は~い、みなさまこんばんは! いつものそうだいでございます。みなさま、今日もがんばって疲れましたか? ご苦労様でしたねぇ。
私も今日は、朝から電車に乗りどおしの一日だったんですけれども、やっぱり電車移動っていうのは、もちろん便利でいいんですけど、長時間はツラいものがありますなぁ! 何を当たり前のことをほざいてるんでしょうか。
まずはやっぱり、空調がなかなか思い通りのいい感じにならなくてねぇ! こう冬本番になってくると、乗り始めはあったかくてとてもありがたいんですが、1時間も乗っていれば暑くなって汗はかくしノドは渇くし……それを3~4回も乗り継いじゃったら、家につくころにはもうヘロヘロなんですよね~! お仕事そのもので疲れるんだったら当然納得もいくんですけど、移動の疲れっていうものは、なかなかタチの悪いもんでありますなぁ。
特に、今日はなんだかわかんないですが JR線も東京メトロもダイヤの乱れがちょいちょい連続したりしてね。別に電車自体が運休してお仕事に影響が出る、とまでいくことはなかったので良かったのですが、比較的あさい夜に帰途についたのに家に帰ったら真夜中、っていうのはなんともはや……明日も早いからさっさと寝なきゃ!
あぁ! そういえば、十八世・中村勘三郎さん、ねぇ……
勘三郎さんになって7年ちょっと。還暦も迎えずにですよ。これにはなんとも、言葉を失ってしまいます。
これからどんどん、お父上の十七世・勘三郎にそっくりになっていって、しかもその父を超える業績を打ち立てていくのかと思っていたのですが……
こういうことを連想するのは非常に不謹慎かとは思うのですが、 NHK大河ドラマが大好きである私はやはりどうしても、彼が五世・中村勘九郎だった時代に演じて大評判となった、『武田信玄』(1988年)での今川義元役のあまりにも残酷で、かつ壮絶に美しかった最期を思い起こしてしまいます。
今となっては、この『武田信玄』で描写された今川義元像や桶狭間合戦のもようは、いかにも旧態依然とした古臭い俗説にまみれたものとなってしまってはいるのですが、それでも、京の都を目指して万全の態勢をととのえて出陣したはずの義元が、織田信長の豪雨にまぎれた奇襲によって一瞬にして斬殺されてしまうというフィクションの世界は、彼の入魂の演技によって確かに「史実を軽く凌駕した」リアリティを持ったものに昇華していたのです。
それにしても、まさしくこれからという時期にあっという間に舞台からその姿を消すことになってしまった2人の天才、十八世と今川義元……人の世というものは、昔も今も思わぬところで残酷すぎる刃をひらめかせるものなんですね。
つくづく私は、そんな運命の神様にとってもアウト・オブ・眼中な最底辺にいる凡人でよかったと思っとりますよ、ハイ。
そういえば、最近は芸人さんが胃がん手術を受けることになった、とかいうニュースもありましたが、この前に三条会のお芝居を私と一緒に観た親友も、会社の規定で35歳になってからは必ず人間ドックを受けなきゃならないようになる、とか言ってましたわ。
健康診断じゃあ、わかる内容もたかが知れてますからね。私だって35なんてあっという間なんだから、ちょっとはそういうもののために貯金しておかなきゃなりませんわな。バカにならないんでしょ? 人間ドックのお代なんて。や~ね~!
……今ちょっと調べてみたんですけど、高っ! 人間ドック高っ! よし、がんばって明日からも働こう……
まぁ、んなこたぁどうでもいいんだ!
今回は、つい昨日に東京で観てきたお芝居の感想なぞをつれづれ、いってみたいと思いま~す。
昨日は夕方までお仕事をしたあと、東京は渋谷と下北沢の中間ぐらいに位置する、駒場というところにある小劇場「こまばアゴラ劇場」に行ってお芝居を観てきまし~た。
城山羊(しろやぎ)の会プロデュース第13回公演 『あの山の稜線が崩れてゆく』(作・演出 山内ケンジ)
はい~、城山羊の会さんでございます! あの、丸1年前の2011年暮れに、私が「こ、こ、こりはまさしく3.11以降の日本を描いた作品でし!!」と勝手に興奮してしまった映画『ミツコ感覚』(主演・初音映莉子のようでいてあきらかに石橋けい)の監督である山内ケンジさんの作・演出であります。
この『長岡京エイリアン』でも、ちょいちょい城山羊の会さんの作品が好きだ~なんてことをつぶやいているわたくしなのですが、実は公演を観るのは去年春の『メガネ夫婦のイスタンブール旅行記』以来でして、『ミツコ感覚』公開に前後していた去年末と今年夏の2公演をまるまる見逃しているという情けない状況になっておりました。ダメだな~!
ということで、およそ1年半ぶりに観ることになった城山羊の会公演に、私の期待はいやがおうにも高まっていたわけだったのですが、実際に昨日、このまなこでしかと拝見した感想は……
とても恐ろしく、あたたかく、おもしろく、せつない作品だった!!
