長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第16回 『SPEEDの奇跡とモーニング胎動。 その前に』

2011年06月07日 22時51分24秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 はいど~ぉも、こんばんは! そうだいです。今日も寒くはなかったですけど、昨日は暑かったですねぇ、ほんとに!
 なんとなく今日みたいなくもり空の日はこれまでは肌寒かったもんだったのですが、今日は湿気はあったけどちょうどいいくらいの暖かさでしたからね。だんだんと夏も近づいてきとるんですな。

 今日は昼下がりから身体があきまして、時間つぶしのために2時間ひとりカラオケに興じたりしつつも、夜からやっていた三条会のアトリエ公演(於・千葉)を観に行ったりしておりました。
 実は今日上演されていた『ひかりごけ ヴァージョンB』は先週の台風接近の日にも観ていたのですが、それから1週間ちょいたった段階での公演もまた、別の楽しみ方ができるのでは? と2回目の鑑賞としゃれこんでみたわけなのです。こういう時に、電車を使わなくていい近所だってことはありがたいんですよ。

 で観たんですけど、やっぱりおもしろかったやね。
 上演時間は70分ということで、長さを感じさせる間もなくサーッと物語は進んでいくんですが、「作品の終わりが近づくのをおしむ」という感覚はそうなかなか味わえるものでもありませんから、そんな貴重なひとときを楽しみまんした。
 そういえば私、今よりもさらにガキンチョだった時、ある映画を観ていてあまりの楽しさに、
「あと何分でこの映画は終わっちゃうんだろう!? 終わるな! 時間よとまれ!」
 と、スクリーンと腕時計とをチラチラみくらべながら鑑賞していたことがありました。ハタから見たら早く終わってもらいたくてしょうがない人でしかありませんね。アンビバレンツ~。

 三条会のアトリエ公演、明日はいよいよ、もう片方の『ひかりごけ ヴァージョンA』を観るつもりです。楽しみですねい。


 さぁ~って、今回もおっぱじめることにいたしましょうか、「ざっくりすぎるアイドルグループ史」!!
 いや~、やっとここまできましたよ、1990年代後半! 記憶に新しい方も多いとは思いますが、もう15年くらい前のことなんですなぁ……シングルCDもまだまだ細長くてちっちゃいやつだった。

 1994年4月に自身がリーダーだったユニットTMNの活動を終了させ、7月にさっそく東京パフォーマンスドールの篠原涼子(その年の9月に卒業)をプロデュースしたシングル『恋しさとせつなさと心強さと』をメガヒットさせた小室哲哉。彼の登場により、以後数年間は未曽有の規模での「TKプロデュースブーム」が日本中に巻き起こることとなります。パッと思い出せるだけでも内田有紀、ダウンタウン浜田雅功、中森明菜、観月ありさ、円谷憂子、新人ではhitomiなどなど……そうそうたる芸能界の面々が「猫も杓子もwith T」という活況を呈することとなったのです。
 具体的なTKブームの趨勢を観ていきますと、


1994年7月 篠原涼子『恋しさとせつなさと心強さと』がリリースされトータル220万枚の売り上げを記録

1995年9月 この年に結成された小室哲哉みずからがリーダーをつとめる3人組ユニット「globe」の2ndシングル『Joy to the love』がオリコン1位を獲得
   10月 小室哲哉が初めてプロデュースした安室奈美恵の3rdシングル『Body Feels EXIT』がリリースされヒットする
   12月 小室プロデュースによる安室の4thシングル『Chase the Chance』が安室にとって初のオリコン1位を獲得(以後、安室は2001年まで小室哲哉プロデュースの楽曲を発表していく)

1996年10月 前年にデビューしていた華原朋美(22歳 公私ともに小室プロデュース)が5thシングル『save your dream』で自身初のオリコン1位を獲得

1998年  小室プロデュースによる新人歌手・鈴木あみ(16歳 現・亜美)がデビューしたちまち人気者に

1999年1月 体調不良により華原朋美が歌手活動を休養する
   7月 鈴木あみが7thシングル『BE TOGETHER』(小室のかつてのユニット「TM NETWORK」の楽曲のカヴァー)で自身初のオリコン1位を獲得
      ※鈴木は事務所との契約トラブルにより1999年いっぱいをもって一時活動を休止


 こんな感じなんですけど、ここではあくまでもそれぞれの方々の功績の「ごく一部」しか記していません。そりゃあもう、オリコン1位とかミリオンとかをいちいち書いていたらキリがないっていうほど大変なことになってたんですよ、当時は!
 だいたいこう整理してみると、歌手としてはそれ以後あまり目立つ活動のなかった篠原さんはおいときまして、だいたいTKブームの前期はおん大将みずからのglobeと安室さん、中期はトモちゃん、後期はあみ~ゴがささえていた、という流れになるでしょうか。
 ただし、上のような経緯で一時休養を余儀なくされた2人はしかたないとして、globeと安室さんはブーム終息後も一流のアーティストとして活動を継続していくこととなります。
 2001年のTKプロデュース離脱後も安室さんは引き続き日本を代表する歌姫としての研鑽を積んでいきますし、globeもコンスタントに楽曲を発表していき、2002年に小室さんがヴォーカルのKEIKOと結婚したりしつつも2006年に現時点で最後のオリジナルCDを発表するまで大きな存在感を保っていました。
 まぁglobeは、そのあといろんなことがありまして現在は活動休止中なんですけど……小室さんも去年くらいからプロデュース業を再開させているし、もしかしたらそろそろglobeも?

 しゃてしゃて、上の一覧をごらんいただきますと、TKブームのさなか「1997年」だけが特に記述される内容がなくなっていることにお気づきでしょうか。
 もちろん、globe・安室・華原の3本柱がそろい踏みして1997年も小室印はブイブイ幅をきかせていたわけだったのですが、なにもTKだけが日本の音楽界を独占していたんじゃあ~ない!

 そう! これらのTKブームと同時進行で、この「ざっくりすぎるアイドルグループ史」に記されるべきグループもさまざまな新局面を迎えていたのです。
 そして、そんなあたりを語る上で「1997年」はひっじょ~に意義がある。この年に始まった「アイドルグループの再生」は、そのまま2011年現在に直結するムーヴメントの第1歩となっとるんですよ。うおお!!
 だが、その1歩目は、当時まだまだちいさなちいさな存在でしかなかった……まさに吹けば飛ぶようなものだったのです。


 ところで当時の芸能界では、「アイドル」という言葉が「男」と「女」のあいだで雲泥の差をしめしている時代になっていました。
 そこに踏み込んでしまうともう戻って来られなくなるのでやめておきますが、「男のアイドル」の世界は個々のグループの実力や事務所の圧倒的な影響力もあって、もはやまったく揺らぐことのない「神聖にしておかすべからざる存在」となっていました。これはもう、今現在にいたるまでそのまんま。

 それにくらべて「女のアイドル」は……
 結婚して妊娠休養する前の安室さんや、トモちゃんにあみ~ゴといった面々は、「アイドル」と言われてもおかしくない容姿や言動で世間の大きな人気を得ていた部分も少なからずあったのですが、全員とも「私はアーティスト」というスタイルをまず根本に持っており、どんなにふだんの言動でハメをはずしても、最終的にはクールに小室サウンドの楽曲を唄うところを本領としていました。つまり、徹底して「アイドルととられてもいいけど、あくまでもわたしは歌手。」という姿勢を守っていたのです。
 なぜかというと、1980年代後半のおニャン子ブーム終息以後90年代にいたるまでの約10年の長きにわたり、「アイドル歌手」というジャンルはなかなか売れないという空気がまとわりついていたからなのです。

 聖子ちゃんや中山美穂さんの楽曲は確かにヒットしていましたが、それはもう「プロ歌手」や「女優」としての自身を確立した個人個人の人気があったというだけで、「アイドル」のワクにいる方々ではなくなっていたのです。

 あんなにがんばっていたCoCoや東京パフォーマンスドールも、その努力相応の国民的熱狂を得ることはなかなかむずかしく……そういった数々の苦難の歴史もあり、1990年代には「歌手なら歌をうまく! 女優なら美しく!」という即戦力となるわかりやすさがもてはやされており、ある意味でそれとは逆の位置にある、「これからがんばって成長していきます。みんな応援してネ!」という、ファンとともに伸びていこうというフワフワ感や未完成にこめられた未来性がよかったアイドルのあり方は売れない! とされる風潮が続いていたのです。ドライねぇ~。

 そのため、1990年代後半に活躍したグループは、形態で言えば「アイドルグループ」ではあるものの、その楽曲や活動スタイルはちょっとアイドルとは呼びがたい、という様相を呈していました。
 この人たちもそんな感じ。


PUFFY(1996~)デュオ
 大貫亜美(23歳)と吉村由美(21歳)
 歌手志望だった2人が1995年に結成し、1996年5月に1stシングル『アジアの純真』でデビュー
 奥田民生プロデュースによる楽曲は1stから4thまで連続ミリオンセラーとなる
 1997年からはアジア、2000年からはアメリカで活動しブレイクする
 2004~07年にはアメリカで2人を主人公としたアニメ『Hi Hi PUFFY AMIYUMI』が放送されヒットしていた
 1999年からは奥田民生以外のプロデュースによる楽曲も積極的に発表している
 代表曲 『渚にまつわるエトセトラ』(1997)


 ね。アイドルっぽくないでしょ。
 それはもちろん当たり前で、もともと2人は歌手志望だったのですからそうなんです。
 しかし、よりアーティストらしくを旨としていた小室ファミリーと違って、Tシャツにジーンズというスタイルでざっくばらんに、歌番組などでの芸能界の大先輩たちを相手にしてのトークでもものおじすることなくわたりあっていた「自然っぽい」スタイルは、見事にそれにマッチした奥田さんの楽曲ともあいまって若い年代に圧倒的な支持を得ることとなりました。ヒットチャート上位をにぎわせた彼女たちのブームは1998年まで続いていくこととなります。
 このようにPUFFYの魅力はスターらしくない、ましてやアイドルらしくもない「自然っぽさ」だったわけなのですが、デビュー2年目にして早くも自分たちの持ち番組『パパパパパフィー』(1997~2002)をこなしてしまうほどの大御所お笑い芸人のようなふところの広さを持っていた2人は、間違いなく「しろうとには絶対に再現できないしろうとらしさ」を見せることに関してのプロだったと言えるでしょう。要するに、たとえるならばPUFFYの「自然っぽさ」はおニャン子クラブの武器としていた「正真正銘のしろうと感」ではなく、むしろとんねるずの「プロの提供するしろうと感」に通じるものだったのです!
 だから、PUFFYって歌手っぽくなくて芸人っぽいんだ……

 いやー、でも歌手としてもすごいんですよねぇ。
 PUFFYといえば『アジアの純真』ですかね。でも、私は上にあげたように『渚にまつわるエトセトラ』がほんとに大好きで。
 だって、『アジアの純真』は奥田さんや作詞の井上陽水さんが唄ってもいい曲として成立するんですけど、『渚にまつわるエトセトラ』にはPUFFYでしかつくりだせない世界ができていますからね。まさに「女性デュオPUFFY」の真骨頂!


