ホセ・クーラは、母国アルゼンチンから欧州に移住して、今年でちょうど30年を迎えました。
1991年の7月、それまで住んでいた小さなアパートを売った代金で航空券を買い、妻のシルヴィアさんと息子ベンと一緒に、祖母の出身地イタリアをめざしたのだそうです。渡欧前後のことは、これまでも何度か、このブログでもクーラのインタビューを紹介していますので、お読みくださった方もいらっしゃるかもしれません。
*例えば「2013年 ホセ・クーラ キャリアを拓くまでの苦闘、決断と挑戦、生き方を語る」など。
”移民”としてイタリアに渡航し、ざまざまな苦労をしながら、才能と努力を花開かせ、テノールとして国際的なキャリアを拓いてきたわけですが、いくつかのエポック・メイキング的な出来事があります。今回は、そのなかから、1994年のプラシド・ドミンゴ主宰のオペラリア優勝の時の動画と、1999年のアメリカのメトロポリタン歌劇場(MET)のデビューの際のインタビューを紹介したいと思います。
METのデビューにあたって劇場はクーラに対し、シーズン開幕公演初日でのデビューという破格の扱いを提供しました。劇場デビューが開幕初日だったのは、かのカルーソー以来2人目だったということです。この後紹介するインタビューでも、その期待がよく伝わってくるようです。
≪ 1994年 オペラリアのファイナル ≫
クーラが渡欧して3年後、徐々にオペラでも大きな役がつきはじめた時期に、メキシコで開催された声楽コンテストのオペラリアに出演、優勝しました。
オペラリアはご存じのようにプラシド・ドミンゴが主催するコンテストで、1993年にスタートしました。これまでの優勝、入賞者には、ソーニャ・ヨンチェヴァ(2010年)、オルガ・ペレチャッコ(2007年)、アイリーン・ペレス(2006年)、カルメン・ジャンナッタージオ(2002年)、ホイ・ヘー(2000年)、ローランド・ビリャソン(1999年)、ジョセフ・カレヤ(1999年)、アーウィン・シュロット(1998年)、ジョイス・ディドナート(1998年)、リュドヴィク・テジエ(1998年)、森麻季(1998年)、ディミトラ・テオドッシュウ(1995年)、ニーナ・シュテンメ(1993年)など、世界的に活躍している多くの歌手がいます。
第1回とクーラが出演した第2回までは、1位、2位という順位はなく、複数の優勝者が選ばれていたようで、94年は7人が受賞していますが、クーラだけは、それに加えて観客賞も受賞しています。
次の動画が、クーラのファイナルの動画です。ドミンゴとダイアナ・ロスが司会進行を務めています。クーラはプッチーニの「西部の娘」から「やがて来る自由の日」を歌っています。コンテストですがちゃんと衣装をつけて歌っているのですね。画質は良くないですが、若々しいクーラの歌声をどうぞ。
Jose Cura 1994 "Ch'ella mi creda" La fanciulla del West
≪ 1999年 メトロポリタン歌劇場へのデビュー ≫
オペラリアで注目されたこともあってか、それ以降、1995年ロンドンのロイヤルオペラハウスにデビュー、96年ウィーン国立歌劇場デビュー、97年ミラノ・スカラ座デビュー、97年トリノでアバド指揮、ベルリンフィルとオテロのロールデビュー、98年東京・新国立劇場こけら落とし公演アイーダ・・などなど、一気に世界的に活動の場が広がっていきました。
そして欧州での活躍から少し遅れましたが、1999年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場のシーズン初日に、カヴァレリア・ルスティカーナのトゥリッドウ役で劇場デビューしました。
その時の動画は全く公開されていません。メトの広報誌に掲載されたらしいインタビューを抜粋してご紹介したいと思います。
ーー ”若き獅子” ホセ・クーラ インタビュー
初めてホセ・クーラを見たのは、昨年(1998年)11月のワシントンだった。
白い衣装を着てそびえ立つ彼は、巨像のような体格で、驚くほどハンサムで、今日のオペラの舞台では珍しいカリスマ性を醸し出していた。
"Arrêtez, ô mes frères! そして、"Arrêtez, ômes frères! Et bénissez le nom du Dieu saint de nos pères"(やめよ、兄弟たちよ!父祖の聖なる神の名を祝福せよ)と、彼は力強く刺激的な高く澄んだ声で歌った。彼の緑色の目は強烈に燃えていて、ヘブライ人奴隷の肩に思いやりを持って手を置いた時には、その苦しみを和らげることができるのではないかと思ったほどだった。
