長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第20回 『第1次モーニング包囲網。 1998』

2011年06月18日 23時46分34秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 んんどうもぉ~い、そうだいです。いやはやなんとも、豪雨とは言わないのですがしとしと雨が飽きもせずに続いておりますわなぁ。やんでもすぐ降るしねぇ。空も朝から晩までどんよりしたまんまだし。
 いつ梅雨はあけてくれるのか。どうやら今年はあけるのが遅くなるかもしんない、などという話もチラホラ聞かれるのですが、チャッチャと青空を見せてほしいものですな。少々暑くてもいいですから、頼むよ~!

 外出や遊びにあわない天気が続くのならば、しょうがないからこっちはひたすら働くことに専念するしかないのですが、この前お店でお客さんのちょっとおもしろい会話を聞きました。
 会話というか、ただお店に来ていた小学生男子がケータイで相手と話している声がたまたま耳に入ってきただけだったのですが、

「え? 明日? 明日は遊ぶ。ん? え~っとね、しげりんとぉ、よっぴぃとぉ、サラリーマン。」

 サラリーマン!? それ、あだ名!? 話の流れからいくと本物の企業戦士じゃないよね。
 なんというネーミング……ヘアスタイルが横分けだからか、黒縁めがねだからか、私服でいいって言ってるのにスーツ姿で登校するからなのか、口ぐせが「それじゃわたくし、このへんでドロンさせていただきます。」だからなのか……
 気になるね~。いじめでつけられてる感じじゃなかったので、これからもクラスの中での出世街道をひた走っていってもらいたいもんですよ。めざせ児童会長!


 ほいほーい、それでは今回も雄々しく「アイドルグループ史」の修羅道を突き進んでいきたいと存じます。ついにモーニング娘。に入ってしまった。もう後戻りはできん!

 今さら申し上げることでもないのですが、前回までつづってきたように1997年に結成され翌98年にメジャーデビューすることとなったモーニング娘。は、2011年現在に至るまでつねに日本のアイドル界をリードし続ける存在として君臨してしてきており、彼女たちのホームタウンともなっているアイドルブランド「ハロー!プロジェクト」の圧倒的な存在感は、AKB48だ桃クロちゃんだと強力な新興勢力が台頭してきた昨今でも、いや、そんな状況だからこそますますその輝きを増してきているような気さえする今日このごろとなってきています。
 もちろん、これからおりにふれて強調していくことになるかと思うのですが、結成当初のモーニング娘。とそれからはや来年で15年の時がたとうかとしている現在のモーニング娘。とは、とてもじゃないですが同じアイドルグループとしてとらえることはできません。継承される「魂」のようなものは共通しているのかもしれませんが、そもそも「モーニング娘。」という名前がはなつ影響力からしてまったく別のものとなっているのですから。

 1998年のモーニング娘。は、それこそ初期メンバー5名が番組で体を張った「5万枚手売り企画」、それによる話題性もあってか、1stシングル『モーニングコーヒー』からオリコンチャートのトップ10にランクインされるという好スタートをきることはできたのですが、まだまだ楽曲にも独自の色を出すことができず、よくある番組企画ものの清純派アイドルグループだろう、だいたい1~2年もてば大したもので、番組が終了するかメンバーの誰かがソロデビューするまでのつなぎみたいなものなんじゃないか、という見方がほとんどだったようです。

 しかし、早くも1stシングルから数ヶ月後、あらたに初の追加メンバーをくわえて8名のグループとなったモーニング娘。は、5月にリリースした2ndシングル『サマーナイトタウン』から、めきめきとモーニング娘。ならではのカラーを打ち出していくこととなります。

「大きらい、大きらい、大きらい、大スキ! あぁ~……」

 う~ん、実にいいため息。
 『サマーナイトタウン』のシメのフレーズなのですが、この曲から、プロデューサーのつんくさんは、モーニング娘。に「赤裸々な恋愛感情の告白をセクシーに唄いあげる!」という方針を加えるようになります。
 そもそも、8人のルックスやトーク番組での発言からモーニング娘。のイメージを考えると、若いメンバーは「かわいい」で年上のメンバーは「たのもしい」。全体的には「洗練されていない」、「天然ボケ」という印象があり、それはまさにそれまでの星の数ほどまたたいては消えていったアイドルグループの常套戦略をなぞったものでした。しかし、そこと楽曲を唄う時に見せる「セクシー」な表情やしぐさ、世の男たちの心をグッとつかむような歌詞と歌声との大きなギャップ。どれもこれもがモーニング娘。の顔なのだという、なにか1つのイメージだけでは左右されないアイドルグループならではの多様性を発揮できたのが、メンバー1人1人の個性に加えてつんくという名プロデューサーを持つこととなったモーニング娘。の実力であり幸運さだったのでしょう。

 当時は言うまでもなくグラビアアイドル全盛の時代。おりしも「巨乳ブーム」まっただ中ということで、世に「セクシーなタレント」は飽きるほどいる状況だったのですが、モーニング娘。が持ち味とした「たいしてそうでもない娘さんたちが唄いだしたとたんにセクシーに!?」という戦略は、その中でも大いに異彩をはなっていくこととなりました。あと、単純なことなのですが5名のメンバーではなかなか出せなかった「声のあつみ」が、8名に増えてコーラスなどに余裕ができたことによって格段にボリュームアップしたことも大きいですよね。
 かくして、『サマーナイトタウン』も1st以上にヒットすることとなり、ついに9月にリリースした3rdシングル『抱いてHOLD ON ME!』によってモーニング娘。は念願のオリコンチャート1位を獲得。その年の暮れのNHK『紅白歌合戦』に初出場を果たすこととなります。

「あんなにスキって言ってたじゃない!」
「もいちどスキって聞かせてほしい!」

 『抱いてHOLD ON ME!』のサビのフレーズですが、この曲はまぁ~ホントにこのサビを連呼連呼。まるで芳一を海底にいざなおうとする平家一門の怨霊ででもあるかのように、聴く者の耳にしゅうねく残る言葉を投げかけてきます。
 これは強烈ですね~。アイドルが唄う歌の中では屈指の「怨歌」なのではないでしょうか。これを、村のはずれでわらべ歌を唄っていてもおかしくないような外見の娘さんたちが唄ってるんですからね。
 あと、忘れてならないのは、つんくさんが意図してなのかはわかりませんが、曲のテンポや使用楽曲のシンプルさが、あの「ジュリアナ東京」以前の(それ以降に比べると)比較的ゆったりしたディスコミュージック調になっていることです。
 当時はすでにハイパーテクノだのスーパーユーロだのという複雑でハイテンポなリズムを導入した次世代の楽曲がちまたにあふれていたのですが、そこにあえてちょっと古い印象のあるものを持ってきたことによって、英語ばっかりでなに言ってるのかわかんない歌詞ややたらおぼえにくいメロディに食傷気味になっていた人たちの支持を集めることにもつながっていったのです。

 意味のわかりやすい歌詞にすぐにおぼえられるメロディ。このへんへの原点回帰は、モーニング娘。のヒットもさることながら、時をほぼ同じくして1998年の12月にリリースしたしょっぱなの1stシングル『Automatic』からミリオンヒットをかっとばすこととなった宇多田ヒカル(15歳)の衝撃デビューあたりからはじまる「女性R&B(ディーヴァ)ブーム」の原動力となっていくこととなります。いっつ、お~ぅとま~てぃっ。

 かくして、メジャーデビューわずか1年目にしてオリコン1位に輝くこととなったモーニング娘。の8名。
 つんくさんも結成当初は「『紅白』に出られたら、解散かなぁ。」などと語っていたものの、もはや彼女たちの人気はそんなにすぱっと幕を下ろすことができる規模であるはずもなく、10月にはモーニング娘。史上初のグループ内ユニットとなる「タンポポ」(石黒彩・飯田圭織・矢口真里)の結成が発表され、翌11月にはデビューシングルとなる『ラストキッス』がリリース。これまたオリコン2位を記録するヒット作となりました。

 ところで、1998年の夏はSPEED主演のSF映画『アンドロメディア』が全国で大々的に上映されるアツい夏であったことはすでにふれましたが、実は同じ時期にモーニング娘。も自分たちが出演するアイドル映画を制作・上映しています。しかし、スケールはだいぶおとなしいものでした。

『モーニング刑事(コップ)。 抱いてHOLD ON ME!』(監督・今関あきよし 主演・平家みちよ)