やっぱり今回もギャフンとうならせられてしまいました……お芝居自体は「1時間半」というボリュームだったのですが、そのわずかな間にこうも自分の「脳内の温度」が乱高下してしまうものなのかと、なんだか激しいスポーツかおもしろいスーパー銭湯にでも興じたかのような感覚におちいってしまいましたよ。
いろいろ言いつつ、結局は私も2008年ごろからたかだか5作ほどの城山羊の会さんの公演しか観ていない浅漬け人間なので大きな口はたたけないのですが、私は城山羊の会というか、山内ケンジさんの作り出す「登場人物たちの言葉や行動のボタンのかけ違いから物語が始まっていく」世界が大好きです。誰が悪いというでもなく、よかれと思ってついた軽いウソがいちばん恐ろしい悲劇を生み出す母胎になってしまうという、いわば「凶夢のピタゴラスイッチ」とも言える伏線の精緻さと、物語の進行にしたがってある程度の不幸が累積してきた段階で、登場人物全員が一気に「スッポ~ン☆」と常識の重力から開放された狂気と本能の宇宙へと飛翔していく、人間本来の「逃避」の力強さとが同時に体験できる城山羊の会さんの作品が大好きだったわけなのです。
ところが……今回は、そのあたりの「思わぬ不幸とそれに抗う人間」との衝突が生み出す爆発の火薬量がちょっと今までと違っていたような気がするんですよ。ケタがちがってた!
まず、今回の『あの山の稜線が崩れてゆく』は、物語ののっけから上にあげたような山内ケンジさんの作品にみられるダイナミズムが「前倒し」になっています。始まってわずか5分という早さで、舞台となっている古めかしい家に住んでいる3人暮らし一家のひとり娘である受験生のしおり(演・岸井ゆきの)が家庭教師の高崎馬(たかさきうま 演・本村壮平)にたいして何らかの想いをいだいていることが暗示され、それにたたみかけるかのように、しおりの母親・冴子がちょっと度を越した欲求不満におちいっているらしいことが明示されるのです。今回も、冴子役を演じている石橋けいさんの疲労オーラ180% 大全開で床を見つめるうつろな視線と、絶妙な角度で傾斜したねこ背から首筋へのラインは快調でした。やっぱり石橋さんは素晴らしい!!
娘のしおりを押しのけて高崎馬に常軌を逸したモーションを仕掛けてくる冴子ではあるのですが、その日、予定よりも仕事が早く終わったと帰宅してきたスーツ姿の旦那さん(しおりの父 演・古屋隆太)はきわめて常識的な物腰の中年男性で、冴子にもしおりにも優しい声をかけるその様子からは、冴子があれほどおかしな精神状態になる理由がつかみとれません。
ところが、そんな旦那さんが帰宅したことから冴子さんの奇矯な言動にはさらにギアがかかってしまい、「早く帰ってくるなんて知らなかったから夕食を作ってなかった」と言って泣き出したり、それなら外食に行こうと旦那さんが言ったら言ったで「外食が大嫌いなあなたが外食に行こうだなんて、おっかし~い☆」と大爆笑したりと、完全な部外者である高崎馬がいることもどこ吹く風で崩壊しまくってしまいます。
この時点で、紳士にしか見えない旦那さんが、冴子にとっては非常に強い「何かしらの」不満をつのらせる忌まわしい存在になっているらしいことがわかってくるのですが、じゃあ具体的に旦那さんのどこが冴子をそんなに狂わせるのか、という焦点は一向にはっきりしてきません。それは、当惑するばかりの家族と高崎馬の知らないその答えをただひとり知っている冴子が舞台の上では沈黙するばかりだからです。
ここが今回の作品のポイントのひとつだと私はふんでいるのですが、今までの山内作品では、主人公に位置することの多い女性(たいてい石橋さん?)が整理されていない言動で日常の不満を吐露していくところから物語がころがっていくという流れがあったような気がするのですが、今回の場合では、物語の語り手であるはずの冴子が沈黙を押し通しているという大きな違いがあるような気がします。
語り手がいない、ということは、物語を客観的に見つめる人物がいない……のではなく、「意図的に隠されている」ということなのではないのでしょうか。
つまり、今回の『あの山の稜線が崩れてゆく』は、これから起きる山内作品ならではの「大崩壊」を引き起こしてしまった主人公が誰なのか、ということがラストシーンになるまでわからない緊張感にいろどられているということになるのです。
今までの山内さんの作品では、確かにちょっとした発言のズレから始まって次々とトラブルが発生していってしまい、最終的には殺人くらいの事態にまで発展していってしまうというスリルがありましたが、これらの信じがたい崩壊の連続が、「いったい誰のつくり出したものなのか?」という部分に謎を残す手法は、こと今回の作品に関して非常にすばらしい効果を与えていたと思います。
私の観た山内作品のかぎりでは、確か2010年2月に上演された城山羊の会プロデュース第8回公演『イーピン光線』のクライマックスにこのあたりに近い「あぁ~、そうだったのか。」な展開があったと記憶しているのですが、そのときはよく効いた「ひとつのコントのオチ」のようなワンポイントな印象にとどまっていたものの、今回はこの「主人公は誰?」の謎が全編にわたって行き届いていてとてもミステリアスなひとときを味わいました。ミステリー大好き!
