長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

ヒッチコック流ちゃちゃっと軽食サスペンス? ~映画『サボタージュ』~

2024年05月14日 21時53分53秒 | ミステリーまわり
 どもどもこんばんは! そうだいでございます~。
 ゴールデンウィークも終わってしばらく経ちましたが、みなさま、五月病にもならず元気にお過ごしですか? こちら山形はなんだか、梅雨を通り越したような暑い日もあったりして、いい意味でも悪い意味でも5月っぽくないので、ぼちぼちつつがなく生きております。
 最近はもう、NHK 大河ドラマの『光る君へ』くらいしかテレビの楽しみがなくて……あっ、先日ついに『鬼滅の刃 柱稽古編』が始まりましたね! でも、新聞のラテ欄の表記が小さすぎて完っ全に見逃してしまった……ま、劇場で第1話は観たから、いっか。
 『柱稽古編』はもう、ご周知のとおりのインターリュード部分ですのでこのシーズン自体の面白さはそれほど楽しみにもしていないのですが、いよいよ最後までちゃんとアニメ化されるんだろうなぁ、という感じになってきましたね。関俊彦さんや石田彰さんの演技が今から楽しみで仕方ありません。だいたい、メインのキャラクターは全員声つきになりましたかね? 人間時代のあかざのお師匠さんくらいかな? 未キャスティングの気になるキャラは。誰になるのかな~。藤原さん……
 いろいろ、無限城での決戦はそのままテレビ放送することができるとは思えない凄惨な描写が連続するので、たぶん TVシリーズとしてアニメ化されるのは『柱稽古編』が最期になるんでしょうかね。出演陣の皆さん、不祥事も起こさずに、お元気でオリジナルキャストのまんまでゴールインしてくださいね~! 私は特に千葉繁サマ!! 応援しております。

 さて、今回も今回とて、ぶつっぶつっと続けている、「ヒッチコック監督作品を可能な限り総ざらえ企画」でございます。

 今回お題にする作品はですねぇ、なんかなつかしいというか、ここまでズンズン、サイレントからハリウッド的エンタメ映画へとめきめき進化する流れが加速していた当時のヒッチコック監督のキャリアの中で、「あれっ?」という感じで先祖返りしちゃったかのような古さのある作品であります。
 かと言って、面白さも昔レベルに戻っちゃうってことには決してなんないのが、さすがのヒッチコック監督なんですよねぇ。なので、ヒッチコック監督の「黒歴史」には全然ならない安心のクオリティが保障されております。
 でも、なんで思い出したようにこんな、当時からしてもクラシックな手法の多い作品を作ったんですかね。なにか、サイレント時代にやり残していた遺恨でもあったのかしら?


映画『サボタージュ』(1936年12月 76分 イギリス)
 『サボタージュ(Sabotage)』はイギリスのサスペンス映画。ジョゼフ=コンラッド(1857~1924年)の小説『密偵』(1907年発表)を映画化した作品で、日本劇場未公開。1996年に『シークレット・エージェント』(主演・ボブ=ホスキンス)としてリメイクされた。

 ヒッチコック監督は、当初ヴァーロック役にピーター=ローレを想定していたが、前作の『間諜最後の日』(1936年)でローレに対して不満が残ったことから、オスカー=ホモルカを起用することにしたという。 テッド=スペンサー役は『三十九夜』(1935年)で主演したロバート=ドーナットに決まっていたものの、持病の喘息が悪化したために撮影前に降板し、代わりに当時スターだったジョン=ローダーが起用されたが、ヒッチコック監督はローダーの演技に対して、幅もなければ厚みもないとして大いに失望したという。
 劇中で上映されているアニメーション映画は、ウォルト=ディズニーの短編アニメ映画『誰がコック・ロビンを殺したの?』(1935年)である。

 イギリスの雑誌『タイムアウト』が150人以上の俳優、監督、脚本家、プロデューサー、評論家や映画界関係者に対して行ったアンケート企画「イギリス映画ベスト100」で、第44位に選ばれている。 ヒッチコックの娘で女優のパトリシア=ヒッチコック(1928~2021年)は自著で、父親の作品の中で『めまい』(1958年)や『サイコ』(1960年)と並んで最も暗い映画のひとつであると評している。
 ヒッチコック監督は本編開始約9分後、停電が修復した時に電灯を見上げる通行人として出演している。


あらすじ
 ロンドンで映画館を営むヴァーロックは、破壊活動をする裏の顔を持っていた。隣の八百屋の店員になりすました刑事スペンサーが彼を監視する中で次の指令を受けたヴァーロックは、警察の目をごまかすために、妻の幼い弟スティーヴィーに爆弾を持って行かせる。

おもなキャスティング
ヴァーロック夫人   …… シルヴィア=シドニー(26歳)
テッド=スペンサー  …… ジョン=ローダー(38歳)
カール=ヴァーロック …… オスカー=ホモルカ(38歳)
スティーヴィー    …… デズモンド=テスター(17歳)
ルネ         …… ジョイス=バーバー(35歳)
タルボット警視    …… マシュー=ボルトン(43歳)

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(37歳)
脚本 …… チャールズ=ベネット(37歳)、イアン=ヘイ(?歳)、ヘレン=シンプソン(?歳)、アルマ=レヴィル(37歳)
製作 …… マイケル=バルコン(40歳)
音楽 …… ルイス=レヴィ(42歳)
撮影 …… バーナード=ノウルズ(36歳)
編集 …… チャールズ=フレンド(27歳)
製作・配給 ゴーモン・ブリティッシュ映画社


 第二次世界大戦直前の1936年の映画と言うことで、現代のように2時間を優に超えるボリュームのある映画などほとんど無い時代ではあったのですが、それでも今作の「76分」という本編時間はいかにも軽量級というか、ここから面白くなるのかな~と思ったらあっという間に終わっちゃった、という印象の短編映画のような作品です。
 この作品付近のヒッチコック作品はだいたい80分台が通常のペースといった感じで、本作までに私が鑑賞することのできた諸作の中で最も短かったのは『第十七番』(第15作 1932年)の「65分」で、最も長かったのは『殺人!』(第12作 1930年)の「104分」だったかと思います。『殺人!』も確かに長かったけど、それでも2時間ないんだもんねぇ。いい時代だわ。

 作品内のシーンごとについての詳しい感想は、例によって末尾につけた視聴メモを読んでいただければありがたいのですが、全体的な印象を述べていきますと、本作はヒッチコック監督が培ってきた「セリフに頼らない」映像演出テクニックを総まくりした卒論的な作品、といえる感じがします。本格的にサイレント映画が過去のものとなりつつあった時代にヒッチコック監督が形にした「決別の一作」というべきなのでしょうか。その後周知のとおり、ヒッチコック監督はサイレントどころか、白黒映画ともイギリス映画界ともお別れをして新時代へ突入していくわけなのですが。

 でも、確かに本作はヒロインに降りかかる不幸も相当なものだし、なんだか釈然としない棚ぼた的な結末もヒロインの精神的な救済にはなりえていないような暗~い色調の作品なのですが、それはあくまでも物語の中だけのお話でありまして、映像演出だけを観てみますと、懐古的な後ろ向き感はまるでなく、相変わらずの「そうきましたか~!」なアイデアのつるべ打ちで退屈しない面白さを感じさせる作品なんですよね。さすがに21世紀の現代にも通用するとまでは言えないかも知れませんが、セリフ無しで登場人物の感情、特に疑惑や焦燥を的確に暗示させるカット割りやズーム技術の使用は、基本的な映像演出の教科書ともいえる密度があると思います。勉強になるわ~。

 不可抗力で犯罪に手を染めてしまうヒロインとか、そのヒロインが意外な運命のいたずらでおとがめなしになってしまうラストは、ヒッチコック監督自身の過去作『恐喝(ゆすり)』(第10作 1929年)とまるで同じ構図で、ひょっとしたらセルフリメイクなのではないかとさえ勘ぐってしまうのですが、その犯行の瞬間の演出にしても旧作とは比較にならない程スマートでわかりやすく、最終的にヒロインの犯行の証拠が爆弾によって消滅してしまうピタゴラスイッチ的なプロセスも、「鳥かご」という小道具を軸にした伏線を事前に張り巡らせていて格段の進歩を感じさせるものがあります。といっても、ヒッチコック監督の小道具やマクガフィンの活用技術はさらに進歩していくんですけどね!
 それにしても、鳥かごを返してもらいに行くだけなのに、万が一の時のために自決用の爆薬を隠し持っていくペットショップの店主も用心深すぎと言いますか、覚悟の決まり方が男前すぎますよね……イギリスというよりは大日本帝国の戦争末期の発想よ、それ。

 こんな感じで、本作は決してヒッチコック監督のキャリアの中で目立つとは言えない不思議な位置にある作品となるのですが、それは割とあっさりしたボリュームと結末という作りもさることながら、何と言っても「主人公」「ヒロイン」「悪役(?)」の3役が3役ともパッとしないという、作品の看板であるべき俳優キャスティングの面にも大きな原因があるような気がします。はっきり言っちゃってすんません!
 皆さん、悪くはないんですよ!? 悪くはないんですけどね……ここまでの諸作で自己中すぎる主人公(『三十九夜』)とか自我のはっきりしたヒロイン(『三十九夜』と『間諜最後の日』のマデリーン=キャロル)とか、なんてったってあのピーター=ローレとか見てきちゃったじゃん!? そんなおもしろ過ぎる面々と比べちゃうと、地味なんですよね~、暗いんですよね~、まじめなんですよね~!

 主人公のテッド刑事を演じるジョン=ローダーは、決定的に演技がヘタであるということもないのですが、いかんせんヴァーロック家とのつながりが希薄で言動もいかにも刑事といった感じで生真面目。それなのに、ヴァーロック夫人を助けるためにいきなり「ヨーロッパにトんじゃおう!」と唐突に言い出したりして、妙に感情移入しにくいキャラになってしまっております。細かいところだけど、夫人の故郷であるアメリカでなくヨーロッパに逃亡しようと提案するあたりに、大事なところで夫人に寄り添えていない決定的なダメさがあるような気がする。そういうとこ、女性はちゃんと見てるんじゃないかな~!?
 一方、本作の実質的な主人公であるヒロインのヴァーロック夫人を演じるシルヴィア=シドニーも、確かに不安や疑念を抱く表情は迫真そのものなのですが、アメリカ人という設定がまるで活きていないとしか言えない、一挙手一投足がネガティヴで暗い悲劇のヒロインを見事に演じきっています……誉め言葉にならないよ! まぁ、日本の関西人だって全員がお笑い好きというわけでもないだろうし、ね。
 にしても、そんなにブロンドじゃないとテンション下がるんですか、監督!?と言いたくなるほどに、夫人の出てくる画面には華が出てきませんね。シルヴィアさんにしても、いい迷惑ですよ……だいたい、ファーストネームくらい付けてあげてくださいよう!!
 そして、序盤の裏表のある謎の紳士から一転、自分の義理の弟を死なせてしまったのはアイツのせいコイツのせいと、自分の責任を棚に上げまくるクズに堕してしまうヴァーロックを演じるホモルカさんも、基本的に表情がどのシーンでも一緒なので破壊工作に失敗しようが身内が死のうが大きな変化がなく、何だか面白みのない人物になってしまっているような気がします。所属している組織の幹部にあおられて人生が狂っていく小市民というあたりの悲哀が感じられないんですよね。う~ん。
 上のWikipedia の記述によりますと、なんだかこのヴァーロックの役は企画当初ピーター=ローレが演じる予定だったのをヒッチコック監督の側から不満があって取り下げたとされているのですが、これ、ローレさんからしても願い下げという役柄なんじゃないでしょうか。ヒッチコック監督とローレさんが組む最初の作品がこれだったらまだわかるのですが、『暗殺者の家』と『間諜最後の日』の次にこの役となると、どう見てもスケールダウンとしか言いようがないですよね。俳優としてローレさんがヴァーロックを演じるメリットは無いような気がします。観客としても観たくないでしょ、こんなせせっこましくて辛気くさい役柄のローレさん!

 総じて本作は、定型的な個性のキャラが雑然と並ぶ地味なキャラ設定となっているのですが、ここまで華が無いと、ヒッチコック監督は逆にそれを狙っていたのではないかと勘繰ってしまいます。つまりこの『サボタージュ』は、リアルにどこにでもいそうな市民たちの間に起きた悲劇的な家庭崩壊劇を描きたかったのではなかろうかと。昨今の映画界でも東西を問わず、大監督と言われる人って大作ばっかじゃなくて、たま~に明らかに予算のかかっていない規模とキャスティングで、ちゃちゃっと地味めな人間ドラマを作ることってあるじゃないですか。ヒッチコック監督にとっての『サボタージュ』も、多分にそんな要素があったんじゃないのでしょうか。やっつけ仕事じゃないことは確かですよ。

 なので、本作はヒッチコック監督というお人の華やかなキャリアをたどる上では、ちょっと「必見!」とは言い難い異色作ではあるのですが、あくまでもパワーダウンではなく、ギアチェンジするためにちょっと息を整えた、みたいな味わい深いポジションの作品となっております。それでもこれだけ面白くなっちゃうので、その実力たるやものすごいものがあるわけでして、長編映画らしからぬあっさり味は、のちのちの『ヒッチコック劇場』に象徴される、映画すら超えて30~60分のテレビドラマが娯楽の中心となっていく来たるべき未来を予見するものであったのではないか……とまで言うのは、言い過ぎっすかね。
 ともかく、観て損する作品ではないと思います。76分という短さなのでお手軽だし!

 最後にちょっとだけ。本作の中で私がいちばんドキッとしたのは、スティーヴィーの爆死後に、精神的に相当まいったヴァーロック夫人が見るスティーヴィーの幻覚の描写がけっこう怖いところだったんですよね。なんの飾りっ気もなく、夫人が見た群衆の中に一瞬だけ笑顔の弟が見えたり、同じような背格好の少年が弟に見えるというだけの演出なのですが、ヒッチコック監督流のテンポの速さでほんとにパッと見えるそっけなさが逆に怖くて……これも、のちの『サイコ』や『鳥』につながる、感情をいっさい差しはさまない冷たさをたたえた恐怖演出だと思います。中途半端な怪談映画よりもよっぽど怖いよ~!


