人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

ホセ・クーラ 欧州移住から30年を迎える 1991~2021年

2021-10-30 | 芸術・人生・社会について②

 

 

 

ホセ・クーラは、母国アルゼンチンから欧州に移住して、今年でちょうど30年を迎えました。

1991年の7月、それまで住んでいた小さなアパートを売った代金で航空券を買い、妻のシルヴィアさんと息子ベンと一緒に、祖母の出身地イタリアをめざしたのだそうです。渡欧前後のことは、これまでも何度か、このブログでもクーラのインタビューを紹介していますので、お読みくださった方もいらっしゃるかもしれません。 

*例えば「2013年 ホセ・クーラ キャリアを拓くまでの苦闘、決断と挑戦、生き方を語る」など。

”移民”としてイタリアに渡航し、ざまざまな苦労をしながら、才能と努力を花開かせ、テノールとして国際的なキャリアを拓いてきたわけですが、いくつかのエポック・メイキング的な出来事があります。今回は、そのなかから、1994年のプラシド・ドミンゴ主宰のオペラリア優勝の時の動画と、1999年のアメリカのメトロポリタン歌劇場(MET)のデビューの際のインタビューを紹介したいと思います。

METのデビューにあたって劇場はクーラに対し、シーズン開幕公演初日でのデビューという破格の扱いを提供しました。劇場デビューが開幕初日だったのは、かのカルーソー以来2人目だったということです。この後紹介するインタビューでも、その期待がよく伝わってくるようです。

 

 

 


 

 

≪ 1994年 オペラリアのファイナル ≫

 

クーラが渡欧して3年後、徐々にオペラでも大きな役がつきはじめた時期に、メキシコで開催された声楽コンテストのオペラリアに出演、優勝しました。

オペラリアはご存じのようにプラシド・ドミンゴが主催するコンテストで、1993年にスタートしました。これまでの優勝、入賞者には、ソーニャ・ヨンチェヴァ(2010年)、オルガ・ペレチャッコ(2007年)、アイリーン・ペレス(2006年)、カルメン・ジャンナッタージオ(2002年)、ホイ・ヘー(2000年)、ローランド・ビリャソン(1999年)、ジョセフ・カレヤ(1999年)、アーウィン・シュロット(1998年)、ジョイス・ディドナート(1998年)、リュドヴィク・テジエ(1998年)、森麻季(1998年)、ディミトラ・テオドッシュウ(1995年)、ニーナ・シュテンメ(1993年)など、世界的に活躍している多くの歌手がいます。

第1回とクーラが出演した第2回までは、1位、2位という順位はなく、複数の優勝者が選ばれていたようで、94年は7人が受賞していますが、クーラだけは、それに加えて観客賞も受賞しています。

次の動画が、クーラのファイナルの動画です。ドミンゴとダイアナ・ロスが司会進行を務めています。クーラはプッチーニの「西部の娘」から「やがて来る自由の日」を歌っています。コンテストですがちゃんと衣装をつけて歌っているのですね。画質は良くないですが、若々しいクーラの歌声をどうぞ。

 

Jose Cura 1994 "Ch'ella mi creda" La fanciulla del West

 

 

 

 


 

 

≪ 1999年 メトロポリタン歌劇場へのデビュー ≫

 

 

 

オペラリアで注目されたこともあってか、それ以降、1995年ロンドンのロイヤルオペラハウスにデビュー、96年ウィーン国立歌劇場デビュー、97年ミラノ・スカラ座デビュー、97年トリノでアバド指揮、ベルリンフィルとオテロのロールデビュー、98年東京・新国立劇場こけら落とし公演アイーダ・・などなど、一気に世界的に活動の場が広がっていきました。

そして欧州での活躍から少し遅れましたが、1999年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場のシーズン初日に、カヴァレリア・ルスティカーナのトゥリッドウ役で劇場デビューしました。

その時の動画は全く公開されていません。メトの広報誌に掲載されたらしいインタビューを抜粋してご紹介したいと思います。

 

 

 

 

 

 

ーー ”若き獅子” ホセ・クーラ インタビュー

 

初めてホセ・クーラを見たのは、昨年(1998年)11月のワシントンだった。

白い衣装を着てそびえ立つ彼は、巨像のような体格で、驚くほどハンサムで、今日のオペラの舞台では珍しいカリスマ性を醸し出していた。

"Arrêtez, ô mes frères! そして、"Arrêtez, ômes frères! Et bénissez le nom du Dieu saint de nos pères"(やめよ、兄弟たちよ!父祖の聖なる神の名を祝福せよ)と、彼は力強く刺激的な高く澄んだ声で歌った。彼の緑色の目は強烈に燃えていて、ヘブライ人奴隷の肩に思いやりを持って手を置いた時には、その苦しみを和らげることができるのではないかと思ったほどだった。

公演が終わってニューヨークに戻る列車の中で私の心に残ったのは、盲目のサムソンに扮したクーラが、群衆の中で自分を導いてくれる少年を掴んでいる姿だった。クーラはその子の手をつよく握りしめ、しっかりとにぎって離れないようにしていた。そのしぐさには信憑性があり、見事に効果があった。

ワシントンに行く前、「新世代のオペラファンが切望している、並外れた声、官能的な美貌、魅惑的な演技力といった『全体像』を備えている」というような刺激的な言葉で表現されている、この急上昇中のテノールに対して、私は懐疑的だった。私はジョン・ヴィッカーズやプラシド・ドミンゴの偉大なサムソンを見てきたので、どんなに素晴らしいパッケージであっても、騙されるつもりはなかった。

しかし、ホセ・クーラは正真正銘の発見だった。洗練されたバリトンの響きを持つ真面目なミュージシャンだ。また、非常に魅力的でありながら賢明な人物であり、自分の芸術に対する明らかな献身と、ドラマに対する本能的な才能を持っている。特にサムソン(『サムソンとデリラ』)、ドン・ジョゼ(『カルメン』)、アンドレア・シェニエ、ラダメス(『アイーダ』)、『マノン・レスコー』のデ・グリュー、『カヴァレリア・ルスティカーナ』のトゥリッドゥなど。

9月27日、オープニングナイトのガラ公演の前半、プラシド・ドミンゴが出演する「道化師」とのダブルヘッダーで、クーラはトゥーリッドゥを歌い、メトロポリタンオペラデビューする。これは、フランコ・コレッリやマリオ・デル・モナコの時代を彷彿とさせる声と舞台での存在感を持つドラマチックなテノールを、ニューヨークの聴衆に紹介する待望の機会だ。また、ドミンゴはメトロポリタン・オペラで18回目の初日を迎え、エンリコ・カルーソーの記録を更新する。

 

 

 

 

この2人のテノールには特別な縁がある。1994年、クーラはドミンゴの国際オペラリア・コンクールで優勝した。ドミンゴはクーラの初のソロ・レコーディング(1997年のプッチーニ・アリア)を指揮し、ワシントン・オペラの昨シーズンの「サムソン」と今シーズンの「オテロ」にもクーラを参加させるなど、後輩を支援している。