こんな感じの思いをもって私はこの『あの山の稜線が崩れてゆく』を拝見しましたので、私のつたない筆(じゃなくて……パソコンの場合は「指」っていうんでしょうか)でどのくらい守り通せるのかはわからないのですが、今回の作品の主人公が誰だったのかはなるべく明かさないようにしてお話を進めていきたいと思います。できんのか!?
さて、とにもかくにもこういった「しおりと高崎馬のびみょうな関係」と「冴子と旦那さんのピリッとした関係」の2つがやけに早めにクローズアップされた序盤だったのですが、それらをブッタ切るかのように突如として来訪するのが、これみよがしに弁護士バッジをジャケットにつけた吉岡夫妻(演・永井若葉&岡部たかし)です。このお2人がまた、ご丁寧にどちらもバッジをつけている立派な弁護士センセイであるはずなのに、外見と言動があやしいあやしい。やがて吉岡夫妻はすったもんだの末に、しおりとその両親に対して、一晩で決定するにはあまりにも巨大すぎる人生の選択を迫ってくる添島という男性(演・猪野学)を連れてきます。
今回の作品は、ここで出そろった3人家族と高崎馬と吉岡夫妻、そして添島の計7名で登場人物が全員になるのですが、やっぱり石橋さんの猫背、永井さんのしれっと繰り出される異常な発言、岡部さんの空間いっぱいに響きわたる割りには中身のない低音ヴォイス、そして本村さんのまったく予想のつかないタイミングで炸裂する無意味きわまりない慟哭といったあたりが次々に展開されていくと、「あぁ、私は今、山内ワールドを体験しているんだなぁ!」という幸せにひたってしまうわけなのです。石橋さんと永井さんがおんなじ部屋にいるってだけで、龍虎あいまみえるというか、ものすごく陰湿な川中島合戦を目撃しているような臨場感にとらわれるんですよねぇ! 燃えるなぁ!!
ともかく、この7人が繰り広げる悲喜こもごも(便利な日本語……)の末に、物語のクライマックスには、たった1時間半前の序盤にあった舞台上の風景はもう二度とかえってこないという残酷な結果と、置き去りにされた主人公のもとにひとり残るパートナーという「救い」が残されてゆくのです。ここで提示された救いが、観る人に「あぁ、よかったね。」という感動をもたらすのか、「うわぁ、完全にいっちゃった、この人たち……」というドン引きをもたらすのかは受け取り方次第であるわけなのですが、私個人は、あんな悲劇が展開されたのによく冷えたビールを用意してくれる誰かがいてくれるということに満ち足りた表情を浮かべてしまう主人公に、人間の愛すべき単純さのようなものを感じて非常にせつなくも温かい気持ちになりました。この、人間についてのカラーが常に2色以上入り混じっている描写力こそが、山内作品のものすごいところなんですよね。
今回の物語で展開される「大災厄」は、少なくとも主人公にとっては、まさしく「世界が転倒してしまった!」レベルのひどすぎる悲劇でした。ここで私が言いたい「転倒」の意味合いは、ただ単に転んじゃった、という程度のものではありません。世界のルールが、善悪が180°ひっくり返り、今まで生活している中で普通にあったはずの大事な何かが一瞬のうちに手元から消え去ってしまった「顛倒(てんとう)」の意味なのです。「顛倒」だと、ちょっと読みづらいから使ってないだけ。これはつまり、今まであったごくごく常識的な風景が確実に「終わってしまった」ことを意味する大崩壊であるわけなんですね。
映像のイメージでたとえるのならば、デイヴィッド=フィンチャー監督の映画『ファイト・クラブ』(1999年)のラストシーンみたいな感じですよね。まさに、『あの山の稜線が崩れてゆく』!
この大崩壊は……そのレベルの出来事だけでも「自分の身に起こったら」と考えただけでゾッとしてしまう恐ろしさなのですが、出来事そのものよりももっと恐ろしいのは、その大崩壊の始まった起点がどうやら、ずーっとずーっと昔からその主人公が「なんとなく思い描いていたとりとめのない妄想」であるらしいということなのです。
イソップ童話の『おおかみ少年』の主人公は、積極的に村の人たちを大騒ぎさせるウソをつき続けたために、そのウソが「実現化してしまう」という顛倒の末に若い命を散らせてしまいます。余談ですが、童話の原典となったアイソーポス(紀元前619~紀元前564年?)の寓話では、クライマックスでオオカミが食い尽くしたのは村の飼育していた羊であって、主人公は食べられなかったそうです。確かによく考えてみたら、そりゃそうですよね……
ところが、『あの山の稜線が崩れてゆく』の主人公は『おおかみ少年』ほどの悪意さえもない他愛のない思いつきをするか、せいぜい冗談交じりに口走って遊ぶくらいのことしかしていなかったわけなのです。たったそれだけの妄想が、ある日突然に現実のものとなって容赦なく襲いかかってくるという、この無残な恐怖。こんなことがあっていいものかという理不尽さなのですが、考えてみれば、現実の世界で人間に襲いかかる、事故とか病気とか災厄といった「不幸」の成分はだいたいこんな理不尽が8~90% を占めているわけで、「ちょっとその道を歩いてみたくなった」や「なんとなく脂っこい食べ物が好きだった」という起点は、あくまでもほんの小さなとっかかりにすぎないのではないのでしょうか。同じことをやっていても健康な人は健康であるわけなんですから。
