人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

2019年 ホセ・クーラ、アルゼンチンとハンガリーの架け橋として賞を受ける

2019-06-10 | 受賞・栄誉

 

 

ホセ・クーラはこの6月、ハンガリーのブダペスト夏フェスティバルに参加し、ドナウ川中洲のマーガレット島野外劇場で、プッチーニのトゥーランドットに出演しました。その様子はまた別の記事で紹介したいと思います。

その6月7、9日の公演のためのブダペスト滞在中に、クーラは、アルゼンチン大使館で、ハンガリーとアルゼンチンの橋渡しとして優れた業績をあげた人に授与されるビーロー・ラースロー賞を受賞しました。SNSやメディアで伝えられているその様子をまとめてみました。

 

 


 

 

≪母国と最愛のハンガリーの架け橋として≫

 

●クーラのフェイスブックより

クーラは、トゥーランドットの公演の合間に、フェイスブックで受賞について記事をアップしました。受賞は大変な名誉であるとともに、母国アルゼンチンと、愛するハンガリーの架け橋としての大きな責任ということについてもふれています。

 

一番上の写真は、駐ハンガリーのアルゼンチン大使から、賞状を受けるクーラ。クーラがシェアしたブダペスト放送文化協会のFBより。

 

●アルゼンチン関係者のFBより

ブダペストにあるアルゼンチン大使館の建物や中庭、受賞の様子、大使夫妻とクーラの写真など。

 

 

≪ビーロー・ラースロー賞について≫

 

受賞の際に、ボールペンが記念品として贈呈されました。実はこの賞に名を冠しているビーロー・ラースローとは、ハンガリーに生まれた発明家で、ボールペンを発明した人なのだそうです。

ユダヤ人でもあったビーロー・ラースローは、第2次世界大戦中にアルゼンチンに移住し、アルゼンチンでも、発明家として有名だったそうです。1985年にブエノスアイレスで亡くなっていますが、その頃クーラは、1991年にイタリアに移住するまでの時期、ブエノスアイレスでテアトロコロンの芸術高等研究所で学び、合唱団で歌ったりしながら指揮と作曲の勉強をしていた頃にあたります。

 

●ビーロー・ラースローについての動画

こちらはビーロー・ラースローとボールペンについて解説した短い動画。

Biro and the Ballpoint Pen

 

 

●受賞の様子を伝えるハンガリーのニュース動画

前半は主催者の説明や授賞式の様子、後半はクーラのインタビュー。クーラは英語ですが、ハンガリー語の吹き替えが被さって聞き取れません。子どもの頃のボールペンの思い出などを語っているようですが・・。

 

 

≪授賞式でのサプライズーークーラの歌≫

 

●こちらも授賞式の写真ですが、ピアノの横でクーラがスタンドを持ち上げている、ちょっと不思議な写真があります。

実はサプライズでクーラが、ピアノ伴奏でアルゼンチンの作曲家カルロス・グアスタヴィーノの曲「あなたのハンカチを貸して」を歌ったのだそうです。どうやら楽譜がよく見えるようにと、近くのスタンドをクーラが近寄せたらしいです。授賞式といっても堅苦しくないのは相変わらずですね。

 

クーラの歌う様子が、動画でアップされています。これは本当に嬉しいサプライズ! グアスタヴィーノのこの曲は、詩もメロディも、とても哀感あふれるものです。クーラは、リラックスして、いつものように自然体、でも情感を込めた歌いぶりです。

ぜひお聞きになってみてください。(音がでない時は、右下の音量ボタンを)

 
 
 
何度も紹介していますが、この秋から3年間、クーラは、ハンガリーのブダペスト放送文化協会の客員アーティストとして活動することになっています。ますますハンガリーと、母国アルゼンチンとの文化的架け橋として、重要な役割を果たしていくことになりそうです。
 
芸術の豊かな歴史と伝統をもつハンガリーが、クーラの芸術と実績を高く評価し、さらなる活躍の場を提供してくれていることは、本当に素晴らしいことだと思います。クーラもまた、その名誉と責任を自覚して、多面的で円熟したアーティストとしての実りを見せてくれることでしょう。
 