公演が終わってニューヨークに戻る列車の中で私の心に残ったのは、盲目のサムソンに扮したクーラが、群衆の中で自分を導いてくれる少年を掴んでいる姿だった。クーラはその子の手をつよく握りしめ、しっかりとにぎって離れないようにしていた。そのしぐさには信憑性があり、見事に効果があった。
ワシントンに行く前、「新世代のオペラファンが切望している、並外れた声、官能的な美貌、魅惑的な演技力といった『全体像』を備えている」というような刺激的な言葉で表現されている、この急上昇中のテノールに対して、私は懐疑的だった。私はジョン・ヴィッカーズやプラシド・ドミンゴの偉大なサムソンを見てきたので、どんなに素晴らしいパッケージであっても、騙されるつもりはなかった。
しかし、ホセ・クーラは正真正銘の発見だった。洗練されたバリトンの響きを持つ真面目なミュージシャンだ。また、非常に魅力的でありながら賢明な人物であり、自分の芸術に対する明らかな献身と、ドラマに対する本能的な才能を持っている。特にサムソン(『サムソンとデリラ』)、ドン・ジョゼ(『カルメン』)、アンドレア・シェニエ、ラダメス(『アイーダ』)、『マノン・レスコー』のデ・グリュー、『カヴァレリア・ルスティカーナ』のトゥリッドゥなど。
9月27日、オープニングナイトのガラ公演の前半、プラシド・ドミンゴが出演する「道化師」とのダブルヘッダーで、クーラはトゥーリッドゥを歌い、メトロポリタンオペラデビューする。これは、フランコ・コレッリやマリオ・デル・モナコの時代を彷彿とさせる声と舞台での存在感を持つドラマチックなテノールを、ニューヨークの聴衆に紹介する待望の機会だ。また、ドミンゴはメトロポリタン・オペラで18回目の初日を迎え、エンリコ・カルーソーの記録を更新する。
この2人のテノールには特別な縁がある。1994年、クーラはドミンゴの国際オペラリア・コンクールで優勝した。ドミンゴはクーラの初のソロ・レコーディング(1997年のプッチーニ・アリア)を指揮し、ワシントン・オペラの昨シーズンの「サムソン」と今シーズンの「オテロ」にもクーラを参加させるなど、後輩を支援している。
ホセ・クーラは、この数年で3人目の大テノールの候補としてメトにデビューするが、最もデビューの成功者として記録に残りそうな人物である。パバロッティ、ドミンゴ、カレーラスの3人の後継者を必死に探している世界中の雑誌や新聞が、クーラを「第4のテノール」と称しているが、しかし、そのことに彼は苛立ちを覚えている。「私が第4のテノールなら、誰が第3、第2、第1なのか」と彼は問い、「それは何の意味もないタイトルだ」と言う。
誇大広告の時代には、一般大衆にとってタイトルはもちろん意味のあるものだが、誇大広告は諸刃の剣である。称賛はある種の熱狂的な期待をうながす一方で、批判的なナイフを磨くことにもなる。2、3年前とは違って、今ではクーラは、特定のライターの標的になっている(5月のロンドン・タイムズ紙に『オテロ』に対する辛辣な批評が掲載された)。しかし彼は、仮にドレスリハーサルが大失敗に終わったとしても、また初日に不具合があったとしても、舞台恐怖症に悩まされないという幸運を持っている。良い例として、ワシントン・オペラでの『サムソン』の初日の夜、神殿が3小節も早く崩壊してしまったが、クーラは、すべて計画通りに進んでいるかのように歌い続けた。
「私の本能的な反応は、舞台から逃げ出すことではなく、公演を守ろうとすることだった。舞台上で、私は恐れない。私を驚かせるものは何もない。傲慢に聞こえるかもしれないが、そのための準備をしてきている。これまでの人生の半分以上、ステージに立ってきたのだ」ーーニューヨークのカフェでのインタビューで、クーラはそう語った。
彼は、自身が「傲慢」と評されている記事をいくつか読んでいるようだが、しかし、最初のインタビューでの彼は、誠実で礼儀正しく、思慮深く、知的でユーモアにあふれていた。彼はファンや業界関係者に中断させられることにも慣れている。ある時、有名なアーティストのマネージャーが私たちのテーブルに近づきながら「クーラ!」と叫び、立ち寄って話をした。それでも彼は、どんな質問にも集中を保ち、中断したところから容易に話を再開することができる。