≪毎度おなじみ視聴メモで~っす≫
・本作はまず、タイトルの「 sabotage」の意味を説く辞典の項目から映像が始まる。「サボタージュ:大衆や企業に不安や警告を与える意志を持って建物や機械を破壊する行為。」という物騒な文章が映るのだが、現代日本で使われる「サボる」とはけっこうニュアンスが異なるのが興味深い。今の日本だともっぱら無断で休む行為を指すだけで意志なんかあっても無くてもどうでもよくて、サボタージュよりはボイコットに近いですよね。
・そういったお堅い辞書のページをバックにオープニングタイトルとクレジットが流れるという出だしが、斬新とは言わないまでも、後年の『めまい』や『サイコ』などでさまざまなインパクト大のオープニングを世に出すヒッチコック監督の片鱗が垣間見えるようで面白い。
・オープニングクレジットで「アニメ:ウォルト=ディズニー」という名前が出てくるのがものすごいのだが、使われ方は実に効果的ではあるものの、過去作品の流用である。
・開始から約3分、ヒロインのヴァーロック夫人が出てくるまでほぼセリフが無い時間が続くのが、なんだかサイレント映画時代の諸作を思い出させるようでなつかしい。ヒッチコック監督お手のものの導入ですな。ただこれ、メインのヴァーロックを演じる俳優さんが英語圏出身の人じゃないからという、現場から生まれた苦肉の策だったのかも?
・工場で破壊された機械から出てくる砂と帰宅したヴァーロックが手を洗った時に洗面台に残る砂の対比とか、工場の刑事が「犯人はどこだ?」と言った次の瞬間に工場から出ていくヴァーロックの顔が映るカット割りなど、一言も言っていないのにヴァーロックが破壊行為の犯人だと観客にわかりやすく提示される演出がともかくスマート。ノーストレス!
・別にオールナイト上映をしているという深夜でもない時間帯に、映画の経営を若妻におっかぶせてグースカ寝たり外出したりしている支配人というのは、果たしていかがなものなんであろうか。しかも、停電で上映が止まったので金返せと詰め寄るお客さんのクレーム対応も人任せにするとは……せめて自室にこもって働いてるフリしろ!
・「ロンドン全体の停電は映画館の不手際で起こったわけではない不可抗力なのだからチケット代は払わない」という考えは、それで観客が納得するのかどうかは別としていちおう理屈が通ってはいるのだが、それを映画館の人間でなくとなりの八百屋の雇われ店員が語っているという状況が全く意味不明である。いや、なんでお前が……?
・余談だが私も、映画館で上映中に警報ベルが誤作動で鳴ってしまい映画が中断され、30分ほどロビーで待たされてから上映が再開されたという出来事を体験したのだが、その時は観客全員に1回分の無料鑑賞券を配布するという対応だったと記憶している。返金とはいかないまでも、そんな感じなんじゃないかなぁ。ともかく「さぁ、とっととけぇれ!」の一点張りの八百屋のテッドはいきすぎであり、そこらへんのカッチカチの大衆あしらいからしても、うすうすテッドの正体が知れようというものである。親方ユニオンジャックぅ~!
・物語の筋に直接からんでこないのが非常にもったいないのだが、ヴァーロック家と映画館が壁一枚でつながっていて、家族や家に用事のある人間が上映中の劇場の奥通路を通り抜けて出入りするという位置関係がなんだかおもしろい。映画が身近にある生活はうらやましいのだが、小窓を開けたら映画の音響が丸聞こえって、遮光は大丈夫なのか!?
・工場の破壊行為というとんでもない犯罪をしでかしているヴァーロックが、その一方で経営者としては異常に腰が低く「私は大衆に怒りをぶつけられるのが嫌なんだよ。」とうそぶいている二面性がいい感じである。もうちょっと軽い印象の人がヴァーロックを演じていたらもっと良かったんだろうけどなぁ~、チャールズ=チャップリンとか植木等みたいな。
・ヴァーロックが余裕しゃくしゃくで「ずっと家にいたよ~。」と語るのはいいのだが、外から戻るところをテッドにがっつり見られているのがあまりにもダメダメすぎ……おまけにゃテッドの同僚のホリン刑事にも余裕で尾行されてるしさぁ! この映画、たぶん早めに終わるぞ。
・イギリスの生活風俗の様子がわかって非常に興味深いのだが、向こうの八百屋さんは仕事着が白衣にネクタイという、お医者さんか薬剤師みたいな恰好なんですね。生鮮食品だもんね、なるほど。
・ヴァーロックが水族館で接触する謎の紳士の言葉の裏に潜む「無差別殺人テロもできない奴に金は払わん。」という圧力が、物腰が柔らかなだけに逆に恐ろしい。娯楽映画の悪漢という定型にとらわれないこの役の正体不明感が、作中には全く登場しない秘密組織の恐怖を体現してくれているのである。いいね~!
・全体的に地味な印象の本作なのだが、それだけに、爆弾テロの指令を受けたヴァーロックが水族館の水槽に崩壊するロンドンの幻を見て戦慄するという効果演出が妙に浮いていて記憶に残る。ヴァーロック、メンタルもろいな!
・何かと一本気で面白みに欠ける人物のように見えるテッドなのだが、ヴァーロック夫人が夫を愛していることを知って心を痛めたり、夫人姉弟と昼食を摂った事実を上司に報告できなかったりする面があったりと、夫人に対する感情が公私のはざまで揺れているさまが丁寧に描写されていて、それなりにキャラクターの温かみはある。『下宿人』(1926年)の操り人形のような登場人物群から10年、だいぶ進化したんだなぁ。
・ヴァーロックが訪問するイズリントンの鳥専門店ペットショップのシーンで、モンティ・パイソンの『死んだオウム』コントをすぐさま連想することができたら、君も立派な大英帝国臣民だ!?
・尾行されてるのも気づかないくせに制服警官を見たとたんにビビりまくるヴァーロックと、「来たら爆弾で歓迎するだけです。」と泰然自若な表情のペットショップ店主との態度の差が面白い。覚悟の度合いが違いますね。にしてもヴァーロック……ここまで小心者で犯罪者になる素養の無い人物も珍しいのではないだろうか。いや、これピーター=ローレがやらなくて正解でしたね。
・ヴァーロックが土曜日の爆弾テロ決行のために自宅に招いた怪しげな連中の中に一人、どっか別の映画で見た記憶のある顔の人がいて、誰かな誰かなと思ってたら、思い出した、キューブリック監督の『博士の異常な愛情』(1964年)でソ連大使の役をやってたピーター=ブルって人だ! え、本作の時は24歳!? 20代にはとても見えない貫禄!
・テッドが刑事であると判明したとたんに空気が重たくなるヴァーロック家なのだが、本作のヒロインであるヴァーロック夫人を演じるシルヴィア=シドニーは金髪でもないしさほど若くもないしとびっきりの美人でもないしで印象が薄いのだが、親密だったはずの夫が何か重大な隠しごとをしていると気づいた時に浮かべる不安と疑念に満ちた表情が非常にうまい。この演技力を買っての器用だったんだろうなぁ。そうですねぇ、日本でいうと麻生祐未さん的な、ニッチな感情の表現に長けた種類の方でしょうか。いいよな~♡
・正面にテッド、裏口にホリン刑事が張っているという状況に進退窮まったヴァーロックは、爆弾をスティーヴィーに託して運ばせるという悪魔の選択をしてしまう……もう嫌な予感しかしない展開なのだが、のんびりしたスティーヴィーの態度にいきなりキレるヴァーロックのテンパり具合が見ていて哀しくなってくる。もうダメだこいつ!
・本編とは関係ないが、ヴァーロックがカモフラージュのために爆弾入りの包みと一緒に持たせたフィルム缶の映画のタイトルが『絞殺魔』なのが、ヒッチコック監督晩年の大傑作『フレンジー』(1972年)を予兆させているようで感慨深いものがある。あれ、ヒッチコック監督のなんと33年ぶりのロンドン復帰作だもんねぇ。『フレンジー』の感想をこのブログでつづるのは、さて一体いつのことになるのかナ~!?
・スリラー映画演出の定石として、「時間制限のある用事がある人物に襲いくるクソどうでもいい足止め障害の数々」というものがあるのだが、本作でもご多分に漏れず、時限爆弾を抱えたスティーヴィーが街中のチューブ歯磨きと整髪料の行商のモニターにされてしまう。あるあるだけど、ハラハラしますね~、意地悪な演出ですねぇ~!!
・他にも時間的なサスペンス感覚をあおる演出として、テンポアップしたBGM はもちろんのこと、せわしなく動く歯車のシルエットや異常な速さで進む時計の針といった古典的なイメージ映像がつるべ打ちにインサートされる。21世紀の現代から見れば使い古されたベタな演出なんだけど、ここから爆発までの数分間は、何度観てもドキドキしてしまう。ルイス=レヴィの音楽がめちゃくちゃいい仕事してるよ~!
・本作のひとつの山場は間違いなく、中盤の時限爆弾が爆発する瞬間なのだが、ここまでで本編が55分も経過していて、あと残り20分もない時点であるという事実に驚いてしまう。どうやってシメるの?これ……
・スティーヴィーの爆死という結果を招き、最悪の関係となるヴァーロック夫妻。原因は100% 自分なのに、「おれが死ぬよりはマシだ」とか「いっぱい泣いて忘れろ」とか「すべては水族館のあいつかテッドが悪い」とか、考えうる限りの言ってはいけない地雷を踏みまくるヴァーロックなのであつた……そりゃ、その日のうちにぶっ殺されるわ。
・あまりにも理不尽な夫の態度に心の中がぐちゃぐちゃになるヴァーロック夫人であったが、たまたまその時に映画館でかかっていたディズニーアニメの『だぁ~れぇが殺したくっくろぉびん』を観てしまったがために、思いが固まってしまう……なるほど、それは他のディズニーアニメではいけませんわな。ふつうに殺人を描く犯罪映画とかでなく、子ども客が笑って観ているアニメ映画というチョイスがむしろ残酷で冴えまくっている。
・スティーヴィーのいない食卓で会話の途切れたヴァーロック夫妻の息詰まる攻防、セリフいっさい無しで約2分! 非常に挑戦的な演出……のようだが、セリフに頼らないサイレント出身のヒッチコック監督にとってはむしろ実家のような得意分野だろうし、同じような状況にヒロインがおちいる展開は『ゆすり』(1929年)ですでに描かれている。でも、そんな咄嗟の一撃で大の男が即死するかな……凶器もあんなんだし。
・ヴァーロックの死後の流れは、はっきり言って『ゆすり』とほぼいっしょなので新味のあるものは特にない。彼氏が刑事っていうのまでおんなじなんだもんなぁ。
・ヴァーロックの死の真相をうやむやにするという、ヒロインにとっての「救世主」の役割を担うのが例のペットショップの店主なのだが、店主がヴァーロック家に鳥かごを取り返しに行くのを見て張り込んでいた刑事がすわ逮捕!と色めき立つのは、少々大げさすぎる気がする。その時点で店主がバスの爆破テロに関わったという証拠はなんにもないわけですよね。「とりあえず映画も大詰めなので盛り上げてみました。」という意図しか見えないのは私だけだろうか……これがヒッチコック流!
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タバコ、トリック、80`s!オール青春大進撃!! ~ドラマシリーズ『十角館の殺人』~

2024年04月11日 19時27分59秒 | ミステリーまわり
 どうにもこうにもこんばんは! そうだいでございます~。
 春もたけなわ、花粉症もたけなわでございます……このへんの山形近辺でも、やっと桜が咲き始めましたよ~。でも、朝夕はまだまだ寒いんだよなぁ。ほんと、何着たらいいのかわかんない季節ですねぇ。空気のにおいは確実に春なんですけれどもね。

 さて今回のお題は、いよいよと言いますかやっとと言いますか、日本、いやさ世界ミステリー小説史上に燦然と輝く超名作が完全初映像化されたというお話でございます。これはほんとにすっげぇぞ!!
 いや~、この小説が世に出て、なんとその37年後に初映像化ですよ。年号2回変わっちゃってますからね!? 昭和、平成ではついに不可能だった難業が、令和の御世に満を持して現実のものとなった! 胸が熱くなりますねぇ、生きててよかった!!


ドラマシリーズ『十角館の殺人』(2024年3月22日全5話同時配信)
 配信サイト huluの「 huluオリジナル」枠で独占配信された。第1話53分、第2話45分、第3話49分、第4話46分、最終第5話49分の計242分。

『十角館の殺人』とは!?
 『十角館の殺人(じゅっかくかんのさつじん)』は、推理小説家・綾辻行人のデビュー作品となる長編推理小説。
 1987年9月に講談社ノベルスから出版され、2012年出版の『奇面館の殺人』まで9作発表されている綾辻の「館シリーズ」の第1作にあたる。2017年7月時点で本作の累計発行部数は100万部を突破している。
 日本のミステリー小説界に大きな影響を与え、いわゆる「新本格ブーム」を巻き起こした。雑誌『週刊文春』が推理作家や推理小説の愛好者ら約500名のアンケートにより選出した「東西ミステリーベスト100」の2012年版国内編で第8位に選出されている。ちなみに綾辻の他作品では、『時計館の殺人』(1991年)が第20位、『霧越邸殺人事件』(1990年)が第82位に選出されている。2023年にアメリカのニュース雑誌『タイム』が企画した「史上最高のミステリー&スリラー本」オールタイム・ベスト100にも選出されている。
 2007年10月に講談社文庫から「新装改訂版」が出版され、綾辻はあとがきで「本書をもって『十角館の殺人』の決定版とするつもりでいる。」と述べている。
 清原紘の作画によるマンガ版が、『月刊アフタヌーン』(講談社)にて2019年10月号~22年6月号まで連載された。全31話、コミックス全5巻。

あらすじ
 1986年3月26日水曜日。大分県O市にある K大学のサークル「推理小説研究会」の一行は、豊予海峡をのぞむ大分県S半島J崎から約5km 沖に浮かぶ、角島(つのじま)と呼ばれる無人の孤島を訪れた。彼らの目当ては、半年前の1985年9月20日に凄惨な四重殺人事件が発生して焼け落ちた「青屋敷」の跡と、その別邸となる奇抜な十角形のデザインをした「十角館」と呼ばれる建物だった。島に唯一残っているその十角館で、彼らは1週間の合宿を過ごそうというのだ。
 その頃、九州本土では、研究会や青屋敷事件の関係者に宛てて、かつて研究会の会員で1985年1月に急死した中村千織の死の真相が他殺であると告発する怪文書が送りつけられていた。怪文書を受け取った1人である江南孝明は、中村千織の唯一の肉親である叔父の中村紅次郎を訪ねる。そこで、紅次郎の大学時代の後輩だという島田潔と出会った江南は、一緒に中村千織の事故死と青屋敷の事件の真相を探ろうと調査を開始し、推理研メンバーの守須恭一に協力を求める。
 いっぽう角島の十角館では、合宿3日目の朝、推理研メンバーのオルツィが寝室で絞殺された上に左手を切断された状態で発見される。そして部屋の扉には「第一の被害者」という札が掲げられていた。残されたメンバー達は「自分たちの中に犯人がいるのではないか?」と推理を始めるが……


おもな登場人物とキャスティング
※推理小説研究会の主要メンバーは、それぞれ有名な海外の推理作家にちなんだニックネームで呼ばれている。物語の時点でのサークル会員数は、少なくとも16名。
エラリイ …… 望月 歩(23歳)
 法学部3回生の21歳。色白で背の高い男性。金縁の伊達メガネをかけている。推理小説研究会誌『死人島』の現編集長。マジックが趣味で、バイスクルのライダーバック・トランプを赤青1組ずつ持っている。吸う煙草の銘柄はセーラム。

ポウ …… 鈴木 康介(26歳)
 医学部4回生の22歳。口髭をたくわえた大柄な男性。無口だがときどき毒のある発言をする。オルツィとは幼馴染。吸う煙草の銘柄はラーク。

ヴァン …… 小林 大斗(ひろと 24歳)
 理学部3回生。中背の痩せた男性。不動産業を営む伯父が角島を購入したことを推理小説研究会に伝えた。吸う煙草の銘柄はセブンスター。

アガサ …… 長濱 ねる(25歳)
 薬学部3回生の21歳。ゆるいソバージュの長髪の女性。男性的な性格をしている。

ルルウ …… 今井 悠貴(25歳)
 文学部2回生の20歳。銀縁の丸メガネをかけた、童顔で小柄な男性。会誌『死人島』の次期編集長で、今回の合宿を提案した。

カー …… 瑠己也(るきや ?歳)
 法学部3回生の22歳。中肉中背だが骨太で猫背の男性。三白眼で、青髭の目立つ顎はしゃくれている。ひねくれた性格で、何かにつけて他のメンバーに噛み付くことが多く、特にエラリイとは衝突することが多い。ポケットボトルのウィスキーを携行している。

オルツィ …… 米倉 れいあ(19歳)
 文学部2回生の20歳。頬にそばかすの目立つ、ショートヘアの小柄で太めな女性。引っ込み思案な性格。日本画を描くのが趣味。ポウとは幼馴染。

江南 孝明 …… 奥 智哉(19歳)
 推理小説研究会の元会員。苗字の読みは「かわみなみ」だが、島田は「こなん」と呼んでいる。研究会時代のニックネームは「ドイル」。吸う煙草の銘柄はセブンスター。

島田 潔 …… 青木 崇高(44歳)
 寺の三男坊。中村紅次郎の友人で年齢は30代後半。カマキリを連想させる痩せて背の高い男。次兄の修(おさむ)は大分県警警部。

島田 修 …… 池田 鉄洋(53歳)
 島田潔の次兄で大分県警警部。40歳過ぎの太った男。潔との兄弟仲はあまり良いとは言えない。

中村 青司(せいじ)…… 仲村 トオル(58歳)
 建築家で十角館の設計者。物語の半年前に発生した事件で死亡したとされている。当時46歳。

中村 和枝 …… 河井 青葉(42歳)
 青司の妻。半年前の事件で死亡している。旧姓・花房。

中村 千織 …… 菊池 和澄(25歳)
 青司の娘。物語の1年前に開かれた推理小説研究会の新年会の、大学構内の部室で行われた三次会の最中に急性アルコール中毒で死亡した。当時は文学部1回生。

中村 紅次郎 …… 角田 晃広(50歳)
 大分県別府市鉄輪に住む、高校の社会科教師。中村青司の3歳年下の弟で、現在は44歳。大学時代の後輩だった島田潔と親しい。

吉川 誠一 …… 前川 泰之(50歳)
 中村青司に雇われた庭師で、角島の青屋敷には月に1回数日間滞在して庭の手入れをしていた。半年前の事件では遺体が見つからず行方不明とされている。当時46歳。

吉川 政子 …… 草刈 民代(58歳)
 吉川誠一の妻。誠一と結婚する前は、中村紅次郎の紹介で中村青司の青屋敷で働いていた。現在は大分県安心院町(あじむまち)にある誠一の実家に住んでいる。

漁師 …… 鳥谷 宏之(44歳)
 大分県S町J崎の漁師。所有する漁船で推理小説研究会の一行を角島へ渡らせる。

船橋 弘江 …… 岩橋 道子(55歳)
 病院看護師。生前の中村千織の往診を担当していた。

松本 邦子 …… 濱田 マリ(55歳)
 江南の住むアパートの大家。


おもなスタッフ
監督   …… 内片 輝(53歳)
脚本   …… 八津 弘幸(52歳)、早野 円(?歳)、藤井 香織(50歳)
音楽   …… 富貴 晴美(38歳)
主題歌  …… 『低血ボルト』(ずっと真夜中でいいのに。)
製作著作 …… 日本テレビ


 いや~、これはほんとにすごいことですよ。そして、映像化された作品も、この高すぎるハードルをなんなく跳び越えていくクオリティのものでした。文句なく、名作! 観て損は無し!!