 

 

 

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2017 ホセ・クーラ 母校ロサリオ国立大学で「名誉教授」の称号を受ける / The title of 'Honorary Professor' to Jose Cura

2018-01-28 | 受賞・栄誉



ホセ・クーラは、昨年12月、母国アルゼンチンのテアトロコロンでアンドレア・シェニエに出演しました。その帰国に合わせて日程が組まれたのでしょうか、母校のロサリオ国立大学から、クーラは名誉教授に任命されました。
→ テアトロコロンのアンドレアシェニエの舞台情報については、ブログでいくつかの記事にまとめています。

トップの写真は、ロサリオ国立大学学長のフロリアーニ教授から証書を受け取るクーラと、右端はクーラの名誉教授任命を提案した人文芸術学部長のゴイティ教授。

授賞式は2017年11月16日に大学で行われ、その日の夜には、音楽学校の学生と意見交換、質疑応答を行うワークショップも開催されました。一般市民にも公開されたこの場で、クーラは、「あなた自身であれ――知的誠実さはたとえ短期的には成果につながらなくとも、歴史に痕跡を残す」という意味のタイトル(スペイン語)で公演を行ったそうです。


ロサリオ国立大学人文芸術学部のFBに掲載されたポスター





●受賞について、故郷ロサリオでの報道から


――著名なテノール、作曲家、指揮者のホセ・クーラ、ロサリオ国立大学の名誉教授に任命

フロリアーニ学長は、記念式典で、ホセ・ルイス・クーラ(ルイスがミドルネーム)を名誉教授に任命した。
この賞は人文芸術学部の理事会が提案したもので、学部長はホセ・クーラの存在の重要性に言及、世界における我々の国の主要かつ最も優れた代表者のひとりと考えていると述べた。また彼は、ロザリオ国立大学がクーラの人間形成に果たした役割を強調、それは、教育モデルとしての公立大学の意義を肯定するものとみなしている。

新しい名誉教授(クーラのこと)は、この大きなコミットメントに感謝を表明した。クーラはこの機会を利用して、彼の音楽の訓練に同行してくれた教師について述べ、 "才能と情熱を殺さずに引き上げてくれた人たち"として顕彰した。

ホセ・ルイス・クーラは、1962年12月5日にロサリオで生まれ、フアン・ディ・ロレンツォのもとでギターを学び音楽学習を始めた。15歳で合唱指揮者としてデビュー。翌年、カルロス・カストロと作曲、ズルマ・カブレラとピアノを学び始めた。

1982年、ロサリオ国立大学の芸術学校で学び始めた。翌年、合唱団の副監督を務めた。21歳でブエノスアイレスのコロン劇場芸術学校で奨学金を獲得した。そこで合唱団で数年間働きながら、同時に作曲と指揮を研究した。

1991年にホセ・クーラはヨーロッパに定住し、テノールのヴィットーリオ・テッラノーヴァと出会い、イタリア語のオペラスタイルの習得を学んだ。

午後、クーラ教授は大学の音楽学校の学生のために話をした。

RADIO UNIVERSIDAD 103.3




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記念式典の様子。何かメダルのような記念品を受け取っているようです。




●ネットに掲載されたクーラのインタビューより(記念式典のスピーチではありません)

私はロシアから、オスカーと呼ばれる賞(オネーギン賞で授与される像)を、私の音楽キャリアに対して受け取った(2017年11月、帰国の直前のこと)。
それは私を興奮させた。しかし、たとえ私がそれを受け取る最初の国際的なアーティストであっても、私自身は、ロシアに自分自身を社会的にコミットしていない。
一方で、ロサリオ大学の名誉教授であることは、感情的にも社会的にも私をコミットすることだ。教育機関に属するということへの責任がある。その言葉のすべての重さにおいて。
「PERFIL」(一部抜粋)



●記念式典でお礼のスピーチを行うクーラ









●旧友や恩師と再会して









●記念式典後、母校の学生や市民との懇談・交流









●地元ロサリオのラジオ局に出演

式典でのお礼のスピーチや、学生に対して語った内容はネットには発表されていません。「あなた自身であれ――知的誠実さはたとえ短期的には成果につながらなくとも、歴史に痕跡を残す」というスピーチのテーマは、いかにもクーラらしく、クーラが貫いてきた信念、芸術的キャリアをつらぬく姿勢そのものだと思います。ぜひ内容を詳しく知りたいものです。