確かにクーラは、自分のキャリアの方向性について強い意見を持っているが、偉そうな態度や威圧的な態度をとることはない。彼は、自分が何者であるか、そして今日に至るまでどれほどの努力をしてきたかを知っているのだ。
クーラは1962年12月5日、アルゼンチン・サンタフェ州の州都ロサリオで生まれた。彼の血統は明らかに国際的で、4分の1はイタリア人、4分の1はスペイン人、半分レバノン人の血をひいている。名前の由来となった父方の祖父は、生まれたときは貧しかったが(7歳のときには道端で靴磨きをしていた)、金属のコングロマリットを率いてアルゼンチンで最も有力な産業界のリーダーとなった。父は会計士として成功した。
クーラの幼少期の思い出は、フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルド、ベートーヴェン、モーツァルト、ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーンなど、「あらゆる種類の音楽」を聴いていたこと、そして毎晩、父親と一緒にピアノの前に座り、父が演奏してくれたことだ。「母は私に、ポップスやクラシックがあるのではなく、良い音楽と悪い音楽があるということを教えてくれた」と彼は振り返る。
12歳で初めて声楽とギターのレッスンを受け、15歳のときにロサリオの野外合唱コンサートで指揮者としてデビューした。その頃、彼は作曲も始めていた。「私はまさしくミュージシャンだった」と彼は振り返る。「(指揮をしたり、作曲をしたりするのは)当たり前の、自然なことだった。何も考えず、ただ音楽をやり、楽しんでいた」
「1984年に、1982年の愚かな南大西洋戦争(マルビナス戦争またはフォークランドウ紛争とも)で亡くなった人々に捧げるレクイエムを書いた。当時、私は予備軍で、マルビナス/フォークランドへの出征を控えていた。戦争が短かったことに感謝している。戦後25周年を迎える2007年に、この作品を演奏するのが私の願いだ」
*このクーラの願いは残念ながら実現しませんでしたが、来年2022年にハンガリーで初演される予定です。
1982年に国立ロサリオ大学で作曲の正式な勉強を始めたクーラは、合唱指揮を続けていたが、同校の学長から声楽の勉強を勧められた。「彼は私が作曲家か指揮者になりたいと思っていることを知っていたが、歌を勉強することで、より良い作曲家、指揮者になれるだろうと言ってくれた」ーー クーラは奨学金を得て、ブエノスアイレスのテアトロ・コロンの歌唱学校に入学したが、計画通りにはいかなかった。
「20歳のときの私の声は、自然のものだったが、音楽的ではなくかなりうるさかった」とクーラは振り返る。「声が大きかったので、最初に私を受け持った教師は、間違ったレパートリーを強要したがった。「トゥーランドット」や「西部の娘」(プッチーニ)などを歌っていたのを覚えている。それはクレージーだった。その結果、23歳のときにはもう声が出なくなっていた。高い音も、深い音も出せなくなっていた」ーー誤った教育が声を傷つけたため、クーラはギアチェンジを余儀なくされた。
「『歌うことがこんな苦しみなのなら、もう歌いたくない』と言ったことを覚えている」
24歳になったクーラは、9年前に合唱のオーディションを受けた時に知り合ったシルビアと結婚した。生活のために様々な仕事をした。「朝はジムでボディビルのインストラクター、昼は食料品店、夜はテアトロ・コロンで合唱の仕事をしていた」
しかし、彼はもう歌わないと決めていたのでは?クーラは、エスプレッソを飲みながら、このことを振り返る。「神は常に私の人生を見守り、コントロールしていたのだろう。『歌手になりたくなくても、歌手になるのだ。説得には時間がかかるだろうが、君は歌手になるだろう』と言っていたのだと思う」
25歳のとき、クーラは学校や美術館で公演を行う地元の小さなオペラグループの音楽監督に招かれた。「あるコンサートで、テノールがキャンセルになった。あるコンサートでテノールがキャンセルになった。そこで『星は光りぬ』(『トスカ』)と『椿姫』のデュエットを私が歌った。その時、テアトロ・コロンのテノール歌手、グスタボ・ロペスが私の歌を聴いて、彼の先生であるオラシオ・アマウリに紹介してくれた」 アマウリはクーラの歌声を聴いて、「君のような声は30年か40年に1度しか出ない」と断言し、無料でレッスンをしてくれることになった。
「2年間、ほぼ毎日、マエストロ・アマウリのもとでレッスンを受け、それが私のテクニックの基礎となった」とクーラは語る。「彼はとても厳しい先生で、非常に伝統を大事にするスタイルだった。彼は、表面的な動きではなく、筋肉の中心に入り込むことを信条としていた。自分が何をすべきで、何をすべきでないのかを理解するのに十分な年齢であり、また十分な経験を積んでいることは、私にとって良かった。2年後、キャリアとまではいかなくても、少なくとも、より一貫した方法で生計を立てる準備ができていると感じた」。
ある夜、家に帰ったクラは妻に「もう出発しなければ」と告げた。
自分がどこに行くのか、着いたら何をするのか、全く分からなかったと彼は告白するーー「でも、自分の中にライオンを感じることができた。仕事に飢えたライオンを」
クーラ夫妻は、ブエノスアイレスのアパートを売りに出たその初日に売却し(「当時の経済は非常に厳しく、少なくとも2年はかかると思っていた」とクーラは言う)、そのお金をポケットに入れて(「当時は大金に思えたが、今の1晩の出演料に相当する」)、イタリアに向かった。1ヵ月後、彼らはほとんどのお金を使い果たし、クーラの話では、航空券を買うお金があるうちにアルゼンチンに戻ろうとしていた。帰国のために荷物を整理していたクーラは、アルゼンチンの友人からもらった1枚の紙を見つけた。そこには、イタリア人の声楽家の名前と電話番号が書かれていた。
「私はその番号に電話して、相手の男性に『聞いてください。数日後に私は出発する予定だが、ヨーロッパの誰かに私の声を聞いてもらってから、アルゼンチンに帰りたい』と伝えた」
その声楽家は彼を自分のスタジオに招待してくれた。そしてクーラの声に感動し、エージェントのアルフレド・ストラーダにこのテノールを紹介した。ストラーダは、尊敬する声楽家のヴィットリオ・テラノヴァ(「イタリアのアルフレド・クラウス」と呼ばれたことも)に電話をかけ、「ここに『声』になりそうな人物がいる」と言った。
唯一の問題は、「その時点では、まだ大きな音が出るだけで、プロのスタイルはなく、芸術監督に見せて採用してもらえるものがなかった」ことだと、クーラは言う。
テラノヴァは、アマウリと同様に、財政的に苦しいクーラを無料で引き受けることに同意した、それからの1年半の間、彼はクーラが今日のような、独特の音色と精悍な鳴り響くトップを備えた、十分な息で支えられた暗い色合いをもつ声を開発するのを助けた。まだいくつかの問題があった。高音域になるとトーンが薄くなることがあり、また批評家の中には、「英雄的な男らしさが強すぎる」「繊細さに欠ける」などと批判されることもあるが、背筋がゾクゾクするようなスリルを求めるオペラファンには不満はないだろう。
クーラの大ブレイクは、1992年にヴェローナで上演されたハンス・ヴェルナー・ヘンツェの『ポリチーノ』の神父役、続いてトリエステで上演されたアントニオ・ビバロの『ミス・ジュリー』のヤン役である。(劇場は適当なテノールが見つからず、この新作を断念しようとしていたが、アルフレード・ストラーダがクーラにチャンスを与えるよう説得した)
1994年にプラシド・ドミンゴのオペラリアで成功を収めた1ヵ月後、シカゴ・リリック・オペラで『フェドーラ』のロリス役で、ミレッラ・フレーニの相手役として北米デビューを果たした。この役はあまり好きではないと語っているが、高い評価を受けた。その後、ロンドンのロイヤル・オペラのスティッフェリオ(1995年のヴェルディフェスティバルでホセ・カレーラスの代役)、サンフランシスコ・オペラのカルメン、ミラノスカラ座のラ・ジョコンダなどで注目すべきハウス・デビューを果たした。現在、彼のレパートリーは30の役柄が含まれる。
最近、家族と一緒にパリからマドリッドに引っ越したばかりのクーラは、公演を年50回程度に制限している。今シーズン、アメリカのオペラファンが彼をメトで見ようと思ったら(『カヴァレリア』は最初の3回しか歌わない)、あるいは3月にワシントン・オペラで5回行われる『オテロ』のうちの1回を見ようと思ったら、急いで駆けつけなければならない。(この他、12月にはパレルモ、2001年にはロイヤル・オペラでもオテロを歌う予定) 今後の役柄について、クーラは「ピーター・グライムスに挑戦してみたい」と語っている。
まだ冬のようなある春の日、クーラへの2度目の訪問は、ロンドンのバービカンで行われたコンサート形式の「オテロ」の最終リハーサル1時間前の楽屋だった。テノールは、アメリカで発売予定のヴェリズモ・アリアの新録音を楽しみにしているようだった。
指揮者は?ーー「指揮者としてはあまり知られていないが、私から見て非常に優れた音楽家であるホセ・クーラという人物だ」と彼は恥ずかしそうにおどけてみせた。クーラが自分自身で指揮をしたのはこれが初めてではない。1998年に発売されたアルゼンチンの歌のCD『Anhelo』では、クーラがアンサンブルを率いて指揮をとり、これにはパブロ・ネルーダの2つの詩にテノール自身が作曲したものが収録されている。
クーラはヴェローナで行われる「アイーダ」の野外公演を楽しみにしていた(プロダクションのオープニングナイトは、インターネットで視聴された) 。また8月には、『カヴァレリア・ルスティカーナ』のリハーサルのためにニューヨークに渡る前に、妻シルビアと3人の子供たち(11歳のホセ・ベン、6歳のヤスミン、3歳のニコラス)と一緒に静かに過ごしたいと考えていた。
「メトからはこれまでにもいくつかオファーがあったが、初出演には良いものをと思っていたし、プラシド(ドミンゴ)も歌ってくれるということで、その夜はとても特別なものになると思う。トゥリッドゥは素晴らしく、悲劇的な役柄だ。人々は彼について、サントゥッツァを虐待する狂信的な男のように思っている。しかし彼がこのオペラの唯一の真の犠牲者であることを忘れることはできない。彼は兵役に行く前にローラに恋をしていて、戻ってきた時にはローラは結婚していた。彼は裏切られたと感じ、失望し、男としての怒りを感じたのだ」
自身を「Theater animal」だと思っているクーラだが、自分の演技力はすべて独学で身につけたものだと告白する。
「人間の状態の細かな部分まで描写することに最もやりがいを感じる。私は社会の観察者であり、分析者でもある。『サムソン』の終幕で目が見えなくなったときに、私が小さな男の子をつかんだ時のことに言及されたが、私は父親だ。子どもの手をしっかりつかむとはどういうことか知っている」
ホセ・クーラは、21世紀に向けて我々を導く待望のテノールなのだろうか?
コリン・デイビスはそう考えているようだ。
「彼は演劇的で、とても音楽的だ」と、バービカンでのクーラの『オテロ』や、『サムソンとデリラ』の録音で指揮をとった指揮者は言う。
「彼は素晴らしい身体的強靭さと素晴らしい感情的な強さを持っている。彼が失敗することはありえない」
(「metguild.org」)
かなり長いインタビュー記事、拙い訳に最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
90年代後半、「21世紀待望のテノール」「第4のテノール」という言葉とともに、「オペラ界のセックスシンボル」「テストステロン爆弾」などといううたい文句まであったそうです。この時期、一気に世界的に有名になったクーラ。オペラファンの期待も大きかったことと思います。
しかしすでに、こうした売り出され方、商業主義とアーティスト使い捨てのやり方が耐えられなくなっていたクーラは、99年から2000年にかけて、当時のエージェントから独立し、また大手レコードレーベルに所属することもやめ、独立独歩で自分の事務所と小さなレーベルを作って歩み始めました。そのためかなり攻撃もされたようで、この時期のことはこれまでも何度か紹介してきたとおりです。
*「ホセ・クーラ スターダム、人生と芸術の探求」 、「ホセ・クーラ インタビュー ”私はセックス・シンボルとして売られ、そして生き残った"」 他をご覧ください。
今回ご紹介した99年のインタビューからは、メトデビュー当時の熱狂的な歓迎ぶりが伝わってくるように思います。こうした”スター街道まっしぐら”の時期に、自分をとりまく流れに迎合するのではなく、自らの芸術の道を見定めて、それまでの関係を絶ち、一人歩んでいく決断をするというのは、なかなかできるものではないと思います。実際に、その後の厳しい逆境が物語っています。しかしクーラは屈せず、妥協せず、今日まで生き延び、ユニークなアーティストとして、円熟の時期を迎えています。
渡欧から30年、クーラの歩みを心から祝福したいと思います。
*画像は当時の映像、報道などからお借りしました。