 今回の作品は、地上波でも BSでもなく定額動画サービス「 hulu」内での独占配信ですので、当然ながら視聴するためには huluに加入する必要があります。なので、元来ケチでめんどくさがりな私は「う~ん、どうしようかナ」などと二の足を踏んでいたのですが、青春時代にこの作品をはじめとする綾辻行人作品の数々に新鮮な驚きと感動をいただいていた私に、見逃すなどという選択肢なぞあるはずもなく、今月に入って割と早々に加入してしまったのでありました。まんまとディズニー帝国の膝下にひざまづいちまったよ!

 日本を代表する現役の推理小説作家・綾辻行人。私にとりましては、大乱歩とか横溝正史とかコナン=ドイルとかいった故人は別にしまして、生きている作家さんの中で最も早い時期に夢中になった方の一人であります。綾辻さんの前に星新一がいて、綾辻さんの後に京極夏彦が続くといった順番でしょうか。
 上の情報にもあるように、綾辻先生の「館シリーズ」はもともと講談社ノベルスから出版されていたのですが、私が夢中になったころにはそれらはすでに講談社文庫の形になっていて、その時点でもう推理小説のジャンルにおいて必読レベルの殿堂入り作品になっていたと思います。当時のミステリー界のメジャーレーベルと言えば、もう講談社ノベルスですよねぇ。

 実は、かくいう私も『十角館の殺人』の登場人物のごとく、大学生時代に推理小説同好会というサークルの末席を汚していたのですが、ほんとに汚すもいいところで、サークルの部屋にはしょっちゅう顔を出しているクセに毎年出す会誌にはまるで作品を提出しないという幽霊部員ライフを謳歌してしまっておりました。幸か不幸か、角島に行くようなエース部員の面々には入るべくもありません……
 ただ、私が大学生だったのは1990年代の後半から2000年代の初頭だったので『十角館の殺人』の時代設定とは約10年以上の差があるのですが、物知り顔の先輩方が狭い部室の中でスパスパ煙草を吸いながら推理小説談義を楽しそうにしているという空気はまるまる今回のドラマさながらに残っていたと思います。いたいた、エラリイみたいな先輩! なつかしいなぁ、今もお元気かな。
 そして、余談ながら私の大学では、確か私が入学する直前にサークルの飲み会で急性アルコール中毒による死者が出たという、『十角館の殺人』を地で行く悲劇があったようで、私が入学したころには全サークルで飲み会に対してかなりピリピリしたモラル周知が徹底していたような気がします。ま、それでも盛り上がっちゃったら「イッキ!」とか言い出す先輩はいましたけど。
 あと、私の身のまわりでは、ちょうど私が卒業するころになってやっと、室内での喫煙を問題視する空気も徐々に広がってきたかな、という感じでした。今じゃ考えられないけど、先輩の吸っている煙草を横目に見て露骨に嫌そうな顔をしている一年生を見て、「あぁ、これが新人類か……」なんて驚いちゃってたもんね! いやいや、令和の時代から見るとその反応が100% 正しい常識になっているわけなのですが、それまでは、すぐ隣で誰かがバッカバカ副流煙を出していようが、おしゃれした女子でも全然気にせずに談笑してましたもんね。すごい時代だったな……

 それはさておき、今回のドラマ版『十角館の殺人』は、そこらへんの昭和末期、1986年の春という時代設定にもこだわり抜いた再現度を目指す、限りなく原作小説に忠実な映像化になっていたと感じました。昨今における過去の名作の映像化でよくある、筋だけを拝借して時代設定は21世紀現在にアレンジするという安易な手は使っていないんですね。まぁ、今回はミステリー世界でおなじみの「嵐の山荘」とか「陸の孤島」という設定を実現するためにも、高機能なスマホが普及している現代を舞台とするわけにはいかなかったのでしょうが、登場人物の多くが当たり前のように気持ちよく煙草を吸う今作の光景は、非常に懐かしく、かつ独特な雰囲気を醸し出す味付けになっていたと思います。その擬古体な様式が、なんか綾辻作品っぽいんだよなぁ!

 さて、ここで原作小説と今回のドラマ作品との差異に触れてみたいと思うのですが、まず、結論から言うと両者には大筋では大きな違いはありません。そうなのですが、よくよく観てみるとドラマ版は、原作の良さをより引き立たせるために、なかなか冒険的なアレンジも後半にいくにつれてけっこう大胆に差しはさんでいることがよくわかります。

 そんでもってすみません、原作小説とドラマ版とを比較する前に、まず原作小説の中にある「講談社文庫旧版(以下、『旧版』)」と「講談社文庫新装改訂版(以下、『改訂版』)」との違いについてもちょっとだけ触れさせてください。迂遠で申し訳ない!

 これまた上の情報にあります通り、原作小説『十角館の殺人』として2024年現在に講談社文庫から発行されているのは、2007年10月からリニューアルされた改訂版なのですが、それまでは1987~91年に講談社ノベルス版、そして1991~2007年に旧版が長らく販売されていました。そのため、今でも古本屋にいけば旧版は簡単に見つかるのではないかと思われるのですが、「新装」だけでなく「改訂」と銘打たれている以上、現行の改訂版には、中坊時代の私が馴れ親しんだ旧版とは違うなにかしらの変更があるはずですので、まずそこの差異をしっかり見極めてみることにしましょう。めんどくさいな~、そういうとこ気になる性分はよう!!

 そんでま、家の本棚にあった日焼けしまくりシミつきまくりの旧版と、本屋さんで買って来たピッカピカの改訂版とを見比べてみたのですが、まず旧版が総ページ数「375(うち本文366)」で、改訂版が総ページ数「497(うち本文453)」ということで、改訂版の方が旧版の1.2~3倍ボリュームアップしています。でも、これは本を開けば一目瞭然なのですが、昨今の超高齢社会の余波なのか、改訂版の文章の文字が旧版のそれの1.5倍くらい大きく見やすくなっていますので、別に改訂版で決定的に内容が増量したということではなさそうです。でも、やっぱ私は旧版の文字の小ささが大好きだなぁ~。あと、それぞれの表紙イラストについても、いかにもおどろおどろしい雰囲気のある改訂版の喜国雅彦さんバージョンもいいのですが、やっぱり意図的に簡素なイラストが逆に不気味な旧版の辰巳四郎さんバージョンの方が好きですね。

 そして、実際に内容を読んでみても、綾辻先生ご本人が改訂版あとがきで明言している通り、エピソード数が増減したり、登場人物のキャラクター像のイメージが変わるような描写の変化があるわけでもなさそうでした。内容は、ほぼ一緒!
 しかしながら、よく見比べてみると文章の内容を分かりやすくするために、長い段落を改行で分割する、読みにくい漢字にルビを振る、漢字をひらがな表記に改める(例:旧版5ページ4行目「腰掛け」→改訂版7ページ4行目「腰かけ」)、傍点やカッコ書きや読点づけによる重要なワードの強調表現を増やす、修飾表現を簡素にして文章の意味を通りやすくする(例:旧版24ページ7行目「そう云ってヴァンは、玄関ホールの、向かって右隣りのドアを指さした。」→改訂版30ページ15行目「と、ヴァンはドアの一枚を指さした。」)、単語の表記を現代における浸透度にあわせて改める(例:旧版13ページ3行目「トレンチ・コート」→改訂版16ページ13行目「トレンチコート」や旧版15ページ8行目「エムスカ・オルツィ男爵夫人」→改訂版19ページ13行目「バロネス・オルツィ」)、登場人物のセリフを自然な語り口のものに改める(例:旧版17ページ11行目「凄いわ」→改訂版22ページ6行目「凄い凄い」や旧版30ページ16行目「警察では」→改訂版40ページ6行目「警察的には」)などなど、文章の意味を変えない範囲での書き直しはほぼ全ページにわたってくまなくなされています。綾辻先生の几帳面で真摯な姿勢が浮かんでくるようですね!
 同時に、これはかの大乱歩がその後半生に行っていた、ポプラ社版の「少年探偵団シリーズ」における自身の過去作品の子ども向けリライト群を彷彿とさせる丁寧さに満ちており、綾辻先生も、ついに日本の推理小説界の次世代を担う子ども達の育成に心血を注ぐ立場になられたのだなぁ、と勝手に感慨深くなってしまうものがあります。ま、大乱歩ご本人がリライトしてたわけじゃないみたいなんですけど、要はそれくらい、改訂版の漢字が少なくなって読みやすくなってるってことなんですよ! お子様でも安心して、十角館で繰り広げられる連続殺人事件の惨劇を楽しむことができます!!

 結論……旧版も改訂版もほぼいっしょ。この真理を得るためにめっちゃ手間ひまかかっちゃったよ……でも、何ごとも自分で検証するのがいちばん! エラリイ先輩がなんとおっしゃろうが、靴底すりへらして汗水かきながら調べあげるのが漢の本懐なんでいコンチクショー!!


 ハイ、ということでありまして、やっとこさそういった小説版と今回のドラマ版との比較に入っていくわけなのですが、私がざっと観て感じた両者の違いは、簡単にいえば以下の3点になります。

1、コナン&島田ペアの本土サイドのペース調整によるドラマ性のアップ
2、中村千織まわりの描写のボリュームアップによる真犯人の動機の掘り下げ
3、コナンくんのかわいさアップ大作戦

 こんな感じでしょうかね。
 まずこの3点の検証に入る前に、この『十角館の殺人』という作品が、世界レベルで有名な大傑作なのに、どうしてかれこれ40年近くもずっと映像化されてこなかったのかという点に触れなければならないのですが、それを端的に言ってしまうと、この作品のトリックが、作品の面白さやスリルを保ちながら視覚的に伝えることがかなり難しい種類のものだから! これに尽きると思います。まともに映像化したらトリックの肝が視聴者に最初から丸わかりになってしまうというか、このトリックの効果範囲が、ターゲットのみにかなりギュギュっと焦点を絞ったものになっているので、プロの手品を観客席じゃなくて舞台袖から見てしまっているような台無し感になってしまうんですね。だから長年、映像化が難しかったんだと思うのです。
 そして、そこの問題をみごとにクリアしたのが今回のドラマ版なのですが、それはもう、役者さんの演技の工夫にせよカメラワークの巧緻な計算にせよ、その苦労がしのばれる万全たる対策が練られていました。ほんと、あともうちょっと長く映しちゃうとバレてまう!みたいなギリギリのラインでしたよね。
 でも、私がそれ以上に感心してしまったのは、今回のドラマ版における「全5話一挙配信」というやや変則的な形式までもが、トリックを活かすための作戦になっていたということ! これにはビックラこきましたよ。第4話を最後まで観てやっと、「あぁ~! これをしたかったからか!!」と膝を打ったと言いますか。
 もちろん、その放送形態がどうしてトリックに効いているのかを説明するわけにはいかないのですが、ミステリー小説の映像化として常道な「2~3時間の単発スペシャルドラマか映画」だと原作小説を大幅にカットすることになっちゃうし、かといって時間に余裕のできる「毎週1話ずつ放送の連続ドラマ」にしちゃうとトリックの秘密が維持できないということで、それらのどちらでもない第3の解決策を編み出した制作サイドの執念には、本当に頭が下がる思いです。いやほんと、こんなに幸せな映像化の例なんて、今まで無かったんじゃないですか!?

 いや~、私だって別にアメリカねずみ帝国のしもべでもストームトルーパーでもなんでもないのですが、このドラマ版は、ぜひっとも一人でも多くに人に観て欲しいですね!! トリックの衝撃もすごいのですが、制作スタッフの細心の配慮と俳優陣の若々しくも達者な演技合戦がすばらしいですよ。特に、エラリイとポウとヴァンのクライマックスでの異様な推理合戦は迫力たっぷりだったなぁ。エラリイ役の望月歩さんなんて、序盤は典型的ないけすかないスネオキャラかと思っていたのですが、極限状況の中でだんだんと狂気を帯びてくる目つき、煙草の吸い方が最高でしたね! 日本で『バットマン』のジョーカーを演じられるのは、この望月さんかも知れないぞ!!

 そういうわけで、とにもかくにもけなす点があんまり見つからないドラマ版なのですが、字数もかさんできましたので、先ほど挙げた3つの映像化にあたっての変更ポイントに触れて、おしまいにしたいと思います。ほめるべき点は他にも山ほどあるんですけどね。

 1、に関しては、原作小説にかなり忠実に進んできていたドラマ版の中でも珍しく明確に原作と違っている変更点として、原作では物語が始まって「四日目」にコナン&島田の本土チームがたどり着いていた「青屋敷全焼事件」の真相が、ドラマ版では一日遅れて「五日目」になっているというアレンジがありました。
 これはおそらく、原作通りに本土チームが、十角館チームよりもはやめに中村青司の生死に関する推理の結論を出してしまうと、五日目の時点でもそこらへんであーだこーだと議論している十角館チームとの緊迫感のつり合いが取れなくなるという部分をウィークポイントと考えた制作スタッフが、物語としてのバランスを考えてわざと一日遅らせたのではないでしょうか。

 そして、本土チームを遅らせるために今回のドラマ版で制作スタッフがオリジナルに創案したのが、2、のポイント、すなはち中村千織の生前の姿を本土チームが実地に調査して、千織の肉親に関する疑惑を強くさせるという流れだったのでしょう。これで約一日分の時間が稼げました。うまいもんですねぇ。
 また、原作小説を読んでいくと、果たして真犯人がそこまで恨みに思う程、本当に千織が「殺害」されていたのか?というあたりの真実がわざとぼかされているので、真犯人が真剣に千織の復讐だけを動機としていたのか? それとも、もともと自分の計画した完全犯罪を実現させることに愉快犯的な興味を持つ狂気をはらんでいて、千織の死がその最後のトリガーとなっただけだったのか? そこらへんがはっきりしない振れ幅のある人物造形となっていました。その反面、ドラマ版では真犯人と河南との両面から、人間としてのあたたかみを持った中村千織の姿が浮き彫りになったため、あくまで復讐を主目的として今回の犯行に至った真犯人への同情性というか、悲劇性がけっこう感情的に強調される効果があったと感じました。
 ただ、今回のドラマ化で真犯人の「頭の中」での想像として、千織の死に際した面々の憎々しげな表情こそ映像化されてはいましたが、本当に彼らがそんなことを妄想して「アハハ☆」「ウフフ♡」と嗤っていたのかどうかは、ちょっと疑問ですよね。あそこのシーンだけ妙に浮いている「バカバカしさ」があるところに、それを事実だと無理やり自分に思いこませて凶行に走った真犯人の「論理のヒビ」が見えたような気がして、そういう意味でも、ドラマ版のオリジナル部分は雄弁に原作小説の世界を補強する妙手になっていたと見ました。真犯人も、だいぶ青くてあやうい人なんですよね。

 ちなみになんですが、もう一つのドラマ版の英断として、原作小説では五日目の十角館チーム内での、互いに生き残った者が真犯人なのではないかという疑心暗鬼におちいる凄惨な論戦の中で、あまりにも唐突に2人の登場人物の家族に殺人や犯罪にからんだ経歴があると告発される一幕があるのですが、ドラマ版ではそのくだりはきれいさっぱりカットされています。
 いいですねぇ、そこらへんのドライな割り切り方! 原作に書いてあるからと言ってなんでもかんでも盲目的に映像化するのではなく、ちゃんと各個の要素が「独立した映像作品」の完成度に貢献するのかどうかをしっかり吟味している制作スタッフ陣のプロフェッショナルな姿勢を見るようで、とっても感じ入りました。
 そんな……ねぇ! 身内に事件に巻き込まれている人がそうそうわんさかいてたまるかって。まぁ、出身高校が私立不動高校だったら、話は別ですけどね。

 ポイントの3、に関しては、もうドラマ版を観ていただくより他にないのですが、コナン役の奥智哉くんが、んまぁ~かわいいことかわいいこと。
 今回のドラマ版は、主要キャストが大学生ということもあって男女問わず若い俳優さんがたで固められているのですが、特に推理研の男子の面々の演技が非常に上手ですばらしいです。年上の紳士淑女チームも、島田潔役の青木さんはもちろんのこと、東京03の角田さんも達者だし、あんなチョイ役なのに草刈民代さんが出ているという不思議なゴージャス感もステキでした。でも、やっぱり今作の MVPは望月・鈴木・小林の3トップかなぁ。日本俳優界の未来は明るいですね!
 そんな中での智哉君なのですが、演技が非常にたどたどしいんです! 周りが上手な人ばっかりなだけに、余計につたなく見えてしまうのですが、そこがまた、血なまぐさ過ぎる今作の中での一服の清涼剤というか、貴重なオアシス、癒しの存在になっているんですね。おまけにゃドラマオリジナルで、最終話のあそこで独自の珍推理を披露するという迷ワトスンっぷり! やってくれましたね~。
 原作小説のコナンは、真犯人にいいように踊らされてしまう The・狂言回しという感じで、いまひとつ個性が見えてこない弱さもあったのですが、そこに「プリティさ」を加えたことで、みごとな愛すべきピュアさとバカっぽさをたたえた名キャラクターになっていたような気がします。

 奥智哉さんがいるなら、「館シリーズ」はぜひとも続いてほしいなぁ! 島田潔の役は正直、金田一耕助パターンでどの俳優さんが演じてもいいような気がするのですが、奥智哉のコナンだけは絶対に続投してほしい!