同じ時期に、地元ラジオ局のラジオ・ロサリオ・クラシカに出演しています。そこで、自分のキャリアや考えなど含めて、さまざまな語ったものが、オンデマンド録音で聞くことができます。ただし、すべてスペイン語で、残念ながら、私にはまったく聞き取り不可能です。アルゼンチン在住のクーラファンの友人の話では、クーラが学生に語った内容とも共通するものがあるようです。
いつまで聞けるかはわかりませんが、リンクを貼っておきます。前後編、2つに分かれていて、各25分ずつほどです。









ネットに公表されたインタビューもあり、紹介したいと思っていますが、スペイン語はなかなか難しく、時間がかかっています・・(苦笑)
55歳になり、現在では、演出や指揮、そして自作のオペラの創作を含めた作曲などで大忙しのクーラ。自らの芸術的な境界を広げ、もてる能力の全面的な開花をめざしてフルに活動を続けています。
一方で、歌手として、オペラ出演は非常に少なくなっていますが、昨年ネットで放送された、コロン劇場のアンドレアシェニエ(12月)、リエージュのオテロ(6月)、モンテカルロのタンホイザー(2月)などを視聴する限りでは、声の調子も非常に好調を維持し、持ち前の美しい声に加えて、円熟した表現力と解釈、抜群の舞台上の存在感で素晴らしいパフォーマンスを積み重ねています。まさに今が、クーラの実りの秋、絶頂期といえるのではないかと私は思っています。もし旅行先で運よくクーラの舞台に出会う機会がある皆さまには、マスコミやネットから得た偏見や先入観にとらわれずに、ぜひクーラの現在の姿を知って、見ていただければと思います。その際には、ぜひ、ご感想などお寄せいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。





*写真は大学のFBなどからお借りしました。

















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(インタビュー編)2017年 ホセ・クーラ、オネーギン特別賞を受賞 in サンクトペテルブルク / Jose Cura Interview in St. Petersburg

2017-11-14 | 受賞・栄誉




ホセ・クーラは2017年の10月末に、ロシアのサンクトペテルブルクでの第2回オネーギン賞の授与式など関連行事に出席し、特別賞を受賞しました。
オネーギン賞の様子は、いずれまたこのブログでも紹介したいと思います。

その前に、クーラがサンクトペテルブルクで受けたインタビューがロシアのネットニュースに掲載されましたので、ざっくりと訳して紹介したいと思います。
いつものように、率直に、フランクに語っています。語学力がないため、誤訳、またニュアンスの違いがあるだろうこと、お許しください。







Q、サンクトペテルブルクとの関係は?

A(クーラ)、あなたたちの街は素晴らしい。ここでは、すべてにおいて、文化、演劇、音楽が息づいている。
私はここに来るたびに、それをより正確に表現するやり方を感じる... 亡霊ではなく、このユニークなカリスマ性、大気中の魅力。
残念なことに、私のこの都市との関係は、コンサートだけで結ばれてきた。それ自体はよいのだが、私は、本当に本格的なオペラでここで演奏したいと思っている。すぐに何らかの計画をたてて、ここで歌えるようになることを願う。
時間は止められないので、遅かれ早かれ、私は歌をやめるだろうから。


Q、たぶん、あなたはサンクトペテルブルクの劇場にとって、あまりにも高価な歌手?

A、今日、世界中にはたくさんの問題があり、私たち全員、オペラアーティストは価格を引き下げている。これは私のどの同僚もそう言うだろう。これをしなければ、とにかく働くことはできない。もちろん、この場合はお金についてだけではないが、最終的にはそれが私たちの職業だ。

私にとって、長年にわたって行ってきたことは、まず第一に音楽を創造することであり、人々とコンタクトをとり、コーラスやオーケストラ、技術スタッフたちとともに仕事をする――非常に素晴らしい人間的な経験だ。そのような贅沢な経験を、ただお金のためだけに放棄することはできない。もしすべてがお金を尺度に測られるならば、私たちは、コミュニケーションからなる我々の芸術の本質を破壊することになるだろう。したがって、すべてが可能であり、すべてが議論の対象になる。







Q、ロシアのオペラには、あなたのための役柄はほんの少ししかない。チャイコフスキーの"スペードの女王"のゲルマンは、残念ながら、あなたは歌っていないが?