 これは71分のアクションコメディ映画で、アップフロントエージェンシーの擁する平家みちよとモーニング娘。の合同ミニライヴにあわせて、会場で限定上映されるかたちの作品でした。
 お話はなんともかわいらしい他愛のないもので、ファッション雑誌の素人モデルとして活動する8人の少女(モーニング娘。)が、不気味なストーカーのいやがらせにおびえる親友で人気モデルの平家さんを懸命にガードする刑事になる(自称)、というもの。
 主演は平家さんなのですが、やっぱり目立つのは8人のほうですね。
 予算の都合のためか、およそ映画とは思えない軽さが全編にただよっている作品なのですが、8人が突然水着姿になったり、汗水たらして体力をつけるための特訓にはげんだりとアイドル映画らしいサービスシーンは満載。8人を鍛えあげる近所の道場主の役を演じるのは上島竜平さん。実に不安です。
 この作品には彼女たちをサポートする「秋葉原の帝王」(演・シャ乱Qのたいせー)という人物が登場するのですが、彼がクライマックスでストーカー犯にたたきつけるセリフは最高です。

帝 「アイドルに結婚を迫るとは……愚かなことをしたな。」
ス 「帝王様……ボクは……」
帝 「アイドルとは遠くから応援するもの。私の教えを忘れたな!!」

 『モーニング刑事。』はファン以外のあいだでは滅多に話題にされない隠れた存在なのですが、完全に主役を喰ってしまっているフレッシュな8人の姿もあって、ヒマだったら1度は観ておきたいアイドル映画の名品となっております。

 そんなこんなで、1997年という試練の時を乗り越えたモーニング娘。は、怒涛の勢いでトップスターへの仲間入りを果たすという、まさにこれ以上ない結果をもって1998年を終えることとなったのでした。

 そして、次なる1999年は、前半に多少のブームの落ち着きはあったものの、「遅れてきた風雲児」ことごっちん後藤真希のいよいよの加入をもって「真の」モーニング娘。ブームを招来するとんでもねェ~年となるのですが。

 やっぱりねぇ、「モーニング娘。やハロプロの歴史」だけをズンズン進めていっても、アイドルグループの歴史の雄大さ、豊かは言い表すことはむずかしい!
 ある「木」の立派さをいくらまくしたててみても、「木」だけの説明では魅力を伝えることには限界があります。ちゃんと、周辺の他の木や森全体もちゃんと説明しなければ、その中にある「木」のすばらしさを語ることはできんのですよ!! 「ジャニーズ林」や「ロック林」まではやるつもりはさらさらないけどね!

 ということで、今回は1999年にはいかずに、1998年に活躍した他の「アイドルグループ史」に残るべき面々を紹介してみたいと思います。


Kiroro(キロロ 1996年~)ポップスデュオ
 19歳 玉城千春(ヴォーカル)と金城綾乃(キーボード)
 主な楽曲の作曲は玉城のほうが担当している
 沖縄出身だが沖縄アクターズスクールとはまったく関係がない
 1996年からインディーズとして沖縄で活動していたが、1998年1月に『長い間』でメジャーデビュー
 1998年に発表した1st『長い間』と2nd『未来へ』をヒットさせ、2001年の10th『Best Friend』も大ヒット
 透明感あふれる楽曲とトークでの天然ボケぶりが大いにうける
 現時点では楽曲のリリースは2009年が最後になっている

YURIMARI(1998年2月~99年5月)アイドルデュオ 『ASAYAN』出身
 16歳 中村友理(現・ゆり)と伊沢真理(現・MARI)
 サンプラザ中野とパッパラー河合の共同プロデュース、PUFFYの確信犯的フォロワー
 抜群の不安定さをほこる歌唱力を逆手に取った楽曲
 6枚のシングルと1枚のアルバムを発表するがいまひとつヒットせず解散
 現在は中村は女優、MARIはタレントとして活動

HiP ホリプロアイドルパラダイス(1998~2003年)5~7名
 13~18歳
 ホリプロタレントスカウトキャラバンの受賞者によって結成
 新山千春(17歳)・深田恭子(16歳)・優香(18歳)・酒井彩名(13歳)ら5名のメンバーでスタート
 リーダーは新山(初代)、優香(2代目)、酒井(3代目)
 他の途中加入メンバーには平山あや、堀越のり、綾瀬はるか らがいた
 多くは当時から女優として活動していたが、優香と綾瀬はグラビアアイドルだった
 楽曲は発表しておらず、活動はイベント出演やレギュラーラジオ番組のみ

『アイドルハイスクール 芸能女学館』(1998年4月~99年3月)フジテレビの深夜バラエティ番組
 芸能プロダクション十数社合同のアイドル養成番組
 出席番号1~21番までの新人タレントが出演
 橋本真実(14歳)・国仲涼子(19歳)ら
 番組内オーディションでMISSIONが結成されたが、それ以外は楽曲は発表していない
 番組終了後の1999年4~9月には、生徒タレントのほぼ全員が出演したオムニバスドラマ『国産ひな娘』(テレビ東京)も放送されていた

MISSION(1998年6月~2000年ごろ)5人組
 橋本真実 ら
 母体となった番組『アイドルハイスクール 芸能女学館』の事情により、メンバー全員の所属事務所が違っている
 ヴォーカルダンスユニットとして4枚のシングルを発表するがヒットせず(アルバムのリリースはなし)
 1999年9月の『国産ひな娘』終了後に橋本が脱退し、その後めだった活動もなく2000年に自然消滅
 現在は橋本は女優として活動し、それ以外の元メンバーは全員引退している

Z-1(1998年7月~2002年8月)4人組
 13~15歳 上戸彩(13歳)ら
 1998年7月、オスカープロモーションの「第7回全日本国民的美少女コンテスト」本戦出場者により結成
 ※グランプリ受賞者はいない
 1999年からCDリリースやTV出演を積極的におこなうがさほどヒットせず
 SPEEDやモーニング娘。の模倣がはなはだしい
 上戸はすでに女優としての活動を並行しておこなっており、個人的な知名度をえていた
 2002年8月に上戸が『Pureness』でソロ歌手デビューしたことにより活動停止
 現在は上戸以外の元メンバーも歌手やモデルとして活動している
 代表曲 3rd『BakkAみたい!!』(2000年5月)

COLOR(カラー 1998年7月~2002年3月)4人組
 14~15歳 当山奈央(14歳)ら
 関西出身のヴォーカルダンスユニット
 ポルノグラフィティのギタリスト・新藤晴一(長谷川京子さんのダンナ)が主要楽曲の作詞を担当
 ソウルフルで力強いヴォーカル
 抜群の歌唱力だったがヒットせず
 2002年3月にメンバーの門田こむぎが学業優先で脱退し、新たに3名の追加加入をへて「Buzy」に改称
Buzy(ビズィー 2002年4月~06年6月)6人組 COLORの後続グループ
 16~19歳 当山奈央(18歳)ら
 引き続き歌はうまいのにヒットせず解散
 代表曲 4th『パシオン』(2005年11月 COLOR時代からは通算10枚目となるラストシングル)
 現在は元メンバーは歌手・タレントとして活動を続けている


 え~……わたくし、今回のタイトルに「モーニング包囲網。」と銘打ったわけなのですが。

 この中のどれっひとつとして! モーニング娘。を包囲するつもりで活動したグループはありません。キロロいるし。
 まぁ、キロロは当時の日本音楽界を席巻していた「沖縄」というブランドを力強くささえたアーティストの1組ということで。『未来へ』は、いい曲だ。

 見ていただいておわかりのように、1998年の時点では、モーニング娘。というよりも、むしろもっと旬だったPUFFYを意識したユリマリやSPEEDを意識したZ-1といった感じで、まだまだ「モーニング娘。」を明確な対象にしたアイドルグループは出てきていませんでした。
 正確に言うと、モーニング娘。の対抗グループとしては1998年10月に放送を開始したフジテレビのしろうとオーディションバラエティ『DAIBAッテキ!!』で結成された大人数アイドルグループ「チェキッ娘」がいるのですが、おニャン子クラブに最も近かったグループともいえる彼女たちの本格的な活躍(と解散)は翌99年のこととなるので今回は紹介しません。
 ホリプロのヒップは、ソロアイドルが集まってわいわい活動する時のグループ名、という感じなので本格的なアイドルグループではないのですが、まじめに活動して歌唱力も抜群にあったカラー(ならびにビズィー)がうまくいかなかったのは実に惜しいことでした。歌うまいだけじゃあダメなのか……

 とにかくざっと見てみると、SPEEDやモーニング娘。はあくまでも奇跡的な成功例だっただけであり、「アイドル冬の時代は終わった。」とは言っても、まだまだ厳しい状況は続いていたということなんですな。
 特にアイドルグループにいたっては、ミッションの橋本さん、Z-1の上戸さんのように「誰かをソロアイドルとして売り出すための第1ロケットエンジン」としての意味あいは哀しいくらいに色濃く残っていたのです。

 みんなで有名になるって、たいへんなのよねぇ……しみじみ。
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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第19回 『モーニング誕生。 1998春』

2011年06月16日 23時30分32秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 びええ~い、そうだいです。泣いてるわけじゃないんですけど、最近また寒くなってきちゃってねぇ。夜とか朝とか半袖がツラい時間帯もあったりして。

 なんだかわかんないんですが、近ごろは「食べたいもの」といったら、完全に「魚」か「豆」のどっちか、っていう感じになってきました。
 おっさんだ……私の身体の中で、ついにおっさんが脈動を始めてしまった。いやいや、ずいぶん昔からおっさん化してたんですけど。
 もう、陸の上の「肉」は食べる気がしなくなっちゃってねぇ! 牛丼なんかもうずいぶん食べていません。これが一時的なブームなのか、ずっとそのまんまなのか……?