ホセ・クーラは、この数年で3人目の大テノールの候補としてメトにデビューするが、最もデビューの成功者として記録に残りそうな人物である。パバロッティ、ドミンゴ、カレーラスの3人の後継者を必死に探している世界中の雑誌や新聞が、クーラを「第4のテノール」と称しているが、しかし、そのことに彼は苛立ちを覚えている。「私が第4のテノールなら、誰が第3、第2、第1なのか」と彼は問い、「それは何の意味もないタイトルだ」と言う。

誇大広告の時代には、一般大衆にとってタイトルはもちろん意味のあるものだが、誇大広告は諸刃の剣である。称賛はある種の熱狂的な期待をうながす一方で、批判的なナイフを磨くことにもなる。2、3年前とは違って、今ではクーラは、特定のライターの標的になっている(5月のロンドン・タイムズ紙に『オテロ』に対する辛辣な批評が掲載された)。しかし彼は、仮にドレスリハーサルが大失敗に終わったとしても、また初日に不具合があったとしても、舞台恐怖症に悩まされないという幸運を持っている。良い例として、ワシントン・オペラでの『サムソン』の初日の夜、神殿が3小節も早く崩壊してしまったが、クーラは、すべて計画通りに進んでいるかのように歌い続けた。

「私の本能的な反応は、舞台から逃げ出すことではなく、公演を守ろうとすることだった。舞台上で、私は恐れない。私を驚かせるものは何もない。傲慢に聞こえるかもしれないが、そのための準備をしてきている。これまでの人生の半分以上、ステージに立ってきたのだ」ーーニューヨークのカフェでのインタビューで、クーラはそう語った。

彼は、自身が「傲慢」と評されている記事をいくつか読んでいるようだが、しかし、最初のインタビューでの彼は、誠実で礼儀正しく、思慮深く、知的でユーモアにあふれていた。彼はファンや業界関係者に中断させられることにも慣れている。ある時、有名なアーティストのマネージャーが私たちのテーブルに近づきながら「クーラ!」と叫び、立ち寄って話をした。それでも彼は、どんな質問にも集中を保ち、中断したところから容易に話を再開することができる。

確かにクーラは、自分のキャリアの方向性について強い意見を持っているが、偉そうな態度や威圧的な態度をとることはない。彼は、自分が何者であるか、そして今日に至るまでどれほどの努力をしてきたかを知っているのだ。

 

 

 

 

クーラは1962年12月5日、アルゼンチン・サンタフェ州の州都ロサリオで生まれた。彼の血統は明らかに国際的で、4分の1はイタリア人、4分の1はスペイン人、半分レバノン人の血をひいている。名前の由来となった父方の祖父は、生まれたときは貧しかったが(7歳のときには道端で靴磨きをしていた)、金属のコングロマリットを率いてアルゼンチンで最も有力な産業界のリーダーとなった。父は会計士として成功した。

クーラの幼少期の思い出は、フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルド、ベートーヴェン、モーツァルト、ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーンなど、「あらゆる種類の音楽」を聴いていたこと、そして毎晩、父親と一緒にピアノの前に座り、父が演奏してくれたことだ。「母は私に、ポップスやクラシックがあるのではなく、良い音楽と悪い音楽があるということを教えてくれた」と彼は振り返る。

12歳で初めて声楽とギターのレッスンを受け、15歳のときにロサリオの野外合唱コンサートで指揮者としてデビューした。その頃、彼は作曲も始めていた。「私はまさしくミュージシャンだった」と彼は振り返る。「(指揮をしたり、作曲をしたりするのは)当たり前の、自然なことだった。何も考えず、ただ音楽をやり、楽しんでいた」

「1984年に、1982年の愚かな南大西洋戦争(マルビナス戦争またはフォークランドウ紛争とも)で亡くなった人々に捧げるレクイエムを書いた。当時、私は予備軍で、マルビナス/フォークランドへの出征を控えていた。戦争が短かったことに感謝している。戦後25周年を迎える2007年に、この作品を演奏するのが私の願いだ」

*このクーラの願いは残念ながら実現しませんでしたが、来年2022年にハンガリーで初演される予定です。

1982年に国立ロサリオ大学で作曲の正式な勉強を始めたクーラは、合唱指揮を続けていたが、同校の学長から声楽の勉強を勧められた。「彼は私が作曲家か指揮者になりたいと思っていることを知っていたが、歌を勉強することで、より良い作曲家、指揮者になれるだろうと言ってくれた」ーー クーラは奨学金を得て、ブエノスアイレスのテアトロ・コロンの歌唱学校に入学したが、計画通りにはいかなかった。

 

 

 

 

「20歳のときの私の声は、自然のものだったが、音楽的ではなくかなりうるさかった」とクーラは振り返る。「声が大きかったので、最初に私を受け持った教師は、間違ったレパートリーを強要したがった。「トゥーランドット」や「西部の娘」(プッチーニ)などを歌っていたのを覚えている。それはクレージーだった。その結果、23歳のときにはもう声が出なくなっていた。高い音も、深い音も出せなくなっていた」ーー誤った教育が声を傷つけたため、クーラはギアチェンジを余儀なくされた。

「『歌うことがこんな苦しみなのなら、もう歌いたくない』と言ったことを覚えている」

24歳になったクーラは、9年前に合唱のオーディションを受けた時に知り合ったシルビアと結婚した。生活のために様々な仕事をした。「朝はジムでボディビルのインストラクター、昼は食料品店、夜はテアトロ・コロンで合唱の仕事をしていた」

しかし、彼はもう歌わないと決めていたのでは?クーラは、エスプレッソを飲みながら、このことを振り返る。「神は常に私の人生を見守り、コントロールしていたのだろう。『歌手になりたくなくても、歌手になるのだ。説得には時間がかかるだろうが、君は歌手になるだろう』と言っていたのだと思う」

25歳のとき、クーラは学校や美術館で公演を行う地元の小さなオペラグループの音楽監督に招かれた。「あるコンサートで、テノールがキャンセルになった。あるコンサートでテノールがキャンセルになった。そこで『星は光りぬ』(『トスカ』)と『椿姫』のデュエットを私が歌った。その時、テアトロ・コロンのテノール歌手、グスタボ・ロペスが私の歌を聴いて、彼の先生であるオラシオ・アマウリに紹介してくれた」 アマウリはクーラの歌声を聴いて、「君のような声は30年か40年に1度しか出ない」と断言し、無料でレッスンをしてくれることになった。

「2年間、ほぼ毎日、マエストロ・アマウリのもとでレッスンを受け、それが私のテクニックの基礎となった」とクーラは語る。「彼はとても厳しい先生で、非常に伝統を大事にするスタイルだった。彼は、表面的な動きではなく、筋肉の中心に入り込むことを信条としていた。自分が何をすべきで、何をすべきでないのかを理解するのに十分な年齢であり、また十分な経験を積んでいることは、私にとって良かった。2年後、キャリアとまではいかなくても、少なくとも、より一貫した方法で生計を立てる準備ができていると感じた」。

ある夜、家に帰ったクラは妻に「もう出発しなければ」と告げた。

 

 

 

 

