人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

(レビュー編) 2016 ザルツブルク復活祭音楽祭オテロ Salzburg Easter Festival 2016 Otello / Jose Cura

2016-03-29 | ザルツブルク復活祭音楽祭2016のオテロ


ティーレマン指揮、ホセ・クーラ主演のザルツブルク復活祭音楽祭2016のオテロ、3/19、27の公演が無事終了しました。ボータ、ホロストフスキーのキャンセルをうけて、クーラとカルロス・アルヴァレスが出演しました。
  *これまでの関連する投稿 → (放送編) (リハーサル編) (告知編) (インタビュー「オテロに必要なのは“肌の色”だけではない」)
  

ザルツブルクのフェスティバルだけあって、初日19日の舞台は、現地テレビ放送、ネットラジオ放送、ネットのオンデマンド放送と複数の方法で鑑賞することが可能でした。また今後日本では、クラシカジャパンが4月に、そしてNHKも放送するらしい(NHKは未発表)ということです。放映予定などについては →(放送編)にまとめました。

当日の公演は、レビューで賛否が別れ、一部の観客からブーイングがあったそうです。主には演出に対してでしたが、歌手、またクーラに対しても辛い評がありました。しかし、録画ではありますが私自身が観賞した印象としては、クーラに対するブーイングやレビューによる批判には納得がいきません。
クーラは、直前まで喉頭炎にかかっていたとのことで万全のコンディションではなかったかもしれませんし、ボータを想定した舞台と演出、ティーレマンの細部にわたり丁寧で美しいが遅いテンポの指揮・・などはクーラにとって多少、制限として働いたかもしれません。しかし、シンプルで最小限の動きと舞台セットのもと、オテロに対する深い解釈と経験にもとづき、リアルな演技、メリハリのある迫力の歌唱、ドラマティックな感情表現で、最善をつくし、ヴェルディのオテロを描き出したと感じました。

ネット上で数多くのレビューを読むことができますし、今後、日本語でも感想や批評があがると思いますので、ここでは、クーラを評価したレビューをいくつか紹介させていただきます。語学力が不十分なので、誤訳があるかもしれないことをご容赦ください。

冒頭は幕が開いたまま、暗い中にオテロとデズデモーナが抱き合って立っている。すぐ退場。その後、"Esultate"で再登場、オテロは軍服風の上着。


●「確かにホセ・クーラは、オテロに必要な資質の多くを持っている。彼の "Esultate"はまだ少しは抑制され、ムラがあったが、しかし、最後の彼の死は、ファーストクラスであり、歌詞にもとづいて偉大な知性とともに歌われた。・・そして、もちろん、彼の演技、潜む噴火、彼の柔らかい瞬間、恍惚が軌道に乗る。彼は疑いなく、オテロが最前列に所属するために必要な比喩的な確実性を持っている。」(Der Neue Merker)

1幕のデズデモーナとの2重唱。暗く星空のような舞台、鏡を使用して、2つの角度から2人の姿が見える。たったまま、激しくキス、抱擁しあう。鏡で2組になった姿がエロティック。







●「ホセ・クーラのタイトルロールは納得力があった。…そして、ほとんど申し分がなかった。」(Frankfurter Neue Presse)

●歌唱の面では、プロダクションはフェスティバルに値する――オテロのホセ・クーラは、フルカラーのテノール、脆弱な優しさと、しかしまた燃えあがる火によって納得させた。」(Sudwest Presse)

デズデモーナの言葉で戦場を思いだし、PTSD(心的外傷後ストレス障害)で崩れ落ちるオテロ。


第2幕冒頭、イアーゴがオテロに疑惑の種をまくシーン。なぜかオテロはコーヒー?を飲みながら登場。動揺してカップを落として割り、破片を集めて元に戻そうとする。妻との関係の破綻と復旧への願望を象徴しているのか?






●「ホセ・クーラは、長く演じ続け、役割の歌唱に対処する賢明な方法を知っている経験豊かなオテロだ。彼は通常、火花をちらすパフォーマンスをおこなう。ここでは、彼は不思議なことに、妙に抑制的だった。疲れて、孤独な敗者のように巨大な部屋を通って潜入する。おそらく、演技のコンセプトがヨハン・ボータのために設計され、変更されなかったのではないか。」(Salzburger Nachrichten)

●「はじめかから、ホセ・クーラは、壊れて老いた、若々しい英雄的カリスマは遠い記憶であるオテロを歌う。ホセ・クーラのテノールは、多くの状況でくもっていて、その限界に挑戦しているが、まだたくさんの豊満さをもっており、彼は最終的なブーイングには値しない。」(Wiener Zeitung)

妻への疑念を深めながら、直接確かめることもできないオテロ。




第2幕、オテロとイアーゴの緊迫したシーン。全体に暗い舞台に、照明を部分的に当てて効果を出している。


オテロとイアーゴの力関係に特色がある演出。2、3幕とも、イアーゴは妙にふてぶてしく、協力を懇願するオテロを無視したり、突き飛ばしたり。すでに力関係が逆転している。"si pel ciel"の終了後にはブラボーも飛んだ。




3幕、本国からの使節や群衆の前で、妻を罵倒するオテロ。






●「主役のホセ・クーラとドロシア・ロシュマンは、ともに強力かつ自信に満ちていた。たとえ2人がケミストリーのうえでは夢のカップルでなかったとしても。初演時の2人へのブーイングは理解できないままだ。ドロシア・ロシュマンは、素晴らしい感性を持つ、非常に繊細な瞬間やハリケーンのような激しさとドラマチックなものを満たすことができることを証明した。同じことは、ホセ・クーラにも言うことができる。」(Klassik)

第4幕、最後のシーン。ベッドはなく、上部にウエディングドレスがかざられた白い壁、白い照明のもとで、2人の修羅場がすすむ。愛撫したり、一転して暴力的になったり、クーラの演技はDV夫を的確に描写した。




ラストシーン、オテロの死。



●「クーラは、最後のシーン“Niun mi tema”で、(オテロに必要な)この切迫感を実現した」(NZZ)

●「タイトルロールでホセ・クーラは優れていたが、ただいくつかの欠点のためだけに、初演の聴衆の最も口さがない部分に不当に罰せられた。」(NMZ)

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3SATで放送された録画が、さっそくYoutubeにアップされています。画質はよくありません。しかも、もともと暗い舞台、照明なので、少し見にくいですが、音はそれほど悪くはないと思います。クラシカやNHKの正規の放送を待つのが一番ですが、ちょっと雰囲気を知りたい方のために、いつまであるかわかりませんがリンクを。
→ 3/29やはり削除されていましたが、また別のがアップされていましたので差し替えました。