 ……とまぁ、いつものごとくとっちらかった内容のまま、今回の記事もお開きとあいなるのですが、ドラマ版『十角館の殺人』、ホントにおすすめです!! 原作小説を未読の方も既読の方も、ぜひとも小説を片手に楽しんでいただきたい奇跡のエンタテインメントですよ! だまされたと思って、思い切って huluに加入してみては、いかが!?


 あ、そうそう、最後にひとつだけ。
 ドラマ版におけるアガサの「聖子ちゃんカット」は、令和だからこそ通じる虚構であり、制作スタッフがわざと仕掛けた昭和幻想の罠だから、気をつけよう!!
 セミロングの頭髪にボリュームのあるレイヤーカットを盛り込んだいわゆる「聖子ちゃんカット」を、名前の由来となったアイドルの松田聖子さんが実際にしていたのは1980~81年のことで、もちろんその後もしばらく聖子ちゃんカットを模倣する流行は広がってはいたものの、『十角館の殺人』の物語の舞台となる1986年ごろにはブームも下火になっており、85年にデビューした中山美穂さんや86年デビューの西村知美さんあたりはアイドルとしてのゲンをかつぐ意味合いで聖子ちゃんカットをしてはいたものの、アガサのように特に芸能界デビューを目指しているわけでもない一般女性が聖子ちゃんカットなのは、当時ほんとにやってたら、周囲からはちょっと奇異に見られていたのではないかと思われます。80年代当時は、「オタサーの姫」なんていう特異結界は無かったはずですしね。
 やっぱり、原作小説の通りにアガサはソフトソバージュ(松田聖子さんも当時やっていたそうです)をしているのが自然なわけなのですが、そこはドラマ作品としての華を優先して、ちょっとしたウソを入れた、という感じでしょうか。
 まぁ、原作小説だとエラリイはメガネをかけているし、ポウはヒゲもじゃだし、カーはしゃくれてますからね。

 でも、そういうウソもつけるくらいに、80年代も遠い昔になっちゃったってことなんですなぁ。

 でもさでもさ! そこまで忠実に80年代を再現するんだったら、本土ペアがやいのやいの推理談義する喫茶店のテーブルに置いてあった「ルーレット式星占いおみくじ器」も、邪魔だってくらいにバカでかいタイプにして欲しかったし、最終話で一瞬映るワイドショーレポーターの TV中継放送でも、レポーターを押しのけて「ピース!ピース!!」ってカメラに殺到する野球帽のガキどももちゃんと映像化してほしかったぞ!!

 嗚呼、げに昭和は遠くなりにけりィイイ。
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ピーター=ローレはやっぱりすげぇなぁ ~映画『暗殺者の家』~

2024年01月23日 20時36分39秒 | ミステリーまわり
 みなさま、どうもこんばんは! そうだいでございます~。
 雪、ぼちぼち降ってきてますね。それでも例年に比べれば、今シーズンの山形の冬はスタートがだいぶ遅い感じなので、これでブーブー文句を言ってたらご先祖様に怒られてしまいます。だいたい、今のところは雪かきをしなければならない程も降っていないので我慢しなければならないのは寒さだけなんだもんね。ありがたいことではあるのですが、逆にこの程度でいいのかと不安になってしまいますな。

 さて、いろいろとよからぬニュースの連続で始まった今年2024年ではあるのですが、私の住んでいる山形が変わらずおだやかであることに感謝しつつ、今回もいつものよ~に、サスペンスの巨匠ヒッチコック監督の足跡をたどる旅を更新していきたいと思います。
 さぁさぁ、いよいよ面白くなってきましたよ!


映画『暗殺者の家』(1934年12月 75分 イギリス)
 『暗殺者の家( The Man Who Knew Too Much)』は、イギリスのスリラー映画。監督はアルフレッド=ヒッチコック。悪役にピーター=ローレを迎え、ゴーモン・ブリティッシュで製作した。イギリス時代のヒッチコック作品の中でも成功した作品の一つ。
 1956年のヒッチコックの監督した映画『知りすぎていた男』(主演ジェイムズ=スチュアート、ドリス=デイ)はこの映画と同じ原題だが、あらすじと作風は変更されている。フランスの映画監督フランソワ=トリュフォーとの対談の中でトリュフォーが『知りすぎていた男』の方が優れて見えると言った時、ヒッチコックは「最初のは才能のあるアマチュアの作品で、二番目のはプロが作ったと言い給え。」と答えている。
 本作の製作当時、ピーター=ローレはナチスの台頭したドイツから亡命して来たばかりで英語を話すことができなかったが、英語の台詞を音読で覚えた。
 本作のラストでの銃撃戦のシーンは、1911年1月3日にヒッチコックの故郷であるロンドンのイーストエンドで起きた「シドニー・ストリートの包囲戦」事件をモデルにしているが、後年のリメイク作『知りすぎていた男』では、この銃撃戦シーンはカットされている。
 ヒッチコックはロイヤル・アルバート・ホールのシーンの楽曲のためにオーストラリア人作曲家のアーサー=ベンジャミンを起用した。この曲『 Storm Clouds Cantata』は、『知りすぎていた男』でも使用されている。
 ヒッチコック監督のカメオ出演は本編開始後33分のシーン。ボブとクライヴが礼拝堂に入る前、黒いトレンチコート姿で前を横切る男の役で出演している。

あらすじ
 冬季スポーツのクレー射撃競技に参加するために、一人娘のベティと一緒にスイスのサンモリッツに滞在したボブとジルのローレンス夫妻。彼らはスキー選手のルイという男と親しくなり夜の舞踏会に参加するが、そこでルイが何者かに銃で射たれてしまった。ルイはボブに、イギリス領事に届けてほしい物があると言い残して息絶える。ボブがルイの部屋を探すと、国際的暗殺組織の陰謀について書かれたメモを発見した。しかし敵は娘ベティを誘拐し、この件を誰にも話すなと脅迫する。
 イギリスに戻ったローレンス夫妻は、娘を取り戻すため奔走する。

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(35歳)
製作 …… マイケル=バルコン(38歳)
音楽 …… アーサー=ベンジャミン(41歳)
配給 …… ゴーモン・ブリティッシュ映画社

おもなキャスティング
ボブ=ローレンス  …… レスリー=バンクス(44歳)
ジル=ローレンス  …… エドナ=ベスト(34歳)
アボット      …… ピーター=ローレ(30歳)
ベティ=ローレンス …… ノヴァ=ピルビーム(15歳)
ルイ=ベルナール  …… ピエール=フレネー(37歳)


 なんか、もうね。今回の作品で作品のクオリティのフェイズが明らかに一段あがったっていう感じですよね。この作品はなかなかいいですよ。物語を面白くしようとする創意工夫がてんこ森夜!

 本作は、ヒッチコック監督の監督作品としては第17作にあたります。デビュー当初、ヒッチコック監督がサスペンス・スリラーもの一辺倒でなかったことは、サスペンス第1作となる『下宿人』(キャリアとしては監督第3作)についての記事から何度も確認していることなのですが、そこから他ジャンルのコメディ、文芸作品などを差しはさみつつ、『恐喝(ゆすり)』(監督第10作)、『殺人!』(監督第12作)と、とびとびでサスペンス作が制作されてきました。
 それで今回の第17作となるわけですが、『殺人!』との間にある4本の非サスペンス作のうち、ちょっと無視できないのは第15作にあたる『第十七番』(1932年)だと思います。

 『第十七番』は、国際的に暗躍する宝石強盗団とそれを追うスコットランドヤードの名刑事、そしてそれらの対決に巻き込まれてしまったある家族もとりまぜての乱闘劇を描く犯罪アクションコメディなのですが、はっきり申すと物語の2/3か3/4は緊張感のないダルダル~っとした室内劇が続く失敗作だと思いました。殴り合いになってもピストルが出てきても、誰が何のために誰と対立しているのかがさっぱり頭に入ってこない時間が延々と続くんですよね! ほんと、舞台演劇をカメラで撮ってそのまんま流してるていなんです。殺人のような重大犯罪が絡んでいるという緊迫感がまるで無く、それ、覚えた言葉をやり取りしてるだけですよね?というなぁなぁ感ばかりが目立って、演劇やサイレント映画で身についたっぽい、俳優さんがたのオーバーな演技とマンガみたいなメイクも鼻につきまくるという。
 でも、そこらへんの大失敗はどうでもよくて、『第十七番』で重要なのは、クライマックスの「列車追跡シーン」の特撮的な大迫力。ここがすごいんだ!
 家の中での冗長なやり取りが終わり、強盗団はヨーロッパ大陸行きの客船が待つ港へ向かう列車に乗り込むのですが、それを追う刑事たちとの車内での壮絶な銃撃戦の末に、列車は運転制御のきかない暴走状態になってしまい、列車はそのまんまフルスピードで港に突入し、客船に突っ込んでどちらも大破炎上する空前の大事故になってしまうのです。
 この港の大事故、ここを、ここだけを、ヒッチコック監督はしっかり迫力たっぷりに映像化しているんですね! 役者の乗っている実物大の列車セットとミニチュアワークとの連結を、その細やかなのに大胆なカット割りでかなり自然に成功させていて、爆発炎上する列車と客船のミニチュアっぽい粗も、火薬の着火タイミングや音響効果で最小限に目立たなくさせているのです。
 すごい! ヒッチコック監督の特撮センスはかなりのものですよ! このイギリスの若き天才が、海を渡って極東の麒麟児・円谷英二とタッグを組んでおれば、一体どんな世紀の大傑作が……と妄想もしてしまうのですが、時代の制約もありますし、それはなかっただろうなぁ。ヒッチコック監督はチャキチャキ頑固なロンドンっ子だし、怪獣とかには興味一切ないだろうし、だいたい、日本に金髪白人美女はいなかったしなぁ。

 それはともかく、この『第十七番』と撮影が前後して制作されたという『リッチ・アンド・ストレンジ』(1931年)でも、後半にタイタニック号ばりに洋上で主人公たちの乗る豪華客船が沈没するというスペクタクルもありますし、ヒッチコック監督が本質的に「物語」よりも「映像」の創出にモチベーションを求める才能の人だったことは間違いないと思います。問題は、その完璧なイマジネーションの具現化につなげる「お膳立て」がちゃんとできるかどうか、なんですよね。映画は30秒くらいで終わるもんじゃないからねぇ。

 すみません! お話の前がやたら長くなってしまいましたが、今回の記事は、その後の『暗殺者の家』についてですね!

 結論から申しますと、この『暗殺者の家』は、それまでの約10年、監督作17本のヒッチコック監督のキャリアの中でも最高の完成度を誇る傑作だと思います。まぁそれでも、これ以降の綺羅星のごとき大傑作の数々から見ればそんなに目立つ感じでもないのが、むしろヒッチコック監督の来たるべき黄金時代のものすごさを如実に証明するものになっているのですが、とにかく、21世紀の今の目で見ても十二分に楽しめる作品になっているかどうかという観点で言うと、『暗殺者の家』は初めてその責に耐えうる出来になっていると思うのです。まさしく一皮むけた!って感じですね。

 先ほどから言っている通り、ヒッチコック監督のすごいところは映像センスの冴えにあるのですが、スピーディなのに意図がしっかり伝わるし、ベタともいえるわかりやすさなのに今までの映画にはなかった新鮮な切り口があるという個性は非常にインパクト大で、特に本作はどこを切り取って観てみても、ヒッチコック監督作品であることが数秒でわかるという、「思いついたアイデア全部出し」のような、あっという間の75分間になっていると感じました。
 具体的に、どこかどう鮮烈なのかという点については、いつものように観ていて気づいたポイントを本記事の最後にまとめておきましたので例示ははしょりますが、最初から最後まで観客が退屈しないように考え抜かれた工夫が間断なく続くといった感じなんですね。

 これまでのサスペンスもの3作には、どこかしら、特に中盤に必ずダレ場というか、緊張の糸が途切れてしまう時間が出来していたのですが、本作では「主人公夫妻の愛娘が誘拐されている」という非常事態がクライマックスまで続くので、全編ジェットコースター……とまではいかないにしても、ローラーコースター的なノンストップな緊張感を持続させることに成功しています。
 この緊張感に最も大きく貢献しているのは、やはりなんと言っても本作における悪のラスボス的ポジションにいる、国際的暗殺組織の首領アボットを演じる、ドイツ渡来の大怪優ピーター=ローレでしょう。
 ローレと言えば、やっぱり最も有名なのはドイツ本国の巨匠フリッツ=ラング監督によるサスペンス映画の歴史的名作『M』(1931年)での連続幼女殺人鬼の役でしょうか。この映画もものすごい問題作であるわけなのですが、金銭や自己満足のために犯罪を続ける悪人というよりは、自分でも抑えきれない欲望という名の業病に支配されている弱々しい人間という部分をみごとにさらけ出していたローレの演技は、21世紀の今でもなお解決しえない「罪とは何か、罰とは何か」という問題を観る者に考えさせる生々しさを永久に保つものとなっています。にしても、この映画のオーラスの超唐突な締め方はまさに「キング・オブ・力技」って感じで最高ですけどね。それを言っちゃあおしめぇよ!

 そんなローレなのですが、本国ドイツの政情不安によりやむを得ずイギリスに居を移した直後に本作に参加したという事情を逆手にとって、そのために隠しようもなかった英語の拙さを国際的犯罪組織の首領アボットとしての個性に変換しているのは見事だと思います。転んでもただでは起きませんな!
 そして、基本的にうす笑いを浮かべて余裕たっぷりな物腰に終始し、誘拐した少女にも、それを奪還するために立ち向かって来た主人公たちにも極力手荒なことはしないという紳士然としたアボットの態度が、逆にその裏にある「ま、あとで全員殺すけどね、フフ……」という狂気をありありと感じさせるという、ローレならではの「奥行き」を感じさせる演技の懐の深さをいかんなく発揮しているのです。
 ローレはやっぱり、他の同時代の俳優さんがたとは次元が違うんですよね。他の俳優さんって、多かれ少なかれ各自のキャリアの基本にある舞台演劇やサイレント映画の表現法に引きずられて「見てすぐにわかる大きめ演技」を旨とする特徴があると思うのですが、ローレは笑顔の中でもちょっとだけ真顔に戻る瞬間とか、暗殺計画の失敗を予感して寂しそうに目を伏せる素振りといった細かくて小さい演技に魅力があるような気がするのです。
 余談ですが、現在日本で活躍している俳優さんで言うと、染谷将太さんがローレに似てるような気がするんですよね。いや、ただ目がぎょろっとしてるとこが似てるだけでしょと言われればそうなのですが、繊細な部分を隠せないという演技が素晴らしいんですよね。『麒麟がくる』での「孤独な王者」としての信長像は最高だったじゃないですか。あれも、陽気な中にたま~に翳りが見えるバランス感覚がいいんですよね。『利家とまつ』の、「作画・赤塚不二夫」みたいな反町信長も、いいんですけどね!

 いろいろ言いましたが、本作『暗殺者の家』は、スイスのサンモリッツでの国際ウィンタースポーツ会場に始まり、優雅なナイトパーティでの殺人からイギリスの帝都ロンドンでの謎の組織のアジト探索、豪華なオーケストラホールでの要人暗殺の危機から夜の市街地での壮絶な銃撃戦に至るまで、観る者を飽きさせない創意工夫に満ちた傑作になっていると思います。そして、そこに「名悪役ローレ」の厚みのある個性が加わったことで、愛する娘を誘拐された夫妻の必死の奮闘をさらに際立たせる物語の構成も「お見事!」の一言に尽きるのではないでしょうか。

 ただ、それでもあえて苦言を呈させていただくのならば、そんな完璧すぎる悪役ローレを立てるためとはいえ、秘密組織の暗殺計画がうまくいかなかった原因が、何から何まで狙撃実行犯たるレイモというポマードべったべた男の中途半端な仕事ぶりのせいになっているという点が、ヨーロッパを股にかける犯罪組織として情けないにも程がある気がします。絶対に失敗していはいけない大詰めの要人暗殺にとりかかる前に調子に乗って主人公の夫人にわざと顔を見せるのも、自分から失敗させようとしているとしか思えない最悪なスタンドプレーですが、そもそも最初に「知りすぎていた男」ことスパイのルイを狙撃した時も、ルイに遺言をしゃべらせる余裕も持たせないほど致命的な部位を撃てなかったことから一連のトラブルが始まっているわけなので、計画失敗に関する彼の罪はかなり重いですね。

 あと、スイスの名勝からロンドンでの攻防戦へという流れこそヒッチコック的エンタメではあるのですが、スイスのシーンはスクリーンプロセスに頼り切ったスタジオ内での撮影だったり、肝心の「暗殺者の家」こと太陽崇拝教会の入った建物での銃撃戦も夜だったりと、画面の華やかさで言えば制約の多いものになっていると思います。これは予算の問題なのでしょうか……でも、そういった遺恨が残ったために、のちのちヒッチコック監督が本作をリベンジとばかりにセルフリメイクしたのも、理の当然というものだったのでしょう。
 そういえば、この映画の邦題「暗殺者の家」って、ビミョ~にずれているような気もします。暗殺者というよりは暗殺組織だし、家というよりはアジトだしねぇ。ま、原題の「知りすぎていた男」っていうのも、物語の序盤で早々に退場しちゃうルイのことでしょうから、こっちもこっちでピンとこないものがあるけど。

 ともかく、若き日のヒッチコック監督はこの作品で、確実に次なる段階へレベルアップしたような気がします。実際に、本作からヒッチコック監督は作風をサスペンス・スリラーに絞っていくこととなるわけで、ここにきてやっと「いける!」という手ごたえをつかんだのではないでしょうか。
 イギリス時代、モノクロ映画時代はまだまだ続きますが、ヒッチコック監督の新時代への脱皮は完了いたしました。さぁ、お次はどんな作品が生まれるのでありましょうか? 才気あふれる今後に期待ですね!