 豆のほうは基本的に「飲み物」のことですね。コーヒーもそうなんですけど、主には豆乳!
 これはずっと好きなんですけど、ここのところはヒマさえあれば豆乳のいろんな会社のいろんな味をとっかえひっかえ飲んじゃっている次第です。
 個人的には、「豆乳一族」の中から見ると邪道なのかも知れませんが、今年になってからコンビニやスーパーで売られるようになった、カゴメの野菜ジュースシリーズの中の「豆乳ベース野菜ジュース」がいちばん気に入っています。あっさりしてるんですよね。
 ただ、常に「さつまいも味」、「きなこ味」、「プリン味」と、さまざまな意欲的チャレンジがなされている豆乳業界にあって、最近はまた新たな驚異的ルーキーが登場することになりました。

「豆乳 えだまめ味」(ソヤファーム)

 なにこれ!? 豆がなんでわざわざ別の豆の味に? 一周まわって原点回帰? 遠くて近いまっくらクラ~イクライ!!

 わけがわからず飲んでみると、見事なまでにえだまめの味、そしてかおりが口の中に……
 「えだまめ味」という部分の再現性には100点満点をあたえたいのですが、それゆえに「おいしい飲み物」という方向から離れてしまっているのが実に哀しい。
 やっぱり、いつになっても豆乳業界の動向からは寸刻も目が離せません。また買いにい~こうっと。


 んじゃまぁ、そんなこって今回もおっぱじめますかぁ。日本のアイドルグループ史上、最高峰のチョモランマとも言える「ハロー!プロジェクト」の登山を、今日も今日とて再開だぁ~い。

 時は1998年。
 あいもかわらず小室ファミリーとPUFFYとSPEEDの活況は続いていたのですが、1997年末の『紅白歌合戦』の大トリ出演をもって、すでに「平成最初の国民的歌手」ともいえる絶大な人気を獲得していた安室奈美恵さんが出産のために休業したことにより、1998年は「アムロのいぬ間に天下とり」という権謀術策うずまく「ざわ、ざわ……」時代に入ることになりました。ちなみに、安室さんは無事に第1子の出産を終えたあとにさっそく1998年の12月から活動を再開しています。
 モーニング娘。関連以外の「アイドルグループ史」にかかわりのある1998年のトピックとしましては、夏7月にいろいろな動きがありまして、

・SPEEDが、主演映画『アンドロメディア』の全国公開にあわせて新曲の7thシングル『ALIVE』をひっさげた全国4大ドームツアーを開始
・モーニング娘。を生んだテレビ東京のオーディション番組『ASAYAN』から、小室哲哉プロデュースによる大型新人・鈴木あみ(現・亜美 16歳)がデビュー

 こんなことがありました。SPEEDはまさにここで第1期の頂点をむかえたわけなのですが、小室ファミリーからも最後のついに大玉が。アツい夏だったんですなぁ!
 

 グループとしては1997年に産声をあげることになったモーニング娘。だったのですが、「TV初出演」と「グループ名決定」と「デビューシングル発売」がバラバラだったSPEEDと同様に、彼女たちも「具体的にいつ誕生したのか?」という問題は、観点や語る人の思い入れなどによって諸説入り乱れております。

1、第1期メンバー5名と事務所がグループ結成の意思確認をとった「1997年8月20日」説
2、8月20日の意思確認のもようが『ASAYAN』で全国放映された「1997年9月7日」説
3、プロデューサーを引き受けたつんくがグループに「モーニング娘」と命名した「1997年9月8日」説
4、『ASAYAN』の放送でグループ名が「モーニング娘。」に最終決定された「1997年9月14日」説
5、初の楽曲となるインディーズCD『愛の種』の手売りキャンペーンが開始された「1997年11月3日」説
6、『愛の種』の5万枚手売りが達成されて翌年のメジャーデビューが決定した「1997年11月30日」説
7、メジャーデビューシングル『モーニングコーヒー』が発売された「1998年1月28日」説

 7コも説があるんですなぁ! 一見ひっちゃかめっちゃかにも見えるのですが、よくよく見てみると、やっぱりモーニング娘。の場合も、要は「グループの結成」と「名前の決定」と「楽曲CDの発売」のどれをもって始まりとするのか、という問題になっていますので、まぁ事情としてはなんら特別なことはないんですよね。どのアイドルグループでもロックバンドでも議論されるようなことであります。
 ちなみに、いまや大物プロデューサーと呼ばれてもおかしくない立場になったつんく♂さんはどう言っているのかといえば、時期によって多少の発言の違いはあるものの、だいたい現在はインディーズデビューを果たした「5、1997年11月3日」説をとっているようです。なりほど。

 ともあれ、かくして本物のアイドルグループとして1998年にメジャーデビューすることとなったモーニング娘。だったのですが、1997年の5人はまさに「苦労」を絵に描いたような日々だったそうです。
 個人マネージャーなどいるはずもなく、イベントや番組の収録は現地集合現地解散が当たり前。衣装は1人1着ぶんを大切に自己管理して使い、それ以外は私服! ファッションセンスに自信のない人は、家族か友達から借りる!

 すばらしい。
 2005年1月の飯田圭織さんの卒業(当時は2代目リーダー)をもって、この「1997年の創生期」を経験したメンバーはモーニング娘。からはいなくなってしまうのですが、この時の気持ちはモーニング娘。から消えていっちゃあいけねぇ。実際、その時にイベントに集まってくれたファンへの想いがちゃんと伝承されているからこそ、今現在でもモーニング娘。はなみいるアイドルグループの中でも特別な位置にあり続けることができているのでしょう。「初心忘るべからず」よ、ほんとに。

 「リーダー」といえば、モーニング娘。は、グループの中に全体を統括する「リーダー」という役割が存在しています。
 モーニング娘。はご存じの通り、のちに最大人数16名にまで拡大していくメンバーの変動するグループなのですが、同じ体制として比較されることも多かったあの「おニャン子クラブ」では、リーダーという存在は設定されていませんでした。AKB48もいませんよね?
 おそらくこれは、5人の中でただ1人、社会人としての経験のあった中澤裕子さんの人となりが大きく関わっているのではないかと思うのですが、人生経験で頭ひとつ抜きんでた存在だった中澤さんがモーニング娘。のメジャーデビューにあわせて「初代リーダー」に就任したことにより、5人はさらにひとつのグループとしてまとまっていくこととなりました。あと、リーダーを明確にしてカラーをはっきりさせるロックバンドのあり方をモーニング娘。にも反映させたい、というつんくさんの意向もあったでしょうか?
 現在のモーニング娘。には、リーダーの他に「サブリーダー」というポジションもあるのですが、中澤リーダーの時代にはまだサブはもうけられていませんでした。それだけリーダーがしっかりしていたんでしょうが、実質的には中澤さんの次に年長だった石黒彩さんがサブのような立場だったようです。

 蛇足ながら確認しておきたいのですが、モーニング娘。における「リーダー」と「エース(センター)」は、まったくちがう存在になっています。ありていに言ってしまいますと、エースは「一番人気のひと」ということになります。
 エースというポジションは、モーニング娘。では公式には決定されていないのですが、中澤リーダーの時代には、エースは基本的に安倍なつみさんでした。なっち~!!

 さて、もともとはテレビ東京の番組から生まれたモーニング娘。ではあったものの、1998年はメジャーデビューにあわせてフジテレビの『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』やTBSの『うたばん』など、さまざまな他局の音楽番組にも積極的に出演していくこととなります。
 要するに、おニャン子クラブを生んだ頃のフジテレビとモーニング娘。を生んだテレビ東京とでは「母体の強さ」や時代に違いがありすぎたということになるのですが、つんくさん仕込みのバラエティ強さを持っていたモーニング娘。は、ういういしさをちゃんと保ちつつもじわじわとその知名度を上げていくこととなります。

 結果として、1998年のしょっぱなを飾ったモーニング娘。の輝ける1stシングル『モーニングコーヒー』はめでたくオリコン6位を記録。
 『モーニングコーヒー』も、のちのつんく楽曲から比べるとずいぶんと静かで、ギターのシンプルな旋律と5人の技巧に頼らないストレートな唄い方が「っぽくない」感じなのですが、唄い手の心情を隠し立てせずに明かしていく歌詞の世界は明らかにつんくさんのものです。
 SPEEDという例外はあったものの、「今さらアイドルグループぅ? 古いなぁ。」という空気がまだまだ濃厚に残っていた当時としては上々のスタートをきることとなりました。

 ここをもって、モーニング娘。はようやく一人前のアイドルグループとして、しかもデビューシングルから「あのシャ乱Qのつんくがプロデュース? 大丈夫か!?」という話題性をもって世間の荒波に出航していくこととなったのです。

 ところで、モーニング娘。本人たちやプロデューサーのつんくさん、所属事務所のアップフロントエージェンシーなどは、この「モーニング娘。」というアイドルグループをどんな集団だととらえていたのでしょうか。
 現在、ついに「第9期メンバー」まで加入して活動することになったモーニング娘。は、公式見解として、

「加入と卒業・脱退をくりかえしながら進化していくグループ」

 という定義付けをしています。今現在のモーニング娘。は、まさにそれを体現していますよね。

 話はちょっとそれますが、プロデューサーであるつんくさんは、自身が手掛けているモーニング娘。そしてハロー!プロジェクトで活躍している多くのアイドルやアイドルグループの面々を、みずから「彼女たちはアイドルである。」と定義付けしたことはありません。

「自分がプロデュースしているのはあくまで歌手。モーニング娘。もヴォーカルダンスグループであり、アイドルなのかどうかは見る側が判断するものなので、自分たちがアイドルだと名乗るものではない。」

 こういった内容の発言をしているつんくさん。確かにそうですねぇ、熱心に応援するファンあってこそのアイドルであります。

 さてさて、先ほどにあげた「メンバーの交替が前提となっているグループ」というモーニング娘。の定義は、実は第1期メンバーの卒業(当時は脱退とも言われた)と、第3期メンバー(ごっちん、動く!)の加入があって2度目のブレイクを果たすこととなった1999年以降のことでした。
 つまり、メンバーの交替があってそれが見事に成功したあとに設定された定義だったのであり、それ以前の1998年の時点では、どうやらモーニング娘。はさまざまな思惑が交錯する試行錯誤の状態にあったようなのです。

 まずは最悪の事態「解散」に関してなのですが、なんといってもモーニング娘。は1997年11月のインディーズCD手売りキャンペーンで、5万枚売りきりができなかったら即解散、という条件から誕生しており、これはまんざら演出なだけでもなくけっこうな迫真性があったようです。
 ただ、発売初日に1万5千枚以上売れていますし、だいたい2~3ヶ月前から『ASAYAN』が番組をあげて盛り上げたキャンペーンだったのですから、いくらテレ東だと言っても5万枚売れないほど反響がないということは考えていなかったでしょうよ。それは哀しすぎる……

 そういえば、『ASAYAN』が「オーディションバラエティ番組」だったことも、モーニング娘。の現在のあり方に多大な影響を与えていたことは明らかです。
 つまり、「番組から生まれたモーニング娘。が、また新メンバーを募集するゾ~。」というアナウンスをすれば、しばらくのあいだはそれで番組が盛り上がる、というモーニング娘。との離れられない蜜月関係がガッチリとできあがっていたということなんですな。娘。と蜜月……ムダにエロい。
 当然ながら、それはモーニング娘。の人気と一蓮托生のものとなっているわけなのですが、基本的には『ASAYAN』は2002年の番組終了までモーニング娘。のホームタウンであり続けることができていました。

 そして、モーニング娘。の記念すべきメジャーデビューからしばらくたった1998年の3月。
 モーニング娘。としては初となる「新規メンバーのオーディション」が番組で発表されることとなります。
 新しいメンバーが追加されることを「重大発表がある」としてギリギリまで隠されていた5人は、重大発表のことを「解散かな……」と思っていたそうです。いじらしいねぇ~。まだ早いですよ!

 3月に募集開始となった「モーニング娘。追加メンバーオーディション」には約5千名の応募があり、最終的には5月に3名の合格者が加入するということに決定しました。
 それが第2期加入メンバーとなる、市井紗耶香(15歳)、矢口真里(15歳 のちの3代目リーダー)、保田圭(18歳 のちの初代サブリーダー)の3名でした。
 みなさん、モーニング娘。の黄金期をささえた欠かすことのできない主要メンバーですよねぇ。

 ここでおさえておきたいのは、『ASAYAN』のオーディションのふれこみが「追加メンバー」となっていることです。「第2期メンバー」じゃないんですね。
 実際、第1期にあたる5人も「この追加で終わりだろう。」とふんでいたらしく、事務所も「モーニング娘。は10名くらいでメンバーは固定。」と考えていたようです。
 いっぽう、つんくさんは「この年(1998年)の『紅白歌合戦』に出場できたら解散にしようかと考えていた。」とものちに語っています。


 さまざまな思いが交錯するなか、あらたにメンバーが8人となったモーニング娘。の命運やいかに? 次回につづく!

 ……って、命運もなにも「2011年まで元気に続いてる」とか「国民的アイドルグループ」とか、さんざん言ってるじゃないの……
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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第18回 『お待たせ! 1997モーニング胎動。』

2011年06月14日 23時01分24秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 ドドドドモ~イ、そうだいです。なんか最近、また余震が多くなってきてませんこと? なんだかわかんないですけど、特に明け方ゆれることが多いような……気のせいかしら。

 まだ曇り空な日々は続いているんですが、いよいよ夏も近づいてきたということで、私の働いているお店も冷房でふえるぶんの節電対策のために、何本か店内の蛍光灯をはずすということになりました。
 看板灯を通常の半分しかつけないという対応はやっているのですが(4月いっぱいまでは外の電気はまったくつけていませんでした)、店内の明るさももうちょっとおさえようという話になりましてねぇ。
 実際、近所のコンビニも全体的にうす暗かったり、天気のいい日の昼間は窓からの自然光だけで営業しているところがあったりしているわけなんですが、ど~も、慣れないうちは意外な明るさの減りように戸惑ってしまいます。
 まぁ、これからはクーラーもつけなくちゃ営業もやってられなくなりますからね。節約できるところはやってみるということで。

 しっかしまぁ、うちの町のもよりの駅は、天下のJR総武線だっていうのに、ロータリーも夜は真っ暗なまんまなんですよ。
 「誰そ彼(たそがれ)どき」とはよく言ったもんですよねぇ。夕暮れ以降はほんの1メートル先であっても誰が誰だかわかんなくなりますから。
 それはそれで闇の風情があっていいと……まぁ言っていくしかねぇやねぇ!?


 さてさてみなさま。たいへん、たいっへん! おまんたせいたしました。
 いよいよ今回から、我が「ざっくりすぎるアイドルグループ史」は、ついに2011年6月現在に栄華をきわめている感もある日本の女性アイドルグループ文化の、その核心に地続きにつながっているムーヴメントの起点ともいえるゾーンに入っていくこととなります。
 やっとですよ~。タイトルで「モーニング胎動。」、「モーニング胎動。」ってけっこう前から言ってたのに、全然そこまでたどり着けてなかったですからね。

 さぁ! ほんじゃま、アイドルグループの歴史における「新たなる伝説のはじまり」となる局面に突入することにいたしましょ~。
 ここはでっけぇぞ~……果たして五体満足でこのアイドル宇宙最大規模のアステロイドベルトを通過しきることができるのかどうか大いに不安なのですが、ここを越えなければ「ざっくりすぎるアイドルグループ史」の完成は永遠にありえないのです。

 やらいでか!! いざまいらん、ハロー!プロジェクトの遠大なる創世の神話へ~。


 時に、1997年4月。
 あいかわらずglobe、安室奈美恵、前年にブレイクした華原朋美による「小室ファミリー」の全盛期は続いており(安室さんの出産休養は翌1998年のこと)、さらにはPUFFY人気も継続中。そしてついに先月3月にはSPEEDが3rdシングル『Go!Go!Heaven』で初のオリコン1位を獲得し、まさに「ミリオン級アーティスト乱立」の超戦国時代が幕を開けようとしていたころ。あの、この企画ではガン無視させていただいているのですが、ミスチルとかGLAYとかLUNA SEAとかL'Arc~en~Cielも台頭していたんですよ!? もうタイヘンよ~。


 そんな中、テレビ東京のある番組で、ある歌手オーディションがもよおされました。

 番組名は『ASAYAN』、オーディションのタイトルは「シャ乱Q女性ロックヴォーカリストオーディション」。

 『ASAYAN』は毎週日曜日の夜9時から放送していた、当時のテレビ東京の看板ともいえる「オーディションバラエティ番組」でした(2002年まで放送)。
 もともとこの番組は、同じ時間帯に放送していたバラエティ番組『浅草橋ヤング洋品店』のワンコーナーだったのですが、だんだんと拡大されていってついに番組そのものをのっとってしまった、という不思議な経緯がありました。
 1992年に開始した『浅草橋ヤング洋品店』は、演出・テリー伊藤、司会・浅草キッドという陣容で、流行のファッションや街の変な人を紹介していくという、まさしく『天才たけしの元気が出るテレビ』(日本テレビ)の正統な後継者ともいえる内容になっていました。のちに大ブレイクすることとなる城南電機の宮路年雄社長(故人)や、あの江頭2:50を最初に発掘したのもこの番組だったのですが、その中で始まったまったく毛色のちがう「コムロギャルソン」というコーナーこそが、のちの『ASAYAN』の前身となったものです。