Otello 2016, Salzburg - Cura, Roeschmann, Alvarez, Bernheim, Thielemann





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(放送編) 2016 ザルツブルク復活祭音楽祭のオテロ Salzburg Easter Festival 2016 Otello / TV, Radio

2016-03-25 | ザルツブルク復活祭音楽祭2016のオテロ


ティーレマン指揮、ホセ・クーラ主演のザルツブルク復活祭音楽祭のオテロ、3/19の初日を終え、あとは3/27を残すのみです。 → 終了
ラジオ放送、TV放送などの情報をまとめました。なお、時期は不明ですがNHKで放送されるという情報もあります。
(補足)
 放送の様子、いくつかのレビューを紹介しています。→(レビュー編)
 また、ザルツブルクでのクーラのインタビュー「オテロに必要なのは“肌の色”だけではない」もご覧ください。

①ネットラジオ → 終了
放送は現地時間3/26 午後7:30~。日本時間は、たぶん3月27日(日)3:30~と思われます。
→終了 今後オンデマンド可能かどうかは不明。
プログラムのページ



②TV放送 クラシカジャパン
放送は4月です。プログラムによると収録日は3/27とのこと。クーラをはじめキャストのキャンセルがないことを祈ります。     
 →4/4訂正 クラシカジャパンのツイッターで、主催者の都合により3/27は収録なし、予定変更で3/19の初日の舞台に字幕をつけて放送とのこと。
初回放送は4/23(土)、21:00~
以後、25、26、27、28、29、30。 →4/30補足 5月、そして6月の放送予定もHPに掲載されました

放送案内のページ
→解説ページ



③インターネット・オンデマンド放送 → 終了
初日の舞台が、現地時間3/26~ネットで放映されます。有料で4・99ユーロ。
ただし日本、ドイツ、オーストリアなどが除外地域となっています。
地域制限がクリアできるならこれも見てみたいです。
日本時間は、3/27,04:15~ JST

放送案内のページ

(3/27追加)このSonostreamに問い合わせたところ、日本が除外地域になっているのは、NHKが放映予定のためだと回答がありました。時期は不明です。NHKでの放送が楽しみです。



④現地オーストリアのテレビ放送
3SATで現地時間 26.03.2016 20:15 bis 22:45

放送案内のページ



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フェスティバルの公式Facebookに初日のカーテンコールの写真が掲載されました。











初日のレビューをざっと見たところ、演出にかなり厳しい評が多く、観客からもブーイングがあったそうです。指揮、歌手などに対しても同様で、オテロのクーラに対しても一部観客からブーイングが出たようで、辛い評もありましたが、一方で、「決してブーイングは妥当ではない」とする評もありました。
あとは自分の目と耳で確認したいですね。

→このリンクに、ドレスリハーサルか初日の舞台の、短いビデオクリップがあります。


少し暗いですが、ラクロアの衣装も優雅で、全体に美しい舞台のように思われます。放送が楽しみです。

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ホセ・クーラ プッチーニの西部の娘 Jose Cura / La Fanciulla del West / Puccini

2016-03-24 | オペラの舞台ープッチーニの西部の娘


プッチーニのオペラ「西部の娘」は、ホセ・クーラの個性、キャラクターにぴったりの作品です。
主人公ミニーの相手役ディック・ジョンソンのアリア「やがて来る自由の日」は、クーラが国際的なキャリアをひろげるきっかけの1つとなった、プラシド・ドミンゴ主催オペラリア1994年で優勝した時のファイナルで歌った曲でもあります。その時の動画がYoutubeにアップされていますが、とても強靭な声、若々しい歌唱です。

Jose Cura 1994 "Ch'ella mi creda" La fanciulla del West




今年2016年は、この「西部の娘」に2つの劇場で出演する予定です。まずは、ドイツのハンブルク州立歌劇場で、2016年6月4, 9, 12,15, 24。ミニーはBarbara Haveman。→劇場のページ
*ハンブルクの舞台の写真、動画、またクーラのインタビューを紹介した記事はこちら→「西部の娘 プッチーニは最もエロティックな作曲家の1人」

そして秋には、ウィーン国立歌劇場で、2016年11月27、30日と、12月3、6日です。
*4/8補足 ウィーン国立歌劇場の2016/17シーズンが正式発表されました。12/3がライブストリーム予定のようです。 

*追加 ライブストリームされた映像がネット上でアップされています。いつまで見られるかわかりませんが、リンクを。
 歌唱も絶好調、演技もクーラならではの説得力と存在感で素晴らしい舞台です。

「西部の娘」第1幕 ウィーン2016年
 

「西部の娘」第2、3幕 ウィーン2016年




これまでクーラは、ロンドン、チューリヒ、ウィーンなど各地で、この「西部の娘」のディック・ジョンソン(実は盗賊団の首領ラメレス)役を歌ってきました。2008年にロンドンのロイヤルオペラに出演した際に、インタビューにこたえ、この作品についての考え、解釈を語っています。以下に、そこから抜粋して掲載しました。
また、Youtubeにあがっているいくつかの場面の録音(音声のみ)を紹介します。とても美しいメロディがいっぱいで、楽しいオペラだと思います。




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●オペラのマカロニ・ウエスタン
「西部の娘」は、深い心理的背景を持つオペラではないことは事実だ。裏切りを描くオテロやサムソンとデリラ、アイーダ、またはショービジネスの争いを反映した道化師などとは違い、これは理想的なラブストーリーの一種。マカロニ・ウエスタンだ。

深い分析が必要なプロットはない。ラストも楽観的で、皆が他の人を許し、死も裏切りもない。私たちが毎日ニュースで目撃するものを考えると、オペラも悪くないと思わせる。しかし作曲法という点では、信じられないほど素晴らしい。



●進化したオペラ
同じプッチーニの「外套」と同様に、ほとんど演劇のリズムで動くオペラ。まるで話しているように歌う。型にはまった演技や動きは許されない。テキストの流れに沿った自然な演技が求められる。ジャンルの進化という意味では完璧なオペラだ。

プッチーニの「西部の娘」は立って歌う古いスタイルのオペラではなく、真にモダンな作品。若い人たち、オペラに行ったことがなく初めて体験したい人のためにとって、理想的なオペラだ。彼らにぜひ「西部の娘」をすすめたい。

プッチーニのオペラ、西部の娘で主要なものはノスタルジアだ。互いにコミュニケーションができないので、あらゆるところに孤立感がある。だから演出で現代的な機器を取り入れてしまっては、すべてが台無しになる。