その辺りの、「始まったらもうどうしようもない」という、人間の抗いようのない不幸が活き活きと描写されているのもとてつもないのですが、今回の作品のさらなるポイントは、そんな「ありえない不幸」の原因が自分にあることを本人がちょっとでも「自覚してしまった」時点で、その不幸が現実のものとなってしまうという用意周到さにあります。つまり、この主人公はフィクションの世界によくある「100% 落ち度のない被害者」にもなることさえもが許されないのです。主人公を取り巻く面々は、そこを執拗について責めたててきます。「だって、あなただってこうなるとは予想していたんでしょ? ずいぶん昔から!」と。
物語の流れに即していきますと、突然あらわれた添島の要求にもまして「ありえない」のは、その添島の意向を土壇場になるまでしおり一家に伝えることを忘れていた吉岡夫妻の職務怠慢なのですが、作品の世界は「そもそも吉岡夫妻が悪い」というごくごく常識的な論理を軽くプチッと踏み潰してしまった上で、「こんな事態になることを少しでも脳裏に浮かべていた主人公が悪い」という恐るべき空気に支配されていくのです。そして、その空気に抗いきれずに自分の非を認めてしまった主人公の姿に失望した「これまでの世界」は、主人公のもとを去っていってしまうんですね。
こんなに恐ろしい話があるでしょうか……主人公はそれなりに自分の築きあげた世界に満足して、それを全力で守っているつもりではいたのでしょうが、その力が自分自身の「飽き」にさえも打ち克てない弱さだったことを思い知らされ、ラストシーンで絶叫してしまうのです。
恐ろしく、それでいてとってもいいお話です! まさにタイトルどおり、観た方はすべからく『あの山の稜線が崩れてゆく』ほどのショックをおぼえるのではないのでしょうか。ただし、その驚くべきラストシーンから「人間の奥深さと弱さとたくましさ」を感じるのか、「とにかくシュールだった」程度のビックリにとどまってしまうのかは、かなりシビアに観る側の感性に迫ってくる問題になるかと思います。
この作品は、もっとも安易で楽チンな解釈でとらえてしまえば、ラストシーンにやけに充実した表情で瓶ビールを飲んでいた主人公の、「もしもあの妄想が現実のものとなってしまったら……」という、うたかたの思考実験と見ることができなくもないのですが、それではあまりにも、この作品の根底にある「恐ろしさ」から逃避しすぎた読み取り方になってしまうと思います。やっぱりこの1時間半の出来事は、今日か明日にでも、他ならぬ観客それぞれの我が身に降りかかってくるかもしれない現実の災厄ととらえるべきなのではないのでしょうか。このくらいの「荒唐無稽さ」は軽く現実化してしまうのがこの世界なのであるということを、山内ケンジさんの鋭利な視線は明瞭に見通しているのです。
う~ん、やっぱり城山羊の会、城山羊の会!! やっぱり大好きなんだな、という自分を再確認できた夜なのでありました~。
ちなみに、『あの山の稜線が崩れてゆく』は今月11日火曜日まで上演しております。さらに会場のこまばアゴラ劇場では、あの映画『ミツコ感覚』の特別上映会も10日までやってるそうですよ~!
完全な蛇足ですが、私はこの城山羊の会さんの上演する作品を観終えたあとの感覚に非常に近いものを味わってしまう映画作品として、いっつも頭の中に、かなり古典的なドイツのサスペンス映画である『M』(1931年 監督・フリッツ=ラング)を浮かべてしまいます。
この映画は、主人公に連続幼女殺害犯(演・ピーター=ローレ)をもってきて、彼が殺人を犯した末に街の自警団の活躍によって捕らえられ、クライマックスでは自身の殺人欲求の業の深さを魂をふりしぼるかのような悲壮さで告白するという衝撃的な内容から、現在ではサイコスリラーものの原典のような観点で評価されることが多いかと思います。
でも! 私が中学生だったころにこの『M』の VHSビデオを観て本当にビックラこいたのは、そんな逮捕劇のサスペンスでも連続殺人犯の償っても償いきれない告白でもなく、映画の最後の最後にとってつけたように流れたテロップだったんですよね!
殺人犯の涙ながらの抗いきれない欲望の告白を聞いて、彼をリンチしようと集まっていた市民の集団は、彼を殺したところで彼に殺された少女達の命は帰ってこないし、そもそもこの男は罰を受けるべき資格を持っていない「病人」として処遇されるべき人間なのではないか、と困惑してしまいます。彼を罰することに意味がないのならば、我々のこの怒りはどこにぶつけたらいいのだろうか? こんな男に育てあげてしまった男の家族なのか、それとも、こんな男を野放しにしてしまった社会なのか?
結論の出ようのないドン詰まり状態になったところで、映画はパッと映像が切れて、画面にはでかでかとこんな内容の文字と、女性による機械的なナレーションが。
「そもそも、親が子どもから目を離さないでいればよかったのです。」
えぇ~!! そこ!? そこに責任をもってくかね、しかし!!
この、サイコだのサスペンスだのと、丹精こめて作り上げた世界をたった一瞬で自分の手でブチ壊してしまう豪胆さと爽快感ね!!