 さて、1990年代のアイドルグループといえばこれも忘れるわけにはいきません。「沖縄勢」!
 まずはこちらから。


D&D(1996~99年)3人組
 沖縄アクターズスクール出身
 14~17歳 メインヴォーカル・オリヴィア(17歳)
 日米ハーフのオリヴィアは中学生になるまでアメリカで生活しており、日本語はちょっと苦手
 MAXと同じくヴェルファーレ以降のユーロビート路線にのった楽曲とオリヴィアの圧倒的な歌唱力が魅力
 1998年4月からオリヴィアの個人活動が始まり、、D&Dとしての活動は残りの2人(日本人)が引き継ぐ
 1999年2月のオリヴィアのソロデビューと、4月の7thシングルのリリースをもって活動は終了
 現在はオリヴィアのみが歌手として活動している

 オリヴィアさんの容姿と歌唱力がとにかく印象的なD&Dだったのですが、やはり楽曲が期待されたほどヒットしなかったことやオリヴィアさんの当時のコミュニケーション能力ににんともかんともな限界があったことが、そのままグループとしての寿命につながってしまいました。
 声にとにかくパワーがあるんでねぇ、デビュー当初からCMとのタイアップなどがあって媒体での露出度は高かったものの、それでもブレイクできなかったのは残念でした。


 そしてそして、そんなD&Dのデビューは1996年8月のことだったのですが、それからやや時間を巻き戻した1995年11月。
 同じ沖縄アクターズスクールの出身だった少女アイドルグループ4人組が、当時大人気だった日本テレビの歌謡バラエティ番組『THE 夜もヒッパレ』でTV初出演を果たすこととなります。

 なんとメンバーの中には、11歳の小学生もいるというおさなさ。果たして実力重視・硬派本位だった当時の芸能界の荒波を乗り越えていくことがこの娘っこたちにできるのだろうか……周囲からは興味本位の視線がそそがれます。

 しかし! なんと彼女たちは見事に世間の視線を一変させました。それどころか、TKブームやPUFFYブームの間隙をついて国民的支持を獲得するアイドルグループにまでのぼりつめていったのです。


 彼女たちの名は……SPEEDぉおオオオウオウゥアッシャアア!!



 ……って引っぱらなくてもみなさんご存じですよね。
 っつ~ことで、続きは次回でございます。


 すんません、今回はタイトルにかかげた娘。さんたちどころか、なんとSPEEDにさえたどりつくことができず……あゆみが遅いよヘヘイヘ~イ!!
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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第15回 『THE PLANET OF MONKEY'S』

2011年06月04日 23時51分26秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 は~いどうもこんばんは! そうだいです。いやはやなんとも、今日は暑かったですねぇ! 今日にかぎっては夏みたいになっちゃいました。
 ただ、日が落ちてからはだいぶ涼しくなって過ごしやすいんですけど、夏はそうはいかないんですよねぇ~、たぶん今年も。熱帯夜はイヤだよぉホントに。

 本日土曜日は、私にとっては久しぶりになんの予定もない丸1日の休日になったんですけど、それなりにうろうろ買い物などもしていたんですが、ひとつだけ後悔していることがあるんですなぁ~。

 映画の『富江 アンリミテッド』、見すごしちゃった……

 実はねぇ、当初の予定としては今日観る予定だったんですが、なんと劇場公開は昨日まででしゅ~りょ~! 千葉も新宿も横浜も終了。
 えぇ!? ちょっと待って、『富江』は先月の5月14日からの公開だったんでしょ? それで昨日6月3日でおしまいって、そんな殺生な。なにもいっせいに終わんなくてもいいだろ~、ちょっとずらすとかぁ。
 日本でもあの山村貞子、佐伯伽椰子と並んで有名なホラークイーン・川上富江! 名前はやたら地味だけど超クールビューティ。そんなミス富江の待望の劇場版第8作が、映画館で1ヶ月もやってないなんて……
 しかもアレでしょ、『富江 アンリミテッド』には、今をときめくAKB48の多田愛佳(おおた あいか)さんも出演してるんでしょ? 多田さんと言えば、のちのちこの「アイドルグループ史」でも取り上げることになるであろう、AKB48のグループ内ユニット「渡り廊下走り隊」の重要なメンバーときたもんだ。もうちょっと長めに公開しても良かったんでねぇの!?

 後悔先に立たず。無念です。去年、この『長岡京エイリアン』でも富江さんたちホラー3人娘についてあんなに盛り上がったのに、その最新作を観に行けなかったとは!
 こんなことになるんだったら、先月に桜木町に行った時に『ブラック・スワン』じゃなくて『富江』のほうを観ておけば良かったなぁ、ホントに。どっちもコテコテドロドロなんだしねぇ。『ブラック・スワン』は今もどこでも観られるし。
 これからは、作品への期待値だけじゃなくて「いつぐらいまで公開してるのか」もちゃんと考えて観る映画を選ばなきゃあいかんな。いい勉強になりました。

 え……『富江 アンリミテッド』、今月の18日から群馬の伊勢崎の映画館で公開するって?
 伊勢崎ってあなた……おとなしく、DVDのリリースを待つことにいたします。


 ささ、今回もいっぱついってみっかぁ。「アイドルグループ史」の続きに入るといたしましょう。本格的に暑くならないうちにしあげちゃおう!

 1980年代中盤以降に日本に到来した「第2次ディスコブーム」。そこで流される楽曲の主役となったのは軽快なリズムの電子楽器にいろどられた洋楽ユーロビート。
 そういえば、そのへんの影響も受けてのことか、当時の日本のアイドル界や歌謡界でも、洋楽に日本語歌詞をのせたカヴァー曲を唄うことが流行していましたね。ウインクとか荻野目洋子さんとかベイブとか。

 そして、そんな「第2次ディスコブーム」やそれへの対抗馬としてやって来た「ジュリアナ東京ブーム」にのっかって力をつけてきたのが、それらで使われるユーロビートやレイヴテクノの楽曲CDを輸入・販売していたレコード会社「エイベックス」(1988年創業・もちろんのちのエイベックスグループ)。
 で、そのエイベックスが1993年に送りだした日本初のレイヴダンスグループこそが、あの小室哲哉プロデュースのtrf(ティーアールエフ 現・TRF)だったということで。

 小室さんは、当時まだ自身がリーダーをつとめる3人組音楽ユニット「TMN」(1983~90年は「TM NETWORK」、その後に改称)としての活動を続けていたのですが、かなり早い内からそれと並行して、他のミュージシャンへの楽曲提供(渡辺美里の『MY REVOLUTION』など)や映画・ミュージカルなどの音楽プロデュース(『天と地と』とか、『ぼくらの7日間戦争』とかね!)などといった「作曲家・小室哲哉」としての活動もおこなっており、そんな「若き天才(当時30代半ば)」にエイベックスが依頼したのが、

 「Tetsuya komuro Rave Factory」

 つまりはtrfの音楽プロデュースということだったのです。

 CDデビューした1993年当初は、10人組だったりツインヴォーカルだったりもしていたtrfだったのですが、初めてミリオンセラーを記録することとなった6thシングル「survival dAnce」(1994年5月)のころには、2011年現在にいたるまで続いている「ヴォーカルYU-KI(ユーキ)とDJ1人、ダンサー3人」という5人メンバーに固定されることとなりました。以後、trfは10thシングル『Overnight Sensation 時代はあなたに委ねてる』(1995年3月)まで5シングル連続ミリオンヒットという栄光に輝き、1998年に小室哲哉プロデュースから離脱するまで、trfは「小室帝国」の屋台骨であり続けていたのです(その後もときおり小室さんのプロデュース曲は発表している)。

 もともとレイヴダンス発祥の地だった「ジュリアナ東京」は1994年8月に勝ち逃げのような形で閉店しているのですが、1994年4月をもって自らのTMNの活動を(いったん)終了させた小室さんはプロデュース業に本腰を入れていくことなり、そのすぐ後の7月にリリースしたご存じ篠原涼子の『恋しさとせつなさと心強さと』の異常なまでのメガヒットをもって(累計220万枚)高らかに「レイヴミュージック」中心の小室ファクトリーの勃興を宣言することとなりました。

 まぁ~trfはDJ KOOにダンサーのSAMという、れっきとした「漢(おとこ)」がいるグループなので、本来この「アイドルグループ史」で取り上げるべき対象ではないのですが、彼らの時代におよぼした影響のほどは大変なものがありました。「レイヴダンスグループ」というジャンルの目新しさもそうなんですけど、なんと言ってもそんな彼らが日本の歌謡ヒットチャートのトップを幾度となくとったという事実が素晴らしいのです。
 しかも、失礼を承知で言わせていただきますれば、1993年CDデビューの時点で、メンバー5人の年齢はいぶし銀の26~32歳!
 やるなぁ~。そんなみなさんが激しく唄って踊り、なんと20年近くたった現在でも現役だっていうんですから。もうすでに「古武士」のような風格がありますね。純粋にその存在がカッコイイ。

 ただ私は、そのころお茶の間で初めて彼らに遭遇した時の衝撃を、今でも色鮮やかに記憶しています。

 普通の音楽番組のはずだったTVの中から突然として聞こえてきた耳慣れないズンズンズビズバふぉう!のリズム。そしてそれに合っているのかどうかもわからない激しさで一心不乱に踊り狂う男女の集団。祖父母から私まで3世代の家族は凍りつきました。

「かいずぁなんだず……猿コみでぇな。(彼らはいったい何者なんだ……まるで猿のようじゃないか。)」

 誰からともなくもれたこのコメントに、思わず私もうなずいてしまっていたものです。
 だって、なんかやかましいしサビもへったくれもなく盛り上がりっぱなしだし、歌詞もほとんど英語でなに言ってるのかもわかんないしいつ終わるのかもわかんないし……間違いなくこれまでの「ポップス界」にはなかった何かであることはわかったのですが、当時の私はとにかくわけもわからずビックラこいていたものです。


 さて、「猿」と言えば、当時1990年代中盤にはもうひとつの「猿」をイメージさせるグループが、trfと時を同じくして大人気となっていました。
 そう、はるばる沖縄からやってきた「モンキーズ」ね!