自分がどこに行くのか、着いたら何をするのか、全く分からなかったと彼は告白するーー「でも、自分の中にライオンを感じることができた。仕事に飢えたライオンを」

クーラ夫妻は、ブエノスアイレスのアパートを売りに出たその初日に売却し(「当時の経済は非常に厳しく、少なくとも2年はかかると思っていた」とクーラは言う)、そのお金をポケットに入れて(「当時は大金に思えたが、今の1晩の出演料に相当する」)、イタリアに向かった。1ヵ月後、彼らはほとんどのお金を使い果たし、クーラの話では、航空券を買うお金があるうちにアルゼンチンに戻ろうとしていた。帰国のために荷物を整理していたクーラは、アルゼンチンの友人からもらった1枚の紙を見つけた。そこには、イタリア人の声楽家の名前と電話番号が書かれていた。

「私はその番号に電話して、相手の男性に『聞いてください。数日後に私は出発する予定だが、ヨーロッパの誰かに私の声を聞いてもらってから、アルゼンチンに帰りたい』と伝えた」

その声楽家は彼を自分のスタジオに招待してくれた。そしてクーラの声に感動し、エージェントのアルフレド・ストラーダにこのテノールを紹介した。ストラーダは、尊敬する声楽家のヴィットリオ・テラノヴァ(「イタリアのアルフレド・クラウス」と呼ばれたことも)に電話をかけ、「ここに『声』になりそうな人物がいる」と言った。

唯一の問題は、「その時点では、まだ大きな音が出るだけで、プロのスタイルはなく、芸術監督に見せて採用してもらえるものがなかった」ことだと、クーラは言う。

テラノヴァは、アマウリと同様に、財政的に苦しいクーラを無料で引き受けることに同意した、それからの1年半の間、彼はクーラが今日のような、独特の音色と精悍な鳴り響くトップを備えた、十分な息で支えられた暗い色合いをもつ声を開発するのを助けた。まだいくつかの問題があった。高音域になるとトーンが薄くなることがあり、また批評家の中には、「英雄的な男らしさが強すぎる」「繊細さに欠ける」などと批判されることもあるが、背筋がゾクゾクするようなスリルを求めるオペラファンには不満はないだろう。

クーラの大ブレイクは、1992年にヴェローナで上演されたハンス・ヴェルナー・ヘンツェの『ポリチーノ』の神父役、続いてトリエステで上演されたアントニオ・ビバロの『ミス・ジュリー』のヤン役である。(劇場は適当なテノールが見つからず、この新作を断念しようとしていたが、アルフレード・ストラーダがクーラにチャンスを与えるよう説得した)

1994年にプラシド・ドミンゴのオペラリアで成功を収めた1ヵ月後、シカゴ・リリック・オペラで『フェドーラ』のロリス役で、ミレッラ・フレーニの相手役として北米デビューを果たした。この役はあまり好きではないと語っているが、高い評価を受けた。その後、ロンドンのロイヤル・オペラのスティッフェリオ(1995年のヴェルディフェスティバルでホセ・カレーラスの代役)、サンフランシスコ・オペラのカルメン、ミラノスカラ座のラ・ジョコンダなどで注目すべきハウス・デビューを果たした。現在、彼のレパートリーは30の役柄が含まれる。

 

 

 

 

最近、家族と一緒にパリからマドリッドに引っ越したばかりのクーラは、公演を年50回程度に制限している。今シーズン、アメリカのオペラファンが彼をメトで見ようと思ったら(『カヴァレリア』は最初の3回しか歌わない)、あるいは3月にワシントン・オペラで5回行われる『オテロ』のうちの1回を見ようと思ったら、急いで駆けつけなければならない。(この他、12月にはパレルモ、2001年にはロイヤル・オペラでもオテロを歌う予定) 今後の役柄について、クーラは「ピーター・グライムスに挑戦してみたい」と語っている。

まだ冬のようなある春の日、クーラへの2度目の訪問は、ロンドンのバービカンで行われたコンサート形式の「オテロ」の最終リハーサル1時間前の楽屋だった。テノールは、アメリカで発売予定のヴェリズモ・アリアの新録音を楽しみにしているようだった。

指揮者は?ーー「指揮者としてはあまり知られていないが、私から見て非常に優れた音楽家であるホセ・クーラという人物だ」と彼は恥ずかしそうにおどけてみせた。クーラが自分自身で指揮をしたのはこれが初めてではない。1998年に発売されたアルゼンチンの歌のCD『Anhelo』では、クーラがアンサンブルを率いて指揮をとり、これにはパブロ・ネルーダの2つの詩にテノール自身が作曲したものが収録されている。

クーラはヴェローナで行われる「アイーダ」の野外公演を楽しみにしていた(プロダクションのオープニングナイトは、インターネットで視聴された) 。また8月には、『カヴァレリア・ルスティカーナ』のリハーサルのためにニューヨークに渡る前に、妻シルビアと3人の子供たち(11歳のホセ・ベン、6歳のヤスミン、3歳のニコラス)と一緒に静かに過ごしたいと考えていた。

「メトからはこれまでにもいくつかオファーがあったが、初出演には良いものをと思っていたし、プラシド(ドミンゴ)も歌ってくれるということで、その夜はとても特別なものになると思う。トゥリッドゥは素晴らしく、悲劇的な役柄だ。人々は彼について、サントゥッツァを虐待する狂信的な男のように思っている。しかし彼がこのオペラの唯一の真の犠牲者であることを忘れることはできない。彼は兵役に行く前にローラに恋をしていて、戻ってきた時にはローラは結婚していた。彼は裏切られたと感じ、失望し、男としての怒りを感じたのだ」

自身を「Theater animal」だと思っているクーラだが、自分の演技力はすべて独学で身につけたものだと告白する。

「人間の状態の細かな部分まで描写することに最もやりがいを感じる。私は社会の観察者であり、分析者でもある。『サムソン』の終幕で目が見えなくなったときに、私が小さな男の子をつかんだ時のことに言及されたが、私は父親だ。子どもの手をしっかりつかむとはどういうことか知っている」

ホセ・クーラは、21世紀に向けて我々を導く待望のテノールなのだろうか?

コリン・デイビスはそう考えているようだ。

「彼は演劇的で、とても音楽的だ」と、バービカンでのクーラの『オテロ』や、『サムソンとデリラ』の録音で指揮をとった指揮者は言う。

「彼は素晴らしい身体的強靭さと素晴らしい感情的な強さを持っている。彼が失敗することはありえない」

 

(「metguild.org」)

 

 

 

 

 


 

 

かなり長いインタビュー記事、拙い訳に最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。

90年代後半、「21世紀待望のテノール」「第4のテノール」という言葉とともに、「オペラ界のセックスシンボル」「テストステロン爆弾」などといううたい文句まであったそうです。この時期、一気に世界的に有名になったクーラ。オペラファンの期待も大きかったことと思います。

しかしすでに、こうした売り出され方、商業主義とアーティスト使い捨てのやり方が耐えられなくなっていたクーラは、99年から2000年にかけて、当時のエージェントから独立し、また大手レコードレーベルに所属することもやめ、独立独歩で自分の事務所と小さなレーベルを作って歩み始めました。そのためかなり攻撃もされたようで、この時期のことはこれまでも何度か紹介してきたとおりです。