 リメイクされた『知りすぎていた男』は、監督第43作(1956年公開)ですか……レビューへの道のりは遠いなぁ~オイ!!


≪まいど~おなじみの~、視聴メモでございやすっと≫
・開幕からスイスのサンモリッツでの国際スキー大会会場を舞台にし、目新しいロケーションで観客を惹きつけるジャブパンチが鮮やかである。モノクロ映画は白銀の世界によく似合う!
・本編が始まってほんの数秒で、スキー選手のルイが試合中に少女ベティを轢きかけてクラッシュするというアクシデントが描かれるのだが、スクリーンプロセスなどの既存の特撮技術以上に、とにかく「驚き進路を変えるルイ」「おびえて倒れ込むベティ」「騒然とする観客たち」といった多角的な視点のモンタージュが非常にスピーディで絶大な効果を生んでいる。さすが、のちに『サイコ』のシャワーシーンを生むヒッチコック監督! その映像的センスの冴えは、この時点ですでに開花していたのだ。21世紀の今でも全然フレッシュ!
・スキー大会の観客の一人として、早速主人公たち一家に接触する外国人客のアボット。終始ニコニコしている紳士的な彼だが、ルイと目が合った一瞬だけ真顔になるギャップが妙に印象的である。ここらへんの無言の表情の演技は、やっぱ世界的怪優ピーター=ローレの独擅場ですな!
・当時はごくごくふつうの仕草だったのだから仕方がないとはいえ、スポーツ大会の会場の道端で、ボブやアボット、そして他ならぬ出場選手のルイがスッパスッパ歩きタバコを始めるのも、ちょうど自分の顔の高さあたりからバンバンかかってくる副流煙を全く気にせずベティが笑顔で会話を続けるのも、21世紀の現代日本ではなかなか見られない光景である。これぞ、隔世の感。
・クレー射撃選手として出場している母ジルのライバルであるレイモの話題になり、ベティが「あのてっかてかの髪の毛がキライ。」とこぼした次の瞬間に、画面いっぱいにレイモの整髪料でベタベタになった後頭部が映しだされてシーンが切り換わるというカット割りがおもしろい。もう、このつなぎ演出だけでヒッチコック監督の映画であることが丸わかりである。
・本作のヒロインであるジルが、子持ちの人妻で国際大会に出場するクレー射撃の選手という、現代から見てもかなり異質なほどに行動的なキャラクター造形になっているのが実に新鮮で面白い。この特技がクライマックスの展開で利いてくるのも、抜け目が無くてうまい!
・ジルは立場や特技だけでなく、ボブがジョークのわかる夫であることをわかっていたとしても、ルイを「彼氏」に見立てて冗談を飛ばすようなかなり豪胆な性格であるところが、ますます先鋭的である。でも、そんなことを公衆の面前で口走るような母親、娘さんが好きになるとはとても思えないんですが……勢い余って、そんな妻にへらへら笑って合わせるだけの父親も憎悪の対象になっちゃうよね。
・性格相応に冗談のきついジルに負けず劣らず、そんな妻にも全く動じず受け流すどころか、夜のダンスパーティで「セーターのいたずら」を仕掛けるなど、相応に奇矯なキャラクターになっているボブもなかなかに個性的である。でも、度量が広くて冗談好きというよりは単に子どもっぽいという方が当たっているような。ベティは喜ぶかもしれないけど、大人社会から見ればけっこうな変人だと思う。
・陽気なバンド演奏が流れる中で、突如として外から狙撃され凶弾に斃れるルイ。この、他愛もないセーターのいたずらからシームレスで入る本題の殺人描写の温度差がものすごい。一瞬先に何が起こるかわからないハラハラドキドキ感が、本作の魅力の源泉ではないだろうか。
・ルイの遺言→部屋のキー→洗面台のひげ剃りブラシの仕掛け→謎のメモという、重要アイテムのめまぐるしいリレーが、ファミコンのミステリーゲームなみの単純さではあるものの小気味いい。ここらへんのテンポの良さは、やはりサイレント映画仕込みの手際の良さではないだろうか。
・親友ルイの殺害に加えて、謎の犯人からのベティ誘拐の脅迫文書を夫ボブから受け取り、たまらず失神するジル。「失神するヒロイン」という展開はある意味で定番なのだが、そこでも「周辺の風景がグルグルまわる」めまいの主観カットを一瞬サブリミナル的に挿入するところがヒッチコックらしい。『めまい』(1958年)をレビューできるのは、一体いつかナ~!?
・シルクハット、夜会服に馬車というめちゃくちゃロマンチックな格好のレイモに誘拐されおびえるベティの胸で、いかにも意味ありげに笑顔を浮かべる、母ジルからもらった「スキー坊や(仮称)」のブローチが、キモかわいくて妙に印象に残る。いい味出してるアイテム。
・ロンドンのローレンス家で、ベティの遊んでいたおもちゃとして登場する電気仕掛けの電車レールセット。女の子の趣味にしてはちと違和感が残るのだが……ヒッチコック監督、ほんとに鉄道が好きねぇ!
・ベティの誘拐を、最悪の事態を恐れて他言無用にしているボブとジルだが、フィクション作品にしては実に有能なスコットランド・ヤードも、ルイをひそかにスパイとして雇っていたイギリス外務省も誘拐の事実を完全に把握している。ここらへんの、あくまで非力な主人公夫妻の孤立無縁さの強調も、作品に必要な緊張感を巧みに持続させている。
・ジルと外務省の男ギブスンとの、「娘一人の命を取るか、国際戦争突入への道を取るか」という究極の選択についての議論が非常に興味深い。個人の幸せか社会の利益か……永久に解けない問題ですね。
・国際的暗殺組織の重要拠点が、街中のしがない歯科医院という意外性がおもしろいが、確かに「歯医者とサスペンス」は相性がいいな、と『ウルトラマンA 』の第48話『ベロクロンの復讐』がめっぽう大好きな私はしみじみ再認識してしまう。市川森一先生、さてはここからアイデアを拾ったかな? それにしても、歯医者の看板キモすぎ!
・いくらなんでも体格も声色も違うから、アボットとレイモだってすぐにボブの変装だとわかるのでは……と思うのだが、ボブが歯科治療用の強力な照明ライトをわざと2人に向けて目くらましにしている、というフォロー描写をちゃんと差しはさんでいる演出の妙が光る。うまい!
・陰気な歯医者に続いて、謎の組織につながる場所としてボブの捜査線上にのぼってくるのが新興宗教「太陽崇拝教」の礼拝教会という展開も面白いのだが、ボブと相棒のクライヴが、敵に気取られないように讃美歌のリズムに合わせて唄いながら会話をするという機転の利かせ方も笑ってしまう。ちょっと監督、アイデア盛り込みすぎじゃないの!?
・教会でついにボブと正面きって対峙する、暗殺組織の首魁アボット。演じるローレの余裕しゃくしゃくの紳士っぷりと、ボブに対する絶え間ない笑顔とは裏腹に、手下のおばあちゃんをあごで使ったり「使えねぇな……」とばかりに一瞬だけ無表情になる冷徹さとの切り換えの巧みさが、もうホントに魅力的。ドイツなまりで拙い英語もテクのうちよ!
・若干おふざけが過ぎる感もあるものの、神聖なはずの教会で思いきり椅子の投げ合いをする大のおとな達、乱闘の音を紛らわすために無理やりオルガンを演奏するおばあちゃん、そんな状況の中でも催眠術でグースカ眠り続けるクライヴという配置がおもしろすぎるアクションシーンが、サービス精神満点ですばらしい。ほんと、この作品は退屈しない。
・奮闘むなしく組織に捕らわれてしまうボブだが、ボブの伝言を伝えようとするクライヴと、再度脅迫のメッセージを伝えようとする組織とで、ローレンス家への電話口の取り合い競争になる展開が、これまた細かいカット割りでテンポよく描写されていて感心してしまう。この手法、確か石坂浩二金田一シリーズの『病院坂の首縊りの家』(1979年)で市川崑監督もオマージュ的に借用しているのだが、単純なだけヒッチコック監督の方が効果を上げているような気がする。『病院坂』はややこしい。
・不平不満をもらす組織の手下のおばあちゃんをアジトから出させないために、組織が彼女に与える「制裁」が当時としてはもっともらしいのだが、これももしかしたら現代の観客からすればピンとこないかも知れない。ひざ下くらい別にどうでも……みたいな感じですよね。
・ボブが組織に捕らわれてしまったので、その代わりに妻のジルが立ち上がるという物語の流れがとっても自然でよくできている。ヒロインがヒーローになるアツい展開だ!
・ロイヤル・アルバート・ホールで開催される国際コンサートの演奏中、合唱付きオーケストラ曲のクライマックスでのシンバルにまぎれて標的を銃撃するという暗殺計画が、まさに音声のあるトーキー映画ならではのアイデアという感じで盛り上がる。いいですねぇ!
・ホール中の紳士淑女の観客たちが神妙に演奏に聴き入る中、ジルだけが不安そうに客席内を見回して暗殺者を探し続けるという心理状態の対比が、いかにも緊張感たっぷりで手に汗握ってしまう。ホントうまくできとるわぁ。
・ジルと暗殺者レイモのいるホールだけでなく、演奏をラジオ中継で聴いているという形で、アジトのボブとアボットたちも事件の状況に固唾を呑んでいるという緊張感の連鎖が地味にうまい。場所的には離れていても、登場人物全員がひとつのことに集中しているんですよね。
・ラジオ中継のアナウンスで暗殺の失敗を知り愕然とする組織の面々。でもこれって、その必要は1ミクロンもないのにこれ見よがしにジルの前に姿を見せたレイモの余計なスタンドプレーが100% 原因である。「冥途の土産に教えてやろう」と同じく、余裕をぶっこいたがゆえの大チョンボ。しかもまんまと尾行されたままアジトに帰って来るし……こんな超絶ダメ部下を持っていながらも、すんでのところで激昂を抑えられるアボットはんは、大したお人やでぇ。
・ここまでほんとに綿密に練られたプロットと伏線の連続だったわけだが、肝心かなめのジルによる暗殺の妨害の内容が、「たまたま絶妙なタイミングで絶叫した」なのが、非常に惜しい。ここで偶然を持ち出してくるかね……ヒッチコック監督もそうとう遺恨を持ったはずである。
・暗殺計画の失敗に続き、本作のラスト12~3分はアジトでの組織と警察隊との銃撃戦となるのだが、BGMなどで盛り上げずにリアルに乾いた銃の音と市民の叫び声、そしてシャープなカット割りのみで、夜の壮絶な殺し合いを淡々と描写していく演出がすさまじい。そして最後の最後に、ヒロイン=ヒーローの面目躍如! ちょっとハッピーエンドには見えない疲労感に満ちた主人公たちの表情で物語は終わるのだが、非常に簡潔できれいな幕切れである。
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名探偵ジョン卿、颯爽登場!!……だれ? ~映画『殺人!』~

2023年11月24日 15時15分10秒 | ミステリーまわり
 どもども、みなさまこんにちは! そうだいでございます。
 今年もいよいよ秋深しとなってまいりまして、そろそろこちら山形でも冬支度を進めなければという時期になってまいりました。
 でも、この冬はなんだか雪が少ないのだそうで、ここ数年はちゃんと雪かきをやらないといけない降雪量になっていただけにありがたい話ではあるのですが、ほんとかなぁ。ただ、朝夕の寒さはかなり厳しくなっているんですけどね。

 さてさて今回は、ぽっと思い出したようにやっている、サスペンス映画の巨匠アルフレッド=ヒッチコック監督の仕事をキャリアの初期から振り返っていく企画の第3弾でございます。まだまだ、長い旅路は始まったばっかりよ!


映画『殺人!』(1930年7月公開 104分 イギリス)
 映画『殺人!』(原題:Murder!)は、監督・アルフレッド=ヒッチコック、脚本・アルマ=レヴィル(ヒッチコック夫人)による作品。クレメンス=デインとヘレン=シンプソンのミステリ小説および舞台『ジョン卿登場』が原作となっている。『ゆすり』(1929年)、『ジュノーと孔雀』(1930年)に続く、ヒッチコックにとって3作目のトーキー映画である。
 本作はトーキー映画初期の作品であるためアフレコの製作方法が確立されておらず、作中の音声は全て撮影現場での同時録音であった。そのためヒッチコックは、ジョン卿が自宅でひげ剃りをするシーンで聞いているラジオ音楽として、スタジオに30人編成のオーケストラを入れて録音した。
 ヒッチコック監督自身は、本編1時間1分42秒頃に、殺人が起こった家の前を横切る通行人として出演している。

あらすじ
 旅回り劇団の女優であるダイアナは、仲間の花形女優エドナが殺害された現場で、暖炉の火かき棒を前に呆然としているところを発見された。彼女は事件当時の記憶がなく、疑わしく思った警察は彼女を逮捕し、裁判は有罪となる。しかし、陪審員のひとりで有名俳優のジョン=メニアー卿は、ダイアナの所属する劇団の舞台監督エドワードとその妻の女優ドゥーシーの手を借りて事件を捜査していくことに決める。果たして3人はダイアナを救うことができるのか?

おもなキャスティング ※年齢は映画公開当時のもの
ジョン=メニアー卿   …… ハーバート=マーシャル(40歳)
ダイアナ=バーリング  …… ノラ=ベアリング(23歳)
エドワード=マーカム  …… エドワード=チャップマン(28歳)
ドゥーシー=マーカム  …… フィリス=コンスタム(23歳)
ハンデル=フェイン   …… エスメ=パーシー(42歳)
ゴードン=ドゥルース  …… マイルズ=マンダー(42歳)
イアン=スチュワート  …… ドナルド=カルスロップ(42歳)
マネージャーのベネット …… スタンリー・ジェイムズ=ウォーミントン(45歳)
大家のミッチャム夫人  …… マリー=ライト(68歳)
巡査の妻        …… ウナ=オコナー(49歳)


 前々回の『下宿人』と、前回の『恐喝(ゆすり)』でも触れたように、ヒッチコック監督がその作風をサスペンス・スリラー系に絞るようになったのは、まだまだ後年のことでありまして、イギリス国内で当時有名だった小説や戯曲の映画化を、ロマンスやコメディ、人情ものなどなどジャンルを問わず手がけるエンタメ職人のような多彩な活躍をしていたのが、1920年代のヒッチコック監督でありました。でも、さすがはサイレント時代からのたたき上げと言いますか、どの作品でも「セリフや役者の演技をなるべく使わずに物語の要点を伝える」という映像テクニックを必ず差しはさんでくるギラギラの映像センスは、その非凡さの片鱗をのぞかせていましたね。

 さて、そんなヒッチコック監督にとってのサスペンス・スリラー系映画の第1弾となった『下宿人』は監督作品としては第3作、お次の『ゆすり』は第10作にあたるものでした。そして今回のお題となる『殺人!』は第12作ということで、『ゆすり』と『殺人!』の間には例によって非サスペンス系となる人間ドラマ『ジュノーと孔雀』(1930年)が入ります。この作品は、アイルランドとイギリスの紛争状態の中で崩壊してゆく家庭のさまを描いた重苦しい悲喜劇なのですが、やはり原作が戯曲というのが徒となっているというか、俳優の演技も主な舞台となっている主人公一家の住まいを切り抜いたセット風景も堅苦しく、ヒッチコック監督が得意とする映像イメージの飛躍が観られなかったのが残念でした。でも、『ゴッドファーザー』とか『北の国から』みたいな、ある一家の栄枯盛衰をつづる大河ドラマが好きな人には水が合うかも……いや、ムリか。スケールが小さすぎるんだよなぁ!