SUPER MONKEY'S(1992~96年)5人組
 15~21歳 安室奈美恵(15歳)・Nana(16歳)ら
 言わずと知れた「沖縄アクターズスクール」出身グループ
 メンバー交替がはげしく、1993~94年には4人組の時期もあった
 1994年からは安室奈美恵のみのヴォーカル体制に移行し、グループ名も「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」に
 1995年1月に発表した5thシングル『TRY ME 私を信じて』が75万枚のヒットとなり、一気に全国的な人気を得る
 『TRY ME』以降は海外アーティストの楽曲をユーロビート調にアレンジした路線で大ヒット
 ※小室哲哉プロデュースではない
 1995年10月の安室の小室哲哉全面プロデュースによるソロデビュー後も、グループは1996年いっぱいまで安室のバックダンサーとして活動していた


 出た~、スーパーモンキーズ。
 当時の沖縄アクターズスクールでも粒ぞろいのルーキーたちで結成されていた(「スーパーモンキーズ」という名前は、もともとはスクールの特待生グループ全体のことをさしていた)わけだったのですが、デビュー当初からTV番組にレギュラー出演したりタイアップ曲もリリースしていたにもかかわらず、しばらくの間は今ひとつ知名度の上がらない状態が続いていました。やっぱり、「アイドル冬の時代」だったんだなぁ。
 1993年には歌手のバックダンサーとしてNHK紅白歌合戦に出演したりもしていたスーパーモンキーズですが、メンバーのひんぱんな交替などもあってパッとしない印象はぬぐい去れず。

 しかし、そんなスーパーモンキーズの転機となったのは1994年。
 その年、それまでいた結成メンバーの安室奈美恵とNana、Minaに加えて、ReinaとLinaが加入した5人組でメンバーが固定され、それにあわせて楽曲は安室さんのソロヴォーカル体制でいくこととなります。
 そして、その前からスーパーモンキーズのダンスセンスの良さ、加えて安室さんのたぐいまれなる歌唱力に注目していたのが、他ならぬエイベックスの創業者・MAX松浦こと松浦勝人(まさと)その人!
 それまでCDの売り上げがさほど伸びていなかったスーパーモンキーズに、MAX松浦は「ポスト・ジュリアナ」となるべき新たなるユーロビートの国産歌手グループとなることを期待して総合プロデュースを請け負うこととなります。

 そんな流れで本格的ユーロビート路線に転換した新生「安室奈美恵 with スーパーモンキーズ」が、さっそく翌1995年の1月に発表したのが、5thシングルの『TRY ME 私を信じて』!
 trfひいては小室さんのうちたてた「レイヴミュージック」路線を受けて、かつてのリズムとは比較にならない激しさのアップテンポとなった「90年代ユーロ」の開幕を告げた『TRY ME』は一気にそれまでのスーパーモンキーズのCD売り上げ枚数の10倍以上の成績を収めることとなり、その数ヶ月後に始まった日本テレビの音楽バラエティ番組『THE 夜もヒッパレ』(2002年まで放映)へのレギュラー出演などもあって、安室さんとスーパーモンキーズはここにきてついに念願の大ブレイクを果たすこととなります。

 ところが、上のような経緯もあったために、1995年にブレイクした時点ではすでに「スーパーモンキーズ」というアイドルグループは厳密な意味では存在しておらず、アイドル的な人気を博している歌手・安室奈美恵のバックダンサー・スーパーモンキーズという認識がなされても仕方がない状況となっていました。
 それをふびんに思った、というわけでもないのでしょうが、MAX松浦は1994年から開店していた「六本木ヴェルファーレ」のプロモーションのために、ユーロビート路線をさらに押し進めたダンスグループをスーパーモンキーズから結成させることにします。


MAX(1995年~)4人組 「SUPER MONKEY'S」から結成
 17~19歳 Nana(19歳)ら
 1995年5月に安室奈美恵の活動に並行して、独立したヴォーカル&ダンスグループとして活動開始
 名前の由来は総合プロデューサー・MAX松浦の通称「MAX」から
 ※安室奈美恵がいたら「SUPER MONKEY'S」、いなかったら「MAX」という使い分けが1996年いっぱいまで続いた
 代表曲 『Give me a Shake』(1997年)


 ちとややこしいのですが、要するに「スーパーモンキーズ」が分裂して「安室奈美恵」と「MAX」になったということではなかったんですな。安室さんは1994年の時点でそうそうにスーパーモンキーズから独立した存在になっており、他の4人が活動内容にあわせて「スーパーモンキーズ」と「MAX」を使い分けていたということだったのです。ただ、この体制も1996年いっぱいまでのことであり、両者が全盛期を迎えていたこの年をもって「スーパーモンキーズ」は消滅。それぞれは安室奈美恵とMAXという別々のアーティストとして活動していくこととなります。

 また、MAXも現役なんですよね~! 産休などの事情でメンバーが一時交替していた期間はありましたが。さすがにみなさんtrfよりは若いのですが、それでも今や30代半ば。よく唄いよく踊ります。素晴らしい! ぎっみーぎっみーしぇい!!
 MAXは歌手グループとしても大いにヒットチャートをにぎわせる存在となり、90年代を通して、小室ファクトリーの「レイヴ路線」とはまたひと味違った明快なリズムをむねとする「ユーロビート路線」を代表する歌手グループとして活躍していきました。まぁ、アイドルグループとはちょっと違うプロフェッショナルなイメージが強いのですが。

 さて、そんな感じで当時の日本の音楽業界で暴れ回った「レイヴ」と「ユーロ」、そのどちらもあやつることとなったエイベックスグループは当然のように時代を牽引する巨大企業に成長していったのであります。
 そして、安室奈美恵やMAXといった才能を一気に輩出した「沖縄出身」というブランドも、今までにない輝きをはなつこととなっていったのでした。


 ただ、話を「アイドルグループ」に戻しますと、人気の面では「アイドル」と呼ばれてもおかしくない存在ではあったものの、90年代は「歌唱力」や「ダンス」といった部分で「高い技術を持った一人前のプロアーティスト」という硬派なイメージをアピールすることをよしとする実力主義的な風潮となっており、結果としては未熟さやそこからの成長の過程こそが魅力の源泉だったアイドルにとって、依然として「冬の時代」は続くこととなっていたのです。個々の自立したクールさがもてはやされる時代だったのね~。
 鈴木あみさんとか初期のあゆ大先生なんかは、まさにアイドルっぽいしぐさがウリだったわけなのですが、そこと唄う曲のクールさとのギャップがよかったりして。

 最後に、そんな時期にもなんとか健闘していた正統派アイドルグループを紹介させていただきましょう。


Melody(1993~97年)3人組
 16~18歳 田中有紀美(16歳)のメインヴォーカル
 「アイドル冬の時代」でもTV出演・ツアー・CDリリースで健闘する
 メインヴォーカルと高低各パートのハーモニーが確立している高い歌唱力
 1996年の秋から活動が激減し、翌97年に解散を宣言し12月の3rdアルバムの発売をもって解散
 代表曲 『Boom Boom My Heart』(1996年)
 現在は田中のみが歌手・女優として活動


 おぼえてる方、いらっしゃいます? 実は歌唱力はそれまでのアイドルグループのみなさんと比較してもかなりレベルは高い方だったのですが、生まれた時代が悪かったのか……かたくななまでに正統派を押し通したアイドルグループだったもんでねぇ。
 

 さぁ~次回は小室ファクトリー全盛期以降の90年代後半が舞台となります。

 あの4人組、あのデュオ、そしていよいよ、2000年代にアイドルグループ時代の復活を呼び込んだあの娘たちが動き出す……

 こっこっ、乞うごきた~い!!
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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第14回 『おどってナンボ! ダンス&グルーヴの90年代』

2011年06月02日 23時45分36秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 はい~どうもこんばんは、そうだいです。あいかわらず冷たい雨がしとしとと降っているんですけど、明日は関東地方は10℃くらい気温が上がるみたいですねぇ。いかんなぁ、体調に気をつけんと。

 6月に入りましたが、世間のエンタメ系の話題はもう、9日に決定するというAKB48総選挙のことでもちきりのようであります。


ミスチル超えのAKB48、次はB'z超え?(livedoorニュース 2011年5月31日付け記事より)

 6月9日の選抜総選挙へ向け注目を集めるAKB48だが、総選挙の投票券付きシングル『Everyday、カチューシャ』(5月25日発売)がオリコンチャート・週間シングルランキングでは史上最高となる初週133.4万枚を売り上げ、6月6日付の同ランキング首位に初登場した。
 この記録はMr.Childrenの『名もなき詩』(1996年2月)が保持していた歴代1位の初週売上120.8万枚を12.6万枚上回り、15年4ヶ月ぶりとなる新記録を樹立した。

 「『Everyday、カチューシャ』は発売2日目であっさりミリオンを突破。投票券や生写真などの特典めあてに1人1000枚単位で購入する熱烈なファンがいるとはいえ、音楽不況と言われるだけに、今後AKBの記録は抜かれることがなさそう。」(レコード会社関係者)