●写実的で、リズムは話し言葉
プッチーニは100%ヴェリズモの作曲家ではなかった。彼は写実的な作曲家で、彼のオペラは写実的であり、真実だ。リズムはほぼ話し言葉。西部の娘はまさにそういうオペラであり特定の型に定義するのは不可能だ。



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ホセ・クーラの「西部の娘」は、残念ながら全曲CDもDVDもありません。2008年に出演したロンドンでのラジオ録音から、いくつかの場面がYoutubeにあります。クーラは、ワイルドな荒くれ者だが、実は知的で誠実な内面をもつ主人公ジョンソンの雰囲気ぴったりで、音声だけですが楽しいです。

ロンドンROH2008年の公演から、第1幕のミニーとディック・ジョンソンのデュエットを。ミニーはエヴァ= マリア・ウエストブロック、パッパーノ指揮。
Jose Cura Act 1 "Love duet" 2008 La Fanciulla del West




プッチーニの西部の娘、2008年ロンドンROHの舞台から、第2幕のジョンソンとミニーの二重唱。プッチーニらしく官能的で美しい。クーラとウェストブルック。
Jose Cura "Hello! ..." Love Duet (Act 2) 2008 La Fanciulla del West


同じく2008年ROH、パッパーノ指揮の公演から、ホセ・クーラの第2幕ジョンソンのアリア「ひとこと言わせてくれ~」を。
Jose Cura "Una parola sola...or son sei mesi " 2008 La fanciulla del west


2008年ROHの公演から有名なアリア「やがて来る自由の日」”Ch'ella mi creda”を。絞首刑となるジョンソンが愛するミニーのため訴える歌。
Jose Cura "Ch'ella mi creda" 2008 La Fanciulla del West




写真の怖い3人組は、ROHで、演出家と指揮者パッパーノ、クーラ




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2016年 ザルツブルクでのインタビュー 「オテロに必要なのは“肌の色”だけではない」 Jose Cura interview

2016-03-20 | オテロの解釈


3/19に初日を迎えた、ホセ・クーラ主演のザルツブルク復活祭のオテロ。まだ現地の新聞のレビューを見ていないのでよくわかりませんが、ネットに即日掲載されたレビューでは、まずまずだったようです。
演出には少しブーイングが出たと書いていたのもありました。指揮、舞台、衣装は拍手を受けたそうです。
キャストでは、デズデモーナが一番大きな喝采を受け、ホセ・クーラのオテロも、全部の観客がそうだったわけではないが大多数から拍手されたとのことです。日本時間で27日未明のラジオ録音放送を楽しみにまちます。
→ラジオ放送プログラム 
*追加情報 クラシカジャパンで来月放送されるようです。初回放送4/23(土)21:00~23:45 →番組案内 →詳しい放送日時
スタッフ、キャストなど詳しいことは「告知編」「リハーサル編」をごらんください。

実際の舞台、レビューなどは、「リハーサル編」「レビュー編」をどうぞ。

このオテロを前に、クーラはザルツブルクでKURIERのインタビューを受けました。
オテロについて、指揮のキャリア、将来、オペラと世界の危機、歌手のルックスとアーティストとしての成長など、興味深い内容についてインタビュアーの質問に答えています。
表題は、"Otello braucht nicht nur die Hautfarbe"――「オテロに必要なのは“肌の色”だけではない」と訳してみましたが、間違っていたらすみません。
原文はドイツ語ですが、クーラのFBには英文も掲載されています。→こちら

原文をお読みになりたい方はこちらを→リンク


主な内容を抜粋して訳してみました。語学力がないので、直訳、誤訳が多いとは思いますが、ご容赦ください。ぜひ原文もご参照ください。

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Q(インタビュアー)、あなたのオテロの見方は長年にわたって変更されてきた?

A(クーラ)、私がオテロを演じ始めた時に、私の髪は真っ黒だった。しかし今では、「塩と胡椒」(白髪混じりの意味か)だ。私の中のこうした変化は、私の解釈の変化をも説明している。それに加えて、この間に、私はオテロを演出したし、この4月のシェイクスピアの没後400年の記念日に、初めて指揮をする予定だ。
私は謙虚に言うことができると思う。私は現代のオテロに関して、非常に「徹底的な」専門家であると。これは傲慢ではない。ただ長い間のハードワークの結果だ。

Q、メトロポリタン・オペラが歌手の黒塗りを停止して以来、最近オテロについてかなり活発な議論が行われているが・・?

A、オテロは肌の色だけでなく、役柄と一致した声を必要とする。したがって、オペラで白人のキャスティングを回避することは非常に困難だ。
私は良い意図を理解するが、また、その中に「隠れた罠」を見る。
もし黒人だけが黒人の役を演じることができるのなら、白人だけが白人の役を演じられることになる。それでは、黒人俳優は決してハムレットを演じられないのか?リチャードⅢ世は?また…?
この新しい「政治的に正しい流行」は、黒人のプロフェッショナルを従事させない最高の口実を提供している。私に言わせれば、それは、顔を黒くメイクする以上に、人種差別の悪臭を放つ。私の黒人の友人の何人かは、実際にこうした考え方を懸念している。



Q、ザルツブルク復活祭音楽祭は、来年2017年に50周年を祝う。それは常に豪華な祭とされている。こうした高級感のようなものは、今日の社会に適合しないと思うか?

A、ロールス・ロイスがガレージに収まるのと同様に..。多くの車のブランドがあり、それぞれの人が、その経済力に合ったものを購入することができる。
ザルツブルク復活祭音楽祭は、「通常の」チケット価格でやっている他のオペラハウスを後援している、多くの同じ資産家たちの豪華なランデブーだ。それはそれで結構なことだ。

Q、オペラは近年、多く変わりつつあるようだ。いくつかのオペラハウスは、より博物館のようになり、他のものはより大胆に。オペラは危機的状態になっているのか?

A、世界が危機的状態にある。この修正と逆修正のための巨大な瞬間から逃げることはできない。私は、社会の良識を信頼している。しかしそれは長い時間がかかるだろう。

Q、若い視聴者を引き付けるために何が必要だろうか?

A、知的誠実さ、感情のリアリティだ。審美的な提案であるかどうかが問題ではなく、彼らに嘘をつかないことを示すなら、若い人たちはあなたについていく。



Q、有名なテノール歌手プラシド・ドミンゴは現在バリトンロールを歌っている。この決定についてのあなたの意見は?