 「コムロギャルソン」は、タイトルを読んでもらえばだいたいおわかりかと思うのですが、小室哲哉が新人歌手をプロデュースするという素人オーディションコーナーでした。司会は当時まだまだ関東圏では新人同然の扱いだったナインティナイン!
 本体の『ヤング洋品店』よりもよっぽど一般ウケする雰囲気があった「コムロギャルソン」は、日の出の勢いで時代の寵児となった小室さんやナイナイの人気もあいまって大反響を呼び、1995年に番組は『ヤング洋品店』の内容と「コムロギャルソン」コーナーとが1時間の放送時間を半分ずつ受け持つ構成となり、番組タイトルも『ASAYAN』に変更され、最終的には1996年3月をもってテリーさんと浅草キッドが降板したことにより、それ以降は1時間まるごと全部がオーディション番組、という内容になっていきました。

 そして、1996年の春から『ASAYAN』は本格的に素人オーディションに本腰を入れていくことになり、発掘対象は歌手・俳優・タレント・モデル・ファッションデザイナーにラッパーにJリーガーなどと拡大していき、その結果、CHEMISTORYや加藤ミリヤ、池脇千鶴さんといった面々が世に出ていくことになりました。
 それにしたがって、歌手関連については小室さん以外にも河村隆一(LUNA SEA)や浅倉大介(access)、avexの創業者MAX松浦といった錚々たるプロデューサー陣が番組に参加していたのですが、1997年の4月から始まったオーディションで新人をプロデュースすることとなったのが、当時売れっ子の浪花のロックバンド・シャ乱Qだったというわけなのです。

 シャ乱Q! 私なんかはつい無責任に「なつかし~!」と思ってしまうのですが、いちおう2011年現在も解散はしていないんですよね。

 シャ乱Qは1988年、当時の第2次バンドブームに乗って大阪で結成されたロックバンドです。なんといっても有名なのはヴォーカルのつんくさんですが、バンド自体のリーダーはギター担当のはたけさんです。
 1992年にメジャーデビューしたシャ乱Qはなかなか売り手としては不遇な時代が続いていたのですが、ついに95年5月にリリースした7thシングル『ズルい女』で全国的なブレイクを果たすこととなり、つんくさんの一度聴いたらなかなか耳から離れないねっとりした歌声や、当時のロックバンドとしては珍しく具体的な日常生活(主に恋愛がらみ)についての心の機微を繊細にとらえた歌詞世界、そしてなんといっても、バラエティ番組のトークなどでもプロのお笑い芸人達と十二分にわたりあえるほどノリのよかった各メンバーのとっつきやすいキャラクターがおおいにうけて一躍お茶の間の人気者となっていました。ロックバンドのヴォーカルであるはずのつんくさんがいつも「ネタ帳」を持ち歩いていた、という当時のエピソードはつとに有名ですね。

 そんなシャ乱Qとつんくさんが、ついに『ASAYAN』で本格的に新人アーティストを発掘して全面プロデュースをすることになったのが、冒頭にあげた4月の「女性ロックヴォーカリストオーディション」ということだったのです。
 つんくさんは1994年ごろから、同じ大阪つながりである吉本興業の芸人さんに楽曲を提供したりはしていたのですが、音楽プロデューサーといえるほどの規模での活動はまだ経験が無く、そういう意味ではつんくさんのその方面での技量はまだまだ未知数のものがありました。

 実際、このオーディションはあくまでも「シャ乱Q」が音楽プロデュースを手掛けるということになっており、4月に始まって約9900名の応募者の中から8月に選ばれることとなった平家みちよ(18歳)は、11月にデビューしたあとは基本的にシャ乱Qリーダーであるはたけさんがプロデュースをつとめていたのです。つんくさんじゃなかったのね。

 さて、問題は、このオーディションで優勝した平家さん……ではなく! 最終選考まで残った5名の娘さんたちでした。

 優勝した平家さんのデビューを引き受けることとなった芸能事務所「アップフロントエージェンシー」は、最終選考に残った何人かの女性たちにも注目し、特に北海道からやって来た「純朴な村のわらし」を絵に描いたような外見の安倍なつみ(16歳)という美少女に注目します。
 なんとか安倍さんもデビューさせたいと考えた事務所だったのですが、オーディション優勝者でない以上、平家さんと同時期にならべてデビューさせるわけにもいかず、思案の結果たどりついたのが、他の芸能界入りに意欲のある最終選考者たちとあわせてアイドルグループを組ませる、という策だったのです。
 この形式自体はまったく常套のもので、ソロデビューさせるには早すぎるが知名度は上げておきたい、というアイドルがいた時にはよく見られていた方策でした。もちろんそんなことは、アイドルグループが活躍している最中には空気が気まずくなるのでおくびにも語られることはないわけなのですが……事務所の方はいろんなことを考えますよね。
 こうした経緯により、最終選考に残った娘さんの中からあらためて選ばれた安倍なつみ、飯田圭織(16歳)、石黒彩(19歳 当時短大生)、中澤裕子(24歳 当時OL)、福田明日香(13歳)。

 彼女たちが集まってできた5人組アイドルグループこそが! 「モーニング娘。」だったわけなんですね。

 出た。ついに結成されてしまいました、モーニング娘。が!
 しかし、アップフロントエージェンシーが5人をひとつのアイドルグループとしてデビューさせると決定し、それを5人が了承したのは、オーディションが終了した直後の8月20日のことだったのですが、その時点では、まさかモーニング娘。という存在が15年ちかくも国民的なアイドルグループとして続いていくことになろうとは。当の5人たちもつんくさんも、事務所も視聴者もみ~んな予想だにしていなかったでしょうなぁ。そもそも、この時には具体的なグループ名も決まっていなかったし。

 さて、ここまでの流れで言うと、「芸能人になりたい娘さんたちを集めてグループにする」というあたりはよくあることだったのですが、ここにモーニング娘。のブレイクを語る上で忘れてはならないオリジナルな要素が加えられることとなりました。これがデカかったんだ!

 それが、『ASAYAN』側からふっかけられるという形で提示された、「インディーズCDを5万枚手売りで完売させたらメジャーデビュー」という課題企画だったのです。ムチャ言いよるわぁ。

 当時は、前年1996年に日本テレビの深夜バラエティ番組『進め!電波少年』がお笑い芸人・猿岩石の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」という企画を大ヒットさせており、「タレントにムチャをさせる」番組づくりが大流行していました。
 「5日間で5万枚手売り」というのはそうとうに無理のある企画で、実際にそれは厳密な意味では達成されなかったのですが、デビュー前から芸人もビックリのムチャぶりをされてしまった彼女たちは必死にがんばり、そのアイドルらしからぬ真剣な取り組み方が相乗効果となって、モーニング娘。の存在はメジャーデビューする前から知られていくこととなりました。

 8月20日の5人組グループ結成の報は9月7日分放送の『ASAYAN』で発表されることとなり、翌8日に彼女たちのプロデュースを担当することとなったつんくさんがグループ名を「モーニング娘」とし、次週に放送された『ASAYAN』の中で司会のナイナイの矢部さんが、発表されたフリップに書かれた文章「モーニング娘。」の「。」までをもグループ名に取り入れると決めてしまったために、ここをもって5人組の名前は「モーニング娘。」に最終決定されるはこびとなったのであります。
 でも、あとで調べてみたら「モーニング娘」よりも「モーニング娘。」で1画ふえたほうが姓名判断では縁起が良かったっていうんですからね。人生、なにがきっかけで好転するのかわかったもんじゃありません。

 さっそくモーニング娘。はインディーズCDのレコーディングに入ることとなり、『愛の種』という楽曲を唄うことになります。
 でも、この『愛の種』って曲、実は作詞がサエキけんぞうさんで作曲がCOSA NOSTRAの桜井鉄太郎さんってことで、つんくさんは全然からんでないのよね……どうした? 忙しかった?
 そのへんの経緯もあってか、モーニング娘。の「ほんとうの」1stシングルとなる『愛の種』は、その後にリリースされたメジャー1stシングル『モーニングコーヒー』のカップリングになったり1stアルバムに収録されていたりもしていますが、それ以降のつんく楽曲とはだいぶ印象の異なったかなりおとなしいものになっています。でも、若干の古くささや青さはあるものの、ういういしくてとってもいい曲ですね。洗練されていないところがいいっていうのは、まさに「アイドルグループ」楽曲の王道ですよね。
 余談ですが、つんくさんが現在使用している「つんく♂」という芸名は2001年から使用されるようになったもので、モーニング娘。結成の時点ではまだ「つんく」のままでした。ちなみに作詞・作曲家として活動する時は、現在も芸名は♂のない「つんく」のままです。