 その勢いでついに「ミスチル超え」を果たしたAKBだが、次の射程圏内にあるのが「B'z超え」だというのだ。

 「6月1日にB'zの新曲『Don't Wanna Lie』が発売される。B'zは現在、1990年6月の『太陽のKomachi Angel』から今年4月発売の『さよなら傷だらけの日々よ』まで21年かけてオリコンシングルランキング44作連続初登場1位という大記録を更新中。『さよなら傷だらけの日々よ』は初週の売り上げが13万枚。来週発表のランキングで2週目のAKBとぶつかるが、『Don't Wanna Lie』も13万枚程度だと1位は厳しい。ただ、これまでAKBのシングルは発売2週目以降は売り上げが伸びていないので、B'zの記録更新の可能性もある。」(音楽ライター)
 AKBという強力なライバルが立ちはだかるだけに、B'zファンはいつも以上に新曲の購買意欲をそそられそうだ。


 とてつもない話でございますなぁ~。
 まさか、CDの売り上げ不振も取りざたされて久しい2011年にあって、あの1990年代にうちたてられた売り上げ記録をブチやぶる大ヒットとなっているとはねぇ。

 でも。世間では知名度こそ圧倒的なものではあるものの、「猫も杓子も『カチューシャ』」って感じではないですよね。少なくとも、私の身のまわりで「買った。」と言っている人はいません。
 なんでしたっけ? この曲が主題歌になっているあの映画。ベストセラーのほら、『もし高校野球の女子マネージャーが威勢のよすぎる銭湯だったら』でしたっけ。『年をとりすぎた寿司屋だったら』だったかな。あれも前田さんが主演でこれから公開ですね。
 この映画がヒットするかどうか。どうでしょうねぇ? 私の興味は、総選挙の終わったあとに何が残っているのかというところです。今回の「祭りのあと」は、けっこう淋しいものになるような気がするなぁ~。

 ちなみにわたくしは、あいかわらず貧乏人なもので今回の選挙権を取得する余裕はありませんでした。いいんだよ、SDN48の小原春香さんが息災であるのなら。


 さて! 6月最初の「ざっくりすぎるアイドルグループ史」ですが、お話は1990年代前半、まさにCDの売り上げが今とは比べものにならないくらいに潤っていた時代から始まります。っていうか、バブル崩壊後とはいえ、全体的に日本はまだまだイケイケだったんですね。

 そのちょっと前にあたる1980年代後半。バブル崩壊にさきがけたおニャン子クラブによる「アイドル崩壊」に直面した日本の芸能界では、絶対不可侵なタブーをまとい人間っぽくない域にまで神格化されていた「アイドル」という職業があっという間に「かわいい女の子」というレベルにまで天くだり、「歌謡界」以外のさまざまな世界でもバラエティ豊かなアイドルが多数誕生するというにぎやかな時代にはなったものの、それにしたがってアイドル1人1人の影響力や魅力、ありがたみのような部分はかなり小さなものになりつつありました。
 これがいわゆる「アイドル冬の時代」というわけなのですが、アイドルグループも状況はソロとまったく同じで、CoCoや東京パフォーマンスドールといった有名グループはいたものの世間に対するアウェー感はいかんともしがたく、1990年代も依然としてその厳寒ぶりは続いていました。

 そんな中で、栄光よふたたびとばかりに、おニャン子クラブの要素をどこかで継承した大人数アイドルグループもちらほらいたのですが。こんな感じです。


ねずみっ子クラブ(1993年)10人組
 日本テレビのバラエティ番組『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』の企画グループ
 9~13歳 仲根かすみ(11歳)ら
 現役の小・中学生による「チャイドル」のグループ
 秋元康・後藤次利プロデュースによる正式なおニャン子クラブの後継グループ(出席番号制も復活)
 命名は秋元康で、「おニャン子」の次だから「ねずみっ子」
 CDを2枚リリースするが話題にならず活動終了
 元メンバーの仲根は1999年にグラビアアイドルとしてブレイクする(2005年に結婚引退)
 元メンバーのその後は、女優・リポーター・モデル・歌手・おはガール・AV女優など多岐にわたる
 現在は東里(ひがし さと)のみが女優として活動

うらりんギャル(1995年3~9月)フジテレビのバラエティ番組『今田耕司の渋谷系うらりんご』のアシスタントグループ
 15~21歳 山口もえ(18歳)ら17名
 新人タレントを中心に結成(南青山少女歌劇団の堀川由理もいた)
 『渋谷系うらりんご』は、かつて『夕焼けニャンニャン』が放送されたフジテレビ平日夕方に生放送されていた(ただし30分番組)
 番組には東野幸治・ナインティナイン・極楽とんぼなど吉本興業の売れっ子芸人が総出演
 ダウンタウンも『ごっつええ感じ』のリンク企画でゲスト出演したことがあった
 完全な番組アシスタントだったため、楽曲は発表せず
 番組では、観覧客に抱きつかれるなどかなりきつい仕事もこなしていた
 番組の終了により消滅
 現在、山口はママドルとして活動


 はい~。かたや「チャイドル」かたや「アシスタント作業のみ」ということで、どちらも正統的な「アイドルグループ」とは言い難いグループだったのですが、秋元・後藤コンビの復活やフジの夕方生番組など、どこかでおニャン子クラブにあやかった要素を取り入れていたのです。
 1995年にブレイクした吉野紗香さん(13歳)や野村佑香さん(11歳)の巻き起こした「チャイドル」ブームにくらべるとちょ~っと先走ってしまったねずみっ子クラブは、残念ながら一人前のアイドルグループとして認知されることなく活動終了。うらりんギャルも番組が今一つ盛り上がらなかったためにコーナーでひどい目にあっただけで半年で雲散霧消してしまいました。
 『うらりんご』は吉本興業が全面的にバックアップした豪華なメンツの番組だったのですが、やっぱり「ダウンタウンがいないWコウジって、なんか……」という空気は、いかに過激なコーナーをもうけたとしてもぬぐい去ることはできなかったようです。

 こんな感じで、にんともかんともまともなアイドルグループの出てこない風潮が続いていたのですが、そのころちまたの大人社会では、次世代グループの登場を考える上で避けることのできない大ブームが到来していました。


 それは……「ジュリアナ東京」の「レイヴテクノ」ブーム! ダンスダンス! レッツゲッツブランニュウトゥモォウロウゥゥ。

 「ジュリアナ東京」とは、言わずと知れた当時超人気の高級ディスコで、1991~94年に東京・芝浦に存在していたこのお店は、「お立ち台」「ジュリアナ扇子」「T-バックOL」などといった数多くの伝説を生み出す地となりました。

 あんのー、じづはわだす、デスコの「デ」のずもすらねい田舎モンだもんで、「デスコのれぎす(歴史)」みでぇなもんも、こごらでしとつさらってみでぇど思うんだず。「アイドルグループ」がら離れですまうのがまんず申すわげねぇんだげども、ちいーっとまずガマンすて聞いでけらっしゃい。

 「ディスコ」とはそもそもフランス語の「ディスコティーク(discotheque)」が語源となっておりまして、これは「レコード置き場」のことなんですって。
 つまり「ディスコ」とは、「生バンドでなくレコード」を流す場所で、「アルコールの入った飲料」を飲みながら「お客も踊ることができる」お店のことなのです!
 「レコード」、「酒」、「ダンス」。これが「ディスコ」を形成する3大元素なのですね。

 語源がフランス語であるとおり「ディスコ」の起源はフランスにありまして、なんでもそもそものはじまりは第2次世界大戦中のパリ。戦争の激化によって生バンドによる演奏が困難になった盛り場が、苦肉の策でかわりにレコードを流したのが最初だったんだそうです。さすがはパリ、戦争しても文化のかほりは忘れない。
 ディスコが日本にやってきたのは1960年代後半のことだったのですが、当時は小説家や芸術家が集まって親交を深める文化サロンのような雰囲気が強い場だったそうです。
 そんなディスコが、今イメージするような「若者のつどうダンスホール」になったのは、なんといっても1978年に公開された映画『サタデー・ナイト・フィーバー』(主演 ジョン=トラボルタ)の大ヒットをピークとする1970年代後半の「第1次ディスコブーム」によるところが大きいですね。

 んで、そういう感じで思い思いに着飾った若者たちが気軽に集まって踊るディスコ、というイメージを定着させたこの第1次ブームも落ち着いたころ、あえてそこと正反対なお店づくりを目指して大流行したのが、1980年代後半に日本全国で繁盛した「高級ディスコ」による「第2次ディスコブーム」だったのです!
 「高級ディスコ」とは、男性はネクタイスーツ、女性はボディコンスーツを原則としたドレスコードが徹底している「オトナのディスコ」。店内のサーヴィスも完備されており、流れる楽曲は当時国内でもおおはやりしていたバナナラマやデッドオアアライヴなどの洋楽ユーロビート。ユーロビートっつうのは、要するにシンセサイザーなどの電子楽器を使ったアップテンポなポップスのことですな。
 当時の東京でもっとも栄えていたのは「マハラジャ麻布十番店」(1984年12月~1997年9月)というお店だったのだそうですが、女性のお客さんが一段高い場所で踊る「お立ち台」を本格的に設置したのもここが最初だったのだとか。

 そして! そんなディスコの歴史をへて第2次ディスコブームの次にやってきたのが「ジュリアナ東京ブーム」でした。戻ってきたねぇ~、話が!