 そんな感じで、まだまだサスペンス系に腰を据えていない時期のヒッチコック作品ではあるのですが、今回の『殺人!』は、後年のヒッチコック作品まで視野を広げてもなかなか類似作品の見つからない、非常に珍しい「ミステリー映画」となっております。
 要するに、私の言いたいミステリー映画というのは、本格もの推理小説のように「犯人が誰か?」という部分に作品の主眼を置いてくる作品のことでありまして、そういう意味では過去の『下宿人』は連続殺人事件の犯人なんかそっちのけで「主人公が犯人なのか?」という疑惑から「犯人に間違われた主人公が助かるのか?」というサスペンスに移行していきます。そして『ゆすり』にいたっては殺人事件の犯人が誰かがしょっぱなからわかっている上で、「犯行を知った恐喝犯にゆすられる犯人はどうなってしまうのか?」という、犯人捜しとは全く方向性の違う内容に面白さを見いだす作品になっているのでした。『下宿人』の原作小説は立派な推理小説と言えるんですけどねぇ。

 つまり、こういう部分を見ていますと、ヒッチコック監督は世間で有名なドイルやクリスティといった推理小説家が世に出すミステリー物にはあまり興味が無く、事件の犯人とかトリックなんかどうでもいいから、その事件が巻き起こす悲喜こもごもによって慌てふためき人間性をさらけ出した登場人物が、運命の魔手から逃げ切れるのかどうか、その緊迫感(まさにサスペンス!)をフィルムにおさめたいんじゃ!という姿勢が見てとれるのではないでしょうか。

 となると、今回の『殺人!』の出来上がりが、殺人事件を扱っているセンセーショナルな内容にもかかわらず、なんとな~く「凡庸……」なものになっている理由も納得がいくのです。そうなの、この『殺人!』、中だるみがひどいのよね!

 本作は、劇団内の三角関係のもつれで起きたと思われる殺人事件が物語の機転となっており、ほぼ密室状態の部屋の中で1人の女優エドナが殺され、その傍らで血まみれの凶器と共に、その女優に恨みを持っていると言われているライバル女優ダイアナが呆然と立ち尽くしているという、圧倒的にダイアナが不利な状況が提示されます。そして大方の予想通りに裁判でダイアナは有罪となり死刑判決が下されるのですが、たまたまこの裁判に陪審員として関わっていた有名俳優のジョン=メニアー卿がダイアナの犯行説に違和感を抱き、ダイアナの同僚だった劇団員のエドワードとドゥーシーのマーカム夫婦をワトスン役に従えて事件の私的な再捜査に乗り出すという筋になっています。
 そしてジョン卿による事件現場の検証や事件の関係者からの聞き込みによって、ついにエドナ殺害の真犯人の存在が明らかとなり、ジョン卿の追求によって逃げ場を失った真犯人の劇的な自決をもって本作は解決となるわけなのですが、この映画、ご覧の通りに教科書通りのミステリー作品となっていながらも、名探偵役のジョン卿(とワトスン役の夫婦)にいま一つ魅力がないために、中盤の再捜査のくだりがかなりつまらないものになっているのです。
 これ、決してジョン卿を演じている俳優さんに問題があるわけじゃなくて、とにかく「貴族で有名俳優」というジョン卿の設定が無敵すぎて、彼をサポートするマーカム夫婦をはじめとする登場人物が軒並み全員「ジョン卿さま、ばんざい!」、「ジョン卿さまがそう言うんなら、そうなんだべ!」な思考停止におちいるため、名探偵役がただ自分の考えた説を語り、真犯人が「その通りです……」というだけの単純きわまりないやり取りを約1時間見せられる苦行になってしまっているのです。名探偵の言うことに誰も反論しないし、警察も「余計なことすんな!」と怒らないし、真犯人さえもがすんなり罪を認めてしまうしで、どこにも緊迫感が無いんですよね。
 わかりやすく言ってしまうと、『水戸黄門』の黄門さまが、「ちりめん問屋の隠居です」とか言って身を隠さずに、最初っから堂々と正体を明かして「お前、やったよな!?」と悪代官を追求するようなものなのです。いや、それはそれで話が早くていいんですが、それ、おもしろいかぁ!?

 具体的にジョン卿のキャラクター設定のどこに問題があるのかは、本記事の後半に羅列した恒例の「気づいたことメモ」で挙げさせていただきますが、大きな問題はまとめて2点あり、1つは先ほど言ったように名探偵の社会的な地位が高すぎて抵抗勢力がいないこと。これ、極端な言い方をすればジョン卿の推理が間違っていても通りかねない危険性もあるわけで、そういう意味でもジョン卿は名探偵にはふさわしくないのかも知れません。冤罪、ダメ、ゼッタイ!!
 そしてもう1つの問題は、結局本作におけるジョン卿が真犯人を見つけるために発見した要素が状況証拠ばかりで、決定的な確証が無いこと。そしてそのために窮したジョン卿が「心理的に真犯人を追い詰める」奇策に出てしまったがために、追い詰められすぎて逆に覚悟がガン決まりになってしまった真犯人が、もはや「トラウマテロ」ともいえる暴発的な最期を迎えてしまったことに尽きます。これ、真犯人の疑いのある人間が死亡するという最悪の結果を招く可能性を察知していながらみすみす泳がせてしまったというジョン卿の責任も重大で、真犯人が映画のように自身の犯行を認める遺書を残していなかったら、ジョン卿はどう言いひらきをするつもりだったのでしょうか。ともかく、本作の事件におけるジョン卿の名探偵としての評価は「0点、というか数百人の関係の無い人々にトラウマを植えつけた責任で-300点!!」くらいなのではないでしょうか。ほんと、金田一耕助先生くらいの見逃しでブーブー言ってられませんよね。シャーロック=ホームズのお膝元イギリスにも、迷探偵はやっぱいるんだなぁ!

 そんなこんなで、この『殺人!』は、ヒッチコック監督とミステリー物が意外にも合わないという結果をもたらすものとなっていたと思います。実際に、ヒッチコック監督が本作の次に本格的なサスペンス・スリラー系に着手するのは、実に4年後の第17作『暗殺者の家』を待たなければならなくなるので、監督自身にとってもあまり手ごたえのある出来ではなかったのでしょうね。
 また、のちにブロンドのヒロインが作品のトレードマークになるほど女優さんへのこだわりを見せるヒッチコック監督ではあるのですが、本作におけるブロンド枠のおしゃべり女優ドゥーシーはまぬけなワトスン役の域を出ない活躍しかしませんし、肝心の囚われのヒロイン・ダイアナも、演じたノラ=ベアリングさんがブルネットだからというわけでもないのでしょうが、なんだか無口でナヨナヨっとしたお人形さんといった感じで、『ゆすり』のアニー=オンドラさんの体当たりの魅力に遠く及ばないものになっていたと思います。演技の拙さをカバーするために寡黙な役になっている、みたいな感じなんですよね。

 ただ、ここで本作の良いところをひとつだけ挙げておくのならば、それはやっぱり後半の真犯人役の追い詰められた演技と、大観衆の面前で華々しく迎える最期の緊迫感だと思います。それを食い止めようとしなかったジョン卿の無能っぷりは際立ってしまいますが、よくそんなシチュエーションを思いつくな、という状況での真犯人の末路は、ちょっと昨今の SNS上での公開中継自殺の闇に通じるリアルな恐ろしさもあり、荒唐無稽だと呆れてばかりもいられない普遍性があると感じました。ヒッチコック監督の、21世紀の現代病理への予言か!?
 にしても、真犯人のキャラクターにあの要素を加えちゃうと、絵的には意外性があって面白いのですが「男女の三角関係の一人」としての姿がぼやけてしまうので、そんなに切った張ったのドロドロ関係におちいるほどの人物なのかな?という違和感は残ってしまいますよね。
 そう言えば、容疑者の一人を演じていた『ゆすり』のドナルド=カルスロップさん、ほんとにちょっとしか出てこなかったよ。もったいないな~!

 あと、最後にひとつだけ、映画を観ていて実は本編内容よりももっと気になってしょうがなかった点について。
 上の Wikipediaを元にした作品の概要説明にもある通り、本作で最も有名と言ってもいい「ラジオから聴こえる BGMを録音するためにスタジオにオーケストラを入れた」というエピソードなのですが、これ、当時アフレコ録音の技術が無かったから、そんな手間のかかる撮影方法にしたっていう話じゃないですか。
 でもこの、ジョン卿がラジオ放送を聴いているシーンって、自室でジョン卿が洗面台の鏡に写った自分の顔を見つめながら、殺人事件について推理を巡らせている場面なのですが、ここ、ジョン卿が口をつぐんで黙っている状態で、思いッきり心中思惟をナレーションで語っているんですよ……

 あれ? これ、完全なるアフレコ処理じゃないの? だって、ジョン卿が口を閉じてるのにしゃべってるのよ?

 どういうこと……? 俳優のセリフに関してはアフレコ技術が導入されてたのか? それとも、このシーンだけジョン卿を演じているハーバート=マーシャルさんの声質に近い別の役者さんが近くでしゃべってたのか? はたまた、ハーバートさんがいっこく堂もかくやという神業レベルの腹話術マスターだったのか?
 いやいや、がっつりアフレコしてんじゃん!?みたいな疑問が湧いて、なんかモヤモヤするんですよね……そこらへんのご事情に詳しい方がいらっしゃってたら、教えてちょ~だいませ!


 さてさてそんな感じで、それなりに観られるエンタメ作には仕上げるものの、まだまだ暗中模索の時期が続くヒッチコック監督なのでありましたが、いよいよ次なるサスペンス・スリラー系の作品で、後のヒッチコック作品の定番となる要素の数々を自家薬籠中の物としていくきっかけを得るのでありました。
 サスペンスの巨匠、ついに覚醒か!? そしてその契機となる作品には、あの伝説的個性派俳優のコワすぎる名演が!

 天才監督ヒッチコックの足跡をたどる長い旅路、どうか次回も乞うご期待~。


≪毎度おなじみ~、視聴メモでございやすっと≫
・開幕早々、深夜に響き渡る女性の絶叫に慌てて起きる、劇団所属のエドワードとドゥーシーのマーカム夫妻。外していた入れ歯をはめるエドワードとネグリジェから着替えるドゥーシー、そして2人が建てつけの悪い窓に四苦八苦しながら外をうかがう様子など、映像的にマーカム夫妻のキャラクターを説明するテクニックが惜しげもなくズビズバ投入される。さすがは、サイレント時代からの職人ヒッチコック。
・劇団女優エドナの死体が転がる現場に押しかける野次馬と、エドナの関係者たち。そこら中の物を触るし椅子に座るし、『科捜研の女』の沢口靖子さんが見たら失禁しかねない、現場保存の鉄則からほど遠い状況なのだが、血まみれの火かき棒の近くでミステリアスな沈黙を守る仲間の女優ダイアナの横顔が、現場に不気味な緊張と静謐をもたらす。まさにサスペンス!
・いかにも世間話好きな舞台女優ドゥーシーが、ダイアナのために紅茶を淹れる大家のミッチャム夫人にまとわりついて、聞いてもいないダイアナとエドナ周辺の人間関係をとうとうと説明するくだりが、約1分50秒にわたるワンカット撮影で展開される。こんな状況説明、ふつうにやったらついていけなくなるのだが、しゃべくるドゥーシーを演じるフィリス=コンスタムさんの達者さと、キッチンとダイニングを行ったり来たりするコミカルな2人を追うカメラのせわしなさで、ちゃんと面白く見られるようになっている。演出がいちいち上手!
・この事件の予備審問が行われる裁判所の受付に「本日ダイアナとエドナは出演しません。」という貼り紙が貼ってあったり、独房のダイアナが舞台開幕の拍手の幻聴を耳にしてほほえむ描写があったりと、本作はまさに「劇場犯罪」というべきか、劇団の架空と現実の殺人事件とがごっちゃになった幻惑的な演出が差しはさまれる。ダイアナの不気味な沈黙も相まって非常に引き込まれますねぇ。
・真面目なはずの警察の聞き込み捜査が、よりにもよって劇団が喜劇を上演している最中に舞台袖で行われてしまうもんだから、証人の劇団員たちがひっきりなしに出たり入ったりするわ、トンマなメイクをしていたり男が女装していたりするわで映像的に相当おかしな光景になっているのが、ヒッチコック監督の底知れないサービス精神とチャレンジ魂を感じさせてくれて素晴らしい。ようやるわ……でも、これも出演者にそれ相応の実力がちゃんとないと実現できない趣向ですよね。この時代の映画俳優って、やっぱり基本的に舞台出身ばかりだから基礎がしっかりしてるのかなぁ。
・ヒッチコック監督のサスペンス系映画の前作『ゆすり』で、警察に追い回されてかなりひどい目に遭う恐喝者トレイシーを演じていたドナルド=カルスロップが、本作では舞台でまぬけな警官を演じる劇団俳優イアン役になっているのが面白い。この人もどんな役でもできて上手なんだよなぁ。そりゃ当時のヒッチコック作品の常連にもなりますわ。ちなみにフィリス=コンスタムさんも、『ゆすり』で本作の役とキャラがほぼ同じの、おしゃべりな主婦を演じている。監督、元気な女性が好きですよね。
・エドナ殺害事件の公判で、11人の陪審員の顔がパパパッと連続で映し出されるのが、だいぶ後年の市川崑監督による「石坂浩二の金田一耕助シリーズ」の撮影手法の原型を見るようで興味深い。その中にしれっと、本作での名探偵役のジョン=メニアー卿がまぎれているのも洒落てますね。
・ただ、この陪審員たちのカット、陪審員たちは「12人」のはずなのに、なぜか11人の顔しか映し出されないんですよね……なんで? ヒッチコック監督、忘れたの? その映されなかった1人は、のちの審議シーンで「深夜なのに白昼夢?」という衝撃の天然ボケ発言を炸裂させるおじさんなのだが、特に本作の中で重要な役割を担っているわけでもない。嫌われたもんですね……これ、ほんと、なんで?
・本作は1930年の映画だが、この時点ですでに法廷弁護士がふつうに女性であるあたり、さすがは近代西洋文明の旗手たる世界帝国イギリス(当時)だなぁとうならされてしまう。ちなみに、日本初の女性弁護士として有名な中田正子女史が弁護士になったのは昭和十五(1940)年でした。戦前日本もやりますね!
・公判の場で検事や裁判長が陪審員たちに対して、「容疑者の美しさに惑わされずに公平に審議してください。」と言っていること自体が、逆の意味でダイアナを差別しているという皮肉が、実にヤな感じ! でも、2020年代になっても解決していない問題ですよね、こういうの。
・公判後の陪審員たちの審議シーンも、さすが演劇化もされた作品と言うべきか、議論を通じて事件の内容と争点が整理される効果があって、観客にとっては非常に親切。見やすいなぁ。
・審議によって「12人中、ダイアナ有罪に11人」という圧倒的な状況になったところで、最後まで無罪を主張するジョン卿がおもむろに発言を始めるという流れが、いかにも名探偵登場といった感じでニクい展開である。ほんとこういうあたり、エンタメの教科書ですよね。
・世界にあまた無数の名探偵おれども、本作のジョン卿のように、登場したのっけから「推理の長ゼリフ」を始めてしまう名探偵はそうそういないのではなかろうか。別に事件の核心をついているわけでもないのに「この事件は難しいね」というだけの内容を長々と語る度胸には驚き入ってしまう。しかもド頭にしたり顔で「おれの話、長いよ~♡」と宣言するあたり、尋常でない鋼鉄の精神力である。イギリスの貴族って、こんな無理も押し通せるのか……身分社会、すげぇ!
・とうとうと語ったはいいものの、特にダイアナ無罪説を裏付ける確証も無かったために、案の定11人からミュージカル張りの「有罪でしょ!」合唱コールを浴びせられ、しぶしぶ有罪に転じてしまうジョン卿。証拠が無いんだから当然ですよね……それにしても、ジョン卿に詰め寄る11人の剣幕に、「早く公判終わらせて帰りましょうよ!!」という無言の同調圧力が潜んでいるのは、演出こそ喜劇的ではあるのだが、非常に恐ろしいものがある。これでダイアナの死刑が決まっちゃうんだからね……裁判って、こわい!!
・ダイアナへの死刑宣告という劇的な場面を、法廷内を撮影せずに、片付けをする用務員さんだけがいるからっぽの審議室に法廷から声が聞こえてくる光景で描写しているのが、「あえて映さない引き算の効果」を最大限に発揮していて素晴らしい。いや~ヒッチコック監督、大事なところは王道で行くけど、スキさえあれば挑戦的な撮り方にいくよね! まさに才能ギラッギラ。
・本作の名探偵ポジションのジョン卿は、貴族ということで物腰は非常に紳士的なのだが、人気舞台俳優ということで会う人会う人に尊敬のまなざしで見られるし、ロンドンの中心地ウェストミンスターのフラットで執事にブランデーグラスを持ってこさせる優雅な暮らしぶりだし、捜査の下準備は全部マネージャーのベネットにさせるしで、苦労らしいことをひとっつもしていないのが非常に鼻につく。しかも捜査のためとは言え、自分の舞台は平気で風邪だとウソをついて代役に任せるし、事件の重要人物である舞台監督エドワードの名前を忘れても全然悪びれないしで、しゃべるたびにイヤな感じのところがボロボロ出てくるのがおもしろすぎる。ベネットに、「事件の重要人物をなるべく多く集めてくれ。」だってさ……それ、範囲がガバガバで部下が一番困るやつ~!! 貴族って、そんなにイライラする存在なのか!? 京極夏彦の榎木津礼二郎とは別のベクトルで、近くにいてほしくない貴族探偵だ。
・かつて無名時代のダイアナが自分に売り込んできたことがあるという事実を、ベネットに言われるまですっかり忘れていた疑惑のあるジョン卿。その後でいくら「彼女には苦労が必要だったから追い返したのだよ……」って言い訳をしてもねぇ……もうお前しゃべるな! 捜査に専念しろ!!
・撮影スタジオにオーケストラを呼んで演奏させたというエピソードが有名らしいのだが、ちょっと音が大きすぎてセリフがよく聞こえません……まだまだ、トーキー映画もよちよち期だったのねぇ。
・ジョン卿から呼び出しの電報が来ただけで舞い上がり、精一杯おめかしして出発するエドワードとドゥーシー。それを見てアパートの大家は滞納していた家賃がもらえると大喜び……もはや本人が何も言わなくても周辺の人々が勝手に持ち上げ続けるジョン卿のスターっぷりに、もうお腹いっぱいです。このいかにも芝居めいて安っぽいくだりをよそに、調子はずれのピアノの練習をし続ける娘をちゃんと不協和音として画面の中に配置しているところに、ただのコメディには絶対にしないゼというヒッチコック監督の意地を見た! さすがです。
・しがない一般人のエドワードから見たジョン卿の威光のものすごさを説明する描写として、「ジョン卿の執務室の床のカーペットが異常にふっかふか」という誇張表現を挿入しているのが、悪ノリのしすぎでおもしろい。そんな布団みたいなカーペット、転ぶわ!
・今日明日にもダイアナの死刑が執行されるかもしれないという状況下で、事件の再捜査のためにエドワードを呼びつけたのに、まず菓子をつまみながら自身の芸術論をとうとうと語るところから始めるジョン卿。もうこれ、わざとやってるでしょ。
・自分の思うように世界が回っていると考えていそうな唯我独尊のジョン卿なのだが、無名の舞台監督エドワードにちゃんと仕事を与えた上で本題の事件の話に入っているあたり、相手の欲しいものをしっかり把握した「交渉」の手順を踏んでいて、そこがリアルに貴族っぽい。ただのおぼっちゃまじゃないんだな……
・ヒッチコック作品の恒例として、本作のワトスン役のドゥーシーを演じるフィリス=コンスタムさんもブロンドの美女なのだが、夫のエドワードとの間にすでに娘もいる無名の舞台女優という設定も相まって、エドワードとの所帯じみた夫婦漫才が堂に入った、生活感たっぷりの魅力的なキャラクターになっている。もう一方のヒロインである容疑者ダイアナのミステリアスな感じと好対照でイイ感じ。
・繰り返しになるが、ダイアナが死刑執行されかねない切羽詰まった状況の中でも、捜査の成功を祈るお酒の乾杯は忘れないジョン卿。う~ん、これは貴族階級にしか許されないペース配分ですね!
・ドゥーシーの何気ない発言に、事件解決の糸口を見つけるジョン卿。つまり、事件のトリックにつながる鍵は本作の冒頭でちゃんと観客に提示されていたのだ。こういう伏線回収、ミステリーではあるあるだけど爽快ですよね~。
・やっと捜査を開始するジョン卿とマーカム夫妻。殺害現場の大家のミッチャム夫人が事件当夜に聞いた声が女性のものとは限らないということを、舞台俳優らしいやり方で証明するジョン卿なのだが、それをまともに映像化されるとコントにしか見えない。いや、男の声だってバレバレでしょ……
・本作では本編開始から1時間以上経ってから、ほんとに一瞬だけ画面を横切るカップルの役で出演するヒッチコック監督なのだが、その一瞬の中でくいっと首をひねるだけで、なんかモテそうな雰囲気を醸し出しているのが小憎ったらしい。うまいな~、監督!
・異様にゴテゴテっとした土壁で作られているミッチャム夫人の宿屋や、遠近や水平バランスが狂っている劇場の楽屋まわりなど、現実的な殺人事件の解決を目指す本作の作風に関わらず、美術に超現実的なドイツ表現主義の雰囲気が継承されているのが興味深い。狭いスタジオ内で舞台を組む時の伝統になっていたのかな?
・登場してからこのかた、なかなか好感度の上がるチャンスの無いジョン卿だったが、捜査中に泊まった巡査の家で5人のガk……お子様方と1匹の黒猫にたたき起こされるという苦難に遭ってもニヒルな笑顔で受け流す余裕で、かろうじて人徳がアップするのであった。手がかりもつかめたし、よかったね!
・刑務所でのダイアナとの面会によって、ついに事件の真犯人を確信するジョン卿。必死に真犯人の行方を追うジョン卿たちのセリフを流しながら、映像では独房のダイアナと、日のめぐりによってじわじわと壁にのぼってくる絞首台のシルエットが映し出される映像のモンタージュが、切迫感をあおって非常にいい感じである。センスが冴える!
・ジョン卿は「自身の新作舞台のオーディション」という名目で真犯人をおびき出し、エドナ殺害事件を再現した戯曲の犯人役を演じさせて心理的動揺を誘うという、意地が悪いにも程のある作戦を発動させる。悪魔か!? でも、見事に引っかかって冷や汗みどろになりながらも、徐々に覚悟を決めて落ち着いてくる真犯人の演技が素晴らしい。特にわなわなと震える手の動きがすごいね!
・ジョン卿の極悪非道な心理作戦によって、その日の夜のサーカス公演で壮烈な最期を遂げる真犯人。その悲壮な表情も、死を選んだ場面設定も非常に映画らしく見映えのするものになっているのだが、結局確定的な証拠を掴めなかったジョン卿のひねり出した苦肉の策によって、真犯人の死亡と、その暴発的な公開自殺によって興行と団の看板に致命的なマイナスイメージを負ったサーカス団、そしてそのエグすぎる死を目の当たりにしてそうとうなトラウマを抱えることになった数百人のサーカス観客といった甚大な犠牲の数々をまねいてしまった。ジョン卿、我が国の金田一耕助などまったく比較にならないほどの大失態を何コもやらかしているのですが……この人、ほんとに名探偵か?
・事件解決後、舞台上で恋人同士の役を演じるジョン卿とダイアナというしゃれた終幕を迎える本作。でも、自身の捜査において状況証拠ばっかで決定打に欠けるというマズさから真犯人の逮捕に失敗し、それなのにご丁寧な真犯人の遺書で推理が正しかったことを認められ、挙句の果てにゃ自分にぞっこんの美女をゲットするという、超絶ラッキーマンなジョン卿……こんな他力本願成分ほぼ100% な人、人気でるかぁ!?
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中身よりも面白い、トーキー前夜の悲喜こもごも ~映画『恐喝(ゆすり)』~