似ていると思うんです。この、繊細さと豪快さのステキすぎるマッチング。
山内さん、次回作も首をながぁ~くして、お待ちしておりま~っす♡
私も今日は、朝から電車に乗りどおしの一日だったんですけれども、やっぱり電車移動っていうのは、もちろん便利でいいんですけど、長時間はツラいものがありますなぁ! 何を当たり前のことをほざいてるんでしょうか。
まずはやっぱり、空調がなかなか思い通りのいい感じにならなくてねぇ! こう冬本番になってくると、乗り始めはあったかくてとてもありがたいんですが、1時間も乗っていれば暑くなって汗はかくしノドは渇くし……それを3~4回も乗り継いじゃったら、家につくころにはもうヘロヘロなんですよね~! お仕事そのもので疲れるんだったら当然納得もいくんですけど、移動の疲れっていうものは、なかなかタチの悪いもんでありますなぁ。
特に、今日はなんだかわかんないですが JR線も東京メトロもダイヤの乱れがちょいちょい連続したりしてね。別に電車自体が運休してお仕事に影響が出る、とまでいくことはなかったので良かったのですが、比較的あさい夜に帰途についたのに家に帰ったら真夜中、っていうのはなんともはや……明日も早いからさっさと寝なきゃ!
あぁ! そういえば、十八世・中村勘三郎さん、ねぇ……
勘三郎さんになって7年ちょっと。還暦も迎えずにですよ。これにはなんとも、言葉を失ってしまいます。
これからどんどん、お父上の十七世・勘三郎にそっくりになっていって、しかもその父を超える業績を打ち立てていくのかと思っていたのですが……
こういうことを連想するのは非常に不謹慎かとは思うのですが、 NHK大河ドラマが大好きである私はやはりどうしても、彼が五世・中村勘九郎だった時代に演じて大評判となった、『武田信玄』(1988年)での今川義元役のあまりにも残酷で、かつ壮絶に美しかった最期を思い起こしてしまいます。
今となっては、この『武田信玄』で描写された今川義元像や桶狭間合戦のもようは、いかにも旧態依然とした古臭い俗説にまみれたものとなってしまってはいるのですが、それでも、京の都を目指して万全の態勢をととのえて出陣したはずの義元が、織田信長の豪雨にまぎれた奇襲によって一瞬にして斬殺されてしまうというフィクションの世界は、彼の入魂の演技によって確かに「史実を軽く凌駕した」リアリティを持ったものに昇華していたのです。
それにしても、まさしくこれからという時期にあっという間に舞台からその姿を消すことになってしまった2人の天才、十八世と今川義元……人の世というものは、昔も今も思わぬところで残酷すぎる刃をひらめかせるものなんですね。
つくづく私は、そんな運命の神様にとってもアウト・オブ・眼中な最底辺にいる凡人でよかったと思っとりますよ、ハイ。
そういえば、最近は芸人さんが胃がん手術を受けることになった、とかいうニュースもありましたが、この前に三条会のお芝居を私と一緒に観た親友も、会社の規定で35歳になってからは必ず人間ドックを受けなきゃならないようになる、とか言ってましたわ。
健康診断じゃあ、わかる内容もたかが知れてますからね。私だって35なんてあっという間なんだから、ちょっとはそういうもののために貯金しておかなきゃなりませんわな。バカにならないんでしょ? 人間ドックのお代なんて。や~ね~!
……今ちょっと調べてみたんですけど、高っ! 人間ドック高っ! よし、がんばって明日からも働こう……
まぁ、んなこたぁどうでもいいんだ!
今回は、つい昨日に東京で観てきたお芝居の感想なぞをつれづれ、いってみたいと思いま~す。
昨日は夕方までお仕事をしたあと、東京は渋谷と下北沢の中間ぐらいに位置する、駒場というところにある小劇場「こまばアゴラ劇場」に行ってお芝居を観てきまし~た。
城山羊(しろやぎ)の会プロデュース第13回公演 『あの山の稜線が崩れてゆく』(作・演出 山内ケンジ)
はい~、城山羊の会さんでございます! あの、丸1年前の2011年暮れに、私が「こ、こ、こりはまさしく3.11以降の日本を描いた作品でし!!」と勝手に興奮してしまった映画『ミツコ感覚』(主演・初音映莉子のようでいてあきらかに石橋けい)の監督である山内ケンジさんの作・演出であります。
この『長岡京エイリアン』でも、ちょいちょい城山羊の会さんの作品が好きだ~なんてことをつぶやいているわたくしなのですが、実は公演を観るのは去年春の『メガネ夫婦のイスタンブール旅行記』以来でして、『ミツコ感覚』公開に前後していた去年末と今年夏の2公演をまるまる見逃しているという情けない状況になっておりました。ダメだな~!
ということで、およそ1年半ぶりに観ることになった城山羊の会公演に、私の期待はいやがおうにも高まっていたわけだったのですが、実際に昨日、このまなこでしかと拝見した感想は……
とても恐ろしく、あたたかく、おもしろく、せつない作品だった!!
