筑後国(ちくごのくに)柳川城(やながわじょう)とは……
柳川城は、福岡県柳川市本城町に存在した城。江戸時代には柳川藩の藩庁が置かれた。別名、舞鶴城。本丸は国史跡に指定されている。西鉄天神大牟田線・柳川駅よりバスまたはタクシーで10分。
柳川城は、戦国時代初期の大名・蒲池治久(かまち はるひさ)によって文亀年間(1501~04年)に築城された城郭で、城下町は現在の柳川市の原型となった。別名の「舞鶴城」は、鶴が舞うように美しいという城の外観による。
城郭構造は平城で、寛政三(1791)年に作成された『御家中絵図』によると、外堀に囲まれた「御家中(現在の柳川市城内)」地区の中央やや南西よりに本丸と二ノ丸が東西に並んでおり、内堀を隔てた三ノ丸が本丸と二ノ丸を取り囲み、その外側に武家屋敷が展開していた。三ノ丸には藩主・立花家の一族や家老の屋敷、御厩屋、天満宮、長久寺、常福寺、三ノ丸蔵が置かれた。
掘に囲まれた天然の要害をなし、城内、市街には無数の堀が縦横に交わり今も柳川の堀川として現存する。蒲池家の城主時代に「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」と大友家の陣中で歌われた戯れ歌にもあるように、攻略に3年はかかる九州地方屈指の難攻不落の城と謳われた。
天守閣は、徳川大名の田中吉政が城主となった慶長六(1601)年に、石垣に囲まれた本丸南西隅に造られた。江戸幕末~明治期に撮影された古写真や史料によると複合式5重5階の層塔型天守であったと考えられており、最上階が肥後国熊本城天守閣などのように雨戸で廻縁(まわりえん)を覆う内縁高欄であり、破風の配置は福山城天守閣や徳川家大坂城天守閣に類似するものであったと推測されている。明治五(1872)年に失火もしくは放火によって焼失した。
柳川城の櫓は、絵図によって本丸各隅に二重櫓が1基と三重櫓が2基、城内に多聞付き二重櫓が4基あったことが推定されている。
なお、柳川藩では大奥の機能は江戸後期以降、本丸御殿内ではなく城外の御花畠の御殿にあった。
天守閣も含めた城郭の主要施設は、明治五年一月の火災により櫓1基、土蔵、厩、城門3棟を残して焼失した。城跡は柳川高等学校と柳城中学校の敷地となり、遺構は天守台跡、石垣、堀が柳川城本丸跡として残っている。天守台跡は柳城中学校の運動場の一角にあり、地元では「へそくり山」と呼ばれ、その勾配が運動部員のトレーニング場として利用されている。このへそくり山の一画には、柳川市出身の詩人・北原白秋(1885~1942年)の句碑が建立されている。
柳川市の北部に隣接する大川市に柳川城の辻御門が移築され、現存している。
歴史
戦国時代初期、筑後国南部の領主である蒲池治久が、本城・蒲池城(同じく柳川市内)の支城として築いたものだったが、蒲池家が筑後国全域を統一する戦国大名となった後に、治久の嫡男・鑑久(あきひさ)あるいは孫の鑑盛(あきもり)が柳川城を本城とした。現在も残る城の構造を造ったのは鑑盛である。城の周囲に水路を縦横に張り巡らせた九州屈指の難攻不落の城とされる。鑑盛は兵法者で知将であったが、築城家としても技量が高かったことを示している。
蒲池鑑盛の次男・蒲池鎮漣(しげなみ)が城主の時代、天正九(1581)年に肥前国の戦国大名・龍造寺隆信とその重臣・鍋島直茂が2万の兵で柳川城を攻めたが落城させることはできなかった。同年五月に鎮漣が龍造寺隆信に謀殺され蒲池家が滅亡した後は、鍋島直茂や龍造寺一族の諫早家晴が城主となった。大友家の勇将・立花道雪は、柳川城を懸命に攻めたが落とすことができず悔しがったという。
豊臣秀吉の九州征伐後は、立花道雪の養子である立花宗茂が筑後国南部13万石の城主となり秀吉に仕えた、慶長五(1600)年の関ヶ原合戦の際は、鍋島直茂が再び柳川城を攻めた。立花宗茂は激戦の後、黒田如水や加藤清正の取り成しで降伏開城している。
関ヶ原合戦の戦後処理により石田三成側だった立花宗茂は領地を失い、三河国岡崎城主の田中吉政が筑後一国32万5千石に加増転封され柳川城主となる。吉政は筑後国の首府に相応しく城地を拡張した。しかし吉政の没後に田中家が改易になると、立花宗茂が10万9200石を与えられ再度柳川城主となり、以降、柳川城は立花家の居城となった。
元禄十(1697)年、柳川城の西方に藩主別邸「御花」が造営された。その後、御花は会所として使用され、さらに柳川城本丸御殿から大奥の機能が移転され、「御花畠」と命名された。
明治維新以降も増改築を繰り返し、明治四十三(1910)年に建築された迎賓館「西洋館」とそれに続く本館、日本庭園である「松濤園」が現存している。