 そして、運命の『愛の種』メンバー手売りキャンペーン開始の11月3日。
 イベントの出発点となったHMV大阪・心斎橋店では1日で1万6610枚という記録的な売り上げをとることとなり、さすがに全国キャンペーンだったためにスケジュール上の条件もあって「5日間で」というくくりを守りきることはできなかったものの、イベントの最終日となる11月30日のナゴヤ球場(ドームじゃないところがインディーズらしい)での手売りによって見事5万枚を達成、翌1998年のメジャーデビューが決定されることとなります。


 さあ、かくして伝説は始まった。

 1997年は、このような大いなる嵐の予感をはらんだまま、おもてむきは依然として小室帝国・PUFFY自治区・SPEED共和国・ヴィジュアル系合衆国などの天下のまま暮れていったのでありました。

 モーニング娘。のメジャーデビューと台頭をつづる1998年は、また次回。ごっちん、いまだ動かず!
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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第17回 『SPEEDの奇跡とモーニング胎動。』

2011年06月11日 23時35分59秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 へろ~ん、こんばんは。そうだいです。

 これは夢かまぼろしか? 生後30年にしてやっと! 足に「つちふまず」のようなものができはじめたそうだいに励ましのおたよりを送ろう。(受付は終了いたしました。)
 やっぱ、「桜木町ハイキング」がよかったのかねぇ……荒療治もしてみるもんですね。


 え~、いよいよお待んたせいたしました。今回は1990年代後半、小室ファミリーブームのさなかについに奇跡の大復活をとげることとなったアイドルグループ界の記念すべき第1歩目にせまりたいと思います。

 時に、1995年11月。
 小室哲哉みずからがリーダーとなったglobeに引き続き、沖縄出身の安室奈美恵も小室プロデュースによるソロ活動を開始してヒットチャートをにぎわせるようになっていたころ。
 安室さんも「SUPER MONKEY'S」のメンバーだった時からよく出演していた歌謡バラエティ番組『THE 夜もヒッパレ』(日本テレビ 毎週土曜9時)に、新たな沖縄出身のアイドルグループがレギュラーとして参加するようになりました。

 全員が安室さんの直接の後輩にあたる沖縄アクターズスクールの生徒である、4人の少女たち。
 一見、芸能界にも東京にもまったくなれていないような幼い表情の4人だったのですが、それもそのはず、なんと彼女たちの年齢は11~14歳! 学年にして小5から中2のあいだだってんだからとんでもない。
 しかし彼女たちは、先輩のスーパーモンキーズが東京に進出していった1992年から、スクールの次なる特待生グループ「BRAND-NEW KIDS」として沖縄で活動していたメンバー7人の中から、さらに東京進出のために選抜されてやってきたという生粋の精鋭部隊だったのであります。

 その週の音楽ヒットチャートにのぼった人気曲を、他の歌手やタレントがカラオケのように唄っていくという趣向の『夜もヒッパレ』だったのですが、この4人組のグループ名は番組による公募で決定されることとなりました。
 そして、番組初出演から年をまたいで2ヶ月がたった1996年1月。ついにグループ名が決まります。

 はい~、それこそがあの「SPEED」だったわけなんですねぇ! きたきた~。

 かくして、安室さんに続く沖縄出身のフレッシュな顔「SPEED」は1996年の開幕とともに本格的に始動していくこととなりました。

 とはいえ、SPEEDが1stシングル『Body&Soul』をリリースしたのはさらに半年の時がたった夏8月のこととなります。
 そのため、SPEEDの「デビュー」が全国放送のTVに初出演した1995年11月なのか、名前の決まった1996年1月なのか、自分たちのオリジナル楽曲をリリースした8月なのかは意見が分かれるところですね。

 ただ! 見のがしてならないのは、SPEEDの4人がすでに1992年から、それこそ全員小学生だったころから地元の沖縄でプロになるためのさまざまなレッスンを通じて積み重ねてきていたキャリアがあった、ということです。
 このへんの筋金の入り方は先輩の安室さんやMAXの4人も同じだと思うのですが、そりゃもう「素質がいい」ってだけじゃあ簡単に片づけられない、並々ならぬ努力もなけりゃあたどってくるのは無理っていう道をみなさんは幼いころからあゆんできていたんですねぇ。てぇしたもんだ!

 さてさて、SPEEDは4人組のツインヴォーカル体制のアイドルグループです。
 「アイドルグループ」、とここではあえて断言させていただきますが、当時4人はもっぱら「ヴォーカルダンスユニット」とくくられていました。まぁその時のはやりの呼び方ですよね。

 でも、その「ヴォーカルダンスユニット」という看板もダテではなく、メンバーは、

高音の伸びの素晴らしいツインヴォーカルの1人・島袋 寛子(1996年時点では小6の12歳)
パワフルな歌唱が武器のツインヴォーカルの1人・今井 絵理子(〃中1の12歳)
ルックス担当としか言いようのないミステリアス娘・上原 多香子(〃中2の13歳)
ダンスではSPEED随一のキレをほこるリーダー・新垣 仁絵(〃中3の15歳)

 というすばらしい面々となっています。
 形式上は「ヴォーカル2人にバックダンサー兼コーラス2人」という構成になっているのですが、実質上は「ヴォーカル2人にダンサー1人にルックス1人」という感じです。いや、ほんとよ!?

 アイドルグループであれロックバンドであれ、音楽グループというものはどうしてもセンターにいるヴォーカルが目立ってしまうものなのですが、高音と低音それぞれの特徴があってきれいなユニゾンを聴かせてくれる島袋・今井のツインヴォーカルに負けないくらいにキャラクターがきわだっている、ダンスの才にひいでた仁絵さんとルックスの才にひいでたおたかさんもあり、SPEEDは非常にまれな「4人が4人とも目立っているグループ」たりえていました。
 またいろんな話に聴くだに、ふだんから4人の仲がいいらしいっていうのが素晴らしいじゃないの……
 余談ですが、SPEEDの4人のうち、3人までが仲良くレーシック手術を受けて視力を回復させています。やってない新垣さんはもとから目がいいんでしょうかね。こりゃあSPEEDの前じゃ悪いことはできねぇな。

 さて、4人の個性もさることながら、日本芸能史上に残るアイドルグループ・SPEEDを語る上で忘れることができないのは、グループに見事にマッチした楽曲の魅力とそれにともなったCDの大ヒットです。

 SPEEDのほとんどの楽曲のプロデュースを担当したのは、作曲家で自身もピアノシンガーとして活動していた伊秩弘将(いぢち ひろまさ)です。
 伊秩さんは1987年、20代なかばだったころからおもに女性歌手の楽曲での作曲活動を始めるようになり、渡辺美里・森高千里・久宝留理子ら錚々たる面々とタッグを組んでいる実績がありました。

 そんな伊秩さんが初めてアーティストの本格的なプロデュースに取り組むことになったのがSPEEDだったわけなのですが、さすがは多くの女性歌手と仕事をしてきた伊秩さん、10代前半の少女たちの元気さ、もろさ、希望や挫折といったものを見事にファインダーにおさめた多くの名作をバンバン世に出していくこととなります。

 SPEEDは、半年以上前から全国的な人気番組に出演していたという下地づくり戦略も功を奏して1996年8月にリリースした1stシングルから順調にヒットをかさねていき、次々とビッグアーティストとしての記録をうちたてていくこととなります。


1996年11月 2ndシングル『STEADY』がSPEED初のミリオンセラーとなる

1997年3月 3rdシングル『Go!Go!Heaven』がSPEED初のオリコン1位となる
   10月 5thシングル『White Love』が200万枚の売り上げ枚数を記録(自身最大のヒット)

1998年7~10月 女性アイドルグループとしては史上初となる4大ドーム公演を含めた全国コンサートツアーを成功させる
 ※4大ドームとは東京・福岡・大阪・ナゴヤのこと(札幌ドームはまだなかった)

・5thから8th『ALL MY TRUE LOVE』まで4作連続でオリコン1位を獲得
・5thから9th『Precious Time』まで5作連続でミリオンセラーを記録(出荷枚数調べ)
・SPEEDとしてのミリオンセラー作品は7作(出荷枚数調べで・オリコン調べでは5作)
・2011年1月の時点でSPEEDのCD累計売り上げ枚数は1953万枚であり、これはアイドルグループ史上最高の記録である(SPEEDは現在も活躍しているので、もちろん累計記録は更新され続けている)


 まぁ~大変なものでございます。あの小室ファミリーさえもが思わずひるんでしまうような輝きが、確かにそこにはあった!
 とにかく重要なのは、ヴォーカルダンスグループとしての実力もさることながら、ステージをおりて他の芸能人とのトークをはじめたとたんに等身大のあどけない女の子4人組になってしまうそのギャップね!
 ここだ……この点にかんしてSPEEDは、厳密に言えば1990年代後半のSPEEDは、間違いなく「アイドルグループ」の系譜を継いだ存在であり、およそ10年間つづいた「アイドル冬の時代」に今度こそ本当のピリオドをうつ救世主となったのです。

 人気が絶頂となった1998年の7月に公開された、SPEEDが主演をつとめたSF映画『アンドロメディア』(原作・渡辺浩弐 監督・三池崇史)のヒットなんか、まさしくアイドルグループとしてのキャリアに欠かすことのできない経歴ですよねぇ。
 結局のところこの映画は、マカロンなみにスウィートなアイドル映画以外の何者でもないのですが、SPEEDの4人のリアルにういういしい演技や、渡辺浩弐の原作なだけはあるしっかりしたストーリーラインが、意外な見応えを生み出している名作となっています。え、DA PUMP? 知らない。
 『アンドロメディア』。今みたらいろんな意味でジーンとしちゃうんだろうなぁ。

 私は劇場公開からしばらくしてTVで放送されたこの作品を観たのですが、確か、それなりに楽しい青春ライフを送っているSPEED演じる4人の仲良しグループの中で、「社交的でない性格のため恋愛に関してもおくてで、ざっくばらんに男子とも交際できている他の3人にあこがれと不満をいだいている」という役におたかさんがキャスティングされていたことに強い疑念をいだいた記憶があります。なぜ!? なぜよりによっておたかさんなの!? 近隣の男子全員の目はみんなガラス玉か!!