*「ホセ・クーラ スターダム、人生と芸術の探求」 、「ホセ・クーラ インタビュー ”私はセックス・シンボルとして売られ、そして生き残った"」 他をご覧ください。

 

今回ご紹介した99年のインタビューからは、メトデビュー当時の熱狂的な歓迎ぶりが伝わってくるように思います。こうした”スター街道まっしぐら”の時期に、自分をとりまく流れに迎合するのではなく、自らの芸術の道を見定めて、それまでの関係を絶ち、一人歩んでいく決断をするというのは、なかなかできるものではないと思います。実際に、その後の厳しい逆境が物語っています。しかしクーラは屈せず、妥協せず、今日まで生き延び、ユニークなアーティストとして、円熟の時期を迎えています。

渡欧から30年、クーラの歩みを心から祝福したいと思います。

 

 

*画像は当時の映像、報道などからお借りしました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021年 ホセ・クーラ、マノン・レスコーを指揮 プロヴディフ国立歌劇場

2021-10-22 | オペラの指揮

 

 

ホセ・クーラは2021年4月17日、ブルガリア第2の都市プロヴディフで、プッチーニのオペラ、マノン・レスコーを指揮しました。

コンサート形式でしたが、クーラにとっては、コロナ禍で1年近く公演キャンセルが続いた後、はじめて観客の前に立って行うことができた公演でした。

*無観客では2月にスイスのヴィンタートゥールでアルゼンチン歌曲のコンサートをおこない、こちらが長いコロナ禍後の初出演。現在も録画を視聴できます!

 

実はこの公演は、ブルガリアのオペラ・テノールのカーメン・チャネフさんが2020年11月にコロナ禍のために56歳で亡くなったことをうけ、彼を偲んで開かれたものでした。

クーラは、その前年の2019年の7月、プロヴディフ野外劇場でオテロに出演していますが、その時のデズデモーナは、チャネフさんのパートナーであるソプラノのターニャ・イワノワさんでした。オテロのリハーサルにチャネフさんも来て、クーラに、「いつかオテロを歌いたい。いま勉強中だが、あなたを見ることができて2倍学んでいる」と語りかけたそうです。

夢をめざす途上で、パンデミックのため若くして亡くなったことは本当に残念ですし、痛ましいことです。このマノン・レスコーでは、彼の追悼のためにクーラが招かれ、そしてターニャさんはクーラの指揮で、マノンのロールデビューを果たしました。

今回の記事では、その公演の様子や現地でのクーラのインタビューなどを紹介したいと思います。

 

 


 

 

 

State opera - Plovdiv presents:
MANON LESCAUT - Puccini (concert performance)
In memory of Kamen Chanev

Conductor Jose Cura
Soloist Leonardo Caimi and Tanya Ivanova
Soloists and Orchestra of Opera Plovdiv

 

 

●プロヴディフ国立歌劇場の告知画像

 

 

 

 

≪ 当日の舞台写真ーー劇場のFBより ≫

 

 

 

 

≪ ニュース動画などから ≫

 

●カーメン・チャネフさんの生前の姿、クーラと出演者のインタビュー、本番の舞台の様子などを紹介したニュース動画(約30分)

 

02.05.2021 по БНТ

 

 

●観客がアップした動画よりーー第2幕「あなたなの、あなたなの、愛する人」

Tanya Ivanova & Leonardo Caimi | "Tu, tu, amore? Tu" | Manon Lescaut

 

 

●観客がアップした動画よりーー第4幕「捨てられて、ひとり寂しく」~最後

Tanya Ivanova | Manon Lescaut | "Sola, perduta, abbandonata" + final

 

 

 

 

≪ バックステージ、リハーサルの様子 ≫

 

●デ・グリュー役のレオナルド・カイミさんのFBより

 

 

●リハーサルで指揮をするクーラーー劇場FBより

 

 

 

 

 

●リハーサル中の表情豊かなクーラの様子、ソプラノ歌手ターニャ・イヴァノヴァと劇場のディレクターとの対談などのニュース動画

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

≪ クーラのインタビュー、会見での発言より ≫

 

●劇場の再建は挑戦。手助けが必要なら電話を

 

多くの都市、ヨーロッパの都市には素晴らしい劇場があるが、閉鎖されたり、ほとんどが使えなくなっている。また、プロブディフのように、独自の劇場を持ちたいという願望と資源を持っている都市もあるが、それもないところもある。イタリアには、閉鎖された、あるいは完全に放置された空の劇場を持つ町がどれほどあるか知らないだろう。

ここでは、プロジェクトがあれば、ヨーロッパの現代的な要件を満たす素晴らしい建物を作ることができる。しかし、現時点ではほとんど不可能であり、今あるもので満足するしかない。少なくとも、プロヴディフに古代劇場があるのは幸運なことで、それも夢見ることしかできない都市もある。

若い世代がやらなければならないし、それが人生における挑戦だ。私に電話を。手助けできるだろう。

(「mediacafe.bg」)

 

 

●彼らは私のクレイジーさを気に入ってくれた

 

マエストロ・ホセ・クーラは、アルゼンチンを代表するアーティストの1人。音楽に対する情熱と細部までへの眼力で世界的に有名。オペラ歌手、指揮者、舞台美術家、写真家として活躍している。フランス、イタリア、オランダ、スペイン、アルゼンチン、オーストリアなどで数十の賞を受賞している。

プロヴディフ国立歌劇場の招待で来訪し、テノール歌手カーメン・チャネフ氏の追悼公演「マノン・レスコー」を指揮する。

 

Q、プロヴディフでの印象は?

A(クーラ)、非常に快適だ。いつも劇場で仕事をしているので、この街のことは知らないが、次に来るときはもっと時間をかけたいと思っている。旧市街、古代遺跡、ネベト・テペ(岩の丘)......街全体を上から見て歩いたが、まだプロブディフをよくわかったとは言えない。

 

Q、ここで生活することは?

A、ここに住むことができれば幸せだが、深刻なコミュニケーションの問題を抱える。ここの言語はとても複雑だ。私は外向的なタイプで、常にコミュニケーションを求めているので、どこに行くにも通訳を連れ歩かなければならない。

 

Q、この劇場で働くうえで最も気に入っていることは?

A、残念ながら今回はコーラスと一緒に仕事ができなかったが、オペラハウスのコーラスは非常に重要な役割を担っている。オーケストラとは非常に気持ちよく仕事ができているし、コミュニケーションも非常に良好だ。彼らは私が完全に熱中していることを理解し、それを気に入ってくれたようだ。

 

Q、あなたの写真を拝見したが、とても美しい。プロブディフはどのように見える? 

A、残念ながら、これまでは観光客が来るような場所しか見ていない。私のレンズで、もっと身近なディテールを見てみたいが、そのためには街を知る人に案内してもらう必要がある。

 

Q、あなたは歌手であり、指揮者であり、演出家であり、写真家でもある。舞台デザイナーとして舞台に立つことになったきっかけは?