やっぱり今回もギャフンとうならせられてしまいました……お芝居自体は「1時間半」というボリュームだったのですが、そのわずかな間にこうも自分の「脳内の温度」が乱高下してしまうものなのかと、なんだか激しいスポーツかおもしろいスーパー銭湯にでも興じたかのような感覚におちいってしまいましたよ。
いろいろ言いつつ、結局は私も2008年ごろからたかだか5作ほどの城山羊の会さんの公演しか観ていない浅漬け人間なので大きな口はたたけないのですが、私は城山羊の会というか、山内ケンジさんの作り出す「登場人物たちの言葉や行動のボタンのかけ違いから物語が始まっていく」世界が大好きです。誰が悪いというでもなく、よかれと思ってついた軽いウソがいちばん恐ろしい悲劇を生み出す母胎になってしまうという、いわば「凶夢のピタゴラスイッチ」とも言える伏線の精緻さと、物語の進行にしたがってある程度の不幸が累積してきた段階で、登場人物全員が一気に「スッポ~ン☆」と常識の重力から開放された狂気と本能の宇宙へと飛翔していく、人間本来の「逃避」の力強さとが同時に体験できる城山羊の会さんの作品が大好きだったわけなのです。
ところが……今回は、そのあたりの「思わぬ不幸とそれに抗う人間」との衝突が生み出す爆発の火薬量がちょっと今までと違っていたような気がするんですよ。ケタがちがってた!
まず、今回の『あの山の稜線が崩れてゆく』は、物語ののっけから上にあげたような山内ケンジさんの作品にみられるダイナミズムが「前倒し」になっています。始まってわずか5分という早さで、舞台となっている古めかしい家に住んでいる3人暮らし一家のひとり娘である受験生のしおり(演・岸井ゆきの)が家庭教師の高崎馬(たかさきうま 演・本村壮平)にたいして何らかの想いをいだいていることが暗示され、それにたたみかけるかのように、しおりの母親・冴子がちょっと度を越した欲求不満におちいっているらしいことが明示されるのです。今回も、冴子役を演じている石橋けいさんの疲労オーラ180% 大全開で床を見つめるうつろな視線と、絶妙な角度で傾斜したねこ背から首筋へのラインは快調でした。やっぱり石橋さんは素晴らしい!!
娘のしおりを押しのけて高崎馬に常軌を逸したモーションを仕掛けてくる冴子ではあるのですが、その日、予定よりも仕事が早く終わったと帰宅してきたスーツ姿の旦那さん(しおりの父 演・古屋隆太)はきわめて常識的な物腰の中年男性で、冴子にもしおりにも優しい声をかけるその様子からは、冴子があれほどおかしな精神状態になる理由がつかみとれません。
ところが、そんな旦那さんが帰宅したことから冴子さんの奇矯な言動にはさらにギアがかかってしまい、「早く帰ってくるなんて知らなかったから夕食を作ってなかった」と言って泣き出したり、それなら外食に行こうと旦那さんが言ったら言ったで「外食が大嫌いなあなたが外食に行こうだなんて、おっかし~い☆」と大爆笑したりと、完全な部外者である高崎馬がいることもどこ吹く風で崩壊しまくってしまいます。
この時点で、紳士にしか見えない旦那さんが、冴子にとっては非常に強い「何かしらの」不満をつのらせる忌まわしい存在になっているらしいことがわかってくるのですが、じゃあ具体的に旦那さんのどこが冴子をそんなに狂わせるのか、という焦点は一向にはっきりしてきません。それは、当惑するばかりの家族と高崎馬の知らないその答えをただひとり知っている冴子が舞台の上では沈黙するばかりだからです。
ここが今回の作品のポイントのひとつだと私はふんでいるのですが、今までの山内作品では、主人公に位置することの多い女性(たいてい石橋さん?)が整理されていない言動で日常の不満を吐露していくところから物語がころがっていくという流れがあったような気がするのですが、今回の場合では、物語の語り手であるはずの冴子が沈黙を押し通しているという大きな違いがあるような気がします。
語り手がいない、ということは、物語を客観的に見つめる人物がいない……のではなく、「意図的に隠されている」ということなのではないのでしょうか。
つまり、今回の『あの山の稜線が崩れてゆく』は、これから起きる山内作品ならではの「大崩壊」を引き起こしてしまった主人公が誰なのか、ということがラストシーンになるまでわからない緊張感にいろどられているということになるのです。
今までの山内さんの作品では、確かにちょっとした発言のズレから始まって次々とトラブルが発生していってしまい、最終的には殺人くらいの事態にまで発展していってしまうというスリルがありましたが、これらの信じがたい崩壊の連続が、「いったい誰のつくり出したものなのか?」という部分に謎を残す手法は、こと今回の作品に関して非常にすばらしい効果を与えていたと思います。
私の観た山内作品のかぎりでは、確か2010年2月に上演された城山羊の会プロデュース第8回公演『イーピン光線』のクライマックスにこのあたりに近い「あぁ~、そうだったのか。」な展開があったと記憶しているのですが、そのときはよく効いた「ひとつのコントのオチ」のようなワンポイントな印象にとどまっていたものの、今回はこの「主人公は誰?」の謎が全編にわたって行き届いていてとてもミステリアスなひとときを味わいました。ミステリー大好き!
こんな感じの思いをもって私はこの『あの山の稜線が崩れてゆく』を拝見しましたので、私のつたない筆(じゃなくて……パソコンの場合は「指」っていうんでしょうか)でどのくらい守り通せるのかはわからないのですが、今回の作品の主人公が誰だったのかはなるべく明かさないようにしてお話を進めていきたいと思います。できんのか!?