A、そう、言語がわからないために、私はこの役をやってこなかった。私はチャイコフスキーの音楽的言語にとても親しんできて、彼の交響曲をたくさん指揮している。しかし、歌を歌うだけでなく、舞台にたつことが大好きな歌手として、私には、自分が話さない言葉でオペラを演奏することは非常に難しい。
私自身で納得できないだろうし、聞き手も私を信頼しないだろう。これは私の基準を満たしていない。私は、クーラは他の歌手ほど良くないという意見を受け入れることはできるが、いつものクーラより良くないというのは聞きたくない。私はゲルマンの役が私の能力を超えていることを恐れている。
しかし、ロシアには、この役を非常にうまく歌っているテノールがたくさんいる。たとえば、素晴らしいウラジミール・ガルジンもそうだ。



Q、あなたは依然としてユニークなドラマチックなテナーとして高く評価されている。しかし、栄光は一時的なものであるという事実についてどう思う?

A、私は非常に満足している。あなたがトップにいる時、あなたが何をしているのか、ほとんど誰も気にしていない。誰もがお金にしか興味がない―― あなたを良い儲けの手段として。どのくらいあなたが他の人に稼がせることができるのか。つまり、あなたは製品だ。そしてこれが普通で、これらはゲームのルールだ。
あなたがこのランクの製品でいることをやめるとき、それから、あなたは、自分の本当の仕事のスキル、経験、品質によって表現するものによって、もっと多くの人々を引き付けるようになる。あなたは本来の熟練者、アーティストとして認識される。あなたはもはや素晴らしい「製品」でない。素晴らしい「表現者」だ。私にとっては、今が、非常に良いと感じられる時だ。







Q、オペラ歌手の場合、年齢という概念は、もちろん、バレエほどではないが?

A、そう、オペラ歌手はだいたい60歳までやることができる。そしてダンサーはもっと早くその年齢を感じ始め、キャリアはずっと短い。これほど難しく、犠牲的に自分自身を捧げる分野は、芸術的ビジネスにおいても他にはほとんどない。歌手にとっては、自制心も非常に重要だが、力を分配するためのより多くの時間がある。

私のケースは特別だ。私は多くの歌手よりも後から歌手になった。大学の卒業証書は、作曲と指揮で受けた。プロの歌手としてのキャリアは、28、9歳から始まった。したがって、私は状況をさまざまな方法で解決する機会を得た。この意味では私は幸運だった。
10年前、私はまだトップにいたとき、オペラの演出、指揮を始めた。私がいつ歌をやめるのかは分からない。それは自然の問題なので、一般的に言うのは難しい。しかしその後、私は作曲家と指揮者としてのキャリアを続けるだろう。

過去3年間で、私はいくつかの作曲作品を初演した。そのほとんどは20年前に書いたものだ。去年は、オラトリオ「エクセ・ホモ(この人を見よ)」のプレミア、2年前は 「マニフィカット」を初演した。そして今、私の最初のオペラ=喜劇の作曲を終えた。世界がよりユーモアを必要としていると思うから。







Q、「この世はすべて冗談」と歌ったヴェルディのファルスタッフをどのように受け継いだ?

A、もちろん、ヴェルディの天才と比べることはできないが、私の努力だ。つまり、将来的には、さまざまなことをしている可能性がある。ある日、私は歌をやめたり、レパートリーを変えたりするだろう。現在、私は、プッチーニのラ・ボエームのロドルフォをもう歌うことはできない。理由は、この主人公のように感じることができないというだけだ。またマノン・レスコーの若いデ・グリュー、椿姫のアルフレッドも同様に。彼らは子どもだ。ステージでこれらの若い男性のように見えるふりをすることは、私には滑稽に思われる。
私にとっては、ブリテンのピーター・グライムズのような心理的に深いキャラクターのための時だ。私はオテロと道化師を歌い続けている。これらの役において私の年齢はキャラクターのドラマに対応していると感じる。


Q、 誰から演劇術を学んだ?

A、私は55歳だ。私がやってきたすべてのことの背後には多くの時間がある。若い頃、劇場によく行った。良い舞台は家族の日常生活の一部だった。私は良い劇的な演技なしにオペラを理解することはない。私が出演している30年前のビデオを見たら、非常に良い歌手だとは思わないかもしれないが、それでも私は良い俳優だった。いうなればそれは私の「トレードマーク」だった。私の息子ベン・クーラは、今、映画と演劇でプロの俳優だ。


Q、あなたは天性に劇的な才能を持っていると?

A、天性は天性でも、それを助けるべきことがたくさんある。研究と勤勉。才能は木ではないので、天性にのみ頼るのは危険だ。才能はあなたに植えつけられた種であり、それは、あなたにどちらかを選択するように迫る。この種子は最終的なものではなく、ゴールでもない。これは始まりにすぎない。
今日、多くの人がこれを忘れている。誰もがすぐに結果を望んでいる。

そして、その種が木になるまで、芸術は長期的な自己犠牲だ。樹冠が育つと、それは熱い時に影をつくることができる。家とテーブルをつくることができ、寒い冬の夜には、暖かく保つ火を焚くために使うことができる。種子は何もできない。







Q、プラシド・ドミンゴのクリエイティブな長寿については?

A、バリトンへの転向はドミンゴ氏が初めてではない。過去には、時折、バスになったテノールがおり、またはメゾ、さらにはコントラルトへと変化したドラマチックソプラノがいた。ある時から、高音域と低音に分類されて、声の種類の部門のなかで終わらなければならなくなったようだ。しかし、むしろ私は、歌手がこのパートを歌うことができるのかどうか、主人公のドラマに対処できるかどうか、舞台で聞いて信じることができるか、そうでないかによって、歌手を判断したいと思う。もちろんドラマティックな声が、コロラトゥーラを歌うのは難しい。しかし、もしできるのなら、どうぞ!いいだろう? テノールのグレゴリー・クンデは、ヴェルディとロッシーニのオペラでオテロを歌うことができる。これは彼の非凡な技術によるものだ。問題はラベルではない - 問題は結果だ。

ドミンゴ氏がバリトンとして歌うのは、単純な理由だ。彼はステージライフと強く結びついているので、休みのために離れることは、彼にとっては死に等しいことだからだ。私はこの話題で彼と話をしたことはないが、私はそう確信している。私たちは、自分たち自身がしていることが非常に好きだからだ。

私が子どもの頃、私の父は、ヌレーエフの最後の公演の1つを観るために、地元のロサリオではなく、ブエノスアイレスまで連れて行ってくれた。ヌレーエフはすでに中年だったので、ステージ上ではほとんど何もしなかった。しかし私は、ヌレーエフを見に来た他のみんなと同じように、まったく気にしなかった。またキューバの偉大なダンサー、アリシア・アロンソを、彼女が65歳くらいの頃に見た。彼女はほとんど手をあげなかったが、私はアリシア・アロンソ自身を見た!

ここにはドミンゴと同じことがある――生きる伝説。いずれにせよ、これは議論の問題ではない。最後の最後までお楽しみを。過去に多くの人がこれをやったことがあるし、多くが将来続くだろう。そして例えば、私。

私は、みんな知っているように、バリトンのようなテノール声を持っている。そしてハイノートを歌うことができなくなったら、たぶん私もまた、バリトンで歌うだろう。ただ単に私はステージを愛しているから。するときっと、「まあ、クーラはドミンゴを真似ている」と言う人がいるだろう...。

(「spbvedomosti.ru」)





*画像はオネーギン賞のHPからお借りしました。
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2015年 ホセ・クーラ、母国アルゼンチンから名誉表彰を受けて / Jose Cura / Speech in the Argentinean Senate