A、それはとても複雑で、すぐには答えられない。私がショーをするときは、まずストーリーを伝えるために何が必要かを考える。それから、キャラクター自身が必要とする生息地、生き生きと動くための空間を作る。だから、自分の頭の中にあるものはすべて作りたいと思う。また、協力者である建築家と一緒に仕事をしているので、基本的なことは私が行い、細部は彼女が担当する。私はスケッチをして、彼女が絵を描く。

 

Q、今でもギターを弾く?どんな曲を?

A、少しだけ。アコースティック・ギターには長い指の爪が必要で、ステージ上のアーティストにとってはきれいとはいえない。それでパンデミックの時には、それを利用して爪を長く伸ばし、再びギターを弾けるようになり、1年間、弾いていた。曲も書いている。長い間、本当は作りたかったが時間がなかったギター協奏曲を書くことができた。いつかここで発表できるようにしたいと思う。

 

Q、沢山の先生たちの教訓を次の世代に伝えていく?

A、もちろん、それは私たちの主な任務。言葉だけでなく、手本となるものを伝えないアーティストは、空虚だ。多くのアーティストが、「彼が最後だった」と言われるために、知識を伝えたくないと思っていることも知っている。私には、それは利己的なことに思える。 自分が教わったこと、学んだことを新しい世代に伝えていかなければならない。そして、若い世代がそれを経験として受け止め、真似するのではなく、自分なりの何かを加えて、それを伝えていくことで、すべてが成長していくことを願っている。それがなかったら、私たちはまだ先史時代の洞窟の中にいただろう。

 

Q、大事にしている教訓は?

A、アーティストにとって最も重要なことは何だと思う?オスカー・ワイルドは "Be yourself; everyone else is already taken."(「自分らしくあれ。他の人の席はすでにうまっているのだから」)と言った。それはアーティストにとって最も重要なことだ。私の人生で受けた最高の批判は、私を傷つけるために「彼は、人から期待されることではなく、自分がやりたいことをやるという執念を持っている」と書いたことだったが、私にとっては最大の賛辞だった。

 

Q、前回と比べると今回は?

A、2019年(野外劇場でオテロに出演)は、料理がすでに用意されているレストランに客として参加した。今回は、キッチンで自分自身で調理できるようになった。そこが違う。

 

(「mediacafe.bg」)

 

 

 

 

 

 

●来年「マノン・レスコー」のプロダクションも?

 

私は58歳で、すでにほぼ40年のキャリアを経て、今は、心のレベルと感情でコミュニケーションできる人たちとの仕事だけを選ぶ余裕がある。私がプロブディフに来るとき、純粋に利己的な動機のために、自分自身のためにそうしている。それが私にとってうまくいくからだ。

私は旧市街の家に泊まっている。昨日は初めてのオフで、街を知らないままに歩き回り、古代劇場に着いた。この場所がどれほど美しいか、そしてそれがどれほど魅力的であるかを実感した。下に大通りが見えた。

プロヴディフの湿気の高さで、故郷のアルゼンチン・ロザリオを思い出した。私の街は世界で最も雨の多い街のひとつ。夕方のプロヴディフでは、湿度が高くてきれいに髪を保つのが非常に難しいことがわかった。もちろんこれは冗談。プロヴディフはとても忙しい街。ロザリオは約120年の歴史をもつが、プロヴディフに比べてれば小さな子どものようだ。遺跡の丘で何歳なのかわからない遺骨を見て、この街が歴史に完全に寄りそってきたことが印象的だった。プロヴディフを掘り始めると、ローマ人がスパゲッティを食べているのがわかるだろう(笑)。 

ある朝、目覚めた時、私たちの仕事がリセットされたことに気づいた。これは全世界に起こった。コロナは私たちを無力にした。その結果、大も小もなく、みんな同じ人間だということがわった。ショービジネスの世界では、私たちに非常に重要なことを理解させてくれた。苦痛な方法で発見したーー我々は必要だが、かけがえのないものではない。この発見はショービジネスのエゴを押しつぶした。ショービジネスがこの教訓をどう生かし、どのように変革していくのか、私たちはみていかなければならない。

7月に再びここに戻り、「トスカ」のプロダクションに参加する。その時には、来年の「マノン・レスコー」のプロダクションについて話し合う。今はまず、カーメン・チャネフを偲んで、この「マノン・レスコー」をつくろう。それからさらに考えていくだろう。

 

(「podtepeto.com」)

 

 

●記者会見の動画(ブルガリア語とクーラはイタリア語)

 

 

 

 


 

 

同じテノール歌手の追悼という悲しいきっかけの公演でした。この2年近くの間、本当に沢山の人々、アーティストも含めた多くの方々がパンデミックの犠牲になり、芸術関係者を含めくらしの困難が様々にひろがりました。何より、最優先で命が守られる世界になることをつよく願います。

クーラからは、来年2022年にもプロヴディフに戻り、マノン・レスコーのプロダクションについて交渉中のような話も出されました。報道によると演出のようですが、うまく契約まですすんで、詳細が発表されるのが楽しみです。

今回は指揮者でしたが、クーラ自身のマノン・レスコーのデ・グリュー役では、1998年、ミラノ・スカラ座のリッカルド・ムーティ指揮の舞台に出演しています。DVDにもなっているのでご存知の方もいらっしゃると思います。若々しく一途で切ない青年役を美しく張りのある声、歌唱で表現していました。

最後に、この舞台ではないのですが、99年にコンサートで歌ったクーラのデ・グリューの「なんとすばらしい美人」を最後にご紹介します。音声だけです。

 

Jose Cura "Tra voi belle" Manon Lescaut

 

*画像などは劇場と関係者のFB、報道からお借りしました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020年 ホセ・クーラ、アーティストの存在理由と現代、パンデミックからの復帰について

2021-10-16 | 芸術・人生・社会について②

*写真は2020年ハンガリーでの報道より。

 

今回は、昨年2020年8月にアルゼンチンのネットメディアで公表された、ホセ・クーラのインタビューを抜粋して紹介したいと思います。

パンデミックの最中、クーラ自身も春以降のスケジュールがすべてキャンセルとなった年の夏、まだまだ先の見えない時のインタビューです。しかし当面するパンデミックにおける芸術とアーティストの問題ということだけでなく、パンデミックがあらわにした、クラシック芸術の業界に内在してきた問題点ということで掘り下げて語っています。劇場も動き出している現在とは状況が変わってきていますが、クーラが指摘していることは、引き続き意味を持つものと思います。

クーラの母語のスペイン語の記事ということもあってか、比喩表現も多く、なかなか難しい内容でした。訳が正確でなく誤解を与えることを恐れています。大意を伝えるということでご容赦いただき、興味をお持ちの方はぜひ原文をご覧いただきますようお願いします。

 

 

 


 

 

元に戻るのだろうか? ーー ホセ・クーラ インタビュー

 

私たちは凡庸さを恥じない世界に住んでいる。「中身のない容器」にますます悩まされている。あたかも商人がカラフルな空っぽの箱を売っているかのように。あるいは最悪の場合、廃棄された商品でいっぱいになっているかのように、生活は知的副産物であふれている。

 
才能のある人が、単に「その時代」の出来事にしか関心がなく、時代の状況が求めるニーズに専念している。その作品は時代に依存しているため、ショーペンハウワーの言葉を借りれば「交換可能」だ。水準の低下としてだけでなく、「近視眼的」な無関心によって、美、正義、平和などの理想をどのように活用するかを知っていた古典芸術は、容赦なく「ファストフード」の文化に置き換えられている。「便利な姿勢」の担い手たちが彼らのポケットをいっぱいにするための、偽りの「平等」という集団的な感覚の名の下に。マニュアル通りのマキャベリズム……。
 
昨日、トレドを訪れた際に、 構想と実行に何十年もかけた芸術作品に魅了されたが、最近のメディアTik-Tokでは、20秒以上は退屈とされている...。
 
 
 
 
 
 
 
 
Q、どこにつながる?