2023年09月04日 15時03分48秒 | ミステリーまわり
 どもども、みなさんこんにちは~。そうだいでございます。まだまだ暑い日が続きますが、あんじょうしてまっか?

 さて、今回はとっととお題に入ってしまうのですが、前回の『下宿人』(1927年)に続きまして、サスペンス映画の神様にして、あの『サイコ』(1960年)を世に出した点から見るのならば全てのホラー・スラッシャー映画の開祖ともいえる位置におはす大巨匠アルフレッド=ヒッチコックの足跡をたどる企画の第2弾でございます。ペース的にかなりの「気長にゆる~り」を強いる旅になりそうでありんす……『サイコ』にたどり着くのは、いつのことになるのやら~!?
 というわけで、今回取り上げる映画は、こちらにござりまする!


映画『恐喝(ゆすり)』(1929年7月公開 84分 イギリス)
 映画『恐喝(ゆすり)』(原題『 Blackmail』)は、1929年のイギリスのスリラー映画である。1928年にチャールズ=ベネットが発表した同名の戯曲を原作とする。
 制作開始時、ブリティッシュ・インターナショナル映画( BIP)社は本作をサイレント映画として企画していたが、音声入りの別版をもうける案を採用、これを封切るとヨーロッパ初の人気トーキー映画作品となった。当時まだ音響設備のなかった映画館向けには、上映時間76分のサイレント映画版が公開された。本作は、1929年に公開されたイギリス映画の人気第1位に選ばれた。
 本作は、日本では劇場公開されなかった。

 当初サイレント映画として撮影が始まった本作は、ヒッチコック監督が BIP社のプロデューサーのジョン=マクスウェルに交渉し、人気が出始めたトーキー映画技法を一部のシーンに使う許可を得た。そのため、本作はサイレント映画としてほぼ撮影済みとなった後に、出演者の顔が映らないシーンを選んでトーキーを合成した。そうした経緯から、本作では出演者とは別の声優にセリフを語らせ録音するという「アテレコ」方式をとった。したがって、BIPがトーキー映画として宣伝していた本作は、実はサイレント映画の一部音声入り、つまり「一部トーキー映画」と言ってよい。
 一部のシーンのみ音声を入れた背景には、オーストリア=ハンガリー帝国のプラハ育ちでチェコ語なまりが強い主演女優オンドラの肉声を、英語映画に使うわけにはいかないという判断があった。スタッフ陣は当時、録音技術に習熟しておらず、オンドラの声をすべてアフレコすることは不可能だったこと、セリフがあるシーンのみを代役に演じさせる「替え玉撮影」の手法は却下されたことから、女優のジョーン=バリー(1903~89年)を撮影現場に招き、オンドラのセリフを語らせて録音した。そのため、オンドラは会話シーンでバリーの声に合わせて口パクを演じさせられたため、見方によっては演技がぎこちなくなっている。

 ヒッチコック監督は、本作に自身の作品のトレードマークとなる要素をいくつも盛り込み、「金髪の美人」、「迫る危険」、「クライマックスに有名な景色を取り入れる」などの点がすでに揃っている。また、大英博物館図書室のシーンでは実景の光量不足が気に入らず、プロデューサーに無断で模型を用意し、鏡を使った特撮技法「シュフタン・プロセス」で撮影した。
 本作は、評論家に高く評価されて興行も成功し、その音声は独創的と賞賛された。本作の劇場公開はトーキー版が先で、その翌年にサイレント版を上映している。すると上映日数、興行成績ともにサイレント版が記録を伸ばし、イギリス全国の映画館にまだまだ音響設備が整っていなかった事情がうかがえる。
 本作のスタッフ陣には、将来の映画監督の卵も参加しており、ロナルド=ニーム(1911~2010年 『ポセイドン・アドベンチャー』)がカチンコ係、マイケル=パウエル(1905~90年 『血を吸うカメラ』)が宣材用スチル撮影を行っていた。

 ヒッチコック監督は、本作では冒頭で、ロンドンの地下鉄で幼い男の子に読書の邪魔をされる乗客の役でカメオ出演している。その出演時間(約20秒)は、数あるヒッチコックのカメオ出演の中でもおそらく最長である。


あらすじ
 イギリスのロンドン警視庁スコットランドヤードのフランク=ウェーバー刑事は、ガールフレンドのアリス=ホワイトを誘ってレストランに出かけるが、ひょんなことから口げんかになり、ウェーバーは店を出てしまう。その時、ウェーバーはアリスが見知らぬ男性と店を出ていくのを目にした。アリスの相手は画家のクルーだった。
 クルーに口説かれて、クルーの住むアパートのアトリエに入ったアリスは、パレットと絵筆を借りて落書きのような人の顔を描く。すると、そこにクルーは筆を加えて裸婦像に変えてしまい、アリスに筆を持たせると、手を添えて「アリス」というサインを書かせた。そして踊り子の衣装を見つけたアリスは、クルーに薦められるがままに着替え、クルーはピアノを弾き『ミス・アップ・トゥ・デート』を唄う。
 その後、突然クルーにキスされたアリスは腹を立て、もう帰ると言い出し着替えようとするが、クルーはアリスを暴行しようと襲いかかる。身を守ろうと必死になったアリスは、傍にあったパン切りナイフでクルーを刺してしまう。アリスは我に帰ると、自分が来た証拠をあわてて消してアトリエを出ていくが、部屋にはアリスの手袋が残されていた。
 クルーの遺体が発見され、事件の担当に選ばれたウェーバーは、現場でアリスの手袋の片方を見つけると、被害者の素性を知っていながら上司に報告しなかった。ひそかに手袋を持ち出したフランクは、アリスの父が経営するタバコ店を訪れるが、アリスはすっかり取り乱していてフランクにきちんと事情を説明できない。
 アリスの父のタバコ店で密談するふたりのもとに、トレイシーという男がやって来る。トレイシーは昨晩、クルーの部屋へ入っていくアリスの姿を見かけ、アリスのもう片方の手袋を事件の証拠に持ち出していたのだ。ウェーバーも手袋を持っていると知ると、トレイシーはアリスとフランクを脅迫する。最初は些細な要求だったためにふたりは応じるが、ウェーバーは警察が、現場付近で前科者であるトレイシーの目撃情報があったことからトレイシーを事情聴取することを知る。ウェーバーはトレイシーを連行しようとするが……

おもなキャスティング
アリス=ホワイト …… アニー=オンドラ(26歳)
フランク=ウェーバー刑事 …… ジョン=ロングデン(28歳)
脅迫犯トレイシー …… ドナルド=カルスロップ(41歳)
画家のクルー   …… キリル=リッチャード(30歳)
アリスの母    …… サラ=オールグッド(48歳)
アリスの父    …… チャールズ=ペイトン(55歳)
主任警部     …… ハーヴェイ・ブレイバン(46歳)
おしゃべりな客  …… フィリス=モンクマン(37歳)
ガサ入れされる男 …… パーシー=パーソンズ(51歳)

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(29歳)
原作 …… チャールズ=ベネット(29歳)
脚本 …… チャールズ=ベネット、アルフレッド=ヒッチコック
製作 …… ジョン=マクスウェル(50歳)
撮影 …… ジャック=コックス(33歳)
編集 …… エミール=デ・ルエル(48歳)
音楽 …… ジミー=キャンベル(26歳)、レグ=コネリー(34歳)


 今でこそ、「サスペンス、スリラー映画と言えばヒッチコック!」というイメージが定着していますが、当然そんな彼にも駆け出しの若手新人映画マンだった青春時代はあり、自分がどんなジャンルの映画で才を発揮していけばいいのかわからないと悩む日々はあったわけであります。それを如実に表すのが初期のヒッチコック監督のフィルモグラフィで、のちに彼の専門領域となるサスペンス映画と言える内容の作品は、その監督第3(『下宿人』、10(本作『ゆすり』)、12(『殺人!』)、15(『第十七番』)作というようにとびとびになっており、その間には文芸作品、ロマンス、コメディ、スポ魂もの(?)といった風にさまざまなジャンルを転々としていたのです。ヒッチコック監督の作品が、調理法は多々あれど主軸がサスペンスで固定されるのは第17作の『暗殺者の家』(1934年)からですね。
 ただし、全体的に本作の「走る車のホイールのどアップ」や「階段ぶった切り断面撮影」で象徴されるような、日常にあふれている物を非日常的な視点から撮影することによって観客の注目を集めるトリッキーな手法はほぼすべての作品で活用されており、どんなにチープでベタな内容の物語だったとしても、単に登場人物にセリフでペラペラ説明させるのではなく、無言の映像描写で人物の心理を象徴するテクニックは、2020年代の今現在から見ても充分勉強になるヒントにあふれたものになっています。そこらへんはもう、サイレント映画で鍛えられた職人監督ならではの矜持ですよね。
 本作でも、よからぬことを考えている人物の顔に、窓辺のインド風の唐草装飾の影が映ってまがまがしいメイクに見えるとか、死刑台に上がる自分の姿を想像して呆然とする人物の首筋に黒い線の影が映るという細かい演出が冴えわたっています。

 いつも通り、本作の内容に関するこまごまとしたおもしろポイントは後半にまとめておくのですが、あの『下宿人』から2年の歳月が経ち、再び殺人を扱うショッキングな内容の映画となった本作は、結果としてまだまだヒッチコック監督にサスペンス映画専属という舵を切るきっかけにはならなかったものの、あらゆる点で『下宿人』をしのぐ格段のレベルアップを果たした、別人のように登場キャラクターの解像度が鮮明になった野心作となっています。『下宿人』がファミコンソフトだったら、『ゆすり』はスーパーファミコンソフトぐらいなかな?
 本作『ゆすり』は、「ヒロインの彼氏がロンドン警視庁の刑事」とか「殺人の濡れ衣を着せられる男」とかいうキーワードが『下宿人』と共通していることからもわかる通り、ヒッチコック監督的には『下宿人』のリベンジなんじゃないかと思える内容なのですが、それらの要素が導く結末が、古色蒼然としたおとぎ話みたいなハッピーエンドの『下宿人』とはまるで違う、かなり釈然としない不条理な空気のただようものになっています。
 う~ん……見た目はハッピーエンドだし、おそらくこの事件を経て、アリスとフランク刑事はお互いに絶対に離れられない「絆」が生まれたことは間違いないのですが、それが非常にどす黒い「罪の絆」といいますか、2人そろって「これからは静かにつつましく生きていこうね。ハハ、ハハ……」みたいなひきつり笑いを浮かべるような種類のオチなのです。いや、オチてない! 恐喝者トレイシーが、なんかかわいそうになってしまうような、「おまわりさんとの関係が良好だったらオールオッケー!」な世の中のお話なんですよね。大岡裁きのほうが数百倍法治国家だと思います。でもまぁ、もともと悪いことをしていたトレイシーがいけないっちゃあいけないんですが。