 まぁそんなこんなで世に高らかな「アイドル復活宣言」をブチあげることとなったSPEEDだったのですが、その熱狂的ブームのしめくくりも、実にアイドルらしいいさぎよさのあるものとなりました。

 SPEEDはまだまだブームの続いていた1999年の10月に突然の「解散宣言」を発表し、翌2000年3月いっぱいの活動をもって「いったんの」解散をすることとなります。
 実は1996年の結成当初から4人それぞれのソロ活動を視野に入れた「期間限定」の意味合いがあったSPEEDだったのですが、あれよあれよとヒットを連発するようになったまま数年が経過してしまいました。
 しかし、1999年からはいよいよ4人のソロデビュー計画が実行に移されるようになり、3月にはおたかさん(LUNA SEAの河村隆一プロデュース)、6月には仁絵さん、8月に寛子さんと次々にソロ歌手としてのデビューシングルがリリースされていくこととなりました。絵理子さんのソロシングルのリリース(「Eriko with Crunch」名義)だけはなぜかSPEED解散後と遅れているのですが、絵理子さん自身はすでに1998年からソロヴォーカルの楽曲をSPEEDの活動の中で唄っています。

 こうして半年間ほどの「解散宣言」期間をもって円満に解散していったアイドルグループ、というのも実はおニャン子クラブやCoCo以来けっこう久しぶりのことでして、それまではCDセールスの伸び悩みやグループ内のいざこざなどのために、はっきりした解散宣言のないままでの「消滅」のようなかたちが多くなっていましたからね……ただ、SPEEDはキャンディーズやおニャン子クラブのような大規模な「解散コンサート」を上演してはおらず、3月の最終日にテレビ朝日の音楽番組『ミュージックステーション』に出演したスペシャルライヴをもって活動を終了させています。そういう点では、「解散コンサート」という形式よりも全国放映でのTV番組出演という選択肢をとったところに1990年代のアイドルグループらしさがありますねい。


 みなさんもご存じの通り、SPEEDは4人の歌手や女優としての個々の活動をへて2001年と2003年の2度の限定復活などをはさみ、2008年の8月から現在にいたるまで本格的な「第2期」SPEEDとしての活動を再開しています。
 今ももちろんSPEEDはSPEEDであるわけなのですが、今のSPEEDこそがまさに洗練された「ヴォーカルダンスユニット」。それにたいして、1990年代のSPEEDは間違いなく「アイドルグループ」としての奇跡の輝きをはなった特別な存在となっていました。

 当時の「実力派アーティスト重視」の風潮に十二分に応えられるクオリティを持っていながら、同時に成長のまっただ中にある少女たちという「アイドル」の要素も持ち合わせていたというSPEED、その奇跡。
 この奇跡こそが! 長い眠りの中から新世代の「アイドルグループ」を目覚めさせることに成功したわけだったのです。う~ん、イッツァミラコー。

 1990年代における「第1期SPEED」の活動期間は、まだ名前の決まっていなかったTV初出演から数えると1995年11月~2000年3月という「4年5ヶ月」でした。その間に発売されたシングルは11枚、オリジナルアルバムは3枚。
 いっぽう、2001年と2003年の一時復活を通じて2008年に完全なる「第2期SPEED」となった活動期間は、ぜんぶ足すと今年の6月いっぱいで「3年7ヶ月」となり、あらたに発売されたシングルは8枚、オリジナルアルバムも1枚を数えています。

 ほぼ同年代の人間として、私はSPEEDのみなさんにはぜひともこれからもグループとしての活動を続けていって、第1期の疾走感とはまたおもむきの異なった息の長いグループになってもらいたいとねがいます。これからはスロースピードでいったらいいんですよ。
 なんだかんだいってもまだみなさん若いですよ~。最年長の仁絵さんがやっと今年で30歳になるかならないかってくらいなんですから。私もいつかライヴ観にいこ~っと。


 むむぅ、また話半分になっちゃった! 次回は娘。! 次回はもうひとつの「アイドルグループ大復活」をつくることとなった娘。さんたちのお話で~っす。やっと! やっとここまできた……

 それじゃあ、また。
 おたかさん、万歳!!!
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そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 番外編 『総選挙……あったんだって?』

2011年06月09日 23時03分51秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 ハハイハ~イ、そうだいです。みなさん、今日はいい日になりましたか?
 わたくし、実は昨日の夜にとてもおいしいワインをいただいたのですが、生来のド下戸であるのにもかかわらずおいしかったのでグラス1杯いってしまったところ、おかげで眠りについた深夜に大変なことに……
 
 あの……アルコールに弱い方にうかがいたいのですが、飲み過ぎたあとに手首や足首が尋常じゃない「筋肉痛」におそわれる方って、いらっしゃいます?

 わたくし、ホントにそれがひどいんです。夕べはいったんちゃんと寝たのに、あまりの痛みに目が覚めてしまいました。翌朝にはおさまったんですけど。
 いや~、飲んだ直後は特にふらふらにもならず気持ち悪くもならなかったので、「オレも強くなったのかなぁ? ハハハのハ~。」なんて調子に乗っていたのですが……やられた。
 しかし、なんで筋肉痛になるのか? なんでお酒のんで乳酸がたまるの? 血管が運動しすぎるってこと? 誰か教えてけさい。


 さて、そんな30男の「人体のふしぎ体験」などどこ吹く風で、本日6月9日は日本の、いやさ世界のアイドルグループファンにとって運命の日となりました。TVがない私はふつうに仕事してたけど。
 ついに決まっちゃいましたねぇ!


1位に前田敦子が返り咲き! 大島優子は惜しくも2位……AKB総選挙の開票速報(産経スポーツ.com やオリコンスタイルなどの記事から)

 ファン投票で22枚目の最新曲を歌うメンバー21人を選抜する「AKB48 22ndシングル選抜総選挙『今年もガチです』」の開票イベントが9日、東京・千代田区の日本武道館で行われ、前回2位の前田敦子(19歳)が13万9892万票で2位に1万票差をつけて2年ぶりに1位に返り咲いた。前回1位の大島優子(22歳)は12万2843票で連覇を逃した。3位は7万4252票で柏木由紀(19歳)が入った。
 板野友美(20歳)が先月25日の投票結果速報同様8位、指原莉乃(19歳)が初のメディア選抜入りを果たすという意外なドラマも展開された。同イベントは、日本中の映画館のみならず、韓国・台湾・香港でも生中継された。

 前田は「素直にすごく嬉しいです。どれだけの方に支えられていたのか、ありがとうと言ってはきりがないほど、感謝の気持ちでいっぱいです。」と感激のコメント。逆転を許した大島はゆっくりとかみしめるように「第三者はいろいろなことを言います。」と、CDを複数枚購入するファンをメディアが連日報道していることに触れながらも「票数は、皆さんからもらう愛です。」と宣言。途中言葉を詰まらせる場面もあったが、コメント終了後には大きな拍手で包まれた。前回8位から大きくランクアップした柏木は「3位という本当に素敵な順位をいただきました。これからも大好きなAKB、みんな、自分のために頑張っていきます。」と驚きを隠せなかった。これまでは前田・大島・篠田麻里子(25歳)がトップ3を守っていたが、その牙城をとうとう崩す格好となった。その一方で、グループ初のソロデビューを果たしながら前回から順位の下がってしまった板野は悔し泣き。そしてオフィシャルブログが人気を博している指原莉乃が9位と念願のメディア選抜入りで喜びの涙を見せるなど、悲喜こもごものドラマが展開された。