パンデミックは社会のすべての階層に影響を及ぼすが、例外を除いて、健康に関しては、ウイルスは特に弱い人、主に高齢者、または過去に病歴を持つ人々に影響が大きい。
爆弾というよりも起爆装置のように。この事実は、クラシック芸術に頼って生計を立てているショービジネスの部門の将来を分析できるだろう。クラシックのアーティストの仕事は、何世紀にもわたって存続してきた、芸術に内在する高い理想に対する社会の感受性と受容性に依存している。それらの理想が損なわれた時ーーそれが人々の娯楽のためだけでなく、政府当局の中心部分においてもーーその時、ほとんど希望は残されていない...。

技術を持つ古典芸術のアーティストの存在理由は、優れたものを実行に移すこと。文字、音楽、絵画、ダンスなどに命を与えることであり、実行するアーティストがいなければ、紙の上で眠ったままになってしまうものだ。傑作と呼ばれるもの。しかし、先ほど言及した「中身のないものの群れ」が社会に定着し、優れたものと平凡なものを見分けることができる人の割合が極端に低下した場合はどうなるだろうか?
 
システムを正当化することはできないだろう。Covid-19が芸術の死刑執行人に手を貸す前から、斧を研ぐだけでなく、完璧で検出不可能なようにカモフラージュされてきた。「私ではない。それはウイルスが原因だった…」と。
私たちはすぐに目を覚ますだろうか。起こっているのはパンデミックの副作用ではなく、パンデミックが我々の仕事に影響を与えるずっと前から、文化システムの健全性を無視して、無責任に許してきてしまった状況への決定的な一撃なのだということに。価値観の崩壊がまだ仕事の日常の現実に影響を与えていなかった間も、ごく一部の人々は、ある種の平凡な順応主義が、我々の生計手段を危険にさらしていると訴えていた。…
 
逆説的だが、現在の状況では、優れたアーティストであることは、ある意味で逆効果をもたらしかねない...。有名なアーティストの必須条件は、その本質的な品質(そのような評価が正当化される場合)に加えて、「客席を埋める」ことだ。したがって、キャパシティー制限を考慮すると、予想を裏切らない限り、有名であることはハンディキャップになる。予想どおり、多くの団体やプロデューサーが倒れている。あるものは誠実さの結果、あるものは道徳的基準の低さから。つまりいつものことではあるが、殺しのライセンスをもっている…。
 
そういう意味で、私たちは物事がどのように変わっていくかを見ることになるだろう。ひとつのシステムが終わりを迎えているのかもしれない。しかし私は、人間には人間らしさが必要だと信じている。結局は、魅力に立ち戻ることになるだろう。問題は、それがいつなのか?
 
このような因果関係は別として、個人的には、この時間を作曲のために活用している。テ・デウムと復活のための協奏曲(ギターと室内オーケストラ)を完成させた。さらにまた、芸術監督としてのプランの準備するのにも非常に忙しく、また多くの人と同様に、強制的な隔離生活を使用して、スケジュールの圧力から永遠に延期されてきた無数の事柄に追いつこうとしている。
 
 
 
 
 
 
 

最後に、これは非常に個人的な分析によるものだが、今日、非常に流行しているストリーミングについてふれたい。聴衆との接触を維持するこの「人工的な」方法は、一般的には興味深いと思われるが、実際のオーケストラさえも集めることを可能にするこのテクノ・アート・リソースーーそれぞれが自宅で演奏し、全体をまとめて多かれ少なかれ控えめなサウンドの結果をつくりだす。それは、危機を助長するとまでいかなくても、少なくとも危機からの脱出を阻んでいるといえるのではないか。通常の状況でも、すでに観客が少ないうえに、さらに多くの人々がこの甘くて苦い生演奏の代用品に慣れてしまうなら、ライブ芸術の碑文が書かれる。

我々アーティストは、活動を続けたいという当然の、必死さの中で、間違いを犯していると思う。神は間違いを知っているだろう。私たちは時間をかけて多額のツケを支払うことになる。レコードが売れなくなったのは、ストリーミングやダウンロードが、無料ではなくとも最低価格で提供され、レコード業界を破壊したからだ。今や、ステージを殺す時がきたのだろうか…?

(「musicaclasica.com」)

 


 

 

今回紹介したインタビューは、同じ昨年の記事「インタビュー ”パンデミックによる影響と危機、音楽産業の将来への警告"」と問題意識は共通しています。

音楽産業の危機、ストリーミングに置き換わることへの警鐘などを繰り返し語っています。また今回は、とりわけ現代社会における「才能ある」人々が、目前のことしか関心が持てず、近視眼的になることによる弊害などについても、率直に述べています。あらゆるもの、芸術までがファストフード化する傾向、さらにそれらが特定の層だけに富を集中させる手段になっているとの指摘は、いかにも、音楽産業と商業主義から距離を置いて、自立したアーティストとしての生き方を貫くクーラらしいと思いました。

クーラのスケジュールは、2021年の夏から本格的に再稼働しはじめ、この秋以降も、オペラやコンサート、指揮、マスタークラスと多彩な企画が準備されています。パンデミックは現瞬間には一見、おさまりつつあるように見えますが、そのもとであらわになった社会システムの様々な問題点、クーラが指摘するような構造的危機は、今後、解決の方向に向かうことができるのでしょうか。それとも再び元の日常に戻るのか、または再びパンデミックが巻き起こるのか……。まだまだ先を見通すことはできません。今年12月に59歳、来年には60歳の節目を迎えるクーラ。この円熟の時期、多面的な才能と長年積み重ねてきた努力を、さらに豊かに花開かせることが可能になることを願っています。

 

 

 

*写真は、2020年のハンガリーでの報道、動画などからお借りしました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(旅行編)2020年 ホセ・クーラ、ハンブルクでオテロを歌う

2021-10-03 | ハンブルクのオテロ2020

*ハンブルク歌劇場の正面と窓に掲示されたクーラのポスター

 

2020年3月、ハンブルク歌劇場に出演するホセ・クーラのオテロを鑑賞するためにドイツに行ってきました。すでにハンブルクのオテロの記事はアップしていますが、記録として簡単な旅行記を書いておきたいと思いました。

今から振り返ってみると、2020年3月は、ちょうど欧州でも新型コロナ感染が急速に広がり始めた時期で、通常の旅行が可能だった本当に最後のチャンスでした。行きも帰りも特別なチェックもなく航空機を利用できたのですが、ほんの数日、遅ければ、国境封鎖、航空便のキャンセル、待期期間などの規制が強化されたところでした。