 ジュリアナ東京は、お店で流れる音楽においてそれまでのディスコとは一線を画しており、ユーロビートを中心に「踊れるのならなんでも」というゆるやかさのあった今までの流れとは完全に違った、より高速で激しく身体の芯にズンズンくる「ハードコアテクノ」をディスコ向きにアレンジした「レイヴテクノ」を流す、刺激の強い新たなるディスコとなっていたのです。「レイヴ(rave)」とはズバリ、「朝までにぎやかに踊り明かす」ことをさすのだとか。やばいなコリャ~。
 また、ただ有名なリクエスト曲をひたすら流すだけではなく、より洗練された選曲テクニックが必要となるということで、本格的なDJ(まさにディスクジョッキー)がディスコで活躍するようになったのも、このあたりからだったんですね。

 ズンズンツクツクズンズンツクツク、でーでーでーでーででっでーでーでーでー、フォウ!! と。

 まぁ~けたたましいおはやしで、東京のあつい夜はふけていっていたわけなのですな。

 ただ、ジュリアナ東京の熱狂は、もともと節度のある大人だけが楽しむはずだった高級ディスコの概念から大きくはずれた乱痴気騒ぎを巻き起こすこととなってしまい、わざと露出度を高くしたラメラメボディコンだのT-バックの下着だのは当たり前、しまいには水着で舞い踊るご婦人方の登場にそれ目当てでやって来る男どもという風景が社会問題となってしまったために、1994年の夏をもってジュリアナ東京はすぱっと閉店。ブームも冷めやらぬ本格的な衰退前での撤退とあいなりました。

 その後、同じ年の暮れ、1994年12月に開店した大型店「六本木ヴェルファーレ」は再びユーロビートを中心とした選曲に戻っており、それによって1998年ごろからは新たに「パラパラブーム」が発生していくこととなります(2006年12月に閉店)。
 ちなみに、この頃からディスコははっきりしたドレスコードがなくなり、ジーンズやスニーカーといったカジュアルな服装でも楽しめるようになったことから、他にも営業上の法律とのかねあいなどもあって「クラブ」と呼ばれるお店に姿を変えていきました。
 クラブですね。「ク」じゃなくて「ブ」のほうにアクセントがつくやつね。つまり、現在の日本では「ディスコ」と呼ばれるお店は基本的にはなくなっているのです。


 はいは~い、そんで! そんなダンスブームがなぜこの「アイドルグループ史」に関係してくるのかといいますと、このブームに乗っかってめきめきと力を伸ばしていったレコード会社が、1990年代の日本芸能界を席巻していくからなのですよ、はい!

 ええ、ええ、言うまでもなく1988年に設立された「エイベックス」でございますよ。
 のちに巨大な音楽企業となっていくエイベックスグループの最初の業態は、マハラジャや六本木ヴェルファーレで流されていたユーロビート、そしてジュリアナ東京で使われていたレイヴテクノ(ハイパーテクノ)それぞれのコンピレーションCDを輸入・販売するというものだったのです。

 1990年からは、現在にいたるまでなんと通算で200以上も続く長寿シリーズとなったユーロビートのアンソロジーCD『SUPER EUROBEAT』シリーズをスタートさせ、音楽レーベル「avex trax」も始めていたエイベックスなのですが、世のレイヴダンスブームにノリノリの乗ったエイベックスは、満を持して日本初の国内レイヴダンスユニットを売り出すはこびとなりました。

 それこそがあの伝説の5人組! デビューからそろそろ20年たとうかとしている今でも現役バリバリでライヴ活動を続けている「trf」(現・TRF)だったのです。のーのーくらいもぁなっか~な~い。
 そしてそのグループ名は、

「Tetsuya komuro Rave Factory」

 の略。つまり訳すれば、

「てつや小室の朝まで踊り明かす工場」

 となるのです。

 果たして、日本初のレイヴダンスグループを標榜した「trf」とは、そしてそれを陰からあやつる「てつや小室」とは何者なのか。
 そして、彼らは日本の芸能史ならびにアイドルグループ史にいったいどのような影響をおよぼそうとしているのだろうか!?

 一方そのころ、遠く離れた南国の地・沖縄では、希望に眼をキラッキラさせた5人の少女が遥かなる東京を目指して日夜ダンスレッスンにはげんでいた……

 さぁ、けっこう簡単に思い出せる新展開が目白押しの90年代、続きは次回でございま~す。

 結局、今回紹介できたグループはねずみっ子クラブとうらりんギャルだけ……あ、あんまりだ!
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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第13回 『いたいた! 90年代小宇宙』

2011年05月29日 22時49分26秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 ど~もこんばんは~。そうだいです。いやぁーもう台風、台風の1日でしたねぇ。関東に来る前に消えてくれたようなんですが。
 今日は、つい2ヶ月前まで私が所属していた劇団・三条会のアトリエ公演『ひかりごけ(Bバージョン)』を観てきましたよ。今は来月6月の半ばまで長めにAB2バージョンを日替わり上演してるんですって! みなさんも観に行ったらいい。
 久しぶりに訪れたアトリエと、舞台に立つ役者のみなさんは……よかったねぇ。台風接近の日に観るのがなんだかとてもしっくりきた作品でした。Aバージョンもそのうち観に行くつもりですが、楽しみねぇ。

 その時、大学時代以来の親友(と呼ばせていただきます!)と観たんですけど、もう立派に働いておられる彼とも楽しく旧交をあたためることができまして、カフェでアハハと笑いながらお互いの近況やおもしろ話などをかたらいあって、ふと外を見るとスコールみたいな豪雨と通行人も飛ばされんばかりのけっこうな勢いで強風がふきすさんでいるという、このヘンな感じね。久しぶりの三条会といい久しぶりの親友といい、台風接近にふさわしい内容の日となりました。


 しゃてしゃて、今日も今日とてアイドルグループ。
 やろうやろう! もうここまできたらドントストップ。ドントルックバックよ。「平成」に入ったんですから、ゴールはもうすぐですよ。まだ20世紀だけど。

 前回にもふれた通り、こと「アイドル歌手」というジャンルに関しては文字通りの「アイドル冬の時代」が始まってしまった感のある90年代の芸能界事情だったのですが、まだまだアイドルという定義そのものの拡大は続いていました。
 グラビア・セクシー・バラエティ・アニメ・ライブ。ある意味では21世紀に入って久しい現在を軽く凌駕してしまう勢いで、アイドルのバリエーションは小宇宙のごとき広がりを見せることとなったのです。

 今回はちょっと、そのへんの各ジャンルで活動していた新たなるアイドルグループのみなさんをあげていくことにいたしましょう。
 まずは、90年代のお茶の間をにぎわせた、ちょっとエッチなかおりもするお姉さん集団、「セクシータレント」のグループから。

C.C.ガールズ(1990~2003年)4人組
 20~23歳 青田典子、藤原理恵ら
 オスカープロモーションのコンテスト受賞者で結成
 セクシー路線 「Cool&Classy(カッコいい&高貴)」がテーマ
 藤原は1985年からソロアイドルとして活動していた
 写真集とともに、1995年まではCDも精力的にリリースしていた
 1995年からメンバーの交替があいつぎ、1998年の青田の脱退をもって初期メンバーが全員いなくなる
 2003年12月のメンバー浜野裕子(28歳)の結婚引退によりグループも解散

T-BACKS(1991~94年)5人組
 20~21歳
 グラビアアイドルで結成(ヌードグラビア経験者もいた)
 とにかく衣装のTバックが武器のセクシー路線
 写真集の他にCDもリリースしていた
 2005~06年には3人組の「2代目T-BACKS」が活動していた

ギリギリガールズ(1992~95年)5人組
 テレビ東京のお色気深夜バラエティ番組『ギルガメッシュないと』や『平成女学園』(どちらも1991~98年放送)に出演
 19~21歳 吉野美佳(19歳 吉野公佳の姉でミスチル桜井和寿夫人)ら
 グラビアアイドルで結成
 写真集の他にCDもリリースしていた

シェイプUPガールズ(1994~2000年)4人組
 23~27歳 梶原真弓(27歳)ら
 C.C.ガールズの事務所後輩グループ
 すでにレースクイーンや女優として活動していたメンバーもいる
 美と健康がテーマ
 写真集のリリースのみで楽曲は発表せず
 1999年のメンバー今井恵理の結婚あたりからグループとしての活動は休止


 いましたよね~、セクシーグループ! 有名なのは今あげた4つですね。まさに「グラビアアイドルのグループ」というコンセプト。
 今って、企画みたいな期間限定以外で活動しているこういうお姉さんたちって、いる? あんまり最近は聞かないような……
 全員、結成時には20代になっている方がほとんどであることもあって、とにかくアダルト、ただしTVで放送できる範囲でといった10代の小娘アイドルにはできない分野に意欲的に挑戦しているこのジャンル。
 当初は完全に「青年男子」をターゲットにしたグループだったわけなのですが、90年代後半に活躍したシェイプUPガールズからすでに、「健康的なセクシー」を志向するスタイルで同性からの支持を視野に入れた方向にシフトしていたことは興味深いです。まぁ、そのぶん男子にはいまひとつピンとはこなかった印象はあるのですが。
 実際に21世紀にはいるまでにメンバー全員が結婚し、妻や母になってからもそこをアピールしたママドル的な活動を続けているシェイプUPガールズの面々は、美容・健康・家庭関連の分野で現在確立している「同年代の女性の人気を集める」タレントといったかたちの先駆となっていたようです。

 いっぽうで、シェイプUPガールズの先輩にあたる90年代前半に活躍した3グループは、さほどヒットしないまでもコンスタントにCDをリリースしたりもしていて、

「アイドルはとにかく歌を唄うんだ!」

 というアイドル歌手全盛時代から残っていた呪縛みたいなものをしっかり継承していたところから見ても、まさに古い形式と新しい形式の取捨選択を迫られていた当時のグラビアアイドルならではのグループだったと言えましょう。そんなに無理して出さなくてもいいのにねぇ。でも実際に、当時は内田有紀さんとかのCDがバカ売れしてたしなぁ。呪縛ねぇ~!!
 基本的にグラドルだったこともあり、解散後にヌードを披露した方も少なくないのですが、ヘアヌード全盛の時代からちょびっとあとにズレてしまっていたこともあってか、やっぱり90年代前半のソロアイドルの方々のヌードほどの話題になったものはなかったようです。う~ん無念!
 むしろさらにその後、結婚してからのライフスタイルが有名になっている方のほうが多いようで、特にミスチルの桜井さんの妻になった吉野さんと、「日本一安全じゃない」玉置さんの妻になった青田さんは特に見逃せないところですね。ガンバレ典子!!