 わずかな順位の変動はあったものの、メディア選抜・選抜メンバーの顔ぶれは、速報結果で圏内にいたメンバーで占められており、上位陣の圧倒的な人気を感じさせた。今年は11位の宮澤佐江(21歳)の時点で前回の1位の得票数を超えており(3万3500票)、まだまだAKB48の勢いは増していきそうだ。その中でも唯一、速報22位以下でありながら選抜メンバー入りを果たしたのは、チームKキャプテンに復帰を果たした秋元才加(23歳)。速報の23位から17位という怒濤の追い込みを見せ、涙を流しながらも最後まで笑顔を忘れないその姿は、ファンに強い印象を残した。

 今回で3回目となる選抜総選挙は、AKB48と名古屋を中心に活動するSKE48、大阪・難波を拠点に活動するNMB48のメンバーら150人が立候補して5月24日より投票スタート。3月に発生した東日本大震災を受けて一時は開催を見合わせるという話も出たというが、自粛するのではなく、AKB48の力で「日本を元気にしたい。」という思いから改めて開催を決定した。ファンクラブや携帯サイト、発売初週に133.4万枚を売り上げた『Everyday、カチューシャ』に付いていた投票券などから、40位までの合計投票数は108万1332票にのぼった。
 開票結果発表では、笑顔でファンの声援に応えるメンバーがいる一方で、横山由依(19歳)のように喜びの余り泣いてしまって満足にコメントすることもできないメンバーや、自分の順位に悔しさをあらわにするメンバーも散見された。だがそれもすべては、彼女たちが本気(ガチ)だからこそ。会場に集まったファンもそのことを理解しており、どのメンバーにも、上位に劣らぬ温かな拍手を送っていた。

 今回の投票結果の上位12名はテレビ番組などに出演できるメディア選抜、13位~21位はシングル選抜、22位から40位がカップリング曲を歌うアンダーガールズとなっている。今年の40位は藤江れいなで投票数は4698。速報結果では8名が40位以内にランクインしていたSKE48からは、グループ初のトップ10入りを果たした10位の松井玲奈(19歳)、14位の松井珠理奈(14歳)を含む6名が、デビューシングル『絶滅黒髪少女』の発売が決定したばかりのNMB48からは山本彩(18歳)が40位以内にランクイン。研修生からは大場美奈(19歳)、市川美織(17歳)の2人が見事アンダーガールズ入りの健闘を見せた。


 ですって。

 この『長岡京エイリアン』でも何回か言っていることですし、そもそも私がこの「ざっくりすぎるアイドルグループ史」の旅路を長々と始めることになってしまったおおもとの原因にもなることなんですけど、

 私は今回の総選挙に立候補したようなAKB48関連の面々にとんっと詳しくない。

 詳しくないからこそ、なんでまたそこまで魅力があるのかしら? というところを自分なりに探ってみるために先月からずっ~とそこにいたるまでの歴史を調べていたわけなのですが。

 いやぁ、この「選抜総選挙」というイベントは、おそるべきエンターテインメントですな!
 もちろん、真剣に立候補している方々や熱心に投票している多くのファンにとってはまさしく「ガチ」の戦いなのでしょうが、そのつくりものじゃない「ガチ」感が、CDから聞こえる楽曲や会場で観るライヴと同じかそれ以上の「新たなアイドル活動」となっているというか。
 よく考えられてるもんですよ……残酷な言い方になるんですけど、うれしいにしろ悔しいにしろ、少女の流す本気の涙っていうものはとてつもない魅力というか、魔力を持っているものなんですな。


 さ~てそれでは、今日はさっそくSPEEDのお話から。


 ……といきたかったのですが、前説が長くなりすぎた!

 ここからSPEEDにいってしまったらボリュームも内容のバランスも大変なことに。ここから始めてちゃちゃっと手早くやれるほどSPEEDもヤワではない。

 っつうことなので、「アイドルグループ史」の第17回は次回にあらためてということで。
 なので、今回はまさに、いつかたどりつくであろう「AKB48の章」へ向けての選抜総選挙にかんするメモノートにしたいと思います。ねぇみんな、私、いったいいつAKBの話を始められると思う? 22ndシングルのリリースにまにあうかな! 秋になっちゃったりしないかな!?

 いろいろ比較してみましょう。


第1回「AKB48 13thシングル選抜総選挙『神様に誓ってガチです』」
・開票日 2009年7月8日
・当選者順位 1~30位
・当選者に投票された総票数 5万4026票
・立候補者 AKB48、SKE48、研修生の98名
・1位(前田さん)の獲得票数 4630票
・最終当選者(30位)の獲得票数 1050票
・当選者の権利
 1位~12位 「メディアで活動する選抜メンバー(メディア選抜)」
 13位~21位 「選抜メンバー」
 22位~30位 カップリング曲を歌う「アンダーガールズ」
・有権者
 12thシングル『涙サプライズ!』購入者、ファンクラブ「柱の会」会員、
 AKB48モバイル有料会員、DMM「AKB48 LIVE ON DEMAND」月額会員
・12th『涙サプライズ!』、13th『言い訳Maybe』ともに自己最高記録のオリコン2位を更新

第2回「AKB48 17thシングル選抜総選挙『母さんに誓って、ガチです』」
・開票日 2010年6月9日
・当選者順位 1~40位
・当選者に投票された総票数 35万4074票
・立候補者 AKB48、SKE48、研修生の104名
・1位(大島さん)の獲得票数 3万1448票
・最終当選者(40位)の獲得票数 1603票
 ※30位当選者は2613票
・当選者の権利
 1位~12位 「メディアで活動する選抜メンバー(メディア選抜)」
 13位~21位 「選抜メンバー」
 22位~40位 カップリング曲を歌う「アンダーガールズ」
・有権者
 16thシングル『ポニーテールとシュシュ』購入者、ファンクラブ「柱の会」会員、
 AKB48モバイル有料会員、SKE48モバイル有料会員、DMM「AKB48 LIVE ON DEMAND」月額会員
・16th『ポニーテールとシュシュ』の記録
 2010年度オリコン年間シングルチャート5位
 オリコン週間シングルチャートは初動売上約51.3万枚で、女性アイドルグループによる初動50万枚超えは2000年12月のモーニング娘。の『恋愛レボリューション21』以来9年5ヶ月ぶりであり、ソロを含めた女性アーティストでは2001年2月の宇多田ヒカル『Can You Keep A Secret?』以来9年3ヶ月ぶり
 AKB48としては14th『RIVER』以来、連続3作目のオリコン初登場1位を獲得
 『第61回NHK紅白歌合戦』に1グループとしては史上最多の130人で出演し歌唱
・17th『ヘビーローテーション』の記録
 2010年度オリコン年間シングルチャート4位
 オリコン週間シングルチャートは初動売上約52.7万枚を記録し、前作『ポニーテールとシュシュ』の記録を超えた
 AKB48としては連続4作目の初登場1位を獲得。女性アイドルグループによる2作連続での初動売上50万枚超えは史上初。ソロを含めた女性アーティストでは2000年の宇多田ヒカルと2001年の浜崎あゆみ以来、3組目の記録
 2010年8月25日のレコチョク週間ランキングで、着うた・着うたフル・ビデオクリップ・着信ムービー・着信メロディの各ウィークリーランキングで5冠を獲得

第3回「AKB48 22ndシングル選抜総選挙『今年もガチです』」
・開票日 2011年6月9日
・当選者順位 1~40位
・当選者に投票された総票数 108万1332票
・立候補者 AKB48、SKE48、NMB48、研修生の150名
・1位(前田さん)の獲得票数 13万9892票
・最終当選者(40位)の獲得票数 4698票
 ※30位当選者は6660票
・当選者の権利
 1位~12位 「メディアで活動する選抜メンバー(メディア選抜)」
 13位~21位 「選抜メンバー」
 22位~40位 カップリング曲を歌う「アンダーガールズ」
・有権者
 21stシングル『Everydayカチューシャ』購入者、ファンクラブ「柱の会」会員、
 AKB48モバイル有料会員、SKE48モバイル有料会員、
NMB48モバイル有料会員、DMM「AKB48 LIVE ON DEMAND」月額見放題会員
・21st『Everydayカチューシャ』の記録
 発売2日目の段階で推定売上枚数が108.5万枚となりミリオンセラーを達成した。発売初週でのミリオンセラー達成は宇多田ヒカル『Addicted To You』(1999年11月)以来11年6ヶ月ぶり。女性アーティストによるシングルの最高初動売上記録の更新も達成
 AKB48としては3作目のミリオンセラー達成(18th『Beginner』と前作の20th『桜の木になろう』に続いて)
 オリコン週間シングルチャートは初動売上約133.4万枚となり、1996年2月のMr.Children『名もなき詩』によるシングル初動売上の最高記録(120.8万枚)を15年4か月ぶりに更新
 AKB48としては連続8作目の初登場1位を獲得。これは女性アイドルグループとしてはピンク・レディー(1978年10月の『透明人間』)以来32年8か月ぶりの記録
 

……てけすげぇ~やねぇ。
コメント
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