帰国後は、マスクをして自粛して生活し、無事に感染なく終えることができました。

 

 

 

≪ 成田からフィンエアーでハンブルクへ ≫

 

●成田から出発

 

 

2018年にロシア・サンクトペテルブルクへクーラのサムソンを鑑賞するために旅行しましたが、その時と同じフィンエアーで、まずフィンランドのヘルシンキ空港へ。そして乗り継いでハンブルク空港まで行きました。フィンエアーは日本のJALと提携していて確か共同運航便だったかと思います。

ハンブルクはドイツ北部の港町、そしてベルリンに次ぐドイツ第2の人口をもつ大都市です。港湾都市として古くから栄えた町とのことです。

 

 

 

 

 

●フィンエアーでヘルシンキへ

 

 

 

乗り継ぎのヘルシンキのヴァンター国際空港はあいにくの雨。2018年に来た時、空港の拡張工事中でしたが、今回は整備がすすみ、ターミナルビルはとても広く、店舗も増え、さらににぎやかになっていました。トイレなどの施設が北欧デザインですっきりと美しく、機能的なところも魅力的です。

 

 

●ハンブルクに到着

 

 

ハンブルク空港に到着し、地下鉄に乗り換えてハンブルク中央駅をめざします。





 

ハンブルク中央駅に無事到着、大きな駅で、構内にたくさんのショップ、カフェやスーパーがありました。

中央駅近くのホテルに宿泊しました。手頃な値段で朝食つき。決して豪華ではありませんが、何気ないハムやチーズ、バター、パンの美味しいこと!とりわけ雑穀がふんだんに使われたドイツパンの美味しさにはすっかり心を奪われてしまいました。

 

 

●ハンブルク駅と鉄道の魅力

 



ハンブルク中央駅と駅前通り。二階建てバスが走っていました。









 

ドイツの駅はどこもそうなのでしょうか?ハンブルク中央駅には、改札がなく、駅の外と内をさえぎるものがありません。もちろん切符は必要です。

とても開放的で、駅が街の延長にありセンターであるということを実感させてくれました。

ハンブルク中央駅で、行き交うさまざまなカラフルな電車を見るのはとても楽しいものでした。

 

 

●ハンブルク街歩き

 

雨の日があったり、コロナの懸念もありで、あまり自由には行動できませんでしたが、少し歩いただけでも、美しい建物や広場が素晴らしかったです。

コロナ対策ですでに閉店しているお店も少なくありませんでした。



聖ペトリ教会






ハンブルク市庁舎




 

カフェやレストランにも入りたかったのですが、感染対策のため、ほとんど利用しませんでした。その代わりに、駅構内や街のパン屋さん、スーパーを利用して、いろんなパンやフルーツ、チーズ、時にはテイクアウトのパスタやピザなどを買って食べました。どれも美味しくて十分満足でした。名物のカリーブルストにもチャレンジしました。

 

 

●リューネブルクへ



車窓からの美しい田園風景


 

2回目のオテロの公演がキャンセルになったこともあり、ハンブルク中央駅から鉄道に乗って、リューネブルクへの小旅行に出かけました。お天気に恵まれ、美しい街並みを楽しみました。




リューネブルクの街並みと街のシンボルのクレーン



市庁舎前で行われていたマーケット



美しい広場







石畳の通りと古いレンガ造りの建物。子どものころから想像してきたヨーロッパの街のイメージそのものの美しさでした。内部は現代的に改装されています。






ドイツ滞在中、唯一入ったリューネブルクのレストランで、自慢の自家醸造ビールとともに。

とてもとても大きいシュニッツェル。

 



●ハンブルクのアルスター湖


 

●倉庫街とエルプフィルハーモニー




最近の有名な観光地となったコンサートホール、エルプフィルハーモニー。行ってみたかったのですが我慢して、近くを通っただけ。





貿易の拠点として栄えた港町ハンブルク、その流通を支えた倉庫街です。

赤いレンガ造りの倉庫街が続くなかを運河が通っています。

 

 

●またフィンエアーで成田へ












 

 

●帰国

 



 

とにかく今回は、クーラのオテロを見るのが第一目的であるため、感染防止第一に、いろいろ見て回りたい場所が多いのですが、観光などは最低限におさえ、外食もほとんどしないようにするなど、制限の多い旅となりました。

この時期は、まだドイツ国内ではマスクをしている人もほとんどいなくて、その後のロックダウンが想像できないほどのんびりした感じでしたが、1回だけ、駅近くで通行人から、"I want corona!!"と、アジア系だと私たちを見て声をかけられたことがありました。

5泊7日、ぎりぎりまでキャンセルするかどうか迷った旅でしたが、クーラのオテロを見るチャンスが今後どれだけあるかを考え、また日本政府やEU、ドイツ当局からの情報をふまえたうえで、決行しました。

公演編でも書きましたが、クーラが出演したオテロは、ハンブルク歌劇場がコロナ禍による長期閉鎖になる前、最後の公演となり、本当に奇跡のような夜となりました。

いろいろ制約の多い旅でしたので、美しいハンブルクや北ドイツにはぜひ、また機会をみて旅行したいと思っています。何といっても、ドイツパンの美味しさに惹かれて(笑)。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021年 ホセ・クーラ、ドイツのザールブリュッケンでコンサート

2021-10-01 | 指揮者・作曲家として 2020~

 

 

 

ホセ・クーラにとって、この夏は、長いコロナ禍による困難なときを乗り越え、非常に多忙で、実り多い時期となりました。

2021年9月19、20日、ドイツのザールブリュッケンにあるザールラント州立劇場で、先日ご紹介したルーマニアのエネスクフェスティバルに続き、自作曲の世界初演が実現しました。今回は2曲、ギター協奏曲「復活のための協奏曲」と、クーラ作オペラ「モンテズマと赤毛の司祭」をオーケストラのために編曲した交響楽組曲です。

この記事では、ザールブリュッケンでのコンサートの様子をSNSの投稿などからお伝えするとともに、現地のメディアに掲載されたクーラのインタビューも抜粋して紹介したいと思います。

ザールブリュッケンは、ドイツ南西部にあり、フランス国境に接した町。クーラは来年2月にも、このザールラント州立劇場に出演し、オペラガラコンサートを行う予定になっています。

 

 

 


 

 

 

1. SINFONIEKONZERT 

SPAZIERGANG DURCH DIE ZEITEN

19 & 20 SEPTEMBER

José Cura’s Suite Sinfonica, from the opera ≪ Montezuma e il Prete Rosso ≫ (world premiere)

José Cura’s Concierto para un Resurgir  (world premiere)

and Respighi’s Trittico Boticelliano

 

 

 

ザールラント州立劇場

第1回シンフォニーコンサート 「時代を歩む」
ホセ・クーラ作曲 「モンテズマと赤毛の司祭」交響楽組曲
ホセ・クーラ作曲 「復活のための協奏曲」
レスピーギ    「ボッティチェリの3枚の絵」

 