 続きましては、「ライブ・演劇の上演」を活動の中心にしたみなさん。


南青山少女歌劇団(1990~2001年)
 11~18歳の少女歌劇団 通称「MSK」
 年齢規定により19歳になったら卒団しなければならない
 1992~94年にはCDをリリースしアイドルグループとして活動していた
 千葉紗子(さえこ 1994~96年在籍)は年齢規定による卒団後に声優・歌手として活動
 ミュージカル版『サクラ大戦』を上演(1998年 主演は卒団後の千葉紗子)

制服向上委員会(1992~2006年・2010年~)10~20名
 ライブ活動が中心のアイドルグループ 通称「SKi」(最後のiだけ小文字なのは「スキー」とカブるから)
 現在は13~18歳・11名のメンバー構成
 再始動後は1995~2006年に在籍していた歌手の橋本美香が会長をつとめている


 ライブを活動の中心においたアイドルグループといえば、前回にあげた東京パフォーマンスドールがパイオニアなのですが、ほぼ同時期に活動を開始した上の2つは、年齢を見てもおわかりのように「少女」といった部分に照準をあわせたものとなっていました。
 どちらもCDのリリースやTV出演などに力を入れていた時期もあったのですが、とにかくメインにくるのは、会場に来たお客さんの目の前で繰り広げるライブ・演劇・レビュー!
 バブリーな香りもするMSKは残念ながら今はもうないのですが、つい去年から活動を再開したSKiは、東京・初台のライブハウスで毎月活動しているようですよ。ストイックですよねぇ……雰囲気はもう「修験道」って感じ? アイドル界というジャングルの最秘境で、「あっ、藤岡隊長! 制服姿で滝にうたれている少女たちが!」みたいな。


 あと、90年代にはさまざまな異種混合型のアイドルグループも引き続いて登場していました。


Cotton(1990~94年)3人組
 15~17歳 「モモコクラブ」から結成 「平成のキャンディーズ」を標榜
 第3回ミスモモコクラブグランプリの岡田有紀(16歳)がメイン
 とてつもない歌唱力のつたなさ、意図的に古いアイドル路線
 1992年以降は目立った活動がほとんどなくなり自然消滅
 代表作『ヴァージン・ウルフに気をつけて』(1991年2月)

こんぺいとう(1991~93年)デュオ
 15・16歳 「モモコクラブ」から結成
 地球にやさしいエコをテーマとした史上初のアイドルデュオ
 メンバーの菅野美寿紀はヌード・女優に
 もう1人は何年か前に、しろうとモデルとしてSM雑誌で縛られていたらしい。なにやってんすか……

Mi-Ke(ミケ 1991~93年)3人組の歌手グループ
 22~24歳 宇徳敬子ら
 「三毛猫」を意識した白・茶・黒のイメージカラー
 もともと3人は、1990年4月に『おどるポンポコリン』でデビューしたポップスバンド「B.B.クイーンズ」のコーラスを担当していた
 歌謡曲・グループサウンズを意識した楽曲づくり
 代表作 1st『想い出の九十九里浜』(1991年2月 オリコン5位)
 宇徳のソロデビューにより解散

DORA(1992~93年)日本テレビアナウンサーの3人組
 永井美奈子(27歳)・藪本雅子(25歳)・米森麻美(25歳)
 日本テレビ開局40周年記念の期間限定ユニット
 当時の中井美穂・小島奈津子(フジテレビ)や丸川珠代(テレビ朝日)らとともに女子アナウンサーブームの先駆となった
 CDも1枚リリースしている 
 1995年には米森、96年には永井がフリーになっており、藪本は98年に報道部に異動している(そののちに退社)

ハミングバード(1993~95年)5人組声優グループ
 OVA『アイドル防衛隊ハミングバード』(原作・吉岡平 全4巻)のタイアップグループ
 19~31歳 三石琴乃(26歳)・椎名へきる(19歳)ら本編で主人公グループを演じた声優陣がライブ・CDでも活動
 「元アイドルがのちに声優になる」のではなく、「現役声優がアイドルになった」史上初のグループ
 自衛隊が民営化された近未来に5姉妹アイドルグループが戦闘機パイロットになるという設定


 まぁ、こういった方々がいたんですよ。
 コットンはかなり「知る人ぞ知る」異色なグループだったのですが、「意図的にひとむかし前のアイドルを演じた」コットンは、残っている動画を拝見しても、今でも充分に衝撃的な「終わっちゃってる感」を味わうことができます。
 こわいな~。『ヴァージン・ウルフに気をつけて』なんか、江戸のからくり人形みたいなぎこちない動きの3人の小娘が(私よりも年上ですけど)、

「顔をあらぁあって おっとといお~いで☆」

 なんて唄ってるんですからね。聴いてる人もリアクションに窮しますよ。
 コットンもこんぺいとうも、80年代後半に菊池桃子、西村知美、酒井法子といったみなさんを輩出した学研のアイドルグラビア雑誌『Momoco』の出身グループだったわけなのですが、残念ながら90年代に入った時点でかつての威光はすでになく、といった感じでしょうか。こんぺいとうも「エコ」っていう観点は良かったんですけど、それと「アイドル」がうまく接合できなかったのが惜しいな~。

 ミケは出身を見てもおわかりのように完全なる歌手グループだったのですが、当初彼女たちが出演していたNHKの歌謡番組ではマスコットアイドルのような存在としてしょっちゅう出演していたのを思い出します。
 昭和歌謡やグループサウンズ時代の名曲を意識した楽曲(タイトルなどを歌詞に組み込んでいる)が逆に新しく見えたようで、実は今回紹介したアイドルグループの中では唯一、ヒットチャートをにぎわせるアーティストとして全国的な知名度を持っていたグループでした。

 その「ミケ」にあやかったのが女子アナグループの「ドラ」だったわけなのですが、日本テレビの公式見解としては「英語のドラスティック(モーレツという意味)からとりました。」ということなんだそうですけど、ドラスティックは「Drastick」で「O」はないからなぁ。
 ドラ自体は1992年の日本テレビ開局40周年にあわせての期間限定グループだったものの、このあたりから本格的に始まっていた「女子アナ」ブームを象徴するものとなりました。
 また、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(1988~96年)や『マジカル頭脳パワー!!』(1990~99年)といった人気クイズ番組の展開やプロ野球巨人戦の独占中継などによって1993年に年間視聴率でついにあのフジテレビに並び、1994~2002年の長きにわたって首位をとることとなった日本テレビの破竹の勢いをあらわすものでもあったことも見逃せません。

 ハミングバードはあくまでもライトノベル原作とビデオリリースを基盤とした作品だったために、TVで全国放映されるアニメほどの爆発的な人気の拡大はなかったのですが、とにかく当時『美少女戦士セーラームーン』の主人公・月野うさぎ役を演じていた三石さんを中心にすえたメンバー構成、そして本物のアイドルと違わないほどに力を入れたライブやCDの展開は、これまた女子アナブームと同じように花開き始めた「声優アイドルブーム」の先鞭をつけるものとなりました。
 見目麗しいし演技力もあるし、その上唄って踊れるっていうんですからとてつもない。岩男潤子さんや桜井智さん、今回紹介した千葉紗子さんなど、元アイドルが声優にというパターンはいくつかあったのですが、ついに声優の世界からアイドルが発信されていく時代が始まったんですなぁ。
 ところでハミングバードというのは、その名の通り『サンダーバード』を意識した5人姉妹の防衛隊なわけなんですが、設定は自衛隊が民営化されてしまった数年後の近未来「20世紀末」ということになっています。もう過去! 『北斗の拳』パターンね。
 民営化とは。いくらSFだっつっても、平和にもほどがあるよね……そういう発想は今はなかなか出てこないだろうなぁ。


 こういった感じで爆発的に増加し続けていった90年代前半のアイドルグループ事情だったのですが、今回は最後に、東京発でない「地方アイドル」という観点を持ちはじめた流れにもふれてみましょう。


大阪パフォーマンスドール(1993~97年)吉本興業のアイドルグループ
 16~20歳 武内由紀子(20歳)がリーダー 通称「OPD」(これにたいして東京パフォーマンスドールは「TPD」と呼称される)
 東京でなく大阪を活動の拠点にしていた
 東京パフォーマンスドールの妹分的グループで、TPDの日本武道館公演から活動を開始
 TPDと同じ2軍体制で、1軍の「フロントメンバー」は5人、2軍の「ライブメンバー」は10人前後が基本だった
 1996年7月の3rdアルバムを最後に目立った活動がなくなり、1997年ごろに自然消滅
 メンバーの稲葉貴子(あつこ)は、のちに「太陽とシスコムーン」(1999~2000年)のセンターをつとめる
 現在も大阪でタレント活動を続けている元メンバーが多い


 最近はSKEだNMBだHKTだととみに話題になっている「地方アイドルグループ」なのですが、そのはしりは、吉本興業の東京進出の勢いに乗ったこのOPDだったんですねぇ。
 大阪が拠点ということでなかなか東日本ではなじみの少ないグループではありましたが、私はその時よく聴いていたラジオ番組『今田耕司・東野幸治のカモンファンキーリップス』(「山形ラジオ」で聴いていたので制作キー局はワカラ~ズ)のアシスタントでこの人たちが出演していたのはかろうじておぼえてるなぁ。

 ところで、「アイドルグループ史」に関係してくるのはもうちょっと先のことになるのですが、90年代の初頭にはのちの芸能界の趨勢を考えてみると見過ごすことのできない地方発のムーヴメントが起きつつありました。


沖縄アクターズスクール(1983年~)
 「日本映画界の父」マキノ省三の孫・マキノ正幸が沖縄で設立した芸能人養成学校
 1990年に卒業生で沖縄出身の早坂好恵(15歳)がデビューし、1992年にブレイク

 ね、見過ごすことはできないでしょ~!?
 早坂さんは現在もママドルのような立場で沖縄を中心に活動されているそうなのですが、デビュー当時はそのはっきりした顔立ちと元気なキャラクター、バラエティでもおもしろいし歌もバツグンにうまいという八面六臂ぶりでお茶の間の人気者となりました。今でいうベッキーみたいな感じですか。
 早坂さんのブレイクによってはじめて本格的に全国的な知名度を持つようになった「沖縄タレント」なのですが、そのメイン発信源となった沖縄アクターズスクールがすぐのちに超人気アイドルグループを生み出していくのも自然のことわりですよね。

 そういったあたりのことは、また次回ですよ~い。
 あら、きづけば5月も、もうおしまい……
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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第12回 『平成誕生とアイドルグループ』

2011年05月27日 23時25分57秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 はい~どうもこんばんは! そうだいです。関東地方はもう梅雨入りですか。早すぎるよ! 私の町は今日のところはパラパラとしか降りませんでしたが、明日以降は長雨が続くとかなんとか。キツいなぁ~。
 ついこないだ、東京にお芝居を2本観に行った日は暑いくらいだったのにねぇ。あの日は、中野から駒場まで歩いて東大の学生食堂で遅いランチをいただいたりしてたんですよ。2時間くらいぶらっと歩くには最適なお天気でしたね。

 最近はあったかい日と寒い日がたがいちがいになったりして、体調を崩すのがこわい毎日になっているのですが、まぁ今のところはカゼもひかずにやってきております。
 ただ、寝つきがいいのか悪いのか私、近頃はっきりした夢を見ることが多くなってきてまして。

 これは夢……なのかどうかわかんないんですけど、何日か前に変な体験をしました。ささいなことなんですけど、なんかひっかかるのよ。

 その日は、仕事終わりにご飯を食べた時、おマヌケにも自分で自分の舌をかんでしまいまして、舌の右側にキズをつくったまま寝ました。
 で、夜中にちょっとだけ目が覚めて、口の中で舌を動かしてみて、「ああ、まだベロが痛いなぁ……」なんて思いながらまた眠りについたんですよ。
 それから翌朝にふつうに起きて、舌の右側のキズが治りかけてるのを確認しながら歯をみがいたりしたわけなのですが、「あれっ?」と思い当たることがあったんですよ。

 夜中に目が覚めた時に痛かったのは、確かに、舌の「左側」の部分だったのね。

 キャ~!!
 なんなんすかね……文字どおりの「寝ぼけ」だったのか、「舌の左側にキズをおった私が夜中に目をさます」という夢を見ただけだったのか。
 それともアレか、「真夜中はミラーワールド」的なやつか。
 へんなの。やっぱり体調を崩しかけてんのかしらねぇ。まさに梅雨空のようにモヤッとした出来事でありんした~。


 さて、といった前代未聞なグレー感で始まる「ざっくりすぎるアイドルグループ史」の続きなのですが、今回はまさに曇天、ほぼ日本全国で冷たい雨が降っていたある日からお話を始めていきたいと思います。

 時は新年早々の1989年1月7日午前6時33分。
 まさしく激動の昭和時代を体現する存在だった当時の「今上天皇」、昭和天皇が長い闘病のすえに崩御しました。御歳87。
 この時をもって、太平洋戦争の敗戦とそこからの劇的な復興というはげしすぎる変転を見届けてきた史上最長の年号「昭和」は幕を閉じることとなります。最後の「昭和64年」は正味1週間しかなかったのね。
 で、翌8日の午後2時半ごろに発表された新年号「平成」によって、新しい時代がスタートすることとなったのです。

 しかし、日本国民のほとんど全員が知っている「ある方」の死をもって年号が変わる、という制度である以上、時代の交替には必ず国家規模での「喪に服する」、「自粛」というハンパなく重苦しいムードが不可分のものとしてついてくるわけでして。
 思い出すねぇ、私その時はまだまだ小学校低学年のガキンチョだったんですけど、その日1月7日、身のまわりはほんっとに朝からどんよりとした空気に包まれていましてね。家族の朝の風景はいつもとおんなじだし、別に誰かが泣いてるというわけでもなかったんですけど、とにかくみんなうつむきかげん、無口! 視界がほんとに灰色。
 私もさすがに、小学校低学年ながら「あぁ、誰かナイナイしたな、こりゃあ。」と勘づいたほどでした。そして誰もその話題にふれないというアンバランス感ね。
 美空ひばりさんとか手塚治虫とか黒澤明とか、まぁいろんな世界の「神」と呼ばれていた方々が当然の摂理として亡くなっていくわけなのですが、そういった方々と比べてみても、やっぱり日本国民に与える影響の度合いはけた違いでしたね。
 また、生前に「史上最強の晴れ男」と評されていた陛下らしく、その日の前後は逆に記録的な長雨が続いていたようです。

 昭和天皇の不調が目に見えて深刻な問題となってきたのは1987年の春ごろからで、そのあたりから断続的な公務中止と再開を繰り返した後、1988年の夏の式典への出御を最後として、9月から翌年の崩御まで病床につくこととなります。
 歴代天皇の中でも最長寿となった陛下も今回ばかりは……という空気は敏感に日本国中に浸透していき、もちろんそればっかりが理由でもないわけなのでしょうが、1987~89年は日本のエンタテインメント界、特にTV業界で「自粛」の2文字を頭のどこかにおいたバカ騒ぎしてられないという姿勢が、誰が言うともなく広がっていったのです。

 平成の幕開けは、「未成熟のアイドルよりも成長したアーティストが評価される」時代の到来とともにやってきました。

 前回に紹介した実力本位の「バンドブーム」の隆盛にくわえて、「そんなにフワフワしてられない」という重みをもった空気が、あたたかい目で未熟さもひっくるめて応援してくれるファン層が存在していることが前提となっていた「アイドル歌手」にはちときびしい環境を形成していたのです。
 まぁ、そうはいっても当時の日本はまだまだうなるような活力がありあまっていて、良くも悪くもギラギラしていたわけですから! 夜の「ジュリアナ東京」なんてのは、昼間のおかたい日常のいたって健康的な反動だったんでしょうね~。ふぉう!

 グラビアアイドル、アダルトビデオ業界、バラドル。いろんな世界が日の出の勢いで力をつけていく中、本来の「アイドル」の意味そのものだったはずのアイドル歌手は苦戦をしいられることとなり、それはまたアイドルグループも同じことでした。
 そのため、その当時第一線で活躍していたアイドルグループ(デュオ)は、さすがに「キャハ! エヘ!」ばっかり言っている小娘スタイルで押すわけにもいかず、ある程度は唄う楽曲やダンスのクオリティで人々をひきつける硬派アーティストスタイルをとる方々が中心となっていました。


Wink(1988~96年)デュオ
 相田翔子(18歳)と鈴木早智子(19歳)
 笑顔をあえて少なくしたクールなスタイルとシンプルなシンメトリー振りつけ
 あくまで「歌手」を活動の中心においた姿勢(洋楽アーティストの楽曲提供も多い)
 代表曲 『淋しい熱帯魚』(1989年7月)
 相田さんはタレントとして活躍・鈴木さんは最近なにかと話題が多い


 なんといっても平成初期を代表するアイドルデュオといえばウインクなのですが、とにかくクールな楽曲とダンス、その無表情っぷりが当時からよくパロディにされていましたね。人形みたいな静物みたいな存在感がバラエティ全盛の芸能界で逆に目立った秘訣だったのかも知れませんが、それだけに笑顔が武器の「王道アイドル」のようには受けとられていなかったようです。特にはっきりした解散宣言や解散コンサートがなかったところも、「アイドルっぽくなさ」を強調していますよね。

 だとしたらば、その時「正統派アイドルグループ」を標榜していたのはどなたかと言うと、「CoCo」や「ribbon」といった「乙女塾」出身のグループがまずあげられます。


乙女塾(1989~91年にあったフジテレビのタレント養成コース)
 「歌手コース」、「俳優コース」、「モデルコース」の3コース制
 CoCo、ribbon、中嶋ミチヨらを輩出
 乙女塾全体としての楽曲は発表していない

『パラダイスGoGo!!』(『夕焼けニャンニャン』と同じ時間帯 1989年4月~90年3月)
 乙女塾の出演していたバラエティ番組
 B-21スペシャルや田代まさしが出演
 CoCoとribbonの活動をサポートする役割
 人気がでず関東ローカル番組に縮小して終了

CoCo(1989~94年)5~4人組
 いわゆる「アイドル冬の時代」中、最もヒットした正統派アイドルグループ
 ではあるものの、楽曲はクールなアーティスト志向のものが多かった
 代表作 『夏の友達』(1990年4月)
 1992年5月のメンバー瀬能あずさの卒業により4人組に

ribbon(1989~94年)3人組
 16~19歳 おもに永作博美(19歳)がセンターヴォーカル
 永作さんの存在感・ポテンシャルがケタ違い
 それぞれのソロ活動が忙しくなり、メンバー松野有里巳(ありみ)の所属事務所退社により消滅
 代表作 『そばにいるね』(1990年4月)


 ここですねぇ~。CoCoですねぇ~。
 要するに、かつてのおニャン子クラブと同じ手法でふたたびブームを巻き起こそうというフジテレビの算段だったようなのですが。
 のちに乙女塾のメンバーとなる人々が『パラGO!』の放送開始前に『オールナイトフジ 女子高生スペシャル』にゲスト出演していたという入り方もまさにおニャン子クラブと同じであるわけなのですが、ちょーっと、乙女塾は本質的におニャン子クラブとはまったく別の集まりだったんですね。

 まず、だいたい2~30名ほどのメンバーが常に在籍していた乙女塾は、完全に「プロになることを目指すタレントの卵」だけが集まった集団でした。つまり、「タレントとかどうでもいいで~す。」という姿勢の軽さこそが魅力の源泉だった「しろうと感」重視のおニャン子クラブとは真逆の真剣さをおびていたんですね。
 そして、「歌手になりたい」「女優になりたい」「モデルになりたい」という各方面の志望者が集まっていた乙女塾が、ひとつのアイドルグループとしての活動をしなかったのも当たり前のことだったのですが、そのためにおニャン子クラブのような明確な母体にならなかった乙女塾は、必然的におニャン子クラブほどのネームバリューを持つ看板にはなりませんでした。
 それがそのままCoCoとribbonの苦戦に反映してしまった、と言い切ってしまうのは酷なのですが、この2つのグループがオリコンチャートの首位をとることはついにかなわず。

 ただ、CoCoのアイドルグループとしての存在は堂々たるもので、首位こそ逃したものの活動中は基本的にヒットチャートをにぎわせる存在になっていたし、伝統ある日本武道館でのコンサートを上演できる人気もほこっていました。
 私はもうほんとに三浦理恵子さんの笑顔が好きでしてねぇ~。こっちもつられて笑ってしまうようなあのお顔の崩れっぷりね! 崩れてるのにかわいいんだなぁ。
 といっても、私が三浦さんにメロメロになってしまったのは、CoCoが終わってずいぶんたってからの『ブラックワイドショー』でなんですけど……変態じゃねぇかァ!!

 ribbonはアイドルグループとしてはあまりブレイクできなかったのですが、CoCoよりもさらに「昭和アイドルっぽさ」に回帰した明るい楽曲が中心となっていました。まぁ、それが「古くさい」と言われてもやむなしな感じはあるのですが。
 しかし! やっぱり永作さんだよねぇ~、なんと言っても。他の2人はまぁ、「昭和のかわいい人だな。」といった印象なのですが、永作さんはさすが永作さんといった感じで、思わず何年前の映像だったのかを計算してしまいたくなるほどにribbon時代から変わってないの!
 ribbonは思うように人気が伸びなかったという事情もあったため、はっきりした解散活動はなかったのですが、末期の1994年ごろからすでに女優としての活動を始めていた永作さんは、のちにみなさんご存じの通りの大輪の妖花を咲かせていくことになります。こわいね~! こわいけど、お近づきになりたいよね~!!

 女優と言えば、ここいらも忘れちゃいけませんわねぇ。


東京パフォーマンスドール(1990~96年)7人組・2軍制だった
 14~19歳 篠原涼子(17歳)ら
 名前どおり、東京・原宿のライブハウス「ルイード」でのライブ活動を中心としたダンスグループ
 1軍(フロントメンバー)、2軍(ライブメンバー)、研修チームという実力本位の変動制
 CoCoと競合するが人気はいまひとつ(日本武道館コンサートは上演している)
 代表作 『ダイヤモンドは傷つかない』(1993年11月)
 グループでの活動に並行してメンバーのソロ活動も積極的におこなっていた
 1994年に主要メンバーの篠原、市井由理らが卒業し、翌1995年10月のリーダー木原さとみの卒業をもってメンバー一新
 1995年の秋ごろからは仲間由紀恵(17歳)も加入していたが、当時グループとしての活動はほぼなかった
 1996年4月の楽曲リリースを最後に自然消滅

桜っ子クラブさくら組(1991年3月~94年8月)
 テレビ朝日のジャニーズ系アイドル番組『桜っ子クラブ』(毎週土曜午後3時 SMAPやTOKIOがレギュラー出演!)のアシスタントグループ
 井上晴美(17歳)・大山アンザ(現ANZA 15歳)加藤紀子(18歳)・菅野美穂(14歳)・中谷美紀(15歳)・持田真樹(17歳) ら総勢38名
 入れ替わりがはげしかったが、基本的に15名前後のメンバー構成になっていてセンターは加藤紀子だった
 番組『桜っ子クラブ』への出演以外では、各メンバーのソロ活動が中心だった(歌手、女優など)
 5枚のシングルを発表しており、アニメ『クレヨンしんちゃん』やミュージカル『美少女戦士セーラームーン』のテーマ曲にもなる
 『桜っ子クラブ』の放送終了により解散
 メンバーが出演していたミュージカル版『美少女戦士セーラームーン』は、1998年までアンザ主演(セーラームーン月野うさぎ役)で継続

KEY WEST CLUB(1991~92年)桜っ子クラブさくら組から結成されたアイドルデュオ
 中谷美紀ら
 3枚のシングルを発表するがパッとせずにコンビ解消
 代表曲 『夢はマジョリカ・セニョリータ』(1992年8月)


 はい、東京パフォーマンスドール(略してパードル いや、ほんとですよ!)と桜っ子クラブさくら組ですね。
 この2つのグループ、パードルはライブ活動メイン、さくら組はTV番組出演メインということで、性質はまったく異なっているのですが、ともに「ソロ活動を強く押し進めていた。」という部分は共通しています。
 というか、はっきり言っちゃうとグループとしてのそれぞれは、ライブコンサートか持ち番組でしか活動しないという露出度の低さがモロに起因してかなり知名度の点で苦戦をしいられていたのです。
 露出を限定するという戦略を採ったのはあのおニャン子クラブも同じだったはずなのに、なぜこれほどまでに正反対な結果になってしまったのか?

 そりゃもうねぇ、CDがさほど売れなかったから!
 CDが売れて「あいつらいったい何者なんだ?」という注目をファン以外の世間からも集めだしたのが「おニャン子ブーム」の第一歩だったわけなのですが、そこでつまずいちゃったのねぇ。

 あとは、グループ活動に対してあまりにソロ活動が自由だったために、それぞれのファンがそれぞれの活動先でできてしまいグループのメンバーでいつづけるメリットがなくなった、ということもあったでしょう。
 そりゃそうですよ、篠原さんは『ダウンタウンのごっつええ感じ』での過酷なカラミに耐えて実力と人気はあげるは、ソロ歌手として発表した『恋(いと)しさとせつなさと心強さと』(1994年7月)は220万枚セールスというアホみたいな超絶ヒットになるは。
 市井さんはソロ活動の一環として組んだユニット「EAST END × YURI」で、日本ヒップホップ史上初のミリオンセラー『DA.YO.NE』(1994年8月)をたたき出すは。
 井上さんはセクシーグラドルとして、菅野さんと中谷さんと持田さんは女優として、加藤さんはバラドルとして名を挙げていくは。

 要するに、アイドルグループに骨を埋めるという時代じゃなくなってたんですな。まさに個性の時代がやってきたというかなんというか。菅野さんも中谷さんも「グループ活動」が似合いそうなイメージはまるでありませんからね。

 余談ですが、さくら組内のユニット「キーウエストクラブ」の代表曲に私は3rdシングルの『夢はマジョリカ・セニョリータ』をあげてみました。
 本体のさくら組にもれずキーウエストクラブもCDセールスはかなり厳しかったのですが、このやけくそともとれるタイトルの曲は、メロディだけは国民的な知名度のあるものとなっています。
 歌いだしはこんな感じです。

「踊り明かしましょうルナ  12杯目のテキーラ」
「ごめんね素直じゃなくって 夢の中ならいえる」

「こよい独り者どうし    泣きましょういいじゃない」
「思考回路はショート寸前 今すぐ会いたいよ」

 あれれ? なんか別の曲とリズムがカブってますね。じゃあサビのところは?

「ゆーめ~の~マージョーリカ~セーニョリータ~」
「つーき~の~ひーかーりに~てーらされーて~」

「あーな~たは~マタードール~」
「もーい~ちど~めぐーりーあう~」

 そうなんですよ。この曲は、かの90年代アニメ界を代表するヒットシリーズ『美少女戦士セーラームーン』の1992~96年の主題歌に使用された『ムーンライト伝説』と同一の曲なんです。歌詞がちがうだけ。
 最初、これは歌手で作曲家の川島だりあがキーウエストクラブに提供したものだったのですが、人気低迷のためにCD化される予定のたたないまま事務所にアニメ『美少女戦士セーラームーン』への楽曲提供の話が舞い込んできたため、歌詞をあらためて作り直したものをテーマ曲にして、その後はご存じの通りのアニメヒットとあいなったわけのです。ちなみに『マジョリカ』の歌詞は作曲の川島さんによるもので、『ムーンライト』は小田佳奈子さんという方によるものです。私個人としては、やっぱりわけのわかんない『マジョリカ』のほうが好きだなぁ。「12杯目のテキーラ」って! いくら恋にやぶれたっていってもそりゃ飲みすぎだよお客さん。
 そして、その時に『ムーンライト伝説』を唄っていたのは、当然のようにキーウエストクラブではなくDALI(ダリ)という4人組アイドルグループでした。DALIはこの曲の発表だけで解散するのですが、その中にいたメンバー2人がすぐにMANISHというユニットを結成し、こちらはアニメ『スラムダンク』のエンディングテーマ『煌めく瞬間(とき)に捕われて』(1995年)をヒットさせたりもしています。
 奇しくもその後にはミュージカル版『セーラームーン』に参加した桜っ子クラブのメンバーが唄ったりもした『ムーンライト伝説』だったのですが、見事に自分の手をすりぬけて国民的ヒットとなっていったこの曲を聴いて中谷美紀さんの胸に去来したものはなんだったでしょうか。

「なんか、私が唄ってた曲を、別の人が紅白歌合戦(1993年の)で唄ってる……坂本冬美とかが。」

 たぶん、のちに女優となった中谷さんが浮かべるなんともいえない虚無感に満ちたまなざしって、このあたりから生まれてるんじゃないかな。


 まぁそんなこんなもありまして、「アイドル冬の時代」のきびしさをモロに受けた正統派アイドルグループのみなさんだったのですが、みのりこそしなかったものの、パードルの創始した「ライブ活動中心のアイドルグループ」というスタイルは言うまでもなく現在のAKB48の原型となっているわけでして、しろうと感を排した洗練されたダンスパフォーマンスなどから言っても、おニャン子クラブよりもよっぽどパードルの方が現在のアイドルグループたちの直接のモデルになっているように見えますね。
 時代が遅すぎたのか早すぎたのか……ほんとに、アイドルのはやりすたりは「あざなえる縄のごとし」なんですなぁ!

 とはいえ、まだまだ続く「アイドル冬の時代」。この季節を打開する新時代のグループは果たして現れるのだろうか!?
 へへへ、もう5月も終わりになっちまうよ……でも続けてやる! なんとか総選挙終了後のAKBまでたどりついてやる!! こうなったらもうエンドレスワルツだ。わけわかんねぇやチキショーイ!

 まったじっかい~。
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