さて、とにもかくにもこういった「しおりと高崎馬のびみょうな関係」と「冴子と旦那さんのピリッとした関係」の2つがやけに早めにクローズアップされた序盤だったのですが、それらをブッタ切るかのように突如として来訪するのが、これみよがしに弁護士バッジをジャケットにつけた吉岡夫妻(演・永井若葉&岡部たかし)です。このお2人がまた、ご丁寧にどちらもバッジをつけている立派な弁護士センセイであるはずなのに、外見と言動があやしいあやしい。やがて吉岡夫妻はすったもんだの末に、しおりとその両親に対して、一晩で決定するにはあまりにも巨大すぎる人生の選択を迫ってくる添島という男性(演・猪野学)を連れてきます。
今回の作品は、ここで出そろった3人家族と高崎馬と吉岡夫妻、そして添島の計7名で登場人物が全員になるのですが、やっぱり石橋さんの猫背、永井さんのしれっと繰り出される異常な発言、岡部さんの空間いっぱいに響きわたる割りには中身のない低音ヴォイス、そして本村さんのまったく予想のつかないタイミングで炸裂する無意味きわまりない慟哭といったあたりが次々に展開されていくと、「あぁ、私は今、山内ワールドを体験しているんだなぁ!」という幸せにひたってしまうわけなのです。石橋さんと永井さんがおんなじ部屋にいるってだけで、龍虎あいまみえるというか、ものすごく陰湿な川中島合戦を目撃しているような臨場感にとらわれるんですよねぇ! 燃えるなぁ!!
ともかく、この7人が繰り広げる悲喜こもごも(便利な日本語……)の末に、物語のクライマックスには、たった1時間半前の序盤にあった舞台上の風景はもう二度とかえってこないという残酷な結果と、置き去りにされた主人公のもとにひとり残るパートナーという「救い」が残されてゆくのです。ここで提示された救いが、観る人に「あぁ、よかったね。」という感動をもたらすのか、「うわぁ、完全にいっちゃった、この人たち……」というドン引きをもたらすのかは受け取り方次第であるわけなのですが、私個人は、あんな悲劇が展開されたのによく冷えたビールを用意してくれる誰かがいてくれるということに満ち足りた表情を浮かべてしまう主人公に、人間の愛すべき単純さのようなものを感じて非常にせつなくも温かい気持ちになりました。この、人間についてのカラーが常に2色以上入り混じっている描写力こそが、山内作品のものすごいところなんですよね。
今回の物語で展開される「大災厄」は、少なくとも主人公にとっては、まさしく「世界が転倒してしまった!」レベルのひどすぎる悲劇でした。ここで私が言いたい「転倒」の意味合いは、ただ単に転んじゃった、という程度のものではありません。世界のルールが、善悪が180°ひっくり返り、今まで生活している中で普通にあったはずの大事な何かが一瞬のうちに手元から消え去ってしまった「顛倒(てんとう)」の意味なのです。「顛倒」だと、ちょっと読みづらいから使ってないだけ。これはつまり、今まであったごくごく常識的な風景が確実に「終わってしまった」ことを意味する大崩壊であるわけなんですね。
映像のイメージでたとえるのならば、デイヴィッド=フィンチャー監督の映画『ファイト・クラブ』(1999年)のラストシーンみたいな感じですよね。まさに、『あの山の稜線が崩れてゆく』!
この大崩壊は……そのレベルの出来事だけでも「自分の身に起こったら」と考えただけでゾッとしてしまう恐ろしさなのですが、出来事そのものよりももっと恐ろしいのは、その大崩壊の始まった起点がどうやら、ずーっとずーっと昔からその主人公が「なんとなく思い描いていたとりとめのない妄想」であるらしいということなのです。
イソップ童話の『おおかみ少年』の主人公は、積極的に村の人たちを大騒ぎさせるウソをつき続けたために、そのウソが「実現化してしまう」という顛倒の末に若い命を散らせてしまいます。余談ですが、童話の原典となったアイソーポス(紀元前619~紀元前564年?)の寓話では、クライマックスでオオカミが食い尽くしたのは村の飼育していた羊であって、主人公は食べられなかったそうです。確かによく考えてみたら、そりゃそうですよね……
ところが、『あの山の稜線が崩れてゆく』の主人公は『おおかみ少年』ほどの悪意さえもない他愛のない思いつきをするか、せいぜい冗談交じりに口走って遊ぶくらいのことしかしていなかったわけなのです。たったそれだけの妄想が、ある日突然に現実のものとなって容赦なく襲いかかってくるという、この無残な恐怖。こんなことがあっていいものかという理不尽さなのですが、考えてみれば、現実の世界で人間に襲いかかる、事故とか病気とか災厄といった「不幸」の成分はだいたいこんな理不尽が8~90% を占めているわけで、「ちょっとその道を歩いてみたくなった」や「なんとなく脂っこい食べ物が好きだった」という起点は、あくまでもほんの小さなとっかかりにすぎないのではないのでしょうか。同じことをやっていても健康な人は健康であるわけなんですから。
