だ。
このことは、これをしてはならないという意味ではない。これは、私たちが主張しなければならないことを意味している。美しさは――私たちが行っているのは美である――それは常に魂の糧であり、それを止めてはならない。そして私は、止めてはならないと最初に主張するだろう。
社会がそうしない場合、人々は、自分自身で美しさを探し求め、それを必要とする。美しさを探して、それを自然のなかに見いだすだろう。もし神を信じるならば、神のなかに。また音楽、バレエ、絵、どこでも美しさを見つけることができる。
しかし、ほとんどの人が、月末までどうやって暮らしを持ちこたえさせるか考えている時に、社会にオペラへの支援を頼むのは意味がない。
若者に何をアドバイスできるだろうか?私にはわからない。
私が30年前にスタートした時の世界と、今の世界とは非常に異なっている。アドバイスは難しい。90%のケースで良い助言であることがわかっているようなアドバイスをするのは困難だ。
若いアーティストが、テレビで、ただ「兄」がいるだけで人気のアーティストになるのを見ている時、「熱心に仕事をして、たくさん学ぶこと、そうすれば何かを達成できる」ということを、どのようにしたら伝えることができるだろうか。
努力をせずに成功し、有名になった人がいることを知っている子どもたちに、どうやって説明を?どのようにして彼らに、たくさん勉強をして、仕事をし、 "まともな人間"になる方法を伝える?
私の息子は映画俳優で、今、勉強中だ。私たちは時々、そういうことについて話しあう。何人ものモデルやサッカー選手、ロックミュージシャンが俳優になり、ただ単に、彼らが有名だからという理由で役を得ているときに、どうやって、アカデミーで10年間勉強を続ける理由を説明するのか?
しかし、私は、若者が希望を失い、努力する欲求を失ってほしくない。彼らに、「もしそうなら、もうそれをやることはない」と思ってほしくない。それは真実ではないから。それは起こる。本当にトライしてみるなら、たぶん、それは起こるだろう。そして、過去にも、成功のための公式は決してなかった。そして今、これはさらに困難になっている。真の成功のための公式はない。
ただ有名になるための公式ならばある。何らかの形でニュースに登場すれば自動的に有名になる。
私はカメラの前でインタビューをすることができるが、誰かが私を怒らせたり侮辱したりすれば、それはニュースに表示され、すぐに有名になるだろう。メディアを使えばこれは非常に簡単だ。
だから、今日の真に大きな課題は、有名になることではなく、自らの仕事において卓越したものになることだ。
したがって、若者、若手アーティストへのアドバイスは――名声を求めないで。名声は短く、短命なのだから。仕事と人生における偉大さを求めて努力しよう。
いつにもまして、読み応えのあるインタビューでした。
相変わらず、インタビュアーが期待するような、社交辞令的な返答はいっさいぬきで、クーラらしい率直な発言が満載です。
またクーラ自身が、テノールとしてのキャリアの終わりを見通しつつ、「人生は短いのだから」やりたいことを大いにやろう、それは自分自身の決断だと語るのは、とても説得力があります。社会と芸術との関係、若いアーティストへのアドバイスなど、これまでも繰り返し語っていますが、クーラ自身が、商業主義的な成功を求めるのではなく、アーティストの社会的役割を大切にして、自分の芸術的な発展を一貫してめざしてきただけに、とても大事な問題提起だと思います。
そして劇場のスタッフ、技術者、合唱、オーケストラなど、ともに働く人々を大切に思い、一緒に誇りをもてるステージを創造していく真摯な姿勢には、いつも胸が熱くなります。今後、演出、舞台監督、プロデューサーなどの分野で、さらに活躍していくことでしょう。何といっても、人を惹きつける魅力、個性、そしてパワーと才能、強力な意志をもつ人物であることがよくわかるインタビューでした。
最後に、この5月、クーラのアルゼンチンのお母さまが亡くなられたそうです。このインタビューの前半でも語っていますが、活発で、好奇心と力をあふれていた子ども時代のホセを、温かく見守り、育ててくれた優しく、寛容なご両親だったと思われます。
クーラがSNSにアップした、素敵なご両親の写真のリンクを掲載しておきます。ホセの長男、ベンがインスタにアップしたものだそうです。
ご冥福をお祈りいたします。