A、アーティストには、彼が望む方法で作品を提示する権利がある。一方、観客は、アーティストの提案に従う、または従わない権利を有する。

Q、指揮者としても活動しているが、それは将来的にあなたのためにどのような重要性をもっている?

A、作曲と指揮は私のバックグラウンドだ。歌のキャリアは、それへのアプローチを豊かにした。私が数十年前に夢見ていたフルタイムの指揮者として、自分のキャリアを終わること、それ以上に私にとって自然な事はない。
しかし、それが実現するかどうかは、私の力を超えることだ。とはいえ、文句をいうことはできない。私が望むほどにはたくさん指揮をしていないが、良い形でバトンをキープしている。また現在、私が作曲した作品を発表しつつある。昨年2月にマニフィカトを初演、そして2017年3月にはEcce Homoの初演を迎える。

Q、あなたの同僚の中には、オペラハウスのトップを目指す人もいるが、あなたはどう考えている?

A、イエス、しかし恐らく理由は同じではない。30年以上の舞台の後、私は誇りを持って言うことができる。私の芸術的信条を定義するスタイルがあると。
劇場でフルタイムで働くことは、共有を望むカンパニーに、私の信条を伝え育てる良い方法だろう。ある者はこれを読んで、私が世間知らずだと考えるだろうが...。



Q、今日、オペラでルックスは重要なのか?

A、ルックスはゴールではなく、「売り込み手段」として非常に重要になることがある。私自身、ずっと前に、「オペラのセックスシンボル」として売りだされていた。だから、私にはこの問題について語る権利があるだろう。
もし、今日ますます多い種類の「単なる」商業的キャリアを望むのなら、良い外見は違いをうむだろう。しかし自らの才能にもとづいてキャリアを築き、長年のハードワークの後に、アーティストと呼ばれるようになろうとするのなら、それは違う話だ。
もちろん、我々の国民は夢を求めている。そして歌手が、その役割に「見える」ということは、ベターなことだ。しかしこれに対処するには、多くの方法がある。
José Cura 10 - 03 - 2016

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最後に、3/19初日の夜に放送された現地TVのニュースクリップを。残念ながらクーラの歌声は入っていませんが、舞台の様子、いくつかの場面が見られます。またアルヴァレスのイアーゴの歌が少し聞けます。
"Otello" bei den Osterfestspielen in Salzburg


*写真はフェスティバルの公式FBからお借りしました。
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ホセ・クーラ トゥーランドットの解釈 Puccini / Turandot Jose Cura

2016-03-18 | オペラ・音楽の解釈

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ホセ・クーラは、2003年のロールデビュー以来、プッチーニのトゥーランドットのカラフ役に継続的に出演しています。
今年2016年には、ベルギー・リエージュのワロニー王立劇場で、ついにトゥーランドットを演出することになりました。カラフで出演もするようです。
クーラのHPによると、9/23、25、27、29、10/1、4の予定です。
“トゥーランドットはプッチーニの自伝的作品”“カラフは冷酷で権力志向”とかねてから語ってきたクーラのトゥーランドット解釈がどんな舞台になるのか、たいへん興味深いです。 

 → クーラ演出を紹介した記事まとめ 演出―トゥーランドット  クーラの演出構想メモやインタビュー、レビューなど記事5本

2006年にチューリヒ歌劇場で初演され、繰り返し再演される人気のプロダクションに主演した際の、写真、動画、そしてインタビューから、クーラのトゥーランドットの解釈に関わる部分を紹介します。



●物語の核心は、女性の世界と男性の世界との対決
トゥーランドットは愛の物語ではない。貪欲な人々が、権力と利権を奪取しようとする話だ。
カラフは彼自身の王国を失い、別の王国を世界中で探して旅していた。彼は望むものを手に入れるために愛する人を危険にさらす。
プッチーニのオペラ、トゥーランドットの核心は、トゥーランドットの世界(女性の世界)とカラフの世界(男性の)との間の対決だ。それは偉大な謎。フロイトの理論。カラフのエゴイズムが王国の征服に乗り出す。



●カラフの仮面の裏は
カラフのキャラクターはロマンチックではない。王女トゥーランドットはカラフを愛するが、カラフは彼女の王国、金と権力のために彼女を望んでいる。彼は表面的には魅力的だが、仮面の裏は、愚かでうんざりさせられる。

カラフは冷酷な男であり、冷血、権力志向。リューの献身と犠牲、父のために全く配慮をもたない愚かさだ。目にした女性の性的魅力にひかれるが、しかし彼女のために自らの愛情の感情をまったく発展させていない。

私自身は、心理的に深い役柄がすきだ。しかしカラフは、深みのない非常に一面的な男。私が何年もカラフを避けてきた理由でもある。
カラフの中には、蝶々夫人のピンカートンを見出すことができる。小児性愛者であり、15歳の少女を誘惑して痛みを感じない男だ。



●トゥーランドットの特殊性
トゥーランドットは非常にトリッキーなオペラだ。「誰も寝てはならぬ」その1曲だけで有名になっている。しかしオペラは本当に非常に複雑だ。女性と男性の間の紛争や対立の意味で、非常にフロイト的だ。



●プッチーニの後を引き継いだアルファーノの評価
プッチーニが途中で死に、その後を引き継いだアルファーノ作曲の部分について、「アルファーノはたわごとの仕事をしてくれた」 と言うのは間違っている。それは公正でない。
彼はプッチーニではない。彼ができることを行い、師に奉仕しようと謙虚に、最善のことを行った。



●最後のデュエットの意味
演じる際、特に最後のデュエットで、より身体性を示す。最後のデュエットは、まさにフロイト的瞬間だ。心理的にではなく、性的に彼に降伏する。もちろんステージ上でセックスはできないが、私たちは想像しようとする。




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クーラのカラフ解釈がよくわかる演出、演技が、チューリヒのプロダクションです。
非常に残念ですがクーラのカラフには正規の映像がありません。Youtubeからいくつかの動画を紹介します。

クーラが「冷酷な男、権力志向」「同じ男と思われたくない」というカラフの「 泣くなリュー」
Jose Cura "Non piangere, Liù" Turandot


一刀両断にカラフを切り捨てるクーラ、やはり少し傲慢に、しかし非常にセクシーに魅力的に演じています。
「誰も寝てはならぬ」06年チューリヒの動画
Jose Cura "Nessun dorma"


問題のラストシーンの動画。ぜひご覧になってください。クーラの解釈、「身体性を示す」演技が見どころ。そして、ユニークで、あっと驚かせるラストの演出も必見です。
Jose cura "Principessa di morte!" Turandot (Act3 amazing last!)


チューリヒのプロダクションには何度も出演していますが、ますます過激になる二重唱のシーン‥。2011年、トゥーランドットはマルティナセラフィン。
Turandot - Principessa di morte, principessa di gelo... Finale


●クーラ語録
「オペラ、トゥーランドットが歌い続けられているのは、音楽が素晴らしいからであり、美しく、そしてそれを歌うことが、本当の喜びを与えるからだ。」
「プッチーニのオペラ、トゥーランドットは、ボーカリストに新しい地平を開く作品だ。」

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最後におまけ。最近のクーラのカラフの動画を。2015年5月のドイツ、ボン歌劇場の舞台から、「泣くなリュー」を。まだまだパワフルで、迫力あるカラフです。
José Cura - Turandot - finale 1 atto

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3人のオテロ クーラ、ボータ、アントネンコ Otello / Verdi by 3 singers

2016-03-17 | オペラの舞台―オテロ


ホセ・クーラは、今年2016年、年頭からヴェルディのオテロの出演が相次いでいます。しかもクーラは、今年4月には、ハンガリーのジュールで、初めて指揮者としてオテロを演奏することになっています。

オテロ出演が相次いだのは、シェークスピア没後400年の記念の年ということもありますが、実はアクシデントが重なったためでもありました。
1/21~2/1のバルセロナ・リセウ大劇場のオテロは、アレクサンドルス・アントネンコのキャンセルにより急きょ、出演となりました。また間もなく3/19から開幕するザルツブルク復活祭音楽祭2016のオテロも、ヨハン・ボータが病気により降板、クーラが代役を引き受けたものでした。

*4/19追加 クーラが出演したザルツブルクのオテロは4/23~クラシカジャパンで放送されるそうです。ザルツブルクのオテロについてはこちらの投稿をご覧ください。

クーラとボータとアントネンコ、この3人は、声、歌唱スタイルも、容貌も、個性も全く違っています。
この機会に、現在、世界中の劇場で主にオテロを歌っている3人の聴き比べをしてみました。

その前にそれぞれについて。
●アントネンコ(Aleksandr Antonenko)
1976年6月、バルト三国の1つであるラトビアの首都リガで生まれました。2016年3月現在39歳、まもなく40歳です。2008年には夏のザルツブルク音楽祭でムーティ指揮のオテロに出演しています。


●ヨハン・ボータ(Johan Botha)
1965年8月、南アフリカのルステンブルク生まれ。現在50歳です。
*9/8追記 ガンで闘病との情報でしたが、残念なことに2016年9月、亡くなりました。51歳になったばかりでした。(2016年9月8日死去)


●ホセ・クーラ(Jose Cura)
1962年12月、アルゼンチンのロサリオで誕生。現在、53歳。1997年にオテロのロールデビューしました。


同じ部分の歌唱で比べるとして探したところ、オテロの第3幕、デズデモーナとの二重唱「ご機嫌よろしゅう」“Dio ti giocondi”がありました。
第2幕でイアーゴの策略によりデズデモーナへの疑いをもったオテロ。この第3幕の二重唱でも、正面からデズデモーナに自らの疑惑をただすことなく、勝手に確信を深めていきます。オテロとデズデモーナの丁々発止、非常に緊迫感あるやりとりが魅力的でドラマティックな場面です。

ちょうど、それぞれメトロポリタンオペラ(MET)での録音です。クーラ版とボータ版は同じ演出、アントネンコ版は、新演出に切り替わった初演の舞台です。指揮者はそれぞれ違いますが、同じ劇場、同じオーケストラです。

1、まずは一番若いアントネンコから。2015年METの舞台。



Dio ti giocondi - Otello - Yoncheva Antonenko
↑最初にリンクを張った動画が削除されていましたので、差し替えました。残念ながら短いので、聞き比べにはなりにくいですね。

Otello: "Tu pur piangi?" (Yoncheva, Antonenko)


2、つづいてヨハン・ボータ。METの舞台ですが、2008年でしょうか。時期は未確定です。



Verdi - Otello - Stoyanova & Botha - Dio ti giocondi, o sposo


3、最後はホセ・クーラ。METで2013年です。



Jose Cura , Krassimira Stoyanova Otello "Dio ti giocondi, o sposo"


同じ場面、同じ劇場、同じオケですが、三者三様ですね。

聞き終えて、それぞれから、全く違うオテロ像が思い浮かびました。
アントネンコは、若く気品があり、悩み深き青年オテロ。そしてボータは、温厚で人格者のオテロが、追いつめられていく姿。最後のクーラは、ギラギラした支配欲、力にあふれ、デズデモーナを組み伏せようとするバイオレンスな中年オテロ。まるで別人のようです(笑)

声質、年齢と声の成熟、解釈・・それぞれの個性で演技と歌唱、オテロ像をつくっているのでしょう。観客も、好みはそれぞれ。このブログを見てくださった皆さんは、どう感じられたでしょうか。

最後におまけ。1999年のマドリードの舞台から、まだ若々しいクーラのオテロ、第1幕の二重唱「もう夜も更けた」を。
Jose Cura "Già nella notte densa" 1999 Otello





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(リハーサル編) 2016 ザルツブルク復活祭音楽祭のオテロ Salzburg Easter Festival Otello (rehearsal)

2016-03-16 | ザルツブルク復活祭音楽祭2016のオテロ


3月19日に開幕するザルツブルク復活祭音楽祭2016、メイン企画は今年没後400年を迎えるシェークスピア原作、ヴェルディのオペラ、オテロです。
タイトルロールのオテロが、ボータからホセ・クーラに変更になったこと、他の出演者や演出、衣装などについては、以前の投稿でまとめています。
(告知編) 2016 ザルツブルク復活祭音楽祭のオテロ Salzburg Easter Festival 2016 Otello / Verdi

リハーサルの写真がフェスティバルのフェイスブックに36枚一挙掲載されました。いくつか紹介します。
直接ご覧になりたい方はこちらから→Latest Otello rehearsal photos

指揮はクリスティアン・ティーレマン。衣装はファッションデザイナーのクリスチャン・ラクロア。
演出は、新国立劇場の2015年の「椿姫」新演出を手がけたヴァンサン・ブサールと舞台美術のヴァンサン・ルメールです。





オテロの孤独と苦悩を浮き彫りにするかのような、暗くシックな舞台です。


第1幕のデズデモーナとの二重唱にいたる写真でしょうか。




動揺し疑念を深めるオテロ、そこに現れる黒い天使のような人物は何者なのでしょう?