その辺りの、「始まったらもうどうしようもない」という、人間の抗いようのない不幸が活き活きと描写されているのもとてつもないのですが、今回の作品のさらなるポイントは、そんな「ありえない不幸」の原因が自分にあることを本人がちょっとでも「自覚してしまった」時点で、その不幸が現実のものとなってしまうという用意周到さにあります。つまり、この主人公はフィクションの世界によくある「100% 落ち度のない被害者」にもなることさえもが許されないのです。主人公を取り巻く面々は、そこを執拗について責めたててきます。「だって、あなただってこうなるとは予想していたんでしょ? ずいぶん昔から!」と。
物語の流れに即していきますと、突然あらわれた添島の要求にもまして「ありえない」のは、その添島の意向を土壇場になるまでしおり一家に伝えることを忘れていた吉岡夫妻の職務怠慢なのですが、作品の世界は「そもそも吉岡夫妻が悪い」というごくごく常識的な論理を軽くプチッと踏み潰してしまった上で、「こんな事態になることを少しでも脳裏に浮かべていた主人公が悪い」という恐るべき空気に支配されていくのです。そして、その空気に抗いきれずに自分の非を認めてしまった主人公の姿に失望した「これまでの世界」は、主人公のもとを去っていってしまうんですね。
こんなに恐ろしい話があるでしょうか……主人公はそれなりに自分の築きあげた世界に満足して、それを全力で守っているつもりではいたのでしょうが、その力が自分自身の「飽き」にさえも打ち克てない弱さだったことを思い知らされ、ラストシーンで絶叫してしまうのです。
恐ろしく、それでいてとってもいいお話です! まさにタイトルどおり、観た方はすべからく『あの山の稜線が崩れてゆく』ほどのショックをおぼえるのではないのでしょうか。ただし、その驚くべきラストシーンから「人間の奥深さと弱さとたくましさ」を感じるのか、「とにかくシュールだった」程度のビックリにとどまってしまうのかは、かなりシビアに観る側の感性に迫ってくる問題になるかと思います。
この作品は、もっとも安易で楽チンな解釈でとらえてしまえば、ラストシーンにやけに充実した表情で瓶ビールを飲んでいた主人公の、「もしもあの妄想が現実のものとなってしまったら……」という、うたかたの思考実験と見ることができなくもないのですが、それではあまりにも、この作品の根底にある「恐ろしさ」から逃避しすぎた読み取り方になってしまうと思います。やっぱりこの1時間半の出来事は、今日か明日にでも、他ならぬ観客それぞれの我が身に降りかかってくるかもしれない現実の災厄ととらえるべきなのではないのでしょうか。このくらいの「荒唐無稽さ」は軽く現実化してしまうのがこの世界なのであるということを、山内ケンジさんの鋭利な視線は明瞭に見通しているのです。
う~ん、やっぱり城山羊の会、城山羊の会!! やっぱり大好きなんだな、という自分を再確認できた夜なのでありました~。
ちなみに、『あの山の稜線が崩れてゆく』は今月11日火曜日まで上演しております。さらに会場のこまばアゴラ劇場では、あの映画『ミツコ感覚』の特別上映会も10日までやってるそうですよ~!
完全な蛇足ですが、私はこの城山羊の会さんの上演する作品を観終えたあとの感覚に非常に近いものを味わってしまう映画作品として、いっつも頭の中に、かなり古典的なドイツのサスペンス映画である『M』(1931年 監督・フリッツ=ラング)を浮かべてしまいます。
この映画は、主人公に連続幼女殺害犯(演・ピーター=ローレ)をもってきて、彼が殺人を犯した末に街の自警団の活躍によって捕らえられ、クライマックスでは自身の殺人欲求の業の深さを魂をふりしぼるかのような悲壮さで告白するという衝撃的な内容から、現在ではサイコスリラーものの原典のような観点で評価されることが多いかと思います。
でも! 私が中学生だったころにこの『M』の VHSビデオを観て本当にビックラこいたのは、そんな逮捕劇のサスペンスでも連続殺人犯の償っても償いきれない告白でもなく、映画の最後の最後にとってつけたように流れたテロップだったんですよね!
殺人犯の涙ながらの抗いきれない欲望の告白を聞いて、彼をリンチしようと集まっていた市民の集団は、彼を殺したところで彼に殺された少女達の命は帰ってこないし、そもそもこの男は罰を受けるべき資格を持っていない「病人」として処遇されるべき人間なのではないか、と困惑してしまいます。彼を罰することに意味がないのならば、我々のこの怒りはどこにぶつけたらいいのだろうか? こんな男に育てあげてしまった男の家族なのか、それとも、こんな男を野放しにしてしまった社会なのか?
結論の出ようのないドン詰まり状態になったところで、映画はパッと映像が切れて、画面にはでかでかとこんな内容の文字と、女性による機械的なナレーションが。
「そもそも、親が子どもから目を離さないでいればよかったのです。」
えぇ~!! そこ!? そこに責任をもってくかね、しかし!!
この、サイコだのサスペンスだのと、丹精こめて作り上げた世界をたった一瞬で自分の手でブチ壊してしまう豪胆さと爽快感ね!!
似ていると思うんです。この、繊細さと豪快さのステキすぎるマッチング。
山内さん、次回作も首をながぁ~くして、お待ちしておりま~っす♡