2016-06-18 | 受賞・栄誉


ホセ・クーラは、南米アルゼンチンの出身です。軍事政権とその崩壊直後の時代に青年期を過ごしたクーラは、作曲家、指揮者になる夢をもちつつ、テアトロ・コロンの合唱団で歌うなど、なかなかその才能が認められずに、苦闘の日々を送っていました。
91年にイタリアに渡り、その後、テノールとしての国際的なキャリアが拓けていったことは、これまでの投稿でも紹介してきました。

2015年7月、クーラは、母国のテアトロコロンでオペラ、カヴァレリア・ルスティカーナと道化師の演出、主演(道化師のみ)をした際に、長年の芸術活動の功績が認められ、アルゼンチンの上院で名誉表彰を受けました。

その際に、クーラがお礼の言葉としてスピーチした全文が、彼のフェイスブックにアップされました。
その内容は、彼らしく、非常に率直で、感謝の思いとともに、母国へのこれまでの複雑な感情と自省が込められていました。

いくつかの画像、動画、そしてクーラの言葉を紹介します。誤訳、直訳、ご容赦ください。

アルゼンチン文化大臣と


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〈アルゼンチン上院でのスピーチ 2015年7月〉
●私は反逆者ではない
誰もが、私について、反逆者である、と言う。
私は反逆者ではない。しかし、そう、私は、物事を深く探る前に「それはこのようにする必要がある」と答えることをしない、理屈っぽい人間である。

そう、私は、議論する。しかし忠実である。これは大切なことだ。

●好きな聖書の言葉
" 予言者郷里に容れられず"――誰もが自分の土地で預言者ではない(聖書からの句を引いて)
私はこのことわざが好きだ。それはなぜか。両面的な意味をもつ言葉だからだ。それは、失敗を正当化しようとして拒否された者についての言葉であり、また、軽蔑を正当化するために彼を拒否した人々への言葉でもあり・・。

それは見事な言葉だ。イエスは私たちにその言葉を与え、それはすべてのことに有用だ。

●私は「預言者」ではなかった
1991年に私が故郷を離れることになった時、国を離れることを余儀なくされた全ての人々と同じように、私は非常に怒っていた。
「預言者(つまり才能ある者)は自分の故郷では歓迎されないのだ」
私は繰り返し、自分自身に言い聞かせた。私の脱出を自ら動機づけるために。

しかし真実は違った。1991年に母国を離れた時、私は、母国においても、世界のどこにおいても、預言者などではなかったのだ。私が必要としたモチベーションに、人々は責任はなかった。
私はかなり後になるまで、このことを理解していなかった。



●復讐は人生最大の誤り
1999年に、アルゼンチンに公演で初めて戻った時に、私は復讐を渇望していた。私は、母国以外での全世界における預言者として戻って来た、いまや彼らもそれを認めるだろうと。

この復讐の思いは、私が犯した、人生で最大の誤りだった。私が間違っていた。私は謝罪したい。
私は、郷里で認められない預言者だったのでなく、預言者ではなかったのだ。

今日受け取ったこの栄誉は、私の過ちの証拠だ。なぜなら、経験と成熟をへて私が今あるのは、人々がそれを公然と、誇りを持って気づかせてくれたからだ。

どうもありがとう

ホセ

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こちらがクーラのFBに掲載された原文です。画像のクリックでFBの当該ページにとびます。


クーラの故郷、アルゼンチンのロサリオ選出でクーラの表彰を提案した国会議員とともに。


アルゼンチン国会の上院TVがインタビュー動画を掲載してます。スペイン語のために、私には残念ながら理解できません。
MENCIÓN DE HONOR PGM.07 | JOSE CURA 1º BLOQUE


MENCIÓN DE HONOR PGM.07 | JOSE CURA 2º BLOQUE


なかなか故郷で認められず、苦い思いを抱えてヨーロッパに渡り、苦しみつつ、自らの道を切り開いてききたクーラ。
それだけに、強い自負とともに、長年、故郷への複雑な思いを抱えてきたのだろうと思います。
今回の顕彰は、それゆえ、格別な喜びだったことでしょう。その名誉な時に、感謝の思いとともに、反省の思いを率直に述べたのも、いかにも彼らしいと感じます。

    



 
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