柳川城は、福岡県柳川市本城町に存在した城。江戸時代には柳川藩の藩庁が置かれた。別名、舞鶴城。本丸は国史跡に指定されている。西鉄天神大牟田線・柳川駅よりバスまたはタクシーで10分。
柳川城は、戦国時代初期の大名・蒲池治久(かまち はるひさ)によって文亀年間(1501~04年)に築城された城郭で、城下町は現在の柳川市の原型となった。別名の「舞鶴城」は、鶴が舞うように美しいという城の外観による。
城郭構造は平城で、寛政三(1791)年に作成された『御家中絵図』によると、外堀に囲まれた「御家中(現在の柳川市城内)」地区の中央やや南西よりに本丸と二ノ丸が東西に並んでおり、内堀を隔てた三ノ丸が本丸と二ノ丸を取り囲み、その外側に武家屋敷が展開していた。三ノ丸には藩主・立花家の一族や家老の屋敷、御厩屋、天満宮、長久寺、常福寺、三ノ丸蔵が置かれた。
掘に囲まれた天然の要害をなし、城内、市街には無数の堀が縦横に交わり今も柳川の堀川として現存する。蒲池家の城主時代に「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」と大友家の陣中で歌われた戯れ歌にもあるように、攻略に3年はかかる九州地方屈指の難攻不落の城と謳われた。
天守閣は、徳川大名の田中吉政が城主となった慶長六(1601)年に、石垣に囲まれた本丸南西隅に造られた。江戸幕末~明治期に撮影された古写真や史料によると複合式5重5階の層塔型天守であったと考えられており、最上階が肥後国熊本城天守閣などのように雨戸で廻縁(まわりえん)を覆う内縁高欄であり、破風の配置は福山城天守閣や徳川家大坂城天守閣に類似するものであったと推測されている。明治五(1872)年に失火もしくは放火によって焼失した。
柳川城の櫓は、絵図によって本丸各隅に二重櫓が1基と三重櫓が2基、城内に多聞付き二重櫓が4基あったことが推定されている。
なお、柳川藩では大奥の機能は江戸後期以降、本丸御殿内ではなく城外の御花畠の御殿にあった。
天守閣も含めた城郭の主要施設は、明治五年一月の火災により櫓1基、土蔵、厩、城門3棟を残して焼失した。城跡は柳川高等学校と柳城中学校の敷地となり、遺構は天守台跡、石垣、堀が柳川城本丸跡として残っている。天守台跡は柳城中学校の運動場の一角にあり、地元では「へそくり山」と呼ばれ、その勾配が運動部員のトレーニング場として利用されている。このへそくり山の一画には、柳川市出身の詩人・北原白秋(1885~1942年)の句碑が建立されている。
柳川市の北部に隣接する大川市に柳川城の辻御門が移築され、現存している。
歴史
戦国時代初期、筑後国南部の領主である蒲池治久が、本城・蒲池城(同じく柳川市内)の支城として築いたものだったが、蒲池家が筑後国全域を統一する戦国大名となった後に、治久の嫡男・鑑久(あきひさ)あるいは孫の鑑盛(あきもり)が柳川城を本城とした。現在も残る城の構造を造ったのは鑑盛である。城の周囲に水路を縦横に張り巡らせた九州屈指の難攻不落の城とされる。鑑盛は兵法者で知将であったが、築城家としても技量が高かったことを示している。
蒲池鑑盛の次男・蒲池鎮漣(しげなみ)が城主の時代、天正九(1581)年に肥前国の戦国大名・龍造寺隆信とその重臣・鍋島直茂が2万の兵で柳川城を攻めたが落城させることはできなかった。同年五月に鎮漣が龍造寺隆信に謀殺され蒲池家が滅亡した後は、鍋島直茂や龍造寺一族の諫早家晴が城主となった。大友家の勇将・立花道雪は、柳川城を懸命に攻めたが落とすことができず悔しがったという。
豊臣秀吉の九州征伐後は、立花道雪の養子である立花宗茂が筑後国南部13万石の城主となり秀吉に仕えた、慶長五(1600)年の関ヶ原合戦の際は、鍋島直茂が再び柳川城を攻めた。立花宗茂は激戦の後、黒田如水や加藤清正の取り成しで降伏開城している。
関ヶ原合戦の戦後処理により石田三成側だった立花宗茂は領地を失い、三河国岡崎城主の田中吉政が筑後一国32万5千石に加増転封され柳川城主となる。吉政は筑後国の首府に相応しく城地を拡張した。しかし吉政の没後に田中家が改易になると、立花宗茂が10万9200石を与えられ再度柳川城主となり、以降、柳川城は立花家の居城となった。
元禄十(1697)年、柳川城の西方に藩主別邸「御花」が造営された。その後、御花は会所として使用され、さらに柳川城本丸御殿から大奥の機能が移転され、「御花畠」と命名された。
明治維新以降も増改築を繰り返し、明治四十三(1910)年に建築された迎賓館「西洋館」とそれに続く本館、日本庭園である「松濤園」が現存している。