カルロス・アルヴァレスのイアーゴと、クーラのオテロ、鬼気迫る表情、力と力の対決、心理的にはかなり怖ろしい迫力ある場面が期待できそうです。








ダークなオテロの衣装とデズデモーナの白、まわりの赤との対比が鮮やかです。コスチュームデザインは、ファッションデザイナーでもあるラクロア、豪華な雰囲気が写真でも伝わってきます。




第3幕、本国への償還を命令され、ついに崩壊するオテロ。怒りと苦悩の表情がすさまじい。






第4幕、ついにデズデモーナ殺害にいたるオテロ。デズデモーナのレースの衣装が美しい。




時折現れる、このサモトラケのニケのような人物は何を意味する?オテロを翻弄する運命の象徴=軍神なのでしょうか。


3月26日にネットラジオORFで放送される予定です。
現地時間3/26、19:30から。日本時間だと27日3:30からでしょうか。→プログラム



また現地ではTV放送もあるようです。ORF/3satTV 現地時間3/26、20:15~→プログラム


3/15に更新された
クーラのFBには、ボータのキャンセルを受けたために、もともとチェコでコンサートが予定されていたという事情をふまえ、チェコとザルツブルクの往復というハードスケジュール、インフルエンザの流行などで、咽頭炎できびしいコンディションにあることが報告されています。16日のドレスリハーサル、またテレビやラジオの録画・録音放送もある、19日の初日が無事迎えられることを祈る思いです。
27日の2回目のオテロの前後には、やはりもともと入っていたベルリンの道化師があり、ベルリンとザルツブルクを往復することを余儀なくされます。持ち前のタフさを発揮して、どうか頑張って乗りきってもらいたいものです。








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2013年 ホセ・クーラ オテロの解釈 From A Conversation with Jose Cura

2016-03-14 | オテロの解釈


前回の投稿「2013年 メトロポリタンオペラ METのオテロ ヴェルディ」の最後に記した、2013年3月のニューヨーク大学での対談“A Conversation with Jose Cura”から、改めて、オテロの分析と解釈の部分を紹介したいと思います。

フレッド・プラットキンさんを聞き役に、オテロをはじめとして、カヴァレリア・ルスティカーナ、アイーダ、アンドレア・シェニエなどのオペラにまつわる様々な話、著作権の話、バッハやモーツアルトなど、話題も多岐にわたり、非常に興味深く楽しい対談です。
残念なことに、英語での対談で字幕がありません。しかしオテロの解釈の部分はとりわけ興味深く、ここまで踏み込んだ話は他のインタビューにもありません。全体を正しく日本語で紹介することは残念ながら私の語学力では難しいので、Madokakipさんのブログのコメント欄でブログ主のMadokakipさんが、オテロに関連する部分の概略を日本語に訳してくださっていますので、ほぼそれをもとにして抜粋して紹介させていただきました。興味のある方は、ぜひMadokakipさんのブログをコメント欄含め、直接ご覧になってください。
なお、若干加筆をしたこと、話の順番は、前後している場合があることをお断りしておきます。

VIMEOのページはこちら → A Conversation with Jose Cura
ぜひぜひ、直接対談をご覧になっていただきたいと思います。いくつかDVDや録音も紹介しています。私は全部は聞き取れませんが、とても楽しかったです。率直で自由闊達な話しぶり、ジョークも多く、クーラのフランクな人柄が伝わってくると思います。最後の質疑応答ふくめ1時間45分ほどです。
from Casa Italiana Zerilli-Marimo
Fred Plotkin in conversation with Argentinian tenor Jose Cura, starring in the title role of Verdi's "Otello" at the Met
Casa Italiana Zerilli-Marimo
New York University
March 12, 2013



●オテロは転向者・裏切り者・傭兵
自分のオテロは高貴じゃないと批判される。しかしオテロはイスラムからキリスト教に転向し、イスラム教徒殺戮のためクリスチャンに雇われた男。9・11を経験して、これがいかに特殊な状況なのか、実感を伴って感じられるようになった。例えば、アメリカ人に生まれながら、サダム・フセインに雇われてアメリカ人を殺戮し、“喜べ!アメリカ人を殺してやったぞ!”と高らかに宣言するような人間がいたとして、こんな人間のどこがノーブルといえるのか。理由はビジネス以外ありえない。

ジョージ・クルーニーの映画「The American」を見た。主人公は、自分はいつ殺されるのかと常に怯え、常に後ろを振り返っている。オテロの裏切りにも同種の恐怖が伴っていて、それがカッシオたちへの極端な疑心暗鬼につながっている。



●オテロを陥れたもの
オテロを陥れたのは、”ハンカチーフ”ではない。
こうした状況下で、オテロにとって、自らが黒人であることの受け入れがたさ。オペラにはないが、シェークスピアの原作で描かれている、オテロがデズデーモナの父親に受け入れられないことによるコンプレックス。デズデモーナの父が娘について言い捨てた言葉、「父親を謀りおおせた女だ、やがては亭主もな」の言葉がきいている。

近年の世界情勢を考慮してか、オペラハウスの字幕で「傲慢な回教徒どもは海中に葬り去った (第1幕冒頭のEsultate )」の部分を訳さない傾向があるが、これはナンセンス。ここの関係にこそ、オテロの性格を理解する鍵がある。



●デズデモーナの愛と死
第1幕のオテロとデズデーモナの二重唱で、「金星が輝いている」と歌われている「金星」は、デズデーモナのことを指している。2人は星の話をしているのではなく、星に彼女の性(処女性)を重ね合わせたダブル・センス。つまり、今すぐにでもSexしたいという鼻息の荒い歌なのだ。戦争から帰ってきたばかりでもあり。

オテロはまさにエロスとタナトスの王道を行くオペラ。第4幕で、デズデーモナが死を予感して、婚礼のドレスを出してと頼み、逃げもせず、夫の手による死を待つ。これは究極の“愛ゆえの死”によるオーガズム、究極のマゾキズムといえる。



●オテロ崩壊のきっかけ
デズデーモナ殺害に至るオテロの崩壊の直接のきっかけは3幕にある。
彼の中では、イスラム教徒を殺すという任務はまだ全て完了していないという理解なのに、ベネチアから召還命令が入り、キプロスの統治をカッシオに譲ることになる。メトの公演を見た人は、私がこの場面で、召還命令の紙をロドヴィーコから受け取ったかと思うと、床にポトンと落として、落ちた紙を蹴り飛ばしたりするのを見ただろう。この時、オテロは、ロドヴィーコというベネチア=クリスチャンを代表する人間に挑戦を突きつけ、無礼を働く。

これが変えようのない決定だと気付いた時、彼の心の中に、“自分は役立たずのニグロに戻ってしまった”という思い込みが生じる。
彼に残ったのは、妻デズデーモナだけだが、その彼女も殺さねばならない。



●オテロの死
オテロは百戦錬磨を経てきた軍人。だからこそ、どのように刺すとどれくらい生きられるか、十分にわかっている。
自分に剣を刺してから完全に死ぬまで5分くらいある。心臓をすぐに刺さずに、腹部を刺して段々窒息し、剣を抜いてからは15秒くらいであっという間に死んでしまう。これらのタイミングがすべてヴェルディの音楽に書き込まれている。
例えば剣を抜くタイミングは、最後の“ah! un altra bacio”のah!にある。



●オテロ、最後まで臆病者
第4章、最後の死の場面でも、オテロは英雄ではなく、臆病者であることが示される。
同じヴェルディのアイーダのラダメスは、アムネリスに捕らえられた時、潔く罪を認め、自らの命を他人に託すのに対して、オテロはきちんと事情を説明することもなく、さっさと自害する。



●テアトロ・コロンのオテロ
自分のオテロ解釈をすべて詰め込んだのが、2013年7月のテアトロ・コロンで演出・主演するオテロだ。

*********************************************************************************************************

*クーラが述べていたテアトロ・コロンのオテロは、カルロス・アルヴァレスのイアーゴ、カルメン・ジャンナッタージョのデズデモーナで上演されました。クーラ自身が編集作業をしていたDVDも、作業は終了したらしいですが、まだ発売されてはいません。何らかの形で公開してほしいものです。この演出の構想については、またいずれ紹介したいと思っています。

*クーラのオテロの解釈については、以前の投稿「2012年 オテロとヴェルディ Interview / Otello at the Slovak National Theatre」でもインタビューでの発言を紹介しています。少し違う角度からのもので、こちらもあわせて見ていただけるとうれしいです。

3年前のことになりましたが、すばらしい観賞記と対談の日本語訳をブログに掲載してくださったMadokakipさんには、改めて感謝申しあげます。ありがとうございました。

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2013年 メトロポリタンオペラ METのオテロ ヴェルディ Jose Cura Otello / Verdi / Metropolitan Opera

2016-03-11 | オペラの舞台―オテロ


1997年にロールデビューして以来、約20年、200ステージ以上、解釈を深め、歌い演じてきた、ホセ・クーラのオテロ。意外にも、ニューヨークのメトロポリタンオペラ劇場では、2013年に初めてオテロを歌いました。

長く続いたモシンスキーによる古典的な演出ですが、このクーラの舞台が最後になりました。2015-16シーズンには新演出に切り替わり、アントネンコ主演でMETライブビューイングにもなったので、ご覧になられた方も多いでしょう。
残念なことに、2013年にクーラが出演した旧演出の最後の舞台は、HDにもならず、録画もありません(この時はヨハン・ボータの舞台がHD上演されました)。ただラジオ中継されましたので、YouTubeに主要な場面の録音(音声のみ)がアップされています。

この出演の際の、クーラのインタビューにおける発言から一部を抜粋したものと合わせて紹介します。
LATINOS POST 2013/3/24「進化し続けるアーティストー新しいオペラと演劇表現の探求、彼自身の条件と整合性」
"Jose Cura: An Ever-Evolving Artist In Search Of New Operatic and Theatrical Expression, On His Own Terms And Integrity"

ホセ・クーラ(オテロ)、クラッシミラ・ストヤノヴァ(デズデモーナ)、マルコ・ヴラトーニャ(イアーゴ)
José Cura: Otello, Krassimira Stoyanova :Desdemona, Marco Vratogna :Iago
Conductor: Alain Altinoglu , Production: Elijah Moshinsky



●オテロは“ハンカチの話”ではない
オテロにおいて、私たちは、人種差別、傭兵制度、反逆、背教の問題について話している。我々はハンカチの話(嫉妬と策略の象徴)をしているのではなく、シリアスな深刻な問題について話しているのだ。
ヴェルディのオテロとスティッフェリオ。一見、嫉妬と復讐に関連する話だが、その二つのキャラクターは非常に異なる。嫉妬はあくまでドラマの外殻にすぎず、それぞれはるかに深い意味をもつ。

●現代のオペラを
オペラ的な演劇を行う別の方法があるとをつよく信じる。繊細さとニュアンスにもとづいた方法が。それは現代のオペラ。俳優が自分自身を、本当の深さと特徴づけで役柄に投入する。それは近代的なオペラだ。
将来やりたいのはピーター・グライムズ(2017年ボンで演出、ロールデビューの予定)。私が愛するのはオペラの舞台に流動性を創造するという夢を助けてくれるオペラ。舞台演劇のように。素晴らしい誘惑だ。私の次の夢は演劇の舞台だ。

●今後の仕事
ストックホルムでプッチーニの「ラ・ボエーム」を演出する(2015年11月初演され、16年6月まで上演中)。リエージュのワロニー王立劇場では、自分自身も歌う「トゥーランドット」の演出をする(2016年9月)。
今後は、新しい作品の演出に集中し、時折、歌うことになるだろう。
芸術的な探求に加え、自分のプロダクションをつくって活動してきた。重要なことは、それが、自分自身にもとづいて、芸術の旅を自らナビゲートすることを可能にしたことだ。



************************************************************************************************************

インタビューでも語っているように、クーラのオテロは、非常に演劇的で、ドラマティック、役に没入して、緊迫感ある人間ドラマをつくりだそうとします。クーラは一貫して、「ヴェルディは『オテロはベルカントじゃない、メロドラマだ』と繰り返し語った」、「ドラマを伝えるために声を変形させることを恐れてはならない」と主張してきました。
そのため、「美しい歌」を求める人々、また批評家からも、批判されることが多いのも事実です。しかしいったん、そのドラマの中に引き込まれた観客は、つよい印象を受けるようです。

クーラのオテロの解釈、ヴェルディ論については、詳しくは、このブログの「2012年オテロとヴェルディ」でインタビューからの発言を紹介しましたので、あわせてお読みいただけるとうれしいです。

またメトロポリタンオペラをこよなく愛する、ニューヨーク在住のMadokakipさんのオペラブログに、このオテロの素晴らしい観賞レポートが掲載されています。ラジオ放送と同じ日に観賞されていますので、こちらも非常に参考になるかと思います。
OTELLO (Wed, Mar 27, 2013)



くどいようですが、クーラのオテロは決して「耳に美しい歌」ではありません。心を揺さぶり、ザワザワさせます。あえて声を歪ませ、リズムやテンポを崩させることもしばしばです。指揮者とオケを挑発しているのではと思うことも(笑)
こちらが受け止める力のない時には、正直、聴くのがしんどいこともあります。第4幕などは、歌を聞いているというより、音楽と一体になったオテロの魂の叫び、慟哭そのもの。ですから、しつこくて申し訳ありませんが、端正で美しい歌唱がお好きな方には、以下の録音はおすすめできないことをあらかじめ、申し添えておきます。

第1幕、オテロとデズデモーナの二重唱「暗い夜の中に(もう夜も更けた)」
Jose Cura 2013 "Già nella notte densa" Otello


第2幕、カッシオへのデズデモナの願いを聞いて動揺するオテロ。オテロとデズデモナ、イアーゴなど「あなたの怒りを買って嘆く人からの」
Jose Cura 2013 "D'un uom che geme sotto il tuo" Otello




第2幕、オテロとイアーゴ デズデモナの「裏切り」を疑い始め、自滅への道を歩み始める、イアーゴとの2重唱。
Jose Cura 2013 "Tu, indietro, fuggi!" Otello


第2幕、オテロとイアーゴの復讐を誓う二重唱「大理石のような空にかけて誓おう」
José Cura "Si, pel ciel marmoreo giuro!"




第3幕、デズデモナに正面から疑問をぶつけることなく、疑いを勝手に確信していくオテロ「ご機嫌よろしゅう」
Jose Cura , Krassimira Stoyanova Otello "Dio ti giocondi, o sposo"


第3幕、オテロの嘆き「神よ、あなたは私になげつけた」
Jose Cura "Dio! mi potevi scagliar" Otello




第4幕、デズデモーナの死、そしてオテロの死
Jose Cura , Krassimira Stoyanova "Chi è la?... Niun mi tema" Otello




この出演の際には、ニューヨークの大学での対談に出席して、オテロの解釈をはじめ、とても興味深いことをいろいろ話しています。Vimeoにアップされています。リラックスして楽しい対談で、特に後半は爆笑、爆笑です。なぜ爆笑かはちょっとここには書きにくいので(笑)、ご覧になっていただければ・・。
残念ながら字幕なしの英語ですが、ヒアリングが可能な方にはぜひ、おすすめします。
*先に紹介したMadokakipさんのブログのコメント欄では、オテロ解釈の部分についてのみですが、Madokakipさんが日本語に訳して紹介してくださっています。

A Conversation with Josè Cura


なお、今年2016年のザルツブルク復活祭音楽祭のオテロにも出演予定で、3/26(現地)にネットラジオで中継予定です。
→ プログラム


*写真はMETのHPや報道からお借りしました。
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ホセ・クーラ 初期の歌声 Jose Cura early days

2016-03-07 | 初期の歌声


ホセ・クーラの魅力の1つは、やはりその声ではないでしょうか。指揮者・作曲家をめざしていたクーラに、母国の恩師は、「君のような声は30年に1人しかでない」と言い、経済的に苦しいクーラに無料で歌のレッスンをしてくれたそうです。
クーラの声は、年とともに円熟し、重くなり、オペラの解釈を深まりとともに劇的なパワーと表現力を高めていますが、また一方で、若い頃の声は、レーザービームのような、天まで貫くかのように輝かしく、忘れがたい魅力をもっています。

クーラは1991年にアルゼンチンからイタリアに渡り、国際的なキャリアを歩み出しました。そのごく初期の歌声、1991年から95年までの録音、映像を、Youtubeなどから紹介します。
もちろん正規の録音ではなく、しかも古いため、画質、音質が悪いことをあらかじめお断りしておきます。ただし少し我慢して聞いていただければ、若いクーラの声の魅力を実感していただけるものと思います。
 →クーラの略歴も参考にごらんいただけるとうれしいです。

●渡欧の年 はじめてのコンサート
イタリアに渡った年1991年の7月、ジェノヴァで欧州初のコンサートに出演しました。ヴェルディの椿姫「乾杯の歌」、指揮はマルコ・アルミリアートです。
クーラが最近開始した動画サイト「ホセ・クーラTV」に掲載されました。同じ日のノルマからのデュエットもあります。
 →JOSE CURA TVの動画リンク


●1993年―はじめて主要な役でデビュー
この年、はじめてオペラの主要な役でデビューがかないます。ヤナーチェク「マクロプロス事件」のアルベルト役。イタリアのトリノです。Youtubeには他にも同じ舞台の映像がいくつかアップされています。
Janácek - The Makropulos Case - II act Part 3 Raina Kabaivanska, Jose Cura




ドイツでしょうか、TV番組に出演し、プッチーニのトゥーランドット「誰も寝てはならぬ」を歌っています。きらきらするような声の響きが独特です。
Jose Cura 1993 "Nessun dorma"


●1994年―オペラリアで優勝
94年、プラシド・ドミンゴが主宰するオペラリアに優勝します。この頃を期に、メジャーな劇場への出演、主役としてのロールデビューが相次ぐようになります。

オペラリアで、プッチーニの西部の娘より「やがて来る自由の日」。司会はダイアナ・ロス。
Jose Cura 1994 "Ch'ella mi creda" La fanciulla del West




●1995年――ロンドンやパリのオペラ座にデビュー
メジャーな劇場に主要な役で出演するようになります。この年、ロンドンのロイヤルオペラに、ヴェルディ「スティッフェリオ」のタイトルロールでデビュー、またパリ・オペラ座 オペラ・バスティーユにデビューしました。

オペラ・バスティーユ ヴェルディ「ナブッコ」イズマエーレ
Jose Cura 1995 Nabucco " Fenena! ... O mia diletta! "


ジョルダーノのフェドーラ ロリスのアリア「愛さずにいられないこの思い」。歌い終わった後、拍手とブラボーの声が止まらず、無理やり再開しています。
Jose Cura "Amor ti vieta di non amar" 1995 Fedora


ロイヤルオペラ ヴェルディ「シモン・ボッカネグラ」ガブリエーレ(音声のみ)
Jose Cura Simon Boccanegra 1995 Duo Amelia & Gabriele


この翌年には、ウィーン国立歌劇場にデビューするのをはじめ、ぞくぞく主役デビューが続きます。その先はまた、いずれ紹介したいと思います。

             

*写真はクーラのHPなどからお借りしました。
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