 あと、この作品はヒッチコック監督初のトーキー映画としてもその名が知られているのですが、実際に診ていただければわかる通り、本格的なトーキー映画では全くなく、「サイレントでも全然問題なくいける作品に、ギミックとして音声を足した」という雰囲気の作品になっています。
 それに、当時の世界の映画館事情を想像するだに、まずスピーカー設備をつけている映画館自体が少なかっただろうことは明らかで、実際に本作『ゆすり』が大ヒットしたのはもっぱらサイレント版の方だったということです。
 つまり、1929年当時のトーキー映画と言うのは、2023年現在の日本人の感覚で言うと 4DXとか MX4D上映作品のような、ある意味での「とっつきにくさ」がまだまだある新参者だったのではないでしょうか。
 だからこそ、本作の中でヒッチコック監督は確実にキメたい「一番大事なところ」はもっぱら音声に頼らないサイレント方式の演出で撮影していますし、ヒロインを演じるオンドラさんも、どっちかというとしゃべっているよりも黙り込んで雨に濡れた子犬のように小刻みに震えている演技の方が印象的なのです。その一方でヒロインをハッとさせる車のクラクションやウザいおばはんの「ナイフ!」という単語、絵描きのクルーのピアノ弾き語りやトレイシーの下品な口笛、過剰にうるさいインコの鳴き声といった第2線の演出で音声を多用しているので、ほんとに『アバター』とか『ジュラシック・ワールド』シリーズの3D 演出みたいな感じで音声を使っているのがよくわかりますね。
 つまり、今現在認識されている意味でのトーキー映画をヒッチコック監督が撮影するのは、もうちょっと後にお預け、といった感じになるわけです。

 あと、本作はのちのちにヒッチコック監督のトレードマークとなる「金髪美女」や「意味ありげな小道具を使った伏線」、そしてちょっと引いちゃうくらいにねちっこい「のぞき見趣味」がすでに軒並み登場しているという点も重要なのですが、オンドラさんの入魂の「魂のぬけた演技」こそ素晴らしいものの、「アリスの穴の開いた手袋」も「なんかイラっとくる道化師のおっさんの絵」も、映像としてはおもしろいキーアイテムではあるものの、実はあんまり謎解きの本質にかかわってこない小道具どまりなのが、いかにもヒッチコック監督の若き日の模索と言った感じで逆に新鮮ですね。トレイシーが手袋をどこで手に入れたのかとか、フランク刑事がトレイシーの手袋を取り返せるのかとか、道化師の絵のキズがアリスの犯行の証拠として活きてくるのかとか、サスペンス映画としてもっと面白くなる可能性はいっぱいあったと思うのですが、そこらへんはまるっとスルーなんですよね……もったいない!

 というわけで、本作『ゆすり』は、まだまだヒッチコック監督の才能の開花を告げる傑作……とはいえないものの、その萌芽はありありと感じさせてくれる、『下宿人』よりも格段におもしろい作品となっております。特にオンドラさんの「真の初代スクリーミング・クイーン」っぷりは、必見ですね! いや、実際には一度も叫んでないんですけど、叫ぶ一瞬手前の状態をず~っとキープしてるんですから、かなり実力のある女優さんですよ、ほんとに。
 今年観た映画の『バビロン』でも語られていましたが、まさかサイレント映画の世界では全く問題にされなかった「声」のせいで次世代に生き残れなくなってしまうとは……なにか、現代の「映画→テレビ」、「テレビ→動画配信」、「レコード→ CD」、「 CD→音楽配信」にも見られる、技術革新という名のもとに行われ続ける大量淘汰の摂理を見るようで、世の無常を感じますね……

 人の弱みにつけ込んじゃいけないよ! でもこの映画、なんてったって『シャーロック=ホームズ』シリーズ随一のゲスである恐喝王チャールズ=オーガスタス=ミルヴァートンとか、『モンティ・パイソン』の「恐怖のブラックメール・ショー」とかを生み出している本場イギリスの作品なんですから、もはや何を申しても風の前のチリに同じですね。
 諸行ムジョ~!!


≪まいどおなじみ視聴メモ≫
・巨匠ヒッチコック初のトーキー映画という前情報だけでワクワクしながら本作を観ると、セリフが聞こえてくるのが本編開始から8分を過ぎてからという事実に面食らってしまう。そこまでは、まさに「ロンドン警視庁実録24時!」といった感じで実にテンポよく犯罪者逮捕のもようが描写されるのだが、劇中で登場人物がけっこうしゃべっているのに声が全然聞こえてこないのが奇異に感じられる。Wikipedia の記事にある通り、本作が「基本サイレント方式撮影のアフレコ加工作品」であることを如実に示す冒頭である。実際、セリフが一言も無くても内容が十二分に伝わってくるのだから、さすがは職人ヒッチコックといった手練手管!
・冒頭に逮捕される、インパクト大の悪そうな人相をしたおじさんが、単にロンドン警視庁の仕事っぷりを伝えるだけの役割で、その後本筋に全く絡んでこないのが、もったいないというか大らかというか……結局8分間のハラハラは何だったの!?
・今後なが~く語り継がれる、ヒッチコック映画名物の「金髪美女」。あらゆるホラー映画の中で重要な見どころとなる「スクリーミング・クイーン」の祖先ともいえる伝統の、事実上最初の女優さんとなるのが、本作でヒロインのアリスを演じるチェコ人女優アニー=オンドラさんとなるわけであるが、さすがは初代クイーンと言うべきか、お顔もスタイルも抜群である。そりゃあヒッチコック監督も、英語を話す声優さんを据えてでも出演させたくなりますわな!
・ファンの間では有名な、地下鉄車内でのヒッチコック監督のカメオ出演シーンなのだが、セリフは当然無いながらも、かなり自然で愛嬌のある演技で観客の笑いを誘う芸達者ぶりに驚かされる。でも、別にいたずらをする男の子が今後の物語に絡んでくるわけでもないし、ぶっちゃけ丸ごとなくてもいいシーンなんですよね……まぁ、恐喝だとかなんとか何かと暗めな本編に足りないユーモア成分を取り込むため、と解釈できなくもないのだが。監督、目立ちすぎっす!
・ロンドンの人気レストランのドアボーイが、ほんとに10歳前後にしか見えない「ボーイ」なのに驚いてしまう。それで大人に対して「満席だから入店ダメダメ!」とか強めに対応してるんだから、大したもんである。今じゃ考えられない風景ですよね。
・本作はセリフに関してはアフレコ録音作品なのだが、英語がネイティブ同然には話せないオンドラさんに限っては、声優さんがすでに録音したセリフに合わせて口を動かしながら演技をしなければならないというハードな撮影現場だったらしい。でも、作中を観るかぎりオンドラさんは非常に自然に演じていて、現役刑事の彼氏とケンカしても一歩も引かない気丈な娘さんを表情豊かに好演している。イイ感じ!
・交際も円熟期を通り越して倦怠期に入りかかっているというか、仕事のせいとは言え待ち合わせに遅れてもちっとも悪びれないフランク刑事もだいぶ鈍感だが、別の男と秘密の待ち合わせをしているレストランに彼氏と一緒に入店するアリスもたいがいおかしい。そういう自暴自棄ぎみないたずらでフランクの気を引き締めるつもりなのか? 愛のムチどころかナパーム弾レベルの破壊力なんですが……
・アリスの思惑通りなのかそうでないのか、予想以上に機嫌を損ねたフランクはさっさとレストランを出ていき、待ち合わせ通りに画家のクルーと合流することに成功する。でも、フランクが気を取り直して一緒に映画を観に行ったら、クルーはみすみす目の前にいながらすっぽかされることになっていたのか……う~ん、アリスもなかなかのビ〇チですな! この後に遭う目も自業自得か?
・下心アリアリなクルーの気持ちを知っていながら、一緒に歩いてきておいてアパートの入口で急に帰るとゴネだすアリスの心理描写がものすごくリアル! 彼氏を揺さぶるためのダシにしただけであって、そんなに本気にさせるつもりじゃなかったし……みたいな。ふてぇ娘だぜ!
・クルーのアパートの前のカットで、後に本作の台風の目となる重要人物トレイシーがかなりさりげなく登場しているのが、いかにも職人監督らしい巧みな伏線の張り方でおもしろい。その前のレストランのシーンで「アリスの手袋」の存在にも触れているし、抜け目ないね~!
・アリスとクルーが部屋に向かうくだりで、アパート全体を縦にぶった切ったような「断面階段」ワンカット撮影があるのが、いかにもヒッチコックらしいトリッキーな発想でおもしろい。どこにお金かけてんの!?
・自分の部屋にひとりで来た女性が、バレリーナの衣装を手にして「私、これ着てあなたの絵のモデルになりたい♡」って言いだすんですよ!? そんなの「超 OK!」って言ってるようなもんじゃないっすかぁ~!! という、クルーの亡霊の哀訴が聞こえてくるようである。とは言っても、最終的に彼がやってしまったことは男として最低の蛮行なのだが……線香の一つでもたむけてやりたくはなる。キリスト教徒だろうけど。
・トーキー映画らしく、クルーのピアノ弾き語りというネタで上品さを取り繕ってはいるが、同時に衝立の裏で下着姿になって着替えているアリスをがっつり観客に見せているという画面構成は、やっぱり品が無いとしか言いようがない。のちの『サイコ』(1960年)に直結する「のぞき見趣味」も、すでに30年も前のここの時点で出てきてるんですよね~! 業が深い。
・クルー役のリッチャードさんは、絵は描くしピアノは弾くし歌も唄うしでものすごい大活躍なのだが、それで最期があんな感じなのだから、まさしく「やり損」としか言いようのない報われない仕事だと思う。よくこんな役を引き受けましたね……
・クルーがアリスの唇を強引に奪うところから、翌日にアパートの大家がクルーの死体を発見するところまでの約9分30秒の流れが、緊迫感に満ちていて本当にすごい。その緊迫感の源泉は、やはり言葉を必要としないアリス役のオンドラさんの迫真の演技だと思う。正当防衛とは言え、偶然手に取ったパン切りナイフで殺人を犯してしまった行為が、確実にアリスの心を壊してしまったということが一目でわかる、その凍った表情、こわばった手足の動き、カッと見開いているのに何も見ていない瞳! トーキー映画だとしても、肝心の部分は俳優のセリフ回しでなく身体にゆだねるというところが、ヒッチコック監督の過渡期を見るようで非常に興味深い。繰り返しアリスが見てしまうクルーの手首やナイフの幻影が、もうドイツ表現主義のレベル! カリガリ~。
・慌てて電話で警察に通報する大家と、電話を受け取っている警察官の姿をかなり強引にワンカットに同居させている極端にマンガチックな構図に、無駄なことをいっさい許さないヒッチコック監督のこだわりを感じる。でも、自分の出演シーンはカットしないのね……
・クルーの描いた、観る者を指さして大笑いする道化師の絵を見て、突発的にイラっときて爪を立てて絵を引き裂いてしまうアリスの心理が非常にリアル。ところで、殺人現場に置かれてあった美術品が重要なキーアイテムとなるミステリー作品といえば、言うまでもなく江戸川乱歩の傑作短編『心理試験』(1925年)なのだが、乱歩先生の方が先ですからね! さっすが~。
・アリスの殺人シーンに次いで、フランク刑事が事件へのアリスの関与に気づくシーンも、セリフを必要としない俳優の演技だけで見せているのが印象的なのだが、もともとサイレント映画のつもりで作っているのだったら、ごくごく当たり前の判断であるとも言える。ほんと、本作は大事な芯の部分が全てサイレント撮影の作法のまんまである。
・人を殺めてしまい、精神に大きなダメージを負ってしまった後のアリスの方が、その前の彼女よりもずっと魅力的に映ってしまうという演出が、実に皮肉で恐ろしい。それにしても、アリスの自宅での着替えシーンも、特に足を執拗に接写していてゾッとするほど気味が悪い。こわ……
・平静を装おうと努めるアリスだが、顔は小刻みに震えてるし目は泳ぎまくっているしでひどい有様なのだが、そこに畳みかけるように浴びせかけてくる、薬局の常連のボーダー柄の主婦のマシンガントークがステキにウザい! その会話の「ナイフ」の単語だけが極端に強調されてアリスの耳に刺さってくる演出は、まさにトーキー映画ならではのアイデアである。こういう「悪意のない脇役の攻撃」も、ヒッチコックお得意の手ですよね!
・アリスの実家の薬局が、店舗部分と家族のプライベートな食卓とがドア一つ隔てているだけの間取りになっているのが、昭和の日本の駄菓子屋を連想させるようで妙になつかしい。見えてましたよね~、店の奥にちゃぶ台とテレビ。
・アリスと同様に、事件の真相に気づいてしまったとたんに人物造形の彫りが深くなるフランク刑事も皮肉なものである。カップルのよりを戻すきっかけエピソードにしては、事態が深刻過ぎる! こんなの『新婚さんいらっしゃい!』でも聞いたことないわ!!
・物語の中盤を過ぎて、やっと本作のタイトル『ゆすり』の首謀者となるトレイシーが本格的に乗り出してくるのだが、薬局で顔を見せた瞬間からすでにめちゃくちゃ腹の立つニヤニヤ顔をしているのが、観ている側も笑ってしまう。こういうキャラクターのわかりやすさも、サイレント映画っぽいですよね。
・アリスの殺人シーンに続いて、フランク刑事が薬局に来店してからトレイシーがアリス一家の食卓につくまでの約11分間も、肝心のアリスがほとんど言葉を発さない状態で物語がずんずん進んでいく構造になっているのが非常に印象的である。とにかく、冒頭の奔放さとは打って変わって、周囲の状況におびえながら立っているがやっとというギリギリの感じが切迫感に満ちていて、アリスを演じるオンドラさんの、美貌だけでない演技派としての実力を感じさせるシーンとなっている。セリフをしゃべっている人物よりも、それを固唾を吞んで聞いているアリスを観ている方が面白いという逆転現象がすばらしい。オンドラさんがあまり英語を上手にしゃべれないという裏事情があるにしても、その逆境を巧妙なシチュエーション作りに利用してしまうところが、プロの仕事ですよね!
・苦虫を噛んだような表情でしぶしぶ現金を渡すフランク刑事を横目に、余裕綽々で口笛ふきふきアリス家の朝食を食べるトレイシーなのだが、ナイフとフォークをカチャカチャ鳴らして食べている、ベーコン的なうすっぺらい何か(はっきり見えない)が、1ミリもおいしそうに見えないのがすごい! さすがは全世界にその名を轟かせるイギリス料理!! 逆ジブリめし!!
・ここまでトントン拍子にゆすりがうまく運んでいたトレイシーだったが、自分自身のこれまでの悪行が災いして、アリスでなく自分が警察に追われてしまうという末路をたどってしまう……のだが、これって要するに、クルー殺害事件の犯人としては正真正銘の「冤罪」じゃないっすか? そりゃまぁ、人の弱みにつけ込んでゆするようなゲスはバチが当たっていいのだろうが、こともあろうに警察官であるフランクが、恋人を救いたいという私情以外の何者でもない動機で他人に罪をなすりつけるという行為が、本作を何とも言いようのないモヤっとした味わいの作品にしていると思う。少なくとも、21世紀に生きる私達が観ていてスッキリする内容じゃないですよね……
・トレイシーもトレイシーで、ふんばって冤罪を叫んでいたら、もしかしたらアリスの犯行を裏付ける新証拠が出たかもしれないのだが、いかんせんフランク刑事の心証を最悪なものにしてしまっているので、不透明な警察捜査の中で一気に罪をおっかぶせられるビジョンしか見えず逃げだしたのだろう。悪役がかわいそうに見えてはいけないと思うのだが、のどカラッカラの状態で大英博物館に逃げ込むトレイシーは、もう哀れとしか……
・モノクロ映画の映像の不鮮明さも手伝って特撮のタネはよく判別できないのだが、確実に実物を背景にした撮影には見えない不思議なミニチュア感がただよう大英博物館のシーンが、なんか NHK『みんなのうた』の伝説的名曲『メトロポリタン美術館』(1984年 歌・大貫妙子)を想起させるようで非常によろしい。シュフタン・プロセスっていうんだ、あれ……
・例の道化師の絵も含めたアリスとフランク刑事の苦笑い地獄がインパクト大なラストなのだが……これ、オチてるかぁ!?
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