≪ 解説 劇場HPより ≫

ホセ・クーラは、現代のヴェリズモを代表する人物の1人。第1回交響曲コンサートでは、指揮者と作曲家の2つの役割でゲストを務めている。
2020年1月、彼はハンガリーで彼のオペラ「モンテズマと赤毛の司祭」を初演した。ヴィヴァルディが執筆したオペラ「モンテスマ」の起源を扱った作品であり、このクーラの管弦楽組曲も、完全にバロックの精神に基づいて、その独特の妙技で楽しませてくれる。

彼の作曲「復活のための協奏曲(Conciertoparaun Resurgir)」は、彼の故郷である南米で最も重要な楽器の1つであるギターに捧げられている。これによって、ラテンアメリカのフォルクローレの比類のないサウンドがザールブリュッケンにもたらされる。

オットリーノ・レスピーギは、サウンドペインティングの達人でもあり、彼の音楽の色で物語全体を伝える方法を知っていた。「ボッティチェリの3枚の絵( Trittico Botticelliano)」では、ルネッサンスの画家ボッティチェリによって描かれた3枚の絵を音楽に変えている。

 

 

 


 

 

≪ クーラのFBより ≫

 

 

●自作曲の初演成功を報告

” ミッション達成。本日、素晴らしいザールブリュッケン交響楽団と、ギタリストであるバルボラ・クビコバの名演奏により、私の「交響組曲」と「復活のための協奏曲」が初演された。「テ・デウム」(同じく9月にルーマニアで初演)と合わせて、今月は3つの作品が日の目を見ることになった。これほど誇らしいことはない。”

 

 

●クーラ作曲のギター協奏曲を演奏する楽器のひとつ、コンガの調子をみる

 

 

●リハーサル風景ーークーラが作曲したギター協奏曲の一部が聞けます

 

 

 


 

 

 

 

 

≪ ホセ・クーラ、州立管弦楽団を指揮 ≫

 

ホセ・クーラは歌手として世界的スターだが、ザールブリュッケンでは、日曜日と月曜日にザールランド州立管弦楽団の指揮台で他の2つの役割を演じる。シンフォニーコンサートで、自作の作品を2曲演奏する。

前の晩、彼は自宅のあるマドリッドから飛んできた。現在、クーラはザールラント州立劇場アーティスト・イン・レジデンスとして、州立オーケストラとの最初のリハーサルを完了した。そして彼は、今、世界中の指揮者を悩ませている問題にため息をつく。それは、ミュージシャンが離れた場所に座っていながら、有機的なアンサンブルのサウンドを作り出すという課題だ。

1962年生まれのアルゼンチン人であるクーラは、指揮者であるだけでなく、ザールブリュッケンのコングレスホールの今季最初の交響曲コンサートで、彼自身の作品の2つを初演している作曲家でもある。しかしまだ、この二重のキャリアよりも、歌手としての彼の名声の方が勝っている。テノールとして、クーラは世界のスターであり、ヴェリズモの珍しい代表であり、表現力豊かな解釈と暗いバリトンの響きを伴う力強く輝く音色で知られている。そして、彼はどのようなシーンが歌手にとってうまくいくか、そしてどれがうまくいかないかを正確に知っているので、彼が演出するオペラのために自分で舞台を設計する。クーラには、印象的な写真の撮影もあるが、仕事とのバランスをとるためのものと彼は割り切っている。

オールラウンドなアーティストである彼を、マスコミが「普遍的な天才」と称するのも不思議ではない。「私は多くの才能に恵まれた。これらの才能を組み合わせることができるのは幸運な人間だ」とクーラは語る。もちろん、行き詰まって失敗することを恐れることもある。 「だからそれが、人の3倍の仕事をしている理由だ」

しかし、彼は自分を仕事熱心な人間だとは見なしていない。「私は好きな仕事をするという特権を楽しんでいる。50歳の誕生日を迎えてからは、残された時間を大切にするようになり、コロナパンデミックの時期も前向きとらえられるようになった。たぶん、それは私たちの目を本質に向けて開くだろう。何かを失って初めてその良さが分かることがよくある。今を楽しめ!Carpe diem!」

クーラは、ロックダウンの期間を使ってギター協奏曲を作曲した。彼の「復活のための協奏曲」はザールブリュッケンで初演され、オペラ「モンテズマと赤毛の司祭」のオーケストラ組曲も初演される。 同時に、レスピーギの「ボッティチェリの3枚の絵」が演奏される。このように音楽の世界が融合しているのが、クーラらしいところといえる。歌手として、彼は古典的なイタリアのオペラのレパートリーで特に優れているが、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの現代のオペラでデビューしている。

この幅広さは、彼の作曲作品にも反映されている。クーラは、伝統を生かして再調和させる。例えば彼のモンテズマの管弦楽組曲は、ネオバロック様式の要素にもとづいている。そして「透明感のある音で、かき消されやすいシャイな楽器ギター」のための協奏曲では、彼の故郷のフォルクローレに近づけている。そのために、あえて理解しやすい声調言語を選択したとクーラは説明する。現代音楽の大きな問題点の1つとして、「聴衆がそれを理解できないために、拒否反応を示す」ことがしばしばある。 「それがおそらく、演奏会のプログラムに現代的な曲がほとんどない理由だ」と残念がる。

「しかし、音楽はコミュニケーションだ。そのために、作曲家は理解しやすい言葉を目指して努力する必要がある」とクーラは強調する。

「バッハの後、音楽に新しいものは何も発明されなかった。したがって、独創性を求める声に対しては、大胆さや目立ちたがり屋ではなく、真正さと誠実性によってのみ満たすことができる。観客は、あなたが真実で信頼できるかどうかをすぐに見抜く。技術は常に同じ。それをどのように組み合わせるかが芸術だ」と説明する。

「私は指揮者のメンタリティで歌う。そして歌手の知識を持って指揮をする。そして歌手のために作曲するとき、歌手のニーズを意識して作曲する。作曲後、私はあらゆる声を試してみる。そして、私自身が喜びをもって対処できないときは、修正する。不自然に感じる音楽を歌うのは嫌だ。」

コンサートは、9月19日日曜日午前11時と午後3時。9月20日月曜日午後7時30分、コングレスホールにて。2月13日、クーラはSSTに戻り、歌手として、オペラアンサンブルで、午後6時にキャリアの中で最も美しいアリアとデュエットを披露する。

 

(「saarbruecker-zeitung」)

 

 


 

 

今回のコンサート、クーラは作曲家・指揮者としての出演です。コロナ禍でのステイホームの時期、自宅に籠らざるを得なかった時に作曲・編曲した曲が、この間、次々に初演されています。困難な時期はまだ過ぎ去ったわけではありませんが、クーラはまた新しい実りの時期を迎えているように思います。

残念なことに2006年以来、来日がないために、クーラの指揮者・作曲家としてのキャリアは、日本ではまったく知られていません。昨年2020年にアイーダのラダメスで久しぶりの来日公演が予定されていましたが、コロナ禍によりキャンセルになってしまいました。ぜひ、今後は、オペラももちろんですが、アルゼンチン歌曲、指揮者、そして作曲家としてのクーラなど、多面的な姿に焦点をあてて、招聘、企画していただくプロモーターさんがでてこられることを心から願うばかりです。

 

 

*画像は関係者のSNSや報道、動画などからお借りしました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする