人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

ホセ・クーラ オテロのデビューから20年 / Jose Cura 20 years since Otello debut

2017-05-29 | オペラの舞台―オテロ




ホセ・クーラは今年2017年で、ヴェルディのオテロのタイトルロールデビューから20年を迎えました。
クーラの初オテロは1997年5月、まだ34歳の時でした。以来、20年間、世界各地でオテロを歌ってきました。合計すると約250回になるそうです。
またオテロの演出、そして指揮も行っています。

これまでもオテロについては何回も紹介してきましたが、この機会にまた20年間のクーラのオテロの歩みを振り返ってみたいと思います。なお、この一覧は公式のものではなく、私がクーラのHPやファンサイトなどのネット上の情報からまとめたもので、欠落や誤り、キャンセルなどの可能性を含んでいることをお許しださい。

トップの写真は、左から、1997年トリノ、2001年ウィーン、2006年リセウ、2011年チューリッヒ、2016年ザルツブルクです。まだ初々しい青年オテロから、年を重ね、成熟した本来のオテロの姿へ、20年の歳月を感じさせます。

なお、クーラが長年オテロについて研究してきた作品解釈、オテロ論については、これまでのブログで何回かとりあげています。
今回は、それに全面的に触れることができませんので、興味のある方はそちらをご覧いただけるとうれしいです。
 → ホセ・クーラ オテロの解釈


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●オテロデビュー――「新しいオテロの誕生」
≪1997年≫

・5月  8 , 11 イタリア・トリノ




1997年にイタリアのトリノで、クーラはオテロのロールデビューをしました。名指揮者クラウディオ・アバドが率いるベルリン・フィル、演出は映画の巨匠エルマンノ・オルミ監督、そしてタイトルロールとしてのクーラの衝撃的なデビュー・・・伝説的ともいえる舞台でした。イタリアテレビのRAIによって、世界に生中継されました。あるレビューが「新しいオテロの誕生」と書いたそうです。
共演はバルバラ・フリットリとルッジェーロ・ライモンディです。
このオテロ出演の経緯や、クーラの思いなどについては、以前の投稿で紹介しています。

クーラはもともと1999年にオテロデビューする予定で準備していたそうです。ところがドミンゴのキャンセルによって、急きょ、クーラに大舞台のオファーが・・。
以前も紹介しましたが、この時のことをクーラは、こう回想しています。

「理由は知らないが、プラシドは、キャンセルしなければならなかった。しかし、これは非常に大きなイベントであり、ベルリンフィルが初めてトリノに来ることになっていた。
彼らは私に『もしできるならば』と尋ねてきた。おそらく彼らは、私のデビューが、話題性を追加すると考えたのだろう。
私は、自分が準備ができていたとは思わなかった。34歳だった。どうすればいいか、自問自答した。
リスクを取る。ご存知のように、それは報われた。そして再びファックスは、オテロのパートを歌うようにオファーを送り届け始めた。」
(2001年インタビュー)

「危険だった・・非常に。わずかなリハーサル、オーケストラと2日間、ステージングのために1週間だけ。それまでのキャリアで最大のメディア露出――アバドの指揮、ベルリン・フィル、エルマンノ・オルミ、RAIテレビ中継・・。本当に大胆なステップだった。歴史は私についていろいろ言うことができる。しかし誰にも、私に根性がなかったと言うことはできないだろう」
(インタビュー)

「あなたが作品を選択するのではなく、作品があなたを選択する時がある。私は、34歳で初めて、オテロのタイトルロールを歌った。私はこれ以前に、この可能性を夢見たことさえなかった。
しかし、ある日、私は電話を受けた。『私たちはあなたのためにこのチャンスを持っている。あなたはそれを取るだろうか?それとも、このユニークな機会を失うことになる?』――電話線の末端から聞こえた。・・・これが私とこの作品との、20年間の『恋愛』の始まり方だった。」
(2015年インタビュー)


この時の全編の動画が、非常に画質は悪いですがYoutubeにあります。本来ならば、正規の映像をDVDなどで残してほしいのですが・・。
第3幕の最後は、よく演奏されるのと少し違うヴァージョンです。


José Cura 1997 Otello



このオテロデビューは、クーラ自身にとっても、突然やってきたビッグチャンスだったようですね。これによって、一躍、世界から注目され、オファーも殺到します。
この時の「オテロ像」についてクーラ自身は、本来のオテロとは違うのを承知の上で、当時の年齢、条件のなかで自分の最善の努力をつくす以外になかったということのようです。
しかし、若い、フレッシュなクーラのオテロ、やはり魅力的です。


●世界でオテロを歌う――1999~2005年

トリノの成功を受けて殺到したオファー。この時期、クーラは世界各国の主要な歌劇場で、つぎつぎにオテロデビューを果たしました。

≪1999年≫
・4月 18, 20, 23, 25, 27 テアトロコロン ブエノスアイレス アルゼンチン
・5月 17, 20, 23 バービカン・センター  ロンドン イギリス
・10、11月 10/29、11/2, 4, 7, 10, 13, 16, 19 テアトロレアル マドリッド スペイン
・12月 9, 12, 14, 16 テアトロマッシモ劇場 イタリア





≪2000年≫
・3月 1, 3, 8, 11, 13 ワシントンオペラ アメリカ
・6月 15, 18, 22 バイエルン歌劇場 ミュンヘン ドイツ

≪2001年≫
・1、2月 1/27, 30、2/4  ウィーン国立歌劇場 オーストリア
・3、4月 3/26, 29、4/1  パリ・シャトレ座 フランス
・4、5月 4/19, 21, 24, 27、5/1, 3 ロイヤルオペラハウス ロンドン イギリス
・6月   6/21, 24, 26, 29 ニースオペラ座
・8月   8/2,5 トリエステ・ヴェルディ劇場 イタリア
・9、10月  9/22, 26, 28、10/2, 6, 9, 11 チューリッヒ歌劇場




Jose Cura 2001 "Già nella notte densa" Otello



≪2002年≫
・7月  7/4, 7, 11, 13 チューリヒ歌劇場
・11月  ポーランド国立歌劇場 ワルシャワ

≪2003年≫
・1月 10, 12, 16,19 東京、大阪
・6月 25フィレンツェ五月音楽祭  イタリア





≪2004年≫
・5、6月 5/29、6/2, 5  ハンブルグ歌劇場
・9月  5, 8, 11  チューリッヒ歌劇場

≪2005≫
・7月 2, 5 バイエルン国立歌劇場 ミュンヘン




この7、8年の間にクーラは、ウィーン、ロンドン、パリ、ミュンヘン、マドリッド、ブエノスアイレス・・と、世界の著名な歌劇場のほとんどでオテロを歌いました。
実は有名な歌劇場が1つ、ないのにお気づきでしょうか? 
ミラノのスカラ座です。実は、クーラ主演で2000年にスカラ座でムーティ指揮による新プロダクションの準備がすすんでいたのですが、最終的にムーティの判断で、クーラからドミンゴに変更になったそうです。クーラ自身がのちにインタビューで語っていました。残念ですが、その後、未だにスカラ座ではオテロを歌っていません。
とはいえこの時期に、クーラがオテロの歌い手として世界的に有名になったのは明らかです。来日公演もありました。


●解釈を深め、熟練のオテロ――2006~2012年

オテロデビューから約10年をへて、クーラも40代半ば、いよいよオテロらしい年齢、熟練の時期となります。
この時期、初めてオテロのDVDも発刊され(2006年リセウ)、また2008年には、オテロの解釈をまとめた本の出版まで行っています。


≪2006年≫
・2月 9, 12, 15, 18, 21, 24, 27 リセウ大劇場 バルセロナ

OTELLO de Giuseppe Verdi (2005-06)


≪2007年≫
・1月 28 マンハイム歌劇場

≪2008年≫
・4月 9, 11 セゲド国立歌劇場 ハンガリー
・4月 13 ハノーファー歌劇場  ドイツ
・11月 4, 6, 8 サンタ・クルス・デ・テネリフェ スペイン

・この年、オテロの解釈を語ったイタリア語の本『Giù la Maschera!』(「仮面の下」というような意味か?)を出版




≪2010年≫
・5、6月 オテロ/ヴェルディ 5/30、6/2, 4, 8, 10, 13 ベルリン・ドイツオペラ
・10月 オテロ/ヴェルディ 11/2 ガラ カールスルーエ・バーデン州立歌劇場 ドイツ





≪2011年≫
・8月 1 サンタンデール国際音楽フェスティバル  スペイン
・10月 20, 23, 26, 30 チューリッヒ歌劇場 スイス
・11月 6, 22, 27 チューリッヒ歌劇場

≪2012年≫
・1月 1, 5, 8 チューリッヒ歌劇場
・2、3月 ガラ公演 2/11、3/2 スロヴァキア国立歌劇場
・5月 21, 23, 25  ルクセンブルク大劇場 ルクセンブルク
・6月 24 チューリッヒ歌劇場







●さらなるオテロの探求へ、演出、指揮--2013年~現在

ロールデビュー以来、ほぼ毎年、20年間にわたってオテロを歌い続けてきたクーラ。その間には、歌い続けながら、演出・舞台デザイン、そして指揮へと、あらたなオテロの探求にふみだしています。

≪2013年≫
・3月 11, 15, 20, 23, 27, 30 メトロポリタンオペラ

Jose Cura , Krassimira Stoyanova Otello "Dio ti giocondi, o sposo"



・7月 18, 21, 24, 27, 30 出演・演出・舞台デザイン テアトロコロン ブエノスアイレス

故国アルゼンチンのテアトロコロンで、演出・舞台デザイン、そして主演でオテロのプロダクションを成功させました。





・9月 14, 17, 20, 23 ウィーン国立歌劇場
・11月 9, 20, 28 ベルリン・ドイツオペラ

≪2014年≫
・5~6月 ケルン歌劇場 5/18, 20, 23, 25, 30、6/1 

≪2015年≫
・1月、2月 1/29、2/24 プラハ国立歌劇場
・2月    8、11 ハンガリー国立歌劇場 ブダペスト

≪2016年≫
・1月  1/7, 10,17 ヘッセン州立歌劇場 ヴィースバーデン
・1月  1/21,29 2/1 リセウ大劇場 バルセロナ
・3月  19,27 ザルツブルク復活祭音楽祭 オーストリア

Verdi: Otello from Osterfestspiele Salzburg



・4月 指揮、照明・セットデザイン(コンサート形式) 4/23(シェークスピア没後400年記念日)  ジュールフィル/アウディ・アリーナ  ハンガリー

そして2016年、オテロの原作者シェークスピア没後400年のちょうどその日、クーラは指揮者として、オテロを演奏しました。





この時のインタビューからです。

「20年間オテロを歌い続け、3年前にはブエノスアイレスのテアトロコロンでオテロの演出をした。この作品とともに長い年月を過ごした後、オテロを指揮することは、巨大な挑戦だ。新しい未知の音楽を扱うようには、簡単には近づけない。並外れたプレッシャーがある。
しかし数え切れないほど様々な状況で、多くの指揮者の下でオテロを歌ってきたことは、大きな利点でもある。この非常に複雑で長い作品の演奏において、何がよく働いて、何がうまく動作しないのか、よく知っている。」

「この傑作は、今日と非常に関連し、現代的だ。なぜなら、人種差別、外国人嫌悪および難民の問題は、現代のヨーロッパの最も重要な問題だからだ。
これは裏切り、搾取、残酷さ、家庭内暴力や虐待などの重要なテーマについても同様だ。この500年間で何ら変わっていないことを考えさせられる。オテロは今日の人々に、私たちの時代について語っている?
このオペラとの愛は20年間続いている。毎回そのたびに、より多くの発見をする。これは、“真実の愛”というべきものだ。そして決して終わることのない、ネバー・エンディング・ストーリーだ。」


・7月 6  スロヴェニア・リュブリャナ「リュブリャナ・フェスティバル」





●そして次のオテロへ--2017~

ようやく現在まできました。そして今また、次のオテロのリハーサルが始まっています。
クーラの次のオテロは、ベルギーのワロン王立歌劇場です。

公演は6/16、20、22、25、27、29。
そして6/22 6/27(現地)はライブ放映が予定されています! → ワロン王立歌劇場の案内ページ
2月のタンホイザー同様に、フランスTV・Culture boxで放映されるのではないかと思います。
→ *劇場HPには、ライブ放映が22日と27日の両方のページがありましたが、FBで問い合わせたところ、27日が正しいと回答がありました。

これはベルギーの劇場のプロダクションですが、フランス政府が文化政策として、オペラなどを含む文化プログラムを積極的にネット配信していることは、本当に見識ある素晴らしいことだと思います。

20年歌い続け、演出・指揮を経験して、最新のクーラ・オテロがどのような成熟をみせているのか、ライブ放送で鑑賞できるのは本当に楽しみです。

≪2017年≫

・6月  16、20、22、25、27、29   ワロン王立歌劇場 ベルギー



(追加)Culture boxのYouTube公式チャンネルに全編動画が掲載されています。→ 終了 別のリンクを掲載しました。
円熟のオテロ、クーラの到達したオテロ像を見ることができます。
“Otello” de Verdi - Opéra Royal de Wallonie


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クーラのオテロは、決して美しく歌いません。それは作品とオテロのキャラクターの解釈にもとづくものです。だからこそ、クーラの、とりわけオテロは、観客の反応、批評ともに賛否が大きく分かれることが少なくありません。

しかし20年にわたり、歌い、解釈を深め、ドラマとキャラクターのリアリズムを軸とした、生きたオペラの実現をめざしてきました。
この間に、年齢と経験とともに、クーラの描くオテロ像も大きく変化しています。最後に、そのことについてのクーラのインタビューからの言葉を紹介したいと思います。

●デビュー当時――34歳の男のようにオテロを歌った

「私がオテロにデビューした時、私は34歳だった。そしてそれは、非常に大胆なことだった。マエストロ・クラウディオ・アバドと一緒で、世界に生中継された。私は『このチャンスを失うことはできない』と考えた。
そして私がしなければならないことは、オテロを34歳の男のように歌うことだった。しかし、この役柄で私とは比べものにならない素晴らしい経験をもつ45から50歳、そして60歳のテノールの解釈と比較すると、私は、自分の解釈に夢中になることはできなかった。もし私が彼らのようにやっていたら、私は第1幕の終りで、使いものにならなくなっていただろう。
だから私は、非常に抒情的なオテロを創った。声のボリュームよりも、より舞台上の存在感と演技にもとづいて。」

「多くの人はこう言った――これはオテロではない、抒情的すぎる、と。確かに抒情的だった。
しかし34歳の時に、他に何ができるだろうか。これは私が永遠に続ける解釈ではない。これは、非常に危険で非常に困難であるこの役柄、45歳の成熟にふさわしい、テノールにとって象徴的な役柄であるオテロデビューのリスクを取ろうとする、34歳の男のための解釈だった。これは、リスクを計算し、生き抜くことを教えてくれた。

●2016年――オテロの指揮にあたって

「私は、このオテロの私のパートだけではなく、オペラ全体を熟知している。全てのキャストの音符、全ての歌詞と楽器のパートをほとんど暗譜している。少し努力すればデズデモーナのパートも歌うことができる...それは、毎回毎回、より詳細な多くのことを発見しつづけるための作業工程の一部だ。
ネバーエンディング・ストーリーだ。」


「ヴェルディの音楽と手紙を土台においた役柄の解釈、ヴェルディのスコアに対する革命的読解の旅はまだ終わっていない。――ホセ・クーラ」




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(レビュー編) ホセ・クーラ ブリテンのピーター・グライムズに初挑戦 演出と主演 / Jose Cura PETER GRIMES

2017-05-22 | ピーター・グライムズ



これまで何回かの記事で紹介してきた、ホセ・クーラ初主演、初演出のブリテンのオペラ、ピーター・グライムズ。
 →(解釈編)(初日編)(告知編)

残念ながら、まだ録音や録画が放送されるという情報はありません。
今回は、このプロダクションがどう受け止められたのか、ボン劇場に寄せられた観客からの反響や、これまで読むことができたレビューを抜粋して紹介したいと思います。
いつものことで申しわけありませんが、翻訳が不十分な点はどうかご容赦ください。





≪ ボン劇場のFBに寄せられた声より ≫

ボン劇場のフェイスブックには、初日の舞台を観た観客から、たくさんコメントが寄せられました。初日、大喝采、満場のスタンディングオベーションだったそうですが、それを裏付ける興奮した様子が伝わります。そのうちのいくつかを紹介します。

「印象的、壮大な風景と偉大な声。彼の夢の役割の1つは、ユニークで、達成不可能な素晴らしさ!それはオペラ愛好家のための贈り物だった」
「時代を超越している。クーラの直接的なアプローチは、常に完全にエキサイティングだった。素晴らしい合唱団、指揮者。私はまた戻って友人を連れて行く!」
「完全に圧倒され、興奮した。全体の制作、ステージデザイン、衣装、素晴らしいアーティストを忘れることはできない。今日の夜を素晴らしいものにするためのホセ・クーラと一緒のすべての苦労が成功した。ありがとう!」
「今回のプロダクションは『必見』。素晴らしい夜をありがとう」
「素晴らしいオペラの夜! すべての感覚のための饗宴!」
「すべてにおいて調和して、非常に印象的な夜だった。音楽、物語、ステージング、キャスト、衣装、ライト..私は戻ってくる」
「耳、目、魂のための饗宴!」
「圧倒的な経験!クーラは舞台で、壮大な時代を超越したプロダクションを展開している...」
「信じられないほど情熱的なパフォーマンス。深く感動した。美しいインスピレーションの舞台、歌手やオーケストラ。スタンディングオベーションに値する!」





≪ レビューより抜粋 ≫

読むことができたレビューは、ほとんどがクーラの演出、舞台、そしてクーラと他の出演者を含む演技・歌唱、音楽など、全体について、高く評価していました。
一方、ある1つのレビューは、全体を評価しつつも、クーラの英語の発音の問題を指摘していました。これについては、長年英語を使って国際的キャリアを重ねてきたとはいえ、もともとアルゼンチン出身のスペイン語ネイティブのクーラ、どうしてもスペイン語なまりがあるのでしょう。これについては、グライムズ出演を重ねていくなかで改善されていくのではないでしょうか。
また2つのレビューが、グライムズの人物像について、彼の「暴力性、残忍性を含む複雑さ」の掘り下げが不十分と論評をしました。これにたいしては、前回の投稿(解釈編)で、クーラの反論的なコメントを紹介していますので、よかったらご参照ください。


●すべての出演者にスタンディングオベーション

「ボンの初演の聴衆は、すべての参加者のために、賞賛のスタンディングオベーションを与えた。またオペラの夜にも感謝した。」
「その創造性はあまり目立たなかったが、昔ながらの強靭さに対する、感情的な彩度と素朴な好奇心の満足によって。」
(「Kolner Stadt-Anzeiger」)







●ボンは、ホセ・クーラを祝福

「この夜の後、ピーター・グライムスの役柄が、クーラにとって、長らく夢であったことが理解できる。」
「彼はここで、歌と演技の描写が手を握り合った団結を形作る原始的な力のように現れる。アリアの叙情的な瞬間と、第3幕の狂気の場面などで。」
「彼はオテロを歌う声で、ピーター・グライムズの魂の痛みを、聞き取りやすく、感じ取れるように歌う。すばらしい。」

「プレミアの観客は、熱狂的なスタンディング・オベーションと賞賛で、参加者全員を祝った。
ピーター・グライムズは典型的な敗者だ。しかし、彼の解釈者であるホセ・クーラは、すべての分野における勝者だった。演出家として、衣装・舞台デザイン、タイトルロールの解釈においても。」
(「General-Anzeiger」)







●すべてのオペラのファンに、ボンへの訪問を

「ボンでの演奏後。観客は10分間の喝采により、刺激的で感動的な音楽を劇場にもたらしたチームに報いた。」
「タイトルロールだけでなく演出を担った、ヒューマニストのホセ・クーラにとって、ピーター・グライムスは、今日の時代、とりわけ重要となっている。」・・

「歌手としてのクーラは、ピーター・グライムズの崩壊に歌唱の焦点を当てている。アリア「大熊座と昴は」は、信じられない絶望的な瞬間と相まって、印象的に成功した。彼の暗い声、繰り返し綴る強く明瞭なトーン、このステージングに非常に適している。」・・
モンテカルロ歌劇場のタンホイザーのフランス語上演で、輝かしいキャリアの開発に成功したことにつづいて、同様に、ボーカル面で再び実証された。」

「結論:成功したアンサンブル作品、それは注目すべき。高い芸術的レベルで作品を提供しようとし、それは成功した。すべてのオペラのファンに、ボンへの訪問を勧める。」
(「Kulturexpresso」)







●説得力ある演出、観る価値がある

「ホセ・クーラは、ピーターグライムズでロールデビューだけでなく、演出とセットデザインも担当した。その多くのタスク、特に演出は見事成功した。クーラの絶対的な説得力のある全体的な演出が成功したことによって、オペラの夕べは、舞台を見る価値があるものにした。また、彼のエモーショナルな演技は、その場を満たした...」

「ボンオペラハウスの舞台が国内最高のランクであることのさらなる証拠」「非常に成功した、死んだ少年を悼むグライムズの試練のプロローグ」

「モンテカルロ歌劇場との共同制作として2018年2月にモナコで上演される。このような作品がいくつかの公演の後に消えてしまうのは残念であり、また、劇場の予算がますます厳しく、共同制作の数が増えていることは、経済的な観点からだけでなく理にかなっている。また、観客にとっても、本当に成功したプロダクションが別の場所で『生きている』のは素晴らしいことだ。」
(「Deropernfreund」2回目)







●特別クラスのオペラの夕べ

「クーラのボーカルとブリテンのオペラでの演技は、プレミアの拍手での彼への熱狂的な反応と同様に、ボンの仕事は彼にとって特に重要だと感じさせた」
「これは繰り返すことができる:ボンでのこのパフォーマンスは特別クラスのオペラの夕べだった」
(「Deropernfreund」)









●ドラマに多大なエネルギーをもたらした演出

「シーンごとに、クーラはドラマに多大なエネルギーをもたらし、多くの保証と成功を収めた。」「特に注目すべきは、ボアー亭での第1幕第2場の巧みな取り扱いだった。これは特に動きの速い忙しいシーンだが、すべてのキャラクターが自分自身を表現するために必要なスペースを与えられていた。」

「クーラは典型的な漁師の外見、身体的に強く、がっしりし、船乗りに必要なひげを着けていた。彼の演技は安全で表情豊かであり、彼の強い存在感が彼を舞台に支配することを可能にした。音楽的に、クーラはいくつかの魔法の瞬間を作り出した。最も魅力的なのはAct 3、シーン2の狂ったシーンで、ステージ外のコーラスが伴う。霧が全体をおおい、グライムズはゆっくりと、過去の出来事を思い出す。クーラのボーカルコントロールは、表現力豊かで完璧だった」

「グライムズの気分が乱暴の方向に振れる時、クーラは声の色調、色合い、ダイナミクスを調整し、グライムズの精神的苦痛をうまく捕らえた。それは真に精力的で説得力のある解釈だった。」
(「Operawire」)


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ボンでの公演は、つぎは5月26日。その後、6月に別キャストによる公演があり、7月に再度クーラが登場、7月8、15日に出演します。
また来年2月には、モンテカルロ歌劇場で再演される予定です。
クーラが長年願い、渾身の力で取り組んだボンの舞台をぜひDVD化していただきたい、またはモンテカルロの舞台が今年2月のタンホイザーのようにネット中継されることを、心から願っています。








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(解釈編) ホセ・クーラ ブリテンのピーター・グライムズに初挑戦 演出と主演 / Jose Cura PETER GRIMES

2017-05-20 | ピーター・グライムズ



5月7日の初日以来、ボン劇場で上演中のホセ・クーラ主演・演出のピーター・グライムズ。 これまで、(告知編)(初日編)で紹介してきました。

今回は、主にクーラの作品解釈と演出コンセプトについて、またグライムズの人間像をどうとらえるか、などについて、クーラの発言やインタビュー、フェイスブックの投稿などから紹介したいと思います。

画像は前回同様、ボン劇場のHP、FBなどからお借りしています。




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≪ 劇場のワークショップの報道より ≫

リハーサル中の4/23、クーラは、ボン・オペラで開かれたピーター・グライムズに関するワークショップに出席し、作品や演出について語っています。以下は、その様子とクーラを紹介した報道記事からの抜粋です。

●「オペラの反逆者――ホセ・クーラはボンで『ピーター・グライムズ』の解釈を提示」
(「Kulturexpresso」)


クーラは確かに、表現力豊かで、偉大な声をもつ、多彩なボーカリストの1人だ。しかし演出家としての彼を知る人は多くない。
クーラは、作曲家や指揮者として訓練を受けた芸術家であり、彼はすでに15歳の時に指揮者として登場し、歌への転向を28歳で決意した。
妥協を許さない創造的な天才だ。

クーラは、彼のアプローチを哲学的に見ている。そのメッセージは彼にとって明らかだ。グライムズの海に対する闘いは、 無慈悲な社会における、おそらく多くの人々の人生の闘いの原因でもある。
部外者としてピーター・グライムズは、村のコミュニティによって観察され、同情を得られず、偏見を持たれるようになった。人類史の古いテーマ:適応できない者は除外される。

彼が2人の男の子の死において罪を犯しているかどうか――最終的にチーム全体によって否定される。チームの意見によると、グライムスはおそらく強く非接触的であるが、愛情のために泣く男だ。

オペラの歌詞はジョージ・クラブの詩に基づいており、クーラは、それを彼のプロダクションの重要な基盤と呼んでいる。

またクーラは歌手として、新しい自らの基準をつくり、この役柄で新たな挑戦を見いだしている。

明らかに、このディスカッションでは、クーラの現在の世界に対する関心が強調された。アルゼンチンの全体主義体制下で育ったこのアーティストは、激動する社会的、政治的な出来事に、無関心でいることはできない。

深みのある、自立的な芸術的雰囲気の彼のコミットメントは特徴的だ。モンテカルロオペラとの共同制作であるこの制作は、きっと感動的なオペラ体験になるだろう。
(「Kulturexpresso」)






≪ ボンでのクーラのインタビューより ≫

Q、主演、演出、舞台など多くをどうやる?

A(クーラ)、10年前からこの全体的アプローチを追求してきた。秘訣は、事前に沢山働くこと。様々な事態に備えて、できるだけ多くのものを用意するようにしている。

とりわけ、信頼でき、深い理解が得られるチームを持つことが重要だ。
例えば、自分で出演する舞台を作るとき、私の仕事の重要な部分は、キャラクターが生きて生活できる舞台を作ること。まず行動を視覚化してから、空間を設計し、必要なものすべてを得るようにする。

Q、全てのことを1人でやる長所と短所は?

A、自分のルールに固執しなければ、悪くないと思う。
それぞれ長所と短所があり、完璧なシステムはない。私は歌手として知的なアプローチで知られてきた。したがってこれらの研究を発展させることは驚くことではないと思う。

私のプロダクションでは、登場人物のキャラクターと心理的な深さが常に一定の方法で示される。いつも最初にコンセプトを作るが、その背後には必ず私自身が存在する。このコンセプトが作品のあらゆる側面に反映されることを常に念頭に置いている。
私がこの挑戦を探求する理由は、プロセスが非常に面白いということ。もちろんそれは非常に疲れる。それが実際私が思う唯一の欠点だ。

エゴによって自分を失う危険はない。私はすべての同僚(技術スタッフも)から、その分野における正直さを求めている。その分野の担当者のアドバイスを受けなれば、人間としてアーティストとして発展することはできない。
(1人で多くのことをすることについて)批判する人はいるが、プロセスのプロフェッショナリズムと結果の質に疑問を呈する人はいない。もちろん私の作品が好きでない人がいるのは当然だが、真剣さを否定することはできない。

Q、このオペラのどこが魅力?

A、実際に演技し、テキストと音楽が一致して感じられるオペラ。
加えて私の「夢の記録」を完成させることができる。オテロ、サムソンとデリラ、タンホイザーとピーター・グライムズ。4つの偉大なオペラの国から1作品ずつ。この4つの大役を歌ったことを誇らしく思う。

今年はタンホイザー(モンテカルロ歌劇場)で始まり、今、ピーター・グライムズをやり、オテロ(リエージュ・ワロン王立劇場)でシーズンを締めくくる。
私が歌いたいもう一つのタイトルは「スペードの女王」。しかしチャイコフスキーは、言葉の壁のために、私の芸術的な欲求から逃れてしまうのではないかと恐れている。

Q、海が重要な役割を果たす?

A、私はアルゼンチンのパンパから来た。ロサリオの自宅は海から1000㌔離れていた。しかし私はいつも海に魅かれていた。たぶん制限された閉鎖的スペースが嫌いだったからだと思う。グライムズは、人々を窒息死させる閉鎖的社会の制約についてのものだ。

Q、ボンについては?

A、これまでは数日の滞在だったので、何も見て回ることはできなかった。今回は1月半滞在するが、しかしこの作品は非常に強烈なので、観光の機会はほとんどないだろうと思う。
劇場の楽しい雰囲気を楽しみにしている。同僚とスタッフはプロフェッショナルで献身的だ。経済的な削減にもかかわらず劇場の高い水準を維持している彼らの役割は、支持する価値がある。

ピーター・グライムスの後で、伝説的なベートーヴェン・オーケストラ・ボンを指揮したいと願っている。アンサンブルとコーラスとともに、ボンのオペラの頼りになる存在だ。

(ボン劇場のHP掲載、ホセ・クーラインタビューより)






≪ クーラが引用したピーター・ピアーズの言葉から ≫

ブリテンのピーター・グライムズ初日、劇場内は大興奮・大喝采、レビューも高い評価でした。一方、1つの批評が、クーラのグライムズについて「暴力性と残虐さの複雑性を欠く」と指摘しました。これに対する反論でしょうか、クーラはFBに、このオペラの作曲家ブリテンの生涯のパートナーで、初上演の時のグライムズ役でもあったピーター・ピアーズの言葉を引用しました。

●グライムズは複雑な「現代的」なキャラクター。彼はたくさんいる

「..または、この男は興味深く、敏感で、苦しんでいなければならず、また彼は、彼の困難に対し、聴衆の関心と同情を受けなければならない。
彼は複雑な『現代的』なキャラクターであり、昔ながらの残酷な悪役ではない。グライムスは英雄でもないし、オペラの悪役でもない。彼はサディストでも、悪魔的なキャラクターでもない。そして音楽は、それをはっきりと示している。

彼はごく普通の弱い人間であり、社会と矛盾する自分を認識し、それを克服しようとする。そうすることで従来の規範に反し、社会によって犯罪者に分類され、そうやって破滅させられる。
グライムズは、まわりにたくさんいる!」
(ピーター・ピアーズ)






≪ クーラのフェイスブックの投稿より ≫

ピアーズの言葉の引用に続いて、グライムズの人物像の解釈に関するクーラ自身の次のような解説がフェイスブックに掲載されました。

●グライムズの攻撃性、双極性の背景にある極端な不安、家庭への切望

いくつかの(尊重すべき)見方とは対照的な、グライムズの心理とピアーズの言葉について、もう少し。

グライムズのパーソナリティについての全体的なポイントは、彼は暴力的なのではなく(NOT violent)、攻撃的である(but aggressive)ということだ。この2つの言葉は同義語ではないが、何人かの解釈者はそう主張し、あるものは罠に落ちる・・。

グライムスの攻撃性は、彼の極端な不安の結果であり、彼の双極性の人格からくる――彼はエレンに「手を離せ」と叫んだかと思うと、その20秒後には、「あなたは私の唯一の希望だ・・」という。

人生で最終的に成功したいという思いから、重荷を背負いすぎている時、彼の残忍な力は、彼が少年を傷つけたいと思っているかのような激しいやり方で、彼に少年を押させる――「少年よ、海に行くぞ!」、彼は興奮して叫び、少年は2m飛び離れて、恐怖する。
その1分後、彼はまるで少年が息子であるかのように話しかけ、2人の世話をする家庭と女性を持つことを約束する。グライムスは、ここでは哀れで、やさしく、愛し、愛されることを切望している。

ボア―亭での "オールドジョン"の歌の間。彼はみんなの喜びに惹かれ、考える。「自分もみんなとの曲に参加して、彼らと楽しむことができるだろう。多分、しばらくの間、少なくとも受け入れてもらえる」 
しかし、彼の社会的な不器用さのために、彼は間違って歌い、みんなを混乱させる。

暴力的、NO! 涙ぐましく、悲しく、甘く、哀れな、彼は、エレンが少年に「ピーターがあなたを家に連れていく」という時、すぐに心がやわらぐ。家?そう、家――彼の夢・・。

グライムズは、ある意味で、私にカジモド(「ノートルダムの鐘」の主人公)を連想させる。彼は、本当はそうでないにもかかわらず、醜く、暴力的だというレッテルが張られている。彼がエスメラルダを必死に愛している時も、誰もが、彼は彼女を傷つけていると思う。しかし彼は、それを反証するには不器用すぎる・・。ピーターとエレンと同様に。

私はすべての解釈を尊重する。私は他の見解を尊重する。
しかし、尊重することは、コピーするということを意味しない。それどころか、コピーするというのはまったく逆であり、敬意を欠くことだ!






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ブリテンの生涯のパートナーであり、グライムズ初演の主役を担ったピアーズの言葉も引き、さらに自らの言葉を重ねて、グライムズの人物像を語ったクーラ。
クーラは、彼を特殊で異常な人物ではなく、複雑ではあるがどこにでもいる人間、現代の社会の閉鎖性、偏見・差別、生きる困難、人生と苦闘する姿として、普遍的に描きたかったのだと思います。
社会的な関心とヒューマンで温かい視点をもつクーラならではの、グライムズが描き出されたのではないかと思います。ぜひ映像化を期待したいです。




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(初日編) ホセ・クーラ ブリテンのピーター・グライムズに初挑戦 演出と主演 / Jose Cura PETER GRIMES

2017-05-14 | ピーター・グライムズ



ホセ・クーラが、それを歌うことは「夢」であり、「自分にとっての理想のオペラ」と語ってきたブリテンの英語オペラ、ピーター・グライムズの初日が、5月7日、ついに幕をあけました。クーラは、主演とともに、舞台デザインと演出も担いました。

*公演の概要やクーラの思いについては、以前の投稿(告知編)をご参照ください。

まずは、ボン劇場が公開したプロダクションの紹介動画を、ぜひぜひ、ご覧ください。
2分13秒の短い動画です。下の画像をクリックするとボン劇場のVimeoのページにリンクしています。たいへん細部まで作りこんだ舞台という印象を受けます。






次の動画は、クーラがアップした、初日終了後のカーテンコールの様子。劇場中が大興奮の大喝采、満場のスタンディング・オベーションになったとのことです。
拍手と歓声が鳴り止まず、最後はクーラがスタッフをつぎつぎに舞台上に招いて、キャスト・スタッフ全員で成功を喜び合っています。
*なお、歓声が非常に大きいのでご注意ください。
下の画像をクリックするとクーラのフェイスブックの動画にとびます。






初日の成功、観客の大反響、大喝采を受けて、クーラもFBで動画を紹介しながら興奮気味にコメントしていました。

「昨日のピーター・グライムズ初演後のカーテンコールの動画の一部分。
自発的なスタンディングオベーションが、平土間の最前列からギャラリーの最後まで!!! 彼らはボンでこのようなことが起こるのは初めて、または少なくとも長年にわたってないと言う。私にはそれが本当なのかどうかわからない。おそらくそうではないとしても、パフォーマンスが成功したのは事実だ!! 多くの感情、涙、鳥肌。舞台の上で、オーケストラ・ピットの中で、誰もがベストをつくした!!!
このことは、我々が繰り返し言ってきたように、社会全般が絶望的ではないことをもう一度証明している。共通のプロジェクトを担うことによって、そしてそれに向かうインスピレーションを与える人々ーーそれこそ我々みんなが求めるものだ!!! 
祝福と感謝を共に働いた全ての人々に!!! ホセ 」





以下、ボン劇場がHPやFBにアップした画像をいくつかお借りして、紹介したいと思います。

舞台中央に、このオペラの作曲者ブリテンが暮らした町、オールドバラに残されている塔をモデルにデザインした建物が。




少年の死の責任を問われたグライムズ。まわりの人影が圧迫感、グライムズの孤独と辛さを増幅する。




恋人エレンとの結婚というささやかな幸福を夢見るグライムズ。その実現のための大切な手段である舟と。




村人たちが集まる酒場ボアー亭




ボア―亭で村人たちに溶け込もうとするグライムズ




漁のために新しく迎え入れた少年と。不器用で粗暴なグライムズ、心の底に愛とやさしさを持っているが、少年への接し方が誤解を招く。




事故で亡くなった少年の幻想に苦しめられるグライムズ。舟とともに彼の人生の重荷に。




まだたくさんの画像が公表されていますし、クーラのインタビュー、グライムズの解釈についての投稿、レビューなど、引き続き紹介していきたいと思います。



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ホセ・クーラとドイツの音楽雑誌 『Das Opernglas』 / Jose Cura and Das Opernglas

2017-05-07 | 雑誌――表紙や記事



ホセ・クーラは今年2017年、ドイツの著名なオペラ雑誌『Das Opernglas』の2月号の表紙に登場しました。
ドイツ在住の方から教えていただいて、注目するようになったこの雑誌、調べてみたら、これまでにクーラは6回、表紙に登場していました。

もちろん、表紙以外にも、インタビューやレビュー、紹介記事などで沢山とりあげられていますが、今回はこの表紙にでた号に注目して紹介したいと思います。ただし、ドイツ語は読めませんので(確か第2外国語だった笑)、内容を細かく紹介することは残念ながらできません。興味をお持ちの方は、ぜひ、雑誌のHPをごらんください。

幸い『DAS OPERANGLAS』は、バックナンバーの含めて記事をネット上で検索でき、注文もできます。クーラが表紙の号を検索したところ、残念ながら1つだけ品切れでしたが、一番古い、1997年発行(もう20年前!)のものも、ちゃんときれいな状態でドイツから郵送され、無事到着しました。

トップの写真は、我が家に到着したクーラが表紙の『Das Opernglas』誌の各号。
クーラのキャリアの節目節目に大きく取り上げてもらい、表紙を飾ってきた、ほぼ唯一の雑誌といえるのではないでしょうか。


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●1997年10月号

表紙に登場の1回目は、1997年の10月号でした。
この年は、5月にトリノでアバド指揮によるヴェルディのオテロにロールデビューし、世界的に注目を集めた年でした。しかも11月にドイツのいくつかの都市でコンサートが行われ、これがドイツ・デビューでもありました。
90年代後半に、クーラの才能と努力が一気に花開いた時期の象徴的な表紙登場です。



中身は、同年のトリノでのサムソンや、ドミンゴが指揮したプッチーニアリア集のアルバム録音の様子をはじめ、それまでの舞台の写真などがたくさん掲載されています。


若いですね。


これは、この号に掲載されていたクーラのコンサートの広告。ミュンヘン、マンハイムやケルンなど5ヶ所を1週間で回る、なかなかのハードスケジュールです。




●2001年1月号

2回目は2001年1月号。残念ながら売り切れでした。
インタビュー記事の見出しには「指揮が私の職業。歌は趣味だった・・」などの文字がありましたので、クーラのそれまでの音楽的志向、キャリア展開などについて語っていたのかもしれません。

99年から2000年にかけてエージェントから独立、自分の求める芸術的な道を自分らしく歩む決断をし、自らマネージメントとプロダクション制作のための会社Cuibarをたちあげたのがこの年2001年でした。それにより様々な攻撃を受けたりして、苦闘の時期でもあったようです。
  → 以前の投稿でくわしく紹介しています。
もしチャンスがあれば、このインタビューを読んでみたいものです。




●2003年2月号

表紙3回目は2003年2月号、ハンブルクでのオペラ出演を控えて、直前での表紙登場とロングインタビュー掲載です。
この年の2月、ハンブルク歌劇場にデビューしました。これがちょっと変わっていて、前半のカヴァレリア・ルスティカーナ(マスカーニ)では指揮者として登場、そして後半の道化師(レオンカヴァッロ)では歌手としてカニオを歌うというプロダクションです。

クーラの経歴、指揮者として学んできたことを尊重して企画されたのでしょうか。こんなユニークな公演はたぶん、他にはあまりないように思います。当時の録画がないのが大変に残念です。
 








"Very hot heart and very cold mind!"と題したインタビュー、「熱い心と冷静な判断力」というような意味でしょうか。

内容は、クーラのこれまでのキャリア、作曲や指揮について、指揮者としての自分と歌手としての自分の違い、自分のレーベルやプロダクションを設立したことの意味、オペラ演出について、など多岐にわたっています。

2003年3月のアメリカによるイラク侵攻の直前に出たこのインタビューの冒頭、クーラは以下のように語っていました。

「おそらく2003年は決定的な年になると思う。私たちが経験する世界的な危機は、経済的な危機だけではない。基本的な問いは――戦争か、平和か、だ。このような不確実な時代、アーティストは団結して協力すべきだ。音楽と劇場を通じて人々を慰めることは私たちの義務。我々は不快な状況から遠ざかることはできない。」





●2008年1月号

4回目は08年1月号です。この年、ケルンでヴェルディの仮面舞踏会で演出家としてもデビューしています。

困難を乗り越え、設立したプロダクションも軌道に乗り、自分で自分の仕事とキャリアの方向性を選択しながら歩みを続けてきたクーラ。このインタビューは、成熟したアーティストとしてのクーラの多面的な姿を浮き彫りにしています。

エージェント独立以降のあゆみ、多面的に仕事をすることへの批判に対して、スターダムについて、自分のレーベルでのCDリリース、ネルーダの詩に作曲した自作曲のアルゼンチンでのコンサート、本の出版、マスタークラス、今後の予定など、今回も非常に盛りだくさんです。





キャリアの節目節目にこの雑誌のインタビューで語ってきたクーラ。この号では、ワーグナーのパルジファルに挑戦することを明言していました。2010年ベルリン・ドイツ・オペラの予定だったようです。しかし残念ながらキャンセルされました。
結果的にクーラのワーグナーデビューは、今年2017年2月のタンホイザーパリ版仏語上演を待って実現したわけですが、もしこの時のドイツ語でのワーグナー挑戦が成功していれば、その後のクーラのキャリア展開は大きく違っていたかもしれません。

「2010年にベルリン・ドイツオペラでコンサート形式でパルジファルを歌う。これは、それがうまくいくかどうか、それがどのように機能するかを見るための第一歩だ。ワーグナーの役柄は確かに私にとって魅力的だが、同時に、ドイツ語は少し怖い。これまで私は、この点で期待を果たすことができないと懸念してきた。長さや激しさの点ではワーグナーは問題ではない。私の本当の挑戦は言語だ。
しかし、コンサート形式でのデビューをオファーされたことで、スコアを持ち、歌、テキスト、音韻、そしてすべての子音に完全に集中することができるので、受け入れやすくなった。その後に、私はその役柄をどう管理し、私の解釈に対する反応がどうだったのかを見ていく。ドイツの首都でパルシファルのデビューをするというのは確かにクレージーなことだ。」





以前、ブログの別の投稿でも紹介しましたが、それまでの数年間を振り返って語ったクーラの言葉は、苦難を乗り越えたつよい意志と静かな自信に満ちています。

「私がすべてのエージェントとの関係を絶った2000年以降、そして私のレコードレーベルErato Discsが閉鎖されたことが加わって、私は本質的に砂漠の中に1人ぼっちだった。それは決して簡単ではなかったが、私にとっては非常に有益な時間だった。私は1人であったが、それにもかかわらず私は生き残った。
自分自身で完全に責任を負い、同時に成功を収めること――我々のビジネスの中の考え方では、これらは同時に成立しえない。この種の主張はルール破りを意味し、望ましくないこととされている。

幸いなことに、この段階は終了した。私は今、私自身だ。人生におけるように、ステージの上でも自分自身だ。危険がないわけではないが、今私は確信している。良いアーティストであれば、譲歩や妥協をせずに、よく生き残ることができる。それが私が学んだ最も重要な教訓だ。人は全ての人を喜ばせる必要はない。単にそれを芸術的な意味で意味でいっているわけではない。誰もが私を好きになるわけではない。もし誰からも気に入られるのなら、何らかの方法で支払われているということだ――金銭や別の方法で。」






●2011年5月号

表紙登場5回目は2011年5月号です。
2010年にカールスルーエで、サムソンとデリラの演出、舞台デザイン、主演の舞台を成功させ、ますますマルチタスクの活動をすすめるクーラの、ハードは働きぶり、またインターネットの発展で変容する音楽マーケットの状況、アーティストの努力の成果が奪われている現状などをはじめ、さまざまに語っているようです。








●2017年2月号

そして6回目が今年の2月号です。

タンホイザーのパリ版フランス語上演によるワーグナーデビューと、ブリテンの英語オペラ、ピーター・グライムズの主演、演出、舞台デザインという、2017年の2つの大きな挑戦について、中心的に語っています。






読んでいて感じるのは、クーラのことを長年にわたって取材し続け、インタビューで語りあってきた編集部とクーラとの信頼関係です。クーラの初期、エージェント独立の困難な時期、その後の奮闘などをよく知っていて、信頼しあう編集者との長い付き合いは、本当に貴重だと思います。

ひとりのアーティストには、誰でも長年のキャリアのなかで、山や谷、さまざまな試練もあるかと思います。とりわけクーラの場合は、大手のレーベルやエージェントから独立し、大劇場にたいしても、メディアにも、媚びることも遠慮することなく、自らの芸術的信念にもとづいて独立独歩で活動してきました。その過程でいろんな攻撃や不利益も被りましたが、それを乗り越えて、つねに新しいことに挑戦し、今日、成熟したアーティストとして活動を続けています。この雑誌、とりわけ編集部が、こうした歩みをよく知り、系統的にクーラのインタビューを掲載してくれていることに、1読者、ひとりのクーラファンとして、心から感謝したいと思います。


●おまけ


こちらは表紙ではありませんが、2015年にインタビューで登場した時の紙面です。




こちらは雑誌のHPの画面。記事の検索、バックナンバーの購入、記事単位でのPDFでの購入もできますので(ドイツ語)、興味をもたれた方はのぞいてみてください。


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